十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

稲の花

2014-11-30 | Weblog
稲の花神代の光こぼれけり
天領の水音高し今年酒
月光や読経艶めく大伽藍
太陽の使者の如くに色鳥来     みどり


*「阿蘇」12月号、岩岡中正主宰選

 稲の花は、お天気の良い午前に2時間ほど咲いて、自家受粉を終えると閉じてしまうと聞きます。今年も、家の前の稲の花を見ようと出かけましたが、すでに雄しべを嚙んで閉じていました。古代より日本の文化を支えてきた稲作にロマンを感じます。(Midori)

外套

2014-11-29 | Weblog
外套と帽子を掛けて我のごと    高浜虚子

我が家の玄関なのか、それとも出かけた先で脱いだものなのか?まるで、虚子の影武者のようでもあるが、虚子自身は、別の所にいることは確か。どちらの虚子が本物なのか?やはり、ともに虚子なのかもしれない。達観しているようで、どこか茶目っ気のある作品が楽しい。『ホトトギス新歳時記』より抄出。(Midori)

時雨

2014-11-28 | Weblog
国境のしぐれ呑み込む大河かな     浅野 広

「ドナウ川」と題された5句の中の一句。ドナウ川はドイツ南部の森林地帯に端を発して、東欧10ヵ国を通って黒海に注ぐ国際河川というから、日本では想像もできない大河である。しかし、掲句の臨場感は容易に理解できる。時雨に国境はない。ドナウは時雨を呑み込みながら、一層輝きを増して行くのだろうか。「滝」11月号〈瀑声集〉より抄出。(Midori)

浦上

2014-11-27 | Weblog
曼珠沙華白し浦上天主堂    赤間 学

浦上天主堂は、爆心地からわずか500m程の地点にあり、現在の天主堂は再建されたもの。旧天主堂は、赤レンガ造りの東洋一といわれた大きな教会だったというが、8月9日の原爆投下により一瞬にして崩壊してしまった。 「曼珠沙華白し」と、その鎮魂の思いは寡黙である。同時掲載の作品に、「パイプオルガン鳴る夥しき蝶」があるが、幻想的な挽歌とも思えた。「滝」11月号〈瀑声集〉より抄出。(Midori)

枸杞の実

2014-11-26 | Weblog
贖罪の皿枸杞の実を散らしけり    成田一子

「贖罪の皿」は、そういう意図のある皿がある訳ではなく、ただ美しい白磁の皿に、真赤に熟れた枸杞の実を散らせば、それはまるで「贖罪の皿」のように見えたというメタファーだろうか。枸杞の実は、ドライフルーツでよく見かけるが、生薬としても様々な効用があるらしい。「枸杞の実」「散らしけり」が、「贖罪」に捧げる有効な言葉として選択されて、感性の高さが感じられた。「滝」11月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

鬼灯

2014-11-25 | Weblog
留守の子に鬼灯熟れてゐたりけり    渡辺登美子

「留守の子」とは、外出をして、しばらくの間、家に居ない子を指していると想像されるが、作者の年齢を考えると、すでに成人している子なのだろう。留守ということは、いつかは家に帰ることを意味しているが、いまだに帰らない子に今年も鬼灯が色づいているのである。いろいろと想像の膨らむ寂しさの中に、ふと郷愁を覚えた。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

蟷螂

2014-11-24 | Weblog
蟷螂の構への前をゆく国家     佐々木博子

「国家」は、抽象的な政治的概念でありながら、ここでは「国家」が具象として存在する。「蟷螂」と「国家」の位置関係が、「蟷螂の構への前を」と、明確に示されているからだ。「蟷螂」という小さな生き物の前を通り過ぎようとする「国家」は、果たしてどんな国家だろうか?国際化や高度情報化による価値観の多様化は、組織としての「国家」の在りようを大きく変えてしまった。「国家」という言葉の重みは変わらないまでも、「国家」が、国民生活からますます遠い存在になりつつあるように思えるのは気のせいだろうか。「蟷螂の構へ」が、リアルに迫ってくる構図に、国家はどこか掴みようのない。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

広島忌

2014-11-21 | Weblog
広島忌一直線に拭く廊下     中井由美子

木造校舎の廊下を、堅く絞った雑巾で、一直線に拭いていたのを思い出す。セピア色と化してしまった記憶ではあるが、戦後日本の高度成長期の真只中にあって、すでに戦争を知らない世代だった。日本はまさに未来へ向かって一直線という感じだろうか。「廊下」が、過去から未来へ向ってまっすぐに伸びる存在だとしたら、戦後は、広島にはじまり、今もなお続いているのだと感じさせる。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

無花果

2014-11-20 | Weblog
いちじくの断面にある苦界かな    栗田昌子

いちじくの断面は、なるほど「苦界」である。いちじくといえば、「創世記」が思い出されるのも、その理由の一つかもしれないが、断面の中心に向かって肉色の花が寄り集まるような形状は、確かに小さな「苦界」である。意外性のある比喩でありながら、写生の効いた楽しい一句。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

冷ゆ

2014-11-19 | Weblog
佇むや雄島に胸の冷ゆるまで    遠藤玲子

「雄島」は、宮城県の松島湾に浮かぶ島の一つ。本土を結ぶ橋は、3.11の大津波によって流されたと聞くが、今はすでに新しい橋が架けられている。さて、「佇むや」の強い切れに込められたものは、やはり3.11で亡くなった多くの人々への冥福の祈りであり、決して忘れることのできない悲しい記憶なのだ。「胸の冷ゆるまで」の時間の経過に、作者の深い悲しみが伝わってきた。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

色変へぬ松

2014-11-18 | Weblog
色変へぬ松衝立の咆哮図      及川源作

「色変へぬ松」を見て美しいと初めて実感したのは、9月に松島の旅館から見た松である。歳月を感じさせる松は、どれも美しく手入れされて、まさに北斎の浮世絵を見ているようだった。俳句を詠みに来たにもかかわらず、結局私はこの「色変へぬ松」を詠むことはできなかったが、松の美しさだけは鮮明に記憶に残っている。さて、掲句。「衝立の咆哮図」が配されて、現代的な幽玄の美を見るような思いがした。「滝」11月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

2014-11-17 | Weblog
角をもつゆゑの孤独や秋の犀    菅原鬨也

「犀の角」は、作者のストイックな仏教的思想観なのか、これまでも多く詠まれているが、「秋の犀」は、 まさに作者内面の投影であると思われる。「角」は、獅子の鬣と同様に、絶対的な力や存在感を顕示するものではあるが、時に孤独な存在であるとも言える。しかし、犀は、角があってこそ犀である。「秋の犀」の避けることのできない寂寥感は、作者自身の思いと重なって、詩情深い余韻が感じられた。「滝」11月号〈飛沫抄〉より抄出。(Midori)

紫苑

2014-11-16 | Weblog
ひかり満つ卑弥呼の国や稲熟るる
枕木に夕日の匂ひ鳥渡る
玉音を蔵してゐたる芭蕉林
工房の作務衣の女紫苑咲く    みどり


*「滝」11月号、菅原鬨也主宰選

 卑弥呼が神の信託により、この辺りを治めたのではないかと、ロマンは膨らみます。
熊日新聞に、「伝えたい私の戦争」と題して、読者の戦争体験が語られています。
11.15付け記事では、現在95歳男性の記録でしたが、ブーゲンビル島のジャングルで、「日本降伏」を知ったとありました。(Midori)

蒲団

2014-11-14 | Weblog
足が出て夢も短き蒲団かな    炭 太祇

太祇は、江戸中期の俳人。俳句と酒をこよなく愛したというから、蒲団に酔いつぶれて寝相が悪かったのか?蒲団から足が出ることほど情けないことはない。蒲団が短いと、夢も短いというのも、どこか納得。『新ホトトギス歳時記』より抄出。(Midori)

2014-11-13 | Weblog
つゞけさまにくさめして威儀くづれけり    高浜虚子

何らかの刺激によって引き起こされる「くさめ」ではあるが、自分では抑制できないのが困りもの。下手に抑制すると、中途半端なクシャミとなって、却って恥ずかしい思いをする。さて、一度だけならいざ知らず、つづけさまにくしゃみをする虚子を想像すると、可笑しくて親近感すら覚える。一度崩れてしまった威儀を取り戻すのは難しい。平仮名の中の「威儀」が、いかにも空しい。『新ホトトギス歳時記』より抄出。(Midori)