十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

春の水

2016-04-30 | Weblog
未明3時ごろ、余震に目が覚めました。次は大きな地震が来るかもしれないと怯えもしましたが、無事朝が来ていました。今年は、夏目漱石没後100年、来熊120年ということで、いろんなイベントが熊本の各地で予定されていたのですが、新聞紙上には「祝賀に影」とありました。漱石が熊本で教鞭をとっていた明治29年には「明治三陸沖地震」が発生しています。漱石は、「人生」というエッセイの中で、「不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る海嘯と震災は、啻(ただ)に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、険呑なる哉」と言っています。津波や地震は、わが丹田にも起こると、人生に悩む思いを地震に喩えているようです。熊本地震で水前寺成趣園の湧水池が涸れてしまいました。(Midori)

しめ縄や春の水湧く水前寺     漱石

月朧

2016-04-29 | Weblog
毎年、「昭和の日」に行われている熊本県北での俳句大会に行ってきました。当初、不参加の予定でしたが、主催者からわざわざ参加依頼があり、行かないわけにはいきません。自粛も考えたようでしたが、結果的に開催ということになったようです。事前に3句投句の上、互選による句会です。一番人気の句は、老境を詠んだ句でした。私は、小さなご褒美を頂いて帰りました。(Midori)

先立つも残るもひとり月おぼろ    村正知

余震なほ

2016-04-28 | Weblog
今日は有明海を震源地として震度2の地震がありました。熊本県外に避難している友人は、鶯が鳴いても、今は鳴いてほしくないと言います。それまで美しいと感じていたものが、そうでなくなるとしたら、自然の美しさは、その時の心の有りようが決めるということでしょうか。若葉青葉の美しい季節を迎えても、震禍の中にあっては何も詠めない、詠みたくないというのが本当でしょう。自ら被災しながらも句を詠むことができる俳人は一体どれほどいるのでしょう。詠まなければならない立場の人は詠んでいるかもしれませんが、そうでない人は詠んでいないのではないでしょうか。これまで、四季折々の自然に触れるためを訪れ、たくさんの句を詠んで来たのは一体何だったのかと愕然とします。虚子は、俳句は「極楽の文芸」だといいます。平和で安全な時だけに、俳句はあるのではなく、たとえ非常時にあっても、俳句へと気持ちを一時でも切り替えることができれば、少しずつでも日常の落ち着きを取り戻すことができるのだと教えてくれているような気がします。しかし、震禍にある友人を前にして何が言えるでしょうか。いつか詠める時が来るまでじっと待つしかありません。

ふと覚めて余震の気配若葉冷     みどり

余震

2016-04-27 | Weblog
熊本地震は、900回を超える余震が、今尚続いています。熊本県下、被害の程度はまちまちですが、何といっても震源地周辺部の被害は最も深刻です。そんな中、九州新幹線の全線開通のニュースは、県下に吹き抜ける風のようにも感じられます。先日は、熊本市内から、家屋倒壊のなかった友人が、熊本県北の「山田の藤」まで吟行に来てくれました。元気な姿をみれば安堵しますが、家屋の倒壊の恐れのある知人は、そんな余裕など全くない日々を送っているのが現状です。

一房をむらさき昇る藤の花     みどり

「滝」を読む

2016-04-26 | Weblog
あなたにも数字の羅列竈猫      今野紀美子

「数字」ではなく、「数字の羅列」である。何の意味があるのか分からないままに、一方的に付けられた12桁の数字。否応もなく与えられた数字に戸惑いはあるものの、「数字の羅列」は、「あなた」であることを保証してくれる数字でもあるのだ。「竈猫」は、作者自身を投影した自嘲とも思われるが、竈猫とて「数字の羅列」は、無視できない数字である。「滝」3月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

「滝」を読む

2016-04-25 | Weblog
歯で糸を切れば日暮や雪催     赤間 学

その頃、よく着物に白い割烹服を着ていた母の姿を思い出す。繕いものもよくしていたのか、歯で糸を切ることも日常だった。作者が男性なのでちょっと想像しにくいが、「歯で糸を切れば」という動作から、「日暮や」という時間の経過が、見事!「雪催」に、懐かしい昭和の暮しが見えて来た。「滝」3月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

「滝」を読む

2016-04-24 | Weblog
なで肩のジャケツの嘘を赦したる     長岡ゆう

恐れを知らない颯爽とした青年のぴんと張った肩にジャケツは似合う。ところが、「なで肩のジャケツ」には、自信のなさを隠した青年の後姿が見える。そんなジャケツの嘘など、すぐに見抜いてしまう作者だ。虚栄だとわかる嘘を赦すのは母ならではの愛情だろうか。「滝」3月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

「滝」を読む

2016-04-23 | Weblog
まあだだよ五年日記を買つたから     平賀良子

「まあだだよ」とは、何もかくれんぼをしている訳ではなく、まだまだあの世からのお迎えは、いらないよということだ。「五年日記を買つたから」というのがその理由だが、人生も晩年ともなるといつお迎えが来るかは誰にもわからない。深刻なはずのテーマが、「まあだだよ」にはじまる口語体によって、やんわりと受け流されている。「滝」3月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

代掻く

2016-04-22 | Weblog
代掻くや今年も同じ峰映し    本井 英

熊本市内の99.7%に通水の今朝の報とともに、誌友からの明るい電話の声を一週間ぶりに聞くことができました。4月30日の「虚子祭in熊本」では、掲句の本井氏の講演も予定されていましたが、すべて中止となりました。熊本地震のため、阿蘇の涅槃像の峰が一部陥没。「同じ峰映し」という当たり前のことが、今は尊くも思われます。2013年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

くまモン

2016-04-21 | Weblog
熊本というと、くまモンですが、担当者によると、くまモンは明るいキャラクターなので、今の熊本の状況には合わないので登場させていないということでした。くまモンの姿が消えたと思ったらそういう訳だったのですね。しかし、熊本県宇城市出身の俳人、長谷川櫂さんから熊日新聞に寄稿があったというメッセージは、「くまモンがんばれ タンポポの花笑つてる」でした。寄稿文には、テレビが写し出す被災地を見ながら詠まれた俳句三句が贈られていました。(Midori)

嘆きつつ家は倒れて行く春ぞ     
家たりし土幾山か陽炎へる        
ずたずたの春の女神が草の上      長谷川 櫂 

*平成28年4月20日、熊本日日新聞掲載☆

「滝」を読む

2016-04-20 | Weblog
火山性微動はるかやおでん鍋    堀籠政彦

「微動」であるから微かに体感できる程の振動なのだろう。それでも火山の噴火にかかわる微動であれば、大きな災害につながらないとも限らない。「はるか」と言いながらも、どこか不安感を拭い切れない「おでん鍋」なのだろう。「火山性微動」という地質学的措辞がユニークな一句だが、地震国で暮らす人間であれば誰もが抱く感情だろうか。「滝」3月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

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2016-04-19 | Weblog
福島に枯木の修羅を見たりけり     菅原鬨也

今年、福島に入院中に詠まれた「滝」主宰の句です。その後4か月後、熊本に大きな地震が起ころうとは思いもしなかったことでしょう。「枯木」は、冬になって葉をおとしてしまった冬木ではなく、放射線によって枯れてしまった木なのでしょう。今、熊本の激震地では、どんな修羅が見えているのでしょう。テレビが伝える状況は刻々と姿を変えて、過酷な状況を伝えています。昨夜も震度4、5の余震がありました。「阿蘇」誌友の精神的ストレスが心配です。「滝」3月号〈飛沫抄〉より抄出。(Midroi)

地震

2016-04-17 | Weblog
大雨が心配されましたが、それ程の雨量もなく、翌日は良く晴れたのは、せめてもの救いです。私は、メディアが伝える地震速報を見るだけの毎日ですが、かけがえのない日常が奪われた多くの人々がいます。正直言って、こんな非常事態に、俳句なんてと思っていましたが、気持ちを俳句に切り替えることは、一時でも気が紛れることを知りました。

地震あとの大地を濡らす春の雨    みどり

地震

2016-04-16 | Weblog
「平成28年熊本地震」と名づけられた地震から、3日目の未明、再び激しい揺れに襲われました。一晩中、スマホの地震速報のけたたましい電子音と度重なる余震に、眠れない夜が明けました。前回の地震は、前地震とされ、今回の地震を本地震と訂正されました。テレビでは、被害の模様を随時伝えています。熊本県下、多くの誌友がいます。震度6以上を記録した熊本市では、自宅を出て小学校や空地で一夜を過ごしたという句友もいます。今も地震速報が鳴り続けています。先の見えない不安の中、句友の元気な顔に、いつ会えるのでしょう。

眠られぬ闇を揺るがす春の地震    みどり

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2016-04-15 | Weblog
冬薔薇抱きてモダンガール逝く      鈴木幸子

「モダンガール」とは、単に日本語に訳して「現代的女性」という意味で使われるのではなく、大正末期から昭和初期にかけて、西洋文化の影響を受けた若い女性のことを指していう言葉だ。さて、「モダンガール逝く」に、思い当たる女性は、やはり原節子だろうか?「冬薔薇抱きて」という措辞は、永遠のモダンガール、原節子へのオマージュとしては、見事としか言いようのない麗辞である。「滝」3月号〈渓流集〉より抄出。(Midori)