大焚火 2009-12-31 | Weblog ブログを開設して以来、毎日一句ずつ紹介してきましたが、昨日で512句となりました。それぞれに描かれる十七音の世界と向き合うことは、正直言って思っていた以上に難しいことでした。でも、それがやがて楽しさに変わる貴重な時間でもありました。2010年も、どうぞよろしくお願いいたします。(Midori) 男らの朝の来てゐる大焚火 みどり
秋 2009-12-30 | Weblog ぼくといふ一人称に帰る秋 田中茗荷 秋と言えば、物思う秋・・・。いろんな感情が自分の内側に向ってゆく内省の季節だ。開放感のある夏とは違い、ふっと自分の心に立ち止まりたくなる。一人称にもいろいろあるが、「ぼく」という最も素朴な呼称は、少年のような自分の原点に帰るようで、とてもいい。「阿蘇」平成22年1月号より抄出。(Midori)
初紅葉 2009-12-29 | Weblog ひと恋ふといふにあらねど初紅葉 岩岡中正 仄かに色づきはじめた紅葉の紅に、はじめて目に触れる「秋」を実感する。「ひと恋ふといふにあらねど」という逆接的な提示は、初紅葉が自然の造化によるものだということを承知しながらの喩えだ。中世貴族的な仮名文字の多い作品に、やわらかな詩情を覚えた。作者は、「阿蘇」主宰。ホトトギス同人。「阿蘇」平成22年1月号より抄出。(Midori)
鯨 2009-12-28 | Weblog やがてまた海境濡らす鯨かな 渡辺誠一郎 鯨が潮を吹いて海境を濡らすというほどの句意だと思うが、「やがてまた・・・かな」に悠久の時間と余韻が感じられた。また、観念的でありながら、鯨の神秘性、そしてその巨大さゆえの哀歓の思いが伝わってくる。「海境濡らす鯨かな」の「ウ」音の頭韻も見逃せない。作者は「小熊座」編集長。「俳句」平成21年1月号より抄出。(Midori)
数へ日 2009-12-27 | Weblog 数へ日や一人で帰る人の群 加藤かな文 確かに、「人の群」といっても同じ集団ではなくて、やがては離散する一人ひとりの集合体のようなものだ。一人ひとりが、それぞれの目的地に向かってただ歩いているだけなのだ。年も押し詰まり、今年も指で数えられる程の日を残すのみになった時、「一人で帰る」という緊迫感が一層強く感じられる。作者は「家」編集長。平成21年冬「俳句手帖」より抄出。(Midori)
冬日 2009-12-26 | Weblog クリスマス気分も束の間、店頭はどこもお正月準備用品に様変わりしている。昨日と今日、地球が一回転しただけなのに、世の中は一斉に大歳へと動き始めたようだ。「数へ日」とはよく言ったものだ。カウントダウンは、すでにはじまっている。(Midori) P.S. これから、毎日一箇所ずつと決めて煤払いをします。 角砂糖冬日にひとつ毀れけり みどり *「滝」平成22年1月号掲載
雪 2009-12-25 | Weblog ヘアピンを前歯で開く雪降り出す 西東三鬼 「ヘアピンを前歯で開く」という一連の動作は、女性のものだろう。こうした女性の無防備とも思えるしぐさは、清潔なエロスを感じさせるものなのかもしれない。三鬼はただ、それをじっと見ているのだけなのだ。「雪降り出す」の季語の距離感と、字余りに三鬼の抒情を感じた。(Midori)
聖夜 2009-12-24 | Weblog 追伸のやうに雪降る聖夜かな 黛 まどか 今日は、ラジオからいろんなクリスマスソングが流れた。マライア・キャリーの曲を聴くとやはりクリスマスだという気がしてくる。そしてクリスマス・イブに、いつも願っていることは、雪が降ってくれることだ。それも、「追伸」のように、夜になって降りはじめる雪だ。比喩の若々しさは、何度でもつづく追伸のような恋人たちの聖夜を思わせる。(Midori)
風邪 2009-12-23 | Weblog 風邪などで死ねぬマイシンごくと飲む 木田千女 新型インフルエンザが、記録的な猛威を奮っているが、私は罹らないのではないかという変な自信がある。特に予防をしているわけではないが、自信というものはそんなものだ。千女氏の「風邪などで死ねぬ」という戦いにも似た強い意志こそが、一番の特効薬なのかもしれない。「俳句」平成21年2月号より抄出。(Midori)
皹 2009-12-22 | Weblog 爪立ちてとどかぬ夢と皹薬 中村尭子 「夢」は、確かに爪立ちくらいでは届きそうもないが、皹薬は、踏み台でもあればすぐにでも手が届きそうだ。冬の乾燥に手足が荒れてくるのは仕方ないが、夢まではカサカサにしたくないものだ。「夢」と「皹薬」という対極のものを、「爪立ち」で手に入れようとする発想が面白かった。「銀化」所属。2010年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)
鯨 2009-12-21 | Weblog 以前から、司馬遼太郎の著作、『坂の上の雲』をずっと読みたいと思っていた。明治という近代日本の歴史小説だということは知っていたが、正岡子規の物語だということを知らなかったからだ。今、テレビドラマ化されて放映されている。子規だけの物語ではなかったが、ノボさんが俳句を語るシーンの若々しさが印象的だ。(Midori) わだつみに祈りのごとく鯨の尾 みどり
秋天 2009-12-20 | Weblog 秋空へ太極拳の向きを替ふ 田元憲子 太極拳は、中国の長い歴史の中から生まれた中国武術の一つらしいが、緩やかでゆったりとした動きが特徴的だ。朝の公園などで集まって練習をしている風景が、よくテレビで紹介されているが、一見、緩慢そうに思える太極拳も、案外筋肉の緊張を強いられるものかもしれない。そういえば、一斉に向きを替えるポーズもあったようだ。作者が向きを替えたのは、青く晴れ渡った「秋天へ」だった。「秋天へ」に、健康的な力強い詩情を感じた。「滝」12月号〈滝集〉より抄出。(Midori)
秋夕日 2009-12-19 | Weblog 裸婦像とわたしが滲む秋夕日 越谷双葉 「秋日濃し」とも言われるように、同じ太陽の光であっても、秋の日差しは、どこか琥珀色の液体のような透明感がある。秋夕日ともなれば、尚更だ。さて、「滲む」という独自の感覚は、一般的には「染まる」ということだろうか?「裸婦像」と「わたし」が、併記されて、秋夕日に溶け出すような錯覚さえ覚える。裸婦像という硬質なエロスとの取り合わせに、どこか神秘的なアンニュイな感覚に惹かれた。「滝」12月号〈滝集〉より抄出。(Midori)
師走 2009-12-18 | Weblog 女を見連れの男を見て師走 高浜虚子 まず目に入ったのは、女性だった。その女性がどんな女性だったかは想像するしかないが、虚子は、「連れの男」も見たのだ。それは、ほとんど無意識だったかもしれないが、本能的な一瞬の値踏みもあったに違いない。こんな日常のことを、「師走」にさらりと詠む虚子の泰然自若としたさまは、まさに虚子が「虚子」たる由縁だろうか。昭和21年作。(Midori)
秋桜 2009-12-17 | Weblog 秋桜九九を唱ふる声来たり 佐竹イツ子 お孫さんだろうか?小学校に入学したのも束の間、もうかけ算の九九を暗唱しているのだ。確か、かけ算は、小学2年生くらいで習うのだ。「九九を唱ふる声来たり」の省略の効いたフレーズは、「声」に焦点が絞られて詩となった。「秋桜」が、甘さを抑制し、お孫さんの確かな成長と、それを見守る作者の温かいまなざしが、心地よく伝わってきた。「滝」12月号〈滝集〉より抄出。(Midori)