十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

冬ぬくし

2016-01-31 | Weblog
妻とゐて冬あたたかと思ひけり     岩岡中正

堂々たる妻恋の句であるが、妻と共に歩んだこれまでの歳月があればこその境涯句である。「冬あたたか」は、物理的なあたたかさというより、感覚的なあたたかさであり、別々の事をしていても互いの信頼感は揺るぎないものなのだろう。「冬あたたか」という季語が最大限に活かされた一句であり、これ以上の観賞は野暮というものだろうか。「阿蘇」2月号より抄出。(Midori)

枯蟷螂

2016-01-30 | Weblog
黙祷の途中蟷螂枯れてをり
木漏れ日をページにたたみ冬に入る
千歳飴持ちたる指のはにかめる
戦など知らぬ大地や茗荷の子     みどり


「阿蘇」2月号、岩岡中正主宰選

【選評】
 蟷螂の枯れざまが、いかにも黙祷の途中のようであったという、あわれを誘う句である。この祈る形のままに枯れてしまった蟷螂の姿に、自らを重ねてみる、どこか境涯の思いも伝わってくる。

こうしてみると季語には、具象として見える季語と、見えない季語の二通りがあると思います。また前者でも情報量が多い季語は、それだけイメージを立ち上げやすいという利点があるようです。春はもうすぐ。どんな季語に出合えるかわくわくします。(Midori)

落葉

2016-01-28 | Weblog
落葉踏む二人の音の外はなし     深見けん二

落葉を踏む音だけということは、二人の間に会話はないということだが、どこか柔らかな時間が流れていると感じるのは、私だけだろうか?「二人の音」と、「音」に限定されたことで、句の甘さが抑制された、青春性の高い一句となっている。「珊」108号(2015冬)より抄出。(Midori)

2016-01-27 | Weblog
葱刻む音とかさなる戦あり     菅原鬨也

「葱刻む音」は、現実の音として聞こえているのだが、次第に時は昭和へと遡り、モノクロの映像が立ち上がる。葱を刻んでいるのは、当時の母であり、銃後を守る母の背中である。まだ幼い作者にとって戦争の実態はなく、あったのは「葱刻む」という今も昔も変わらない日常だったのかもしれない。現在と過去をオーバーラップさせた構図に郷愁を覚える一句である。句集『曲炎』より抄出。(Midori)

綿虫

2016-01-26 | Weblog
綿虫や引き返すならこのあたり     伊藤政美

吟行で歩いていると、どこまでも行ってしまいそうだが、帰り道を考えるとそうは行かない。「綿虫や」と置かれて、風のない暖かな日、人家も少ない山裾あたりを歩いていると想像される。まさに「引き返すならこのあたり」である。「綿虫」という季語の情報量の大きさが支える一句である。2016年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

2016-01-25 | Weblog
道が野にひらけて兎いま光     神野紗希

「道が野にひらけて」という開放的な景は、兎が光になる瞬間。
「いま光」の「いま」に、兎のスピード感と臨場感を感じさせる。
2016年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

2016-01-23 | Weblog
大空を背負投げして鳰     伴 明子

鳰がくるりと水に潜った瞬間、水面に映った大空をまるで背負投げしたかのように見えたのだ。「背負投げ」という言葉の斡旋の的確さは、そのまま写生の的確さにも通じる。視点の捉え方も新鮮な一句である。日本伝統俳句協会「花鳥諷詠」334号より抄出。(Midori)

マフラー

2016-01-22 | Weblog
マフラーを巻いてやるすこし締めてやる     柴田佐知子

「すこし締めてやる」は、相手に戯れと思わせて案外、半分本気なのだ。男性の慌てた顔が見えるようだが、「巻いてやる」と「締めてやる」の作者の相反した心理は、恋の句ならではだろうか。二つの「やる」が妙に臨場感があって、女性らしい心模様が怖くもあり、楽しくもある一句。平成24年「俳句」6月号より抄出。(Midori)

2016-01-21 | Weblog
長生きの言訳をして墓洗ふ     竹澤則夫

最愛の妻に先立たれた悲しみに、この先、妻の居ない人生など考えられなかったに違いない。しかし、思いがけず長生きをしてしまった作者である。長生きは決して悪いことではないにも関わらず、「長生きの言訳」をする作者に、妻への愛情の深さが感じられる一句である。「阿蘇」1月号〈当季雑詠〉井芹眞一郎選より抄出。(Midori)

鳥威

2016-01-20 | Weblog
人の智恵はりめぐらして鳥威      宇都由美子

鳥威は、農作物に害を与える鳥をおどかして追い払うためのさまざまな仕掛けである。たわわに稔った大切な稲穂をそうやすやすと鳥たちに横取りされてか適わない。さて、鳴子や金銀赤のテープだろうか?「はりめぐらして」いるのが、「人の智恵」だという飛躍が楽しい一句。「阿蘇」1月号〈当季雑詠〉井芹眞一郎選より抄出。(Midori)

秋晴

2016-01-19 | Weblog
秋晴の中にちちはは捨ててゆく      島田眞理子

「うばすて山」の民話は知っているが、今の時代に父母を捨ててゆく人はいない。さて、「捨ててゆく」という現実は何を意味するのだろうか。超高齢化社会を迎えた昨今、自宅で介護したくてもできない事情を抱えた人は多い。不本意ながらも介護施設に頼るしかないのが現実だ。そんな自責の念が、「捨ててゆく」という言葉になったのではないだろうか。「秋晴」の明るさに、一層の淋しさを感じる作品である。「阿蘇」1月号より抄出。(Midori)

2016-01-18 | Weblog
向日葵の信徒のごとく日を拝す     木村佐恵子

向日葵は、太陽を追って回ると考えられたためにその名があるが、開花する頃には、成長が止まり、東を向いたまま動かない。休耕田などに植えられた向日葵が、皆、同じ方向を向いて咲いているのはそのためだ。それは、一種異様な光景にも思えるが、「信徒のごとく日を拝す」と詠まれて、はたと納得する。向日葵のもう一つの側面が、鮮やかな色彩とともに表出されて見事である。「阿蘇」1月号より抄出。(Midori)

2016-01-17 | Weblog
手折りたる芒の風を持ち歩く      井上松雄

手折ったのは、一本の「芒」でありながら、まるで芒と共に風を手折ったかのような錯覚を覚える。歩いて行くほどに、手にした芒が風に靡く様を「芒の風を持ち歩く」と、視点を変えた表現がとても新鮮。自然の中に身を置く作者に、「芒の風」と共にあるという至福の時間が心地よく伝わってきた。「阿蘇」1月号より抄出。(Midori)

夜長☆

2016-01-15 | Weblog
ふる里にひとり宿とる夜長かな     勝又洋子

生まれ育った家があるところが、「ふる里」だと思うが、今はもうその家もないのだ。しかし、ふる里であることには変わりはない。「ふる里にひとり宿とる」ということは、そういうことなのだろうか。「夜長」に、ふる里の思い出は尽きることはないのだろう。「宿とる」という現実がちょっと切ない。「阿蘇」1月号より抄出。(Midori)

林檎

2016-01-14 | Weblog
倖せの途切れぬやうに林檎むく     石橋みどり

最初から最後まで途切れることなく林檎の皮を剥き終ることは、案外難しいものだ。特に何かを願う訳でなくても、切れてしまえば、やはりがっかりだ。さて、懸命に林檎の皮を剥きながら、「倖せの途切れぬやうに」と、願う作者である。「倖せ」と「林檎」にかかる「途切れぬように」である。林檎以外の果物では決して得られない情感である。「阿蘇」1月号より抄出。(Midori)