十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

☆師(14)

2016-02-29 | Weblog
 「鬨也という名で困ったこと、驚いたことは挙げれば切りがない」と、著書『鯨のこゑ』のあとがきにもありますが、珍しい名前なので、俳号だと思っている俳人も多かったと聞きます。しかし実際は、中学の頃、「鯨波」が、「鬨の声」を意味する言葉だと知って以来、自分の名前への認識が大きく変わったようです。その後長じて、岡井省二の句集に『犀と鯨』があることを知って、どんなに驚いたことでしょう。「鯨」の存在は、彼の中で、ますます大きくなっていったに違いありません。「鯨」は、自分自身のペンネームとしてたびたび登場します。
 しかし、「鯨」の句となると、ほとんど詠まれていないのが不思議です。こんなところに控え目な一面を見る思いですが、「犀」をはじめ、特徴的な動物はたくさん詠まれています。

桃の花黒豹おのが身をねぶる
蟻百匹殺めたるあと一匹出づ
冬眠の熊冬眠の熊の爪
ニホンオホカミ馳せよ果てなき芒原
鰐の全長さくらの国を歩むなり

これらは、最後の句集となった『曲炎』から抄出した句ですが、どの句も動物の特徴を良く捉えています。「黒豹」と「桃の花」の視覚的な対比、「蟻」の生命力の可笑しさ、「冬眠の熊の爪」という発見、「ニホンオホカミ」への果てしないロマン、「鰐」と「さくらの国」の取合せの楽しさ・・・。60代に詠まれた作品にはどれも堂々たる詩情が感じられます。

山椒魚くれなゐの星放ちけり
こめかみを鮫よぎりたる夕立後
炎天にひらがなを食む麒麟かな

空間や時間を越えた自在な想像力は、独自のシュールな世界を描き出しています。鬨也先生の真骨頂とも言うべき句境でしょうか。(つづく)

☆師(13)

2016-02-28 | Weblog
 新聞社を退職した年に上梓された、第四句集『琥珀』には、宮沢賢治の影響を受けていると思われる作品が多く見られます。

  末黒野につまづき風の尾をつかむ    鬨也
  レノン忌の枯木に星の韻きけり       〃
  蟷螂の枯れて金属音増ゆる         〃
  寂しさにかげらふを吐く鬼瓦         〃
  白をもて夜を遊べる栃の花          〃
  兜虫月齧らむと発ちにけり          〃
  ぐんぐんと金剛の虻月山へ          〃
  丁丁丁丁丁丁丁冬蝶飛べ          〃

これらの句のアニミズムと言語感覚は、賢治の世界に存在するものであり、鬨也先生の詩の世界に新たな詩情を構築するものとなっています。それまでは日常を切取った即物的なものと季語との取合せが主たる俳句の技法となっていましたが、心象風景に素材を求めたこれらの作品群には、それまでになかった生き生きとした生命観と宇宙観に溢れています。しかし、どこか刹那的な情緒が感じられるのは、賢治の仏教思想が根底にあるからでしょうか。

 石投げし湖や水の輪より揚羽     鬨也
 琥珀よりよみがへりたる黒揚羽    〃

さらに、これら二句によって宮沢賢治のアニミズムの世界とは異なる独自の世界へと進化させています。「揚羽」への自在な飛躍は、虚の中のリアリティを提示し、単なる写生を超えた詩情へと昇華させています。「揚羽」の出現は、立体的な映像となって異次元の世界へと読者を誘います。今思えば、この詩情こそが、後に私が出合うことになる「滝」の詩情であり、俳句の魅力に取りつかれることになるのです。(つづく)

*亡くなって日も浅く、「先生」という敬称を付けずにはいられません。いつかは外そうと思っています。(Midori)

☆師(12)

2016-02-27 | Weblog
『鯨のノートから』の中の「比喩」の項目の中で、“一応、比喩も重要な技法として挙げておきたいと思います。比喩はその措辞自体が素晴らしい表現である場合、普通の言葉よりも比喩の方が自分の心象を表現できるという場合に使われます”と、書き、好きな比喩の句として3句を挙げています。

  火を投げし如くに雲や朴の花       野見山朱鳥
  ぼうたんの百の揺るるは湯のやうに   森 澄雄
  うすらひは深山へかへる花の如      藤田湘子

 鬨也先生は、会員の比喩の句を決して採らないという時期がありました。今思えば、上記にあるように、比喩が、「一応」「場合に使われます」という容認、限定の技法であるとしているところに、その理由があるようですが、掲句3句を上回る比喩の句に出合わなかっただけかもしれません。
  鬨也先生の句に比喩の句が少ないのも同様の理由がありそうですが、実際は、掲句のような直喩ではなく、暗喩であったため、それと気づかないでいたという方が正しいかもしれません。第4句集『琥珀』にいくつかの直喩の句が見られます。

  いちまいの絹のごとしや春の暮     鬨也
  太陽の紙のごとしや黄砂降る      〃

 「春の暮」と「黄砂降る」という一種の気象現象の質感が、比喩によって上手く表現されていると思うのは身贔屓でしょうか。(つづく)

☆師(11)

2016-02-26 | Weblog
 第一の師、藤田湘子の言語感覚について、『鯨のこゑ』の中に、面白いエピソードが記載されています。俳句研究賞の選考において、ある人の作品がほぼ受賞に決まりかけたとき、応募作品の中に、季語として「芽木」を用いた句があったため、湘子は猛然と反対したというのです。「木の芽という美しい季語があるのに、わざわざメギと言わなければならないのか。木の芽風をメギの風と言って澄ましている者を、私は俳人とは認めたくはない」というようなことを言って一歩も譲らなかったと言います。結局、湘子の迫力に太刀打ちできる選考委員は一人もおらず、受賞は見送られたということです。
 この湘子の言語感覚は、鬨也先生にも見られます。「目蓋」という漢字は、まるで落し蓋みたいだと言って、平仮名表記「まぶた」あるいは「瞼」を使用するように指導していましたが、視覚によるイメージが詩情を損なう可能性があるという一つの教えだったと思われます。また漢数字の「一」を嫌ってもいましたが、実作の上では、漢字と平仮名の使い分けをすることによって、一句における効果を優先していたように思われます。

  いちにちの終の水脈見ゆ白絣     鬨也
  一塊のくろがねとなり鮭のぼる     〃

十七音という限られた短詩形であるだけに、一つ一つの言葉にこだわることは必要なことであり、漢字と平仮名のバランスを考慮することも詩人として当然の配慮と言えるでしょう。(つづく)

☆師(10)

2016-02-25 | Weblog
 鬨也先生にとって、湘子と省二の教えの融合が、次第に一つの課題になって行きます。果たして、どのように二つの教えは融合されてゆくのか、昇華は可能なのかという思考は、彼を大いに楽しませ、現在の混沌から生まれるものへの期待にこころ膨らませます。

 わが犀は二百里の果濁酒      鬨也

 岡井省二は、この作品について、第4句集『琥珀』の序の中で、仏教思想の一部を語っています。“鬨也氏は私を、二百里彼方の犀、とたとえた。私にとって絶景のこと。犀は、一即一切・一切即一の霊。どこにでも遍満している。二百里先は即足下。空は縁起によって在り、縁起は空によって在る。それが犀の風貌。それは韜晦ではない。直感で即坐に体解できる真の全貌、と言っておこうか。”というものです。容易に理解できる内容ではありませんが、省二の真理は、二百里の果に存在するものではなく、すぐ足下に開けているものだという意味程度は理解できます。
 第4句集『琥珀』は、湘子と省二の二人の師の融合を果たし得た句集であり、その後、俳誌「滝」の根幹を為す詩情となって行きます。句集『琥珀』には、「犀」が象徴的に詠まれた秀句が見られます。

  犀の貌桜吹雪のなかに見ゆ     鬨也
  白犀にたふとき春の泥なりけり    〃
  わが犀と蠟梅の冷わかちをり     〃

一句目、犀の貌を桜吹雪という華麗なものの中に捉えた美意識は、湘子のものでありながら、二句目になると、白犀の存在感が、春の泥によって強調されています。そして三句目、湘子の抒情と、省二の存在詩の融合というべき詩への昇華が見られます。

  陽炎をまとへる犀や省二亡し    鬨也

平成14年の作ですが、省二を失くした喪失感がストレートに詠まれています。しかし、この後も「犀」は様々なものの象徴として詠まれ続けます(つづく)

☆師(9)

2016-02-24 | Weblog
 菅原鬨也先生は、岡井省二が主宰する「櫂」に無鑑査同人として迎えられて、省二を第二の師として師事することになります。

  わが犀は二百里の果濁酒      鬨也

句集『飛沫』の中の一句で、平成4年に詠まれた二物配合の作品です。「犀」は誰もが知っている哺乳類に属する草食系動物の一つですが、句の中では、象徴的に使われることの多い動物です。「犀の角のようにただ独り歩め」という仏教思想が根底にあるようですが、「犀」は、仏教的思想観の象徴であり、いまだその思想は、「二百里の果」に存在するというのです。もちろん、入院という想像もしなった出来事が、彼を仏教へ向かわせたのですから、仏教的世界のほんの入口に立ったという思いが深かったことでしょう。
 「犀」という象徴的な存在をストイックに追い求めることは、これからの目標であり、同時に岡井省二の存在論に一歩でも近づく方法であったと思われます。
 『鯨のこゑ』の中で、“省二という表現者は、俳人である以前に俳人たるべく、彼独自の世界観や自然観を形成するまで、見えざる存在が操っていたと思えてならない。禅をはじめとする仏教思想の体得は、ややもすれば独断に陥りがちな俳句という表現形式への自制能力の体得でもあった。”と書いています。
 掲句の季語「濁酒」は、仏教思想において対極にあるものであり、「犀」という絶対的な存在を求めようとする覚悟であったと思います。(つづく)

☆師(8)

2016-02-23 | Weblog
 しかしながら、菅原鬨也先生の俳句界における目覚しい活躍は、同時に本人も気づかないところで、自律神経が金属疲労を起こしていたのです。「俳句と、新聞社という不規則な職場環境の両立は、無理だったんだなあ」と、ふともらす先生の言葉を何度か聞いたことがありました。
 第3句集『飛沫』のあとがきの中で、鬨也先生は、
“入院は確かに私を変えた。退院後いつしか宮沢賢治の句に手を染めていた。必然的に仏教書を少しく読むこととなった。折しも『櫂』の創刊があった。仏教に精通した岡井省二先生に無鑑査同人として迎えていただいた光栄と縁をしみじみ思ったことであった。(中略) 第二句集『遠泳』上梓以降のおよそこの五年の間、予期せぬ出来事の何と多かったことかと感慨に耽った。頑健だった父の急逝もそうだが、その父の死をはさんでさまざまなことが起こったというのも不思議なことである。『櫂』の入会、『鷹』同人辞退が思いもかけぬことなら、『滝』を創刊主宰することになった偶然。幼い一誌ではあるが、もはや選者という立場に立とうとは夢想だにしなかった。”と書いています。
 鬨也先生の俳句は、この頃から、湘子の抒情を根底に置きながらも岡井省二の仏教思想における存在詩に、次第に影響を受けることになります。
  
  乱反射山湖にのこし燕去る
  湯槽より疲れし菖蒲引上ぐる
  掌にのこる逃げし螇蚸の力かな
  鉤残し鮟鱇たるを全うす  
  月光の粒木犀の香を散らす
  かまへつつ猟人の靴地をゑぐる

『飛沫』に収められた平成2年から平成5年に詠まれた作品ですが、これまでには少なかった一句一章の写生の効いた秀句が多く見られます。湘子の抒情から省二の存在への確かな変容の表れでしょうか。(つづく)

☆師(7)

2016-02-22 | Weblog
 第一句集『祭前』、第二句集『遠泳』を見ると、30代から40代の鬨也先生の俳句には一つの特徴があることに気づきます。

青き炎のまじる炎や雁帰る
冬至粥磨きぬかれし太柱
一村に一条の川あばれ独楽
針金を切つたる鋏雛段に
走馬灯消え木登りの木が見ゆる
列車音過ぎたるあとの芹の水

明確に二物配合の形を採用しているもの3句と、そうでないもの3句ですが、どの句も措辞として求めているものは、ありふれた日常であり、言葉も平明に完結しています。つまり季語と日常、日常と季語の取合せになっています。二つのものの間の距離感は、読者に戸惑いを与えるかもしれませんが、微かに通底するものの存在が、一句を詩へと昇華させています。季語の力を信じているからこそできる技だとも言えるのではないでしょうか。虚子は、『虚子俳話』の中で、“俳句は人の詩であり、平常心の詩である”と言っているように、俳句は何も特別なことを詠む文芸ではないのです。生活に取材した句こそが、優れた俳句として評価されるべきものだということが分かります。
 句集には、一見して手触りの良い句も多く見られますが、上掲句のような句こそが、鬨也先生の俳句の原点であったと思われます。そして一句一句の現代性や普遍性の存在は、作品がいつまでも新鮮な詩情を持ち得る所以ではないでしょうか。
 昭和57年には、「独楽山河」50句が、第28回角川俳句賞にノミネートされ、飯田龍太の最高得点を得ますが、入賞には至りません。しかし翌年、『立春』50句が金子兜太の高い評価を得て、第29回角川俳句賞を受賞しています。鬨也先生のつづく快挙は真の実力がなければ到底得られるものではありませんが、龍太、兜太の両氏が見抜いたものは、彼ら共通のある種の土俗性ではなかったかと思います。(つづく)

☆師(6)

2016-02-20 | Weblog
 菅原鬨也先生は、昭和55年、30代最後、不惑になる直前に第一句集『祭前』を鷹俳句会から刊行しています。湘子はその序文の中で「菅原さんは、さかんに不惑の年齢を気にしていた」と書いています。今の時代に、「四十にして惑わず」と言える人は、果たしてどれほどいるでしょうか。先生は、ここで何かに終止符を打ちたかったのかもしれません。『祭前』よりいくつかの句を列挙します。

  人死して水あげてゐるダリヤかな
  余花ひとつひとつづつ咲く余震かな
  連山の地震百合化して蝶となる
  マグニチュード七・四の姫女苑

 「死」や「地震」という人知の及ばないモノにも、「ダリヤ」「余花」「百合」「姫女苑」のそれぞれが効果的に配されて、詩の世界を構築しています。美意識の高さを思わずには居られません。昭和53年の作、「姫女苑」の句のみ、前書に「宮城県沖地震」と書かれていますが、この年、「宮城県沖地震」で、『俳句研究』競作50句で佳作第二席になっています。もの凄い創作意欲ですが、地震がもたらす俳句への影響は少しずつ変化して行くことになります。

  山国や花びらを吐く鯉の口
  土器のかけら蒐める雁の空
  むらびとや冬百本の祀燭
  下北をいちどまぶしみ冬帽子
  夏に死し蝦夷の一樹となるべかり
 
 どの句も、若々しい感性によって丁寧に切り取られた詩情があり、東北の歴史や風景が立ち上がってきます。鬨也先生は、この『祭前』の句集によって、「鷹」の新鋭作家として知られることとなりました。(つづく)

わたしの師(5)

2016-02-19 | Weblog
 菅原鬨也先生は、昭和49年に「鷹」に入会していますが、この時、先生はまだ34歳の新進作家でした。それから2年後の昭和51年5月29日から30日の二日間に渡って、湘子指導句会が、宮城県の仙台河北新報社作並寮で実施されています。鬨也先生は河北新報社の広告メディアのエキスパートとして活躍していた時期でしょうか。湘子を迎えるための準備も万全だったことでしょう。

  父死後の金魚の空のひびきけり    鬨也

 第一日目の指導句会で出句されたものですが、湘子、および招聘選者であった阿部完市の特選句になっています。そして、湘子より、「納得できる飛躍。全体の言葉は過不足なし」の選評、そして、完市より「私の父も死んだらこんな感じかなあ。本当の意味の感情の自然さ」との選評を貰っています。
 しかし、父であり俳人である須ヶ原樗子は、明治43年仙台市に生まれ、平成4年に亡くなっているので、この時は存命だったということになります。しかし、鬨也先生の句は、総じてそういう背景をすべて消し去って鑑賞しなければなりません。つまりこの十七音の世界だけがすべてであり、他の情報は一切要らないということです。
 この句は、湘子がいうように、「父死後」の上五から、「金魚の空のひびきけり」へと、相反するものへと飛躍して見せたものです。「金魚の空のひびきけり」という迸るような生命感、「父」という大きな存在に対し、「金魚」という小さな命・・・。死後も、森羅万象が何ら変わることがないという一つの死生観は、別の意味で、寂寥感や喪失感を際立たせます。大切な人を失えば、夜さえ明けないで欲しいと願うものではないでしょうか。
 鬨也先生は、常日頃、「俳句に意味を持たせてはいけないが、言葉である限り意味は出てくる」とも言っていました。意味は読者の解釈によって生まれるものなのです。(つづく) 

わたしの師(4)

2016-02-18 | Weblog
   蝶墜ちて大音響の結氷期   富澤赤黄男
  
 菅原鬨也先生が、句作で行き詰った時に、必ず思い出していたと言う一句です。書斎の壁に貼っていたとも記憶しています。赤黄男の句は、確かに常識ではとても考えられない句です。「蝶」という、質量もあるかなしかの生命体が、落ちたからといって、「大音響」となるでしょうか?しかし、質量がないものに、質量を与えることが、詩となる一歩であることも実感します。実際に、「結氷期」という無音の世界ではあり得ることでしょう。「堕ちて」の表記の選択も当然効果的です。すでに、「蝶」は、生命体ではなく一つの物体と化したようです。
 鬨也先生の著書『鯨のノートから』の一節では、赤黄男の句は、「理屈ではなく、覚醒的効果がある」と述べていますが、先生の目指す俳句の世界の一つだったと思われます。そして私たち「滝」会員に求めている詩情だったのではないでしょうか。物理学的に有り得ないことが、俳句の世界では詩になり得るとは何と素敵なことでしょう。俳句の世界がどんどん広がるはずです。これ以来、私も句作において、いつも念頭に置いている一句となりました。(つづく)


わたしの師(3)

2016-02-17 | Weblog
 鬨也先生といえば、有名なエピソードがあります。中学生の頃、俳句ではなく石川啄木の歌に傾倒し、いつもポケットに啄木の歌集を入れて持ち歩いていたそうですが、いつか啄木の短歌を再現したくて、授業中に教室の窓から飛び出したというものです。その時の啄木の短歌は何だったのか不明ですが、鬨也先生の試みた行動そのままを再現した短歌だとすると、

  教室の窓よりにげてただひとりかの城あとに寝にいきしかな  啄木

だと思いました。しかし、平成22年『俳句四季』8月号の「新・作家訪問」では、

  不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心  啄木

に、惚れ込み、授業中、教室の窓から逃げ出して芝生の上に寝転んだ、とありました。

 どちらにしても、ともに愛唱歌であったことに相違なく、中学生という多感な年頃とはいえ、啄木の歌にこれほど惚れこんで行動を起こすという大胆さに、非凡な才能を感じます。大人びた少年だったのではないでしょうか。鬨也先生のそんな青春性や抒情性、そしてロマンティズムは、その後の俳句の根幹を成しているような気がします。

  川の辺の夏草の丈長かりき    鬨也

中学生が詠んだとは思えないような大人びた作品ですが、「長かりき」とひとり粋がっていたと、回想にあります。(つづく)

わたしの師(2)

2016-02-16 | Weblog
 
  めんどりに眞水が見ゆる祭前     鬨也

 菅原鬨也先生の代表句として是非挙げたい句の一つです。先生は、昭和49年、 「鷹」入会により、当時主宰であった藤田湘子に師事します。昭和51年には、 「鷹」同人となっていますが、掲句は、同人となった年に詠まれ、「鷹」8月号の巻頭になった作品です。昭和55年に上梓された第一句集のタイトルに『祭前』を起用しているのは、「鷹」の巻頭句としての自負や湘子への敬意の表れではないかと推察されます。
 平成19年の「俳句―未完成の魅力」と題した宮城県涌谷町での講演記録の中で、「私自身が長い間、気づかないでいたのですが、初期の私の代表句、 “めんどりに眞水が見ゆる祭前”は、マ行の音が6つ入っていました。無意識にやっていたのです」とあります。まさしく、偶然がはたらいた「形式の恩寵」と言えるものでしょうか。無意識の偶然性の効果は計り知れないものがあります。
 あらためて作品を観賞してみると、「眞水が」と、「が」が「眞水」を強調する形となっています。あえて強調の「が」を使った所に、この作品のポイントがあるようです。下五の「祭前」への展開は、一句一章の形式を採ってはいますが、手法としては二物衝撃であったと思われます。
 先生は、日頃から「空間の境界」についてしばしば言及していましたが、その境界こそに詩が生れるというものです。「祭前」の一種の緊張感は、時間と空間の境界意識が存在しているからだと思われます。(つづく)

わたしの師

2016-02-15 | Weblog
 平成28年2月4日、立春、私の師であり、俳句会「滝」創刊主宰であった菅原鬨也先生が急逝されました。「立春」は、昭和58年、第29回角川俳句賞受賞作品50句のタイトルでもありました。
  
  時雨忌の不意の高さに一飛沫     鬨也

 先生が作句を始めたという昭和49年、松島芭蕉祭全国俳句大会で飯田龍太の特選となった句です。龍太率いる「雲母」一筋で俳句人生を全うした父、須ケ原樗子への感慨もあって、平成4年の「滝」創刊以来、主宰の作品発表欄の表題が、「飛沫抄」となった一句でもあります。平成28年「滝」1月号の「飛沫抄」289回が最終抄となってしまいました。
 
  海鼠腸やソ満国境発つ中隊      鬨也

 その「飛沫抄」10句の中の一句ですが、当ブログに紹介したところ、次のような一文を頂きました。
「この句をコメントしてもらえるとは、予想外の喜びです。父とはいろいろ確執がありましたが、ソ満国境警備から南方戦線へやられ、生き延びて帰還したことには、小生ではできなかったことで、これだけは脱帽するしかありません。ソ満国境の厳しさは想像するしかありませんが、当時の父の防寒装備の写真が奇跡的に残っており、それからいろいろ連想しています。」
中隊は、御父上のことかと推測はしましたが、何ら資料もなく断定はできないままだったので、この一文は無上の喜びと感謝でした。

  銃上げて渡れり夏の夜の川      須ケ原樗子

父、樗子の南方での壮絶な一句が残されています。(つづく)

 *句集『飛沫』あとがきを一部参照

時雨

2016-02-13 | Weblog
遠流めく母の転院初しぐれ     安田眞葉子

急性期を脱したとみなされる患者は、転院を余儀なくされる。転院先でも同様の医療や看護を受けることができれば、不安などないのだが、決してそうではないのが現実だ。まさに「遠流めく」である。医療現場のさまざまな実情があるにしても、切実な問題を抱えた作品である。「阿蘇」2月号より抄出。(Midori)