十七音のアンソロジー★。・.:・゜'☆,。.:・゜'★

虚と実のあはひに遊ぶ  Since 2008 by Midori♡ H

炎天

2016-08-31 | Weblog
炎天の塊として歩くかな     岩岡中正

今年の夏は、記録的な猛暑日が連日続き、日中の外出となると、まさしく覚悟の外出となった。さて、炎天を歩いている自分の姿を、「塊として」とは、何ともユニーク。自嘲と思われる措辞だが、「塊」とは、すでにどんな知性も感情も持たない、人間の形をした「塊」である。その塊が、歩くのだから、無我の境地、といったところだろうか。炎天ならではの一句である。「阿蘇」9月号より抄出。(Midori)

胡瓜

2016-08-30 | Weblog
二つ三つ地震に曲がりし胡瓜かな
梅雨茸崩せば星の匂ひせり
業平か光源氏か落し文
水音の心音となる半夏かな


*「阿蘇」9月号、岩岡中正主宰選

【選評】
 震災はいわば災害の筆頭であり、大惨事であるが、それをふと超えるユーモアに元気づけられる思いがする。胡瓜が地震で曲がるはずはないのだが、そう感じたのは、作者の遊び心であり俳諧の心である。

☆ 私は、熊本県北に在って被害がなかったものの、多くの誌友を思う時、「胡瓜」の句はいかがなものかと危惧していましたが、主宰は、そこのところをちゃんと了解して頂いていました。感謝です。今、近くの茄子畑では、艶やかな秋茄子がたくさん下がっています。(Midori)

漱石年

2016-08-29 | Weblog
「意気地のない所が上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである」とは、『吾輩は猫である』の一節である。猫である吾輩が、主人である苦沙弥先生を評していう言葉だ。「嘘をついて人を釣る事と、先に廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどろかす事と、鎌をかけて人を陥れる事ほか何も知らない」人に対して、上等だというのだ。夏目漱石没後100年ということで、地元紙では、『草枕』からはじまり、今、『吾輩は猫である』が連載中である。途中ではあったが、ふと漱石の文章に触れたくなって読み始めた。小説の途中からでも充分面白いし、意外な漱石に出会える。(Midori)

ペン持てば影の生まるる初秋かな

鉦叩

2016-08-27 | Weblog
誰彼と言はず供養ぞ鉦叩     小川文平

何とまあ、大雑把な供養の仕方である。しかし、考えてみると、御先祖様を遡れば果てしなく広がって、誰彼とは言えなくなる。こだわる必要など、何もないのだ。「供養ぞ」と言われると、理由もなく納得してします「鉦叩」の一句である。「阿蘇」1000回記念号「合同句集」より抄出。(Midori)

台風

2016-08-26 | Weblog
台風のニュースをつけしまま眠る     遠藤剛至

台風の接近が気になり、ニュースを見ていたが、いつの間にか眠ってしまったという句である。切れ字がある訳でもなく、俳句としての体裁を保っているとは言えないが、これも立派な俳句である。日本伝統俳句協会『花鳥諷詠』332号より抄出。(Midori)

赤蜻蛉

2016-08-25 | Weblog
身じろがぬ刻を葉先に赤とんぼ     北 嘉与子

「葉先」に留まる「赤とんぼ」を凝視しての写生句である。たぶん、有るかなきかの体重を葉先にかけて、じっとしている蜻蛉の景である。誰もが一度は見たことのある景でありながら、「身じろがぬ刻を」と詠まれて詩情高い。「葉先」が、句の中心に据えられて、「刻」と「赤とんぼ」が、見事に調和している句である。「阿蘇」1000回記念号「合同句集」より抄出。(Midori)

処暑

2016-08-23 | Weblog
8月23日は、二十四節気の一つ、処暑。猛暑もいよいよ衰えを見せ、新涼が間近いことをいう。猛暑からほっと一息、というところだろうか。そういえば、今朝は鈴虫の声が聞かれて、ミントの葉には露が降りていた。明日24日は、20回目の母の忌日を迎える。母の齢になるまで、あと4年。東京オリンピックがどうか見れますように・・・。(Midori)

崩落の天守に高し処暑の月
 

2016-08-22 | Weblog
わが町は、農作物の生産地だが、最近では、少子高齢化などのためか、耕されることなく、放置されたままの田畑も多く見られる。荒地となって行く農地を見るのは淋しいものだが、最近、熊本県南部の田園地方では、企業参入による大規模水耕栽培農場が立ち上がり、このたび菠薐草の収穫を得た。地方の農業の新しい形に夢が膨らむ。(Midori)

球形の山河ありけり芋の露

残暑

2016-08-21 | Weblog
所属結社の本部例会に参加してきた。2千回を超える余震に加えて、原爆忌、終戦日、つづいて流灯会、墓参など、精神性の高い俳句がたくさん出された。8月は、そんな月だったのだと、改めて気づいたことである。私は、それらを全く詠まず、夏から秋へと季節の移り変わりを意識しただけであった。互選は5句。心に沁みる句、共感できる句、壮絶な句・・・。選の基準は何もなく、類句類想を避けて、欠点がなければ、あとは自分の好みであるが、披講を聞けばやはり選の難しさを痛感する。(Midori)

魚のごと息をしてゐる残暑かな

秋思

2016-08-19 | Weblog
倚りかかる秋思の椅子のぎいと鳴る    松村葉子

「倚りかかる秋思の椅子」だけでも充分に、その心情を表出していると思われるが、これでもかと言わんばかりに、「ぎいと鳴る」椅子である。きっと椅子から立ち上がる時も、「ぎいと鳴る」のだろう。「椅子」だけで詠まれた一句でありながら、作者の動きがよく見えてくる俳諧味のある作品である。「阿蘇」1000回記念号『合同句集』より抄出。(Midori)

蟷螂

2016-08-18 | Weblog
蟷螂のをんなとみれば鎌上げて    蓑田順子

蟷螂を見かけることも少なくなったが、昨年京都の寂光院の坂道で見たのが印象的だった。道の真ん中で、じっとしていたのだが、皆珍しそうに見ながらも、遠巻きにして坂を下りて行ったものだ。さて、蟷螂は、「見る」というゆっくりとした動きと、大きな二つの鎌が特徴的だが、「をんなとみれば鎌上げて」とは、何ともユニーク。蟷螂と作者が、同格に対峙している構図が見えてきた。「阿蘇」1000回記念号『合同句集』より抄出。(Midori)

個性とは・・

2016-08-16 | Weblog
 昨日の熊日の文芸欄に書かれた中岡毅雄氏の冒頭の言葉に、「俳句結社誌というのは、とかく追随者を生みやすい。主宰に心底師事するのは、大切なことであろうが、それによって、自分の個性が失われてしまうというのは考えものである」とある。「個性」というものは、案外、自分では分からないものであるが、ただ、自分の好きな詩の世界を詠み続けることが、「個性」につながるのではないだろうか。(Midori)

 つまべにや風の編みたる相聞歌
 

薔薇

2016-08-14 | Weblog
喜寿の日や木香薔薇のわつと咲き     木下あきら

「喜寿の日や」という上五の詠嘆ではじまる一句である。還暦、古稀、そして喜寿と、人生の節目節目を迎えた喜びは、来し方への感慨である。それが、中七下五へとつづくのだろう。喜寿の日を祝うかのように「わつと」咲いた木香薔薇は、大輪の薔薇と同じように美しい。「滝」7月号〈滝集〉より抄出。(Midori)

2016-08-12 | Weblog
なほ奥へつづく径ある蛍かな     石母田星人

「なほ奥へつづく径ある」という発見が素晴らしい。この奥の「径」は、きっと、あの世へとつづく径なのだろう。「奥」という措辞の妖しさ・・・。蛍の点滅しているその奥に、まだ細い径がどこまでもつづいていることを私たちは知らないのだ。星人さんの詩情は、また深みを増したようだ。「滝」7月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)


向日葵

2016-08-11 | Weblog
人界に伏す昏絶の向日葵よ     成田一子

人の丈よりも高くなり、大きくなり過ぎた向日葵の花は、人界に伏すように倒れてしまうこともあるのだろうか。「昏絶」という擬人化が、「人界」という措辞に呼応しているとも思われるが、向日葵の明るいイメージを剥ぎ取り、向日葵のもう一つの現実が詠まれて、決して向日葵にへつらうこともない。「滝」を継いだ「滝」代表の作品は、どれも生々しく、世の中に「美」と「醜」があるとしたら、後者をあえて詠んでいるという印象を受ける。さて、個性的な感性をうけ入れることができる感性が、欲しいものだ。「滝」7月号〈瀬音集〉より抄出。(Midori)