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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第1回その2)

2009年11月09日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2009 

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大森学園創立時の時代背景
大森学園70年前の大森機械工業徒弟学校創立を理解するため、当時の時代背景を知る必要があり、「転換期における地域社会と生活の変容」1)、「工場まちの探検ガイド」2)などの資料から探ってみました。
・大森の工業化
1904年(明治37年)の日清・日露戦争の経験により軍需工業の強化の要請が高まり、近隣の区の機械金属工業の下請け工場の必要性が強まってきました。
大森では1908年(明治41年)に現大森東3-28に東京瓦斯大森製造所の建設許可がおりてからが、工業化の出発点と考えられます。なお、大森町での電灯の点灯は早く、1901年(明治34年)に京浜電気鉄道により配電供給がされていました。

 明治41年頃の東京瓦斯大森工場(工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館出典)

既に隣の品川区では、1869年(明治2年)にビール製造所(現東大井3)が設立され、1873年(明治6年)ガラス製造会社が目黒川沿いに建設され、後に製薬会社の三共となり品川の工業化の核となりました。
1906年(明治39年)には後の明治製糖となった製糖会社が多摩川沿いに設立され、翌年には後の東芝となった東京電気が現川崎市堀川町に工事部を設置したほか、1913年(大正2年)に富士紡績が久根崎付近に工場用地を購入し、工業化は品川から多摩川を越えて川崎に渡りました。当時大森の工業化の遅れは、伝統的な海苔養殖業が盛んで漁民や海苔業者が海を汚す工場建設に反対していた点にあります。
品川区と川崎が工業地として足場を固めつつある時に、大森では時代の流れに抗しきれず、特に品川区からの影響が強く、工場の新設・転入が活発化してきました。


1914年(大正2年)に第一次世界大戦が起こり、政府は国防的見地から工業化を進めるため1919年(大正8年)に「都市計画法」を公布して、現大田区域も1922年(大正11年)の公告により計画区域に含まれることになりました。また、1925年(大正14年)の「東京都市計画区域内商業地域、工業地域内特別地区及住居地域指定ノ件」の告示によって、大森町の全部と入新井町の一部が工業地帯に指定されました。
その後、1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、東京の旧市区内の被害は甚大でありました。「市街地建築物法」などで旧市区内での復旧を見合わせた多くの工業企業家達が、旧市区にも近く比較的に震災被害の少ない大森の工場地帯に移転してきました。

 関東大震災後の工場数と人口の変移(左:町別工場数の変移[大田区立郷土博物館出典]、右:大田区の人口の変遷[大田区史より])

また、第一次世界大戦を経て軍需産業強化の声とともに、軍需工場として周辺に高度加工技術を波及させた日本特殊鋼(1915年設立大森東)や新潟鉄工所(1918年設立蒲田)などの、大・中規模の企業が次々と建設され、さらに、地域整備が進んだことにより、1930年(昭和5年)に東京計器、1937年(昭和12年)に三菱重工が大田区で操業を開始しました。

 昭和9年の大森東の日本特殊鋼(工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館出典)

これらの企業は加工組み立て型で、工作機械・専用機械・測定機器の資本財中心のリーディングカンパニーの親会社となり、大森には中小工場が下請け工場群として集積してきました。大田区の工場数集積の伸びは飛躍的で、1930年(昭和5年)から1936年(昭11年)の短期間に大森では4倍近く、蒲田では8倍近くに増大しました。
なお、交通インフラの整備も進み、1927年(昭和2年)には第1京浜国道が完成し、1931年(昭和6年)には羽田飛行場が完成し、人口も急増してきました。
この時期は、金融恐慌の時代でしたが、1931年(昭和6年)には東京市の工業生産額が、大阪市を抜いて全国一となりました。

昭和10年代に入り、次第に戦争突入へと向かう日本は、工場(こうば)の町である大森のモノ作り工場から兵器工場へと変貌していき、兵器の生産によって仕事は忙しく活気付きました。大田区の軍需事業所は、東京都内の四分の一が集まり、人材の需要も高くなり仕事を求める人々が大森に集まり、人口が増えてきました。大戦に突入する前の、この頃の京浜急行の大森山谷駅(現大森町駅)の周辺には、沢山の銀行や金融機関が建ち並び、映画館や劇場も多く見られ、現大森警察署の場所には大森区役所があり、大森区の中心街でした。旧東海道の三原通りには夜店が沢山出て、日本特殊鋼管の職工さん達が夜遅くまで出歩き、大変賑わっていました。

 工場数と人口増加の実数(大田区立郷土博物館出典)

・大森機械工業徒弟学校
この急速に工業化の進む時代に生きる軍需拡張の大森工場地帯では、地方出身、特に東北地方出身の多くの少年工達が働くようになりました。大森の中小工場経営者の62社により意欲を出して、これらの少年工達に教育の場を与え、産業の後継者を育成することを目的として1939年(昭和14年)に大森機械工業徒弟学校が創立されました。
徒弟学校は、高等小学校卒を入学資格とし、生徒は昼間には62の加盟工場の従業員として働き、学費は工場側の負担で夜は学校へ通い修業年限は3年です。徒弟学校生の募集は共同募集により、就職先は委員会が加盟工場に振り分けました。
当時は、工業系の学校が少ないことや、雇い主の無理解で働きながら学校へ通うということが難しい時代で、この大森町の工場経営者達の工業化に対する熱意や、ネットワークの先取りは意気を感じさせられます。

1942年(昭和17年)になると、財団法人大森工業学校の設立が認可されて、夜間部は大森機械工業徒弟学校生徒中の希望者を試験の上入学させ、昼間部は一般の尋常小学校卒の生徒を受け入れるように制度を改められました。

 大森・蒲田の中規模・大規模機械工場集中地域図(工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館出典)

その後、1945年(昭和20年)4月15日の大森町大空襲の爆撃により大森工業学校は全焼したため、戦後の森が崎の工場跡の仮校舎での授業が始まり、現校地への工場棟移築の校舎再開(1948年3月)と苦難の道を歩むのですが、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の特需により我が国の工業も活気付きました。
これらの中小工場で高い加工技術を身につけた多くの職人達が、大戦後の大田区で独立創業して、中小企業による一大集積地を形成し大森のものつくりの地域技術を蓄積してきました。

脚注
1) 「転換期における地域社会と生活の変容PART<3>」 第3章 大森西地区(大田区大森西1丁目~7丁目)  浦野正樹+「産業と地域」研究会編 [発行] 早稲田大学地域社会と危機管理研究所/早稲田大学文学部社会学研究室 2001年3月31日
2) 「工場まちの探検ガイド」 [編集・発行]大田区立郷土博物館 1994年7月3日発行

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2 コメント

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ヤスキハガネの地で (奥野)
2010-11-21 19:30:09
 なつかしいです。たしか日本特殊鋼の馬場さんというかたが、高級特殊鋼のメッカ島根県安来市の根来川あたりで原料の砂鉄の品質調査に付き合ったことがあります。今はどうしているのやら。
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奥野さん はじめまして (kan-haru)
2010-11-24 12:09:20
奥野さん はじめまして コメントを有難うございます。

終戦直後は、疎開先から焼野原の大森に引き揚げてきて、暫くは対岸に特殊鋼を見ながら生活をしていました。

今では、地元でも特殊鋼があったことを知っている人は、僅かとなりました。
特殊鋼と関係された方からコメントを頂けるとは、思いの他でした。

また、何かとコメントをお寄せ下さいますよう、お願い致します。
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