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kan-haruの日記

イベント 京急ファインテック久里浜事業所 京急ファミリー鉄道フェスタ2008 その3

2008年06月13日 | イベント
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車体上げ作業実演
主工場を見ていると車体上げ作業実演(再掲拡大構内地図E)を開始するとのアナウンスがあり、この日1回目の11時30分からの実演を見学しました。
先ず、作業を実演するメンバーの紹介の後、車体上げの電車を牽引して運ぶ車両牽引車(アント)の登場です。牽引車は、軌陸両用型で車体を上げる車両の線路までゴムタイヤで走行し、線路上に来ると鉄輪をセットして電車を迎えに行き、車体を持ち上げるジャッキーの所まで誘導して牽引します。

 車体上げ車両牽引のアント(左:作業メンバー、:ゴムタイヤで移動のアント、:電車を牽引する線路に鉄輪セットのアント)

隣の工場から車両を牽引して、持ち上げジャッキーの位置で車体を固定してアントは切り離され元に戻ります。

 持ち上げ車両を誘導して牽引するアント(左:隣の工場から車両を牽引、:ジャッキーまで車両を牽引、右:ジャッキー位置で車両をセット)

車体持ち上げのため左右4ヶ所のジャッキーの制御設定を行い、設定後持ち上げ動作により車体が自動制御により持ち上がり始め、所定の高さに到達すると停止します。
車体の持ち上がっていく高さは、写真のジャッキーに備えてあるランプの光の位置で解ります。

 車体持ち上げ作業(:ジャッキーの持ち上げ制御セット、:車体をジャッキーが持ち上げ中、:車体持ち上げ完了)

車体の持ち上げで外された台車は、トラバーサーに積んで保管場所に運ばれます。

 台車をトラバーサーで運搬(:台車を運ぶトラバーサーが接近、:トラバーサーが台車の前で止まる、:台車をトラバーサーに引き上げる)

持ち上げ車体の前・後方に、ホークリフトで仮台車を運び車体の下に移動して、台車の位置に設定します。

 仮台車のセット(:ホークリフトで仮台車を運ぶ、:持ち上げ車体の下に仮台車を運ぶ、:仮台車の位置をセットする)

仮台車が置かれると、持ち上げジャッキーを下降させて車体を仮台車に乗せます。

 持ち上げ車体を仮台車上に降ろす(:ジャッキー下降制御セット、:車体が仮台車に降下中、:ジャッキー降下完了)

仮台車上に置かれた車両は、その車体の修理・整備のためトラクターによって押して移動し、ピットまで運ばれます。

 仮台車の車体をピットに移動(左:移動トラクタの登場、:車体を押して移動、右:車体修理のためピットまで移動)

主工場部品展示
主工場部品展示(構内地図D)は、車体上げ実演を行った大きな主工場内に展示してあり、電車の主な構成部品が見られました。展示部品を見ると、電車がどのような機能を持った部品で作られているのかが解ります。
台車はかなり複雑な構造であり、主電動機は高速で走る割合に小型で、パンタグラフは昔のひし形と比較すると非常に簡単で見るからに軽量化されたことが解りました。

 電車構成部品1(:台車、:モーター、:パンタグラフ)

冷房装置は薄い構造だがかなり大型です。電動空気圧縮機はブレーキ系統には欠かせないもので、連結器は先頭車用ものと中間車用では構造が異なっています。

 電車構成部品2(:冷房装置、:電動空気圧縮機、:連結器) 

主制御装置は、電車の中枢部品で運転台の操作で電車の速度を変えたり、止めたりなどの制御を司る装置です。静止型補助電源装置は、パンタグラフから受けた直流1500ボルトを変換して、直流の24、100ボルトと交流の100、200、440ボルトを作る装置です。バッテリーは、停電の時や始発前の電源として蓄電しておく機器です。

 電車構成部品3(:主制御装置、:静止型補助電源装置、:バッテリー) 

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イベント 京急ファインテック久里浜事業所 京急ファミリー鉄道フェスタ2008 その2

2008年06月11日 | イベント
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保存車両開放
長年大森町駅近くに住んでおり出かける時の交通手段なので日常生活に溶け込んでおり、京急と共に歴史を歩んだので京急ファミリー鉄道フェスタには大変と関心があります。戦中・戦後の小学生時代に乗ったデ51形・デ1形電車のイメージは、今でも鮮明に残っています。車両撮影コーナー(再掲拡大構内地図M)で勢ぞろいして並んだ運行中の電車を見てから、小学生以下参加の運転台撮影コーナー(構内地図N)の前には、昔懐かしいい「デ1形複元車」と「デ51形複元車」が並んで展示してあり、乗車して見学できる保存車両開放(構内地図O)では、これだけでフェスタに来た甲斐がありました。

 小学生以下参加の運転台撮影コーナー

・デ51形復元車
デ51形の展示車両は、1924年(大正13年)に登場の鋼鉄製電車で昭和時代を生き続けて、戦後の物資欠乏時代にはかなりの期間本線でも運行され、晩年は、大師線や空港線で活躍し、1965年(昭和40年)まで運行され、都電と同じ様に運転手が先頭の運転台に立っての運転で、乗車していて揺れが少なく静かな車体でした。

 デ51形復元車(:復元車説明板、:復元展示車、:デ51形はダルマ形)

当時の中高生の間では、大森の東京湾には曳舟に引かれる船尾が丸いダルマ船が多く見られ、デ51形電車も先頭が丸いので「ダルマ船(せん)」と愛称を付けて呼んでいた人気の車両でした。展示の復元デ51形は、製造時の復元でポール集電形ですが、戦中の1940年(昭和15年)頃にはパンタグラフに付け替えられました。

 デ51形復元車(:デ51形運転席、:デ51形定員は96名、右:デ51形車内)

・デ1形復元車
小学生の頃電車に乗ると、運転台のある先頭に乗りたいとの思いがある筈です。デ1形電車の運転席の構造は少し変わっており、運転席は腰までの高さの腰板で逆L字の囲いがしてあるだけで、腰から上は客席との仕切り板が無く、横の客席と背面から運転手の操作が丸見えのため、電車に興味のある小・中学生には関心が高い電車でした。

 デ1形復元車(:復元車説明板、:復元展示車、:デ1形車両構造)

デ1形電車の車体は、運転席との仕切り壁がないため、社内の座席からは運転席前面の窓外の景色も見られ、車窓は現在の様に広窓ではないのですが、窓の柱を細くして車体全体をとりまき窓面積を広くした形の2ドアの電車で、座席からは前面も左右の風景が良く見渡せる形式のデザインのためオープンな明るい感じの車両で、運転手とは親しみが持てました。
 
 デ1形電車の運転席は仕切り壁がなくオープン(:運転席の背後から前面を見る、:運転席を客席側の横から見る、:シンプルな運転制御機械は客席から丸見え)

京急は広軌ですので、都心から郊外まで高速運転の快適性をデ1形電車に求めていましたので、当時流行の海水浴客には展望性の良い車両は人気で、特に子供には運転手の脇で運転操作を見ながらの急行電車の高速運転には心を奪われる車両でしたが、残念ながら当時は大戦へと進んだいやな時代の思いが深い車両です。
復元展示車では、1930年(昭和5年)製の当時は最新・最高技術の車両で高速・快適性を求めたクロスシートの車両にお目にかかれましたが、子供の頃利用した戦中・戦後時代にはロングシートの電車のみであり1980年(昭和53年)まで運転された馴染み深く懐かしい名車でした。

 デ1形列車客席(:クロスシートの客席、:客席から前面展望ができるデ1形車両、:デ1形車両を示す社内表示板)

主工場見学
懐かしい電車を見た後は、主工場内を見学(構内地図D)して小学生以下が対照のパンタグラフ上げ下げ操作体験(構内地図G)や信号機操作体験(構内地図L)会場で幼児が真剣な態度で操作している微笑ましい光景に触れました。

 主工場見学(左:信号機操作体験コーナー、中:パンタグラフ上げ下げ体験、右:主工場見学コーナー)

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イベント 京急ファインテック久里浜事業所 京急ファミリー鉄道フェスタ2008 その1

2008年06月09日 | イベント
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京急ファミリー鉄道フェスタ2008
京浜急行電鉄では、毎年5月下旬の日曜日に、京急ファインテック久里浜事業所において、京急ファミリー鉄道フェスタを行っており、今年で10回目の開催となる「京急ファミリー鉄道フェスタ2008」が5月25日に開かれ、多くの参加型イベントの募集を行い、特に今回は、京急創立110周年記念のラッピング電車も、会場に登場するなど人気の高いイベントです。25日は、親子孫の3代で見てきました。

・参加イベントの応募
毎年、開催案内の広告を見て日常京急を利用しているので、一度は是非見たいと思っていました。都心にいる孫も、小学生の男子で鉄道博物館などに関心がある年代となり、予め事前募集を行った「車両部品優先販売」(400名)と「洗車体験」(400組800名)にはがきで応募してみました。応募のイベントにはこの他「主工場見学ツアー」(75組150名)もありましたが、募集人員が少数であり抽選確率が低いとの判断で申し込みをしませんでした。
応募結果の通知は、5月16日に2枚のはがきで当選の通知を受け取りましたので、早速孫に結果をしらせて、親子孫の3代で参加することにしました。丁度24、25日は、氏神様の祭例ですので泊まりがけで遊びに来ました。

 左拡大:車両販売入場通知はがき、右拡大:洗車体験当選はがき

鉄道フェスタ2008の参加
25日の午前中は前日からの雨で、朝はかなりの風雨が強くフェスタには、「車両部品優先販売」参加の午前組と、午後からの「洗車体験」組に分かれて昼頃会場で落ち合うことにしました。
鉄道フェスタ2008の会場は、京浜急行電車で北久里浜駅を出てから、三埼口進行方向左側に見える久里浜工場信号所が会場の京急ファインテック久里浜事業所(神奈川県横須賀市舟倉2−4−1)です。この京急ファインテックは、1948年創立の「京浜急行電鉄株式会社久里浜工場」から分社した京急グループの子会社で、「京急車両工業株式会社」から現社名となりました。
・車両部品優先販売
車両部品優先販売の参加には、大森町を7時半に出て京急川崎駅から快速に乗りついて、京急久里浜駅に着いたのは9時少し前です。会場には、直通バスで向かいますが、土砂降りの雨の中大勢の鉄道ファンが乗り、下車する場所は会場入り口から200mほど先の空き地で降りて戻ります。
入口に通じる歩道には、バスを降りた入場者の行列がコンビニ付近まで続いていましたが、「事前応募はがきを持参の方は前に進んでください」の案内で、会場に入りました。

 会場案内図(拡大)

会場内では事前応募者の誘導をしており、車両部品優先販売集合時間の9時30分前には、会場北部に進んで雨中で傘を差して、入場整理番号毎のグループの行列で待ちました。10時からの販売方法は、整理番号順に10名毎に購入制限時間3分でテントに陳列の部品が1人3品まで購入できる方式で、240番では1時間以上の待ちとなるので、降りしきる雨風の中での行列待ちは大変な思いでした。

 車両部品優先販売の整理番号順の行列(:整理番号毎の行列立札、:車両部品販売の値段札)

しかし、鉄道ファンは雨風には全く動ぜず、誰も列から抜けずに待ち続ける辛抱強さに感心しながら、折角の部品購入のチャンスなので並んでいるうちに、11時近くには雨足があがって来ました。
購入順番が回ってきて、部品販売コーナー(構内地図S)のテントを見ると特に欲しい物品がないので、電車種別を示す赤色の「快速」側面表示板が、孫も喜ぶと思い5千円で購入し、車両部品優先販売へ参加したことにより鉄道ファンへ一歩近づいたのかなと思いました。

 車両部品購入は10人単位で持ち時間3分での購入(:部品購入は10人づつ、:部品の品選びは3分以内)

・車両撮影コーナー
部品販売コーナーから鉄道フェスタ目玉のメイン展示の車両撮影コーナー(構内地図M)へは、左側の主工場(構内地図I)建屋内の電車や右側の建物内の方向幕操作実演(構内地図H)展示場などを見ながら、南へ進むと右側には多数の引き込み線路上に各種の電車を展示した車両撮影コーナー(構内地図M)です。

 主工場や方向幕操作実演などの展示(:方向幕操作実演展示)

車両撮影基地には、京急創立110周年記念ラッピング車両の旧1000形「京急110年の歴史ギャラリー号」と「ありがとうギャラリー号」(「わが街の京浜急行110周年記念 大正~昭和を再現した「ありがとうギャラリー号」に乗る」参照)を真中にして、右側に増備中のステンレス車体新1000形が並び、その隣りが2ドアクロスシートの快特で活躍した看板車両の2000形です。

 車両撮影基地1(:人気の車両撮影基地、:左からありがとうギャラリー号、ステンレス車体新1000形、快特で活躍の2000形車両)

「京急110年の歴史ギャラリー号」の左は、クロスシートの看板車両2100形で「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」の青い電車です。その左は3ドアで可変座席「ツイングルシート」を装備した600形です。

 車両撮影基地2(:左からツイングルシートの600形、KEIKYU BLUE SKY TRAINの2100形、歴史ギャラリー号、:京急110年の歴史ギャラリー号)

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イベント 日本科学未来館 企画展「エイリアン展-モシモシ、応答ネガイマス。」と常設館を見る

2008年05月27日 | イベント
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かねてから一度は行きたいと思っていた日本科学未来館で、5月17日の午後に同館7階の「みらいCANホール」で催しの会に参加の機会があり、午前中の空き時間を利用して開催中の企画展「エイリアン展-モシモシ、応答ネガイマス。」と常設館を、スピードの駆け足で覗いてきました。

日本科学未来館
日本科学未来館(東京都江東区青海2-41 地図参照)は、科学技術振興機構(旧科学技術振興事業団)が「国際研究交流大学村」内に科学技術創造立国を目指し、科学技術への理解を深めるための拠点として、最先端の科学技術の展示、展示方法の開発、研究者の交流等を通じて、科学技術の情報を発信していく施設を整備することとなり建てられて、2001年7月に開館しました。
・企画展
未来館では、3月20日から6月16日の期間に企画展「エイリアン展-モシモシ、応答ネガイマス。」が1階 企画展示ゾーンbで開催中でした。
自宅からは、新橋経由で新交通ゆりかもめで船の科学館(「イベント 船に関する知識の宝庫 「船の科学館」」参照)下車で、未来館に着いたのは10時半でしたが、入場料は一般大人が900円、18歳以下が350円で常設展示見学可なので、見学時間の不足を承知で入場券を購入しました。

 エイリアン展会場入口

先ずは、企画展の見学はエントランスホールを先に進み、奥が企画展示ゾーンです。
エイリアン展のZone1では、「空想としてのエイリアン」で人が創造したエイリアンの例を映画や昔話から集めたものを見るコーナーで、Zone2では「科学としてのエイリアン」で地球の深海の過酷な条件下で生息する生命を観察し、進化の足跡をたどり生命がいる惑星を探している科学者たちに迫るコーナーです。
Zone3では「エイリアンの世界」で科学者たちが最新の研究結果と想像力を駆使して作り出した、地球外生命が存在する架空の2つの星「オーレリア」と「ブルームーン」を紹介し、その環境条件下で存在するであろう生物の姿を観察したり、生き物に指示を与えて、動かしたりすることで学ぶコーナーです。Zone4では「エイリアンとの交信」で世界各地ではさまざまな方法で宇宙からの信号を検知しようと取り組み中で、どのように宇宙からのシグナルを受信するのか、またどうやって地球外文明との交信を試みてるかを紹介するコーナーです。

 エイリアン展示会場

・常設展
エイリアン展は11時少し前に見を終え、常設展示の見学に進みました。
常設展示の構成テーマは、これからどんな方向を目指せばよいのかを考えるために、宇宙、地球、人間という大きな視野で科学技術を捉え、「地球環境とフロンティア(EX5展示スペース)」「技術革新と未来(EX2展示スペース)」「情報科学技術と社会(EX3展示スペース)」「生命の科学と人間(EX4展示スペース)」というテーマに分けて展示されています。
常設展示の内容については、日本科学未来館の「展示ガイド」に4分野のテーマと「その他」のスペースの全展示品の解説が掲載してあります。

 常設展エントランスホール

常設展の見学は、先ずエントランスホールのエスカレータで3階に上がり、「技術革新と未来(EX2展示スペース)」から見ました。ここでは、人はさまざまな“道具”を生み出し社会を発展させ生活を便利にし、社会や人間の考え方にも影響を与えました。未来の暮らしをより豊かで便利にする新しい道具のひとつのヒューマノイドロボット(「イベント 国立科学博物館 大ロボット博~からくりから最新ロボットまで~ その1」参照)のASIMO(アシモ)は、人間の生活空間で活動することを想定して開発され、その展示実演のアシモの行動を通し、人間の姿勢や仕草の意味を理解して自律的に行動できる知能化技術を理解します。

 常設展展示ヒューマノイドロボット

次のフロアでは、「情報科学技術と社会(EX3展示スペース)」で今日情報科学技術を基盤とした情報空間の中で、経済活動や社会活動、文化的な活動などの活動を行っており、人間の知的活動を豊かするのに情報科学技術という道具は不可欠であり、その基盤の情報技術・ネットワーク技術を知るコーナーです。
このコーナーで「ボールの動きで見るインターネットの仕組み」の展示に興味がありましたが、残念ながら装置が休止中で見られませんでした。

3階から5階への移動には、未来館のシンボルゾーンの1階から5階までの吹き抜けの空間の周囲に架けられている、円のスロープのオーバルブリッジで行くことができます。この吹き抜けの空間に浮かんでいるGeo-Cosmos(ジオ・コスモス)は、約100万個のLED(発光ダイオード)が貼り込まれた直径6.5mの球体で、複数の気象衛星がとらえた地球上の雲を合成して映し出された画像が見られます。

 オーバルブリッジから見るジオ・コスモス

5階のフロアは、「生命の科学と人間(EX4展示スペース)」と「地球環境とフロンティア(EX5展示スペース)」で、EX4では「ヒトゲノム」など「生命」をどのように捉えようとしているかを探ります。

 EX4展示の生命とEX5展示の宇宙

EX5では毛利館長の関係が深いテーマでの展示コーナーで、巨大なシステムを作り深海底から宇宙の果てまでも探る人間の活動を知るため、地球、宇宙や空間を探る展示があります。

 EX5展示のしんかい

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イベント 首都圏外郭放水路 地底に巨大な龍が横たわる洪水防御施設見学会

2008年05月19日 | イベント
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5月14日の午後、所属している東京都異業種交流会H11の見学会で、埼玉県春日部の地底に巨大な龍が横たわる伝説の、世界最大規模の洪水防御施設の首都圏外郭放水路のメカニズムを見てきました。
見学会の参加は7名で、JR平井駅と京橋「宝くじドリーム館」の2班に別れて車に分乗して13時に出発しました。当日の朝は、雨天模様で見学ができるか心配しましたが、午後は持ち直して14時過ぎには見学先の地底探検ミュージアム「龍Q館」に着きました。


龍Q館
古くから洪水で悩まされていた埼玉県、東京都が流域の中川と綾瀬川一帯を、浸水被害の解消のため平成5年3月から首都圏外郭放水路の建設が始まり、一部が完成した同14年6月から運用が始まり、同18年6月の完成時には200㎥/sの排水が可能で、江戸川に排水する首都圏外郭放水路庄和排水機場に、地底探検ミュージアム「龍Q館」(埼玉県春日部市上金崎720 地図参照)があります。

洪水防御施設の見学は、毎週火~金曜日の午前10時と午後14時30分の2回実施で予め申し込みをして、龍Q館2F(首都圏外郭放水路インフォメーション)の集合です。
龍Q館には、首都圏外郭放水路施設関連の資料が展示してあり、1階から2階への階段フロアーには工事中に地下25mの地層を切り取った地層タワーや、地域の歴史や文化、江戸川に暮す生きもの達の姿などが見られます。

 龍Q館2F展示室

・首都圏外郭放水路施設概要
見学の所要時間は1時間半で最初に、龍Q館の展示施設を利用して首都圏外郭放水路施設の概要説明を聞きます。先ずは、ビデオによる首都圏外郭放水路の事業内容を見てから、首都圏外郭放水路のメカニズムと、排水機場模型を使用して地下トンネルから流れ出た水をためるプールの調圧水槽とジェット機用のガスタービンエンジン(1万4千馬力)を改造したエンジン4台で回転させる排水ポンプの構造と仕組みなどの説明を聞き、隣室にある操作室を見ます。

 見学施設の概要説明

・首都圏外郭放水路排水機場の外観展望
首都圏外郭放水路施設を理解してから、龍Q館の屋上に上がり排水機場周辺を展望して排水する江戸川周辺の地形や、地底に構築されている調圧水槽の大きさと、調圧水槽に隣接して設けられている放水路の第1立抗の太さと、国道16号下の地下トンネルを切削した用済みのシールドマシンを加工して作った時計の直径などを見て、施設の巨大さを把握して実感します。

 龍Q館屋上からの展望(左写真:シールドマシンの時計と江戸川、右写真:調圧水槽の地上)

地下調圧水槽の見学
首都圏外郭放水路施設を説明や屋上からの展望で見た概要を把握してから、いよいよ調圧水槽の入口まで約200m歩いて、107段の階段を降りて「巨大神殿」の実物の見学です。

 調圧水槽見学の階段入口に向かう

階段の上り下りは危険なため写真の撮影は禁止されています。厚さが5mのコンクリートの天井を下ると調圧水槽が一望でき、まさに写真で見る神殿の威厳が漂い幻想の世界に迷い込みます。

 巨大な神殿を思わせる調圧水槽

調圧水槽の大きさは、長さが177m、幅が78m、高さが25.4mもあり、水槽を支える柱は長さが7m、幅が2m、高さが18mで59本もあります。映画やTVの絶好の撮影場所として人気の場所です。
調圧水槽の柱に、水位のマークが付けてあり、柱下部の水位線以下の場合にはポンプの羽位置より水位が下のため排水が行えず、柱の上部の水位線はここまで川からの地下河川トンネルからの流入した水を貯めて置くことが出来、首都圏外郭放水路全体の貯水量は67万㎥です。

 調圧水槽を支える巨大な柱

神殿の見学可能の範囲は、ポンプ設備は調圧水槽からは見えないので、柱位置が4本目位の所にマークがあり、それより奥には行くことが禁止されています。
水が貯留していない時には、調圧水槽の床に僅かな水溜まりがある程度で、床は河川流入水が運んでくる汚泥が全く無く綺麗な状況です。これには理由があり、普段の見学のため汚泥は清掃車で除去をしているのです。除去した汚泥は、調圧水槽の天井の一部に開口部があり、クレーンで揚げ降ろしをしているとの事でした。

 調圧水槽内に出し入れする開口入口

第1立抗
第1立抗は、階段を降りた調圧水槽に接した左手にあり、内径が31.6m、深さが71mで第2立抗との間を内径が10.6m、延長が1396m、深さが70mの第1工区トンネルで結ばれています。この立抗に通ずる斜面の前には石が並べられており、これより先には通行止めで、かつ清掃車の滑落防止の止め石です。

 放水路施設に5個ある立抗の中の第1立抗(ここから地下河川の水が調圧水槽に流入する)

見学を終えて地底体感ホールで、バーチャル映像を見てから2班に分かれて車で京橋に戻り、後からの参加者を含めて「うおや一丁銀座店」にて懇親会で喉を潤おして解散しました。施設に感激した見学会でした。

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イベント 子供の日東京ドーム 巨人―阪神戦観戦

2008年05月15日 | イベント
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5月6日の子供の日振替休日に、秋葉原の万世で親子孫の3世代でランチを楽しみ、午後は後楽園で久し振りの野球観戦をしました。
肉の万世のコマーシャルでお馴染みの秋葉原万世は、秋葉原方面に出かけた時にランチタイムでよく利用するお店です。最近では、秋葉原周辺のビル群の上階にはグルメのお店がひしめいていますが、青果市場があった頃には近辺で昼食が取れる食事処が無かったので、万世本店へ足を延ばしておりました。

万世本店
大戦後の須田町界隈は電気部品店がたち並んで発展していました。その電気部品商から1949年(昭和24年)に統制が外れた食肉業へ転業し、万世橋から名前をとった「肉の万世」を現在の本店地に開いたのが創業者の鹿野ご夫妻です。
当時の日本人が抱いた「おいしいもの」のあこがれで食生活の洋風化が進み、独創商品の「万かつサンド」の人気と、黒毛和牛を中心とした郊外型のお店が広がり本店の他に33店舗と食材センターが1店あります。
最近ではサービスを変え夜のお店で昼の一時を気軽に過ごせる様になり、以前は子供から年配までお馴染みの3、4階の「洋食の万世」がランチの定番でしたが、土日祭の11時半から15時までのランチメニューのサービスには万世のすべてのお店でお得に味わえる様になりました。

 万世本店の雰囲気の良い10階「千代田」

そこで6日の休日には、10階の眺望が素晴らしく食卓のムードが良い「万世千代田」に初めて入ってみました。、黒毛和牛ステーキ鉄板焼きを目の前の大きな鉄板で料理人が、華麗な包丁さばきで一品一品食材を焼き上げていくのを見ながら、赤ワインのグラスを傾けおいしさいっぱいのリッチな雰囲気を手軽に楽しめました。

東京ドームで巨神戦の観戦
昼食後、秋葉原から東京ドームへタクシーで駆けつけると試合は開始しており、1回裏の巨人の攻撃中でした。席は、バックグランドからやや3塁側よりの上段階で、ユニフォームを纏った阪神ファンの真っただ中の席です。

 1塁側の巨人応援席

孫は野球が好きでよく野球を見ているようですが、巨人・阪神のどちらのファンでもなくパリーグの方のファンのようであり、周囲に合わせて阪神の応援のタクトを振って観戦していました。私は、野球の熱烈なファンでないので応援はどちらでも良く、かなり昔にはアンチ巨人でいた時もありましたので、今年の阪神には勢いがあり今日の試合も勝てばいいなという気持ちで観戦しました。

 3塁側の阪神応援席

・東京ドーム
東京ドーム(文京区後楽1-3-61)は、1988年開場の球場の広さが、左右両翼が100m、中堅が122mのグランド面積1万3千㎡で、収容人員が45,600の株式会社東京ドームが所有の球場です。

球場の屋根は、空気膜構造と呼ばれる構造でドーム内の空気圧を、送風ファン36台を設置して外部より0.3%高くして膨らませています。球場の出入口は、手動式回転ドアとエアロックにより圧力差を維持しています。帰りに試しにエアロックから出てみましたが、出口では後ろから突き飛ばされる勢いを感じました。
屋根は、28本のワイヤを縦横に張り、その間をガラスクロスの表面をフッ素樹脂でコーティングした素材で、厚さは外膜が0.8m、内膜が0.35mのクロスを張り合わせた構造です。

 東京ドーム

・応援規制
私設応援団が指定・許可された太鼓、カネ、笛とトランペット以外のドーム内持ち込みは禁止されており、巨人、阪神応援団が共に太鼓を持ち込んで応援合戦を繰り広げておりました。横断幕等は、一般客では縦・横600mmを超えるものの持ち込み禁止で、これ以上のものは指定・許可された私設応援団のみ持ち込みが可能です。
また、優勝決定時以外でのジェット風船、紙吹雪、紙テープの使用が禁止されています。応援の規制は、寂しい観戦となり応援の雰囲気が盛り上がりません。

 東京ドームでは派手な応援合戦は見られない

たまの素人応援には、7回の攻防を盛り上げて、また勝利時にも飛ばす風船の印象は見る者を魅了します。特に甲子園での阪神ファンの風船飛ばしは、応援の代名詞です。
2006年の福岡Yahoo! JAPANドーム(「旅ものがたり 夏の想い出 九州旅行 その1(博多・唐津)」参照)で見た、7回のホークス攻撃前の『いざゆけ若鷹軍団』演奏後に黄色のジェット風船を飛ばし、逆転勝利した9回には「白星」にかけて白いジェット風船を飛ばす応援風景はなかなかの魅力でした。

・巨神戦の戦績

 得点結果 (打率・投手成績ここをクリック)

45,660人の超満員の観衆を集めての対戦で3連勝中の巨人は、先発高橋尚が不調で中継ぎの投手陣も振るわず、阪神は2回に今岡の本塁打で先制し、4回には中堅方向や流し打ちの集中打により5点を挙げました。12球団中最少の14本塁打とリーグ3位の打率で、リーグ最多の得点数で楽勝してます。この試合で、5点をリードされた巨人が、その裏に3点を入れて2点差に追い詰めたところまでが見られる試合でしたが、阪神の4投手の継投で逃げきられ4,500勝を達成させて、対戦成績が4500勝4183敗267分けの伝統の一戦でした。

 阪神5勝2敗の伝統の一戦

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イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その4

2008年03月20日 | イベント
kan-haru blog 2008

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東京都慰霊堂
墨田区役所の「平和のオブジェ」で平和を祈念した後、本所の戦跡めぐりは東京都慰霊堂に向かい、吾妻橋1丁目停留所から門33系統都バスにて石原1丁目停留所で下車しました。
東京都慰霊堂(墨田区横網2-3-25 地図参照)は、清澄通りと蔵前橋通りの交差点に面した、横網町(よこあみまち)公園内にあり、関東大震災と大東京空襲のメモリアルパークです。

    都立横網町公園(拡大図)

関東大震災
公園は、東京市が1922年(大正11年)に陸軍被服廠の移転に伴い、跡地を買収し公園の造成を進めている最中の翌年の9月1日に関東大震災に遭遇しました。
震災で東京下町から火気が立ち町中が火の海になり、逃げ回る人々には被服廠跡地は広い敷地であり格好の非難場所でした。当初は火の気もそれほど近づいておらず、遠くに煙が見える程度で、ここまで火災が来るとは思えない状態なので、非難をした人たちが自宅に戻り家財道具や布団等を大八車で運び込み、人と荷物で埋め尽くされました。
やがて、火の粉が非難した人々の頭上に舞うようになり、布団などに着火して持ち込んだ荷物が燃え出し、人も物も全て灰と化して犠牲者の数は東京市全体の死亡者の半数以上の3万8千人程度が死亡したとされています。

・震災記念堂
1930年(昭和5年)に、震災の死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、身元不明の犠牲者約6万人の遺骨が納められました。また、翌年には震災復興記念館が建てられました。
本堂は、伊東忠太氏の設計によるもので、寺院風の建築となっており、200坪の講堂を持っています。その奥には三重塔があり、塔の高さは約41mで、基部は納骨堂となっています。

 慰霊堂(震災記念堂 写真拡大)  三重塔(写真拡大)      講堂(写真拡大)  

・震災遭難児童弔魂像
震災遭難児童弔魂像は、地震災害に遭い死亡した小学校児童約5千人の死を悼み、当時の学校長等が中心となって寄贈した弔魂碑です。現在の弔魂像は、第二次世界大戦で金属回収を受け撤去され台座だけが残されていましたが、1961年(昭和36年)に作者の小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して再建されたものです。

幽冥鐘
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で念仏法要が営まれて、幽冥鐘一隻を鋳造し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れることを宣言しました。その後、震災情報が日を経るに従い甚大であることが明らかになり、この梵鐘の寄贈を申し出て震災記念堂に安置することになりました。

  震災遭難児童弔魂像        幽冥鐘     関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑      
・関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑は、関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため朝鮮人が尊い生命を奪われました。この不幸な出来事をくりかえさないように願って建てられた碑です。

東京大空襲で再び東京は焦土と化す
第二次世界大戦における、1944、5年(昭和19、20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7千人あまりが死亡しました。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称され、10万5千人の遺骨が納められ、仏教各宗により祭祀されています。
講堂の祭壇には、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した大きな位牌が2基祀られており、3月10日と9月1日に慰霊法要が行われています。

 慰霊堂由来記(写真拡大)        納骨堂         震災復興記念館

講堂の左の壁には、石川光陽氏の撮影した3月10日の東京大空襲の写真が掲げられており、右の壁には洋画家徳永柳洲氏が関東大震災の実況を、門人と力を合わせて描かれた油絵が掲げられて展示されてます。

・東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑は、東京都が「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の募金を、建設経費の一部に充てて平成11年に建設の取り組みが開始されました。碑の斜面を覆う花は生命を象徴して、碑の中には、東京空襲犠牲者名簿を納めており、平成19年現在78、097名を「東京染小紋」の伝統工芸品の表紙の名簿に記載してあります。

             東京都慰霊堂  右:東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

墨田区の都慰霊堂では、3月10日に遺族らが参列して春季慰霊大法要が行われ、常陸宮ご夫妻や遺族らが焼香しました。都では、この日を「平和の日」と定めています。

東京大空襲・戦災資料センター
次の戦跡めぐりの目的地は、東京都慰霊堂から、大江戸線の両国駅より清澄白河駅まで行き、秋26系都バスに乗り継いで北砂1丁目で降りて、大空襲で大きな戦災を蒙った旧深川の地にある東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂1-5-4)の見学です。
戦災資料センターは、今回の訪問で3回目ですが、昨年3月に増築が行われ展示が充実したセンターを是非見たいと予定していたのですが、たまたま戦跡めぐりのコースに組み込まれておりましたので、目的が実現しました。

      東京大空襲・戦災資料センター正面入口        2階展示室

東京大空襲・戦災資料センターの見学コースは、増築で倍に広くなった2階展示室で東京大空襲のビデオを見てから、同コーナーの壁面には空襲を描いたさまざまな絵画や被災地図、日本空襲の写真などが見られます。3階の資料・展示保管室では、実際に投下された焼夷弾や空襲の被災品、体験者の手記・写真、戦時下の文書などが、東京大空襲の実相を伝えています。また、「戦争と子どもたち」の部屋には、戦中教育や学童疎開などをテーマにした資料が見られ、灯火管制下の暮らしぶりを再現した部屋などが展示してあります。

                戦災資料センター2、3階展示室

63年前の3月10日の東京大空襲の傷痕を、浅草、本所、深川と広範囲な地域を初めて、1日を費やしてめぐって見て、如何にこの空襲の被害が大規模であり、10万人もの罪の無い一般市民を殺戮した戦争は大変と悲惨なものと強く感じ、戦争の悲劇を風化してはならず、平和の持続を希望したいと願います。

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イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その3

2008年03月18日 | イベント
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淡島堂の周辺
猛火にあった大イチョウから浅草寺本堂に向かうと、沙竭羅龍王像の銅像が立つ手水舎があります。この銅像は、高村光雲仏師で1903年(明治36年)に東京市が境内の噴水池に造献したものです。
本堂前を横切って西に進むと、右方に平成6年に、浅草寺中興開山慈覚大師生誕千二百年を記念して建立された影向堂(ようごどう)が見えます。影向堂には、聖観音菩薩像と十二支生まれのご本尊八体が祀られております。
影向堂の隣には、同じく平成6年に移された、薬師如来像を本尊とし、ほかに十二神将像が安置されている橋本薬師堂があります。薬師堂の建物は、浅草寺境内に現存する堂では浅草神社の社殿と同時代のもので、六角堂や二天門につぐ古い木造建築物です。

   浅草寺本堂手水舎         影向堂            橋本薬師堂

・淡島堂
橋本薬師堂の先に淡島堂があり、このお堂の建物は、1945年(昭和20年)3月の空襲によって焼失した浅草寺本堂に代わって仮本堂として建てられ、1958年(昭和33年)に現在の本堂が復興するまで浅草の役に立ってきました。浅草寺本堂は、落慶50周年記念で10月1日から11月25日まで2008浅草大観光祭りが行われます。

その後、影向堂として一時期二天門の近くに移築されていましたが、現在は淡島堂として現在地に移されました。
淡島堂のご本尊は、「阿弥陀如来」のほかに淡島明神の本地仏として「虚空蔵菩薩」、子授けのご利益があるとされる「地蔵菩薩」と共に元日本橋白木屋から移設した「白木観音」、フィリピンレイテ島での戦没者を供養する「レイテ観音」などが祀られています。

   淡島堂(写真拡大)       本堂(写真拡大)   淡島明神と白木観音(写真拡大)

淡島堂では、2月8日に針供養が行われ、江戸元禄年間(1688~1704)に紀伊国(和歌山県)加太の淡島明神を勧請したもので、ご祭神は「少彦名命(すくなひこなのみこと)」で針才天女とも言われ、裁縫技能の守護神として広く信仰されました。
1958年(昭和33年)の観音本堂再建を記念して建立した写経供養塔には、毎年4月から10月の間伝法院で行われる写経と各家庭で写経された「般若心経」「観音経」を10月28日に納めます。脇にある石灯籠は、「胎内くぐりの灯籠」と称して享保年代に造立したものです。

      針供養塔           写経供養塔       胎内くぐりの灯籠

・天水桶で戦火を免れた観音さま
太平洋戦争が激しくなってきた1943年(昭和18年)11月18日の夜、淡島堂本堂の左手前に大きな天水桶が置かれ、これに浅草寺ご本尊の観音さまを厨子ごと奉安して本堂の地中深く納められました。戦後の1947年(昭和22年)に掘りあげてその無事が確認され、観音さまは戦火を免れました。

・浅草大平和塔
浅草大平和塔は、旧浅草区111町会で戦災にあい亡くなられた1万人余りの霊を慰め、平和を祈願するために、浅草寺信徒、町会やその他の団体の努力により、1963年(昭和38年)に建立され、塔には清水谷恭順貫首の「和」の揮毫が掲げられ、台座にはノーベル賞受賞者湯川秀樹氏の筆による「みたまよ とこしえに 安らかに、われら守らん 世界の和」と刻まれています。淡島堂では、毎年3月10日に大平和塔戦災殉難者法要が行なわれます。

    浅草大平和塔               建設趣意書(写真拡大)

東京大空襲の追悼と平和祈念折鶴の「平和のオブジェ」
浅草大平和塔で平和を祈念して、淡島堂から木馬亭前の奥山おまいりみちを通り、公園本通り商店街を南下し、浅草寺を一巡した伝法院通りと浅草六区通りの交差点を通過して、新仲見世通りに面したファミリーレストランの浅草じゅらく(台東区浅草1-23-9)で昼食休憩をとりました。浅草じゅらくは、20年ほど前に遠来のお客さんと、2階の席で食事をした懐かしいお店です。

      木馬亭       浅草寺を一巡した伝法院通り     浅草じゅらく 

・15万羽の折鶴で作られた平和のオブジェ
午後の戦跡めぐりは、吾妻橋を渡った旧本所の墨田区役所(墨田区吾妻橋1-23-20 地図参照)の1階に、同区が東京大空襲で亡くなった約2万7千人の追悼と平和を祈念して、毎年製作している「平和のオブジェ」壁画を見に行きました。

平和のオブジェは、1992年からボランティアらによって毎年制作しており、今年のオブジェは高さ約12メートル、幅約8メートルもあり、テーマは「平和」-とどけ世界へ宇宙へ が題材の壁画で、ツルが地球から宇宙へ飛び立っていく様子をデザインしたものです。
「折り鶴」そのものを題材にしたのは初めてのもので、区民らが作った約15万羽の折り鶴を重ね合わせて作られており、3月3日に完成しました。
3月10日に、お披露目式とともに平和祈念コンサートが開かれました。

平和のオブジェ(拡大写真)  今までのオブジェ       墨田区役所イベント  

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イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その2

2008年03月16日 | イベント
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板橋九条の会「東京大空襲、被害地の跡を訪ねる」に参加
戦跡めぐりのグループが11時に出発ということで、浅草公会堂に10時40分頃着いてから20分足らずで「東京大空襲資料展」を切り上げて、飛び入り参加で「平和 憲法九条」の幟について行きました。

伝法院通りの戦跡
先ずは、浅草公会堂を出ると江戸の趣向を凝らした伝法院通りで、正面の門を閉ざした伝法院を左に曲がり、隣にある鎮護堂(ちんごどう)に向かいました。
伝法院は非公開で、門の奥には江戸中期に建てられた浅草寺の本坊があり、客殿・玄関・没者の間は安永年間の建築で、山内二十四ケ寺の住職の修行道場です。

   伝法院(写真拡大)       鎮護堂(写真拡大)    伝法院の鎮守様(写真拡大)

・鎮護堂
鎮護堂(台東区浅草2-3-1)は、伝法院の鎮守様で通称「お狸さま」と呼ばれ、浅草寺境内に住みついた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺用人の大橋亘が貫首唯我韶舜と相談して邸内に祀ったことが始まりで、1883年(明治16年)に伝法院内に移転して再建したとあります。現在の本殿は、1920年(大正2年)に再建されたもので、境内には水子地蔵尊や幇間塚、たぬきの置物があり、柵越しに小堀遠州の作と言われる伝法院の庭園を垣間見ることができます。
境内の公孫樹(いちょう)は、推定樹齢が4、5百年で、3月15日の東京大空襲の時焼夷弾を浴びながら、猛火から鎮護堂を守ったと云われる神木で、今でも当時の焼け跡が残っています。

     水子地蔵尊       焼夷弾を浴びたイチョウ     伝法院の庭園

鎮護堂からは地口行灯(じぐちあんどん)を飾ってある街路灯で知られた伝法院通りに戻り、浅草公会堂横を通って浅草中央通りの角にある、今人気の創業明治20年の「大黒家」天麩羅の行列を横目で眺めながら、仲見世通りの正面では浅草寺の宝蔵門です。

   浅草公会堂横     「大黒家」地口行灯街路灯が見える    宝蔵門

浅草寺境内戦跡
宝蔵門右手前境内には、東京大空襲で亡くなられた多くの人を慰霊する、戦災地蔵尊が沢山鎮座しています。
・平和地蔵尊
平和地蔵尊は、二尊仏手前の宝蔵門寄にあり、1949年(昭和24年)に東京大空襲で亡くなった人達の霊を慰め、世界の平和を祈念して龍郷定雄氏が私財を投じて建立したものです。
二尊仏は、右が観世音菩薩、左が勢至菩薩で1687年(貞享4年)に藤原正儀が鋳造し、江戸伊勢町の成井善三郎商店の番頭高瀬善兵衛が、主家の報恩菩提のため寄進したものです。

       二尊仏              平和地蔵尊(右写真拡大)

・母子地蔵尊
平和地蔵尊の奥にある母子地蔵尊は、第2次世界大戦末期に、中国東北部(旧満州)で逃避行の末に日本人20万人以上が死亡し、生き別れて死亡した母子の霊を慰めるため、その体験者の漫画家9人が発起人となり、ちばてつや氏がデザインして平成9年に建立されました。

                       母子地蔵尊(右写真拡大)                                
・焼け焦げた銀杏の巨木
宝蔵門の東横の境内には、樹齢が推定800年の大イチョウがあり、東京大空襲では猛火に遭い、大きな裂け目の内に残る炭化の痕は黒焦げになりながらも生き続け、平和の尊さを訴えております。イチョウは、火に強い木で、境内には被災の公孫樹が10本ほどあります。

  猛火に遭った大イチョウ  (写真拡大)     (写真拡大)        (写真拡大)

被災の大公孫樹の周辺には、浅草神社(トップ写真参照)と二天門があり戦火を免れました。二天門は、1642年(寛永19年)に焼失した浅草東照宮の随身門で、俗に「矢大神門」と呼ばれて1618年(元和4年)に東照宮を浅草寺境内に勧請した際に建てられた、重要文化財指定です。
浅草神社は、浅草寺の観音様が浅草浦で網にかかり見つけた兄弟と、それを尊い聖観世音菩薩の尊像と見てお祀りした土師仲知の三人をお祀りしたのが「三社権現社」で、今の浅草神社です。入口の石造りの大鳥居は1885年(明治18年)に、氏子中により寄進されたもので、本殿は三代将軍徳川家光公が、1649年 (慶安2年)に浅草寺本堂と同時に建てた、江戸時代初期の代表的な権現造りの建築様式で、重要文化財指定です。

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イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1

2008年03月14日 | イベント
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東京大空襲
今年も、63年前の1945年3月10日に10万人余りの命を奪った世界大戦大空襲惨禍の日が回ってきました。
東京空襲は、初めは軍事施設への爆撃が主でしたが、1945年に入ると無差別攻撃で一般市民への爆撃が連日行われるようになり、1月27日に東京の中心部の銀座、有楽町界隈が白昼の爆撃で多数の死者がでました。

戦争の末期の3月10日深夜には、東京下町の浅草(台東区)、本所(墨田区)、深川(江東区)、日本橋(中央区)地区の木造家屋に、B29戦略爆撃機325機が1万3千発のナパーム焼夷弾による継続爆撃で、計画的な人家密集地域への武器を持たない一般住民大量殺傷の爆撃により、火炎の海となり焦土と化し、死者10万人余り、負傷者11万人余り、焼失家屋100万戸以上という惨劇を受けました。

 亀戸付近の焼け跡(天神橋から亀戸方面を望む) 拡大写真 2006年4月22日掲載承認

大森町界隈でも、無残な4月15日の無差別爆撃により、第1京浜国道沿いに多摩川の六郷橋から、現在の平和島付近まで見渡す限りの焼け野原の焦土と化しました。

 大森町付近焼け野原米軍撮影航空写真 1947年7月9日撮影(国土地理院) 
 大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第5回) 縮小画像写真リンク掲載参照
 大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第9回) 標準画像写真リンク掲載参照

私の父の同僚である、若山武義氏が東京大空襲の戦災に遭遇した際記録した手記が保存されており、わが街大森町、中野、目黒の各地で戦災に遭遇した貴重な記録を、ご遺族のご好意によりkan-haruブログへ解説を付けて掲載しております。
現在、戦争を知らない世代の方が80%を超えております。手記には空襲編と戦後史編に別れて編集しています。戦争の歴史を語り告ぐ貴重な世界大戦の記録であり、次に記載の目次からアクセスして是非目を通して頂きたいと願っております。
・手記目次
 1 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次1/3 (第1~11回)
 2 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次2/3 (第1~7回)
 3 大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次3/3 (第1~9回)
 4 大森町界隈あれこれ 戦後史編手記 第1~3編カテゴリー総目次 掲載連載中

戦争を語り継ぐ
毎年、3月10日の東京大空襲の時期がくると、各地で追悼式や資料展、戦争を語り継ぐ催しなどが開催されます。
東京大空襲・戦災資料センターでは3月8日に、同区亀戸文化センターのカメリアホールで「東京大空襲を語り継ぐつどい」が開催され400名が参加しました。つどいでは、両親と妹を亡くした橋本代志子さんが当時の体験を話され、脚本家の小山内美江子さんも親しい友人を失った母や、父が犠牲となった友人のことなどを話され戦争の悲惨さを訴えられました。つどいは、昨年も3月10日に開催(「イベント あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」参照)されて参加してきました。今年は、都合により行けませんでした。

東京大空襲資料展

 浅草公会堂ギャラリー東京大空襲資料展

東京大空襲資料展は、被災43周年の1988年(昭和63年)の3月10、11日に[第一回東京大空襲資料展]が浅草公会堂ギャラリー(台東区浅草1-38-6)で開催され、被災63周年の今年は第一回資料展から20年を経過した資料展(主催 東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会)で、3月8日から11日の午前10時~午後5時まで開催されました。

 資料展会場(写真拡大)

昨年は、3月10日に見に行きましたが、時間の都合がつかずに僅か30分足らずの見学でした。今年は、時間をたっぷりとって資料展のイベント「浅草戦跡めぐり」に参加して、東京大空襲の傷痕や平和を願う人たちが建立した史跡を巡る予定で、3月9日に資料展を見に行きました。

 資料展イベント「浅草戦跡めぐり」 (拡大写真)

・東京板橋九条の会に飛入しての戦跡めぐり
浅草戦跡めぐりの参加には、東京大空襲資料展実行委員会と「台東九条の会」が共同作成した、200円で頒布の「浅草戦跡マップ」が必要とあります。
浅草公会堂ギャラリーの入り口ホールには、白地に「平和 憲法九条」と書かれた幟を持った人が目立つ様に立っておりましたので、てっきりと「浅草戦跡めぐり」の案内掛の方と早合点して、他の主催での東京大空襲資料展を見学に来ていたグループに付いて行き、思い違いの飛び入り参加の戦跡めぐりとなりました。間違えた会は東京板橋の九条の会で、「東京大空襲、被害地の跡を訪ねる」の催しの皆様でした。

    写真拡大            写真拡大

九条の会の皆様には、大変なご迷惑をお掛けしお世話になりましたが、お蔭様で浅草寺周辺から、東京都慰霊堂、東京大空襲・戦災資料センターと広範な戦跡めぐりを案内して頂き、楽しく見学させて貰えました。九条の会の皆様には、飛び入り参入にも関わらずに歓迎して頂き大変有難うございました。

 九条の会「東京大空襲、被害地の跡を訪ねる」の集い

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イベント 鉄道博物館 交通博物館(須田町)から鉄道博物館(さいたま市)への進化 その3

2008年02月28日 | イベント
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2階ヒストリーゾーン
2階ヒストリーゾーンの西側の全長75mの壁面には、日本の鉄道創業期から現代までの鉄道にまつわるさまざまな出来事の歴史年表が展示してありますが、今回は時間の都合で見物を割愛しました。
2階ヒストリーゾーンからは、1階に展示の実物車両を俯瞰して見渡せます。

                               西側壁面の歴史年表展示(写真拡大)
コレクションゾーン
2階のヒストリーゾーンから中央に進み、やや北寄りにあるコレクションゾーンのスペシャルギャラリーでは、開館記念 第1回特別企画展『新幹線の挑戦~より速く、より快適に~』(2007年10月14日~2008年2月25日)を開催しておりましたので、覗いて見ました。主な展示は、新幹線のあゆみを紹介の新幹線の歴史や、より速く・より快適にの技術開発、海外の高速鉄道などを紹介しておりました。

 第1回特別企画展展示

なを、博物館1階北部館外のパークゾーンには、ミニ運転列車、ミニシャトル駅の「博物館北駅」、ノースギャラリーや鉄博ホールがありますが、待ち時間が取れないので見物をパスしました。

 博物館1階北部館外のパークゾーン

ラーニングゾーン
博物館の2、3階の北側のラーニングゾーンには、鉄道の原理や、安全・安定輸送のシステム、鉄道車両の動力やブレーキのしくみを、実物の部品を用いた展示装置などを使って体験学習できる「原理・仕組み展示」がありますので、2階のコーナーを一巡してみました。

 原理・仕組み展示コーナー

エントランスゾーン
2階中央のエントランスゾーンには、博物館人気の模型鉄道ジオラマがあります。ジオラマは、横幅約25m奥行き約8m、約200㎡の地形模型にHOゲージ(在来線1/80、新幹線1/87)の鉄道模型を敷設して、軌道総延長約1,400mのレール上を最大20編成まで車両の走行できます。保有車両数は約600両で、鉄道をテーマとしたHOゲージでは日本最大の規模です。

 模型鉄道ジオラマ全景

スタッフが解説しながら運転を行う15分程度のプログラムを、1日4~6回程度実施しますが、予め予約機での無料の予約が必要ですので今回は見られませんでした。
プログラムを実施していない時間は自由に観覧できますので、日本一のジオラマの施設を見てきました。

 模型鉄道ジオラマ(写真拡大)    (写真拡大)

なお、エントランスゾーンのジオラマの隣のキッズスペース1は、3歳以下の幼児と保護者のためのプレイルームがあります。ここは、㈱タカラトミーの協賛によるプラレールの世界で、小さな子どもたちが「鉄道ごっこ」をしながら、鉄道に親しみを持って、安全に遊べる空間となっています。

ビューデッキ
3階の中央に博物館の真横を走る新幹線が、迫力あるアングルで見られるビューデッキでティタイムをとり、一休み後帰途に向かいました。
今回の博物館の駆け足の見学では、博物館の構成や展示概要がわかりましたので、次の機会では重点的な見学が行えそうです。

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イベント 鉄道博物館 交通博物館(須田町)から鉄道博物館(さいたま市)への進化 その2

2008年02月26日 | イベント
kan-haru blog 2008

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鉄道博物館のフロア
鉄道博物館のフロアは、1階から3階までの展示コーナーには5つのゾーンと1つのノースウイングがあります。また、屋上は地上25mで新幹線、在来線やニューシャトルが一望出来るパノラマデッキとなっています。
午後は、鉄道博物館の展示構成を探ることを目的にポイントを絞って廻ってみました。
鉄道博物館人気の運転シュミレータは人気の的で、目玉の「D51シミュレータ」は交通博物館に展示されていたD51の426キャブ部分を使用して製作したそうで、動揺装置による、蒸気機関車特有の振動も再現しており、利用料金は500円です。他のシミュレータの「205系山手線シミュレータ」、「209系京浜東北線シミュレータ」、「211系東海道線シミュレータ」、「200系新幹線シミュレータ」の料金は無料で予約は不要ですが、大変な混雑です。
博物館に入口両脇にあるシミュレータ体験展示予約機の回りには予約待ち行列の渦で、また、無料のシュミレータも1時間待ち以上の長蛇の行列なので体験は諦めです。

 D51シミュレータ(写真拡大)          205系山手線シミュレータ(写真拡大)

・ヒストリーゾーン

           ヒストリーゾーンの実物車両展示配置図>(拡大図)

ヒストリーゾーンは、鉄道博物館のメイン展示の一つで、1、2階の南側にあり長さが75m以上もあるゾーンです。1階には、C57形式蒸気機関車を展示した転車台を中心に、日本の鉄道がスタートした明治時代初期から現代までの、御料車6両を含む鉄道車両35両の実物車両と、実物車両を縮小して作った精巧な模型などを展示しています。
まずは、実物車両や模型を一巡して見て回りました。

 左 C57形式蒸気機関車(1940年製造)特急急行列車に活躍した旅客用標準機関車拡大
 中 C51形式蒸気機関車(1920年製造)国産初の本格的な高速蒸気機関車拡大
 右 150形式蒸気機関車(1871年製造)英国から輸入された日本初の蒸気機関車拡大


 左 クハ481形式電車(1965年製造)全国で使用された全電源対応特急電車先頭車拡大
 中 EF66形式電気機関車(1968年製造) 最大出力高速貨物列車用電気機関車拡大
 右 DD13形式ディーゼル機関車(1958年製造)入換用ディーゼル機関車の標準機拡大


 左 マイテ39形式客車(1930年製造)東海道本線の特急用一等展望客車
 中 オハ31形式客車(1927年製造)とキハ41000形式気動車(1933年製造)拡大
 右 ED75形式電気機関車(1975年製造)交流区間用標準電気機関車拡大

展示車の客車には乗車ができ、列車内で弁当などを食べて休憩することができます。昔を思い出す客車に乗り、当時の旅などを想い出せます。

 展示車に乗って旅行気分 電車でお弁当今日はピクニック   昔の通勤電車

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イベント 鉄道博物館 交通博物館(須田町)から鉄道博物館(さいたま市)への進化 その1

2008年02月24日 | イベント
kan-haru blog 2008

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鉄道博物館の歴史
何時の時代でも、小学生の特に男の子にとっては鉄道に憧れを抱いております。
小学生の孫は、須田町の交通博物館から5、6分の近くに住んでいるので、よく行っておりました。交通博物館は、JR東日本が所有し、財団法人交通文化振興財団に運営を委託していましたが、2006年5月14日で閉館となりました。

・交通博物館
鉄道博物館は、1921年10月14日の「鉄道開通50周年」を記念して、東京駅の神田駅寄りの高架下に開設されました。だが、1923年の関東大震災でほとんどが焼失したため、1946年に旧万世橋駅駅舎跡の敷地を利用した新館を造り、財団法人日本交通公社に委託して「日本交通博物館」がオープンしました。1948年に、展示対象を交通全般として、交通博物館と改称し、1971年に運営を財団法人交通文化振興財団に移管しました。世界大戦翌年の交通博物館開館当時は、中学生の年代でありよく通いました。

・鉄道博物館
鉄道博物館(さいたま市大宮区大成町3-47)は、2007年10月14日の鉄道の日に、さいたま市の非電化時代の川越線気動車の留置線跡に交通博物館の後継施設として開館し、財団法人交通文化振興財団が運営しています。
鉄道博物館の人気は高く、今年の1月18日には入館者が60万人を超え、3月末の目標を約2ヶ月半も前倒しで達成したと発表しています。


博物館見物
最近、鉄道マニアも増え博物館の人気は当分持続しそうなので、初年度の博物館見学を見送り、春休み前の中間時期を狙い2月16日に孫と見に行ってきました。
鉄道博物館は、従前の交通博物館よりかなり広く、展示物の内容も豊富となり、じっくりと見るには時間を要するので、見学は一通り全体的にさーっと眺めて、回りきれないところや、時間待ちするところはパスする作戦で出かけました。


・ニューシャトル線
孫とは、秋葉原駅で11時に待ち合わせをして行きましたが、鉄道関係のイベントは昨年の夏休みに見に行った大鉄道博覧会(「イベント 江戸東京博物館 大鉄道博覧会」参照)と2度目の見物です。博物館へは上野乗換で、大宮から埼玉ローカル線ニューシャトル線と乗り継いで、いろいろな鉄道に乗りすでに鉄道博物館の見学が始まっているみたいです。

大宮駅は、ニューシャトル線に乗り換えるために久し振りの下車で、大宮操車場の廃止による駅の改装等で改札を通らずに駅舎内を徒歩で自由に往来できるようになり、鉄道博物館の開館に伴うコンコースの大規模改修や、駅中商業施設もオープンしており大きく変わり迷いそうです。

ニューシャトル線の大宮駅は、JRの新幹線ホームの北寄りの位置にあり、単式ホーム1面1線のちょっと変わった高架駅です。終点での列車はホームを折り返えせずに、東北・上越新幹線の東側から入ってから、ループ状で時計周りに迂回して途中に設けられた東西方向のホームで乗客を全員下車させた後、始発の乗車客を乗せて運行するという珍しい駅です。
大宮駅を出た電車は、大きく時計周りに迂回して、上越新幹線の西側に沿って内宿方面に進みます。
博物館へは1駅先の鉄道博物館駅で下車します。この駅でのニューシャトル線は、東北・上越新幹線高架橋の両端に線路と駅ホームが施設してあります。


ホームを降りると、博物館の通路が連絡しており、蒸気機関車の前面や列車の車輪などが展示してあります。


・車両
ニューシャトル線の車両は、全て6両編成で黄色と緑色を配した明るい感じの1010と1050系の電車と、2007年5月から鉄道博物館に伴う輸送力増強用に、車体幅を広くして混雑緩和を図ったステンレス製の2000系が加わりました。
ニューシャトル線はタイヤ式の新交通システムですが、ゆりかもめや金沢シーサイドラインなどと違って乗務員が乗るワンマン運転で、各駅にはホームドアが設置してありませんが、安全柵が設けられています。

鉄道博物館入場券
鉄道博物館の個人の入館税込料金は、一般が1000円、小中高生が500円、3歳以上の未就学幼児が200円で、1人1枚のSuicaまたはPASUMOで電子チケット販売機で電子マネーで支払いするか、館内専用ICカード貸出機で入館料を払い入管ICカードを入手して入館します。

昼食レストラン
入館すると時計は12時を指していましたので、見物前に腹をこしらえてからと館内の食事処を探すと、1Fにはかっての食堂車で提供していたメニューを中心に取りそろえたレストラン「日本食堂」と、2Fには気軽に利用できるカフェテリアのレストラン「TD」があり、駅弁を買って展示列車の社内の椅子にかけて旅行の雰囲気を思い出しながらの食事がとれます。
1Fの「日本食堂」には、食事時で行列が並んでましたが、2月中間の土曜日でしたので、レストランの客の回転も早いようなので、多少の行列待ちをして入りました。案内された場所は奥の客席で、そこから博物館の横を走る在来線の姿もみられ、休憩スペースのフレンドリートレインの端で列車に取り囲まれた鉄道ファンには申し分のないレストランで、さらに「博物館中央駅」の前なので、ここから「博物館北駅」までのおよそ230mの線路を往復するミニ列車のミニシャトルの発着の様子も見られます。

  レストラン「日本食堂」     フレンドリートレイン      ミニシャトル    

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イベント 映画観賞 映画で見る昭和30年代の庶民生活

2008年02月12日 | イベント
kan-haru blog 2008

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映画から昭和の庶民生活を知る
このところ、昭和の時代を描いた大作映画が続いて登場しております。
何れの映画も一般の庶民が登場する「家族」もので、舞台にヒーローや目的のある筋書きが無く、その時代の一庶民の普通の生活を描いた物語です。

昭和の世界大戦を知る
前回記述ブログの「母べえ」は、黒沢映画で長年活躍した作者の野上照代さんが、両親への鎮魂を込めて綴ったノンフィクションで、1940、41年(昭和15、16年)の世界大戦の忌まわしい時代に、拘置所内の父と留守家族との書簡を基に描かれた、1984年に応募した「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」の入賞作品です。映画での最後の場面は、唯一のフィクションがあると著者が述べておりますが、両親は何も恵まれること無くこの世を去り、あの時代の一般庶民は皆が夢も希望も持てない生活をおくったのです。
この映画の時代を過ごした者にとっては、物語が語っている悲しみを通り越して、あの戦争の過ちのを二度と繰り返してはならないとの印象を強く受けます。「母べえ」の山田監督は、「このホームドラマを通して、あの恐ろしい太平洋戦争を描きたかったんだ。」と言っております。愚かで悲惨な戦争を、現代の世代に語り継がれることを望みます。

昭和30年代の生活を知る
昨年11月に封切りされた「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は、2005年公開の前作「ALWAYS 三丁目の夕日」が1955年(昭和30年)の東京タワーが建ち始めた時代の、夕日町三丁目をCGにより当時の街を忠実に再現した舞台で、一般庶民の生活振りを描いた物語の続編です。


ALWAYS 三丁目の夕日の時代
「ALWAYS 三丁目の夕日」の原作は、31年間に亘り連載が続く西岸良平著のコミック「三丁目の夕日」を山崎貴監督が脚本執筆したものです。
物語は、青森県から集団就職で鈴木オートに、星野六子がやって来たところから始まります。

当時世界一の東京タワーが完成したのは1958年(昭和33年)で、僅か15か月でエッフェル塔の約半分の鋼重量で完成し、鈴木オートにもテレビがやってきました。
焼け野原から13年で世界一のタワーを作ろうという、当時の日本人の気概は凄いもので、希望の持てる時代でした。

当時の私は、1956年(昭和31年)に大学を卒業して就職難の中、中小企業に就職して安給料に甘んじながら、日曜の休日出勤、長時間残業の勤務をしていましたが、当時は当たり前のこととして仕事をこなしておりました。

ALWAYS続・三丁目の夕日の昭和34年
前作から4年後の続・三丁目の夕日が始まる1959年(昭和34年)は、戦後のどん底から僅か10数年で日本が復興して、当時の庶民はまだ物が豊富ではありませんが、明日への希望を大きく持つことができて、心の豊かさを感じながら生活を送れた時代でした。
前作を見て、CGによる夕日町三丁目の当時の街の時代再現の技術力に感激して、続編を昨年の11月21日に鑑賞しました。

1959年(昭和34年)の日本は、4月に皇太子殿下ご成婚され、各社のテレビが総力で中継して受信契約が200万を突破し、東海道新幹線の起工式が行われました。また、5月には1964年のオリンピックの開催地が東京に決定し、それまでに路面電車の廃止を決めました。しかし、当時の日本人の平均寿命は、男65歳、女69.6歳でした。

続・三丁目の夕日の物語の昭和34年は、日本の高度成長期に入る前の時代で、舞台に出てくる日本橋はまだ高速道路が橋上に被さっておらず、子供達は空き地でベーゴマ遊びをし、アイスキャンデー売りに群がった時代で、テレビもどこの家には無く最初に購入したお店に皆で見に行きました。この時代の庶民の結びつきは強く、心が豊かな時代でした。

・昭和30年代物語~街角のたばこ屋さんをさがして~特別展


たばこと塩の博物館(東京都渋谷区神南1-16-8)では、2007年9月15日から11月11日まで特別展「昭和30年代物語~街角のたばこ屋さんをさがして~」を「ALWAYS続・三丁目の夕日」製作委員会の協力で開催されました。10月21日に見てきました。


・懐かしの昭和30年代 ALWAYS続・三丁目の夕日展


日本橋三越本店新館7階ギャラリー(東京都中央区日本橋室町1-4-1)で、2007年11月20日から25日まで「懐かしの昭和30年代 ALWAYS続・三丁目の夕日」展が開催されました。11月22日に見てきました。


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イベント 映画「母べえ」大森町に住み始めた時代の激動の世界大戦を生きた家族の物語

2008年02月09日 | イベント
kan-haru blog 2008

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母べえ
山田洋次監督が激動の世界大戦を生きた家族を描く映画「母(かあ)べえ」は、夫の滋が治安維持法違反で検挙され、戦争反対の信念を曲げない夫を尊敬し信頼し、吉永小百合が演じる母役の佳代が、残された二人の娘たちと精いっぱいに家計を支えながらつつましく生きていく物語です。
年に数度程度見る映画の中で、我々と同世代を生きた「母べえ」は是非見たい映画であり、京急川崎駅前のDICE - TOHOシネマズ川崎に2月5日に観に行ってきました。

物語は1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)に、日本が太平洋戦争へと歩みを進めていく時代の東京が舞台で、批判して戦争反対を唱えると罪となり先が見えない暗い時代でありました。無知な軍部偽政者が指導の無謀な戦争で、悲惨な目にあわせられた一般国民が意見も唱えられず、ただ人と人の絆を頼りに深刻な食糧難や物資不足を何とか耐えて生き抜いた悲しい時代のノンフィクションです。


次の6行はネタバレの記事です。これから映画を観賞される方は読み飛ばして先に進んでください。
映画は、人間扱いされない獄中の「父べえ」と留守家族の間で手紙のやり取りで結ばれていた絆も、体重が3貫目(12kg)も痩せ衰えての獄中死の無言の帰宅で夢が消えました。また、留守家族の家庭を助けるため「母べえ」一家に身を寄せていた義理の妹も広島で原爆の犠牲に遭い、「父べえ」の元教え子の山崎が男手のない一家を何かと面倒を見ていたが、赤紙で召集され戦地への輸送船の爆沈で戦死するという、国民が戦争の犠牲を負い、悲惨さを訴えて戦争反対を示せない悲しさ、当時の理不尽なあの時代を生きた人間の何とも言えない暗い物語です。

母べえ - goo 映画

この物語の出演者は、「母べえ」役の吉永小百合は我々が若き世代に憧れの女優であり、私の母と同世代を演じた昭和の母は全く完璧です。二人の娘を演じた子役の演技も素晴らしいもので、妹役の「照べえ」は丁度小学生であったあの時代の私と同世代でした。
「父べえ」役の坂東三津五郎は、私の父と同世代の家族を愛し戦争反対を毅然と貫いた優しい父親役を熟し、脇役の義理の妹役の檀れい、元教え子役の浅野忠信なども好演でした。


戦争を語る
出演者の好演の演技力に引き込まれるより、実際に同世代を過ごした者にとっては、当時の悪夢の時代に引き戻され、映写の間中とても暗い感じに陥りました。
世界大戦を思い出すと、戦争は二度と繰り返してはならないと強く感じます。そして、戦争の悲惨さを次の世代に語り継いでいかなければならないと思います。

このブログでも、父の職場の同僚である若山武義氏の手記「大森町界隈あれこれ 空襲編手記 目次第1編2編3編」(完結)で残酷な東京大空襲の戦災を語り、同じく「大森町界隈あれこれ 戦後史編 目次」(連載中)で終戦翌年の悲惨な耐乏時代を語っております。
しかし、ブログで語っても、目に留まった人以外には一方通行で伝わりません。このブログを見て、二度と戦争を繰り返してはならないとご賛同の方は、戦争を語っている手記があるとご紹介頂きたく願います。

3月10日東京大空襲
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、台東区、墨田区、江東区の一帯で一夜で10万人が犠牲となる戦災に遭いました。毎年、この地域の各地で、戦災の法要が営まれ、東京空襲に関するイベントの資料展や戦争を語り継ぐ催し(「イベント あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」 」参照)などが開催されます。
今年も、既に台東区の浅草公会堂で開催の被災63周年「東京大空襲資料展」(東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会主催)3月8~11日開催と、江東区の亀戸カメリアホールでの「東京大空襲を語り継ぐ集い」(東京大空襲・戦災資料センター実行委員会主催) 3月8日開催が行われますのでご案内致します。


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