あとがきで書いているように、既得権益を守る公務員を中心とした「沖縄の支配階級批判」だそうである。沖縄の支配階級とは、保守革新を問わず政治家、マスコミ、大手建設業者などの大企業、公務員及び公務員の労働組合、などと言ったところである。この顔ぶれを見てみると、一見不可解である。
確かに沖縄の政治家は皆同じ、というのは辺野古移設に反対して、自民党政府と対立している、翁長知事が自民党県連の重鎮だ、という珍現象を説明できる。ところが労働組合も支配階級に入る、という認識は本土ではあり得ない。そして沖縄基地撤去一色の沖縄マスコミも、沖縄自民党も含めた政治家全部と組んでいる、というのだ。
本書を手にしたときに、基地反対を訴えて実は撤去よりも、政府からの振興資金や借地料を増やす魂胆の矛盾を単純に言うのかと思った。もちろん、その側面もある。だが一方で、「閉鎖的な支配階級が県内権力と一体化しているため、沖縄には県内権力を批判するマスコミや労組、学識者などの左翼勢力が育ちませんでした。(P90)」と書いてあるのには驚いた。
筆者は左翼が健全な思想の持ち主だ、というのである。この点に違和感を感じる以外には、筆者の姿勢は客観的であろうとしていることが、良く分かる。何せ、現実の沖縄の労組は支配者側だと言うのであるから。ただ一点、日本の安全保障の観点がほとんどないが、筆者のえぐり出したい、沖縄の実相と言うテーマから離れるからであろう。
沖縄の最大の問題は、基地があることによって、沖縄が一体となって反対運動をし、それにより振興資金が投入され、減税が行われるが、潤うのは支配階級だけだから、格差が広がるだけである、ということである。実は日本一危険なのは普天間ではなく、厚木基地である(P72)。その上、普天間で危険な、普天間第二小学校は、基地が出来て24年後に、危険を承知でわざわざ建てた(P75)というのだから、たちが悪いとしかいいようがない。
筆者らが他の「左翼」と一線を画している点がいくつかある。そのひとつは「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りにふる舞うクセがついてしまった」「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」(P142)という、沖縄県民の言説を紹介していることだ。
常識では左翼は、大江や筑紫をこのように批判するどころか、二人の言辞を持ち上げるのが普通である。また沖縄在住の作家、上原稔氏が、連載物に慶良間諸島の集団自決について「軍命」はなかったことを実証した文章を載せようとすると、掲載を拒否されたことを批判している。(P176)
同様に、渡嘉敷、座間味における集団自決について、大江が「軍命による集団自決」と書いているのは嘘だ、という訴訟が起こされ、原告は曾野綾子氏の文章を根拠として、実は、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用申請(年金受給)のために、「軍命による強制」という虚偽が必要だった、と主張した裁判の件を紹介している。(P179)
本土であれば大江や筑紫の応援団になるのは左翼であり、沖縄の集団自決は軍命によった、と主張するのは、左翼である。典型的な左翼を日本共産党や社民党とするならば、両党は、沖縄の集団自決は軍命によると、主張している。ところが、筆者たちによれば、沖縄ではこれらの主張をするのは、沖縄の支配層であり、エリートたちである、というのだ。
本土に住んでいる人々は、これらの主張は沖縄において、左翼的言論界が主張しているものだと考えている。ところが、筆者の言うように、そうでないとするならば、沖縄の状況が外部から分からないのも当然であり、沖縄自民党の幹部であるはずの、翁長知事が、辺野古移設に強硬に反対するのも分かる。
沖縄の知念氏が中学生たちとの対談で、結果的に沖縄独立を示唆しながら、独立について明言しないことを批判している。(P209)だが、筆者自身は沖縄独立論は、単に自発的なものばかりではなく、中共による工作の影もある、ということには言及しない。これは片手落ちだと思う。沖縄の事態は相当に複雑なのである。