沖縄のオバア

2009-06-25 18:38:21 | 塾あれこれ
中学高校のころから沖縄に対して文化的なあこがれを
持っていました。
衣・食・住・音楽・踊・生活スタイルなどなど。

小泉文夫さんが紹介した音楽のインパクトが
一番強かったでしょうか。
(当ブログ08.6.30に少し書いています)

長じて政治の流れを知るにつけ
薩摩支配→琉球処分→沖縄戦→米軍統治と続く
過酷過ぎる歴史に思いを馳せないわけにはいきません。

そんな下地があったので卒論に沖縄をテーマとしよう
と思ったのです。
何度も書きますが出来ようはずもないことに気づかない
私も(バカモノの特権)を得ていたのですね。

本を集め、構想を練り、12月の初めから沖縄旅行もして
体験的裏づけをとる、そして論文・・

アルバイトで稼いだ金ですから遠慮は要りません、
ほぼ2週間の、自分としては長旅でした。

今思うに石垣島や竹富島がルートにあること自体
どこかにお遊び感覚が隠れていたのでは?


ピンクの薄手のセーターで歩いていると
学校帰りの小学生が後ろをついてきます。
歩く方向が一緒だったのでしょうね。

私は当時長髪、ガリガリにやせ、いまなら「キモい」
がぴったりでしたが沖縄の子らにも性別??と見え
たのでしょう。

「女、かな。髪が長い。ピンクの服だし」
「聞こえるぞ」
「ヤマトンチュには分らんさ」
「おっさんの感じもするなあ」

旅行直前、広銀だったかで「あなたは女か?」と
銀行のオッサンに聞かれたこともあり、子供らの
そんな話は可愛いものでしたが
彼らの話がよく聞き取れたことが嬉しかったなあ。
(それにしても広銀!顔見りゃ分るだろ)

若干の勉強の甲斐があり、当時は聞き取りなら何とか
できていました。(今はダメ)

竹富島でもオバアサンと話ができました。
生まれてこの方この小さな島から出たことがない、と
話されていましたね。

あとで民宿のオヤジが「見直したよ、~のオバアと
話をしていたね」

旅行の終わりごろはシャベリも上手くなり那覇の
飲み屋で地元の人に間違えられていました。
自慢できるでしょ?

もちろん卒論のことも忘れてはいませんでした。
苦しい経済、重い米軍基地、
それらを南の島に押し付けてぬくぬくと生きるヤマト
あまつさえ差別感情まであるのですからあきれます。

それでも沖縄の人は基本的に優しい。
が、戦争の話は細かくは聞きだせなかったですねえ。


さて石垣島、畑の中の雑貨屋でした。
バス停の前にあり時間待ちで店を覗いていると奥から
店の方が出てこられました。

小柄でやせこけ、蓬髪、シワだらけの黒い顔、歯も・・
私が遠方のものと分かるはずなのに強い訛で話しかけて
こられました。
必死になって聞き取りました。

私はバカですから心の奥で「あぶないオバアちゃう?」

話を聞いているうちに
「兵隊さんがいるころが一番良かった」

耳を疑いました。
旧日本軍をこう評価する人がいるとは。
先島では戦闘はほとんどなかったので本島や周辺とは
条件が違いますが、それにしても。。

沖縄の人はみな平和を願うはず
日本軍はいったい何を守ったのか
ヤマトンチュはどのような視線を送ってきたか

一見してアヤシイ風にも見えるオバアだけに逆にウソは
ないはずです。

実はこのヒトコトで卒論の構想がぶっとんだ。。。。

無視することは出来ませんでした(←バカかも)
オバアのような人の存在まで含めた「論」を目指して
いたのです。
そんな大きなこと、ムリだよね。

すぐに怠け癖が出て2月くらいには完全に諦めました。
卒論がなくても卒業できた良い時代です。


戦争中の記憶が生々しい人が沢山おられた時代です。
逆に人を殺した人間も町に沢山いた時代です。

わがオヤジも鉄砲は自分が撃ったのが当たったら分ると
言っていました。
オレは人殺しはしていない、とも。

バイト先の大人が戦争の話をしていることもありました。
人を殺したと威張っているのです。

実はそれらも踏まえねばならぬヤマトンチュの沖縄論です。


今の私でも笑っちゃいます。
二十歳すぎたばかりのバカモノに何が分る・・

結局キトクな会社に拾ってもらい遊び呆けるわけですが
後の生き方に知らずしらず影響を与えていたことに
今となって気づいたのですよ、あのオバア。

自分の固定観念だけで世を見る危険
いろいろな人がそれぞれ生きる権利をもつ社会。

(いったん終了しますね)


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