十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

2016-10-31 | Weblog
行間に黍の風吹く便りかな     西 美愛子

「黍」と言えば沖縄。きっと沖縄から届いた便りなのだろう。「行間に黍の風吹く」という詩的な把も素晴らしいが、文面からも黍の頃の沖縄の風が感じられる気持ちの良い便りだったに違いない。「黍」という地域性のある季語が効果的な一句である。「阿蘇」11月号より抄出。(Midori)

子規忌

2016-10-30 | Weblog
手庇に伊予が見えるよ獺祭忌     岩岡中正

「手庇に伊予が見えるよ」と、口語による詠嘆である。伊予は、阿蘇山頂から望めば、豊後水道を挟んで見えそうな距離にある。「手庇」は、遥か遠くを見る時に思わず行う動作だが、距離だけでなく、時間までも遡って、見渡せそうである。「手庇」の向うには、きっと良く晴れた伊予の国が広がっていることだろう。「手庇」が、子規を偲ぶため、そして距離や時間を超越するための道具立てとして置かれて見事である。「阿蘇」11月号より抄出(Midori)

鶏頭

2016-10-29 | Weblog
魚のごと息をしてゐる残暑かな
鶏頭にきれいな項ありにけり
メロンに刃入るるときめき谷崎忌
日焼して小麦色とは言へぬ色


*「阿蘇」11月号、岩岡中正主宰選

改良種の鶏頭も多く見られますが、もともと鶏頭は、零れ種で、毎年花を咲かせ、背丈ほどに大きく伸びる丈夫な花です。名前も変ですが、不思議は形をした鶏頭は、美しくもあり、醜くもあります。(Midori)

山粧ふ

2016-10-28 | Weblog
一瀑を配して山の粧へり     佐々木博子  

まるで、造化の神の采配かと思われるような「一瀑を配して」である。原色に色づく山々に、銀色に輝く「一瀑」が配されると、景に縦の動きと、色彩の変化が生じて、一層、美しい映像が立ち上がってくる。「山粧ふ」という、擬人化された難しい季語を、一句の中に巧みに詠み込まれた、まさしく造形美の壮大な具現である。「滝」10月号の表紙を飾った作品。(Midori)

栗の花

2016-10-27 | Weblog
開発を拒む一角栗の花    米澤惠美子

「開発」という都市化が進めば、失われてゆくのは、自然だったり、昔ながらの家屋や田畑である。「一角」とは、そんな都市化の波に呑まれそうになりながらも、以前のままの生活を守っている人々なのだろう。「栗の花」の匂う一角を、「開発を拒む」と捉えて、都市化と農村部との問題をさり気なく提示した社会詠ではないだろうか。「滝」10月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

雲の峰

2016-10-26 | Weblog
腹筋の六分割や雲の峰      中井由美子

「腹筋の六分割」とは、見事である。きっと若い男性の艶やかな腹筋と思われるが、腹筋が六つに割れるには、相当のトレーニングを要することだろう。結果、出来上がった「六分割」は、まさしく芸術だ。「雲の峰」もまた、もくもくと盛り上がる筋肉のようでもあり、力強く逞しい一句である。「滝」10月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

酸漿

2016-10-25 | Weblog
酸漿やこころの中の開かずの間     松ノ井洋子

「こころ」は、人間の体の中に存在するものではあるが、一体、どこにあるのか。思考を司る脳なのか、それとも心臓なのか。「こころ」は、そんな臓器の一つではなく、「こころ」は、「こころ」なのだと思う。さてそんな漠然とした「こころ」の在り処だが、誰も覗くことはできないもの。「開かずの間」が、開けられる日は、来るのだろうか。酸漿を鳴らしていた頃の酸っぱい思い出かもしれない。想像が膨らむ作品である。「滝」10月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

あまり

2016-10-24 | Weblog
わり算のあまり八月十五日    鈴木清子

ふと立ち止まってしまった一句である。割り算といえば、小学校低学年で習う演算であり、せいぜい二桁の割り算かと思うが、掲句は、算数の割り算ではない。多くの国民が、勝つと信じていた戦争が、まさかの敗戦である。今も尚、重たいテーマであることに変わりはなく、割り切れない思いは、どこかに燻っていると思われる。もともと割り切れない割り算みたいなものだったのだろうか。「滝」10月号〈瀑声集〉より抄出。(Midori)

月夜

2016-10-23 | Weblog
アトリエに膠の匂ふ月夜かな      成田一子

アトリエは、絵画や工芸品を制作するための場所である。そこには、普通の暮しの中には存在しない、いろんな「匂い」があるに違いない。その匂いが、「膠」だというのである。動物の骨や皮を原料とする「膠」の発散する匂いは、月の光をますます妖しくさせることだろう。「膠の匂ひ」を持ってきた作者の感性が一句を支えている。「滝」10月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

稲光

2016-10-21 | Weblog
長﨑市の郊外、「外海」という夕日が美しいと言われる観光スポットに、偶々行く機会があった。東シナ海を一望に見渡せる展望台は、若者たちで賑わっていたが、ふと見ると、「遠藤周作記念館」の表示板に気が付いた。遠藤周作は、確か関東の人なのに、何故?と思ったが、その理由はすぐに分かった。「外海(そとめ)」は、彼の著書、『沈黙』の舞台となったところだったのだ。実は、『沈黙』を読んだばかりだったので、感慨は一入である。まさか、『沈黙』の舞台となった村に来ようとは・・・。ユングのシンクロニシティという現象は、きっとこんな不思議な偶然の一致をいうのでしょう。(Midori)

  山の端に突き刺さりたる稲光

短夜

2016-10-20 | Weblog
短夜の腹にずしんと不意の地震     井上松雄

それまであまり経験したことのなかった地震である。「ずしんと」は、震源地近くの友人の誰もが、同様に口にする形容である。「腹にずしんと」とは、どんなに不気味な感覚であるだろうか。「不意の地震」の恐怖は、「短夜」をさらに短くする。「阿蘇」10月号より抄出。(Midori)   

涼し

2016-10-19 | Weblog
金婚の二人すずしき間合かな      古荘浩子

金婚といえば、結婚五十周年。「すずしき間合」を得るまでには、さまざまな行き違いもあったと思われるが、五十年を経てみれば、いつしか身についている「間合」である。作者自身のことなのか、あるいは金婚の二人を祝福している作者なのか・・・。「すずしき間合」は、互いの思いやりの距離感なのだ。「阿蘇」10月号より抄出。(Midori)
   

ハンモック

2016-10-18 | Weblog
ハンモック吾が身のほどに撓みけり     河村邦比児

ハンモックは、丈夫な糸で編まれたものだが、どこか頼りなさを感じてしまうのは、「吾が身のほど」に、耐えてくれるかどうか、ふと不安になるからだ。「吾が身のほどに」撓むのは、物理学的にも当たり前のことだが、どこか自嘲とも思われる「撓みけり」ではないだろうか。「阿蘇」10月号より抄出。(Midori)

蠅叩

2016-10-17 | Weblog
蠅叩手にして父の真顔なる     福嶋孝子

「蠅叩」の兼題が出されたらしく先月号から、よく詠まれている「蠅叩」だが、晩秋になったというのに、私も一匹の蠅に悩まされている。おまけに、昨日から二匹になっているのだから、まったく嫌になる。こんな時こそ、蠅叩があれば、きっと蠅との真剣勝負となっていることだろう。「蠅叩」を手にすれば、どんな人でも、「真顔」にならざるを得ないのは、いつの世も同じだ。「阿蘇」10月号より抄出。(Midori)

2016-10-16 | Weblog
駆けてくる汗の匂ひを抱きしむる     米澤貞子

幼子とはどこにも書かれていないが、作品全体から伝わってくるのは、駆けて来る幼子を抱きしめている作者と幼子の笑顔や笑い声である。抱きしめたのが、「汗の匂ひ」であったことが一句のポイントであり、汗の匂いも全く気にならないのは、幼子の元気な様が読み取れるからだろうか。「阿蘇」10月号より抄出。(Midori)