十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

籐寝椅子

2017-07-31 | Weblog
人生を横たへてゐる籐寝椅子     岩岡中

「横たへてゐる」のは、身体ではなく、「人生」であるという。年ごとに深みと艶を増してゆく籐寝椅子は、作者自身の「人生」にも通じるものだろう。来し方を静かに振り返りつつも、まだまだ人生の通過点にある作者である。中7の下5への連体形は、切れのある連体形であると解したい。「阿蘇」8月号より抄出。(Midori) 

樹間

2017-07-29 | Weblog
子鹿佇つ天孫降臨の樹間
六道の辻に脱ぎたる蛇の衣
ががんぼのやうな力士の勝名乗り
新緑の炭都を過る貨車の音


*「阿蘇」8月号、岩岡中正選

九州ホトトギス鹿児島大会で、霧島を訪ねたときの一句。「六道」という非現実的なものを、現実の具象として詠んだ2句目。比喩としての「ががんぼ」。4句目は、野見山朱鳥の生誕100周年で、直方市を訪れたときの一句。俳句の可能性はどこに広がっているのか、これからの大きな課題です。(Midori)

兜虫

2017-07-25 | Weblog
兜虫月齧らむと発ちにけり    菅原鬨也

先師の第4句集『琥珀』の中の一句。兜虫の特徴を「齧らんと」と、捉えながらも、詠まれた世界は、壮大なロマン。明日は、「兜虫」が兼題の地元句会。師の句には遠く及ばないが、また違った兜虫が詠めたらいいな~。(Midori)

長崎湾

2017-07-21 | Weblog

長崎市の三菱重工業資料館では、戦艦大和と瓜二つの戦艦武蔵の数少ない写真が掲示されている。建造に4年かかった戦艦武蔵は、僅か2年でフィリピン沖に沈没してしまう。写真は、長崎湾に停泊中のノルウェーの豪華客船。まるでマンションのような客船は、中国経由だとか。(Midori)

    峰雲や旅の終はりのレストラン

伊王島Ⅱ

2017-07-19 | Weblog
伊王島は、長崎市内から車で約30分。大橋を渡れば、海水浴と温泉が楽しめるリゾートホテルが点在している。そこを更に行くと、左手に見えて来るのが、目的の教会。急な階段を上り詰めると、真っ赤なハイビスカスが迎えてくれた。(Midori)

    白南風や見知らぬ町の礼拝堂


伊王島

2017-07-17 | Weblog

長州港から有明フェリーに乗って、長崎へ。定番の観光スポットを外して、今回は日本一カトリック教徒が多かったと言われる伊王島へ。梅雨明け間近の炎天に、白亜の教会が聳えていました。(Midori)

   信仰は海を越え来し青葡萄

2017-07-14 | Weblog
ためらはす地に座す少女蛇は木に     庄子紀子

一読、「創世記」をふと思った。上五中七までは、現代的な景なのだが、「蛇は木に」と結ばれると、全く別の想念が浮かび上がってくる。少女は、いつか羞恥心というものを知るようになるのではないか、ということだ。蛇にそそのかされて、智恵の樹の果実を食べたイブのように・・・。「滝」7月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

花過ぎ

2017-07-12 | Weblog
花過ぎの覚めぎはの夢恐ろしき     遠藤玲子

ものごとの移り変わりゆく瞬間というものは、本質的なエネルギーを放つ瞬間でもある。「花過ぎ」、「覚めぎは」もまた、そんな微妙な可能性を秘めていると思われる。一時の安息に内在する一抹の不安感が、「恐ろしき」という負の感情となった作品ではないだろうか。「滝」7月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

夏の月

2017-07-11 | Weblog
砂浜に打ち上げらるる夏の月     石母田星人

砂浜に打ち上げられているプラスチックごみには、ガッカリさせられるが、掲句では、「夏の月」である。現実にはあり得ないと思われれるが、「打ち上げらるる」の受け身の連体形には、現実と非現実をすり抜けるようなニュアンスが感じられる。水際に映った「夏の月」と解せば、どうにか説明はつくが、「夏の月」らしい作品の詩情を味わいたいものだ。

捲る剥ぐ払ふ蹴飛ばす夏蒲団     〃

「捲る」という一つの動作から入った夏蒲団も、やがては、剥がされ、しまいには蹴飛ばされる運命。動詞を4つ重ねられたユニークな作品に、夏蒲団と作者の静かな格闘が見えるようだ。「滝」7月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

紫陽花

2017-07-10 | Weblog
前髪切られ紫陽花に泣いてをり     成田一子

「前髪切られ」とは、どれほど切られたのか?きっと、思っていた長さより少し短めに切られたのだ。前髪の長さは、女性にとっては、重大な問題である。しかし、切られた前髪はもう戻らない。誰にぶつけようもない悲しみを、「紫陽花に泣いてをり」と、紫陽花の圧倒的な存在感と小さな乙女心。雨が似合う「紫陽花」は、涙も似合う。「滝」7月号〈飛沫抄〉より抄出。(Midori)

2017-07-09 | Weblog
月の夜の肺腑に充つる新樹の香
別別の夢より覚めて豆の飯
太陽の拳のやうなトマトかな
ひらひらと出目金のひれ僧衣めく


*「滝」7月号〈滝集〉成田一子選

【選評】 一見叙情的な滑りだしから生活感のある「豆の飯」の着地が楽しい。ユーモアと諧謔味にあふれた一句。別々の夢に何を見ていたのだろうか。それぞれに秘めておきたい夢はそのままに、目覚めればそこには「豆の飯」のある現実の世界が横たわっている。豆の飯のほっくりとしたおいしさが今ここに生きているふたりの「リアル」を結ぶ。(一子)

生産地に住んでいると、旬の作物の恩恵にあずかることが多い。今は、胡瓜に茄子。形は不揃いながら、やわらかくてとっても美味しい。(Midori)

「阿蘇」7月号

2017-07-08 | Weblog
病の君がふらここ天へ漕ぐ     伊藤広子

本部例会で、この句の清記が回って来たとき、胸がキュンとなったのを覚えている。「君」という措辞に、短歌のような甘さを感じながらも、句会ではほとんど使われることのない「君」という二人称。単に、臆病だった君が、天まで漕げるように大きく成長したと解するのが、一般的かもしれないが、私はそうは思えなかった。「天へ漕ぐ」である。もしかしたら、「臆病の君」は、天まで漕いで行ってしまったのかもしれないと思ったのだ。(Midori)

「阿蘇」7月号

2017-07-06 | Weblog
花衣より一片のこぼれけり     田中茗荷

桜が散りゆく中の「一片」とは違って、掲句では花衣から零れ落ちた「一片」である。同じ桜の一片でも、前者は現実的な臨場感があるが、後者では、すでに過去の記憶である。はらりと零れた「一片」に、ふと感じたものは何だったのだろうか。(Midori)