4月2日、待望の山種美術館のボストン美術館の浮世絵展を見てきた。美術館が狭い割に、1300円は高いのではないか、と思ったが間違いだった。丁度三時に入ったので、2時間しかない。しばらく見ていてこれでは時間が足りなくなるのではないか、と思う位、質、量ともに充実していた。
はてこれは本題ではありません。第二会場があると言うので行くと実に狭いのです。ここは版本と肉筆浮世絵展示だと言うのですが、肉筆はわずか2絵師、5点です。絵師は歌川豊春と鳥文斎栄之という無名ではないのですが、歌麿などに比べればいわば一段マイナーな人です。
展示のメインは歌川豊春の見立琴棋書画図です。肉筆浮世絵の常で、女性の顔がいやに白いのですが少しも気にならず、しかも輪郭線などはうまくぼかして自然です。他の作品は輪郭線はそれよりはっきりしているのですが、いずれも肉筆浮世絵としてはいままでに見た事が無い・・・小生の見聞の狭さが分かるというもの・・優れたものでした。
そこでカタログの解説を見ると、歌川豊春と鳥文斎栄之も共に途中からもっぱら肉筆画に専念したとある。これで納得できるではありませんか。つまり両人とも肉筆画の技量があるため、専念できたのである。二人の肉筆浮世絵がうまいのも当然であった。当時の浮世絵師は狩野派などのお抱え絵師と違い人気商売である。目の肥えた当時の人たちから評価されなければ売れないのである。だから特異な肉筆画に専念したのも当然であった。
現代の「画家」と称する人たちはこのような環境を羨むべきであって、蔑むべきではない。現代の画家の多くは日展当選何回、二科展当選何回、あるいは日展審査委員などという地位で評価されるのであって、画の善し悪しで評価されるのではない。画家にとって本質的にこれほどの不幸はない。確かに展覧会に当選するには技量がいるのに違いない。しかしそれも限られた審査員の評価である。芸術は権威から離れたものだと言いつつ実は権威に守られているのである。