十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

睡蓮

2015-06-30 | Weblog
夢の数ほど睡蓮の咲きにけり     岩岡中正

「睡蓮」という漢名が活かされた「夢」ではじまる一句。「夢の数ほど」という、抽象的でありながら具体的な「数」への飛躍は、睡蓮の咲く水面へと映像が広がって行く。きっと、それ程多くの睡蓮が咲いていたのではないだろう。だからこそ、「夢の数ほど」だったのだと思われる。「咲きにけり」の断定が、現実の睡蓮の輪郭を鮮やかなものにしている。「阿蘇」7月号より抄出。(Midori)

2015-06-29 | Weblog
岩陰にひらく磯巾着の夢
蓬摘むわが人生の現在地
石鹸玉弾けて山河濡らしけり
藤房のつぎつぎ揺るる周波数     みどり


*「阿蘇」7月号、岩岡中正主宰選

 小学校の頃、春の学校行事で、潮干狩りがありました。今思えばどこの海辺だったのか、定かではありませんが、ごつごつとした小さな岩場には、磯巾着、海星、寄居虫など、美しい海の生き物がいっぱいでした。その時の映像が、今もなお鮮明に思い出されるのです。今はどこに行けばあの時の海辺に出合えるのでしょう。(Midori)

五月

2015-06-27 | Weblog
五月憂し悲劇独白剣を手に      野見山朱鳥

「悲劇」「独白」「剣を手に」と、来れば、シェークスパイの四大悲劇のひとつ、「ハムレット」の一場面である。「To be, or not to be」は、劇中の最も有名な台詞だが、朱鳥にとってそれは何を意味したのだろう。陰暦五月、時に、「 or not to be」と、ちょっと立ち止まって自問してみるのもいいかもしれない。野見山朱鳥句集『朱』より抄出。(Midori)

涼し

2015-06-26 | Weblog
濡場とて一人芝居の涼しさよ     西村和子

「濡場」とは、何だか古典的な響きだが、そもそも歌舞伎から発祥した言葉であるという。さて、濡場のシーンが一番の見どころなのかもしれないが、どこか気恥ずかしさも感じている作者である。しかし所詮、一人芝居は一人芝居。「一人芝居の涼しさよ」と、達観した視線が何とも涼しげである。句集『ひとりの椅子』より抄出。(Midori)

明易し

2015-06-25 | Weblog
波音のはたととだえて明易き      高浜虚子

波音だけが聞こえる静かな夜、心地よい眠りから深い眠りへと変わる頃、窓の外はすでに白々と夜明けである。夏の夜明けは早い。海辺に暮らす人々の生活の音が波音を消してしまった、聞こえていたはずの波音が止んでいたという。「はたと」という措辞が、夜明け前と夜明け後の瞬間の切り替わりを伝えて流石。第4版『虚子俳話』より抄出。(Midori)

2015-06-23 | Weblog
鎮めたる心のゆらぎ泉湧く     深見けん二

心の昂ぶりがようやく鎮まったと思えば、すぐにゆらぎはじめる心。煩悩の生き物である限り、鎮まることのないわが心なのである。それは涸れることのない泉のように、と諦観の境地は、健全な心の証でもある。句集『菫濃く』より抄出。(Midori)

若葉風

2015-06-22 | Weblog
若葉風タイルに描く新校舎      佐藤憲一

タイルアートは、花や動物などが描かれた小さな置物から、掲句のようなスケールの大きな図柄もある。様々な色や形、大きさの違うタイルを組み合わせて創作される絵画は、水彩画や油彩とは違う明るさが特徴的。描かれた「新校舎」は、きっと実際の新校舎の壁面に、あるいは記念碑として描かれたものだろうか。配された「若葉風」が、完成されたタイルアートの一部分であるかのように機能して、一幅の造形美を見るようである。「滝」6月号〈瀑声集〉より抄出。(Midori)

薄暑

2015-06-21 | Weblog
わが影の足にまつはる薄暑かな     三品知司

太陽が中天近くある頃、わが影は足元に短く曳いている。物理的にも影は「足にまつはる」ことはなく、常に太陽と反対方向にあるはずだが、短い影は、まるで足にまつわるようについて来る。いかにも薄暑らしい比喩が楽しい一句である。「滝」6月号〈瀑声集〉より抄出。(Midori)

若葉

2015-06-19 | Weblog
デモ隊の旗に触れたる若葉かな      中井由美子

日本が抱える多くの深刻な問題に、誰もが関心を持ちながら、状況をじっと見守っている中、実際に行動を起こして政府や統治者に自分らの意思を伝えようとする人々がいる。旗を振り、プラカードを掲げ、彼らの主張のために懸命な抗議を繰り返す。そんな情景を見ている作者の目に映ったものは、何と「旗に触れたる若葉」であった。「若葉」にホッとさせられる一句だが、デモ隊が現実のものであることも実感できる作品である。「滝」6月号〈瀑声集〉より抄出。(Midor

2015-06-18 | Weblog
花守はとほくの桜見てゐたり      長岡ゆう

意表を突く一句である。考えてみれば、花守にとって、自分の守る桜は、単に鑑賞するための桜ではなく、花守としての責任を果たすべき対象としての花なのかもしれない。「とほくの桜見てゐたり」に、そんな花守の真の姿が写し出されているような気がした。遠くの桜を見ている時の花守は、花守でなく一人の花人になる瞬間なのだ。「滝」6月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

2015-06-17 | Weblog
飛燕かな蔵に刀の錆すずむ    佐藤時子

「飛燕かな」と、まず燕がやって来たことに、春到来の喜びを感じている作者である。そして、思いは蔵に眠っている名刀に及ぶのだ。かつては家宝として、床の間などに飾られていた名刀かもしれないが、今では蔵入りとなってその存在すら忘れられようとしている。「刀の錆すすむ」は、錆びてゆく時代そのものの象徴であるが、「飛燕」のもう一つ意味、「武道などで燕のようにすばやく身をひるがえすこと」も、念頭にあったかもしれない。「滝」6月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

鳥雲に

2015-06-16 | Weblog
一笛で変はる人文字鳥雲に      栗田昌子

高校生の体育祭での応援合戦を思い出す。学生服の黒、体育服の白、タオルの赤、黄、青、緑の6色を駆使しての人文字である。団長の笛を合図に、人文字は素早く変化し、様々な文字を創り出す。「一笛で変はる人文字」は、団員のスローガンだったり、政事、環境、スポーツなど主張する内容は多岐にわたり、若者のエネルギーの集結そのものである。配された季語は「鳥雲に」と、どこか寂しい。フェードアウトして行く青春の記録だろうか?「滝」6月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

更衣

2015-06-15 | Weblog
伊予に生れ相模に老いて更衣     高浜虚子

伊予は、愛媛県の旧国名、相模は、神奈川県の旧国名。伊予に生まれて、相模に老いるまでには、さまざまに移転を余儀なくされたと思われる虚子であるが、人生をこれ程までに端的に伝えて感慨深い。昭和32年作、このとき虚子83歳。第4版『虚子俳話』より抄出。(Midori)

サイダー

2015-06-14 | Weblog
まばたきに消すサイダーの気泡かな      成田一子

グラスに注がれたサイダーだろうか。威勢よく泡の出る様に、涼感を覚えるものだが、立ち上がっては消える泡をじっと見つめている作者である。「まばたきに消す」の「消す」と、「まばたきに消える」の「消える」とは大きく違う。いわゆる自動詞と他動詞の違いだが、「消す」には作者の強い意志が感じられる。都会的な美意識、とでも言えようか。「滝」6月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

2015-06-13 | Weblog
黎明の蝶が呪文を出てゆきぬ      石母田星人

「呪文を出てゆきぬ」の意味するところは、「呪文」がいかに閉塞的なものであるかということだ。呪文は、言語による呪術であるが、時に意味をなさないものであったり、一定の音の繰り返しだったりと、それだけでは何の効力も持ち得ないものである。しかし、あたかも効力のあるかのような神秘性は、呪文の閉塞感によるものかもしれない。さて、「呪文」を出てゆくのは、黎明の蝶。「蝶」そのものがまるで呪文の構成要素であるかのような働きをして、何かスリリングな物語が始まりそうな一句である。「滝」6月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)