指示待ち人間を作ってはいけない

2010-05-15 14:32:56 | 教えない
他人に向かって指示待ちはいけないと云いながら
自分だって相当にアヤシイことです。

疑問は晴らすようにと云いつつ
何を尋ねるべきかすら分からない自分もいます。

物理の難しい数式を並べられても、さてどこまで
戻れば質問が可能になるのか・・
永遠に遡らねばならないような気になりますね。

考えても教えられても「よーわからん」という気持は
同感出来るものであります。
自分で考えるより前に「で簡単にいえばどーなの?」
ま、それもよくあります。

とはいえ、自分で考えられそうなことは、たとえ笑わ
れても努力をしたいとは思っています。。。


(考えない自分)を反省してというか、タナにあげて
子供達には、自分で解決する能力の高い人間になって
ほしいと思います。

それには最終的に(教えない)ことが重要なのですが
そのレベルに行くまでには教えつつ育てる長い時間も
必要です。

教えないを目標に教える。
もしくは
教えつつ教えない。


例えば、ナントカ算を解いてもらおうとします。
様々な課題が浮かびますね、ふつう。

* 題意がつかめない。
* 算数における日本語が了解できていない。
* 解こうとする気持ちがすぐなえる。
* 図が描けない。
* 別の手法を試せない。
* 式を書かない。
* 答えの確かめをしない。
(常識とチェックできない)
* 単位に注意が向かない。
* 計算ミスをする。
* 字が汚い。
* なぜこういうことをしたか説明できない。
 「これを2で割ってるね?どうして?
  何をしたかったんだろう?」
 「・・・・」←本当に分からないのです。
        なんとなく2で割ったらしい。
などなど、他にも多くあるはずですが
その羅列は別の機会に譲ります。

問題に当たってもらうと上記の課題が一度に
複数見つかることも多いですね。

たとえ時間に余裕があっても複数見つかった課題に
一気にすべて触れるのは良策ではないと考えます。

それらの多くは長い間解決できないで続いてきたもの
ですから、それをいくつもいくつも指摘され
気分が良かろうはずはありませんし、一気に解決を
みることでもないでしょうから。

よって一つ二つの課題に焦点をしぼることになります。
それもごく短時間で決定しなければ。

その時点でより根本的、あるいは急ぎの課題が優先して
対処されるべきでしょうが、どれを対策すべきか
瞬時には迷ってしまうこともありますね。

そこからがプロの腕・・かなあ?

継続という問題もあります。
いっぺんには直りそうもないことばかりですから。

継続して問題を追っかけながらほかにも多くある
課題にも手をつけないといけません。
塾では一年、二年すぐに経ってしまいます。

でも究極の目標は「自分で考えられる人間」

すぐに教えて分かってもらうことは簡単ですが
その子のためと言うより自分のために教えている
ことが多いのではないか?

必死で教えていた昔の自分を思い出すたび
取り返しがつかない苦いものが浮かんできます。

「教えない」で「責任感」を

2010-02-27 20:54:01 | 教えない
一定の責任感がなければ勉強がいまひとつ伸びない
ということもありそうです。

もちろん「逆、必ずしも真ならず」
勉強ができないから責任感がない、とは云えません。


無責任だと、勉強が適当になります。

たとえば、確かめなどもしないでしょう。
やる気も持続しません。
競争しても途切れます。

宿題ができなくても平気
自分の実力が発揮されてなくても平気
覚えるべきことを覚えられてなくても良心はとがめません。

「無責任」という言葉はオオゲサかもしれません。
「テキトウ」かもしれないですがね。


「あれ、おかしくないかい。どうやってこうなるの?」
「さ~?」

私はこんな場面で(無責任?)と思うのです。
もちろん色んな「さ~」がありますからすべてを
無責任と思うわけではありません。

現在の日本では教え方のハウツーが進歩しており
丁寧に、分かりやすく、あきないように、教えてくれます。

でも、受け取る側の中にはそのことによって
自分で考えることをせず、自立しない分、一種の無責任
が生じているように見えるのです。


社会による影響もあります。

ハングリー精神が満ち溢れる社会では、やる気も起き易く
責任感が育ちやすいと思います。

大人、他人とのかかわりによる影響もあります。

「~は当たり前」という気持ちが責任感に結びつきますね。

宿題位するのが当たり前でしょう、という子なら
成績は伸びますよね。


スポーツをすることは勉強にプラスでしょう。
もちろん無責任な子もいるでしょう。
ただ比較的責任感が生まれやすいですね。

その責任感が勉強によく作用するのです。

もちろんスポーツで勉強に割く時間が減りますから
練習量の確保には気をつけなければなりません。

とはいえ一定以上の量をする必要はありません。


人により必要量は違うはずなのに、一斉に宿題を出す
ことが普通になっている日本はヘンですよね。

ムダやオーバーワークをひきおこします。

ただ保護者の方はたくさんの宿題が出ていると安心される
傾向が強いようです。

塾の中にはそれを逆手にとって、オリジナルプリントなる
ものを思いっきりだす処が多いようですね。
(どこがオリジナルなんだか・・)

使いこなせなきゃ意味がないのに。

塾の責任転嫁に役立つこともあります。

「これだけやってくれないと」
「覚えさせてください、さもないと通りません」

覚えてくれれば、目先の点は上がりますが
いつまでも受け身でよいのかなあ?


社会全体が無責任だと、子供もそうなりやすい?

省エネ、とか口先で云いつつ実行が伴わない社会で育つ
子供に責任感を求めるのは無理というものですね。

悪戦苦闘する背中を見てもらうのがよいのですが。


話がずれてきました。

(教えない)の世界では自立心が育ちやすく
責任感が強くなるものですが、その話は別の機会に。

(・・タイトルに偽りありですかね)

「教えられる」から「教えない」も可能

2010-02-23 22:04:19 | 教えない
ご家庭で「教えない」を段階的に導くことは難しいでしょう。
塾や学校の先生をなさっているとか、教える技術が
格別の方なら別なのですが。

もしも「教えない」という世界を塾などと協力して
子供に身につけてもらおうとするならば、思い切って
「塾に云われたから、家では一切教えないことにする。
すべて塾で聞いてきなさい。」と子供に諭すのが
間違いが少ないと思われます。

なぜならば、「教えない」を導くためには
「教える」ことが十二分に出来なければならないからです。

(こう書くと「ふ~ん、あなたはずいぶん自信がおありで」
 と云われそうで恥ずかしいのではありますが、少なくとも
 業界で数年しかキャリアがない、なんて人には大変に難しい
 教育法であるのは間違いありません。
 急いで付け加えますが、キャリアが少なくても上手い人も
 おられます。絶対数が少ないだけで。)


ときおり診断が的確でかつ早いお医者さんがおられます。

一目見るなり「あ、これは」と言い当て我ら患者は驚くのですが
よほど勉強され、また経験を積まれていることが分かります。

それと一緒にしてはお医者様に叱られますが
塾も長い間やっていると「あ、この生徒はここで躓いている」
とすぐに分かるようになります。

色んな教え方に通じ、生徒とのやりとりを重ねしているうちに
ストックが増えるのですね。
教え方も上手になろうというものです。

勿論、瞬時に「処方」ができなくてはならず、加減も必要です。

(白状しますが、私は教え方がそれほど上手ではありません。
 前の塾にいる時は「オレほどの奴はいまい」と勝手に
 うぬぼれていたのも事実ですが、根拠のない自信で・・)

ま、私個人はさておき、仕事を一生懸命にやっていれば
技能もあがりますから、その段階になって初めて「教えない」に
挑戦できるのです。

会社にお勤めなどのお父さん、お母さん方は教えるにしても
一つか二つの方法論しか持ち合わせがおありでない・・
ということが多いのではないでしょうか。


またね、「教えない」ってシンドイんですよ。
(教える)ほうも、(教わる)ほうも。

一直線にそればかりやってたら疲れ果てますから。

(壁を越えるべきときには、それもアリに変わるので
 人により大変につらい時期がくる場合もあります・・)


それから比べると「教える」って何と楽なんでしょう。

子供も喜びますしね。
「塾で分かった!出来るようになった!」
教えてあげる方もうれしいものです。

「なんでウチの子に教えないんだ」と保護者から
お叱りを受けることもありませんし

上手に教えてみんなハッピー、は今の日本向きです。

が・・

長いスパンでみてスポイルしていないことを願うばかりです。

(↑これも、以下のことを申し添えますが
 つねにスポイルしている、などというわけではありません)


話題が変わりますが
西広島タイムスに乗せたEメイルが今使えません。

申し訳ありませんが、もし資料請求などがおありの時は
電話を下さるよう、お願いいたします。
お手数で恐縮です。

段階的に「教えない」

2010-02-22 21:57:53 | 教えない
子供「かーちゃん、分からん」
親「自分でやんなさい」
これが少し前までの(標準)・・かな?

現在は・・

お子様「ママ、分かんな~い」
お母様「どんなこと?ママに見せて。」
あるいは「塾で聞きなさい!」・・かな?

塾では「家で教えないでください」とお願いするところも
増えていると思いますね。
私も以前は「なるべく教えないでください」とお願いして
いましたが、最近は多少ゆるやかになっています。


子供によれば、分からなくてもじーっと黙り込んだまま
などという子がいますから「分からん」のサインが出ることは
それだけでも進歩といえることがあります。

自分から分からないと云わなければ教えてはもらえないと
早めに身につけさせる必要がありますね。

次の段階では、いつまでもすぐに「分かりません」だと
依頼心が強くなり自分で考えようとしない恐れがあります。

そうすると「すぐに分からないと言ってはいけない」という
ことを理解してもらう必要が出てきます。

ただ、それを分かってもらうのは大変に難しいことです。

「何をどう考えたらよいか」すら分からない人もいます。
冷たく突き放すだけでは今の時代に合いません。

少しずつ、行きつ戻りつ、様子をみて、深めるのですが
ある場合にはプレッシャーが必要なこともあります。

もしも、「ママ、これって、何々となるはずなんだけど
少し変なんだよね。何故だろう」などと言ってくれると
ありがたいですねえ。

こちらが「どう考えたの教えて」と云えるところまで
小学生では行きたいものです。
(あくまで目安として、ですけれども)

難しい話ではありますが、ここまでくれば入試にも強い!

ただし、入試のために「教えない」のではありません。

またその反対に、人により状況により入試を優先させて
「教えない」は別の機会にという選択も十分にありえます。


中学は人としての自律性を高める時期です。
自我も格段と強くなります。

「分かりません」とは云いづらい、少なくとも
友達などに聞かれたくないという心理になりやすく
質問ができないまま時間がたつこともありそうです。

時間に余裕がある場合は、もったいないですが
一見無駄な時間も必要になるでしょう。
悩んでいても・・教えない!

結局、自分から適正な質問ができなければためになら
ないと骨身にしみてもらわねばならないのです。

恥ずかしさより大切なことがある、
叱られても聞かねばならぬこともある、
これが身につくと有り難いですね。


私「○○くん、ン頁を開いて。
  今日からはこの単元に入りましょう。
  自分で説明を読み質問がなければ、演習!」

予めの説明は一切省きます。
早ければ中2の途中にここまで進む子もいますね。

慣れてくると生徒がこぼします。
「何にも教えてくれん」

さすがに「それで月謝を取るのはエグイ」とまでは
云いませんが、蔭ではどうでしょう?


云わずもがな、ではありますが上記は一つのやり方
です。
それが合わない生徒だっています。

私が(効果がある)と考えるだけの話ですから、
生徒に無理強いしてもよろしくありません。

合わない子はこんな塾とはかかわりをもたねばよいので
そこが学校と違う「塾の強み」です。

大騒ぎ 一位逃して 銀と銅

2010-02-19 18:18:51 | 教えない
すごいですね。オリンピック。

私はライブをほぼ見られませんがニュースなどでも
真剣勝負のすごさが伝わります。

今、中3だったらオリンピックは見たいし
受験勉強もしなきゃならないし
つらい時でしょう。


それにしてもちょっと騒々しくありませんか?


本日は風が冷たい広島でした。
『早春賦』そのままですね。

TVではバンクーバーからライブ中継をしているであろう頃
いつもより早めでしたが、八幡川に散歩しますと
初めて見る野鳥の群れがいました。

映画『オーシャンズ』のCMでイワシか何かが水中で縦に渦を
巻くように泳いでいるシーンがありました。

それと良く似た光景を鳥が空中で繰り広げているのです。

ものすごい勢いで渦をまいたり、散らばったり
上下に波をつくるように飛ぶさまは、長崎の龍踊りを
ハイスピードにしたような爽快さです。

なんだろう?
鋭そうな羽、カモメくらいの大きさで
鳴き声はせず、羽が空気をきる音がササーと聞こえるばかり

五輪のフィギュアもすごいけれど、後刻TVで何度でも
見られます。

この百羽ほどの鳥のフィギュアは広島ではそうは見られない
ものではないでしょうか。

早めの散歩にでかけて良かった。

(五輪LIVEも本当は楽しみたい・・)


タイトルの川柳もどきは、別に金メダルでなくてはならぬ
というつもりではありません。

何位だろうと素晴らしい結果を出したという人もおられる
でしょうし、力が全く出せなかった人、
あと一歩!惜しかった人
さまざまでしょう。

良く頑張った、というコメントばかりTVから聞こえますが
それと同じくらい「やるからには金メダルをとれ!」があっても
よいと思うのですが、どうなんでしょう。

すべての選手がオンリーワンで楽しめたらよいわけ?
(出るだけでスッゴイとは思いますけれど。 でもね。)


ナンバーワンとオンリーワンと
語呂がよいので二者択一のように扱われます。

私はこの選択自体に問題があると思います。

もともと世界が違うもの、次元が違うもの、なんです。
したがって二つは同居もできるのです。

オンリーワンの自分を大切にしながら、オリンピックでは
ナンバーワンを目指す、それの何が悪いのでしょう?

ナンバーワンを目指していながら、結果が叶わなければ
オンリーワンって旗を持ち出してきたりすると・・


勉強でも同様です。

勉強ができない子も現実には居るでしょう。
勉強だけが人生ではありません。
自分らしさ、オンリーワンで生きることが大切です。

でもだからといって大勢の生徒が自分にとっての上を
目指して、ナンバーワンになろうかという勢いで勉強する
そのことも大切なことなのです。

「都合良く手抜き云い訳オンリーワン」・・字余り

オンリーワンを持ち出しては甘くなる、というのは
そういう意味です。

勝てる相手には力を発揮できるが、対等以上になると
もどかしい試合しかできないどこかの国のサッカー
なども似てやしないかなあ?

ナンバーワンへのガッツが何より優先する世界なのに
2流の大会、本番への準備と思い込んでる情けなさ。

(それを見抜けないから二流監督なんだけど
 彼にいま以上を求めるのは無理でしょう。)


個々人をいうのではなく、全体をとらえて
日本の学力って大丈夫と思われますか?

「教えない」のココロ

2010-02-17 18:39:05 | 教えない
塾の営業に反するようなことばかり書いています。
これは(いつかもこのブログに書いているはずですが)
自分の考え方を相対的に捉えていないと
塾で生徒に接する時に却って危険だと思うからです。

自分にはこういう考えがあると認識し
それは伝えてよいことであるか、
偏っているかもしれないので注意して触れないでおく
べきか、そういう事を普段から繰り返して考えないと
自分の原理原則がブレたり、無意識に偏った話を伝え
子供をミスリードするおそれがあるからです。

別にブログで自分の名前を出して書かなくてもよいの
ですが、そうしたほうが私は責任がはっきりすると
思います。

また、営業に障りそうな事はハナから触れないでおく
という今の日本の営業に良く見られるセコイ姿勢に
不満を感じているからでもあります。

(本当は自分ちで細々とやっているからできる話でも
 あるのですけれども)

少し前に「○○党の寿司屋へ行くか」と書きましたが
学校や塾は「偏ったことは教えてはいけない」という
ことから先生自体に(偏った考え方)はいけない
という妙な短絡が流行っていることへの反発もあり
ます。

生徒に個性を持て、自立せよ、自分の意見を大事に
なんて教える先生に個人的意見がなくてはヘンでしょ。

ただ、こんなブログのまねをされるような塾はないとは
思いますが、ご覧になって分かるように、今の日本では
絶対的に反営業的行為になりますから
くれぐれも真似などなさいませんように。
(私は隠居仕事だから頑張れるのです。
 人間、ビンボで構わないと思ったらつおいですよ。
 ただしカミサンには頭が上がらなくなります。)

前置きというか自己弁護が長くなりました。

教えない、といってもいまの子供に急には実行できません。
時間をかけて最終的には教えないで済むレベルに上がって
もらうことが目標ですが、以前と違って難しさが、より
増してきているように思います。
(つまりこういう塾の必要性もある、と)

・・そんな話でよろしかったら明日またお読みください。

浜本家の教育はあれで良かったか

2009-10-29 11:09:17 | 教えない
ええ、もちろん『ウェルかめ』話です。

それにしても浜本波美のキョーイクは
どーなっとるんか。
あれでは浜本家の教育が疑われる、、かもねえ。

実社会でまったく役に立たない、はっきり言って
部下には欲しくないパタンです。

頭が固い
空気よめない
反省できない(落ち込んではいますが)

色々な会社から断られるハズですよね。

それに比べると現代の若者たちはしっかりしている
のでしょう、たぶん。
少なくともあんなドジは淘汰されて、ね。。。

で、ですね
浜本さんチの教育はどう評価できるか。

へこみながらでも、それでも上を目指していける
こんな人間を育てることが本当の教育。
であるならば、あれで良い!

だって、社会に出て即戦力になってるといっても
そこからの伸びがない場合も多いじゃありませんか。
(そこそこはこなす)が肝心なところに届かない。

分ったふうなことを口にはするが
実際にはよくみるとただの指示待ち人間ばかり・・

(自分のことを棚にあげての話です)

こういう大人が多いのでマニュアルだのシラバスだのが
必要で、前例主義・官僚主義が横行するのです。
自分で悩もうとしない、責任をとらない。

「そんなことをされると、責任持てません」
ガッコのセンセがよく口にしますよね。


そういう人間を作らないことこそが教育だと思いますが
皆さん、いかがお考えになりますか。

浜本波美さんも、新しい教育に毒されてはいますが
家族その他の教育もあり、感化というか、人育て、です
ね、それゆえ伸びシロがとても大きいのです。

そういう人をこそ現代日本が受け入れるべきなのです。
また、沢山育ってもらわねばなりません。

では、育て方にどういう方法論があるか。

その一つが「教えない」
見守ることです。
シンドイですけれどねえ。

ドラマですから仕方ないものの
カメヘンロは、あれで少し教えすぎであります。

個別指導でも・・

2009-05-11 10:59:15 | 教えない
小中学校でも少人数個別指導が取り入れられています。

少人数授業、教員の複数化、習熟度別編成、個別指導
以前より随分と細かな指導体制が整いつつあります。
各方面の努力のおかげでしょう。

これらをしなかった時よりは救われている生徒も多い
でしょうね。
もちろん、それだけで100%の教育方法が出来上が
ったわけではないでしょう。

もしかすると、こういう体制でなかったほうが有難い
生徒もいるかもしれません。
かなり細かい調査をしないと分りにくい事ですが。

ですから次の話は頭で考えているだけの事なのですが
一斉授業と個別とを一つの空間で並行して行うのは
リスクも存在するかもしれません。

あからさまに「できない子はあちら」の空気が漂う
おそれはないでしょうか。
あなたは出来ない組ですよ、と染め付けることを
教育で行うとは。
しかも、税金を使っているのです。

(教員は一般に「染付け」に関して結構鈍感です)

芸術とか運動を教えるならば能力別編成もやむを
えないこともあるでしょう。

絵が下手だからといって生きることに致命傷には
なりませんから。
劣等感もやむをえないかもしれません。
良いことじゃないけれど下手なのだから仕方がない
のです。

読み書き算盤はそうはいきません。
生きることにかなり深く関係してきます。
出来ないから仕方ないとは言えません。

(勉強が唯一大事などとは申しません。
 勉強以外に大切なことも多いのですが
 それはまた別の話です)

生きる上でどうしても身につけておきたい勉強
で不要な烙印を押されるとしたらどうでしょう。
しかも学校という大きな存在場所で。
人生を歩み始めたばかりの時期に。


クリス・マクマナスがBLUE BACKS『非対象の起源』で
アーヴィング・ゴフマンの「スティグマ(烙印)」
という概念を引き、左利きすら烙印になりうる
と書いています。
ならば「勉強できない」は怖ろしい烙印に
なりえますね。


リスクマネジメントに関してこういう調査があったと
本で読みました。
アメリカジョージア州で運転免許の取得方法と事故率
の関係を調べたのです。

すると、最新の安全ドライビング教育を受けて運転
免許を取った人のほうが、親に教わって免許を取った
人よりも、事故率が高かったのです。

これは示唆的な話で、いくら良い教育施設であっても
親からの教育は欠かせないということに繋がります。


朝日新聞に先ごろアルゼンチンサッカーにマラドーナ
のような選手は二度と出てこないだろう、という記事
が出ていました。

なぜか?
ストリートサッカーをしなくなったからです。

劣悪ともいえる環境でボールを蹴る方が
環境が整ったクラブで育つよりも良い選手を
育ててくれるのです。

ある程度に育つまではボールもシューズもピッチも
平凡なままがよいのではないか、大人から見て申し分
のない環境を作る事は却って良くないかも知れない。

選手の育成に先進的なサッカーでこういう考え方が
出てきていることは驚きですね。


昨日の小三治師の話も上記と同様の感触から書かれた
ことではないでしょうか。

自分の足で立つためには、あまりに良い環境を整え
すぎては逆効果になるかもしれないのです。

手取り足取りしてひ弱な人間に育てるよりも
人に合わせた一定程度のストレスをかける必要が
あるのではないか。
独り立ちできるように。

最後は、親も師匠も誰も助けられないのですから。

そのストレスを人に合わせて状況に合わせてかける
ことが教育でもっとも難しいことで、愛情あふれる
親の理性的な対応が一番なのです。

私に縁なき天才話

2008-06-21 11:42:13 | 教えない
数学となればわが藤原正彦先生にもご登場願いましょう。
数学のエライ先生でもありエッセーも面白い方。
皆様、ご存知の通りです。

『心は孤独な数学者』新潮文庫(平成13年)
これは数学の天才3人について書かれた本ですが
中でもシュリニヴァーサ・ラマヌジャンについて
が圧巻です。

1887~1920若死にしたインドの薄幸な超天才。
10歳にして微積分をマスターしたそうです。

藤原先生はこの程度の少年はいつどこの国にも
いるものだ、と書かれています。
しかしラマヌジャンはここから先が違った。

どれくらい天才で、どれほどドラマティックな生涯
であったか、本をお読み頂くしかないですね。
計り知れない神秘的な頭脳であったそうです。

昨日のシンと違って藤原先生は数学の内容については
細かく触れておられません。
ご同業だから簡単には話せないのでしょう。

もっともウェブサイトでラマヌジャンの数学の説明を
見ても私には何がなんだか・・・


もう少し普通の人間の話に下りましょうね。

ラマヌジャンも10歳のとき大学生に微積の手ほどきは
受けたそうです。
将棋の羽生名人だって初めは教わった。

天才は手ほどきだけで良いのでしょう。

普通の「出来る人」はもう少しリードが必要。

東大生の何割かはその「出来る」にも値しないらし
いですが、まあ、出来る人も大勢おられます。
その出来る人には教えて構いません。
自分で考えてくれるから。

もちろん東大、京大以外でも大勢おられるハズです。


出来るレベルにいなければ「教えない」レベルで
勉強してもらい、次に「出来る」ステージへ上
がってもらえばよいのです。

決して「出来る才能」が生まれついて決まっている
わけではありません。

天才は別でしょう。多分。
お付き合いさせて頂いたことがないので推量です。

その下はみんなチョボチョボです。
世間が思われるほどの差はないのです。


ある程度数の人間が並んでいると比較しやすいので
高校受験の段階で既にこの生徒がどの大学レベルか
およその見当がつきます。

模試の偏差値には差がありますし、授業の手ごたえも
違います。
東大京大レベルと広大レベルではハッキリ違います。

ただ、少し離れてみると力はそんなに違いません。

計算が速い者、暗記にすぐれた者、そういう個人差は
結構大きいのですが、ただそれだけです。
そのテの能力だけで上の学校にゆくと止まります。

東大を出て、大したことない(失礼)の居ません?

差が大きくないのですから、段階を踏んで上にあがる
ことは十分に可能です。
諦めたらオシマイ。

逆に出来ると思っていた子が、二十過ぎればただの人
というほうが難しいですね。
君はこういう問題があるといっても分かりませんから。


諦める以前に、力があるので「キミは出来る」と言っ
ても信用しない人は結構多いものです。
「それって塾の営業でしょ?」

私が言うから信用できないのかも。

でも、信じていただけないと伸びませんね。

保護者の方も信用していただけないことがあります。
「調子の言いことばかり・・
 うちの子がそんなにできるわけありません。」

まずご自分の子供を信じることからなのですがねえ。

出来ない子こそ「教えない」

2008-06-15 11:48:26 | 教えない
出来る子には教えてよいのです。
できない子には教えてはいけません。

自分で出来る子は頼りません。
周りからの口出しは邪魔です。
「今、考えてるからごちゃごちゃ言うな」

同じセリフを吐いて、考えていない子もいます。
考えていると言いながら、本人もそのツモリながら
実は考えていない子の何と多いことか。

顔をゆがめ、髪をかきむしり、「う~ん」・・
しばらくすると助けを求めます。

ここで「教えてはいけない」が大切になるのです。

上記の(苦慮)が助けを求める儀式になっている場合
があるのです。
安易に教えると相手の(作戦)に乗りかねません。
子供はそのツモリではないので、きつい表現ですが。

大人の側が勘違いすると結局子供のためになりません
から注意が必要です。

考えるとは、理屈を操作し、発展させ、場合により
飛躍させることです。
決してデタラメにうろうろすることではありません。

「やりかたを忘れた」というタイプは要注意。


そうではなく自分で考える子がいます。
本人がヒントを求めれば教えてやります。
次々と深く教えてもかまいません。


北島康介はLZRが泳ぐのではない、
泳ぐのは自分だ、と言っています。

神尾真由子はストラディバリウスが鳴るのではなく
弾くのは自分だと言います。

二人ともまったく同じですね。
自分が確立しています。

神尾はブロン先生に教わります。
でも、先生が言うことを聞かないこともあります。
負けず嫌いで、我が強い若者です。
・・なんて可愛い生徒でしょう。
(言うことを聞かないのに可愛いのは自己をきちんと
 持っているから。チャーミングなのです)

ブロン先生は一生懸命教えます。
「いちいち細かい煩いジジイ」らしいです。

プロを教える現場というのは見る機会がない
のでとても面白いTVでした。
先生の愛情が一杯あふれています。

教え教わる人間関係のとても幸福な例です。

極端な話を出しましたが、
出来る子には教えてよい、ということです。

(昨年7/2,10/20,21に神尾さんの話があります)


繰り返しますが、多くの子には教えてはいけません。
それは特に大人の側にエネルギーが要ることです。
片手間のバイト仕事ではできませんね。