ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

一人暮らしの不安

2016年04月08日 | 通信-社会・生活

 今週のガジ丸通信『一人だけど独りじゃない』で、「私はけして孤独では無い」と言い張ったが、もう少し時が経てば「独居老人」と呼ばれる身分だ。世間からは「家族のいない寂しい人」と見られる。「私はけして孤独では無い」と言い張る立場からすると、この独居という言葉には少々不満がある。「1人住まい」でいいのではないかと思う。
 
 私は元々細かいことに気が利かない、ウチナーンチュに多い大雑把な性質で、うっかりミスによる小さな怪我をよくするし、忘れ物もよくした。中学生の頃、忘れ物で先生に何度ビンタ(当時、体罰は普通)されたことか、懐かしく想い出される。
 オジサンと呼ばれる歳になってからも、日常、大工道具や農機具を使っているので小さな怪我は相変わらずある。忘れ物はというと、「ある」どころでは無く、歳取るごとに酷くなって、今は格段に増えている。携帯電話を忘れ、財布を忘れなどしている。買い物のメモを書いて、そのメモを見るのを忘れて、買いたい物を買えなかったりしている。
 よく行くスーパーが2店舗、時々行くスーパーが3店舗あるが、面倒臭がり屋の私はどのスーパーのカードも持っていなかった。であったが、去年の暮、医療保険の関係で時々行くSスーパーの会員となり、そこのカードを入手した。先日、そのスーパーの50ポイントサービス券があったので、そこへ行った。すると、店前にポイント2倍デーとある。「ラッキー」と思って、急ぎでない物まで買ったのだが、カードを出し忘れた。
 3月のある日、車内常備の鉛筆を図書館で使い、使い終わった鉛筆は上着のポケットに入れた。「鉛筆は車に戻さなきゃ」と思ったがずっと忘れ、別の上着になってからも忘れ続け、畑作業中、ポケットの鉛筆に毎日気付いて「鉛筆は車に戻さなきゃ」と思ってもその5分後には忘れ、鉛筆が車に戻されたのは、3週間近く過ぎてからだった。
 2月のある日、「確定申告の時期だ」と気付き、「役所に行かなきゃ」と思い、役所から近い金曜日の職場へ行ったついでに行こうと決めていたのだが、その日以来、10回近く金曜日の職場へ行ったのだが、「ついでに役所は」ずっと忘れ続け、1ヶ月近くも経ってやっと雨の日の3月9日。役所へ行って、話を聞き、確定申告を済ませた。
          
          

 物忘れはこの先ますます酷くなっていくであろう。その内「ボケ老人」にもなるであろう。今でも「コンロの火を消していないかも」と思って家に引き返すことがある、今のところはたいてい消してあるのだが、ボケたら「コンロの火を消していないかも」と思うこともなくなって、帰ったら火事になっていた、なんてことになるかもしれない。
 一人暮らしの不安はそこにある。自身が意図しない迷惑を他人に掛けてしまうことだ。火事にでもなったら周りの誰かの命を奪ってしまうなんてことにもなりかねない。散歩に出て、帰る家を忘れて、徘徊老人となって、道路に飛び出して、車に轢かれ、轢いた運転手に辛い思いをさせるかもしれない。正常な脳味噌でいる内(今でも正常な脳味噌であるかは少々疑わしいが)に、あれこれ手を打っておかなければならないだろう。
 私の老後、他人の迷惑にならないために誰かに多少の面倒をみて貰わないといけないかもしれない。「生命保険の受取人にするから後の面倒よろしく」と、私より1世代年下の甥や従姉妹たちの子供の誰かに頼むつもりでいる。その際、「俺が倒れても119番するな、病院へ連れて行くな、そのまま死なせろ」と私は遺言状に書くつもりでいる。
          

 記:2016.4.8 島乃ガジ丸


一人だけど独りじゃない

2016年04月08日 | 通信-その他・雑感

 2016年2月12日付沖縄の動物『イチジクヒトリモドキ』の記事の中で、「私は1人かもしれないが、独りではない」と書いたが、その意味するところは、1人暮らしで、仕事場(畑)も1人で、日常の概ねは1人でいることが多いのだが、けして孤独ではないですよということ。門を叩けば開けてくれる友人知人親戚が私には多くいる。
 『イチジクヒトリモドキ』でも書いたが、私は日常ほとんど口をきかない。例えば先月3月の1ヶ月間、私が誰かと話をしたのは、近所の先輩農夫Nさんと6回、友人の脱サラ八百屋Kと1回、友人Oの店へ行って3回、畑を訪ねてくれた友人G夫妻と1回。全部足しても4時間に満たない。1ヶ月でたったの4時間、そのうち言葉もしゃべり方も忘れてしまうのではないかと心配になるくらいだが、それでも私は、孤独では無い。門を叩けば開けてくれる、それだけで十分、私は私の傍にいつも人の心を感じられている。

 「一人だけど独りじゃない」と思う理由はもう1つある。
 1年以上かかったブログ移動、及び修正の作業中、記事をいちいち読んではいないが、そのタイトルを見て、だいたい何について書いたかは覚えていた。その際、気付いたことがある。2007年3月30日付ガジ丸通信『病を運ぶ夜の鳥』の中で「私は、幽霊、マジムンの類を見たことがない。で、それらの存在を信じてはいない。であるが、いろいろ不思議体験をしているので、そういったモノたちが、ひょっとしたらいるかもしれないとは思っている」と書き、不思議体験を少し紹介している。その時はその不思議体験が何かの知らせなんて思わなかったが、それは母の危機の知らせだったかもしれない。
 母が検査入院したのは2007年4月初め、その母が不治の病で余命1年と医者から告げられたのは同月20日。その2ヶ月余前に私は『病を運ぶ夜の鳥』で書いた「悪いことが起きるぞ」と暗示する内容の不思議体験をしていた。特に、「朝飯食っている時に食物が喉を通り辛いのを感じる。飲み込む時に鈍い痛みも感じる」とも私は書いている。母は強皮症で、喉から食道の筋肉が固まって物が飲み込めないという症状だということを後日知る。今更ながら、「あー、母の病を知らせるお告げがあったのだ」と思う。 
 『病を運ぶ夜の鳥』の翌週のガジ丸通信『見えざる存在』にも引き続いて不思議体験関連のことを書いている。「先々週、部屋の中で、霊か何か判らないモノが運動会をしていて、煩くて(音を立てていたわけでは無い、雰囲気が何か煩く感じた)、夜中何度も目を覚まして、寝不足となる日が何日もあった。そのワサワサ感は三週間続いた。今は治まっている。」とある。「今は」の今は4月6日、母が入院し、検査している頃だ。
          

  2007年3月30日の週一日記「夜は部屋で運動会」でも同じワサワサ感について書いている。私はそのワサワサを「怖いモノ」でなく「煩いモノ」と捉えている。そう、目に見えないモノたちがいたとしても、それらはちっとも怖い存在ではない。
 「一人だけど独りじゃない」のもう1つの意味はつまり、目に見えない何モノかが私の周りにいるということ。たぶんそのお陰で、私は1人でいても孤独を感じないのだと思われる。私は寝る時、真っ暗で無音を好み、そんな環境だとぐっすり眠られる。なので、目に見えない何モノかが少しならいいが、たくさんいると「煩い!」となる。母の危機を告げるワサワサであっても私は煩いと思うだけなのだ。無駄だから止めなと言いたい。
          

 記:2016.4.8 島乃ガジ丸


チム、ククル、ショー

2016年04月08日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 チムは「肝が据わっている」の肝、肝を沖縄語ではチムと発音する。ククルは心の沖縄語発音、ショーは「性悪女」の性、性を沖縄語ではショーと発音する。ちなみに、ショーについては既に2010年3月2日付記事『ウフソーとソーヌガー』で紹介していて、その中で「ソーは性のウチナー読み」と私は書いている。その通り、私が子供の頃から実際に耳にしている発音はほぼソーに近いのだが、沖縄語辞典の発音記号を見るとショーとなっている。正式(首里方言)にはショーと発音されるのだと思われる。

 チム、ククル、ショー、人間を肉体と精神に分ければ、いずれも精神に含まれるもの、それぞれどういう意味を持っているのかを調べてみた。
 和語でも「肝に銘ずる」や「肝に染みる」とあるように肝は心の意味でも使われるが、それは沖縄語でも同じ。性は「性が合う」とあるように性格のことを言うが、それも和語と沖縄語は同じ。ん?ならば、心と性はどう違うのかと疑問を持つ。で、広辞苑。
 心は「知識・感情・意志の総体。「からだ」に対する。」で、
 性は「先天的な性質。うまれつき。性状。」とあった。テレビに喩えて私なりに解釈すると、「テレビ局から放送される電波を受信して映像を画面に映し、音声をスピーカーから流す」のがテレビの性で、「番組(映される映像と流される音声)そのものが心」となる。これが正しい喩えかどうかについては不明。私がそう捉えたということ。

 肝と心とに違いはないのかと思って、これも広辞苑を引く。
 肝は「精神。気力。胆力。」とあり、その中にある「精神」の第2義に「知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の働き。根気。気力。」とあった。これから考えると、肝は「知識・感情・意志の総体」である心の中の「感情の一部と意志」のようである。
 心と肝をテレビに喩えたなら、全ての番組が心であり、「正しい放送であること、公平な放送であること」という放送局の姿勢が肝であると言えるかもしれない。これが正しい喩えかどうかについては不明。私がそう捉えたということ。
 例えば、「肝に銘ずる」や「肝に染みる」を「心に銘ずる」や「心に染みる」と言い換えて、両者を比較した場合、肝は心より強く銘じられ、肝は心より深く染みるように感じられる。肝は心の深い所にあるもののようだ。
     
 チムグクルという言葉がラジオから流れるのを私は何度か聞いている。漢字にすると肝心になると思われるが、私の聞いた限りでは「同情する心」といった風な意味で使われているようである。ところがチムグクル、沖縄語辞典には記載がない。どうやら造語のようである。肝心はしかし、広辞苑にはある。カンジンと読み「大切」といった意。
 「同情する心」といった意味では他にもっと美しいウチナーグチがある。チムグリシャンである。漢字にすると「肝苦しゃん」、沖縄語辞典では「不憫である かわいそうである」と訳されている。字から想像すれば、肝(心の深い所)が苦しくなる程同情するということになる、美しい言葉だと思う。他人のことを自分のことのように感じればチムグリシャンという感情にもなるのだろう。沖縄にはそういう心があったようである。
 私にそのような美しい心はないし、友人達の誰にも持っている人はいないので「あったようである」と過去形にしたが、沖縄にはまだそのような美しい心を持った人がいるかもしれない。金欲物欲まみれの今の世で、そういう人は生き難いかもしれないが。
     

 記:2016.3.19 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行