ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

死なない人

2019年05月10日 | ガジ丸のお話

 「死なない体になってしまった。」
 「えーっ!お前がか、それで、相手は男か女か?」
 「何の話だ?」
 「バンパイアになったんだろ?噛まれた相手は女か?美人だったか?」
 「不死からバンパイアは解る、相手が女か男かっては何だ?」
 「相手が美女なら俺も噛まれたいと思ってさ。噛まれながら美女の腰を抱き寄せ、俺は俺で彼女の唇を噛み返すのさ、そうして、女日照りのこの20年に終止符を打つのさ。」
 「あーそうかい、俺が死なない体になったってことはどうでもいい話ってか。」

 ・・・しばらく沈黙があって、男同士が見つめ合って、

 「不死身になったって!そりゃぁホントのことか!」と男Bがわざとらしい大声、
 「もしかしたらの話だ、もしかしたらホントに不死の体になるかもしれない。」
 「どういうことだ?」
 「いや、じつは、この間の検診で癌が見つかった、咽喉癌だとさ。」
 「マジか、癌ってステージ何とかってランクがあったよな、それはどうなんだ?」
 「ステージ4だとさ。」
 「4って、相当進んでいるってことだよな。」
 「うん、そういうことだ。」
 「で、手術ってことになるのか?」
 「いや、手術はしない。友人に、お前も知っているKのことだが、彼は、表向きはまともな学者だが、裏では変な研究をしている。ということをこのあいだ知った。」
 「あー、奴は高校の頃から少し変わっていたよなぁ。で、変な研究って何だ?」
 「病院行って癌と診断された後、Kに会った。奴が変な研究をしていることはその時に知った。癌細胞がもしかしたら不死の体の元になる、って研究を今やっているようだ。そして、俺が癌になっちまったと言うと、実験材料になれと頼まれたんだ。」
 「で、実験材料になって、実験が成功して不老不死になったというわけか。」
 「まあ、早く言えばそういうことになる・・・かもしれないってことだ。」
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 過日、友人から届いたメール、「年取ると体力は衰えると言う常識の打破を試みる」との出だしで、「重い物が持てないのは体力が年取るごとに進化したのではないか?」と続き、私が腰痛で重いものが持てなくなったことも進化の1つとして、「それも認識し生活に生かさねばならないと考える」と締めている。
 彼は、私が腰痛であると聞き、励ましてくれている。いつまでもくよくよするな、今の自分を肯定して、それなりの生き方をしたらいいさと言っているのだと思う。その心には感謝するが、私は「年取ると体力は衰える」は認めるが、衰える速さには抗ってみたいと思っている。であるが、彼の言う「体力の衰えは進化」についても少し考えてみた。

 生きるということを前提とすると、体力の衰えは生きる上で退化となる。産まれた赤子が、母の庇護から抜け一人立ちするには体力の進化が必要となる。彼が生きていくための進化とは野山を駆け巡り、果物を採取し、動物を射止め、生きていける食を得るだけの体力を持つこと。とすれば、逆に言えば、年老いて野山を駆け回る体力が無くなることは退化となる。自身で食を得ることができなくなったらそこで彼の命はお終いということ。
 ところが、「生きるということを前提としない」考え方をすると、例えて言えば、現世は仮の姿、死んだ後に別の本当の世界があるといった考え方をすれば、体力の衰えは死に近付くことであり、それは次の世界へ向かう進化となる。
 など考えている内に訳判らなくなって、「老化とは何だ?」と調べてみた。調べるとDNAの問題になった。根性無しの私はそこでストップ、「面倒」となる。

 ただ、そこまで調べて何となく頭に入ったことがある。
 「細胞はDNAで死ぬようにできている。新しい細胞がその代わりをする」
 「それが永遠に続けば人間の命も永遠となる」
 「であるが、細胞そのものが弱っていく、再生能力が衰えていく」
 「代わりとなる新しい細胞が造りにくくなって、その内再生不能となり、人は死ぬ」
 「細胞の再生能力の衰えというものが人間の肉体の衰えそのものである」
 などということ。再生能力の衰えが老化ということのようだ。
 ちなみに、「死なない細胞が時々現れる。死なない細胞、それは癌細胞」ということも知った。そういったことから上の話を思い付いた。今回の画像は受け継がれるDNA。
     
     
     

 記:2019.5.10 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次