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イベント 歌舞伎観劇 さよなら歌舞伎座九月大歌舞伎

2009年09月30日 | イベント
kan-haru blog 2009

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今年も恒例の母校の歌舞伎観劇会の催しがあり、9月13日の歌舞伎座さよなら公演九月大歌舞伎夜の部を見てきました。昨年の観劇会は都合により見に行けませんでしたが、ブログ開始以来3回目の観劇であり、今までみた歌舞伎の観劇は第一回(2006年)第二回(2007年)の秀山祭九月大歌舞伎の夜の部でした。

 さよなら公演九月大歌舞伎

来年取り壊される歌舞伎座の歴史をホームページから見ると、1889年(明治22年)に初代の歌舞伎座が造られ、第二代の歌舞伎座は1911年(明治44年)に大改築が行われ、1924年(大正13年)に第二代の建物が焼失により耐震耐火の桃山時代の様式で竣工し、1945年(昭和20年)の空襲で外郭を残して消失したので、1949年(昭和24年)に現在の歌舞伎座が竣工しました。平成14年に登録有形文化財に指定された現在の歌舞伎座は、舞台間口が15間(約27.6m)、廻り舞台直径が60尺(約18m)でセリが4か所で、観客席は桟敷や一幕見席を合わせて2000席です。

 さよなら公演もあと残り230日

観劇会は、お弁当が付いて一般料金よりやや安く、イヤホンガイドの使用料も割引で利用でき、座席は抽選で決まりますのでチケットが届くまで分からないところがまた楽しみで、前回は中央最前列の席が当たり、普通では殆ど入手不可の席で観劇させて貰いました。


今年のさよなら公演の夜の部の演題に歌舞伎十八番の勧進帳がありますので、座席がどの辺かを楽しみにしていましたら、9列1、2番の花道左手の席が当たり前回に続いて良い席に恵まれ、年1、2度の歌舞伎観劇の素人には勿体ない席で、歌舞伎座最後の観劇を堪能させて貰え良い想い出となりました。

 花道横の座席から見る

歌舞伎座さよなら公演九月大歌舞伎夜の部
夜の部の上演では、中村吉衛門の幡随院長兵衛役で鶴屋南北作の浮世柄比翼稲妻、富樫左衛門役の勧進帳、紅屋長兵衛約の松竹梅湯島掛額に出演しての演技が見られます。なお、この他吉衛門は昼の部の時今也桔梗旗揚にも出演しています。


浮世柄比翼稲妻
鶴屋南北作の浮世柄比翼稲妻の最初の幕の「鞘當」は、桜満開の吉原に不破伴左衛門(松緑)と名古屋山三(染五郎)の二人の武士が登場する。登場人物の二人は、違った世界の題材のものですが、作者が独自に固有に作り上げた劇世界での芝居です。
二人の武士が吉原で行き違った時に互いの刀の鞘が当たり、争いになったところを茶屋女房お京(芝雀)が間に入って抜いた刀を納め、お京の言葉に従い互いの刀を取り替えると自分の刀に収まります。実は山三の家には同じ刀が二振りあったのだが、山三の父が闇討ちにされた際に奪われたもので、山三は伴左衛門が父の敵といきり立つが、お京の計らいでここでは立ち別れると云う南北特有の作りです。
初めて花道の脇の座席から見上げる役者の衣装や仕草は、迫力満点でした。
次の幕の「鈴ヶ森」は、東海道品川宿に近い鈴ヶ森の刑場が場面で、鈴ヶ森は自宅の大森町から2つ目大森海岸駅から徒歩五分程度のところに刑場跡の碑があります。

 左:鈴ヶ森刑場遺跡、右:鈴ヶ森刑場処刑者の墓

また、手配者の白井権八(梅玉)が乗った駕籠の提灯には「するがや」と書かれてありますが、この「するがや」は大森町近くの旧東海道の内川橋の袂に存在した旅籠屋の屋号で、この通りをするがや通りと呼んでいます。この場面で、権八が切りまくる雲助の立ち廻りでは小道具を使って、笑いの要素を入れた芝居は、南北ならでの観客を楽しませてくれました。

 左:旧東海道内川付近の石畳、右:旧東海道を東に折れるとするがや通り

勧進帳
勧進帳は、年1、2度の観劇でも今回で2度目の鑑賞です。花道での演技が多いので期待していた演目です。舞台は能舞台を模した大道具の「松羽目」と下手には五色の「揚幕」に上手には「臆病口」の「松羽目物」です。吉衛門の富樫左衛門、幸四郎の弁慶、染五郎の義経という俳優陣は、七世幸四郎が生涯で千六百回も演じたと云われる弁慶役者の没後60年を偲ぶ舞台です。
幕が開くと、強力にやつした義経と山伏姿に変えた弁慶と4人の家来の一行が安宅の関に向かう道中の花道の場面です。血気盛んな家来たちは力ずくで関を踏み切ると勇んでいるのを、弁慶がとても関を越えることは出来ないので考えがあるので任せて欲しいと申し出により、義経は家来たちに従うように命じて安宅の関に向かいます。目前の花道で聞く役者の台詞と俳優の表現にはとても迫力が感じられます。
安宅の関では、富樫と弁慶のやりとりと、弁慶が咄嗟の機転で義経を金剛杖で打ち据える名場面と、富樫の心情の変化と酒宴での弁慶が延年の舞いを舞います。
最後の見どころは、富樫の配慮に感謝して、先に落ち延びさせた義経一行の後を弁慶が追って行く「飛び六方」を目前の花道で見られて感激しました。

 左:当代幸四郎の弁慶、右:七代目幸四郎の弁慶(プロマイドから)

松竹梅湯島掛額
松竹梅湯島掛額は、1856年(安政3年)に河竹黙阿弥が、1809年(文化6年)に初演の福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院の場」と、1773年(安永2年)に人形浄瑠璃で初演された「伊達娘恋緋鹿子」の「火の見櫓の場」を継ぎ合わせて脚色して、1856年(安政3年)に初演されたものです。
最初の「吉祥院お土砂の場」は、八百屋お七(福助)と小姓吉三郎(錦之助)の恋物語に、紅屋長兵衛(吉衛門)がお七の恋に手を貸すという筋で、真言宗の秘法で土砂を洗った「お土砂」を死体などにかけると柔らかになる不思議な粉を撒いて客席に笑いを生み出し、歌舞伎では珍しい笑劇です。この場面で出てくる、子役の丁稚長太(玉太郎)は可愛い演技を熱心に演じていました。
次の「四ツ木戸火の見櫓の場」は、吉三郎が探している重宝天国の短刀を、お七の家に来ている釜屋武兵衛が持っているので、盗みだして吉三郎に届けに行くようにと下女お杉(歌江)がお七に勧めたが、時刻は暮れ六つを過ぎており木戸は閉じられており開けて貰えないので、罰を受けるのを覚悟で櫓の太鼓を打って木戸を開かせ短刀を吉三郎のところに持って駆けつける筋で、場面の一部が文楽人形の動作の“人形振り”で演じる「櫓のお七」の場面です。

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