十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

梅雨

2013-08-31 | Weblog
梅雨の蔓引くや落城あるごとし     鈴木要一

今年は、ゲリラ豪雨が各地を襲い、甚大な被害をもたらした。百年に一度、千年に一度という大きなスパンで訪れる予測のつかない自然現象の前では、どうすることもできない無力を感じてしまう。さて、どこか頼りないものの象徴のような梅雨の蔓。そんな蔓でさえ、引けば、「落城あるごとし」とは、大いなる飛躍であるが、気象現象だけでなく、昨今の日本の経済状況を見るようで何だか不安。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

撫子

2013-08-30 | Weblog
河原撫子橋一つふえてをり      渡辺登美子

幼い頃、ずっと見て来た故郷の川なのかもしれない。野山はもちろん、清らかなせせらぎや風にそよぐ河原撫子も昔のまま・・・。懐かしい景色が、眼前に広がっていたことだろう。ところが、ただ一つ変わっていたことは、橋が一つ増えていたことだった。ただそれだけのことではあるが、「橋一つふえてをり」に、変わらぬ風景が強調されて、深い郷愁を覚えた。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

竹の皮脱ぐ

2013-08-29 | Weblog
ファスナーの反抗竹の皮を脱ぐ    及川源作

ファスナーは、衣類やクッションカバーなどの袋物に取り付けられているもので、チャック、あるいはジッパーともいう。時に、布を嚙んでしまい、上げることも下げることもできなくなって、ほとほと困ってしまうこともあるが、これを「ファスナーの反抗」とは成程言い得て妙だ。一方で、するりと脱いで見せた竹の皮。ともに擬人化の取合せとなっており、対照的な措辞が楽しい一句。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

空蟬

2013-08-28 | Weblog
髪を切るまた空蟬と語るため     石母田星人

「語る」相手は、きっと少年の日の作者自身なのだろう。「また空蝉と語るため」という、決然とした意思表示は、「空蝉と語る」ことが、作者にとってひとつのカタルシスであるからかもしれない。髪を切って来た作者は、再び空蝉と何を語るのだろうか?郷愁を覚える優しいまなざしが魅力的な一句。「滝」8月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

2013-08-27 | Weblog
蟹穴を北半球の独語とも     成田一子

スケールの大きな楽しい句。まずは、地球における「北半球」という大地に開けられた小さな「蟹穴」を想像してほしい。そして、穴からは、蟹の泡がぶつぶつと噴出している。まるで童話のような景が浮かんでくるが、これを「北半球の独語」だという比喩の意外性が愉快。「滝」8月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)

晩夏

2013-08-26 | Weblog
椅子に背をあづけ晩夏やアヴェマリア     菅原鬨也

心安らぐような美しいフレーズにまず心惹かれる。「晩夏」が人生における晩年に通じるとしたら、「椅子」が癒しの場であることは勿論だが、「椅子」という確かな存在に何かを託そうとする作者の「背」が感じられる。「アヴェマリア」が、世俗を超えたヒーリング効果を与えて、心地よくひびく。「滝」8月号〈飛沫抄〉より抄出。(Midori)

2013-08-25 | Weblog
わが句あり秋の素足に似て恥ずかし    池田澄子

「恥ずかし」とは、何て正直な独白だろう。ちょっとはにかんだ、可愛らしい作者の笑顔が見えるようだ。「秋の素足」ほどの羞恥心ならば、「気恥ずかし」というほどのものなのだろう。流石、比喩の使い方は、凡人ではこうは行かない。「恥ずかし」は、謙遜以外の何ものでもなさそうだ。2013年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

団栗

2013-08-24 | Weblog
ポケットの魔界に忘れられ団栗      蔦 悦子

どうせ捨ててしまうと思いながらも、つい拾ってしまう団栗。しかし、すぐに捨ててしまうのも興がなく、いったんはポケットに入れておく。団栗の運命は、再びポケットから取り出されることもなく、「ポケットの魔界」に忘れられることになる。ポケットの小さな空間を「魔界」に喩えてミステリアスだが、「団栗」という身近な素材が、リアルな楽しさを醸し出している。2013年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

2013-08-23 | Weblog
終りめく数字が月の電柱に     鴇田智哉

電柱に記された数字が、煌々と月に照らし出されている。誰もが一度は見たことがある光景だが、「終りめく」と、置かれると、まるで暗号のように、不気味な意味を持ちはじめる。2013年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

馬追

2013-08-22 | Weblog
運を天に任せし国やすいつちよん     加藤静夫

最近の国際情勢の中で、果たして国はどうなって行くのか、不安に感じている国民は決して少なくはないだろう。残された寿命を思えば、「お任せ」の一語に尽きるが、子どもたちの未来を思うとそうは行かない。運を天に任せていた時代は終わった。「すいつちよん」が、「Switch on」 と聞こえてしまう。2013年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

吾亦紅

2013-08-21 | Weblog
純粋とは狂ひしことか吾亦紅     佐藤鬼房

三島文学を読み返していると、情景描写の見事さは勿論だが、心に過った意識あるいは意識外の心情の描写には改めて驚かされる。人の心というものは、とても繊細で不可解。純粋であることは、不可能に近いように思われるが、鬼房は純粋でありたいと願ったものだろうか?それも狂うほどに・・・。「吾亦紅」のメッセージ性が、切ない。(Midori)

天の川

2013-08-19 | Weblog
天の川の下に天智天皇と臣虚子と     高浜虚子

大宰府政庁跡に面した朱雀通りに立つ虚子の句碑を見たのは、数年前に九州ホトトギス大会がこの地で行われた時です。虚子が大正6年に、初めて九州を訪れた際に都府楼跡で詠んだ句だそうです。句碑には、「夜 都府楼跡に佇む 天の川の下に天智天皇と臣虚子と」と、刻まれていました。大胆な字余りの句ですが、下五の着地が見事です。「天の川」に悠久の時が感じられてとても素敵です。因みに、ココ大宰府政庁跡のお隣、大宰府市立学業院中学校は、私の母校☆(Midori)

2013-08-18 | Weblog
古くさき二十世紀の多汁なり      加藤かな文

昔は、梨というと二十世紀梨が主流だった。二十世紀を代表する梨として、命名されたというが、最近では、ほとんど見かけなくなり、見かけても小振りな梨は、見向きもしなくなった。ところが、二十世紀は、意外にも多汁で美味だったようだ。新しき二十一世紀が、まるで瑞々しさを欠けた不味い世の中のようで、可笑しかった。2013年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

流星

2013-08-17 | Weblog
「客観写生と言えども、それは主観である」というような虚子の言葉をどこかで読んだことがあります。確かに、客観的に捉えた写生であっても、どこを写生するかとなると主観が働きます。今日、「阿蘇」の例会で、主宰が話されたことは、この虚子の言葉でした。先人が見て来たことを辿るのではなく、自分の目が捉えたものを詠まなければならないと、俳句の難しさを感じながらも、俳句の可能性に心弾む思いでした。(Midori)

手鏡の中の刹那や星流る    みどり


*俳誌「阿蘇」土曜例会、岩岡中正主宰選

百合

2013-08-16 | Weblog
百合の花抱きて蕊に汚れけり     日下野由季

百合と言えば、白百合。白百合は、その姿や香りから、清純なイメージだが、蕊は落ちやすく始末に困るもの。花屋さんで、蕊をカットしてくれたりするが、ちょっと残酷な気もする。さて、百合の花束を抱いた作者だが、やはり衣服を汚してしまったようだ。「汚れけり」は、百合の花のイメージを壊してしまいそうだが、どこか自己愛も隠されているようだ。「俳句」8月号より抄出。(Midori)