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中学高校のころから沖縄に対して文化的なあこがれを
持っていました。
衣・食・住・音楽・踊・生活スタイルなどなど。
小泉文夫さんが紹介した音楽のインパクトが
一番強かったでしょうか。
(当ブログ08.6.30に少し書いています)
長じて政治の流れを知るにつけ
薩摩支配→琉球処分→沖縄戦→米軍統治と続く
過酷過ぎる歴史に思いを馳せないわけにはいきません。
そんな下地があったので卒論に沖縄をテーマとしよう
と思ったのです。
何度も書きますが出来ようはずもないことに気づかない
私も(バカモノの特権)を得ていたのですね。
本を集め、構想を練り、12月の初めから沖縄旅行もして
体験的裏づけをとる、そして論文・・
アルバイトで稼いだ金ですから遠慮は要りません、
ほぼ2週間の、自分としては長旅でした。
今思うに石垣島や竹富島がルートにあること自体
どこかにお遊び感覚が隠れていたのでは?
○
ピンクの薄手のセーターで歩いていると
学校帰りの小学生が後ろをついてきます。
歩く方向が一緒だったのでしょうね。
私は当時長髪、ガリガリにやせ、いまなら「キモい」
がぴったりでしたが沖縄の子らにも性別??と見え
たのでしょう。
「女、かな。髪が長い。ピンクの服だし」
「聞こえるぞ」
「ヤマトンチュには分らんさ」
「おっさんの感じもするなあ」
旅行直前、広銀だったかで「あなたは女か?」と
銀行のオッサンに聞かれたこともあり、子供らの
そんな話は可愛いものでしたが
彼らの話がよく聞き取れたことが嬉しかったなあ。
(それにしても広銀!顔見りゃ分るだろ)
若干の勉強の甲斐があり、当時は聞き取りなら何とか
できていました。(今はダメ)
竹富島でもオバアサンと話ができました。
生まれてこの方この小さな島から出たことがない、と
話されていましたね。
あとで民宿のオヤジが「見直したよ、~のオバアと
話をしていたね」
旅行の終わりごろはシャベリも上手くなり那覇の
飲み屋で地元の人に間違えられていました。
自慢できるでしょ?
もちろん卒論のことも忘れてはいませんでした。
苦しい経済、重い米軍基地、
それらを南の島に押し付けてぬくぬくと生きるヤマト
あまつさえ差別感情まであるのですからあきれます。
それでも沖縄の人は基本的に優しい。
が、戦争の話は細かくは聞きだせなかったですねえ。
○
さて石垣島、畑の中の雑貨屋でした。
バス停の前にあり時間待ちで店を覗いていると奥から
店の方が出てこられました。
小柄でやせこけ、蓬髪、シワだらけの黒い顔、歯も・・
私が遠方のものと分かるはずなのに強い訛で話しかけて
こられました。
必死になって聞き取りました。
私はバカですから心の奥で「あぶないオバアちゃう?」
話を聞いているうちに
「兵隊さんがいるころが一番良かった」
耳を疑いました。
旧日本軍をこう評価する人がいるとは。
先島では戦闘はほとんどなかったので本島や周辺とは
条件が違いますが、それにしても。。
沖縄の人はみな平和を願うはず
日本軍はいったい何を守ったのか
ヤマトンチュはどのような視線を送ってきたか
一見してアヤシイ風にも見えるオバアだけに逆にウソは
ないはずです。
実はこのヒトコトで卒論の構想がぶっとんだ。。。。
無視することは出来ませんでした(←バカかも)
オバアのような人の存在まで含めた「論」を目指して
いたのです。
そんな大きなこと、ムリだよね。
すぐに怠け癖が出て2月くらいには完全に諦めました。
卒論がなくても卒業できた良い時代です。
○
戦争中の記憶が生々しい人が沢山おられた時代です。
逆に人を殺した人間も町に沢山いた時代です。
わがオヤジも鉄砲は自分が撃ったのが当たったら分ると
言っていました。
オレは人殺しはしていない、とも。
バイト先の大人が戦争の話をしていることもありました。
人を殺したと威張っているのです。
実はそれらも踏まえねばならぬヤマトンチュの沖縄論です。
○
今の私でも笑っちゃいます。
二十歳すぎたばかりのバカモノに何が分る・・
結局キトクな会社に拾ってもらい遊び呆けるわけですが
後の生き方に知らずしらず影響を与えていたことに
今となって気づいたのですよ、あのオバア。
自分の固定観念だけで世を見る危険
いろいろな人がそれぞれ生きる権利をもつ社会。
(いったん終了しますね)
持っていました。
衣・食・住・音楽・踊・生活スタイルなどなど。
小泉文夫さんが紹介した音楽のインパクトが
一番強かったでしょうか。
(当ブログ08.6.30に少し書いています)
長じて政治の流れを知るにつけ
薩摩支配→琉球処分→沖縄戦→米軍統治と続く
過酷過ぎる歴史に思いを馳せないわけにはいきません。
そんな下地があったので卒論に沖縄をテーマとしよう
と思ったのです。
何度も書きますが出来ようはずもないことに気づかない
私も(バカモノの特権)を得ていたのですね。
本を集め、構想を練り、12月の初めから沖縄旅行もして
体験的裏づけをとる、そして論文・・
アルバイトで稼いだ金ですから遠慮は要りません、
ほぼ2週間の、自分としては長旅でした。
今思うに石垣島や竹富島がルートにあること自体
どこかにお遊び感覚が隠れていたのでは?
○
ピンクの薄手のセーターで歩いていると
学校帰りの小学生が後ろをついてきます。
歩く方向が一緒だったのでしょうね。
私は当時長髪、ガリガリにやせ、いまなら「キモい」
がぴったりでしたが沖縄の子らにも性別??と見え
たのでしょう。
「女、かな。髪が長い。ピンクの服だし」
「聞こえるぞ」
「ヤマトンチュには分らんさ」
「おっさんの感じもするなあ」
旅行直前、広銀だったかで「あなたは女か?」と
銀行のオッサンに聞かれたこともあり、子供らの
そんな話は可愛いものでしたが
彼らの話がよく聞き取れたことが嬉しかったなあ。
(それにしても広銀!顔見りゃ分るだろ)
若干の勉強の甲斐があり、当時は聞き取りなら何とか
できていました。(今はダメ)
竹富島でもオバアサンと話ができました。
生まれてこの方この小さな島から出たことがない、と
話されていましたね。
あとで民宿のオヤジが「見直したよ、~のオバアと
話をしていたね」
旅行の終わりごろはシャベリも上手くなり那覇の
飲み屋で地元の人に間違えられていました。
自慢できるでしょ?
もちろん卒論のことも忘れてはいませんでした。
苦しい経済、重い米軍基地、
それらを南の島に押し付けてぬくぬくと生きるヤマト
あまつさえ差別感情まであるのですからあきれます。
それでも沖縄の人は基本的に優しい。
が、戦争の話は細かくは聞きだせなかったですねえ。
○
さて石垣島、畑の中の雑貨屋でした。
バス停の前にあり時間待ちで店を覗いていると奥から
店の方が出てこられました。
小柄でやせこけ、蓬髪、シワだらけの黒い顔、歯も・・
私が遠方のものと分かるはずなのに強い訛で話しかけて
こられました。
必死になって聞き取りました。
私はバカですから心の奥で「あぶないオバアちゃう?」
話を聞いているうちに
「兵隊さんがいるころが一番良かった」
耳を疑いました。
旧日本軍をこう評価する人がいるとは。
先島では戦闘はほとんどなかったので本島や周辺とは
条件が違いますが、それにしても。。
沖縄の人はみな平和を願うはず
日本軍はいったい何を守ったのか
ヤマトンチュはどのような視線を送ってきたか
一見してアヤシイ風にも見えるオバアだけに逆にウソは
ないはずです。
実はこのヒトコトで卒論の構想がぶっとんだ。。。。
無視することは出来ませんでした(←バカかも)
オバアのような人の存在まで含めた「論」を目指して
いたのです。
そんな大きなこと、ムリだよね。
すぐに怠け癖が出て2月くらいには完全に諦めました。
卒論がなくても卒業できた良い時代です。
○
戦争中の記憶が生々しい人が沢山おられた時代です。
逆に人を殺した人間も町に沢山いた時代です。
わがオヤジも鉄砲は自分が撃ったのが当たったら分ると
言っていました。
オレは人殺しはしていない、とも。
バイト先の大人が戦争の話をしていることもありました。
人を殺したと威張っているのです。
実はそれらも踏まえねばならぬヤマトンチュの沖縄論です。
○
今の私でも笑っちゃいます。
二十歳すぎたばかりのバカモノに何が分る・・
結局キトクな会社に拾ってもらい遊び呆けるわけですが
後の生き方に知らずしらず影響を与えていたことに
今となって気づいたのですよ、あのオバア。
自分の固定観念だけで世を見る危険
いろいろな人がそれぞれ生きる権利をもつ社会。
(いったん終了しますね)