十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

「阿蘇」を読む

2016-05-31 | Weblog
すぐそばを電車ごとごと涅槃寺     永村典子

「涅槃寺」は、釈迦入滅の日に涅槃図などを掲げて法要を営む寺のことであり、特別な日だと思われる。一方、「電車ごとごと」は、人々の暮しのごく日常の景色であり、「ごとごと」というオノマトペは、いかにものんびりとした街並みを思わせる。まさに、古き良き寺町といった風情だろうか。「電車ごとごと」という日常と、「涅槃寺」という非日常の取合せが、何ともユニークな一句である。「阿蘇」6月号より抄出。(Midori)

「阿蘇」を読む

2016-05-30 | Weblog
水を見て山を見て人陽炎へる      武藤和子

「水」「山」「人」が、それぞれ何を暗示しているのか、哲学的ともいえる一句である。「水」と言えば、方円に形を変え、その流れは、上から下へと絶えることはない。一方、「山」は、不動のものであり、大きな自然の力が働かない限り、形を変わることはない。こうした「水」や「山」に比べると、「人」は何と小さく儚い存在だろうか。そんなことをふと感じさせる一句である。「阿蘇」6月号より抄出。(Midori)

「阿蘇」を読む

2016-05-29 | Weblog
花嫁の長きベールや鳥雲に     真弓ぼたん

結婚式は、人生の中で最も大きなセレモニー。「花嫁の長きベール」は、花嫁の後姿を捉えたものであり、「鳥雲に」と同じ方向性を持っている。二人の幸せの門出を祝うイベントであるにも拘らず、フェードアウトしてゆく映像はどこか示唆的である。「阿蘇」6月号より抄出。(Midori)

涅槃

2016-05-28 | Weblog
野にあれば風になりたき涅槃かな
春愁の視線のさきの河馬の口
涅槃図の慟哭いまに吊さるる     
捨野火かヤマトタケルの投げし火か   みどり


*「阿蘇」6月号、岩岡中正主宰選

【句評】歴史的想像力が豊かで物語性もある、楽しい一句。
「投げし火」に発見と遊び心がある。(「阿蘇」5月号より)

  3月13日、火の国探勝会が阿蘇で行われ、恒例の野焼きを見てきました。その1か月後にまさか2度もの大地震が阿蘇を襲うとは予想もしない事でした。阿蘇には、健磐龍命の伝説もあります。新しい阿蘇が、再び蘇ることを願ってやみません。(Midori)
 

ice

2016-05-27 | Weblog
話すたびアイスコーヒー混ぜてをり    福江昌子

何気ない仕草であるが、よくある場面である。カラカラと混ぜるたびに、アイスコーヒーの氷は融けて、だんだんと薄まってゆく。女性ならではの一句ではないだろうか。日本伝統俳句協会「花鳥諷詠」333号より抄出。(Midori)

暑し

2016-05-26 | Weblog
わが晩年などと気取りてああ暑し     池田澄子

歴史上の人物ならいざ知れず、「わが晩年」とは、何と大げさな言葉だろうか。しかし、一度は使ってみたい「わが晩年」である。さて、池田氏らしい一句であるが、「ああ暑し」の口語への展開には、度肝を抜かれる。「晩年」といっても、そんなものかとほっとさせられる一句である。2016年版『俳句年鑑』より抄出。(Midori)

ソーダ水

2016-05-25 | Weblog
詰襟のその後は知らずソーダ水     徳永文代

高校卒業後、進学あるいは就職、その進路はさまざまである。さらには、地元なのか、県外なのか・・・。「詰襟」とあれば、明らかに男子のこと。ソーダ水に振り返る小さな思い出は、学生服姿のままの一人の男子に繋がるのだろう。「阿蘇」千号記念『合同句集』より抄出。(Midori)

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2016-05-24 | Weblog
ふくらみてふくらみて梅まだ蕾     中川裕子

「ふくらみて」のリフレインが、開花寸前の梅のさまを良く伝えている。一方で「まだ蕾」という作者による容赦ない断言にも意外性があって楽しい。開花を待つ作者の思いが一句となった作品である。(Midori)

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2016-05-23 | Weblog
涅槃雪いまも古地図のままに川     荒牧成子

区画整理によって、河川の形状が大きく変わったり、暗渠や埋め立てによって、在ったはずの川がなくなってしまったということも多い。しかし、「古地図のままに川」だというのである。昔からの地形がそのまま変わらないということは、豊かな自然もそのまま残されているということだ。「古地図のままに川」という発見も新鮮であるが、上五に配された季語、「涅槃雪」によって、神秘的な涅槃の景が立ち上がってくる。季語の力が充分に発揮された作品である。(Midori)

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2016-05-22 | Weblog
揚げようか煮ようか五つ蕗の薹     福嶋孝子

五つの蕗の薹の前で、「揚げようか煮ようか」と思案している作者である。蕗の薹がたくさんあれば、何も迷うことなく、半分は揚げて、残りは煮るという判断もできるが、何といっても貴重な五つである。蕗の薹のほろ苦い早春の味を存分に味わおうとする心弾む思いが、この楽しい迷いに繋がったのだろう。「五つ」とは言え、その宝石のような一つ一つが目に見えるようで、「五つ」という提示が楽しい一句である。(Midori)

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2016-05-21 | Weblog
降る雪の音奪ひゆく一日かな     永村美代子

降り始めた雪が、次第に町の喧騒を奪って行くのだ。しんしんと降り積もる雪に、車も人影もまばらになって、ついには一面が雪に覆われてしまう。そんな一日の経過が、上手く詠まれている作品である。(Midori)

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2016-05-20 | Weblog
梅林のくれなゐに酔ひ白に醒め     本田久子

梅林と言っても、紅梅もあれば白梅もあり、その風情はまるで違う。紅梅と白梅を共に一句に詠み込まれた句は多いが、その違いをどこに見出すかが作句のポイントとなる。ここでは、「くれなゐに酔ひ」、「白に醒め」という、「酔ひ」に対する「醒め」の斡旋が見事である。リズミカルな「に」の調べに、梅林という桃源郷に遊ぶ作者の姿が見えて来た。(Midori)

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2016-05-19 | Weblog
綿虫やもうすぐここもビルが建つ     真弓ぼたん

初冬の風のない穏やかな日、ふわふわと綿毛のように宙を漂う綿虫は、郊外の自然豊かな空間が良く似合う。そんな場所にも、もうすぐビルが建つというのだ。都市化の拡大は、綿虫の生態にどう影響を及ぼすのか。「綿虫や」と置いて、事実だけを淡々と述べながらも、もう「ここ」で綿虫を見ることはないかもしれないという、諦めにも似た嘆息が聞こえるようだ。(Midori)

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2016-05-18 | Weblog
丸火鉢一つ頂く上座かな     内藤悦子

「一つ頂く」という措辞から、誰かが上座まで運んできた、小振りの丸火鉢だと分かる。それでも、上座だけに与えられた特別な処遇であることに変わりはない。丸火鉢の温かさ以上に、「丸火鉢一つ」の心遣いに、気恥ずかしくも、心温まる作者ではないだろうか。(Midori)

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2016-05-17 | Weblog
人波といふあたたかきもののなか     岩岡中正

波といえば、川や海で見られる水の動きであり、絶え間ない波音がイメージされるが、ここでは、波は波でも、「人波」である。人波には、水の概念は完全に消えて、あるのは言葉なく行き交う人々の流れである。その「人波」を「あたたかきもの」と捉え、その「なか」に居る、というただそれだけに、ほのぼのとした意味を見出している作者である。人波に流される訳でもなく、かと言って逆らう訳でもない、そんな己の存在に焦点を絞った一句であり、「なか」という下五の余韻が、何とも心地よい。(Midori)