ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

不調の体で物置作り

2018年11月28日 | ガジ丸のお話

 「いつか腰が治ったら畑を再開しよう、次は30~40坪程度の広さの畑を借りて、年寄りらしく無理しないでのんびりやっていこう」と思っているが、腰はなかなか回復してくれない。それでもまだ諦めたわけではない。なので、畑道具は手放していない。
 畑道具には草刈り用の鎌の類、座った姿勢で使うもの、立ってできるものなど数種類あり、刈った草をかき集めるレーキ、集めた草を山積みするためのフォーク、耕すためのショベルやクワなどがあり、収穫時の鋏、高い所の枝落しに使う脚立などがある。これらの多くは、後を継いだGさんに頼んで、まだ畑の物置に置かせてもらっている。鎌やヘラなど小型の道具とショベルの2種、土混ぜに使うバケットなどは車に載せっ放し。
 さらに、趣味の木工に使う大工道具もあれこれある。大工道具の半分は家の中に置き場所があるが、塗料、刷毛、シンナーなど塗装に使うもの、くぎ抜き用の大型バールなど残り半分は車の中、他に、使う当てはないが捨てるには惜しい材料も車の中。
 ということで、私のミニキャブ愛(されていない)車はいつも重たい。

 ということで、私が住んでいるアパートの1階にある親戚の事務所、その隣の空きスペースにある物置、作って(作ったのは私)から30年近く経って、数年前からほとんど役に立っていない物置、度重なる台風襲来でボロボロになってしまった物置を、私の畑道具や大工道具を仕舞う物置として使えるよう修繕しようと試みる。
 そうしようと決め、家主の了解も得たのは10月中頃、大まかな設計図を書いて、ボロボロになったドアなどの解体に取り掛かったのは10月19日。雨の日は休み、腰がひどく痛い日は休み、腰のことを考えて作業時間は1日3~4時間までということにしていることもあり、1日1時間で「腰が・・・」の日もあって作業はなかなか捗らない。
 作業は外側のボロボロのドアの作り直し、壁の修繕などの他、全体の補強(筋交いを足すなど)、中に物を置くための棚作りもあったが、作業に取り掛かってから1ヶ月以上経た11月23日になってやっと外観ができ、中の棚なども概ね形はイメージができた。後は棚を組み立て、塗装の必要な個所は塗装するなど残っているが、それらはそう考えることではない。やっと完成が見えてきた。しかし、それにしても時間かかり過ぎ。
     
     
     
     
     
     
     
     

 物置作りに時間がかかったことを腰痛のせいだけにしたが、じつは、やる気の問題もあった。「よっしゃ、働くぞー!」という元気がなかなか出なかった。もう1つ、脳味噌の問題もあった。設計図を引いている時も、現場で作業していている時も良いアイデアがなかなか浮かばない。「これでいいか」と思ってノコを挽いたり、釘を打ったりするが、後でそれらが「よくなかった」と判明し、やり直しとなることがしばしばあった。そういうことが何度かあった後は慎重になって、私の仕事はのろまな仕事となってしまった。
 さらにもう1つ、お金をなるべくかけないようにしようと決め、修繕の材料は物置の中にあった廃材のような木材や、畑に置いてあった使う当てのない木材、畑に作ってあったあまり役に立っていない棚などを解体した材料を利用した。材木屋で材木を買えばたいていは設計図通りの寸法に切るだけでいい。であるが、廃材の場合は寸足らずがほとんどななので、継ぎ足し継ぎ足しして設計図通りの寸法にしなければならない、これが面倒。
 「これをこっちに使ったらあっちの分が無い、これはあっちに使ってあれをこっちに使うか」などと考えることがいっぱい。ということもあって時間がかかった。

 そして、外観が完成してから2日後の11月25日、内部も一応の完成を見る。翌26日、車に載せっ放しだったあれこれの道具を物置に収め、物置作り作業はやっと終了。
 「この程度、腰が元気なら1日3~4時間の作業であっても1週間程度で終わる仕事だったんだがなぁ」と、腰をさすりながら少し溜息し、完成したことを静かに喜ぶ。
 苦労した物置作り、この先2度と畑仕事ができず、畑道具は利用されることなく無駄になるかもしれない。しかし、「いつか腰は治る、治ったら畑しよう」という夢は持ち続けていこうと思っている。それがきっと生きる力になる、・・・はず。
     
     
     

 記:2018.11.27 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


夢が夢で無いお年頃

2018年11月19日 | ガジ丸のお話

 十数年ぶりの同窓会があって参加した。青春していた昔の男子女子が多く集まって賑やかであった。立食形式のパーティー、小食の私は食べているより、昔可愛かった女子たちと話している時間を楽しんだ。飲兵衛の私は、昔可愛かった女子たちと話をしながらも手からグラスの離れる時間はほとんどなく、グラスを口に運ぶことも途切れなかった。
 昔可愛かった女子はたくさんいる。私の母校は女子が多く、その中には可愛い子も多くいた。今思い出して数えてみても手の指全部、足の指全部足しても足りないくらい。そんな彼女たちもオバサンになっていたが、それでもまだきれいな人が何人もいた。
 今でもきれいな人の何人かとおしゃべりして、それぞれが幸せな結婚生活をしていることを聞き、少し残念な思いをしつつも祝福し、「幸せだから良い顔、良い表情をしているのかもしれないなぁ」と感じた。「俺は良い顔してるかなぁ」と反省する。
 そんな時、声を掛けられた。振り向くと今でもきれいな人の中でもその上位に入る人であった。「○○くん、元気そうね。」と輝くような笑顔を見せる。きれいな人の中でもその上位に入る人なんだけど、私は何と、彼女の名前を思い出せなかった。
 「ごめん、名前が思い出せない、誰だっけ?」とバカな私は正直に訊く。彼女はそれには答えずニッコリ笑って、「じゃあまたね」と言い残し去って行った。
 「あんな美人忘れるなんて、確か1年の時、同じクラスだったぜ」と彼女の後ろ姿を眺めつつ思ったのだが、まだ思い出せない。その後も気になって彼女の姿を目で追うが、どこにいても彼女は輝いていて、すぐに見つけられた。でも、彼女はこっちを見ない。
 そして私は、「あー、名前を言えて、ハグするなどもっと上手く対応していたら、お持ち帰りできていたかもしれない」と遠くのオーラを見ながら後悔していた。
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 10月中旬(11日)頃から南国沖縄も涼しくなった。で、掛け布団(夏用の薄手の)を出した。時々暑くなってびっしょり汗をかく日もあったが、概ねはそれでちょうど良いくらいとなり、夜は、もう死んでもいいと思うくらい気持ち良く眠れている。
 夜中3~4回小便で起きるという酷かった頻尿も徐々に良くなって、10月に入ると夜中1~2回がほとんどとなり、5~7時間ぐっすり睡眠というのも5~6回あった。11月に入るとさらに良くなって、今日(18日)まで6時間以上の連続ぐっすり睡眠は6日あり、夜中2~3回小便という日も数日あったが、それでも寝入りから最初の小便まで4時間ほどはぐっすり眠れている。年寄りは4時間眠れば十分と聞いたことがある。

 頻尿はともかく、夢は良く見ている。腰痛を患う以前はほとんど楽しい夢で、SFファンタジー的奇想天外な夢も時にあり、テレビを観ているより夢を見ている方が楽しいと思っていたくらい。であったが、この1年ばかり、楽しい夢が激減した。
 楽しくないといっても、悲しいとか苦しいとか怖いとかでもない。ただただ現実的で、宇宙人が出てくることはなく、有名人が出てくることも減り、家族親戚、友人知人たちが出てくる日常生活の夢、「何やってんの!」と叱られたりするが、怖くはない。
 最近は、高校時代の同級生たちが夢の中に良く出てくる。たまには良い夢もあるが、たいていは上記の通り寂しさを味わったり、後悔したりするという楽しくない夢。

 年寄りは4時間眠れば十分というのは、年寄りは身体が疲れるほど動かない、疲れていないからたくさん眠る必要はない、ということのようである。眠っている時の夢が楽しくないというのもそれと似たようなことだろうか?疲れていないから心癒すようなドキドキワクワクし、楽しく愉快で、空を飛ぶような夢を見なくなったのかもしれない。
 年寄りの夢は「将来こうなりたい、こんなことやりたい、こんなことあったらいいな」といったような夢(希望)ではなく、現実の不安や不満を映す妄想に過ぎないのかもしれない。「夜に見る夢」が「叶えたいと願う夢」では無くなったお年頃のようである。
     

 記:2018.11.18 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


酷使の代償

2018年10月31日 | ガジ丸のお話

 2010年1月、若者が1人我が家にやってきて私の仕事を手伝ってくれるようになった。彼は前任のミスターXに比べずっと優秀で、彼のお陰で私の仕事も随分はかどるようになった。しかし、仕事がはかどるということに私は甘えたかもしれない。私は、そう意識はしていなかったが、彼を酷使したみたいであった。数年後、彼は倒れた。
 それでも、優秀な彼はすぐに立ち直った。視力をほぼ失うという後遺症を残したが、極端に度の強い眼鏡を掛けることによって視力を補い、依然とほぼ変わりない仕事をこなした。ただ、彼は外回りがきつくなった。そこで2015年5月、週一のパートであるが、さらに優秀な若者を雇った。前の若者をウルトラ7、新人の若者をエイトマンと仮に呼んでおく。ウルトラ7が作り上げた仕事をエイトマンが納品するという形になった。
 週一とはいえ納品の仕事をエイトマンがやってくれているお陰で、ウルトラ7も病を抱えながら何とか頑張ってきた。そんな2人の才能と努力のお陰で仕事はこの春からさらに忙しくなり、私は忙しいということに有頂天になり、ウルトラ7の体調のことをすっかり忘れていた。そして2018年10月25日のこと、

 その日、朝は普通に働いていた。2時間ほども働いた10時頃から彼の動きが少し鈍くなった。そう感じつつもそのまま午前中は働かせる。お昼後はしばらく休ませて、夕方からまた働かせる。その時は初めから彼の調子が「いつもと違う」と何となく感じていた。そして夜8時過ぎ、ウルトラ7は再び倒れた。その日はいつもより少し負担の大きい仕事だったかもしれないと後悔しつつ、その夜はとにかく安静にする。そして、翌朝からあれこれ手当を試みたが彼は目を覚まさない。そして2日後、彼はついに・・・。
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 2010年1月に購入し、2014年5月に画面が映らなくなったノートパソコン7、画面を外付けのディスプレイにして、以降もずっと使い続けていたが、2018年10月25日の夜、ついに、外付けディスプレイへ信号を送ることも不能になった。
 翌26日、朝から数時間その修復を試みるが、ダメ。その翌朝も1時間ほど最後の抵抗を試みるがやっぱりダメ。そこで私も諦める。日常のデータ、ホームページやブログのデータなどのほとんどはUSBメモリーに保管はしているが、一部、過去の写真のスキャンしたデータなどは壊れたパソコンのハードディスクに収めてあった。そして、日常使う頻度の多いソフト、ウィンドウズ10では動かないソフトのいくつかも入っていた。
 失った写真、使うことのできなくなったソフトについては勿体ない、惜しい、残念と思う。でもまあ、しょうがないと諦める。これまで多くの想い出を断捨離してきたんだからその程度はと諦める。いやいや、多く断捨離してきて、それでもなお、これはちょっとと断捨離しがたいものをパソコンに残したのだ、よーく考えてもやはり惜しい。
 それでもやはり諦めなければならない。もはや残り少なくなった人生、やっちまったことをクヨクヨして嫌な気分でいる時間の方がよほど勿体ない。
     

 2015年10月にノートパソコン(ウィンドウズ8)を購入し、それはインターネットのできる親戚の事務所に置かせてもらって、ブログのアップ用に使っていた。壊れたノートパソコン7は処分することにしてそのノートパソコン8を部屋に置く。それで日常の作業は問題ない、私がパソコンを開いている時間のほとんどはインターネットとは関係のない作業である。作文したり、写真整理加工したり、最近は薬草表作りにも多くの時間を使っている。私が使っているソフトはワード、エクセル、メモ帳がほとんど。後は画像加工ソフト、ホームページ関連、携帯(ガラケー)関連ソフトなど。
 ただ、困ったことに、W7で使っていたソフトがW8は動かないというものがいくつかあった。その代替ソフトを探してインストールしたり、使い方を勉強したりと私の頭はそれからの数日間てんてこ舞いとなる。これでは優秀な若者を雇っても使いこなせないであろう。脳味噌が新しいものに適応できない、これも老化か?あー、頭痛ぇ!
     

 記:2018.10.31 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


守礼の邦の政治家

2018年10月02日 | ガジ丸のお話

 「西へ行こうか北へ行こうか、どうしようかな?」と迷っていたらしき台風24号であったが、「よし、決めた」と、急に向きを変え宮古諸島を暴風圏に巻き込みつつ、沖縄諸島も直撃した。沖縄島は9月29日(土曜)未明から翌日曜日未明まで約24時間もの間暴風圏内にあった。台風24号は台風銀座と呼ばれている沖縄でも滅多にない本格的猛烈台風で、しかも、長時間暴風を吹き荒らし、多くの被害を与えた。
 久々の猛烈嵐の中、日曜日は沖縄県知事選、及び宜野湾市長選の投票があった。台風襲来が予想されたので、自治体によっては繰り上げ投票となり、そうでないところでも市民の多くが自主的に期日前投票をしたようで、投票率は前回知事選より僅かに下がった程度で済んだ。私も台風を心配し、初めての期日前投票なるものを経験した。
 知事選の結果については、私の支持する政治的立場の候補者が、現職官房長官がわざわざ応援しにくるほどに政府が力を入れた対立候補に大差をつけて勝利し、私としてはめでたしめでたし。であったが、当初はどちらが勝つか分からない接戦との予想だった。

 どちらが勝つか分からない接戦との予想を聞きつつも、私は勝利するであろうと楽観的観測を持っていた。ところが、埼玉から遊びに来ていた友人のKから「ネット上でデマが飛び交っている」と聞いて、数回前の沖縄県知事選挙でのことを思い出す。
 その選挙、大田昌秀氏と相手は誰だったか、稲嶺恵一氏だったか、その時に、大田に対するデマが流布され、従姉のMが怒って、そして心配していた。
 「デマ程度で・・・」と私が言うと、
 「こういうのを気にする人も多いのよ」とのこと。その選挙で大田昌秀は負けた。
 そのことを思い出し、ラジオから聞こえる「接戦」との予想もあり、「もしかしたら」と思う。「いや、ここで負けたら荒れ心臓総理が暴走する。沖縄は日本の危険物置き場となる、玉城デニー氏に何としてでも勝ってもらわなくてはならぬ」と強く願った。
 相手候補を誹謗中傷する、デマを流すなどは卑怯者のすることと私は思うのだが、事務員のM子によると「選挙なんて誹謗中傷合戦さぁ」とのこと。
 そうか、相手方だけでなくこちら側もそうしているのか・・・などということを考えていたら、昔のある出来事を思い出してしまった。長くなるけど以下。

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 もう20年近く前の話、2001年夏のこと。その頃私は首里石嶺にあるボロアパートに一人暮らし、会社に勤めていて、安かったけど一応給料を貰っていて、独身なので勝手に貯金ができ、年に2~3回は旅に出てのんびり生きていた頃。その5年ほど前に人妻に恋して振られ、人妻の2年後には若い美女に振られ、「えーいっ!もういい、俺は女がいなくても1人で生きていけるわい!」と結婚を諦めた頃。2001年の夏はまた、那覇市議選の選挙運動期間中でもあった。その頃書いた友人宛のメールを以下。
     

 投票日の1ヶ月ほど前の日曜日のこと、私は散歩を兼ねながら片道約20分のスーパーまで買物に行った。その途中、1人の爺さんに出会った。電柱があるせいで、人1人がやっと通れる幅しかない歩道で、もちろん私は、紳士の私は、年寄りを大事にする私は、爺さんに道を譲る心構えでいたのだが、爺さんに先を越された。電柱の前で爺さんが、私が通るのを待っていてくれたのだ。「すみません」と爺様に会釈をして、私は恐縮しつつその側を通り過ぎた。爺様は「いや」と帽子に軽く手をあてて、会釈を返した。
 沖縄は伝統的に年寄りを大事にしている。その伝統を私の遺伝子は正しく受け継いでいるので、私に対する爺さんの態度にはとても恐縮し、爺さんの寛大な心に「守礼の邦(琉球国の別称)ここにあり!」と、いたく感激し、幸せな気分になった。
 ところが、その幸せ気分はほんの30秒ほどで消し飛んだ。

 爺様の後にすぐ続いて、1人の中年女性と2人の若い男が並んで歩いてきた。ニコニコしながら歩いてくる3人は、並んでいるので歩道の幅をふさいでいる。当然、並んでいる3人の中の誰か1人が道を譲るであろうと思ったのだが、譲る気配は全く無い。しょうがなく、「まぁいいか俺が譲るか」と、爺様のお陰で気分のいい私は、寛大な気持ちで歩道の端に爪先立ちぐらいの窮屈な格好で立ち3人の通り過ぎるのを待った。「ありがとう」とまではいかなくとも、会釈のひとつくらいは少なくとも期待しつつ待っていた。
 若い男の中の1人が、「よろしくお願いします」と言いながら私にチラシを1枚手渡した。「よろしく」と、中年(遠慮して言っているのだ。私の率直な感覚では初老)の女性が名刺を1枚、私に手渡した。「すみません」も「ありがとう」も会釈も無し。
 チラシを見ると、初老の女は近くに迫った那覇市議選の候補者であった。つまり、公職選挙法では禁止されている公示前の選挙運動をしているのだった。いやいや、公示前の選挙運動ていどの公職選挙法違反に寛大な私が腹を立てるということはない。
 だがよ、オバサン。道を譲った者に対して「ありがとう」の一言も無しに自分の宣伝ばかりしていいのかヨ。守礼の邦の、古き良き伝統を誇りに思おうなんて那覇市議候補のアンタは心の片隅にも無いのかヨ。ゴミ拾いのボランティアならまだしも、選挙違反の運動じゃねぇか。そこのけそこのけという態度で、「よろしくお願いします」もなにもないもんだ。お願いされたって、知るか!つーんだ。と、私はいたく憤慨したので、今度の市議選、このオバサンだけにはぜーーーったい入れねぇぞ!と決めたのだった。
     

 半分程度端折った(それでも長いなぁ)が、以上がその時のメールの概ねの内容。
 そのメールの続きには結果として、「私はうっかりそのオバサンに投票して(政党で選んだので)おり、しかも、そのオバサンはトップ当選だった」とある。残念。
 その昔は守礼の邦と呼ばれた琉球、沖縄と名を変えて「守礼」も忘れ去られたのかもしれないが、今時の政治家に実直、真面目、正直を求めても、「正直にやっていては選挙に勝てねぇよ」となるのかもしれないが、沖縄の政治家には庶民の代表として庶民の模範となるような行動をして欲しいもの。瀬長亀次郎みたいな政治家を模範として。
 そういえば、昔の日本の、自民党社会党の時代には質実剛健という形容が似合う人もいたような気がする。実直、真面目、正直を身に着けた侍みたいな人、相手の誹謗中傷などはせず、正々堂々と自分の考えを主張する人、今はいないのかな?
     
     
 大きな被害を与えた台風24号が去って、台風の後始末も何とか済ませた・・・かと思ったら台風25号発生のニュース、しかも24号と同じような進路予想とのこと。台風に守礼を望むものではないが、「手加減してよ」と祈らざるを得ない。ホント。

 記:2018.10.2 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


自殺する者たち

2018年09月07日 | ガジ丸のお話

 先日、久々(1週間ぶりくらい)に畑へ行った。後を継いでくれたGさんは相変わらず本業が忙しいようで、畑は雑草が蔓延っていた。でも、一部には堆肥が運ばれていて、水掛け用の発電機やポンプが設置されていて、少しずつは前に進んでいるようである。

 畑の水タンクの前には私が使っていたバケツやタライが今もそのまま残っている。私が腰痛を患う前、元気に畑仕事をしていた頃、それらにはたいてい水が溜まっていて、その中にはたびたびカエルや虫の類が溺れていた。自殺する心境になるほど彼らの精神が発達しているとは思えないので入水自殺ではない。たまたま飛び降りた所がバケツやタライの水面で、そこから抜け出せずに溺れてしまったということなのであろう。
     
     

 入水自殺ということからカワラを連想した。カワラは河原のカワラ。
 畑には番鳥がいた。他の鳥が畑にやってくると追っ払ってくれる鳥。なので番鳥とし、それに敬意を表し、彼に河原万砂(かわらばんさ)と名前もつけた。彼がいる時は、彼より何倍も大きなカラスでさえ畑には入ってこなかった。
 河原万砂は、種類としてはイソヒヨドリという種。方言名でカーラバンサー、瓦の番をするものという意。たいていは屋根(瓦)の上で辺りを見渡すようにしているのでその名がある。畑をやっていた数年の間、私は彼の世話になっていた。
 ということで、最近は、カワラというと彼のことが先ず頭に浮かぶのだが、彼と出会う前で言えば、「俺は河原の枯れすすき・・・」と始まる古い流行歌『船頭小唄』が浮かんだであろう。私が生まれるずっと前の歌謡曲だが、何故だか覚えている。

 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき

 と、私が記憶している限りであるが、唄は続く。「この世では花が咲かない」から一緒にあの世へ行こうと、心中を予感させて淋しい気分になる唄。バケツの水の中で死んでいるカエルや虫たちを見て、『船頭小唄』が頭に浮かんだというわけ。
     
     

 沖縄県の自殺者率は、全国のランキングで女性はずっと低いらしいが、男性は全国の上位とのこと。「えっ、何で?南の島なのに」と、そのニュースを聞いた時、私は思った。南の島の空気はのんびりしているし、そこに住む人々も概ねはケセラセラで生きているはずだと思っていた。であるが、もう少し突っ込んで考えてみると、
 「のんびりしている、テーゲー(大概:いいかげん)やらナンクルナイサ(なるようになるさ)気分で生きている」ということは、「生きることに執着が無い」と言えるかもしれない。「ダメなら死ねばいいさ」と気軽に考えているのかもしれない。あるいは、沖縄の男性は根性無しが多いので、面倒なことが我が身に降りかかった時に「何くそ、負けてたまるか」とは思わず、「生きるのって面倒だなぁ」と思うのかもしれない。
 そして、『船頭小唄』のような心中は、沖縄では無いかもしれない。男が「一緒に死のう」と言っても、女は「何でよ、嫌よそんなの、私まだやりたいことあるし、死ぬなら1人で死んでよ、そしたら私、次の恋人を見つけるさぁ」なんてことになりそう。
     
     

 生きるということは戦って勝ちぬくことである。今生きているということはつまり、これまで勝ってきて、今も勝っているということである。少なくとも負けてはいない。平和主義者の私は争い事が嫌いで、そのような状況になることは避けており、肉体的暴力による戦いは全く無く、言葉での暴力もほとんど無い。それでも、この世の生命たちが日夜競っている生存競争には勝ち続け、今も生存している。これからも、天命が許す限りはのんびりと、テーゲー(大概:適当にという意)気分で生きていくであろう。

 実は先日、30年ほど前までは住まいが近かったこともあってしばしば会っていた親戚の姉さん、彼女の娘の1人が自殺したという話を聞いた。顔は覚えていないがしっかりした娘さんであったと記憶している。夫のDVが原因ではないかとその時聞いた。
 根性無しの沖縄男は、自身の不安や不満を解消するのに自殺を選ぶか、あるいは妻のいる男は妻へのDVで気を晴らすのかもしれない。バーカと思う。他人を死に追いやるくらいならテメェが死んじまえと思う。それで沖縄男の自殺者が増えたっていいさ。
 親戚の姉さん、Yさんというが、彼女自身は十数年も前に身障者となり車椅子の生活をしている。娘を助けることができなかった彼女の無念を想うと心痛くなる。

 記:2016.9.6 ガジ丸 →ガジ丸の生活目次