中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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中小企業診断士その6

2008年06月29日 | Weblog
続「診断士」とは

 中小企業診断士がコンサルタント会社や企業からあまり認知され、当てにされていない要因として、その優れた特長が理解されていないことがある。企業からみると何となくどこかで習って来たようなセオリー通りの提案しかして貰えないのではないか。という不信感もある。

 一般のコンサルと中小企業診断士の診断の違いを、将棋や囲碁に喩えるなら、手筋と大局観の違いがある。ここはこう指すものだ。とかこう打つものだ。というのは手筋で、これはまあ説明しやすい。これらを一般コンサルの領分とすれば、中小企業診断士は企業活動全般を診て、大局観を示そうとする。しかし、この説明は厄介である。局面、局面で大局観をどう捉えるのか、都度あまりにも漠然とする。さらに複雑なのは、企業活動のフィールドは、
将棋や囲碁でいえば、盤の形やルールまで変化するようなところがある。

 だからこそ、中小企業診断士の試験には、企業経営理論、中小企業経営・政策に加えて、経済学・経済政策、経営法務までの科目が含まれる。マーケティング理論を体系的に履修させるのも他の士業はない特長である。これらを一通り履修したとして国がその知識・技能を認定して経済産業大臣に登録しているのである。

 難しい領分を担当する分、中小企業診断士は理解され難い。領分が広い分十分カバーし切れない部分が目立ちやすい。しかし、中小企業診断士の視野は360度であり、「診断士」による企業診断は有効となることが多い。

 例えば、ある企業の収益が悪化しているとする。財務分析を行ったところ、業界平均に比べて明らかに粗利(売上げ高総利益率)が悪い。いわゆる原価率が高いのである。競合状態や他の財務指標に格段問題はないとする。昨今の原料費の高騰が原因でしょう。となるかもしれない。そこに改善可能な問題点は浮かび上がってこない。

診断士はどのように診るか。財務諸表は当然診る。そして、現場を診る。何度も診る。業務フローに無駄はないか。原材料の無駄使いはしていないか。3つの在庫*8)は適正か。安易に外注先を選択していないか。財務の観点と現場からの視点を両端からトンネルを繋ぐように診る。これがピッタリ符合することで解決すべき問題点が浮き彫りになる。さらに従業員のモチベーションは落ちていないか。組織体制は適正か。等々挙げれば切りはない。これ
こそ企業診断であり、「診断士」の仕事なのである。



  *8)原材料在庫、仕掛品在庫、製品在庫

                中小企業診断士 了
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中小企業診断士その5

2008年06月26日 | Weblog
「診断士」とは

 中小企業診断士です。というと、得意分野は何ですか。どのようなコンサルが出来ますか。などと聞かれる。得意分野を明確にアピールしないと、クライアントにもエージェント会社にも伝わりません。コンサルのお願いのしようがありません。などと言われる。この世界に入ってまず感じた違和感である。中小企業診断士です。従って総合的な経営コンサルタントです。それでいいでしょう。筆者はそう思ってしまう。

 元々企業基盤や財務的に脆弱な中小企業が、有料のコンサルを受けるにはかなりの決断がいる。そんな中、専門分野に特化したコンサルタントがその分野だけの改善・改革を行うことで、中小企業の真の要望、声なき声に応えられるものか疑問がある。

 筆者は、中小企業診断士が、自分の得意分野に特化して、巷のコンサルタントと同列のコンサルだけを行うことは、少し違うのではないかと思っている。勿論、中小企業診断士の資格を得たからといって巷のコンサルと同様の仕事をしていけない道理はない。ただ、一般のコンサルタントと中小企業診断士はその機能や役割が違うと思う。本来有能で、十分に専門コンサルを行う経験や知識があり、その専門分野のコンサルタントを指向するなら敢えて
診断士資格に拘る必要はない。コンサルに国家資格は要らないのだから。

中小企業診断士である以上、専門分野のコンサルだけでなく、常にクライアントの企業全般を診る必要がある。いわば人間ドッグ的な総合診断を行い、長期に亘る体質改善のためのコンサルを指向すべきと思う。中小企業「診断士」は中小企業をフィールドとした、コンサル業務のジェネラリストと位置づけられるべきものと思う。
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中小企業診断士その4

2008年06月23日 | Weblog
現実

 経営コンサルタントの唯一の国家資格、日本版MBAなどと持て囃す向きもあるが、それは大抵受験支援校の宣伝文句で、実際に資格取得しての実感では、この資格の社会的認知度や評価は高いものではない。中小企業診断士資格を評価しているのは、それを目指す受験生くらいだという説もある。事実受験経験者や一般部外者にとっては、結構難しい資格に映る場合もあるものの、コンサルタント会社やクライアントとなる企業からみて、資格だけでは頼りになる存在ではない。それどころか、一部コンサルタント会社等では敢えて小馬鹿にした扱いさえ見聞する。確かに資格を取っただけで、実務能力がある保証はないが、現在の資格要件実態からすれば診断士に対する過小評価と筆者には思える。

市場主義、実力主義も必要であるけれど、博士の就職難と同列に論じるわけではないけれど、努力した者を称え育む社会風土が失われつつあることを感じ、それは長期的にみてこの国を危うくさせる要因となるのではないかと危惧する。

 中小企業診断士の数は、医師は当然として弁護士、公認会計士と比べても少ない*6)と聞く。しかもその7割強は企業内診断士*7)である。しかし、巷に一般のコンサルタントは相当数いるためか、診断士資格を頼んだコンサル需要は多くないように見受ける。国の中小企業向け施策としても、若干の独立業務があるに過ぎない。

コンサルタントは企業のお医者さん。などと言われるけれど、医師の資格の無い者が病人の治療を行えば、いかに医療施術に優れていても、犯罪行為となるのに対して、企業コンサルにそんな制約はない。唯一の国家資格は単なる建前にすぎず、国の中小企業施策の有様の体裁として、制度を設け希望者から選抜した一部の者に国家資格を名乗らせているだけと思われるのも現実である。


 
*6)例えば今年4月1日付けで経済産業大臣に登録された新診断士562名に対して、登録を抹消された者は504名もいる。これは何を意味するのか。診断士にとって、その資格維持にはお金と時間が掛かるだけで、メリットが少ない場合が多いのではないか。
 *7)資格は維持しながら、勤務先企業内に留まる診断士。一般に資格維持
に必要なコンサルタント以外は行わない。
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中小企業診断士その3

2008年06月20日 | Weblog
診断士試験総括

 中小企業診断士の試験は、広範囲の知識を必要とするためそんなに簡単ではないが、科目ごとにそれほど高度な問題は少ないため、士業の中では中位の試験といわれている。

 具体的にいえば、司法試験や公認会計士試験の受験勉強は、2年間で6000時間必要とされるのに対して、中小企業診断士では1年間1000時間といわれる。しかし、これらはけっして平均値ではなくモデルケースではある。だから、司法試験や公認会計士の試験難易度をSクラス。税理士でAクラスとした場合、中小企業診断士は社会保険労務士や行政書士などと共にBクラスに入る*4)。但し、中小企業診断士は2次試験が受験生の相対評価となると思えるため、受験生のレベルが高いとみられる近年では、自然難易度が高くなっていると考えられる。

 実際合格者同士で名刺交換をすると、博士が居たり、大会社の役職者も多い。研究会には現役の東大博士課程の学生の自己紹介もまわっていた。コンサルタントを目指すというより、マネージメントの勉強として受験する都市銀行や業界トップ企業の中堅、若手社員も多い。

二次試験は一次試験合格の年と翌年しか受験資格はなく、2度失敗すると一次試験からやり直しとなる。受験生同士苦労話をする時、何度も挫折しそうになりながらもこの勉強を続けて来られたのは、この試験勉強は面白いという結論である。企業経営理論から経済学・経済政策、財務会計、経営法務、運営管理(生産・技術、店舗・販売管理)、経営情報システムそして中小企業経営・政策まで、これだけバラエティに富む試験が他にあるだろうか。しかも二次試験は、与えられた与件文を読みこなし、各設問要求に20字から200字程度にまとめるすべて記述問題*5)である。

 受験の目的は兎も角、この試験が益々隆盛になり、産業界に貢献できる人材を育成する一つの手段であり続けて欲しいと願う。



 *4)ある受験支援校による格付け
 *5)財務会計では計算問題結果を数値で記入する問題もある
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中小企業診断士その2

2008年06月18日 | Weblog
二次試験

 一次試験と異なり、この二次の筆記試験は「落とす試験」と言われる。毎年合格者数枠が決められており、上位700とか800名が合格できる試験と言われる。合格基準は一次試験と同様平均で60%以上、1科目でも40%未満が無いこととなっており、その基準からいえば全員が合格する確率は0ではないのだが、現実は合格者数の枠が決められていると考えたほうが正しいように思う。

この試験に診断協会から模範解答が示されたことはない。その採点方法や基準といったものも公表されていない。模範解答例が、各受験支援校から出されるけれど、これもまちまちである。従って、ただ漂うばかりという受験生も多く、この試験への取り組み方は難しいように感じる。

当然取り組み方に個人差はあるし、受験支援校によっても拠り所となる指針の表現に違いがある。言えることは、この試験勉強では知識を付けると言うよりトレーニングと考えた方がよいということである。量より質という勉強法もあるのだけれど、ある程度は量をこなさないと質を上げることも出来ない。受験生のポテンシャルによっても要領を会得するまでの時間と量に差はあると思われるが、一般的には過去の二次試験問題を何度も何度も納得するまでやってみるしかないように思う。

しかし、闇雲に頑張って時間を浪費することは避けたい。受験支援校の講師の先生方は、非常にいい話をしてくれている。じっくりと虚心坦懐に話を聴くことは重要と思う。また受験支援校による本試験の模範解答が異なるケースについては、自分の解答に一番マッチするものを信じればいい。加えて、特定の書物等を宣伝するわけではないが、同友館の雑誌「企業診断」の第2次試験対応、実践!事例問題解法シミュレーションは教材としてお奨めである。

本番、1科目80分の試験を1日4科目*3)はきつい。集中力を維持する体力も必要だし、時間との戦いでもある。やはり、日々のトレーニングにより、頭だけでなく体に覚えさせるくらいの執念も必要かもしれない。



*3)中小企業の診断及び助言に関する実務の事例Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳとして、
事例Ⅰは組織・人事、事例Ⅱはマーケティング、事例Ⅲは生産・技術、
事例Ⅳは財務・会計の4科目
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中小企業診断士その1

2008年06月15日 | Weblog
一次試験

 熱い夏がやって来る。中小企業診断士の一次試験は毎年8月の最初の土、日と決まっている。年間を通じて最も暑い時期に熱い戦いが繰り広げられる。少し前までは2日間共に、朝10時から夕方5時まで、2時間2科目を含む合計8科目の試験が行われた。終了後は出来不出来には関係なく、ランナーズハイと言われるような爽やかな充実感を味わったものだ。今は7科目となり、2日目は15時半には終わるので、少し物足りないと感じたのは筆者だけだろうか。

 熱い戦いと書いたけれど、思えば一次試験は「通す試験」と言われ、合格点に達すれば受験生全員が合格することも確率的には0ではない試験*1)である。従って自分との戦いである。

 中小企業診断士になるには、中小企業大学校に入って規定の過程を履修するか、この中小企業診断士試験の一次・二次をクリアし、実務補習を修了するかの2通りがあった。今も大筋で同様であるが、以前と異なる点は、中小企業大学校への入学要件として、この中小企業診断士一次試験合格が設けられたことである。さらに働きながら、中小企業大学校の履修過程を学べる民間の養成機関や大学院も同様の要件で認定*2)されている。従ってこの一次試験は以前と比べて相当に価値を増したと思われる。昔は一次試験に何度合格しても、二次試験に合格しない限り診断士になることは出来ず、一次試験の合格証は記念品に過ぎなかった。

 試験日まで残り1ヶ月半。この間の自分との戦いが合否を左右する。受験生にはまさに熱い夏だ。頑張っている人に「頑張って」もないと言われるけれど、やっぱりこの一つの目標に向かって頑張って欲しい。



*1) 近年の一次試験の合格率は20%前後(科目合格者を含まず)である。
*2)・株式会社日本マンパワー(夜間、土、日の1年間)
   ・財団法人社会経済生産性本部(中小企業大学校と同じく全日制6ヶ月)
   ・学校法人梅村学園中京大学大学院ビジネス・イノベーション研究科(夜間2年)
   ・学校法人法政大学専門職大学院イノベーション・マネジメント研究科(昼間1年)
   ・学校法人栗本学園名古屋商科大学大学院メネジメント研究科(土、日2年)
  大学院では、MBA取得に必要な履修単位が含まれるため、経営学修士の
学位取得も可能。
  但し、いずれも入学金、授業料、教材費等の名目で合計200万円程度の
受講料が必要のようだ。
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将棋と人と人生と Ⅲ

2008年06月13日 | Weblog
名人の系譜

明治、大正から昭和にかけて活躍した坂田三吉名人*4)は、歌になり、芝居・映画となって有名である。その坂田三吉名人が、若かりし頃の升田幸三名人の将棋を「あんたの将棋はいい将棋や。大けな将棋や」と褒め称えてくれたと升田幸三名人の著書*5)にある。
その坂田三吉名人の孫弟子にあたるのが、ヒット曲「おゆき」でも有名となった内藤国雄九段である。天才と呼ばれる人の多い将棋界の中でも一際その才能を謳われた一人である。ただ最も活躍された時代が、大山15世名人から中原16世名人の全盛時代にあたり、惜しくも名人の座に就くことはなかった。

九段が小学生の二人の兄弟と将棋を指した。当時は兄の方が強かった。しかし九段は弟を指して、「あの子はプロになる。なったら名人になるよ。」とまで言ったという。そして兄の方は、学校へ行った方がいいと親に伝えたともいう。「将棋の強い子はゴマンといる。が、大成する子は違う。」と九段は述べたという。

その二人の兄弟こそ、谷川浩司17世名人と、東京大学将棋部主将として、また社会人リコー将棋部大将としてアマチュア棋界で大活躍された俊昭氏の兄弟である。弟は内藤九段の予言通り、21歳の若さで棋界の最頂点に立った。将棋界の歴史を変えた。とさえ言われた。

これらの話を盛り込んだ「将棋と人と人生と」を書いて数年後、筆者は東京千駄ヶ谷の将棋会館で行われた化学総連の将棋大会に出場した。そのときのゲストが昨年2007年18世名人となられた森内当時四段であり、四面指しではあるが、二枚落ちで2局教わった。1988年のことだから、森内四段は18歳。しかしこの年、名人位に復位した谷川名人を全日本プロトーナメント決勝で破り優勝している。筆者は会社勤めで、1流大学の大学院卒など優秀な若者も周囲にたくさん見て来たつもりだけれど、森内四段ほどの若者はかって知らなかった。この青年(将棋ではすでに先生であるけれど)は必ずや大成すると確信した。

その後羽生7冠*6)の時代が続き、後塵を拝した形となっていたが、森内名人は羽生7冠より先に永世名人の資格を得ることとなる。筆者は羽生7冠や谷川17世名人にお会いしたことはない。しかし、森内名人を通して米長永世棋聖の、将棋の手ほどきを受けた兄を指して、『兄は頭が悪かったから将棋指しになれず、東京大学に進んだ』という有名な言葉を十分体感検証できた気分を味わっている。



  *4)坂田三吉名人の名人位は、正式に将棋連盟が允許したものではなく、
    後援者からの強力な推挙で自称したものといわれている。しかし、
    往年の実力は名人に相応しいものだったとされる。
  *5)「名人に香車を引いた男」朝日新聞社昭和55年刊
  *6)羽生7冠:正式には現在王将・王座の2冠。森内名人の名人位に挑戦中。1996年7大タイトルを総なめした実績から敢えて7冠の称号を付けさせていただいた。
    この稿は、「スター棋士23人衆」 (株)大本書店昭和58年刊を参考また一部を引用させていただきました。


           将棋と人と人生と 了
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将棋と人と人生と Ⅱ

2008年06月11日 | Weblog
歩(ふ)

 升田幸三将棋名人*1)の名は、将棋ファンならずともいまだにご記憶の方も多いかと思う。新手一生をモットーに常に創造的な将棋を目指された鬼才であり、歯に衣着せぬ発言でも人気が高く、戦後の将棋界を大衆に引きつけた大功労者である。

 筆者は父や兄たちの影響で小さい頃から将棋のやり方は知っていたが、将棋に多少とも打ち込んだというのは30歳も過ぎた頃からである。しかし、升田名人のことは、それ以前に新聞紙面に載ったエッセーによって知っていた。当然「将棋と人と人生と」に、その記事や名人の著書からも多くを引用させていただいている。

 それは、新聞の広告誌面であった。雑誌によくあるアドバトリアル*2)的広告であった。“勤めを愛す”というテーマで当時の各界著名人の寄せ書き的エッセーが載ったことがあり、その中の升田名人の言葉に強い感銘を受けた。『若い頃、全く生産性のない「将棋指し」という職業に寂莫とした思いをしたことがあります。国家に、国民に、いかほどの貢献をしているだろうかと。でも、文化というものはムダから発展していくのだ、ということを会得してからは「将棋指し」に打ち込めるようになりました。』

 その升田名人が著書“勝負”*3)の中で“歩”についておられる名言を記す。『私など、将棋の駒を通して世の中を見る場合、駒の使い方にはある点で、人事に通じるものがあるのを感じることがありますな。・・・・歩というのは、人間社会でいえばヒラということになるんですが、未熟な人ほど、この歩を粗末に扱う。しかし、これは、大間違いなんだ。・・・・戦端が開始されないときは、歩の立場は皮膚のようなものだと思えばいいでしょう。肉をおおって守っている皮膚ですよ。だからあそこ(歩)には、もっとも敏感な神経がかよっていないと困る。・・・・だから歩の感度がよければよいほど、いい。私なんぞ、歩にははなはだ細やかな神経を使います。ま、これを会社にたとえるなら、そういう感度のいい社員がたくさんおると、いい働きしますぜ、これ。ところが実際はヒラほど鈍感だったりしてね。かと思うと、上のほうが、わざわざ鈍感になるようにしむけとるようなところもあるんだから、困るわけですよ。』
 


     *1)正式には実力制第4代名人
     *2)雑誌に見られる編集記事の中に広告を折り込む広告形態
     *3)升田幸三著「勝負」サンケイ新聞社出版局昭和45年刊
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将棋と人と人生と Ⅰ

2008年06月08日 | Weblog
歩(あゆむ)

 20数年前、会社工場の有志で文集を作ろうということになり、その執筆者に筆者も選ばれた。筆者は当時工場の将棋部に所属しており、文集の発案者が将棋部の方であったことから、将棋について書くことになり、咄嗟に「将棋と人と人生と」という題が浮かんだ。それは大宅壮一氏父子の話を知っていたからでもあった。

 拙著「将棋と人と人生と」に登場させていただいた大宅壮一氏は、戦前から1960年代まで活躍された名評論家である。戦後的現象を「駅弁大学」、「一億総白痴化」や「子供は漫画で溺死する」などの流行語に仕立て、造語の達人と言われた。テレビによる「一億総白痴化」現象は半世紀も経てなお新鮮である。現在テレビなどのコメンテーターとしてもご活躍されている大宅映子氏は氏の四女で末の娘さんとのこと。

 その大宅壮一氏は将棋が大好きで、長男が生まれる前も将棋をしており、咄嗟に思いついて長男の名前を「歩(あゆむ)」と決めたという。「歩(あゆむ)」という変わった名前は、歩の誕生当時(1932年)雑誌のゴシップ欄を賑わしたとある。-税務署の役人が滞納の督促にきたときに、氏が玄関で長男をひっくりかえして、「どうぞこれをお持ちください。」と言った、というのである。「歩」を裏返すと「金」になるからである。-

 壮一氏のこの話は氏の著書にあるのだが、その著書には、歩氏が壮一氏に先んずること4年、その才能を惜しまれつつ周囲の慟哭のうちに33歳の若さで他界されていたことも記されていた。その後、偶然に別の書物で歩氏の著作を知り、その一節の『鋭敏な感性を持つことは不幸なことだ。鋭利な知性を持つことは、幸いであるのに。』が強く印象に残った。将棋のことを人と人生に絡めて書こうとした背景に、この父子のエピソードがあった。

 当時『鋭敏な感性を持つ不幸』に共感した筆者であるが、今は『自身でコントロール出来ぬまでの鋭敏な感性を持つことは不幸なことだ。優れた感性に包まれた鋭利な知性を持つことは、幸いであるのに』のように読み替えたいと思う。



     この稿は、「わが人生観」大宅壮一著 大和書房昭和44年刊および
「愛をめぐる断層」文芸春秋昭和46年刊の中の大宅歩著「詩と反逆と死」を参考にしています。
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プロジェクトZ後記その2

2008年06月05日 | Weblog
符合

 プロジェクトZの伏線として、筆者自身のプロジェクトXがある。23歳の人生これからという時に網膜剥離を患った。幸い大事に至らず、定年を迎えた今も自動車免許を保持出来ている視力を維持できていることは真に幸いとしか言いようがない。網膜剥離のことは、そのときの周囲のみなさまへの感謝も込めてプロローグを含めて4回に亘って記述させていただいた。

NHKプロジェクトXのテーマは逆境からの挑戦である。筆者は自ら意識して挑戦したわけではないが、結果はまさにどん底逆境からの、やはり一つのプロジェクトXであったと思う。

長く暖めていたテーマという割には、書き出しこそ当該番組や映画で感銘を受けた日本ビクターVHSの開発の話と決めていたのだけれど、そのことと筆者の軌跡のつながりなどは考えてもいなかった。ところが書き進めたあとでその符合に驚いたのだけれど、VHSの開発と筆者の軌跡がみごとなまでに重なっていたのである。偶然といえばそれだけのことで、それが何なのといわれればそれまでのことではあるけれど。筆者にとって神の采配に感謝し光栄と思える事実であった。

VHSの高野氏が日本ビクター横浜工場のVTR事業部長に就任され、憂愁のうちに毎日酔いつぶれていたのが、オープン間もない居酒屋「きしや」*であり、昭和45年晩秋とある。筆者が網膜剥離で入院・手術を余儀なくされたのがまさにその時期である。さらに高野氏が完成したVHS試作機を松下幸之助氏にお見せしたのが昭和50年9月3日とある。筆者がポリピロピレン用新触媒の海外26カ国特許に名をつらね、その社内通知書が配付されているのが昭和50年9月4日。書き終えて知った不思議な符合であった。



   この稿は、幻冬舎版「プロジェクトX 挑戦者たち1-窓際族が世界規格を 
   作った」を一部参考にさせていただきました。
   *居酒屋「きしや」:NHKプロジェクトXでVHSの番組終了後、全国のサ
            ラリーマンの東京出張の際の「きしや」詣が話題になった。
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