塾が選択してはいけない

2007-06-27 10:00:03 | 教えない
月曜の続きです。
より小さな塾に話を移します。

進学塾もあり補習塾もありますが、入塾テストを行う
ところは小さな塾では少ないでしょう。
その代りに面談をするところが多いと思います。

お出でいただく前に、塾に合う合わない、通塾の
目標は何か、などなど意思疎通を図っておきたい
ことは沢山あります。
場合によりお断りすることもあるかもしれません。

面談をするのは「当然」なのでしょう。

当人のためになりそうもない所へ通っていただく
のは良いことではありません。
ご家庭のためにもならず、塾は詐欺商法に近い
営業をするわけにはいきません。

従って、経営的には「ノドから手が出るほど」でも
やはり良心的にお話すべきです。
まっとうな塾は規模が小さい所にはまだまだ存在して
いると思います。

もちろん塾の一種の「自己防衛」でもあります。
長い目で見た営業判断です。
現在通っている生徒のためでもあるでしょう。


実は私は上記の「門前払い」には再考を望みたいと
考えています。

気をつけないと塾の都合が前に出すぎる恐れがあり
ます。結局、最終的には営業を考えていることになり
大手塾の「教育で金儲け」を批判する資格がなくなる
のではないでしょうか?

誰でも入れるのが民間教育機関としての「義務」

自塾にとってやりづらい生徒を引きうけられないで
どうします?
人情としてはお断りしたいケースがあることは
分かりますけれどもね。

また塾のバイトやスタッフの状況にもよるとも
思います。

でもそれも自分の側の都合。


自塾のことを十分に説明し、厳しい受験志望であれば
それを明確に伝え、やり方や状況をしっかりと賛同
してもらえればよいのです。

選択するのは塾ではなく生徒、ご家族です。

「~でよろしければどうぞお出で下さい」
が塾の立場であると考えます。

塾に入って後に辞めるということはあるでしょう。
場合により退塾をお願いすることもあります。

それは入塾時の約束を守っていただけないからで
やむをえません。

しかし、辞められて良い所は何ひとつありません。
塾の負けです。不徳のいたすところです。

私が業界に入ったとき「辞めさせるのはタブー」
ときつく言われたその教えと反しますが、あえて
お辞め頂くことが大事な場合もあると申し上げます。

辞めて万事解決とはなりません。問題は山積。
生徒もかわいそうです。(塾も・・)

そんな不幸を減らすために塾は発信をしなくては
なりません。

予め塾や私自身をお分かりいただき上記のリスク
を減らす一助になるようにとブログを書いている
ツモリでもあります。

もっとも、つい反営業的になり困っています。
これじゃあ、生徒は集まらね~

でもよく考えると、どんな塾か宣伝になっているから
妙なお問い合わせがないのかもしれないですね。

「教えない」に気づくまで(その1)

2006-08-08 23:31:53 | 教えない
サラリーマンから転職し進学塾で教え始めた頃は、見よう見まねで
とにかく先輩たちに追いつくことが目標でした。

次第に自信らしきものが芽生えてくると、工夫をし始めます。

「どうすれば教えやすいだろう?分かりやすいだろう?」
「こうすれば、分からなかった子が分かってくれるかもしれない」
「こんなことも教えてあげよう」
「私には『井上式授業』が一番で、生徒にパワフルに伝わるぞ」

そんなことを一生懸命にやっていると、ある先輩に言われました。
「キミは教え過ぎだ」

その時は言われていることの意味がわかりませんでした。もともと
かなり生意気である、そのワリには中身が伴わない人間ですから
「何を言ってやがる。出きるものならオレくらい教えてみろ!」と
いう反応でした。いや、お恥ずかしい。

自分の担当で結果が出ていれば、ほかは何も考えなかったのです。

「自分のやり方は間違っていない。結果を見ろ」
「あの人は10程度しか教えない。私は20も教える。しかも結果
では負けていない、どんなもんだい!」
「生徒が『ここは井上塾だ』というほど教え方を工夫しているぞ」

・・これらは決して自慢ではなくて私自身の錯誤、恥の表明です。

更に情けないことに成果が上がらなければ生徒のセイにしました。
「オレが言うとおりについてこないからだ」と。

当時の私のホンネは以下の通りです。
「全員に本人たちの希望する結果を出せればよいのであるが、それ
はかなり難しいことである。皆がこちらの言うことに100%従って
くれれば好いけれど、それもありえないし、結局、合格率を高め
ることが最重要課題で、結果が出ない生徒がいるのは残念ではある
がヤハリやむをえないことだろう」

ここにはオイテケボリの生徒への視線が欠けてしまっています。

大企業に勤めるエリートが、えてして自分の力を過信するように、
生徒に恵まれた塾で仕事をすれば、ある程度の結果がでるのは当然
なことなのに、それに気付かず自分がスゴイと思う阿呆でした。

さて暫くたち、何かおかしいぞ、と感じ始めるのですが、実は受験
指導の延長でそう思い始めたので褒められた話ではありません。

「なぜもっと率が上がらないのか?」
「私が上手いのではなくて生徒に恵まれていただけではないのか」
「本当に彼らの為になることをしているのか」

少しずつ「ついて来れない」生徒への視野が広がっていったように
思います。

  ◎
そんなとき、ある生徒が事故で亡くなるということがありました。
入試を終え、高1になってしばらくしたころです。

ご両親の嘆きは深く、お葬式で「こんなことになるのならばもっと
楽しく過ごさせてやるのだった」搾り出すように話されました。

それは決して私だけに向けられた言葉ではなかったと思いますが
強く胸に残るものでした。
ただ一度の大切な人生を歩んでいるのだ、ということに深く思い至
らされたのです。もちろん知識のレベルでは知っていたことです。
ただ、心では充分に捉えていなかった。

そこから、企業としての塾で、受験合格を至上のこととして他を省
みないやりかたをしていないか、自身をチェックし始めたのです。

かけがえのない一人一人の生徒に、きちんと向かい合った自分であ
らねばならず、またそういう仕事でなければならないからです。

もちろん受験結果などに影響を出すわけには行きません。
結果は、伸ばしたハズと記憶しています。

(この文、次回に続きますが自慢で終わっちゃイケマセン、ね?
 実は余り自慢になることではありません。なぜかというと上記
 の繰り返しになりますが、生徒が優秀だっただけですから)




「教えない」に気づくまで(その2) 入試の決め手も

2006-08-08 10:54:22 | 教えない
まず塾と入試勉強について申し上げます。塾と入試とは強い関係が
ありますので。
途中で前回の内容と結びつきますから、どうぞ読み進めて下さい。

受験勉強には従来から様々な問題が指摘されています。
中高6年一貫教育の根拠の一つに受験勉強の弊害がありますね。

多くの塾は、受験を避けて通れませんから、落ち着かぬ思いをする
こともあります。けれども問題は正面から受け止めなければなりま
せん。「受験」の現実を踏まえながら、本来の学習をどのように
進めるのか、難しい課題ですが、答えを探しましょう。

当然すぎることですが、目先の受験だけに焦点をあて、本来の勉強
に差しさわりがでるようなことではいけません。

本来の勉強をしっかりしていれば、特殊な受験勉強を数多くしなけ
ればならないことはありません。塾などに行かなくても入試で結果
を出す子はいますよね。

一番の問題は、本来の勉強がなかなか身についていない段階にある
生徒が受験をしなければならない場合です。
通常の勉強に時間をかけて受験に間に合うのか、受験テクニックの
習得とどういうバランスをとればよいのか。

(以下、少しだけ話がずれますが)
少なくとも、ここ広島では学校の成績の絶対評価導入で、期末試験
などのたびごとに上記の受験勉強によく似たことが起きています。

生徒の要求が、本来の勉強はさておいて「とりあえず試験対策」
となってきました。そこをサポートすることで生徒集めをする塾も
多いようですね。業界が厳しい状況にあるので、それも分からない
ではありませんが、出題傾向を分析し直前対策をたくさんする塾に
通う生徒が、学校の試験で初めから優位に立つのは、果たしてよい
ことなのでしょうか?

学校の立場からすれば「よい迷惑」かもしれません。授業の成果を
測定しようとしたら生徒に予めハンディがついているとしたら。

いやそうではなく、とにもかくにも勉強させてくれるのだから好い
事だという意見もあるでしょう。「試験対策」が全く勉強の役に立
たないわけではありませんから。
でもねえ・・功罪それぞれの割合を考えると今一つなんですよね。

勉強というものは長いスパンで成長させてゆくものなのに、定期的
に行われる試験のたびに一夜漬けばかりで一定の成績をあげて次へ
と進む生徒がいたら、その人の将来には不安が残ります。
学校の定期試験に塾が対策をする場合、それが一夜漬けの手伝いに
なっていないか、疑念があります。

目先の損得に引っ張られて本来のあるべき姿がゆがみかけている
とも言えそうですね。

受験とは、テストとは学力を測る「手段」であったハズです。

それが絶対評価の採用以来「目標」になっている。もちろん、以前
からもあったことですが、それが目立つようになってきました。
例えば、中学生の場合、中1の一学期から評価を上げ、それを維持
しないと、中3くらいから力が伸びても、行きたい学校の入試に
ハンディがつくのです。

本当は内申書で全てがきまるのではなく、力がついていれば合格し
ている生徒もいます。ただ、中学の受験指導もあって多くは内申点
による、受験校決定の輪切り状態に従っています。

そこで、まるで何かに駆り立てられるように目先の絶対評価の数字
を気にしはじめている、そんな生徒・保護者が増加しています。
自分で勉強に取り組めない生徒、とか子供への指導力が弱い家庭に
多いのではないでしょうか。
「本当の勉強」「自分の勉強」に目が向いていないのですね。

 ◎
入試対策勉強も同じ事です。

次の段階へむけて、あるべき学力をつけてゆくことが第一なのに
合否に目がゆきすぎています。

たとえば中学生、高校に入学してそれで終わりですか?
高校で勉強がついてゆけず苦労している生徒も多いのです。
その責任の全部が「受験勉強」にあるわけではないけれど、受験
勉強のなかで作り上げてきた「姿勢」「学力」に大きな問題が
あったであろうことは間違いありません。

・・なんて言っても受験が気になるのは当然です。

では、現実に目の前にある「受験」を踏まえて、どう勉強するか
次回に話が続きます。
そして早く本題の「教えない」にたどり着かないと。

途中ですが今日はここまででスミマセン。







教えない・・(その3) なぜか?

2006-08-07 11:27:18 | 教えない
前回述べたように、受験というものは現実に存在しているのだから
その勉強はやむをえません。それを「本人のためになるもの」に
すればよいだけのことです。
受験勉強をすること自体で本来の学力を伸長させるのです。

「受験勉強」とはまったく特殊なものでしょうか?
必ずしもそうとは言えません。
入試はあくまで、既に習ったことを身につけているかどうか、の
チェックなのです。だから本来の勉強がもっとも大切なのです。

受験対策とは「視線の向け方」であって「歩み方」まで変えなけ
ればならない、というものではありません。

その「歩み方」のほうをキチンとできるように、リードする側で
のもっともよい方法が「教えない」ということです。

もしも受験生の方が読まれていたら「役に立たね~」と思われる
かもしれないですね。でもヒントになると思いますから、できれ
ばもう少し読んでみて下さい。

勉強の基本姿勢を確立するには「教わらない」ことが一番です。
自らを力強くすることができれば、受験勉強もしっかりとできま
す。少し時間をかければ「教わらない」勉強が受験でも決め手に
なるのです。そんな人はまだ多くないから。


受験勉強であろうとも、それ以外の勉強であろうとも、大切なこと
は「本当に当人のためになること」をしているかどうかです。

本当の力をつけるためには、どのようなことが必要でしょうか。

勉強に対する姿勢、精神力、基礎学力、この3つが重要です。

計算、漢字などの基礎的な能力は、勉強を進めていく上で通常欠か
せないものです。幼い頃からの訓練も大切です。
ただし、そればかりだと考える力をおろそかにして、表面的に点を
稼いでいることがありますから、頼りすぎては危険です。

集中力、持続力、ファイト、俊敏性、カン働き、などは精神力とし
てひとくくりにしておきますが、(いつか別の日に触れます)従来
受験対策では重要視されてきたもので、私も進学塾で集団指導をし
ていたころは、これらを必死になって盛り上げようとしましたね。

上記も大切ですが、今の日本でもっとも重要で緊急性のある課題が
「姿勢」です。背筋だけじゃなくて(サム~)
最近、マスメディアとかお役所などで生活習慣が勉強に影響すると
言ってます(気付くの遅すぎたね)
それも大事ですが、もっと大切なのが「姿勢」
ピンと伸ばして←違うだろ

勉強の姿勢は「親の背中」で教えるのが本筋です。家庭での教育と
はこういうものをいうのですが、この辺りも弱そうで、塾などの
出番もあるわけですね。

およそ現在の生徒は勉強に対する取り組み姿勢が「甘い」のです。
勉強へのモチベーションが弱いのです。
勉強することの最大の阻害要因になっています。

勉強だけでなく、サッカー代表なんてのもそうだし、どうもこの国
全体が共通して抱えている問題みたいです。

その「甘さ」をもたらすものは何でしょう?
現代日本の「教えすぎ」志向が原因です。

懇切丁寧な教え方が進歩しすぎ、その結果、学ぶ側が「受身」に
なっているのです。いや正確には「受身にならされている」

そういう意味で学ぶ側は被害者なのかもしれません。もちろん
「全ての人が受身になっている」ということではありません。
けれども「受身人口」は深刻な数になっているようですね。
学校や塾に関係するのみならず、スポーツでも経済界でも、甘い!

実は、甘いから丁寧に教えなければならないのか、丁寧に教えすぎ
るから甘くなるのか、どちらが先かよく分かりません。鶏と玉子。
そんなことの解明に時間をかけるより、すでに深まっている悪循環
に対しどのような処方で臨むか、現場として求められることです。

とある塾が、昔「質問しなくてもその前に教えてあげます」という
チラシを作りました。
逆でしょう!!
質問をできる生徒に育てなければならないのに。
そのためには、まず教えるのではなく、教えないで質問をさせる
この技術が肝要なのです。

自分で考えることをしない、指示されなければ何も出来ない、
そんな人間が増えている時代こそ「教えない」ことが必要なのです。

ただ、具体的にどうするか、が難しい。

司馬遼太郎も言うように、昔の日本は「教えない」不親切な文化で
あったようです。日本の伝統の中には「教えない」ということの
{記憶}は残っていると思いますが、半世紀前の宮大工修行のよう
なことが、今の世の中でストレートに通用するとも思えません。

長くなりました。次回は、より具体的に。


1ケ月ほど前、gooではないブログで始めてみました。やり難い
と思えたのでこちらになったのですが前のブログでも「教えない」
と書き始めたらコメントを頂きました。

「でも、先生というイキモノは教えたがりな存在であるから、
 教えないというのはムリちゃう?」

ええ、おっしゃるとーり、です。




教えない・・(その4)教えないで月謝とるの?

2006-08-07 09:48:37 | 教えない

日本における勉強=修行では「教えないこと」が基本でした。多く
は「ただ働き」食事以外は無給で、さまざまな作業などをしながら
「教えない、必要があったら学べ、盗め」とされていました。
厳しいですが、それでも金をとる、までは少なかったでしょうね。

私のように、教えないで月謝をいただくというのはエゲツナイかなあ?

次のように思われる方がいらっしゃいますか?
「教えないとかいっても、質問させるのだから、それには答える
わけで、結局は教えてるんじゃないの?」
そうです。こんな疑問が出てくるように、不親切に説明しておくの
が私流の「教えない」なのです。

いままでの3回では「教えない」と何度も書きながら、その内容を
はっきりさせていませんでした。

もしエライ学者の方などがこの文をご覧になられても、それだけで
あちらを向いてしまわれそうです。(見るわけないけど)
そういう方の書かれる「キチンとしたもの」では初めに定義などが
これでもか、と説明してあります。我々多くの人間はそれだけで
その世界に入っていけません。が、エライ方は考慮などなさいませ
ん。そちらが土俵に上がって来い、とおっしゃいます。

でも、専門までいかなくても例えば数学の教科書を見ましょうか。
単元の初めに概念とか定義とか、たくさん書かれています。
イヤになりません?
なぜそんな決め方?とか思っていると、もう「~であるから、次の
ことが言える・・」と先へ進んでしまうのですね。

ものを考えるとは最初は「こんな場合はどうだろう?」からです。
「正確を期するため定義から説明する」というのは、考えることの
流れとは違うように思われます。
少しずつ考え初めて、疑問を一つずつ解決してゆく、その中で思考
が出来あがってゆくのではないでしょうか。

話が横道に入ってしまいました。
私の「教えない」とはどういうことか、でしたね。

そもそも、完全に何も教わらないで勉強が進む人はふつういません
から、「カンペキに何も教えない」ということはありえません。

平方根やピタゴラスの定理を教わらずに、自分でみつけられるなど
という人はほとんどいないでしょう。まず教わらないと、できるワ
ケがありません。

「なるべく教えることを少なくして、自分で学ぶ力を育てる」とい
うことを、ここでは「教えない」と表現しています。

教えすぎない、という表現では実感が伴いません。
かなり意識して「教えないぞ」としてないと実行できないのです。

さてここからの具体論が難しい。出来あがったものがあるわけで
はないのです。


私の年若い知人にT君という人がいます。数年前私に、とある本を
教えてくれました。辻本雅史著『学びの復権』です。
井上の考えていることがこの本で少し分かった気がする、といって
教えてくれたのです。(著者は教育学者、現京大教授)
読みやすい本です。

乱暴を承知で短かく本の内容を紹介しますと
「明治に始まった学校教育には欠けているところがあり、忘れ去ら
れた江戸の教育にその解決法がある」というものです。
その中心は「教えないこと」

非常に面白い本ですが、後半の具体論は弱いと思います。T君も
そう指摘していました。また、私には儒教の話はジツはピンと
きません。勉強不足を恥じるばかりです。
とはいえ、面白くて勉強になる本です。

この本を読んで自分の方向に自信が持てました。

(上記掲載の写真は昨日近所の山を撮ったものです。暑いですね)

教えない・・(その5) 個別でも一斉でも

2006-08-05 11:04:45 | 教えない

「教えない」といっても先に書きましたように全く教えないわけに
はいきません。
年齢、学力、精神状態などで、人さまざまな対応になります。


福島県で塾を主催されている渡辺稔先生の著書に『教育を斬る』
があります。この中で渡辺先生は「教えない」ことの大切さを説い
ておられます。授業形式で「教えない」という力技。スゴイ!

私は形が違って、個別で行っています。
個人による違いがあることから個別の方がやりやすいと考えますが
集団授業と個別指導のどちらがよいという話ではありません。

何を教えないか、どう教えないか、生徒のその日の調子はどうか
など様々な条件があるので、私には個別がやりやすいというだけで
す。自分の都合を理由にするのは気が引けますが、先日も書きまし
たように、「教えない」方法論は確立しておらず、緊急の課題でも
あるので、自分の力を出しやすいところから始めているのです。


一般に小学低学年では「教えない」という事は難しいでしょう。
私自身はお付き合いしたことがありません。子供もいないし、よく
分からないのですが、まず難しかろうと思いますね。

小学校の中学年になると場合によっては少しずつ始められるのでは
ないでしょうか。

高学年では「教えない」を始めておきたいですね。

もちろん、年齢よりも相手の状況が優先します。
初めて出会ったときに学力がついていない人がいるとします。学年
にして2年も3年も前の事が身についていない程度は、しばしば
あることです。そのとき「教えない」では先に進みません。
以前の学習のどこでつまづいたか探し、そこから教え始める必要が
あります。もちろん、内容として、もとに戻るのであって、あくま
で当該学年の勉強をしながら遡るのです。

割り算の学習で、よく中身をみるとジツは引き算ができない、など
ということがあります。そのときに小学低学年のドリルなどを持ち
出してきてはいけません。ましてや「あなたは何年の学習からダメ
になっている」などという情報提示は厳禁です。
割り算をする中で引き算を勉強できるように、細かく問題を作って
定着させなければならないのです。市販の物や問題集作成会社の
通年問題集では量が不足でしょう。
この程度なら、ご家庭でもできることですよね。

このようなことから始めて、学校に追いつき、できれば先に進んで
通常の勉強のし方できちんと力がつくようにします。
その上で初めて「教えない」を本格的に導入するのです。
それまでは、もし可能なら少し「突き放した対応」をしておくこと
もあるくらいに留めます。

しつこいですが「教えない」は相手の状況により千差万別。
細かく神経を使わなければならないことです。


(上記写真、お好きでない方にはスミマセン。私も好きじゃない。
 プランターのイタリアンパセリを完食。これからどーする?
 きれいなチョウチョになれるかなあ)



お前を信用できるか?といわれると・・

2006-08-02 11:18:42 | 教えない
ちょっと遠回りですがブログのスタンスを説明します。

始める前には悩みました。その一つは匿名かどうか。
書き始めようという動機が、正直なメッセージをだそう、という
ことでしたので、それなら匿名がいいか?

何故なら、名前を出すと、何か差し障りがあるかもしれないとして
書くことを自主規制してしまいそうだからです。
例えば、何か悪い例を出すと「ウチの事を書いているのでは?」
なんて思われる方がいらっしゃらないとも限りません。
強い意見を書くと「普段言いにくいものだから、~にかこつけて」
なんて言われるかもしれない。

もしそれを気にしたら、ありきたりの内容になってしまいます。
であるなら初めから書かなきゃいい。

逆に匿名にするとどうか。思うことは書けるが信用されるか?
名前を出さないから適当なことを言ってる、と思われかねず、
これまた、それなら初めから書かなきゃいい。

広告宣伝するなら、HPでしょうからブログは書かなきゃいい・・

と、後ろ向きになった時間が長く続いたのですが、気を取り直して
名前を出し、責任をもてることを出来るだけ正直に書いてみる、と
言う形でとにかくスタートしてみました。

ところが、気付くと、名前を出しても実在するかどうかを簡単に確
認できる電話帳に現在は番号を載せていないのですね。これは評判
が悪いので年末のものから再び載せるようにします。申し訳ありま
せん。なお、番号案内でお訊きになれば電話番号は分かります。
実在の確認には使えますね。
どこかのひまなオッサンが適当に書いてるわけではなかった・・

また、特殊な塾が都合のよい変わったことを書いているのか、どう
か。私はごく普通の自宅で行うミニ塾です。
成績のよい子もそうでない子も、受験の子もその必要がない子も
学年もバラバラの子が同時にいて、また同じ事をすることもなるべ
くないようにという個別指導形式です。

特別な立場で書いているのではありません。

参考までに、小5週2回で月謝が2万円です。1回正味120分。
テスト以外ごちゃごちゃした追加料金はありません。
個別指導ですが一度に4人まで。(5人になることもあります)

本当は3人が私は楽ですが、月謝が高くなりすぎますし、他の意味
もあり、現在のやりかたになりました。
住宅ローンがなければもう少し安い月謝になるのですがね。

こんな程度の塾で「教えない」の実践をしているのです。

ええ、かなり宣伝をしてしまいました。
次回から、また少しずつ、できるだけ具体的に書きますね。
「教えない」以外にも書きたいことがいっぱいあって。


写真は先日アイヌ村で。観光用に作られているとは思いますが
気持のよい空間を象徴しているような小屋でした。




和差算で「教えない」

2006-08-01 10:50:50 | 教えない
「教えない」といってもイメージしづらいですか?
今回は例をあげてみます。
例ですから、分かりやすいように少し極端な
ものを書いてみます。
いつもこうだとタイヘンですが、ときどきあります。

1回きりのことをオオゲサに示すものではありません。
この個人塾の7年間には幾度もあったことです。

小学4、5年生くらいで、あまり算数が得意でない子を想定して
下さい。
その子は塾の進み方にも慣れて来て、井上は手取り足取り教えて
くれるタイプではない、と分かってきつつある段階です。
自分でチャレンジしてみて、質問しなければなかなか教えてくれ
ないようだ、という空気を少し感じているくらいです。

質問することとヘルプミーと叫ぶこととを混同している生徒には
できればその違いを教えておいた方がよいでしょう。

さて、算数のごく簡単な文章問題をやらせてみましょう。和差算
くらいが適当です。B5の用紙に1問だけです。
難易度は、和が100、差が10くらいでやってみます。

これをマルマル120分かかる生徒が案外たくさんいます。中に
は次回持ち越しなんてこともあります。
もちろん、出来る子ならば教えなくたってささっとやってしまい
ますが、少しずつリードしても時間がかかる生徒もいます。
(時間はファクターのひとつで、時間がかかるからといってダメ
 なんだと決め付けることはありません。時間さえかければ充分
 マスターし、そのあとは他の人に負けない、なんてこともあり
 ます。一斉授業では置いて行かれる危険がありますよね。)

しかし、時間がかかるということは生徒もシンドイ、私もシンドイ
「こうやる」と教えてしまう方がお互いにとってどれほど楽か!

教えてやって生徒がどんどんできる、のは忙しくても疲れません。
できないのを辛抱して見つめるのはツライものです。

全く何もしなければ、そこで止まってしまう恐れが強いですから
適宜、ヒントを小出しにしたり、気分を変える働きかけをしたり
生徒の状態に注意しながら、待ちます。
そこばかりじっと見ていたら1分でも長~いですから、こちらも
あえて目をそらすこともしなければモチません。


リードの例です。これくらはいうまでもないことですが。

1 文章問題はまず何をするのかな?
2 これはAとBを比べる図がよいですね
3 AとBはどっちが大きい?
4 比べるのだから片方は揃えると分かりやすくなるかな?
5 この図で差の部分がなかったら?
6 そこを取り去ると2つでいくらの数になる?
7 だったら1つでいくら?
8 これはA?B?
9 もうひとつは?
10 確かめてみよう

人に合わせて、もっと細かくしたり、ハショったりします。

うまく塾の流れにのっている生徒なら「分からない」と困った顔を
しながら、それでも何とか粘ります。
もしも、そういう態勢の出来ていない子に同様のリードをしても
一つのヒントで何も出来ず、あげくに次のヒントを待ってボンヤリ
と時間をつぶすだけになります。

家庭で細かくリードしようとしても、待ちの態勢の子では教え難い
のでうまくいかないこともありそうですね。

悪い方向に進むと、こちらは考えさせているつもりでリードしてい
ても、相手の脳は動いていず、それを繰り返して、結局は「考える
姿勢」を奪っている場合すらあるかもしれません。


「教えない」にうまくついて来れるようになると、次はかなり教え
ても大丈夫です。高校受験生なら中2で教えない、中3で教える、
これくらいのペースがよいのではないでしょうか。

もともと自分で考えることが出来る人には「教えない」は意識しな
くてもよいことです。相手の要求にそって教えればよいのです。


繰り返しますが「教えない」は難しい方法です。私もときどき失敗
します。ひどいときには塾を辞める生徒もでます。

自分の力のなさを痛感させられます。
どんな仕事をしているのか、その人間のかけがえのなさを把握して
いたのか、・・・がっくりきます。

月謝もイタイけど、それは自業自得。


上記は昨日と同じコタンで室内の写真です。
提がっている鮭は昔ながらの作り方をしたホンモノだそうです。
1本4千円だというので、見栄を張ってフンパツし、誰かの土産に
しようと思ったのですが、何処にも売っていなかった。
説明のオジサンの冗談だったかもしれない。


塾を辞められてしまう

2006-08-01 09:35:18 | 教えない
アクセルを踏み込みすぎて塾を辞められてしまう、の続きです。

他に表現がないので「辞められてしまう」と書いてますがあまり
好ましい言い方ではないですね。自分のことをタナにあげて、と
いう感じがするからです。

この話題「負け犬の遠吠え」みたいで書きづらいですね。
見苦しい話は嫌、と思われる方は、下の*に飛んでください。

(塾を移動する)
業界では塾から塾への生徒の移動が頻繁だとか、勝ち組・負け組が
はっきりしてきたとか言われています。

以前は、生徒がいったん通い始めた塾を辞めるということは、相当
な理由がある、と考えていたものでした。(考えるべきでした)
今はその頃に比べて気軽に塾を変わる人が増えているようです。
もちろん塾を辞める子に「気軽な判断だろう」というのは大変に
失礼な話です。自分の側の理由も考えないで。
そんなことをしていれば、仕事として長続きしませんよね。

ただ、流動性が高くなったという実感が強くなったのは10年位前
からでしょうか。自分の属していた塾自体の問題もかかわるので
世の中全てが、と言いきれるかどうかは?です。

当時のことで印象深いのは、塾を辞めるものが増えているのに塾内
には危機感がないものが少なからずおり、オジサン社員としては
不思議でなりませんでしたが、今思うと、それも流動性が高い証拠
だったのかもしれませんね。

あの頃、塾から塾へ生徒の引抜きもさかんに?行われていました。
中には協力する生徒にお金を出す、などという塾も現れる情けない
始末。「センセイ、塾に生徒つれてきてあげるから、一人でいくら
貰えるの?」と聞かれたことがあります。

いまでも似たような考えのトンデモナイ塾もあるのではないかな?

いったい子供に何を教えたいのでしょうか?

よい塾なら生徒が生徒を呼ぶ、ことも自然ですが、その逆に生徒が
生徒を呼んでいる「成長」塾には見極めも必要かもしれません。

*最近の世の中は小泉ワールド=経済原理が前面に出て経営的に成
功するのがよいこと、とされていますが、私はこと教育に関しては
それでよいのか大いに疑問をもちます。

経営を強く意識すると、教育としては「甘さ」を容認し、あるいは
それに拍車をかける恐れが強いと思うからです。
ただ、小さい所がそれを言うと「負け犬の遠吠え」なんだよね。

だから、小さな塾は辞められてはいけないのです。きちんと仕事を
するところが負けてはいけない。オオゲサにいうと日本のため!

本当は、自分にあう塾を探すのはよいことです。辞めてもいい。
けれども、そのためには業界全体が、きちんとモラルを保ち、その
上で多様性に富んだ競争原理が働いている、これが前提として望ま
しいのですが、現状はどうでしょう?
勤めていた塾からごっそり生徒を引きぬいて別の塾を立ち上げる
なんてことが成功する業界なのです。

繰り返しますが辞められてはいけません。塾の内容が問われます。
また、経営で負ければ、仕事も荒れる恐れもあります。

とはいえ、生徒が辞めるのを恐れすぎても善い仕事はできません。
甘い社会を作ってしまった原因が、その「恐れ」なのですから。
仕事としていかにあるべきかを考えなくてはいけません。

以下、「教えない」で辞められて、の弁解をするつもりでしたが
時間ギレです。本日はここまでにしますね。



教育で金儲けはよくない

2006-08-01 08:53:43 | 教えない
ブログを始める前は、もう少し身の丈にあったオトナシイ文を書く
つもりでした。それが、大きな話から始めてしまい、関連すること
もいろいろと浮かんで、ずいぶん態度のデカイ文になっています。

マンザイなどで相方に「とめてよ」という感じ。
このまま進むと何を言い出すやら。

どこかハイになるのですね。いままで不特定多数の方にモノを言う
という経験がなかったものが、読んでいただく方がいないとはいえ
いきなり全国区でモノモウスのですから、舞い上がります。

いま一番の心配は井上教室が「おそろしい、こわい、きびしい」
というイメージで伝わるのではないか、ということ。危ないねえ。

といいつつ、また大きな話。

「経営」にケチをつけたツイデです。弁解の前に大きな話をぶって
おこうという作戦。

全国の多くの個人塾の方にも賛同していただけると思うのですが
人間を教育することで金儲けはよくありません。
江戸時代の寺子屋くらいが好いのです。
自分が生きられる程度にしておけば、教育に雑念が入りません。

未来に多大な可能性を持つ人の、その生涯を左右するかもしれない
教育に関わりながら、それが金儲けの手段になるというのは矢張り
間違いです。ベンツに乗って宮沢賢治を教えられる?

もちろん「だから公教育」と直結はできません。
江戸時代の寺子屋でも人材は育ったのですから。

企業として塾を経営する側にも言い分はあるでしょう。
「自らの教育理念を広げるためには組織が必要である。そのため
には企業という形態が最も活力を生むもので、企業であれば利潤
追求は必然である。
そもそも利潤とは、企業活動のためのエネルギーであり、飛躍の
為の投資を可能にし、投資家や働く人に安定して適正な配分をし
結果、理念実現の活力を引き出すものであって、自由主義社会に
おいては、最も正当な・・」
などと言われると、黙って引き下がりますがね・・

ぼそっと「それでも教育で金儲けはいかん」と呟きましょうか。
なぜなら、金儲けは、金にならないことや、儲けを減ずることを
排除するからです。それでは教育はできません。

たとえば、ある子のために言わねばならぬことが、嫌われるかも
しれない苦いことである場合、辞められることなどを恐れて控え
る人が皆無であるような塾の存在が考えられますか?
つい、甘くなるのです。

まあ、金儲けでいえば、もともと「教えない」は儲からないやり
方でしょうから縁がありません。けれども、あまりヒトサマを
悪しざまに言うと結局ウラヤマシイんじゃないの、と思われそう
ですね。
う~ん、言えてるかもしれないのがサビシイね。


もうひとつ大言壮語。(これで済ませます)
自らの仕事を正当化するとき「ニーズがあるからこの仕事をして
いるのだ」という人がいます。
バカなことを言っちゃいけません。
ニーズがあれば何でもしていいの?

あるいは
「オレは受験請負業だ。ニーズがあるから仕事をしているだけで
教育などとは立つステージが違うのだ。」という人がいます。
どうして受験のニーズがあることが、教育を考える必要がないと
いうことに繋がるのか、理解に苦しみます。
言い訳、もしくは居直りですね。

職業として存在していれば、ニーズがあるということです。
その仕事の内容を考えるときに、前提を持ち出すにのは、ヘン。

「オレはあなたがたのようにゴリッパでないから、教育などは
 オコガマシクて」などと嫌味をいう人もいますね。
逆に「塾ごときで、教育などと生意気な」もあります。

仰せのとおりでございます。否定はできません。
でもね「だったら、教育は考えなくていいの?」


好き勝手を言いちらしてしまいました。
「教えないで辞められて」の言い訳でした。

自己弁護は気が重い。
申し訳なさを減らそうといういとではありません。

アクセルの踏み方を間違えたのは井上の方ですから生徒は必要な
ときに自分がチャレンジできる道があること。

アクセルを踏めると私が判断したということは、それなりの力が
備わってきたということでもあります。
学力悪化などではありませんから、やめて以降も力は伸ばせる。

・・というところです。


正直な感想として「教えない」は若い方には勧めづらい方法です。
難しいし、金にもならない。
ただ、何百年かけてできあがった大切な「教え方」でもあります。
理解してくださる方を増やしたいですね。
できれば子供も、ですが無理かなあ?