十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

法師蟬

2016-09-30 | Weblog
法師蟬記憶のどこか欠けてゐる    鈴木要一

「記憶」は、抽象的な概念であるが、「どこか欠けてゐる」という措辞によって、「記憶」を具象として捉えることを可能にしている。つまり、全き塊であるはずの「記憶」の一部分が、白く欠けている、という映像が立ち上がってくるのである。さて、記憶と忘却。忘れることも生きて行く上では、重要なことであるが、「法師蟬」の声だけは鮮明に記憶しているというのだ。「法師蟬」に語らせているのは、記憶の外に置かれてしまった終戦の記憶なのか・・・?「滝」9月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

風死す

2016-09-29 | Weblog
風死せり芸子待つ間の人力車     阿部風々子

「芸子待つ間」の独特の空気感は、花街が一般社会とは一線を画する世界であるという認識がそう思わせるのだろうか。そこへ、およそ考えも及ばない季語、「風死せり」である。車夫にとっては、芸子を待つということは、すでに日常であり、何の感慨も及ばない無機質な時間であるはずである。しかし、人力車に芸子を乗せた途端、それは華やぎに変わるのだろうか。「滝」9月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

夕焼

2016-09-28 | Weblog
夕焼の底ひを兵と馬の列     石母田星人

「兵と馬の列」は、もちろん現実の映像ではないが、「夕焼の底ひを」となると、決して不可能な構図ではない。「夕焼」は、郷愁を覚える季語であり、掲句の中では、過去の記憶を引き出すために置かれた、一つの道具であるとも言える。「兵と馬」の戦は、古い過去の物語である。「夕焼」が、そう思わせるのだ。「滝」9月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

バナナ

2016-09-27 | Weblog
原爆忌たちまち増ゆるバナナの斑    成田一子

「バナナの斑」とは、バナナの食べごろの目安とされるシュガースポットのことである。店頭で買う時は、すべすべの黄色のバナナだが、すぐに黒い斑点が出はじめて、うっかりしていると食べ頃をのがしてしまうこともある。さて、バナナの黒い斑点と、原爆忌との配合の一句である。「バナナの斑」という措辞に、不気味な響きが感じられるのは、「原爆忌」という忌まわしい負の記憶と重なるからだ。異質なものの取合せの響き合いが新鮮な一句である。「滝」9月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

曼珠沙華

2016-09-26 | Weblog
黄金の稲穂がたわわに稔り、きれいに刈り込まれた畔には曼珠沙華が彩っている・・・。そんな田舎の景色は当たり前だと思っていましたが、最近ではそうでないことに気づきました。今年、畔が刈られることなく、夏草が伸び放題で、その中から、曼珠沙華の赤が微かに覗いていたのです。農村部では特に高齢化が進み、畔の草刈がされることなく放置されています。当たり前のように見ていた景色は、実は人の手によって作られてきたものだったことに、愕然とする思いです。(Midori)

    あと戻りできぬ道行曼珠沙華

露草

2016-09-25 | Weblog
俳誌「阿蘇」の阿蘇久住での一泊二日の俳句研修会に行ってきました。このたびの地震であちこちの主要道路が通行止めになっていましたが、阿蘇山は変わらず雄大で、芒が柔らかな光を放っていました。花野では、思い草、松虫草、吾亦紅など、高原ならではの秋草に出会いましたが、何より目を惹いたのが露草の色でした。道々の畔を彩る曼珠沙華や黄金の稲穂の美しさは言うまでもありません。(Midori)


  露草の藍にはじまる宇宙かな

2016-09-23 | Weblog
脳科学者の中野信子さんによると、「脳を活性化するために重要なことは、イメージトレーニングであり、妄想という言葉に置き換えることができる」という。イメージトレーニングと言えば、様々な分野にも応用される有用な手段だと思うが、さて妄想となるとどうだろうか?「妄想」を広辞苑で引くと、①みだりなおもい。正しくない想念。②根拠のない主観的な想像や信念。(後略)と、あまり良い意味では使われてはいないようだ。俳句が写生であるとしたら、頭の中に構築されたイメージ、あるいは妄想を言葉にすることも一つの「写生」である。脳の活性化は、すなわち認知症予防にも通じる。妄想の世界で、大いに遊びたいものである。(Midori)

  月の夜の五感はひとつづつ眠る

水芭蕉

2016-09-22 | Weblog
木道に片脚ゆづる水芭蕉      横田みち子

木道に片脚だけを残して、もう片方は宙に浮かせているのか、あるいは木道以外の場所に片方を預けているのかもしれない。そんな木道で譲り合う何気ない所作を「片脚ゆづる」と詠まれて、何とも若々しい作品である。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

若葉

2016-09-21 | Weblog
四阿の東西南北若葉風     斎藤善則

あっけらかんとした句だが、「四阿」という簡素な建造物の特徴を良く捉えてユニーク。東西南北、どこからでも眺めることができるのは四阿ならではの景だが、一時の休憩に、「若葉風」が何とも心地よさそう。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

沙羅の花

2016-09-20 | Weblog
水平に夜のあけくる沙羅の花      渡辺登美子

稜線を縁どるように、白々と夜は明けて行くが、それは決して垂直方向でなく、「水平に」である。日常的に目にしている風景であるが、「水平に夜のあけくる」というのは、一つの発見である。さらにこの句の仕掛けは、「沙羅の花」が垂直方向に落花することである。沙羅の花が、次第に色を増して行く時間の経過も感じられる作品である。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

紫陽花

2016-09-19 | Weblog
紫陽花や咲初めはみな涙色     鈴木三山

紫陽花の色づくまでの経過を良く見ていると、誰もが納得の「涙色」である。次第に、海の色となり、極まれば群青色となる。思えば、涙も海も成分は同じ。命は海から生まれたのだとしたら、咲き初めの「涙色」には、感傷さえ覚える。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

夏の月

2016-09-18 | Weblog
淀殿の母性炎上夏の月    齋藤伸光

大坂夏の陣での大阪城の炎上は、豊臣秀頼が、徳川家康に敗れたというより、母、淀殿の「母性炎上」という結末であったとも言える。歴史上の悲話を元に詠まれた作品だが、「夏の月」が配されて、かつて時代の象徴であった大阪城が蘇ってくる。「大阪城」とはどこにも書かれていないが、一句の背景には炎上するリアルな大阪城が立ちあがってくる。俳句の可能性がまた一つ広がった。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

海霧

2016-09-16 | Weblog
海霧に灯る電話ボックス死後の景    相馬カツオ

「死の体験」をしたという小説家、中村うさぎ氏によると、死とは、「いきなりテレビのモニターのスイッチが消えるように、私の周りの世界全てがプッツンと音を立ててブラックアウトした」という。ならば、死後の景など想像もできないが、一時、ブラックアウトした世界が、ぼんやりと白みかけ、そこに電話ボックスがあれば、この世とつながっていられるのだろうか?今ではあまり利用されなくなった「電話ボックス」が、妙に現実味を帯びてくる。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

蚕豆

2016-09-15 | Weblog
蚕豆よふはふはベットより覚めよ    平賀良子

蚕豆は、肉厚の緑の莢が特徴的だが、この莢を剥くと、まさに、「ふはふはのベット」さながらの莢の内側に収まる薄緑色の蚕豆を発見する。この時の小さな感動が、そのままストレートに詠まれた一句だが、「蚕豆よ」の呼びかけから始まって、「ふはふはのベットより目覚めよ」とは、いかにも、物語の中の御姫様の目覚めのようだ。作者の豊かな想像力が楽しい。「滝」8月号〈瀑声集〉より抄出。(Midori)

羽抜鶏

2016-09-14 | Weblog
羽抜鶏己が影より抜けだしぬ     石母田星人

羽抜鶏が、己が影より抜け出した、という写生句であるが、「抜けだしぬ」という感覚的な把握が見事である。羽抜鶏の影もまた羽抜鶏である。「抜けだしぬ」という措辞は、まるで羽抜鶏から羽抜鶏の魂が抜け出たような錯覚すら覚える。平明な作品でありながら、独創的な飛躍が魅力的な一句である。「滝」8月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)