信仰のたとへば島の木守柿 岩岡中正
「信仰」という、やや漠然とした行為を、「たとへば」と展開し、具現化して提示しようとする一句である。そして提示されたものが、「島の木守柿」とは、なんと安息にも似た光景だろうか。熊本で、「島」と言えば天草。天草は、かつて隠れ切支丹の里として知られ、長く江戸幕府の直轄に置かれた天領の島であった。しかし今、秋になれば柿はたわわに実り、最後の一つを「木守柿」として残しておくことを常としている島の暮しがある。こんな小さな風習もまた、一つの「信仰」であるというのである。神仏への宗教的な儀式や祈りを信仰であると思いがちであるが、信仰は決して特別なことではなく、日々の暮らしの中で、意識することもなく守り継がれている「信仰」のかたちがあることを、改めて気づかされた。島の「木守柿」への慈愛の眼差しに、魂の充足が感じられる作品である。第3句集『相聞』より一句観賞、「阿蘇」11月号に掲載。(Midori)
「信仰」という、やや漠然とした行為を、「たとへば」と展開し、具現化して提示しようとする一句である。そして提示されたものが、「島の木守柿」とは、なんと安息にも似た光景だろうか。熊本で、「島」と言えば天草。天草は、かつて隠れ切支丹の里として知られ、長く江戸幕府の直轄に置かれた天領の島であった。しかし今、秋になれば柿はたわわに実り、最後の一つを「木守柿」として残しておくことを常としている島の暮しがある。こんな小さな風習もまた、一つの「信仰」であるというのである。神仏への宗教的な儀式や祈りを信仰であると思いがちであるが、信仰は決して特別なことではなく、日々の暮らしの中で、意識することもなく守り継がれている「信仰」のかたちがあることを、改めて気づかされた。島の「木守柿」への慈愛の眼差しに、魂の充足が感じられる作品である。第3句集『相聞』より一句観賞、「阿蘇」11月号に掲載。(Midori)