十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

花筏

2011-06-30 | Weblog
   花筏ちちははのまた遠くなる     岩岡中正

桜は、日本人に最も愛されている花であり、日本人の精神性の象徴でもある。
桜がほころべば、春の到来を実感し、満開の桜に、春爛満の喜びを感じる。
しかし、何と言っても桜には、過去の記憶を蘇らせる圧倒的な力があるようだ。
やがて、はらはらと散りはじめ、花びらが筏となって遠ざかって行くとき、
作者の胸に去来したものは、やはり父母のことであった。
「花筏」に込められた余韻と抒情・・・心惹かれた。
「阿蘇」7月号より抄出。(Midori)

2011-06-29 | Weblog
鮎釣の影の正午となりにけり    吉本伊智朗

新緑のみどり滴る山間で、鮎釣の糸を垂らしている作者。
都会の喧噪から離れて、彼を拘束するものもなく、
自らの影だけが、唯一正午を告げている。
ラジオも、CDもなく、あるのは渓流のせせらぎと、
時折、跳ねる鮎の音・・・。
鮎釣好きには堪らない至福の時間だ。
「俳句」7月号「作品8句」より抄出。(Midori)

蜥蜴

2011-06-28 | Weblog
太陽も砂も無音や蜥蜴の尾   片山由美子

乾き切った無音の世界・・・。
もしかしたら、未来の地球かもしれないと、
思わせるような象徴的な作品だが、
自切された蜥蜴の尾に、まだ命の戦いがあったことに、
ちょっと救われるような気がした。
「俳句」7月号「特別作品21句」より抄出。(Midori)

籐寝椅子

2011-06-27 | Weblog
籐寝椅子水平線に足の触れ   古賀しぐれ

白南風の吹く気持ちのよい午後だろうか?
開け放たれた部屋からは、視界を遮るものもなく、
広々とした海と空が広がっている。
水平線に足の触れる構図をいろいろ想像してみる。
きっと籐寝椅子に組んだ一方の爪先が、
ちょうど水平線に触れる位置にあるのだろう。
静かな波音、煌く水平線・・・ゆっくりと過ぎて行く贅沢な時間。
2011年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori) 

2011-06-26 | Weblog
切株は蝉きく座席父母の国    加藤憲曠

切株に腰を下ろせば、そこから視界は広がって、
万物は広角レンズを覗いたかのような広がりを見せる。
そして、聞こえてくるのは蝉の声・・・。
父母の国、つまり作者の故里には、
こんな自分だけの座席が、いつでも用意されている。
「俳句」平成22年9月号より抄出。(Midori
)

2011-06-25 | Weblog
誰を待つ少女か双脚すらりの夏    伊丹三樹彦

勿論、平成生まれの少女だ。
ライフスタイルも欧米化し、手足も長くすらりと伸びている。
「双脚すらりの夏」は、ただ健康的というより、
作者の美意識が光っている。
「俳句」平成22年9月号より抄出。(Midori)

箱庭

2011-06-24 | Weblog
   箱庭に少彦名命かな    有馬朗人

日本神話によると、少彦名命(スクナビコナノミコト)は、
大国主命の国造りに際し、波の彼方よりやって来た小さな神様らしい。
だからと言って、箱庭の神様にしてしまうのは気の毒だが、
少彦名命以外に適任の神様は、どこにもいそうにない。
「俳句」平成22年8月号より抄出。(Midori)

山笑ふ

2011-06-22 | Weblog
  家無くも帰る被災地山笑ふ   中鉢益生

大津波は、家族を、家を、故郷さえも、奪い去った。
作者は仙台市在住。海辺に近い所にお住まいだったのか、
住居はすっかり流されてしまったようだ。
それでも「帰ろう」とする場所は、かつて家があったところなのだ。
「山笑ふ」の季語を配して、自らを明るく笑い飛ばそうとする作者に、
決して笑えない厳しい現実があったことを改めて知った。
「滝」6月号「滝集」より抄出。(Midori)

春宵

2011-06-21 | Weblog
   春宵の富士のむらさき地震続く    佐藤珱子

富士山の優美な姿は、日本の象徴であり国外にも誇れるものだ。
四季折々に見せる表情は、それぞれに違って美しく、
一日のうちでも、その輝きや色合いは大きく違っていることだろう。
しかし、富士山と言っても地殻変動によって造られた、
造形美であることには変わりはない。今もなお続く地震が、
大自然の現象であるという現実に、自然の不思議を思わざるを得ない。
「滝」6月号「滝集」より抄出。(Midori)

2011-06-20 | Weblog
  おろおろと地割れの底を覗く蟻    村上幸次

蟻のほとんどは、社会生活を営んでおり、一匹の女王蟻と、
多くの働き蟻で構成されている。食物を粛々と運んでいる蟻の列に、
その社会性の一端を見ることができる。しかし、
彼らの社会生活を乱すようなことが起こると、たちまち大パニック。
蟻の穴とは明らかに違う「地割れの底」に、彼らはどう感じたのだろうか?
「滝」6月号「瀑声集」より抄出。(Midori)

2011-06-19 | Weblog
爛漫の花の奥処に呼ばれたる    牧野春江

満開の桜の花が咲く山懐に呼ばれたのだと思うが、
どこか桃源郷のような異空間を感じさせるのは、
作者の優れた言語感覚によるのだろうか?
「呼ばれたる」の余韻のある作品に、ますます想像は膨らんで、
もしかしたら、そのまま二度と帰って来れないのでは?
と思わせるような、ミステリアスな作風がとても魅力的だ。
「滝」6月号「渓流集」より抄出。(Midori)

陽炎

2011-06-18 | Weblog
  陽炎を解けば咆哮おびただし    石母田星人

陽炎は、震災が残して行った壊滅的な傷跡を、
まるでガーゼで包むかのように覆い尽くし、すべてを幻と化してしまったようだ。
しかし、陽炎の一糸を解けば、聞こえてくるいろいろな咆哮・・・。
それは、生きとし生けるものの哀切な泣き声ではないだろうか。
テレビ画面では決して知ることができなかった慟哭が聞こえてくるようだ。
「滝」6月号「渓流集」より抄出。(Midori)

春逝く

2011-06-17 | Weblog
   春逝けり漁師は海を恋ひはじむ    菅原鬨也

「春逝けり」の「春」に込められた思いは、喪失感、茫然自失、無常、諦観など、
どんな言葉を並べてみても、決して表現し尽せるものではないだろう。
3か月経った今でも、震災の傷跡は癒えることなく生々しく残っているに違いない。
それでも、被災地の方の復興への力は、私たちが信じた通りだった。
きっと、それ以上だったかもしれない。
「漁師は海を恋ひはじむ」に、海に生きる人たちの海への愛情が、
少しずつ戻りはじめたことに、安堵の思いを深くした。
「滝」6月号「飛沫抄」東日本大震災十句より抄出。(Midori)

植う

2011-06-16 | Weblog
  足裏に余震胡瓜の苗を植う    西山 睦

いつまでも続く余震の報道に、正直言ってうんざりしてしまう。
それは、「もういい加減にしてくれてもいいじゃないの」
という思いから来る「うんざり」なのだ。
余震が続く大地と言っても、大地は大地、
胡瓜を植える時期を逃すわけには行かない。
もう初成りの胡瓜が収穫できた頃だろうか?
「俳句」6月号「特別作品21句」より抄出。(Midori)