十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

2012-08-31 | Weblog
歩くとは背をさらすこと聖五月    恩田侑布子

背中は、普段自分では見えない部分なだけに、
最も無防備なウイークポイントであるといえる。
しかし、人の背中ほど饒舌に語っているものもない。
「聖五月」と置かれてみれば、やはり罪を負う背中だろうか。
「俳句」9月号より抄出。(Midori)

2012-08-30 | Weblog
野外演奏天心に月吊りてより    上田日差子

まるで夜空をドームにして、月を吊ってはじまる演奏会だ。
野外演奏は、ステージを設えた生バンドでもいいし、
芝生の上で、ギターの弾き語りでもいい。
「月」を野外演奏の舞台設定の一つにした心憎い作品。
「俳句」9月号より抄出。(Midori)

涼し

2012-08-29 | Weblog
涼しさや水の中なる鯉に雨    岸本尚毅

考えてみれば、鯉は水の中に決まっているが、
「水の中なる鯉」と描写されたことで、まず水の中の鯉を
思い浮かる。そして「鯉に雨」の時間的経過。
雨脚が水面に弾ければ、鯉も涼しげ、読む者も涼し。
「俳句」9月号より抄出。(Midori)

2012-08-28 | Weblog
母包む花も氷も見知らぬ香    正木ゆう子

畳から棺へ移された母は、すでにこの世の母ではない。
花も氷も、この世の香を放たず、異質な色を放つ。
「見知らぬ香」に母を失ったことを、はじめて実感する。
「俳句」9月号〈特別作品50句〉より抄出。(Midori)

稲の花

2012-08-27 | Weblog
垂乳根の母の匂や稲の花   奥坂まや

先日、久しぶりに近くを散歩していると、
青田とばかり思っていた稲が、もう花をつけていた。
もう稲の花?と思っただけで、匂ってもみなかったことに後悔。
「垂乳根の母の匂」は、懐かしい昭和のお母さんの匂い。
2012年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

2012-08-26 | Weblog
桃喰うて 真昼の夢をむさぼって   伊丹三樹彦

掲載句のどれもが、一箇所だけ離ち書きをされてるが、
大きな切れがあるということなのか、詳しくは知らない。
さて、桃を食べて、真昼の夢を貪れば、至福の時間とも言えそうだが、
「真昼の夢」が、現実性のないものだとしたらどこか自虐的。
2012年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

糸瓜

2012-08-25 | Weblog
魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも   正木ゆう子

糸瓜には糸瓜になるべき種の起源があるはずだが、
「魔がさして糸瓜となりぬ」とは、意外や意外。
「どうもどうも」が、糸瓜の独白のようで、何とも愉快。
鍵和田秞子監修「花の歳時記」より抄出。(Midori)

2012-08-24 | Weblog
近づけば他人顔する芒かな    鈴木光彦

芒は、日に映え、風になびき、さまざまな表情を見せるが、
近づくとパタリと風に止んで、そっぽを向いたまま、なんてことも。
そんな芒に興ざめしてしまうが、それを「他人顔」と言い得た作者。
思えば、芒は、やや距離を置いて愛でるものだということか・・・。
2012年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

花野

2012-08-23 | Weblog
くさぐさを摘みて花野を花束に   岩岡中正

花野には、名の知れた花もあれば、そうでない多くの花が咲いている。
それを、「くさぐさを摘みて」と詠んだところがこの句の着目だろうか。
調べの良さ、花野を一つの花束にしてしまうスケールの大きさ・・・。
花野らしい野趣に富んだ魅力的な作品。
第2句集「夏薊」より抄出。(Midori)

2012-08-22 | Weblog
かりがねや送るとは立ち尽くすこと   伊藤政美

別れの言葉を交わし、見えなくなるまで、
手を振って、あとは、ただ立ち尽くすだけ・・・。
「送る」とは、「立ち尽くすこと」で終結する。
「送る」の定義づけだが、俳句となると、さすが景がよく見える。
2012年版「俳句年鑑」より抄出。(Midori)

母の日

2012-08-21 | Weblog
母の日の固形石鹸よく匂ふ
思ひ出をつなぐ線路や麦熟るる
テーブルに椅子の加はる子どもの日
香水と月のひかりを身にまとひ      平川みどり


*「阿蘇」8月号に掲載されました

2012-08-20 | Weblog
滝音の高らか山河いよよ健    加藤芳子

言葉の臨場感と、迸るような躍動感に圧倒されそうだ。
「高らか」「いよよ」の力強い言葉の斡旋に、
初夏らしい勢い、そして作者の心の張りが感じられた。
「阿蘇」8月号より抄出。(Midori)

2012-08-19 | Weblog
眼鏡拭く介護十八年の夏    大久保幸子

十八年前には、必要としなかった眼鏡が、今では、
眼鏡なしでは、不自由な歳になってしまったということだ。
介護される方も、介護する方もお互い老いたる老老介護。
「眼鏡拭く」の即物的に描写された生活の一端から見えて来るものは、
介護が、日常の一部になってしまった者の一時の安息だろうか。
「阿蘇」8月号〈雑詠〉より抄出。(Midori)

2012-08-18 | Weblog
   一瞬の放心ありて滝落下   永村典子

滝が落下する直前の、あの瞬間を、「一瞬の放心」と捉えた作者。
それは、長い川の流れからの水の解放感ともいえる。
「滝」という清冽な自然現象に、「放心」という甘美な瞬間を与えた。
「阿蘇」8月号〈雑詠〉より抄出。(Midori)

青芒

2012-08-17 | Weblog
天忌やすでに風切る青芒    粟津玲子

「二天忌」とは、江戸時代初期の剣豪、宮本武蔵の忌日。
二刀を用いる二天一流兵法の祖であることから、この名がある。
さて、まっすぐに伸びた青芒の剣のような葉に勢いを感じるものだが、
「すでに風切る」とはまさに、若き日の新免武蔵のようだ。
「阿蘇」8月号〈雑詠〉より抄出。(Midori)