十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

林檎

2015-11-13 | Weblog
浄玻璃の鏡くもれる林檎の香
大阿蘇の星の息づく夜長かな
斑鳩の野辺に充ちゐる秋の声
星座へと這ひのぼりたる真葛かな      みどり


*「滝」11月号〈滝集〉菅原鬨也主宰選

 どこだったかすっかり忘れてしまいましたが、京都のお寺の暗い御堂の壁面に、地獄絵図が描かれていました。まさしく阿鼻叫喚の様でしたが、昔の人はなぜあのような世界を想像したのでしょう?(Midori)

木守柿

2015-11-12 | Weblog
信仰のたとへば島の木守柿     岩岡中正

「信仰」という、やや漠然とした行為を、「たとへば」と展開し、具現化して提示しようとする一句である。そして提示されたものが、「島の木守柿」とは、なんと安息にも似た光景だろうか。熊本で、「島」と言えば天草。天草は、かつて隠れ切支丹の里として知られ、長く江戸幕府の直轄に置かれた天領の島であった。しかし今、秋になれば柿はたわわに実り、最後の一つを「木守柿」として残しておくことを常としている島の暮しがある。こんな小さな風習もまた、一つの「信仰」であるというのである。神仏への宗教的な儀式や祈りを信仰であると思いがちであるが、信仰は決して特別なことではなく、日々の暮らしの中で、意識することもなく守り継がれている「信仰」のかたちがあることを、改めて気づかされた。島の「木守柿」への慈愛の眼差しに、魂の充足が感じられる作品である。第3句集『相聞』より一句観賞、「阿蘇」11月号に掲載。(Midori)

夕菅

2015-11-11 | Weblog
夕菅や刻々山の色失せて     矢澤幸乃

夕ぐれが近づき、次第に薄暮につつまれてゆく山である。山の色が失われるに従って、色を増すかのような夕菅である。「色失せて」の動詞の連用形で終る下五は、再び上五へと還り、夕菅の黄色が鮮明に強調された一句である。「阿蘇」11月号、井芹眞一郎選より抄出。(Midori)

銀河

2015-11-10 | Weblog
翼灯の銀河を過ぎる音幽か      宮野栄子

澄み渡った夜空を行く飛行機の翼灯は、チラチラと点滅しているようにも見えて、美しいものである。「音幽か」と詠まれているが、しんと静まり返った夜空に、どんな音さえも聞こえない。しかし、「銀河を過ぎる音」である。科学技術の象徴である「翼灯」と、宇宙の神秘である「銀河」との取り合わせに、ロマン溢れる幽かな音が聞えたような気がした。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

日焼

2015-11-09 | Weblog
駐車場係世界遺産の日焼かな     中川裕子

「明治日本の産業革命遺産」として、熊本では三角西港と万田坑が世界遺産として登録されたが、そのニュースに、多くの観光客が訪れたのは言うまでもない。町おこしの一環としても世界遺産の登録は、地域の夢でもあった。駐車場係の「日焼」を「世界遺産の日焼」と捉えて、ユニークであり、活気のある一句となっている。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

扇風機

2015-11-08 | Weblog
うとうとと命預けて扇風機     池田駒女

扇風機は、エアコンの普及によって、使用頻度が低下したとも言われるが、一般家庭においては、まだまだ扇風機の風は、夏の風物詩である。そんな扇風機に「うとうとと命預けて」という作者である。「扇風機」というどこの家庭でも一台はある電化製品に、命を預けているという大らかさ。至福の時間が、「うとうとと」過ぎてゆくのだろうか。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

涼し

2015-11-07 | Weblog
半世紀涼しき距離で妻と住む     今村征一

半世紀と言えば、五十年。二人にとっては金婚式であり、一人では決して得られない祝いの日である。人生の大半を過ごして来た妻との距離が、「涼しき距離」とは、簡単なようで難しい。距離があり過ぎれば互いが見えなくなる可能性があるし、距離が近すぎても、余計なものまで見えてしまう。確固たる信頼という絆が、「涼しき距離」を保つ秘訣なのだろうか。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

朝顔

2015-11-06 | Weblog
朝顔に浮かぬ顔など見せられぬ     中原和代

朝顔は、何といってもその名のように、朝の顔。昔から親しんでいる花を見ると、気持ちの良い朝が来たことを実感する。さて、鉢植え、あるいは軒先に咲く朝顔だろうか。朝早く出かけようとしている作者だが、「浮かぬ顔など見せられぬ」とは、いかにも威勢がいい。「朝顔」への小さな対抗意識が楽しい一句だが、朝顔にパワーを貰っている作者でもあるのだ。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

万緑

2015-11-05 | Weblog
万緑に疲れ一樹に憩ひけり     山本淑子

万緑の旺盛なエネルギーは、見るものの一つ一つの細胞までも生き生きと活気づかせるが、時に疲れさせる要因にも繋がってしまう。さて、万緑を出て、一樹に憩う作者である。「万」と「一」、「疲れ」と「憩ひ」の対照的な措辞の叙述によって、「万緑」の圧倒的な生命力が伝わって来た。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

野分

2015-11-04 | Weblog
月すこし欠けてゐるなり野分後     大坪蕗子

今年もたくさんの台風が、次々と日本列島を目がけてやって来たが、台風を防ぐ術などはなく、ただじっと過ぎ去ってゆくのを待つだけである。さて、掲句の野分、それ程の大きな野分ではなかったのか、「月すこし欠けてゐるなり」と、何ともユニークである。被害もなく過ぎて行った野分だからこそのユーモアであり、安堵の思いが、一編の詩となったものだろう。「なり」に感じられるのは小さな驚きである。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

秋思

2015-11-03 | Weblog
立ち止まる度深みゆく秋思かな     上村孝子

ふっと感じる寂しさや侘びしさは、一体どこから来るのか、秋は誰もがもの思う季節である。さて、立ち止まることなく、まっすぐに進めば、秋思など消えてしまいそうだが、つい立ち止まってしまう作者である。行くほどに深まる秋の景色に、作者の秋思もまた深まっていったのだろうか。「立ち止まる」という日常の何気ない行為が、「秋思」という季語によく活かされた作品である。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

晩☆

2015-11-02 | Weblog
ゴーギャンの女膝立て晩夏なり     九谷せい

ゴーギャンは、フランスの印象派の画家。中でも「タヒチの女」が有名だが、さて、絵の中の女は膝を立てているかどうか?原色で描かれたゴーギャンの女たちの姿は、いかにも奔放で生き生きとしている。「女膝立て」の大胆な措辞と、「晩夏なり」の断定が、夏の終りを実感させる。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

帰省

2015-11-01 | Weblog
帰省子に言へば遺言めきて来る    松村葉

日頃顔を合わせない子が帰省すると、つい、あれもこれもと言って置きたい事ばかり。「遺言めきて来る」という作者であるが、老後ならばいざ知らず、死後のことまで気にかかるのは、誰も同じだ。「遺言」という言葉は、シリアスではあるが、どこかユーモアも感じられる作品である。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)