ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

太陽の力

2012年01月13日 | 通信-環境・自然

 年が明けても沖縄地方は天気が悪い、お天道様を拝める日が少ない。天気が悪いのは昨年12月から、いや、11月から曇りや雨の日が多い。ちなみに沖縄気象台のデータによると、日照時間が1日に4時間以上あったのは、12月は8日、11月は10日となっている。今年1月は、昨日までたったの3日。今日もまた曇りである。
 気温が10度(沖縄では滅多にない寒さ)ほどしかなくても、太陽が出ていれば、太陽の光にあたっていれば暖かい。そんな時は太陽の有難さを感じる。夏場は悪魔のように感じる太陽だが、冬場は天使のように感じる。身勝手だが。

 改めて思うと、太陽の力は偉大である。地球に光と熱を与える。それによって地球が生きている。地球が生きているので植物も動物も人間も生きていける。
  先月、農業講習を受けた中で、植物の成長の仕組みも教わった。中学の理科か、高校の生物で習ったようなことだ。光合成とか窒素とか二酸化炭素とか、ブドウ糖とかデンプンとか蛋白質とかいったようなことだ。光合成は植物の成長の基本である。その光合成には太陽の力が欠かせない。植物が育たなければ酸素も生まれない。
 太陽の熱で地球はほど良く温められ、生命の育つ環境となる。お陰様で人間も生きていける。また、太陽の光で育った植物を食べて、または、育った植物を食料にする動物を食べて人間は生きていける。まったく太陽様様だ。今年は忘れてしまったが、せめて年に1度は、元旦くらいはお天道様を拝まなければ罰が当たるというものだ。

 全ての生命体を含めた地球全体を生かしてくれる太陽の力、科学的なことは素人なのでよく分からないが、その力はきっと計り知れないものであろう。その力はきっと、原子力発電に頼らずとも人類が生きていくために必要とするエネルギーを十分に供給してくれるであろう。であれば、人類は人類が生きていくために必要とするエネルギーを太陽から頂く方策を考えればいいのだ。科学は最初からその道を行けば良かったのだ。
 何百年も前に太陽電池を発明していれば、今頃の太陽電池はとても発達していて、家々の電気を十分賄い、工場の電気も工場の屋根の面積の太陽電池パネルで賄い、車や電車や船も飛行機もその屋根に取り付けた太陽電池パネルで賄えたかもしれない。
 まあ、夢のような話だが、これから後、世界中の科学者が努力して今よりずっと効率の良い太陽電池はできるに違いない。100年後には実現するかもしれない。

 太陽の力をもう一つ考えた。科学は素人だけど、高校で習った物理を思い出して、その記憶が正しければ、太陽は原子力によって光や熱を生んでいる。つまり、太陽は巨大な原子力発電所といえる。なので、光と熱だけでなく放射線も生んでいる。
 太陽の放射線は地球にまで届き、人畜に有害な大量の放射線を送っている。ただ、ほとんどの放射線はオゾン層によって遮られ、地上には届かないらしい。
 ところがだ、昨今、そのオゾン層が人間の化石燃料使用等によって破壊されている。福島からの放射線が怖いからと東京などから沖縄に逃げてくる人が多くいるらしいが、おあいにく様だ、オゾンホールは高緯度に多く、太陽のエネルギー放射は低緯度ほど強い。南の島は東京より太陽からの放射線が多い。どうする?逃げ場は無いぞ。
          

 記:2012.1.13 島乃ガジ丸


大地の力

2012年01月06日 | 通信-環境・自然

 高校生の頃、「高校を卒業したら農業をやってみたい」と私が言ったら、大反対した父であるが、仕事を定年退職してからは家の屋上にプランターを置いて植物を育てたり、姪の庭を借りて野菜を作ったりしていた。父も農業が嫌いでは無いのである。父の父親、つまり私の祖父は小作農でとても貧乏したらしく、父の姉たちは奉公に出され、祖母も苦労し、それで、「百姓で飯が食えると思ってるのか!」ということであった。

 12月、10日間の農業講習を受けた。どこぞの農家でアルバイトした時に、農夫として役に立つよう基礎的な知識を身につけようと思ってのこと。アルバイトでさらに技術を身につけ、知識を増やし、ゆくゆくは私の目指す自給自足芋生活が成り立つようにとも思ってのこと。ではあるが、たったの10日間だ、結果的には、どうすれば農夫として役に立つような知識や技術が身につくかという情報を得ただけといったものであった。
 10日間で4人の講師がそれぞれの得意分野を講義した。中学か高校で習う生物(光合成の仕組みとか)、農業経営と経済学、農地と作物の管理などといったもの。最初の3人の講師は県の農業試験場の職員などで、概ねどうすれば農業で飯が食っていけるかということに重点の置かれた内容であった。ハウスという金のかかる施設が必要であるとか、農薬と化学肥料を用いなければ安定した生産ができないとかいったもの。
 貧乏なので、ハウスという金のかかる施設を建てようなどとは毛頭思っていない。自然に優しい生き方をしたいので農薬も使いたくない。「農業で食っていくには設備投資に金がかかるのか、農薬も必要なのか、農薬は嫌だな、農業諦めようかな」と思った。

 4人目の講師は役人では無く、農夫。無農薬有機農業を実践している人。「農業諦めようかな」と、私の目指す自給自足芋生活に暗雲が垂れ込めていた中、「農薬も化学肥料も土地を疲弊させるだけ、それらを使うのは愚の骨頂」と仰る。「植物が健康であれば病害虫に強くなります、農薬を使わずとも植物は育ちます」と仰る。「植物が健康であるためには土を健康にすれば良いのです」と仰る。「雑草は土中の養分を吸い取った栄養の塊です、それを刈り取って外へ捨てるのは土中の養分を外へ捨てているようなもの、畑の雑草は腐葉土などにして畑へ返しなさい、土が元気になります」と仰る。
 雲間から一条の光が差したような気がした。植物も人間と同じだと思った。免疫力の強い人は病気になりにくい。免疫力の強い野菜を育てれば良いのだ。免疫力の強い野菜はまた、食べた人の免疫力をも強くするに違いない、一石二鳥だ。私は、免疫力の強い野菜作りを目指せば良いのだ。そのためにはどうすればいいかを勉強すれば良いのだ。

  土を健康に保つ、または、より健康にする、それらのための方策を考える。今解っている方策の一つは、無農薬有機農業を実践している農夫が仰ったように化学肥料は使わず、畑にある雑草や作物の不要物、枯れ葉などを腐葉土にして畑に還元するということ。どうやって腐葉土にするかを調べ、実践する。それを今年の目標とした。
 大地には元々植物を育てる力があるのだ。私はそれの手伝いをすればいいのだ。大地の力を十分に使って作物が育ち、私がそれを食べる。それで私は生きて行ける。つまり、大地には人間を育てる力もあるということだ。大地の上に生きていて良かった、のだ。
          

 記:2012.1.6 島乃ガジ丸