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kan-haruの日記

イベント 横浜・開国博Y150 これまで見た博覧会と比較して見る(その2)

2009年10月13日 | イベント
kan-haru blog 2009 浜名湖花博

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首都圏での宇宙科学博覧会
1970年の万国博が開催されてから、首都圏での地方博が1978年に東京埋め立て地の有明13号地で「宇宙科学博覧会」(宇宙博 SPACE EXPO’78&’79)が宇宙博覧会協会の主催、財団法人日本船舶振興会(日本財団)の特別援助で開催され、会期は第1期が「宇宙-人類の夢と希望」をテーマにして1978年(昭和53年)7月16日から翌年の1月15日間と、第2期は国際児童年に当り「宇宙-人類の夢と希望、わが子への愛を世界のどの子にも」をテーマにして同年3月24日から9月2日まで行われました。
戦後初めて東京で開かれた博覧会であるので、父と子、孫の3代で揃って見に行きましたが、出かけたのは何時の時期かは記憶に残っていません。アポロ宇宙船やロケットの展示を見て、宇宙時代への進展(「ITと技術 筑波宇宙センターとサイエンス・スクエアつくば見学 その1」参照)に関心を持ちました。

 宇宙科学博覧会が開かれた埋立13号付近の1979年の航空写真(国交省オルソ化空中写真システムを活用)

博覧会のパビリオン(宇宙科学博覧会Wikipedia参照)は、日本館、アメリカ館、アポロ劇場、宇宙博ホールの4館と船の科学館(イベント 船に関する知識の宝庫 「船の科学館」参照)3階展示ホールの展示場に、ロケット広場にサターンIB、レッドストーン、アトラスなどのロケットが展示されました。また、日本万国博覧会で人気のあった月の石や月面活動の道具などが展示され、画面の展示はアポロ館で360度のパノラマスクリーンでアポロ月面着陸の再現画面と、宇宙博ホールで高さ23m、幅30mのスクリーンに「人は大空へ」の映画が表示されました。
博覧会の入場者数は第1期が550万人、第2期が570万人(日本財団公表)で、予想をはるかに上回りました。

 宇宙科学博覧会(日本財団出典)

国際科学技術博覧会
国際科学技術博覧会(つくばEXPO’85)は、茨城県のつくば市で1985年(昭和60年)3月17日から9月16日までの期間開催された国際博覧会です。博覧会の組織は、皇太子明仁親王(今上天皇)を名誉総裁に、土光敏夫会長の組織で財団法人国際科学技術博覧会協会が主催し、「人間・居住・環境と科学技術」を統一テーマとして開催されました。
博覧会の会場(国際科学技術博覧会Wikipedia参照)は、つくば市御幸が丘のメイン会場と同吾妻のサブ会場の102ヘクタールに展開し、メインの第1会場はAブロックからGブロックに区分けして国内パビリオンは28館と、その他外国館や関連機関のパビリオンや広場・遊園地などの52の展示場が造られました。

 つくばEXPO’85の見学1985年6月

会場へのアクセスとして、国鉄常磐線の牛久駅と荒川沖駅間に臨時の万博中央駅が設置されましたが、13年後の1998年にひたち野うつくし駅が開設されました。また、HSST方式のリニアモーターカーのデモ運行が行われました。
博覧会の総入場者数は、2033万4727名を記録しました。博覧会には個人で出かけ、そのひとつは開催前の3月に所属する団体で、開催準備中の万博会場を見学しました。

 つくばEXPO’85の施設見学1985年3月

横浜博覧会
横浜博覧会YES’89は、横浜みなとみらい21地区(69ヘクタール)で1989年に横浜市制100周年と開港100周年を記念し、横浜博覧会協会の主催でテーマを「宇宙と子供たち」(21世紀の展望)と掲げて、1989年3月25日から10月1日間にわたり開催され、総入場数は1,333万人でした。

 みなとみらい地図

博覧会場へのアクセスは、桜木町駅からは動く歩道で桜木町ゲートまで約3分で着き、山下公園から1911年に開通の貨物線を利用して桜木町ゲートに近い日本丸駅まで気道車が運転されました。また、横浜そごうからゴンドラが運行してゴンドラゲートまで往復していました。その他、各地からのシーバスやシャトルバスが運行されていました。さらに、HSSTが日本初の磁気浮上式鉄道の営業運転や、羽田空港からヘリコプターの定期便就航など各種の交通手段が動員されました。
博覧会のパビリオン(横浜博覧会Wikipedia参照)は、YES’89宇宙館(横浜博覧会協会)、横浜館(横浜市)など30館を数えます。
横浜博覧会には、九州からお客さんが来て案内して、現在の観覧車のある付近を歩いたとの微かな記憶があるのですが、横浜博に関しては写真などが見当たらずそれ以上は想いだせません。

浜名湖花博
浜名湖花博は、浜名湖ガーデンパーク(現浜松市西区村櫛町)の約56ヘクタールの会場で秋篠宮文仁親王が総裁を務められ、日本花博の3回目で次項の日本国際博覧会の宣伝の役割も持って、2004年4月8日から10月11日まで開催して約544万人が来場して成功をおさめました。

 浜名湖花博会場地図

博覧会の会場(浜名湖花博Wikipedia参照)は3つのゾーンがあり、1つは「花の街」でワールドガーデンコンベディション、KANSAI SUPER GARDENNなどの11の庭園やパピリオンがあり、2つ目は「水の園」できらめきタワーや水辺の劇場などの展示場があり、3つ目は「緑の里」で昭和天皇自然館や花の美術館などの7展示館があります。
花博の見学は、5月23日に行きましたが、新幹線に乗っている間じゅう雨が降り続いていましたが、浜圧駅からのシャトルバスで会場につくと雨は殆ど止んで何とか博覧会会場内を歩いて廻りました。印象に残った展示は、フランス・ジヴェルーにあるクロード・モネの家と庭園の再現が花博にマッチしていました。

 浜名湖花博会場

日本国際博覧会
日本国際博覧会は、略称は「愛知万博」、愛称が「愛・地球博」の国内2回目の国際博覧会です。会場は、愛知県愛知郡長久手町の長久手会場(約173ヘクタール 愛・地球博記念公園地図参照)と瀬戸市の瀬戸会場(約15ヘクタール)の2会場で財団法人2005年日本国際博覧会協会の主催で、テーマは「人と自然が如何に共存していくか」を掲げて開催されました。入場者は、2,204万9,544人で目標の1,500万人を大きく上回りました。
愛・地球博への参加国は日本を含めて121カ国、4つの国際機関には国連本部と国連関係機関33が参加しました。
日本国際博覧会には、孫夫婦と2家族で6月15日に新幹線で日帰りの見学をしてきました。当然のことながら、日本万国博覧会と同様に人気パビリオンには待ち時間が2時間を越えるのがざらでそこは避け、121カ国も参加していますので比較的空いているパビリオンに入り、いろいろな国の人と展示品に触れてきました。

 日本国際博覧会パビリオン

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イベント 横浜・開国博Y150 これまで見た博覧会と比較して見る(その1)

2009年10月11日 | イベント
kan-haru blog 2009

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東京の隣りの横浜で開催が行われた開国博Y150に、閉幕直前のシルバーウイークの9月21日に見てきました。
博覧会の出会いは、大戦後の間もない1949年(昭和24年)の地域・社会の復興活性化のひとつとして、神奈川会場と野毛山会場の二ヶ所の会場で3月15日から6月15日まで開催した日本貿易博覧会を、高校一年の時に学校から集団で見学したのが始めての博覧会との出会いです。
横浜での博覧会は、その後現在のみなとみらい21地区で1989年(平成1年)3月25日から10月1日まで開催したYES’89横浜博覧会とともに、今回で横浜博覧会は3度目の見学になります。

60年前の初めての博覧会見学の想い出
初めての博覧会見学は、日本貿易博覧会であり丁度60年前のことですので、記憶は薄れており博覧会の印象はあまり残っておりませんが、戦後4年目の復興期で戦争中は殆ど民生品の生産は出来ない時代から、平和に向かい日本は工業品を輸出して復興を目指す時代でしたので、現在のそれとは全く異なる博覧会で日本の企業がこれぞと各種の民生品を生産して、その製品を展示するのが主体で、貿易博覧会(当時の絵はがき)と銘打ったものでした。
当時の各種の製品は、種類は数多く生産されるようになり安価でしたが品質は良くなく輸出先では不人気でしたが、今日では高機能・高品質の製品で世界の目を引くように変わりましたが、さらに時代は進み後進国に追いあげられるようになりました。
博覧会の見学は、当時は工業系の学生でしたので沢山の種類の製品には、関心があり特に、『高柳式テレビジョン 』などの一般公開展示品には大変と興味があり感激した記憶が想いおこされます。
博覧会後の神奈川会場は現在反町公園として利用されており、会場近くの東急電鉄東横線線の東白楽駅と反町駅間にあった戦災で廃止されていた、新太田町駅が博覧会のため1945年3月から6月まで「博覧会場前」として一時復活しましたが、2004年の東横線地下化工事により現在は消滅しました。学校からの第2会場の団体見学は、京浜急行電鉄の「神奈川駅」を下車して、現在の第2京浜国道から会場まで行きました。

 貿易博覧会第2会場の現在の反町公園地図

博覧会第1会場の野毛山会場は関東震災で大きな被害を受け、日本庭園、西洋庭園、折衷庭園の3様式を持った公園を建設して1926年(大正15年)に一般公開しましたが、戦後は1947年まで米軍に接収され、その後の接収解除で博覧会が開催されました。博覧会後は、日本庭園の部分が動物園になり、様式庭園部分に児童遊園が造られ、「野毛山遊園地」として開園しました。

 貿易博覧会第1会場の野毛山公園地図

日本初の万国博覧会 EXPO’70
今から39年前の1970年の安保闘争の年に、大阪府吹田市千里丘陵で日本初の国際博覧会(約350ヘクタール)が3月14日から9月13日間に、財団法人日本万国博覧会(公式サイト)の主催で開催され、77カ国4國祭機関が参加して、太陽の塔をテーマ館とし、テーマは「人類と歩調」を掲げ、参加展示館は国際館が57、企業館他が30、その他8の展示が行われ、話題の展示品はアメリカ館のアポロ計画で持ち帰った月の石が人気を博しました。会場跡地は、現在万博記念公園として残されています。


博覧会の総入場者数は6,421万8,770人で、入場目標の3,000万人を遥かにオーバーし、万博史上最高を記録しました。
万博記録動画(約13分 独立行政法人日本万国博覧会記念機構大阪万博 YouTube)
日本万国博覧会の見学は学友グループの6組の小学生、幼児の親子で7月に出かけました。


ホテルは予約が困難なため大阪市内馴染みの旅館に泊まり、数時間待ちの人気パビリオンは小さい子供には無理なので見送り、空いているパビリオンに入り万国博覧会の雰囲気に触れてきました。


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イベント 歌舞伎観劇 さよなら歌舞伎座九月大歌舞伎

2009年09月30日 | イベント
kan-haru blog 2009

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今年も恒例の母校の歌舞伎観劇会の催しがあり、9月13日の歌舞伎座さよなら公演九月大歌舞伎夜の部を見てきました。昨年の観劇会は都合により見に行けませんでしたが、ブログ開始以来3回目の観劇であり、今までみた歌舞伎の観劇は第一回(2006年)第二回(2007年)の秀山祭九月大歌舞伎の夜の部でした。

 さよなら公演九月大歌舞伎

来年取り壊される歌舞伎座の歴史をホームページから見ると、1889年(明治22年)に初代の歌舞伎座が造られ、第二代の歌舞伎座は1911年(明治44年)に大改築が行われ、1924年(大正13年)に第二代の建物が焼失により耐震耐火の桃山時代の様式で竣工し、1945年(昭和20年)の空襲で外郭を残して消失したので、1949年(昭和24年)に現在の歌舞伎座が竣工しました。平成14年に登録有形文化財に指定された現在の歌舞伎座は、舞台間口が15間(約27.6m)、廻り舞台直径が60尺(約18m)でセリが4か所で、観客席は桟敷や一幕見席を合わせて2000席です。

 さよなら公演もあと残り230日

観劇会は、お弁当が付いて一般料金よりやや安く、イヤホンガイドの使用料も割引で利用でき、座席は抽選で決まりますのでチケットが届くまで分からないところがまた楽しみで、前回は中央最前列の席が当たり、普通では殆ど入手不可の席で観劇させて貰いました。


今年のさよなら公演の夜の部の演題に歌舞伎十八番の勧進帳がありますので、座席がどの辺かを楽しみにしていましたら、9列1、2番の花道左手の席が当たり前回に続いて良い席に恵まれ、年1、2度の歌舞伎観劇の素人には勿体ない席で、歌舞伎座最後の観劇を堪能させて貰え良い想い出となりました。

 花道横の座席から見る

歌舞伎座さよなら公演九月大歌舞伎夜の部
夜の部の上演では、中村吉衛門の幡随院長兵衛役で鶴屋南北作の浮世柄比翼稲妻、富樫左衛門役の勧進帳、紅屋長兵衛約の松竹梅湯島掛額に出演しての演技が見られます。なお、この他吉衛門は昼の部の時今也桔梗旗揚にも出演しています。


浮世柄比翼稲妻
鶴屋南北作の浮世柄比翼稲妻の最初の幕の「鞘當」は、桜満開の吉原に不破伴左衛門(松緑)と名古屋山三(染五郎)の二人の武士が登場する。登場人物の二人は、違った世界の題材のものですが、作者が独自に固有に作り上げた劇世界での芝居です。
二人の武士が吉原で行き違った時に互いの刀の鞘が当たり、争いになったところを茶屋女房お京(芝雀)が間に入って抜いた刀を納め、お京の言葉に従い互いの刀を取り替えると自分の刀に収まります。実は山三の家には同じ刀が二振りあったのだが、山三の父が闇討ちにされた際に奪われたもので、山三は伴左衛門が父の敵といきり立つが、お京の計らいでここでは立ち別れると云う南北特有の作りです。
初めて花道の脇の座席から見上げる役者の衣装や仕草は、迫力満点でした。
次の幕の「鈴ヶ森」は、東海道品川宿に近い鈴ヶ森の刑場が場面で、鈴ヶ森は自宅の大森町から2つ目大森海岸駅から徒歩五分程度のところに刑場跡の碑があります。

 左:鈴ヶ森刑場遺跡、右:鈴ヶ森刑場処刑者の墓

また、手配者の白井権八(梅玉)が乗った駕籠の提灯には「するがや」と書かれてありますが、この「するがや」は大森町近くの旧東海道の内川橋の袂に存在した旅籠屋の屋号で、この通りをするがや通りと呼んでいます。この場面で、権八が切りまくる雲助の立ち廻りでは小道具を使って、笑いの要素を入れた芝居は、南北ならでの観客を楽しませてくれました。

 左:旧東海道内川付近の石畳、右:旧東海道を東に折れるとするがや通り

勧進帳
勧進帳は、年1、2度の観劇でも今回で2度目の鑑賞です。花道での演技が多いので期待していた演目です。舞台は能舞台を模した大道具の「松羽目」と下手には五色の「揚幕」に上手には「臆病口」の「松羽目物」です。吉衛門の富樫左衛門、幸四郎の弁慶、染五郎の義経という俳優陣は、七世幸四郎が生涯で千六百回も演じたと云われる弁慶役者の没後60年を偲ぶ舞台です。
幕が開くと、強力にやつした義経と山伏姿に変えた弁慶と4人の家来の一行が安宅の関に向かう道中の花道の場面です。血気盛んな家来たちは力ずくで関を踏み切ると勇んでいるのを、弁慶がとても関を越えることは出来ないので考えがあるので任せて欲しいと申し出により、義経は家来たちに従うように命じて安宅の関に向かいます。目前の花道で聞く役者の台詞と俳優の表現にはとても迫力が感じられます。
安宅の関では、富樫と弁慶のやりとりと、弁慶が咄嗟の機転で義経を金剛杖で打ち据える名場面と、富樫の心情の変化と酒宴での弁慶が延年の舞いを舞います。
最後の見どころは、富樫の配慮に感謝して、先に落ち延びさせた義経一行の後を弁慶が追って行く「飛び六方」を目前の花道で見られて感激しました。

 左:当代幸四郎の弁慶、右:七代目幸四郎の弁慶(プロマイドから)

松竹梅湯島掛額
松竹梅湯島掛額は、1856年(安政3年)に河竹黙阿弥が、1809年(文化6年)に初演の福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院の場」と、1773年(安永2年)に人形浄瑠璃で初演された「伊達娘恋緋鹿子」の「火の見櫓の場」を継ぎ合わせて脚色して、1856年(安政3年)に初演されたものです。
最初の「吉祥院お土砂の場」は、八百屋お七(福助)と小姓吉三郎(錦之助)の恋物語に、紅屋長兵衛(吉衛門)がお七の恋に手を貸すという筋で、真言宗の秘法で土砂を洗った「お土砂」を死体などにかけると柔らかになる不思議な粉を撒いて客席に笑いを生み出し、歌舞伎では珍しい笑劇です。この場面で出てくる、子役の丁稚長太(玉太郎)は可愛い演技を熱心に演じていました。
次の「四ツ木戸火の見櫓の場」は、吉三郎が探している重宝天国の短刀を、お七の家に来ている釜屋武兵衛が持っているので、盗みだして吉三郎に届けに行くようにと下女お杉(歌江)がお七に勧めたが、時刻は暮れ六つを過ぎており木戸は閉じられており開けて貰えないので、罰を受けるのを覚悟で櫓の太鼓を打って木戸を開かせ短刀を吉三郎のところに持って駆けつける筋で、場面の一部が文楽人形の動作の“人形振り”で演じる「櫓のお七」の場面です。

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イベント 朝顔市の入谷と竜泉界隈 普茶料理で異業種交流会H11メトロの暑気払い(その2)

2009年07月25日 | イベント
kan-haru blog 2009 普茶料理梵の玄関 

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竜泉寺町しるべ
竜泉寺(台東区竜泉2-17-15 その1地図⑤)は、真言宗智山派で創建は大変古く、1596~1623 年(慶長から元和の頃)にさかのぼり、この付近一帯は早くから竜泉寺村と呼ばれていました。1679年(延宝7年) の頃、竜泉寺村内の吉原から金杉への抜け道筋に民家が建ち始め、町並ができ竜泉寺町と呼ぶようになりました。
1869年(明治2年)に竜泉寺町は下谷竜泉町と改称され、その後の明治24年には竜泉寺村、千束村および三ノ輪村の一部を合わせて下谷竜泉寺町となり、1891年(明治44年)には町名から下谷を外して元の竜泉寺町となりました。
戦後の1947年(昭和22年)に東京35区が23の特別区となり、浅草区と下谷区が一緒の台東区に変わり、竜泉寺町は竜泉寺一~三丁目となりました。

普茶料理 梵
普茶料理 梵(ぼん)( 台東区竜泉1-2-11 その1地図A)は、竜泉寺の住宅街に佇む純和風建ての料理屋です。梵は、1959年(昭和34年)に現在の店主のお母さんが、竜泉寺町67番地(現在地)に精進(普茶)料理屋を開業して現在に至っています。
玄関を入ると中央の通路脇にはお部屋があり、そこを奥まで通り突き当たりの左側が今夜の精進料理を頂くお座敷です。お部屋は個室のお座敷部屋が8室あり、2名から40名が入れます。


・普茶料理
普茶料理とは、梵のホームページによると、江戸時代の初期に中国から伝来された精進料理の一つです。精進とは仏道を完成する精神修養の根幹をなすものです。禅僧によって中国から伝えられた精進料理には二つの流れがあり、一つは曹洞宗の開祖・道元が鎌倉時代の初期に留学先の中国から持ち帰った「永平寺流」精進料理で、料理することも頂戴することも修業のひとつの形であるとするもので、食事礼法は茶懐石の原型です。
二つ目の「普茶料理」は、黄檗宗に伝わる「中国風」精進料理で、 江戸時代初期に京都の宇治に萬福寺を開いた明の帰化僧・隠元禅師が伝えたもので、飲食平等の趣旨を持ち、食そのものを楽しみます。
普茶とは、普く衆に茶を供する意味があり、茶礼のあと飲食平等の精神のもとに明風の食礼様式で開かれる席の料理が普茶とよばれています。 

・梵の文月普茶料理
7月の普茶料理(梵ホームページから)は、文月の旬の素材を使った有機野菜を中心に、夏を乗り越える身体にやさしい献立で、梵独自の料理方法で調理した菜食料理です。料理の特徴は、豆腐、ごま油を多用し、食用の野草から花まで、あらゆる野菜を用い、 材料の持ち味を十分に生かして調理をします。
コース料理は、運ばれた料理の一品毎に説明が付きます。桜香煎茶で落雁を頂き食前酒の梅酒で茶礼です。
小菜(シャオピン 前菜)がお膳のお品書きの下に置かれています。チーズの様な添え物が、大皿に乗せられて廻ってきますので、一人ずつ取り皿に移して隣に回します。役員の挨拶の乾杯で、平成21年の暑気はらいの開始です。


先ず料理は、澄子(シャンツ 吸物)、箏羹(シュンカン 盛合せ)が運ばれてきます。お品書きに書かれていない料理も出てきます。箏羹は、竹の子を中心とした季節の野菜乾物等の煮付料理です。


次に、雲片(ウンペン 吉野煮)や素汁(ソジュウ 味噌汁)などが次々に運ばれてきます。雲片は、野菜を単冊に切り、油煎りして葛煮にした料理です。


各人が思い思いに、ビール、日本酒、焼酎水割りなどで食が進むと、麻腐(マフ 胡麻豆腐)、油茲(ユシ 揚物)と擬製料理がでてきます。油茲は、野菜の味付け天麩羅で、人参を束ねた揚げ物はまるで海老の天麩羅に見えます。擬製料理は、精進材料で魚や肉の擬製品を作る料理です。


最後に、香の物でご飯を頂き水果(スイカ 果物)のデザートです。各人は、普茶料理に満足して、お土産に梵の鈴を貰ってこれから夜の朝顔まつりの散策です。

夜の入谷の朝顔まつり
肉や魚を使用しない、野菜だけの普茶料理でも満腹です。梵を21時少し前に出て、竜泉から入谷までの移動は、食こなしには絶好の距離です。人影のない、竜泉町の裏通りを入谷交差点の言問通りの真源寺(入谷鬼子母神)(台東区下谷1-12-16 その1地図①)に来ると、通り南面の朝顔市露店と北面の縁日露店は人出で一杯です。

 入谷朝顔まつり1(写真)

真源寺に入り鬼子母神をお参りして、朝顔市露店を眺めました。何時もは、朝方に来ておりましたが、夜の朝顔市の雰囲気は少し異なる感じを受けました(「風景・風物誌 夏の風物詩 入谷の朝顔市2008」参照)。食後の散策を終え、メトロの入谷駅から9時半頃帰宅の道につきました。

 入谷朝顔まつり2(写真)
 
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イベント 朝顔市の入谷と竜泉界隈 普茶料理で異業種交流会H11メトロの暑気払い(その1)

2009年07月23日 | イベント
kan-haru blog 2009 鷲神社鳥居 

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H11メトロの暑気払い
異業種交流会H11メトロは、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターが異業種交流事業として募集した、東京都異業種交流会グループの中の平成11年に発足したグループの一つで、毎月例会を開催しており7月には暑気払いを行っており、2008年にはほおずき市の浅草中清で開きました(「イベント 浅草ほおずき市の中清 ゆかた着にての異業種交流会H11メトロの暑気払い」参照)。

・普茶料理での暑気払いと朝顔市散策
今年のH11メトロの暑気払いは、7月7日に入谷の朝顔市に近い竜泉の普茶料理 梵で行いました。朝顔市は入谷の朝顔まつりと言われ毎年7月の6~8日の3日間開催され、入谷鬼子母神(地図①)を中心とした言問通りに朝顔業者の露店が120軒も並び、40万人の人が出て今年は61年目を迎えます。梵での普茶料理を満喫してから、夜の朝顔まつりを散策しました。朝顔市には何回も行っていますが、夜の朝顔まつりは初めてです(「風景・風物誌 夏の風物詩 入谷の朝顔市2008」参照)。

 平成21年朝顔まつりポスター

竜泉界隈
普茶料理 梵(台東区竜泉1-2-11 地図A)のある竜泉は、JR鶯谷駅から言問通りに出て浅草方面に進み、入谷交差点を左折して昭和通りを三ノ輪方面に向かい、2つ目の信号を右折して国際通りの1つ手前の路地を左折して2軒目です。この当たりは北浅草界隈の竜泉1丁目で、突き当たりには西徳寺が見え、国際通りを渡るとお酉さまでお馴染みの長國寺と鷲神社があり、その先には、はるか昔には高塀で囲まれた吉原遊郭のあとです。
この竜泉界隈には、歴史的旧跡が散在している場所柄でありますので、普茶料理を戴く前に、軽く梵の周辺を限って辿ってみました。

 竜泉界隈地図(地図拡大図)

・樋口一葉の旧居跡碑
一時期現在の竜泉1丁目に住居したことのある、5千円札の肖像画に登場の樋口一葉(1872~1896)の代表作の「たけくらべ」は、この旧竜泉寺町を舞台として書き上げた代表昨です。一葉は裕福な家庭に育ちましたが、17歳で父を亡くし母と妹を養うために小説家を志しましたが、生活が成り立たずに、龍泉寺町で荒物・雑貨と駄菓子を売る店を始めました。名作の「たけくらべ」は、龍泉寺町での生活体験がなければ生まれなかったのではないかともいわれています。
一葉の文学業績を永く後世に遺すために、1949年(昭和24年)に戦災で失われた「一葉記念碑」を再建し、1960年(昭和35年)に一葉の旧居跡(竜泉3-15-2 地図⑥)に「一葉旧居跡碑」を建立しました。また、1961年(昭和36年)には、地元住民の熱意に応えて一葉記念館が建設されました。

 樋口一葉肖像画の5千円札

・お酉様の鷲神社と長國寺
梵の先の国際通りの鷲神社前交差点を渡り北に進むと右側に長國寺の山門があり、国際通りを南に進むと鷲神社の鳥居があります。
[長國寺]
鷲妙見大菩薩(鷲大明神)を祀る現在地の長國寺(台東区千束3-19-6 地図③)は、1771年(明和8年)に千葉の大本山鷲山寺から長國寺へ迎え移し祀られ、妙見堂、鷲大明神の社(やしろ)、鷲の宮とも呼ばれるようになりました。鷲妙見大菩薩は江戸庶民より「おとりさま」と呼び親しまれ、長國寺も浅草田圃「酉の寺」の名で親しまれて、この頃から江戸浅草の酉の市は一段と賑わいを増してきました。
1686年(明治初年)の神仏分離令により、長國寺は境内を含め寺と鷲神社とに分割されました。長國寺は関東大震災と大空襲で罹災して、山門が平成2年に、新本堂が平成4年に落慶して、江戸の文化としての「酉の市」を開帳しています。

 国際通りを挟んで見える長國寺山門と西徳寺山門

[鷲神社]
鷲神社(台東区千束3-18-7 地図②)は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした神社です。
江戸時代は社号を鷲大明神社と称しており、酉の日・酉の祭、下谷田甫鷲大明神社が賑うことで、社伝では1832年(今天保壬辰)より凡そ六十余年以前よりの事とあり、1750~60 年(宝暦・明和年間)にはすでに酉の祭は相当に賑わい、それ以前から年中行事として行われていたとあります。ちなみに、鷲神社の鳥居には天保十年辰亥九月銘が記されています。
江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、明治時代に改名の鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。

 お酉さまで親しまれている鷲神社

・鷲神社境内の樋口一葉の碑
鷲神社境内には、樋口一葉歿後百年と平成癸酉五年の酉年を記念し、若くして逝った一葉の文才を称え、その事跡を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立しました。
[樋口一葉文学碑]『たけくらべ』十四章冒頭の、「此年三の酉まで有りて……」の一節と、木村荘八筆の祭礼の場面の画が刻まれています。
[樋口一葉玉梓乃碑]一葉が、師の半井桃水に宛てた手紙の一節が、一葉の直筆のものと、読みやすく記術したものとで刻まれています。
[建碑の由来]玉梓乃碑の横に、一葉文学碑と玉梓乃碑の建碑由来を記した副碑があり、鷲神社宮司河野英男の記名と平成五年十月の日付がしるされています。

 鷲神社の樋口一葉文学碑(:樋口一葉文学碑、:樋口一葉玉梓乃碑、:建碑の由来)

子規と其角の句碑
鷲神社には、一葉の文学碑に並んで子規と其角の句碑が建立されています。
[子規句碑]句碑には、「雑閙や熊手押あふ酉の市」の句が書かれ、台東区俳句人連盟の手により平成12年2月建立されました。
[其角句碑]句碑には、「春をまつことのはじめや酉の市」の句が書かれています。

 鷲宮神社境内の句碑(:子規句碑、:其角句碑)

・大音寺
大音寺(台東区竜泉1-21-17 地図③)は、本尊阿弥陀如来を祀り、1718年(享保3年)火災で一切を失う。草創年代開基等は不詳で、享保10年森誉によって中興したが、その後の火災や戦災で九尺の木製彩色寝釈迦像を失った。1959年(昭和34年)に現堂宇が建立された。
一葉のたけくらべの書き出しの、「・・大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき・・」と大音寺が登場しています。
また、大音寺は古典落語の「悋気の火の玉」にも登場し、「火の玉と火の玉が大音寺の前のところで、カチーンとぶつかって、火花を散らす・・・・・という騒動になった」という話です。

たけくらべ
樋口一葉の「たけくらべ」の様な著作権切れの作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館の青空文庫からダウンロードして、対価なしで読むことができます。
青空文庫の利用方法は、「インターネットの電子図書館、青空文庫へようこそ。」(←ここをクリック)にアクセスして、作家別または作品別のインデックスからダウンロードができます。
また、kan-haru日記の次の青空文庫を読んで見るを参照してください。

・青空文庫を読んで見る参考ブログ
ITと技術 新技術ソフトで6千冊の青空文庫HTML図書を新電子本で読んでみる(1)
ITと技術 新技術ソフトで6千冊の青空文庫HTML図書を新電子本で読んでみる(2)


 青空文庫から「たけくらべ」HTML文で読む一部抜粋 

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イベント お茶の水小マーチングバンド 第59回「社会を明るくする運動」パレード演奏

2009年07月18日 | イベント
kan-haru blog 2009 

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社会を明るくする運動
「社会を明るくする運動」とは略して「社明」運動とも云われれ、すべての国民が力を合わせて犯罪や非行のない明るい社会を築いて、犯罪の防止と犯罪者の更生について理解を深める啓発活動を、7月1日(更生保護の日)から1か月間を強調月間として、毎年全国各地で広報、後援会や街頭キャンペーンを展開して行われている全国的な運動です。
社明の由来は、1949年に民間の有志が銀座で「犯罪者予防更生法実施記念フェアー」を行い、翌1950年には「矯正保護キャンペーン」を全国で展開され、1951年からは現法務省が体制整備を行いました。今年は第59回に当たり、歌手の谷村 新司さんをイメージキャラクターに起用して、「社会を明るくする運動」の広報活動が行われています。

 谷村 新司さんを起用した「社会を明るくする運動」ポスター(法務省保護局ホームページ)

千代田区の社会を明るくする運動
千代田区での第59回「社会を明るくする運動」は、7月3日に「安全・安心まちづくり靖国通りパレード」が行われました。靖国通りパレードは、1975年(昭和50年)の第25回「社会を明るくする運動」から実施されているもので、運動の趣旨の普及・啓発を図るために行われています。

 千代田区の第59回「社会を明るくする運動」(千代田区総合ホームページ)

「安全・安心まちづくり靖国通りパレード」には、お茶の水小マーチングバンドをはじめ、保護司、更生保護女性会、民生・児童委員、PTA、町会関係者など、総勢約300名が参加し、お茶の水小学校から千代田区役所まで、靖国通り(約1.3km)を行進しました。また、今年は、犬のわんわんパトロール隊もパレードに参加し、安全・安心なまちづくりを呼びかけました。

 社明パレード参加団体(写真拡大)

お茶の水小マーチングバンド
お茶の水小学校(千代田区猿楽町1-1-1)のマーチングバンドは、今回で通算24回目の参加となり、永年「社会を明るくする運動」の推進に貢献した功績が認められ、平成16年の12月には、法務大臣から感謝状が贈られています。
マーチングバンドは小学校の5・6年生の全員が参加して、新学期から社明パレードのために月曜日の朝練習を熱心に行ってきました。

 お茶の水小マーチングバンド(お茶の水小学校・幼稚園ホームページ)

お茶の水小学校のパレード演奏を、7月3日の出発に合わせて10時前にお茶の水小学校へ見に行きました。

 御茶ノ水小マーチングバンド(写真拡大)

安全・安心まちづくり靖国通りパレード
安全・安心まちづくり靖国通りパレードコースは、靖国通りを西に進み九段下の千代田区役所までの行進です。

 安全・安心まちづくり靖国通りパレードコース

パレードの出発式はお茶の水小学校校庭で行われました。出発前の校庭には、お茶の水小学校マーチングバンドなどの関係参加団体の約300名が既に集まっておりました。出発式前の校庭では、パレードに参加する警視庁騎馬隊の馬2頭に、小さな子供を前に乗せて1周り歩くサービスを行っていました。

 警視庁騎馬隊乗馬サービス

出発式は10時に開始され、お茶の水小マーチングバンドの5・6年生や参加団体が校庭に整列して、千代田区長、神田警察署長やお茶の水小学校長などの挨拶を聞きました。

 安全・安心まちづくり靖国通りパレード 出発式(写真拡大)

パレードは10時40分に出発で、校庭の西側校門を出て靖国通り(都道302号線)の交差点を渡り、三省堂書店前で体形を整え行進の開始です。

 パレード演奏1(写真拡大)

パレード演奏は、靖国通りを西に進み神保町、専大前、九段下交差点を左折して、千代田区役所までを約30分かけて、「聖者の行進」「茶色の小びん」「ミッキーマウスマーチ」を演奏しながらの行進です。

 パレード演奏2(写真拡大) 

マーチングバンドのメンバーは約100名ほどで、24年も続くパレード演奏はなかなか見事なものでした。

 パレード演奏3(写真拡大)

沿道は参観者で一杯の人なかを九段下まで、パレードの行進に合わせて歩道を一緒に進みましたが、午後の予定のため九段下で別れて地下鉄で帰宅しました。

 パレード演奏4(写真拡大) 

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イベント 日比谷公園 日比谷オクトーバーフェスト2009でミュンヘンの想い出にひたる(その2)

2009年06月20日 | イベント
kan-haru blog 2009  閉店が近ずいても名残りを惜しんで立ち去らない会場  

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ズルムターラー楽団の演奏
ビールをお代わりしている間にあたりがすっかり暗くなり、日比谷オクトーバーフェスト最終日の最後のズルムターラーの公演が始まりました。
ズルムターラーは南ドイツからやって来た20代から30代の若手楽団であり、リーダーのマテイアスさんが率いる演奏は、バイエルン地方の音楽のほかにも、ポルカ、ワルツ、ポップ音楽などを奏で、日本語で上手に語りかけてドイツ文化の一端を披露してくれました。
演奏が始まると会場は、メンバーが演奏しながらいい飲みっぷりを見せてのパフォーマンスで、ビールの熱気とともに一斉に会場が盛り上がり、一般のビアホールでは味わえない素晴らしい雰囲気です。

 ズルムターラー楽団の演奏(写真拡大)

・ドイツの乾杯の歌の大合唱
演奏が進み、次はドイツの乾杯の歌を会場のみんなで大合唱です。
YouTube Prost(乾杯)~♪の歌(ここをクリック)

のどが渇くポルカ(ドイツの乾杯の歌)  日比谷オクトーバーフェストで貰った歌詞から
Ein Prosit, Ein Prosit, Der Gemutlichkeit
(さあ乾杯をあげよう さあ乾杯をあげよう この心地よいひとときに)

Ein Prosit, Ein Prosit, Der Gemutlichkeit
(さあ乾杯をあげよう さあ乾杯をあげよう この心地よいひとときに)


Eins! Zwei! Drei! G'suffa!
(1! 2! 3! 飲み干せ!)

(Prost!)
(乾杯!)

歌の最後の「プロースト」で乾杯ですが、歌を繰り返していくうちに段々と酔いがまわってきそうな歌です。

 乾杯の歌演奏で大合唱してプロースト

・みんなでダンス
会場ではズルムターラーの演奏に合わせて歌い、乾杯をして、次は隣にいる人と肩を組み手をつないでのダンスが始まります。
ダンスが盛り上がると、前の人の肩に手をかけ長い列を作り踊りながら噴水の周りの会場を半時計廻りに一周です。飲んで、歌って、踊ってフェストの楽しみが最高潮です。

 前の人に手をかけ踊りながら噴水の周りを廻る(写真拡大)

会場は息き会い合いとした雰囲気となり、ズルムターラーのメンバーの一人が明日誕生日であると紹介すると、彼の回りに群がり「ハッピー バースデー トゥユー」を合唱してのお祝いの乾杯です。オクトーバーフェストの良いところは、会場で誰とでも仲良くなれることです。
ドイツビールの消費が進む会場でのビール祭を満喫して、閉会の21時少し前に帰路に着きました。

 翌日が誕生日のズルムターラーメンバーに祝杯の観衆(写真拡大)

今後開催のオクトーバーフェストの紹介
ビールジョッキーが1000円のいろいろな種類のドイツ生ビールと、ソーセージなどのドイツ料理がほどほどの値段で嗜め、それよりドイツ文化の一端に接することができるオクトーバーフェストは素晴らしいイベントです。参加してみたい方は、今年「開国博Y150」が開催中の横浜で、10月9日から18日まで「横浜オクトーバーフェスト2009」が開かれる予定であり、また9月18日から27日まで「仙台(秋)オクトーバーフェスト2009」も開かれるようですので、参加できるオクトーバーフェストに出かけられるとよいかと思います。

ドイツバイエルンの想い出
2002年7月にドイツバイエルン地方の旅行中に、ガルミュッシュに宿泊した時にたまたま「ガルミュッシュ創立1200年祝賀パレード」を見ることができました。そのパレードでは、ドイツでは昔の文化を大切にして、それを現代に伝えていこうとする気持ちが伝わり、またお祭を大事にする民族であると感じました。ミュンヘンを含むバイエルン地方の想い出として、祝賀パレードの一遍の写真を載せてみました。

 ガルミュッシュ創立1200年祝賀パレード(写真拡大)

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イベント 日比谷公園 日比谷オクトーバーフェスト2009でミュンヘンの想い出にひたる(その1)

2009年06月18日 | イベント
kan-haru blog 2009 ホフブロイ ミュンヘン ビールのジョッキー  

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5月最終の週末は大森の氏子神社の祭礼で、孫が1人で泊まりがけで遊びに来たので、帰りの日曜の夜は途中まで送って行くことにして、31日は帰路途中の日比谷公園で2009日比谷オクトーバーフェストが開催されているとのことなので、会場で家族と落ち合うことにしました。

 日比谷オクトーバーフェストポスター

オクトーバーフェスト
オクトーバーフェスト(Oktoberfest)は、9月の半ばから10月の第1日曜日までドイツバイエルン州のミュンヘン市西のテレージエンヴィーゼで開催される、世界の最大のビール祭りで1810年に始まりました。
祭の会場のテレージエンヴィーゼは42ヘクタールもある巨大な会場で、ジェットコースターや巨大観覧車、お化け屋敷などの移動式遊園地が設置され、大手ビール会社が運営する座席数1万席のテントを巨大ビールテント(フェストハレ)10数棟が並び、600万人以上の人が訪れ木製のテーブルと木の椅子に腰かけて580万リットルものビールを消費します。お祭り会場の入場料は無料で、夕方からは、ヨーロッパ・ポップ音楽やドイツのヒット曲が演奏され、ビールを飲んで陽気に人々は歌い、踊って楽しみます。

日比谷公園オクトーバーフェスト2009

 日比谷オクトーバーフェスト会場マップ

日本国内では、2003年に横浜で開催したのが始まりで、日比谷公園でのオクトーバーフェストは2006年から始まり今年で4回目の開催となります。今年は日比谷のほか、横浜、仙台、上越、福岡の5会場で開催され、昨年は7会場で開催し20万人が来場しました。
今年の日比谷公園オクトーバーフェスト2009は、日比谷公園噴水広場にミュンヘンから運んだ1500席の木製のテーブルとベンチを噴水の周囲に配置して、5月22日から31日まで開催されました。開催時間は、月~金曜日が12~21時30分で、土・日曜日が11~21時までで、ドイツビールやドイツ料理を提供して、ステージでは楽団が演奏して会場が盛り上ります。

会場の噴水広場周辺はドイツの雰囲気
当日の天気は午後3時ごろ強い雨に見舞われ、大森での祭の神輿は雨宿りで待機しているうちに雨は上がり宮入も無事に終了しました。一面雲がかかる天気を気にしながら都営三田線に乗り換えて、日比谷公園に向かい18時過ぎに噴水広場のオクトーバーフェスト会場に着きました。
会場は天候の状況もあり日曜の最終日にも関わらずテント内は満員でしたが、噴水周囲の天幕下には、ミュンヘン旅行で懐かしい想い出の木のテーブルとベンチの席を確保しました。

 オクトーバーフェストのテント席はすでに満員(写真拡大)

オクトーバーフェストでは、何といってもドイツ生ビールとソーセージです。今年の出店ブースも規模を拡大したとかで、7企業のテントでドイツビール、オリジナルソーセージ・フードやワインなどが並んでいます。また、日比谷公園に飲食出店の露店もこの期間に限り、祭に合わせての延長開店で会場は盛り上がっていました。
・出品ビール
生ビールを売るお店は、噴水の周囲に7店の店が出ており、ビールの購入はビール代にプラスして1000円を支払い、お好みのビールをジョッキーに注いで貰います。お代わりのビールは、そのジョッキーを持って代金を払い注いて貰います。帰る時にジョッキー返却口に返すと1000円が戻ります。記念にジョッキーが欲しければ、そのまま持ち帰れますので、持ってきました。

 ドイツビールの出店(:シュパーテンビール、:ホフブロイ ミュンヘン、:自分のジョッキーを持ってお代わりのビールを買う)

出品ビールは15種類ほどありましたが、最初は一般的なラガービールを選び、本場のオクトーバーフェスト6大公式ブルワリーの1つであり、世界で初めて製造された“シュパテン・ミュンヘン”の元祖ラガービール1000円のRegularサイズを飲んでみましたが、食感はややさっぱりして日本人に合うような印象でした。ビールのサイズは、1リットルジョッキーのMassサイズも販売しており、ドイツのビアガーデンを思い出しました。

・出品料理
オクトーバーフェストの出品料理は、オリジナルソーセージの店であらびきソーセージやジャーマンプレートなどが売っておりましたが、ソーセージやウインナーとポテトなどが中心です。それと、ドイツではビールのおつまみに欠かせない、塩味のきいたブレッツェルというパンがあります。日比谷オクトーバーフェストでは、ビールを買うとおまけにブレッツェルが付いてきました。

 オクトーバーフェストの食べ物の店(:オクトーバーフェストオリジナルソーセージの店、:食べ物フード店、:ブレッツェルとソーセージのおつまみ)

ミュンヘンのビアガーデンの想い出
公園の緑の環境のもと木のテーブルとベンチで、ブレッツェルとソーセージをつまみにしてビールをあけているうち、飲むほどに酔うほどにいつの間にかミュンヘンのビアガーデンで楽しんでいる様な錯覚に落ち入りました。
ドイツのバイエルンには、2002年7月に旅行に行きミュンヘンのビアガーデンの何か所かを回りましたので、日比谷オクトーバーフェストはその想い出をよみがえさせてくれました。
ドイツのバイエルンはビールをよく飲む地域です。この地方のビアガーデンは、緑に囲まれた庭の様な雰囲気の昔からの地域の憩いの場所で、地域に住む人が食べ物を持ち込むのを許可し、手軽に1リットルのジョッキーでビールを飲み仲間たちと楽しめるところから、食べ物は質素でセルフサービスなので気軽に足を運んでいます。ドイツでのビアガーデンを楽しむ雰囲気は、緑の多い恵まれた環境で質素な市民生活を送っており、朝は皆早くから勤勉に仕事に励んでいる姿が見られ、年配の日本人にはとても好感がもてます。

今回、日比谷オクトーバーフェストに参加したのを機会に、この記事にミュンヘン旅行のビアガーデンの想い出の記憶を少したどってみます。
ドイツに旅をしてビアガーデンの想い出の記録のその1は、帰国当日にミュンヘンの南部のイザール谷沿いにあるビアガーデンのヴァルトヴィルトシャフトに訪れて昼食をとった時の写真です。このビアガーデンも、木のテーブルとベンチで周辺には木が茂り、ドイツ独特の環境の良い場所にあり、席が2500席もあってジャズが聴けるビアガーデンとして有名なところです。

 ビアガーデン「ヴァルトヴィルトシャフト」(・中:ヴァルトヴィルトシャフト020803撮影、:ミュンヘン新市庁舎020726撮影)

特に印象に残ったのは、2002年7月28日に訪れたヒルシュガルテンのミュンヘンの最大のビアガーデンで、席が約8,000席もある王立のビアガーデンです。ここで飲めるビールは、ミュンヘンで人気の高い地元のビールのアウグスティーナーです。ビアガーデンのある公園は、元は選帝候カール・テオドールによって造営された狩猟場でありましたが、現在は27ヘクタールの公園の一部で鹿が飼われており、ヒルシュ(鹿)の公園からヒルシュガルテンと呼ばれています。この広大な公園も緑が茂り、夕飯後には沢山の人が集まっていました。席は、木のテーブルですが、椅子はベンチでなく単独1席の木製椅子でした。

 王立ヒルシュガルテン(左・中:ヒルシュガルテン020728撮影、右:1リットルジョッキー020819撮影)

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イベント 江戸消防慰霊祭 江戸消防記念会東京11地区87組員による木遣と梯子乗りの伝統文化の披露

2009年06月12日 | イベント
kan-haru blog 2009 梯子乗りの妙技披露 

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この春4月に、三浦半島(記事参照)に一緒に伴にした親しい知人の奥さんの実家は、江戸時代の町火消しの組織を現在に担われている、江戸消防記念会の組頭を務められております。そのことから、浅草寺で江戸消防慰霊祭が毎年5月25日に執り行われ、東京地区の組織員の約800名が参列し、江戸の火消し伝統文化の木遣り・纒振り・梯子乗りなどが披露されることを知り、見に行きました。

江戸消防記念会
1719年(享保4年)の江戸時代に、町奉行大岡越前の唱導で「いろは四十八組」の町火消が江戸に誕生しました。町火消は、自衛・自治の考え方で創設され、勇気、機敏、技術に秀でた「鳶」と呼ばれる建築労働者を中心に選ばれ、選ばれた名誉と意気に感じ身を犠牲にして猛火と闘い、「江戸の華」として庶民に頼られてきました。
1867年の明治維新によって町火消は市部消防組と名を改め、東京の町を守り抜いてきました。しかし、1939年(昭和14年)戦時下の国民総動員令によって既存の防護団と統合し消防組は廃止されました。そこで、同年消防組の有志により、町火消しの伝統の纏、木遣り、梯子乗りなどの技術を伝承し後世に伝えるため江戸消防記念会が結成され、1954年(昭和29年)に公益法人となりました。
江戸消防記念会の組織は、東京都の23区を11地区に地域割をして「区」と呼び、区の下に番組と称する「組」を設けて総数87組で約800名の会員がいます。
今年1月の成人の日に大森町の弁天神社境内などで、大森土木鳶建設組合の皆さんによる梯子乗り(「大森町界隈あれこれ 初春の伝統行事 大森土木鳶建設組合恒例のはしご乗り」参照)を初めて見る機会がありました。この組合の皆さんも、大田区の所属する7区の会員に参加しているのではないでしょうか。

消防殉職者慰霊祭
江戸時代から昭和初期にかけて、その職で殉じた先人の遺徳を顕彰してその霊を祭る消防殉職者慰霊祭が浅草寺裏で、毎年5月25日に行われています。
慰霊祭は、9時に各区の纏と梯子が雷門前に集合し、仲見世通りを行進して、今年は浅草寺本堂の屋根の葺き替え工事のためかなり狭まくなった浅草寺裏に整列します。会場へは、秋葉原経由のつくばエクスプレスの浅草駅を降りて浅草寺裏に直通すると、全組の87本の纏いが整列しており、慰霊祭が始まるところでした。

 消防殉職者慰霊祭の浅草寺裏会場(:つくばエクスプレス浅草駅から浅草寺本堂はすぐ近い、:屋根葺き替え工事で狭くなった浅草寺裏、:87本の纏いが勢ぞろいの慰霊祭会場)

慰霊祭は、浅草神社宮司によって式典が執り行われ、江戸消防記念会小宮名誉会長・石原知事が祭文を奉読し、各団体の代表などが玉串を奉奠しました。東京消防庁音楽隊が演奏する中、殉職者たちに黙祷が行われ、神職退場の後、鹿島会長の御礼の挨拶で式典は終了しました。

 消防殉職者慰霊祭式典(写真拡大)

梯子乗り
慰霊祭の第2部では、今年は工事で会場が手狭なため纏いの行進は中止でしたが、東京都技芸無形文化財に指定された「江戸の鳶木遣」を、参加会員で歌われた後に、11区全組の87本が勢ぞろいした豪勢な纏い振りが行われました。 江戸町火消しの纏いは、白と黒に統一されいろいろな形のデザインの纏いの「陀志(だし)」と、その下の48本の紙または革製の「ばれん」と「真笠」から出きており、高さが約2.4mで重さが約20kgあります。纏いの「ばれん」の横線の数は「区」を示しています。

 伝統の木遣と纏い振りの披露(:全員で仕事唄の木遣を歌う、:勢ぞろいの87本の纏い振り)

続いての梯子乗りは、もともと鳶職人は梯子を使用して高所での危険な仕事をしており、作業をするためには機敏さ、慎重さ、勇敢さが要求されます。火消しも同じことが求められ、火災現場の確認や人命救助の器材である梯子を訓練に採り入れて、毎日血のにじむ訓練を積んできました。
梯子乗りの梯子は、高さ6.5mの真新しい青竹と15本の横さんで作られ、この梯子を12本の鳶口で支えます。揺れ動く梯子上での演技者と、下で梯子を支える者との結束の固さが妙技を生み出します。

 梯子乗りの準備(写真拡大)

各組の梯子乗りが交互に江戸時代から引き継がれた妙技を披露して観衆の喝采を浴びました。

 梯子乗りの妙技1(写真拡大)

梯子乗りの妙技は、3種類の48の型があります。梯子乗りの演技を終えてから、鹿島会長の音頭で観客も一緒に手締めを行い、慰霊際が終了しました。

 梯子乗りの妙技2(写真拡大)

浅草神社と周辺散策
梯子乗りが終わり浅草神社に行くと、本殿前では5区の組員が揃って整列して記念写真を撮っていました。浅草神社風景を撮影していると、そこで梯子乗りを見に来ていた組頭のご息女と偶然と出会うことができましたので、お父さんと一緒に役半纏姿の貴重な写真を撮らして頂きました。
お父さんとはお別れして、一緒に仲見世通りの裏通りを散策しながら進むと、江戸で生まれた染絵手拭屋のふじ屋さんの前を通りましたので、記念に手拭を買いました。

 江戸絵手拭いのふじ屋

お店を見てから食事時でしたので、以前に入った食事処のたつみやで昼食を一緒に頂きました。帰路は、浅草から観光路線バスで東京駅径由で帰宅しました。

 食事処たつみ屋と観光路線バス停

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<前回 イベント 国立大劇場観劇 前進座五月特別講演・中村梅之助舞台生活七十年 へ
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イベント 国立大劇場観劇 前進座五月特別講演・中村梅之助舞台生活七十年

2009年06月04日 | イベント
kan-haru blog 2009 観劇の花道横の座席 

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今年は、2年振りで母校の観劇会に参加して、5月16日に国立劇場で前進座の五月公演昼の部を見てきました。

国立劇場
国立劇場(東京都千代田区隼町4-1)は、伝統芸能の保存・振興を牽引して、歌舞伎、文楽、能・狂言などの日本固有の文化価値をいっそう高めるために伝統芸能を上演し、将来を支える人材を高めるために独立行政法人日本芸術文化振興会を1966年に設立して、国立劇場大・小劇場の本館が開場しました。
国立劇場へのアクセスは、東京メトロの半蔵門線の半蔵門駅から徒歩5分、または永田町駅(有楽町線・半蔵門線・南北線)から徒歩10分のところにありますが、自宅からは足場が悪いので京急から直通の都営地下鉄で新橋駅でおり、そこからタクシーを利用しました。
今回の観劇は、大変と久し振りの前進座の演劇であり、また国立劇場は一度行って観たいと思っていましたが、なかなか機会がなくて初めての前進座五月公演の観劇で実現しました。観劇の座席は、1階の4列11番で前から3列目での花道から1つ離れた席で、わりあいと良い席に当たりました。

 入場券

前進座
前進座は、実は古くから馴染みのある劇団でした。大戦直後の1946年の混乱期の頃に営業・裏方・設営・移動等を俳優自身が行う巡演“青年劇場運動”を開始し、当初は学校を廻って生徒に演劇を見せていた時代がありました。丁度、その頃中・高等学生の時代で、娯楽に乏しく全校生で年に何度かの観劇や映画観賞会に参加していた時代がありました。その、観劇会が品川区で焼け残こった講堂のあった、現在の都立八潮高校(京急青物横丁駅下車、当時は女子高校)で上演の前進座の演劇で、出し物は「レ・ミゼラブル」や「ベニスの商人」などの文芸作品であったと記憶しています。
前進座(Wikipedia参照)の歴史は古く、1931年に創立の歌舞伎劇団で下級俳優が創設したことで、市井の庶民を描く世話物の演劇には定評があり、歌舞伎・時代劇・現代劇・児童劇と多彩なレパートリーを演じ、多くの女優陣が所属し歌舞伎の一部の役を女性が演ずるなどの特長があります。前進座の贔屓筋は多種多様で、保守・独占資本家や日本共産党などの心情的支持層、文学・芸能関係者、演劇ファンまでの広い層を持つ劇団です。


五月公演演目
前進座国立劇場大劇場五月公演は27回目の出演で、中村梅之助が1939年に新橋演舞場で「観進帳」の太刀持の初舞台以来、舞台生活七十年となる目出度いお祝の上演です。
昼の部の公演は11時半開演で出し物は、青山青果作「江戸城総攻」の三部作の通し上演と、松本清張作「左の腕」の生誕百年と共に梅之助の舞台生活七十年の記念公演です。

 前進座五月国立劇場公演パンフレット

・江戸城総攻第1幕
「江戸城総攻」の第一部は1926年に発表され歌舞伎座で初演され、第二部「慶喜命乞」は1930年に発表され、初演は1933年に東京劇場で上演されました。1943年に第三部の「将軍江戸を去る」を明治座で公演後は一度も上演されてこなかった出し物で、今回は鈴木龍男の改定・演出による始めての通し上演です。
慶応4年3月15日に決定していた江戸城総攻撃が中止され、無血開城になった歴史的事実の時代の徳川慶喜(嵐圭史)、幕府方の勝麟太郎(瀬川菊之丞)や山岡鉄太郎(嵐広也)、官軍の西郷吉之助(藤川矢之輔)たちのこの時代の生きざまを、青果は膨大な資料をもとに描き出して、「江戸を戦火にさらしてはならない、無辜(つみ)の民を殺してはならない」というヒューマン的な選択が感動を与えてくれる作品です。

 江戸城総攻配役

第1幕第1場は勝安房守の屋敷で、乗り込んできた山岡鉄太郎(嵐広也)と寄宿する薩摩の浪人益満久之助(益城宏)が勝麟太郎(瀬川菊之丞)の名を借りて西郷に合って、慶喜公の命乞いの談判をしたいので書状を認めて貰い、二人で死を覚悟で出かける場面。
同第2場は駿州静岡、征東大総督府武家参謀の詰所で、前場の数日後に薩摩藩が詰めている隊長に益満久之助が慶喜公の命乞いにきたと言っている場面に、西郷吉之助(藤川矢之輔)と山岡が談笑しながら現れる。西郷に書簡を渡して江戸城無血開城の五ヶ状の条件が示される。

・幕間の昼食
幕間の昼食は、予め国立劇場大劇場内のお食事処の「十八番」の幕間の幕の内弁当を注文しておいたので、2階の会場に行くと席まで案内してくれます。定番のお弁当は、季節の料理が入った、おかずが多い定食でした。食事前と食事後には種類の異なるお茶をサービスがあり美味しく頂きました。食事後の昼の幕間の間に、簡単なお土産を買っておきました。

 食事処「十八番」お土産屋店

・江戸城総攻第2幕
第2幕第1場は江戸薩摩屋敷で、慶応4年3月14日の午後に幕府海軍奉行の勝が訪れ4年ぶりの再会で、談判が始まり以心伝心の腹芸で決着し、「明日の城攻めは取り止め」の命令を下す。
第2幕第2場は上野大慈院で、鉄太郎が慶喜に「国土の権も人民に奉還なされませ」と乞い奉ります。
第2幕第3場は千住の大橋で、大橋の袂で出生の地の水戸に向かう慶喜公を旗本の侍、市民たちが見送る場面。

左の腕 ―無宿人別帳―
清張作品の「左の腕」公演は、今年は松本清張生誕百年と重なり記念すべき演目です。松本清張は、前進座の次代を育てるために「矢の会」の発起人として、海音寺潮五郎、大佛次郎、井上靖、水上勉とともに1968年に発足させました。

 舞台生活七十年となる中村梅之助が演じる卯助

・第1場亀戸天神
飴売りの卯助(中村梅之助)の一人娘のおきみ(上沢美咲)が、奉公先の料理茶屋松葉屋の女主人おあさ(河原崎国太郎)のお供で亀戸天神の甘酒茶屋へ。

 左の腕配役

・第2場松葉屋板場
おあさの気配りで卯助も松葉屋で働くことになる。おきみに横恋慕の岡っ引きのいなりの麻吉は、卯助が左の腕を布で匿しているのは無宿者の入れ墨とにらんでおあさに絡むと、卯助は麻吉に「ついて来い」という素振り。
・第3場松葉屋裏手
「金をだすからおきみを妾にしないか」と執拗な浅吉に、「可愛い娘は金では売れない」と撥ねつけると、「それなら左の腕を見せろ」と云われて長門無宿の見せて、卯助は「この古疵ばかりは娘に知られたくない」と浅吉に懇願する。
・第4場元の板場
松葉屋に強盗が押し入り、居合わせた浅吉と店の者が残らず縛られ、抜き身をおあさに突き付けた時、卯助が現れて大太刀廻りで強盗の頭が頬冠りをとった。
翌日は亀戸の天神祭、おきみと板前職人の銀次は内祝言をあげるという演題の庶民の哀歓の役を好演して見せてくれました。

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イベント 大森ベルポート 第9回早慶明大学対抗ジャズ・フェスティバルで明治大学優勝

2009年05月29日 | イベント
kan-haru blog 2009 

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大森ベルポート
第9回早慶明大学対抗ジャズ・フェスティバルが大森ベルポート・アトリウムで、5月10日17時開演で開催しましたので、鑑賞してきました。
大森ベルポート(品川区南大井6-26-1)は、地域は元のいすずの跡で品川区に所在していますが、JR大森駅からと京浜急行大森海岸駅のいずれからも徒歩約5分のところにあり、アトリウムを代表とするイベントスペース、レストランやショップが楽しめるBELL倶楽部、ビジネスを支援するオフィスゾーンなどの多彩な施設を形成する商業複合施設で、大森地区を代表するランドマークです。

 早慶明大学対抗ジャズ・フェスティバル大森ベルポート会場(:大森ベルポート外観、:大森ベルポート・アトリウム)

早慶明大学対抗ジャズ・フェスティバル
早慶明大学対抗ジャズ・フェスティバルの演奏は、司会進行を伊波秀雄(法政大学)さんにより17時からの開始で、演奏は慶応義塾大学、早稲田大学、明治大学の順で行われ、聴衆参加の審査により優勝校が選ばれ、最後に今尾敏道さんのゲスト出演のアルトサックスと明治大学ビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラの演奏によるスイング ジャズを楽しみました。

 早慶明大学対抗ジャズ・フェスティバル パンフレット

大学対抗ジャズ・フェスティバルの楽団構成は、スイング・ジャズのビッグバンドで、サックス、トランペット、トロンボーン、リズムの各セクションの楽器を演奏する総勢が17人前後の楽団です。演奏曲目は、学生達が選んだ課題曲の「ムーン・リバー」を各大学とも第1曲目に演奏します。続いて大学の1年間の集大成の4曲が演奏されました。

 早慶明大学対抗ジャズ・フェスティバル入場券

・慶応義塾大学ライト・ミュージック・ソサエティ
ライト・ミュージック・ソサエティは、創立60周年の歴史をもつ古い学生ビッグバンドサークルで、自由演奏の曲目は、I could have danced all night、PHIL NOT BIL、STAR DUST、SING SING SINGで、バンドメンバーはサックス セクションが篠田圭亮、木村広人、菊谷里菜、野元祐太、松平大の4奏者、トランペット セクションが寺井淳、大崎皓貴、篠原岳人、出田裕理の4奏者、トロンボーン セクションが国松一志、前田大貴、岩崎佐和、谷口恵子の4奏者、リズム セクションが栗林央利子、新谷芳勇、鳥田昭典の3奏者による演奏でした。

 慶応義塾大学ライト・ミュージック・ソサエティ熱演の演奏(写真拡大)

・早稲田大学ハイ・ソサエティ・オーケストラ
今年で創部54周年を迎えた伝統あるビッグバンドで、自由演奏の曲目は、I’ll Never Smile Again、Mean What You Say、Darn That Dream、Riffin’ the Griffinで、バンドメンバーはサックス セクションが道添樹、三浦瑞貴、近藤研也、船木研介、新井由梨奈の5奏者、トランペット セクションが島崎悠介、上方俤弘、大槻寿彦、程原教子、鹿取真千子の5奏者、トロンボーン セクションが駒野逸美、北市健太郎、菊谷梨沙、湯川英之の4奏者、リズム セクションが谷口雄大、大黒洋平、舟津亘の3奏者による演奏でした。

 優勝を賭けて熱演の早稲田大学ハイ・ソサエティ・オーケストラ(:メンバーの楽譜は年期が入ってボロボロ、:珍しい女性のトロンボーン奏者、:熱演のサックスメンバー)

・明治大学ビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラ
大学の軽音楽クラブ内のジャズ・ビッグバンドとして1961年に活動を始め、1989年にクラブから独立したバンドで、自由演奏の曲目は、Whirly Bird、It Could Happen To You、My Man Benny、It Don’t Mean A Thingで、バンドメンバーはサックス セクションが小西遼、橋本和也、山口宗真、川村謙介、野瀬弘造の5奏者、トランペット セクションがオーデルマット啓太、原田裕介、富永聖子、関篤志の4奏者、トロンボーン セクションが小林菜穂、塩原秀典、矢部春奈、浜地沙代子の4奏者、リズム セクションが角田隆太、木村紘、三間洸、阿部加奈子の4奏者による演奏でした。

 優勝を狙って熱演の明治大学ビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラ(写真拡大)

優勝校選出
3校の演奏後に、聴衆の全員が拍手によって最優秀校を選びます。第1回目の拍手では、早稲田大学と明治大学が互角で譲らず2校が残り、決戦の2回目の拍手により明治大学の優勝が決まりました。賞が決まった大学に、女子高生から花束が贈られ、大森駅長から賞金が授与されました。
これで、明治大学の優勝は第2、3、6回のフェスティバルに続き4回目の優勝に輝きました。早稲田大学は第1、4、7回のフェスティバルで3回の優勝を獲得し、慶応義塾大学は第5、8回のフェスティバルで2回の優勝を獲得しています。

 対抗演奏が終わり優勝校決定のセレモニー(:対抗演奏が終わりキャプテンに花束贈呈、:聴衆の拍手により第9回対抗ジャズ・フェスティバルの優勝は明治に揚がる、:大森駅長から優勝賞金の授与)

特別ゲスト出演
優勝校選出の後は、特別ゲストの今尾敏道さんと明治大学のビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラとの演奏が行われました。ゲストは、明治大学のビッグ・サウンズ・ソサエティでサックスを始め、卒業の86年以降「森寿男&ブルーコーツ」に入団し、その後は「川上修バンド」などのジャズバンドで演奏し、「オルケスタデラルス」のメンバー等で結成したラテンバンドでの活躍やニューヨークのJVCジャズフェスティバルなどに出演しています。サックスの響きに堪能してから、終演時間の20時となり大森ベルポートのレストランで食事をして帰りました。

 大学対抗ジャズ・フェスティバルのフィナーレ(:今尾敏道ゲストの出演挨拶、:ゲストと明大B.S.S.O.の演奏、:大学対抗ジャズ・フェスティバル終了挨拶)

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イベント 横浜開港150周年 ザよこはまパレード、フラワーアートフェスティバル、神奈川県庁公開その2

2009年05月21日 | イベント
kan-haru blog 2009 象の鼻の防波堤

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ザよこはまパレード
第54回ザよこはまパレード(横浜開港記念みなと祭 国際仮装行列)は、晴天の5月3日に「開港への道~ザッツ・よこはま・エンターテイメント~」をテーマとして、キッズパレードの16チームが山下公園前を10時45分にスタートし、赤レンガパークの先の横浜ワールドポーターズまでの1.8kmを行進しました。続いてスーパーパレードのPART1~4グループの47チームが、山下公園前を11時15分にスタートし、横浜ワールドポーターズから左折して伊勢佐木町6丁目までの3.8kmを行進しました。

 ザよこはまパレードコース(国際仮想行列実行委員会パンフレットから)

国際仮装行列は、1953年(昭和28年)に横浜に多数の人が集まる一大名物となる様な行事を計画しようとの発案により、国際港である特色を活かして在留外人も参加出来る行事をとのイベントを採択して、昭和28年6月2日の横浜開港記念日に第1回の行列が行われて以来、今年は横浜開港150年記念にあたり第54回目の国際仮装行列が開催されました。

 ザよこはまパレード(国際仮装行列)1(写真拡大)

日本大通りで同時開催のフラワーアートフェスティバルを一通り観賞したので、神奈川県庁前を通って象の鼻地区の海岸通りの交差点に11時半頃行くと、パレードの見物人で一杯でした。通りは割り込むことが出来ないほどの混雑のため、人垣の後ろから背伸びして国際仮装行列を見ようと待っていると、ほどなくパレードの先頭が近ずいてきました。

 ザよこはまパレード(国際仮装行列)2(写真拡大)

人垣の間から背伸びして暫く見ていると、そろそろ疲れがでてきたので時計を見ると12時15分すぎなので、これから今日3つ目の見学先の神奈川県庁本庁へと向かいました。

 ザよこはまパレード(国際仮装行列)3(写真拡大)

・第54回パレードの入賞チーム
第54回パレードの優勝団体の「はまっパレ大賞」の入賞チームは、スーパーパレードフロートの部が埼陽軒のKIYOUKEN101 「sail for the future!」で、スーパーパレード徒歩の部がヨコハマ リトル メジャレッツ/ザ ヨコハマ スカウツ ドラム & ビューグルコーのたびだち「未来・出航」ザ ヨコハマ 新たな世界へ夢と希望で、キッズパレードの部が湘南ドルフィンズ・マーチングバンドのthe future「未来」へ出航がそれぞれ入賞しました。

神奈川県庁本庁舎の公開・展示
神奈川県では、神奈川開港・開国150周年メモリアルイベントとして、「キングの塔」の愛称で親しまれている県庁本庁舎内(知事室、大会議場、第三応接室と屋上)の一部を、5月2~5日の9~17時の期間に一般公開されました。

 神奈川県庁本庁舎のキング一般公開(:神奈川県庁本庁舎、:本庁舎玄関、:本庁舎の門表札の漢字は昔の字体のまま)

庁舎内大会議場においては、マリア・ルス号事件の「大はい」等の展示を行うとともに、同事件を題材にした紙芝居の上演や神奈川の昔を振り返る映像の上映等を行なわれていましたので、国際仮装行列を見た後で見学しました。

 大会議室公開展示(:大会議室入口、:県庁説明ビデオ、:マリア・ルス号事件の紙芝居)

1927年(昭和2年)11月に開庁した県庁本庁舎は、かわら屋根を模した和風、洋風のミックスタイプの「帝冠様式」のデザインで威風堂々とした外見から「キング」と呼ばれる、5階建ての鉄骨鉄筋コンクリートの建物で、1996年12月に国の登録有形文化財に指定されました。まるみがある横浜税関庁舎「クイーン」と、小ブリの横浜市開港記念会館「ジャック」と共に横浜の三塔としてシンボル的存在です。

 キングとジャック(左・:キング、:ジャック)

・本庁舎屋上
見学はコース順が決まっていましたが県庁の玄関を入ると正面に階段があり、階段の両側の柱内に埋め込まれたとても小さなエレベータに乗り、先ず6階の屋上に上がりました。
屋上からは横浜の港が一望でき、下の海岸通りを見降ろすとザよこはまパレードの行進が見られました。横浜港を展望すると、やや右前方に「大桟橋ターミナル」が、下の方に「象の鼻」と呼ばれる防波堤が見えます。中央から「象の鼻」の堤防を見ると、1882年(明治15年)の横浜港の地図の姿がはっきり浮かびあがります。
やや左に目を転じると、国際仮装行列が進んで行く赤レンガ倉庫や、開国博Y150の会場の一部が見えます。大きく右に目を向けると、横浜ベイブリッジの展望ができます。

 本庁舎屋上カラ見る横浜港展望は抜群の見晴らし(:大桟橋ターミナル、:赤レンガ倉庫と開国博Y150の会場、:大桟橋ターミナルの右手に見える横浜ベイブリッジ)

・大会議室
エレベータで3階に降り、階段左側の入口を入ると大会議室で、昔は議場として使用していましたが、現在でも庁内会議や式典などには使用しているそうです。大会議室には、明治初期の神奈川県知事大江卓の掛け軸や、マリア・ルス号事件の際、中国人を解放したことに感激した横浜在住の中国人の方々が、事件解決の立役者であった神奈川権令の大江卓と外務卿の副島種臣に対して贈った、真紅の布地に金色文字の大はいの展示と、1932年(昭和7年)に作成された吉田初三郎氏作の鳥瞰図の「神奈川観光図絵」が見られました。

 大会議室の公開展示品(:大会議室、:吉田初三郎氏作の鳥瞰図「神奈川観光図絵」、:大江卓の掛け軸)

・知事執務室
大会議室を出ると知事室見学者が、廊下に列を作っておりましたので後尾に並び、和洋折衷の装飾美の豪華な雰囲気が漂う知事執務室を、手前の部屋の知事室応接から見学しました。

 知事執務室(:知事執務室、:調度品は装飾美の豪華な雰囲気、:知事の執務デスク)

・第三応接室
知事室とは反対側にある第三応接室は現在も応接室として使用しているそうで、竣工当初は天皇陛下の貴賓室として用意されたもので、シャンデリアや家具には宝相華(ほうそうげ)の模様が施され、竣工当時とほぼ変わらぬ状態を留めています。
連休の横浜開港150周年記念に3か所ものイベントを見学し終えると、14時近くになりましたので、来客の予定があるため昼食をとらずに、お弁当を買って帰宅しました。

 竣工当時とほぼ変わらぬ第三応接室(写真拡大)

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イベント 横浜開港150周年 ザよこはまパレード、フラワーアートフェスティバル、神奈川県庁公開その1

2009年05月19日 | イベント
kan-haru blog 2009

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横浜開港150周年
1853年(嘉永6年)に日本の鎖国政策を破棄させ港を開かせる目的で、ペリーが率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れて、1854年(安政元年)には日米和親条約を横浜にて締結して日本は開国しました。1858年(安政5年)に神奈川沖に停泊のポーハタン号船上で日米修好通商条約が締結されました。同条約に沿い1859年(安政6年)に横浜で港が開かれてから、2009年は開港150周年あたります。
横浜開港150周年記念し様々なイベントが開催されますが、記念事業のコアーとして「開国博Y150」が4月28日から9月27日まで開催しておりますので、そのうち行って観たいと思っています。

連休中にも各種イベントが行われ、5月3日に開催の恒例の第57回「ザよこはまパレード」は横浜開港150周年にちなんで、2005年から5年間は統一テーマとして「開港への道」としてパレードが行われています。
この横浜開港の地に、1879年(明治12年)にブラントンの設計による日本最初の西洋式街路の「日本大通り」が造られたことにより、この関連から歴史の日本大通りの会場で「フラワーアートフェスティバル」が開かれました。
この銀杏並木の緑に囲まれた道幅の広い日本大通りの両側には、神奈川県庁、横浜開港資料館、旧商工奨励館、横浜地方裁判所など重厚な歴史建造物が並んでいます。日本大通りの横浜地裁と反対の北側に建立の神奈川県庁本庁舎は、関東大震災で県庁舎が焼失したため1927年(昭和2年)に再建された建物で、この本庁舎の内部施設や屋上などが5月2~5日の間一般公開されましたので、3日に見学してきました。

 横浜開港150周年記念イベントパンフレット(左:ザよこはまパレードパンフレット[拡大]、中:フラワーアートフェスティバル[拡大]、右:神奈川県庁本庁舎の一部公開[拡大])

フラワーアートフェスティバル
先ずイベントはフラワーアートフェスティバルの見学から始めるとして出かけ、京急横浜駅からみなとみらい線に乗り換えて日本大通り駅を出ると、目前の日本大通りの会場には大勢の人が押しかけて車道一杯に描かれている花絵を観賞していました。

 フラワーアートフェスティバル会場地図

日本大通りは、みなとみらい21地区から山下公園を結ぶ海岸ラインと横浜港大桟橋との接点の「象の鼻地区」から南の横浜公園までの通りで、車道より広い歩道と銀杏並木の緑に囲まれた、優しく理想の道路です。

 花絵鑑賞で混雑する日本大通りフェスティバル会場(左・中:混雑する日本大通り会場の歩道、:見学者で埋まるフェスティバル会場)

フラワーアートフェスティバルは、横浜市が横浜開港150周年を記念し、市民の協働をもとに開港の歴史と道路の未来を象徴して、花びらを道路に敷きつめて花絵を描き、「花」と「アート」をテーマに日本大通りを花絵のカーペットで埋め尽くされます。

 横浜開港150周年記念の花絵の観賞(写真拡大)

巨大な花絵は21枚で、バラ約18万本とチューリップ約6万本の花びらを使って、1800名の市民ボランティアが作成した世界最大級の花絵です。

 日本大通り会場は花絵の絨毯

花絵のデザインは、テーマが「私の好きな横浜」で一般から募集して、花びらの色彩は赤・黄・白・紫・オレンジ・ピンクの6色と、黒・青・緑の3色のカラーサンドを使用して、横7メートル、縦5メートルの花絵を描きます。花絵に使用する「バラ」は枝わかれした不要な花をインド等から輸入して、「チューリップ」は新潟県に募集の50名が参加して一泊の日程で花摘みに行きました。花絵の作成は5月2日に1日をかけて、花束から花びらを1枚ずつほぐし、下絵の描かれた上に花びらで造りあげる作業と、開催中に完成した花絵の花びらの補充と水まきなどの作業を市民応募のボランティアが協力して行われました。

 市民公募作品(:作品「PORT OF YOKOHAMA」、:作品「潮風感じる赤レンガ倉庫のひととき」、:作品「みんなで未来へ出港だ!!」)

描かれた絵は、横浜絵が10点、市民公募作品10点、東京ディズニーシー作品の1点で、市民公募作品の最優秀賞は戸塚区の吉浦真琴さんの作品が選ばれました(花絵展示作品一覧紹介パンフレット)。

日本大通りフラワーアートフェスティバルと類似のイベントには、晴海フラワーフェスティバル Infiorata(「イベント 晴海フラワーフェスティバル Infiorata 2006」参照)が晴海トリトンスクエア横の道路上に、近隣の住民を中心に約600人が下絵をもとにバラの花びらと色のついた砂を使用して敷き詰めて、縦7メートル、横5メートルの花絵を21枚作成したイベント開かれています。

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イベント 三井記念美術館 三井家のおひなさまと特別展示きもの展

2009年04月03日 | イベント
kan-haru blog 2009 

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お彼岸と節句
お彼岸には、菩提樹の神宮寺(古河市横山町1-1-11)にお墓参りに出かけます。神宮寺は、茨城県古河にある旧日光街道に面してあり、1446年(文安三年)の後花園天皇の御代に良宥上人に開基された古寺で、本殿の本尊の不動明王とは別に十一面観音が祀られて(「風景・風物詩 秋の歳時記お彼岸 城下町古河の菩提樹お墓参りと周辺散策 その1」参照)います。

 古河は鎌倉の足利成氏と結ぶ歴史のある街(:十一面観音像説明板、:古河市は日光街道沿いの城下町、:神宮寺は古河公方の足利成氏と所縁がある)

墓参りの帰りには、途中立ち寄りして散策するのが恒例で、今年は三井記念美術館で2月4日から4月5日まで開催の三井家のおひなさまと特別展示きもの展を3月18日に見てきました。

 三井記念美術館地図

三井記念美術館(中央区日本橋室町二丁目1番1号 三井本館7階)は、三越本店前の三井本館7階にあります。三井記念美術館では、撮影禁止のためおひなさまなどの展示物の撮影写真はありません。

 三井記念美術館

三月節供
3月3日のお雛祭りは、昔中国では水辺にて身を清め、穢れを祓う習慣の桃花節が日本に伝わったと云われます。農耕民族の日本では弥生の月の3月は、濃耕作業の始まる時期で濃耕に害になるものを祓い、身の穢れを流し清めるため人の身代わりに人形(ひとがた)をつくり、人を撫でて人形に穢れや災いを移して、3月3日の節句の夕方に川や海に流す流し雛は各地(「小さな旅 すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな」参照)で行われています。

現在でも、各地の神社でヒトガタに名前・年齢などを書き、それに身体をなでたり、息を吹きかけたりして、自分の災厄や穢れを人形に移して神事を行いお焚きあげ(「大森町界隈あれこれ 2009年ゆく年・くる年 大森町の歳末・正月風景その1」参照)をします。

昔は、ヒトガタの変形として出産お祝の作られた人形に、T字形に組んで白絹製の頭部を付けて産着などの衣装を着せてお祓いの形代にした「天児(あまがつ)」が宮中で使われました。また、民間では小児誕生の際に白絹地で首と胴を綿入れにした這う子のかたちどりの人形を作り、祈祷を済ませて子供の枕元に置いて災厄を負わせた「婢女(ほうこ)」という出産祝いの人形がありました。

雛祭り
人形のお祓いとは別に、平安の中期には宮中や公家では男女の人形を使用した、京都なまりの雛遊(ひいなあそび)という大人の遊びが広まりました。京都から江戸に雛遊がやって来たのは寛永の末期ころで、民間でも広まったようです。雛遊が江戸に移り雛祭りに変わったのは、享保年間頃と云われています。

立雛
雛人形のかたちは、初めは「立雛」で主として雛を厚紙で作り、木で作られた頭を差し込み、面相を整え髪つけしたシンプルな形でした。あたかも、ひとがたから天児と婢女に進化した人形は、男女一対の雛人形のように見えます。

 立雛(三井記念美術館絵はがき)

座雛
座雛は寛永以後に作られたもので、享保頃には立雛と座雛が対等に飾られて、それ以後では雛人形の座雛が主で立雛が従となりました。さらにその後の古今雛に至ってからは、男雛・女雛の一対雛人形が様々な人形や調度品・道具が加わり豪華なものになってきました。

雛人形の飾り方
雛人形の飾り方は、上方では御殿飾りの二段飾りで、御殿内に雛一対を置き、その他に官女・左大臣・右大臣・桜橘を置きほか座敷に天児・這子・犬張子・市松人形・御所人形・お公家様の調度品を置きます。江戸では、最上段に内裏雛を置くという飾り方で、五段飾り・七段飾り・九段飾りの飾り方です。明治以降になってから、全国的に同じ飾り方になりました。

内裏様の飾り方
昔の内裏様の飾り方は、向かって右が男雛、左が女雛です。現在の飾り方は、関東では昭和初年に左に男雛、向かって右に女雛を飾るということになっています。三井家のおひなさまの飾り方も向かって左に男雛が飾られていました。

 内裏様(三井記念美術館絵はがき)

三井記念美術館のおひなさま展示
三井記念美術館の展示(会場図)は、エントランスホールを入り最初の展示室1から3には、館蔵の茶道具の「春の取り合わせ」の併設展示で、展示室4と5に三井家のおひなさまが展示してありました。
展示品の雛人形は三井記念美術館の資料によると、展示室4に展示一つめの北三井家十代・高棟夫人旧蔵品の巴印のひな人形と雛道具で、実家の旧富山藩主前田家から伝わったものや、江戸時代から三井家に伝来したものと、結婚後三井家で新たに作られたものなどさまざまな年代や種類があります。文化2年の立雛、江戸時代の有職雛、享保雛と、明治時代の内裏雛に、江戸時代の梅鉢紋・違鷹羽紋唐津蒔絵雛道具が展示されていました。

 梅鉢紋・違鷹羽紋唐津蒔絵雛道具(三井記念美術館絵はがき)

展示二つめは北三井家十一代・高公長女寄贈品の昭和9年、京都の丸平大木人形店・五世大木平藏(1885-1941)に注文してあつらえた雛人形と雛道具を、浅野家で行われていた段飾りを再現して展示してありました。

 内裏雛 五世大木平藏(三井記念美術館絵はがき)

三つめ展示は北三井家十一代・高公夫人旧蔵品の明治・大正時代の小蝶印のひな人形とひな道具が展示されており、実家の旧福井藩主・松平家より嫁入り道具として持参した雛で、日本橋十軒店の名工・ニ代永齋製のものが中心で展示されていました。
展示室5には、江戸時代の桐紋津蒔絵雛道具と、江戸時代や明治・大正時代の御所人形や風俗衣装人形と共に、次郎左衛門雛を展示してありました。

展示室6には、新期寄贈品の水野年方筆の「三井好都のにしき」の展示で、水野年方(1866~1908)は浮世絵師の月岡芳年に師事し、『やまと新聞』の挿絵を師とともに担当するなど、挿絵画家として高い名声を得ていました。
展示室7には特別展示のきもの ―明治のシック・大正のロマン・昭和のモダン― で、振袖や着物が14点展示されていました。明治時代のきものは、小さな模様が襟下から裾にかけて配され、地色も黒、藍、鼠、茶系など渋く地味な印象のものでした。大正時代のきものは、華やかな色調、絵画的な表現のきものが流行しました。昭和時代のきものは、幾何学的な地文や明快な色彩表現を特徴とするモダンなデザインでした。

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イベント 東京大空襲資料展 64年前の3月10日は無差別爆撃で浅草、本所、深川の下町が大惨禍

2009年03月26日 | イベント
kan-haru blog 2009 

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東京大空襲
64年前の3月10日は、旧浅草、本所、深川を含む東京の下町の人家密集地域に、B29戦略爆撃機325機が1万3千発のナパーム焼夷弾で、無差別じゅうたん爆撃により死者10万人、負傷者11万人、家屋100万戸が焼失する大惨劇を被りました。
また一方、このブログのカテゴリーの大森町界隈でも、64年前の1945年4月15日に、120機の爆撃機の波状攻撃による爆弾14.5トン数、焼夷弾754.4トン数の爆撃によって戦災家屋6万8千4百余り、羅災人口26万3千9百、負傷者1千6百有余人、死者841人の被害を受けました。

 石川光陽遺作写真展示コーナー

当時は、国民学校(現在の小学校)の6年生で茨城県、栃木県に学童疎開をしており、日本の国内中が戦地で艦載機による機銃掃射の銃弾が近くの地面にめり込むという体験をしました。
東京大空襲資料展の記録「下町が燃えたあの夜」の裏表紙の記述にある、「戦争だけは体験で学んではいけない。戦争は、聞き、紀億し、想像し、伝えていくものです。 障害者教育学者・埼玉大学名誉教授/清水寛氏」が云われるように、あの忌まわしい戦争を、知らない世代に伝えて、知って頂くことが重要です。

 「下町が燃えたあの夜」2009年2月20日発行

戦争の知らない世代が8割
毎年の3月10日前後に、浅草公会堂(東京都台東区浅草1-38-6)や各地で開催される「東京大空襲資料展」などの戦災記録展は、戦争の凄惨な記録を伝え、二度と戦争体験を繰り返さず、平和を願うことに繋がります。

 第22回東京大空襲資料展会場(左:浅草公会堂、中:資料展入口、:資料展エントランスホール)

このブログも、当時、父の同僚である若山武義氏が、大森町などで東京大空襲の戦災に遭遇した際記録した貴重な手記を、ご遺族のご好意によりご提供を受け、手記に解説を付けて連載の「大森町界隈あれこれ 空襲編手記第1編第2編」の18編、「大森町界隈あれこれ 戦前戦後第3編」の9編、「大森町界隈あれこれ 戦後史手記第1~3編」の21編(未完)を掲載してきました。今後も掲載の予定で、大空襲の凄惨な記録を掲載して、戦争の悲惨さを少しでも伝えられたらと思っています。

 当時の焼夷弾を手に話をする被災体験者

東京大空襲資料展
第22回目を迎えた今年の東京大空襲資料展は、3月7日から10日までの午前9時から午後5時まで東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会により開催され、9日15時頃から小1時間ほど見てきました。東京大空襲資料展には、2年前から毎年見に行っており、入場者は第20回が4744人、第21回が7040人であり、第22回の入場者はささやかな協賛金を送付の礼状によると1万人に近いとあり、資料展の凄惨な戦争の記録を伝える開催意義は果たされているようです。

 令状

東京大空襲資料展は毎年同じレイアウトで展示され、東京大空襲の解説コーナー、石川光陽遺作写真コーナー、灯火管制下の部屋、被災体験者の焼夷弾被災の話、図書コーナーなどを一巡しました。

 東京大空襲の解説展示コーナー

図書コーナーでは毎年図書を求め、今年は「下町が燃えたあの夜」東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会発行と、「東京の戦争と平和を歩く」東京都歴史教育者協議会編を買いました。

 展示コーナー(左:図書コーナー、右:灯火管制下の部屋)

戦跡めぐり
毎年大空襲の追悼会として各地で行われておりますが、浅草では3月10日午後1時から、言問橋際の隅田公園内犠牲者追悼碑前で、東京大空襲犠牲者追悼会が開かれます。
また、東京慰霊堂では、3月10日に三笠宮寛仁親王の御臨席のもと、導師は浅草寺管長により石原都知事の弔辞で、東京大空襲の犠牲者を追悼し、平和を祈念する法要が行われました。

昨年の3月9日に東京大空襲資料展を見に来た時に、東京板橋九条の会で浅草戦跡めぐりを行っておりましたので臨時に参加させて頂き、浅草寺周辺から、東京都慰霊堂、東京大空襲・戦災資料センターと広範な戦跡めぐり(「イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1~4」参照)を案内して頂き、悲惨な戦争を想いおこして改めて平和がいつまでも続くことを祈りました。

戦跡めぐりの最後は、東京大空襲・戦災資料センターを廻りましたが、ここでは2、3階の常設展示室で、空襲を描いたさまざまな絵画や被災地図、日本空襲の写真、実際に投下された焼夷弾や空襲の被災品、体験者の手記・写真、戦時下の文書などが、東京大空襲の実相が見られ、また、「戦争と子どもたち」の部屋には、戦中教育や学童疎開などをテーマにした資料が見られ、灯火管制下の暮らしぶりを再現した部屋などが展示してあります。戦災資料センターには、維持会員として加入して、今までに3回ほど見に行っています。

戦争を伝える資料館(東京)
都内で見られる戦争を伝える資料館には、東京大空襲・戦災資料センター、昭和館、平和祈念展示資料館などがありますので、戦争を知らない世代の方々には是非資料館に出かけて戦争の一端を見て、現在の平和の世界が何時までも続くことを祈念して頂きたいと願います。
・東京大空襲・戦災資料センター
東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区北砂1丁目5-4)は、東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、募金で設立された民立・民営の資料センターです。平成19年に展示会場を増設して倍増されました。休館日は年末・年始と月・火曜日で、開館時間は12時~午後4時まで、入場料は一般300円、中・高校生200円です。

・昭和館
昭和館(東京都千代田区九段南1-6-1)は、戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後(昭和10年頃から昭和30年頃まで)の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供し、後世代の人々に伝えていこうとする国立の施設です。休館日は年末・年始と月曜日で、開館時間は午前10時~午後5時30分まで、入場料は大人300円、65歳以上270円、高校・大学生150円、小・中学生が80円です。

・平和祈念展示資料館
平和祈念展示資料館(東京都新宿区西新宿2-6-1新宿住友ビル48階)は、恩給欠格者、戦後強制抑留者、引揚者の方々などの労苦についての理解を深めていただくことを目的として、平和祈念事業特別基金が開設した施設です。休館日は年末・年始と新宿住友ビル休館日で、開館時間は午前9時30分~午後5時30分まで、入場料は無料です。

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