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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

城巡りの旅2014東海

2014年10月31日 | ガジ丸の旅日記

 1、序章
 母が死に、父が死んだ後、二人が苦労の末残した家屋敷を不詳の息子は失くした。父方の伯母1人と母方の叔父2人がまだ存命で、沖縄在の叔父の一人はそのいきさつを知っているが、伯母ともう一人の叔父にちゃんと説明しようと、先月、二人を訪ねた。
 叔父Tは東京、伯母Tは岐阜に住んでいる。東京在の友人Iが9月27日に国立で結婚披露パーティーを開くというので、それにもついでに参加するとして、府中に住んでいる伯母Tの息子(私の従兄)Hにも会うことにし、東京から岐阜の流れ旅。

 旅こそ人生と思うくらい旅好きな私が、今回は「2006年秋北海道の旅」以来約8年ぶりの県外脱出。久しぶりのことなので、用件だけの旅でなく、他にも何かテーマを設けてたっぷり旅を楽しもうと考え、計画した。東京から岐阜、何がある?
 中央線で行くか、東海道線で行くか考えていたら、ふと思いついた。「そうだ、つわものどもが夢の跡を偲ぶ旅にしよう」と。つわものどもが夢の跡、城巡りだ。
 中央線なら長野に国宝松本城、真田幸村の上田城などあるが、松本城は昔、25年ほど前だったかに行った覚えがある。東海道線を見ると、そこはさすがに戦国の世の中心地らしく、たくさんの名城があった。で、東海道にしようと計画を立てた。

 東京在中は従兄Hの住む府中に宿を取っていた。府中本町駅から関ヶ原までの乗車券を購入し、途中下車しながら、駿府城、掛川城、浜松城、岡崎城、岐阜城、犬山城、名古屋城などを訪ね、人は何故殺し合いを望んだのか?もついでに考えてみようと出発。

 2、駿府城
 9月28日、朝8時頃、府中本町駅を出て乗換乗換(鉄道に慣れないウチナーンチュには面倒な作業)しながら、静岡駅に着いたのはお昼前。駅にある観光案内所へ行き、駿府城の場所を訊く。「駿府城は県庁の傍です。県庁舎の隣に展望室のある建物があるので、そこへも上がってみるといいです」と助言を頂いた。
 駅から静岡県庁は徒歩圏内、旅の荷物を背負ったまま歩いて行く。周りの景色を眺めながらほどなく県庁へ着く。県庁の扉が面白い。戦国の城門のよう、写真を撮る。
 観光案内所のお勧めであった展望室へも 上る。そこから駿府城公園が見渡せた。城(本丸とか天守閣とか)は無かった。駿府城と言えば徳川家康の居城という知識は持っていたが、詳細は知らない。駿府城公園の説明文によると、豊臣秀吉によって関東に移封される前と将軍職を秀忠に譲って隠居した後、家康は駿府城を居城としたようである。
          

 駿府城公園、広くゆったりとした雰囲気の公園で、季節に咲く花を眺めたり、のんびり風を感じたりするには良い公園だと思ったが、私の興味を引くものは特に無かった。公園の中央辺りに徳川家康の銅像があった。家康、徳川300年太平の世を築いた偉い人。自らは節制して粗食だったらしいが、銅像は「ホントに粗食?」の体型をしていた。
          

 3、掛川城
 駿府城公園をぶらぶらして1時過ぎにはそこを出て、静岡駅から掛川駅へ、掛川城も駅から徒歩圏内、しかも1本道、旅の荷物を担いで歩いて行く。
 掛川城について私は何の知識もない。掛川城公園の説明文によると、元は今川氏の管轄で、それが徳川になり、豊臣となる。豊臣の頃、城主は山内一豊だったそうだ。
 山内一豊といえば『山内一豊の妻』がすぐに思い浮かぶ。山内一豊は信長、秀吉、家康に仕えているが、徳川家康の時代になってから土佐の領主になる。そういえば、2006年春の旅で高知を訪れた際、高知城 を私は見学している。その頃、NHKの大河ドラマも一豊夫婦の話だったように記憶している。掛川城の城内に入り、天守閣を眺めながら「そうか、秀吉の時代は、一豊夫婦はここにいたのか」と思った。感想はそれだけ。
          

 9月28日は運悪く(なんて、旅の計画を立てた当初から分かっていたこと)日曜日にあたっていた。駅から掛川城へ向かう道の途中から車道は歩行者天国になっており、何かの祭りがあるということに気付いていたが、掛川城公園がそのメイン会場となっているみたいで、公園には人がわんさかいた。人ゴミを私は苦手にしているので、公園散策は諦める。掛川城はその天守閣を見て、山内一豊を思い出しただけで終わった。
          

 4、浜松城
 掛川駅から電車に乗り磐田駅で降りた。磐田に何か観るもの、城とか古跡とかがあったわけじゃない。旅の計画を立てている時、磐田に住む才媛K子に「会える?」メールを送った。その中に「松本も考えたけど、静岡にも名城があるではないかと思い直し東海道の旅にした・・・静岡には名嬢もいるし」と書いた。私はそういうことを平気で言える(書ける)。美人には美人と言う、本当のことだからしょうがないという気分。ただし、そうでない女性に「そうでない」と言う ことは無い。話が浜松城から逸れているが、名嬢K子から「会えますよ」と返事があったので、そういうわけで磐田泊。
          

 9月29日、それまで溜まった洗濯物などを駅前のコンビニで貰った段ボール箱に詰めて、それをコンビニから宅配で自宅宛に送って、少しのんびりして、磐田駅から電車に乗って浜松駅で下りる。浜松城も駅から徒歩圏内、軽くなった旅の荷物を背負って歩く。
 浜松城公園へ着いたのは9時半頃。木の上からツクツクボウシの鳴き声が聞こえ、 ギャッといった獣の鳴き声も聞こえた。声の方向を見るとリスであった。リスはたくさんいて枝から枝を飛び、地面を走り回り、木の幹を登っていた。沖縄にはいない哺乳類、じっと立って、近付くのを待って写真を撮った。そんなんで私は時間を費やす。
 駿府城にあったものと似た徳川家康の銅像があった、これは若き日の家康で精悍な体つき。天守閣も見た。風情のある造りのトイレに感心する。公園内のベンチの傍に灰皿が備えられているのにも感心する。倭国の禁煙包囲網は強力になっており、ホテルの喫煙可の部屋以外でタバコを吸える場所がなかなか見つからなかっただけに、一安心。感想はこれだけ、浜松城公園はそう広く無くて、1時間で散策を終えた。
          

 5、岐阜城
 浜松駅から伯母の住む関ヶ原へ向かう。11時過ぎには浜松駅を出たと思うが、電車に慣れないウチナーンチュは乗換を間違えたりして、関ヶ原に着いたのは2時過ぎ。
 伯母の家で、伯母と、伯母の面倒を見ている従姉の歓待を受け、幸せ気分になってその夜は岐阜駅近くのホテル泊。従姉が持たせてくれた愛情弁当を肴に部屋飲みする。

 9月30日、ホテルを7時半にはチェックアウトし、岐阜城までのアクセスをホテルの人に聞いて、その助言通り駅前からバスに乗る。ところが、沖縄でもバスを利用することはほとんど無く、バスに慣れない私は乗るバスを間違えて、目的地の途中で降りなければならず、そこから歩いた。距離としては駅から目的地までの中間くらいであった。
  地図を見ながら、なるべく小さな道を歩く。小さな道には大通りには無いその土地に暮らす人々の、生活の匂いのする街並みがある。庭の植物にも私は興味がある。
 しばらく歩くと寺が見えた。神社も見えた。さらに寺、さらに神社、神社仏閣は山(金華山)の麓にいくつもあった。「何でこんないっぱい?」と考える。戦国時代、死者を多く出した場所だからだろうか?元々この辺りの人は信心深い人が多いのだろうか?後でホテルの人か観光案内所で尋ねよう、と思ったが、それは忘れてしまった。
          

  金華山という名の山は宮城県にもあるらしいが、私としては岐阜県の金華山が有名。別称の稲葉山は戦国時代を舞台にし、織田信長が出てくる時代小説やテレビドラマに出てきて有名。私がよく覚えているのは司馬遼太郎の『国盗り物語』、油売りから一国の主となった斎藤道三、その娘のお市、お市の亭主となる織田信長など、若い頃に読んだせいか、お市が美女であった、稲葉山の領主となった道三は家督を譲った息子に殺される。その後に稲葉山を奪い取ったのが信長、などといったことを記憶している。
          

  金華山の標高は329mとのこと。その途中までロープウェーで登り、そこから頂上へ向かう。歩いている間、多くの人に出会う。多くの人のほとんどはご年配の方々で、概ね皆ハイキングスタイル(ジャージなど)で、健康ウォーキングだと思われた。すれ違うたびに「おはようございます」と挨拶される。私も挨拶を返す。
 頂上に着くと、20~30名ばかりの人がベンチなどに座って歓談していた。岐阜城はというと、あるにはあった。でも、思いの外小さくて、そこから斎藤道三、織田信長の姿はイメージできなかった。頂上の傍に茶屋があり、そこの展望台で岐阜の景色を眺める。数日前に噴火した御岳山の方向は岐阜城に隠れて見えなかった。
 一人静かに山道散策もできそうに無いので早々に引き上げ、岐阜駅から犬山へ。
          

 6、犬山城
 名鉄犬山公園駅へ降り立ったのは12時過ぎ、荷物を背負って歩いて犬山城へ向かう。途中から長良川の川沿いの道となる。長良川は鵜飼いで有名、有名なカワウを見つけ写真を撮る。そのカワウはアユではなく、カメの尻尾を突っついていた。
  カワウだけでなく、他の動物の写真、植物の写真を撮りながらのんびり歩いて、犬山城公園へ着いたのは午後1時頃。公園入口から既に犬山城が見える。それまで4つの城を見てきたが、初めて「良い雰囲気を持っている、きれいな城だ」と感じた。
          

 犬山城、実は私は、今回の旅の計画を練る前まではその名前さえ知らなかった。名前も知らなかったので国宝であることも知らなかった。国宝に指定されている城は犬山城の他に松本城、彦根城、姫路城の4城があり、その中でも最も古い城ということである。
  城門をくぐるとすぐに天守が見える。その景色ですぐに「美しい、凛としている、威風堂々、風情がある、見事!さすが国宝。」などと感じる。「その中でも最も古い城」は中に入っても良い雰囲気を持っており、ボーっとしていることの好きな私であれば、ここで半日はボーっとしていられそうな良い気を感じた。周りに人が少なければそうしたかもしれないが、あいにく客は多くいて、そう長くはいられなかった。
 犬山城の説明文を読むと、特に有名な武将が城主になったということは無く、歴史的には、秀吉と家康が闘った小牧長久手合戦 で、秀吉がこの城に陣を置いたということがあるくらいで、そういうわけで歴史小説などでもあまり名前が出てこないのだろう。
          

 犬山城を見学し終わって、そこから犬山駅まで歩く。その城下町の雰囲気もまあまあ良かった。そのような街造りをしているのであろうが、いかにも江戸時代の城下町といった雰囲気、八重山の竹富島も景観に制限を設け、いかにも昔の沖縄の雰囲気を演出しているが、犬山の城下町もそのようにして景観造りをしているのかもしれない。
          

 7、名古屋城
 10月1日、沖縄へ帰る日、飛行機は12時40分発、11時半に名古屋国際空港へ着くように電車の時間など計算して、朝早くホテルで朝食を摂り、チェックアウトして、名鉄駅の近くのコインロッカーに荷物の大方を預け、小さなバッグにカメラなどを入れて名古屋城へ向かう。ホテルの人に教わった通り地下鉄に乗って。

  名古屋城へは8時半頃着く。城内への入場は9時からということだったので、先に隣接する名城公園を散策することにした。名古屋城と名城公園との間には川が流れており、その川沿いをのんびりと歩いた。川にはカルガモが数羽見えた、アオサギが数羽見えた。知らない大きな鳥(後日調べてコブハクチョウと判明)が1羽見えた。それぞれの写真を撮り、川の向こうにそびえ立つ名古屋城の写真も撮る。
 名古屋城といえば有名な金のシャチホコ、屋根の上に乗っかっているのが遠くからでも見えたが、金色かどうかについては判断できなかった。家康が天下を獲った後、その命によって造られた城だけに、遠景からでもその外観は立派できれいだと感じた。
          

  川沿いの、名古屋城が見えるベンチに腰掛けてしばし休憩。その時、カラスの大群が近くで騒いだ。何事かと見ると、爺さん(またはオッサン)がカラスに餌をあげていた。ただでさえ煩いカラスに「何で餌をあげるの?」と理解できず、しばらくその爺さん(またはオッサン)の行動を見ていたが、彼は餌を投げ終えると自転車に乗ってさっとその場を離れた。野良猫に餌をあげる人と同じような心境なんだろうか?
 そんなこんなもありながら、動植物の写真をあれこれ撮りながら名城公園を散策している内に11時になる。ここから空港への時間を考えると、もう空港へ向かわなければならない時間を過ぎている。目的だった名古屋城見学は諦めて地下鉄の駅へ向かった。
          

 8、付録
 駿府城、掛川城、浜松城、岡崎城、岐阜城、犬山城、名古屋城を訪ねる予定が、時間の都合で岡崎城は行けなかった。東京から岐阜の間にはその他、神奈川県の小田原城、愛知県の清州城、岐阜県の郡上八幡城、大垣城などがあり、もう少し西へ進むと滋賀県の長浜城、清州城、三重県には津城、伊賀上野城がある。「群雄割拠していたんだなぁ」とつくづく思う。時間的経済的余裕があれば、それらも訪ねたいと思ったのだが・・・。

 中東のテロ組織に参加する外国人がいるらしい。日本人にもそういう人がいるらしい。戦争がしたいと思っている人が世の中には少なからずいるようだ。「殺し合い」、平和大好きの私としては何が何でも避けたいこと。しかし、戦争はあったし、今もある。
 城巡りをして、ついでに{何故、人は殺し合いをしたがるのか?」も考察してみようと思ったが、考えはまとまらない。戦うことが人の本能に含まれている、生きるか死ぬかという状況が好き、人を殺すのが好きといった本能もあるかもしれない。
 それはともかく、日本の城は見た目に美しい。そこから戦争は、私はあまりイメージできなかった。城は軍事基地だったかもしれないが、役所でもあったし。

 今回訪ねた各城の、それぞれの公園案内板の写真を撮ったので以下に付録とする。ただし、岐阜城は金華山ハイキングコース、犬山城は犬山市の観光マップ。

          
          
          
          
          
          

  記:2014.10.29 ガジ丸 →ガジ丸の旅日記目次


東京岐阜お詫び行脚の旅その2-静岡~岐阜編

2014年10月24日 | ガジ丸の旅日記

 9、襟裳岬か?
 旅の計画を練っている時、静岡のK女史に「会える?」とメールしたら、「夕方からなら大丈夫」と返事があり、「ホテルは浜松がいいです」との助言もあった。その助言を磐田にはホテルが少ないんだろうなと私は受取った。ネットで探すと磐田にも少ないながらホテルはあり、運良く空いていて予約ができた。そのことをK女史にメールすると、「ホテルのことでは無く、食事するところが多いので浜松を勧めたんです」とのこと。
          

  9月28日、府中本町駅から関ヶ原までの乗車券を買い、乗継乗継(鉄道に慣れないウチナーンチュには面倒臭い)して静岡駅で途中下車。駿府城を見学し、掛川駅で途中下車し、掛川城を見学し、磐田駅で降りる。掛川城公園で祭りをやっており、日曜日ということもあって人が多く、人ごみの嫌いな私は掛川城見学をさっと済ませたため、磐田には予定より1時間余も早く、4時には着いてしまった。K女史との約束の時間は6時、2時間も余裕がある。ホテルにチェックインして荷物を軽くして駅周辺の散策に出る。
 しばらく歩いて、森進一が歌った「襟裳岬」が口から出た。歌詞の「なにもーなーいー春ーですー」が思い浮かんだのだ。何も無い、ことは無い。建物も道路も信号機もあり、車が走っていて人も歩いている。が、観光客が見るべきもの、観光客が入りたくなる店が無い。コンビニは駅前にあったが、スーパーマーケットが無い。
  6時になってホテルで待っていたら、約束通りK女史が迎えに来た。「退屈したでしょう?磐田は見るところ無いんですよ」と申し訳なさそうに言う。「うん、確かに。襟裳岬を口ずさみながら歩いたよ、何もー無ーいーってやつ」と答えたら、彼女も笑った。

 彼女が案内してくれた料理屋へ入り、ビールを飲み、彼女が勧めてくれた料理を食べ、その料理があんまり美味しいので日本酒を飲み、途中から彼女の友人M女史も加わって愉快な時間を過ごした。で、思った。磐田は襟裳岬では無い。何も無いことは決して無い。美味しい料理がある。旨い酒がある。そして何よりイイ女がいた。
          

 10、オバサンになっても
 静岡県磐田に住む友人K女史と初めて会ったのは20年ほど前のこと。その頃から彼女は化粧っけの薄い人であった。「見た目より中身」と男気質の持ち主かと思いきや、茶道をやり、着物も好きという女性らしさも持ち合わせている。何より美人である。すっぴんでも十分魅力的な顔立ちで、背も170センチ近くあり、すらっとして、腰のくびれもある。胸は、そういえばマジマジと観察したことないが、たぶん目立たない。
  それから数年後に会った時は、彼女の髪に白いものが混ざっていた。「染めないの?」と訊くと、「いいんです」と、いくらかムッとしたようなトーンで答えた。いいんです、これが私です、どこが悪いの?と言いたかったのかもしれない。見上げた女と、私は「好き」を通り越して、彼女を尊敬するようになった。

 今回会った時、彼女はその前、10年ほど前だったかに会った時よりも若く見えた。鈍感な私でもすぐに気付いた。彼女は白髪を染めていた。彼女は中期オバサン、もうすぐ後期オバサンという年齢である。でも、それよりずっと若く見えた。
 ガジ丸通信10月24日付の記事『アンチアンチエイジング』にも書いたが、見た目に若いということよりも、私は彼女の元気さや感性の柔軟さ、それらを若さと呼んでも良いのだが、それが好きである。オバサンになっても魅力的なのである。
          

 11、金の稲穂
 9月29日、磐田駅を出て、浜松駅で途中下車、浜松城を見学し、浜松駅から伯母の住む関ヶ原へ向かう。関ヶ原の手前の駅(名前は忘れた)から、車窓の向こうに金の稲穂が見えた。たわわに実った稲穂が金色に輝いている景色、見たかった景色。
 私の好きなシンガーソングライター鈴木亜紀の作品『海が見えるよ』の一節に、「金の稲穂の向こう・・・」とあり、見たいと思っていたが、米の田んぼの少ない沖縄ではあまり見られない景色だ。米の田んぼは伊是名島や八重山のどこかで見てはいるが、時期が稲刈りの時期では無く、金の稲穂は見ていない。輝く稲穂、今回車窓から見た。

  関ヶ原に着いたら、金の稲穂の写真を撮ろうと思ったが、駅を下りて伯母の家に向かって歩いている間にそれは無かった。伯母の家に着いて、一通り「家屋敷を不詳の息子は失くした」関連の話を済ませ、伯母の「早う結婚せんかい」攻撃を「私、草刈が大好きなんですという女がいたら結婚してもいいけど」でかわしながら、「来る途中、稲穂が見えたけど、この辺りならどこに行けば見える?」と訊いた。「この辺りはもう稲刈りは済んでしまったわ」とのことであった。残念、車窓からでも撮っておけば良かった。
 ちなみに、「私、草刈が大好きなんですという女がいたら結婚してもいいけど」に伯母は、「そんなモンおらんわ、我儘言わんと早う探さんかい」と再攻撃した。それには「世の中広いんだから、もしかしたらそんな女いるかもよ」とかわした。
          

 12、長生きの目標
 伯母Tは去年脚を怪我して、今少しビッコ(差別用語だったっけ?)をひいているが、数年前までは田んぼも畑もやっていた。田んぼで米を、畑で野菜を作っていた。その田んぼも畑も今は草ボーボーで、たまにシルバーに頼んで草刈しているだけとなっているらしい。休耕地となっていることは以前に伯母の息子である府中の従兄Hから聞いていた。それで、今回伯母に会ったら、ちょっと相談してみようと思うことがあった。
  「米作りを覚えたい」と私は数年前から何となく望んでいた。何となくと言うか、日本酒を米から自産したいという陰謀を企んでいた。で、「今の畑が順調に生産できるようになってから、たぶん2~3年後になると思うけど、米作りを覚えたいので、伯母さんの田んぼを使わせてくれないか?」と頼んだ。答えは「もちろん喜んで」だった。

 「今年11月29日は父(伯母の夫)の13回忌になる、親戚十数人集まって、法要を行い、その夜は宴会する予定。参加して」といった内容のメールを数ヶ月前に府中に住む従兄Hからもらっていた。その日、伯母からも「来月29日はJ(伯母の夫の名)の13回忌があるから来なさいよ」と別れ際言われた。「貧乏農夫だから、そうしょっちゅうは旅できないよ」とやんわり断り、「でも2、3年後には米作りを教わりに来るから、それまで元気でね」と言い、従姉が作ってくれた大量の弁当を入れて重くなったバッグを担いで、手を振った。もう80半ばを過ぎている伯母、家屋敷を失くした甲斐性無しの甥に米作りを教えることを、長生きの目標にして欲しい。
          

 13、癒しの弁当
 関ヶ原の伯母の家に着いたのは、鉄道に慣れないウチナーンチュが電車の乗り換えに手間取って、予定より1時間余遅れた午後2時頃。家に入ると早速大盛のカレーライスを御馳走になり、お菓子やヨーグルトを御馳走になり、茶碗蒸しまで御馳走になった。私は小食なのでそう多くは食えないのだが、伯母の世話をしている従姉のE子は料理上手で、どれも美味しく頂いた。小食の胃袋が完食した。心温まるもてなしであった。

  話したかったことを話し終え、出された料理を食べ終えて、近所の散策に出た。目的は伯母の田畑を見ること。「片道30分程度」と道順を聞き、とことこ出かける。途中の所々で立ち止まって、いつものように植物の写真を撮りつつ歩いていたら、古戦場らしき場所が目に入った。近付いて看板を見ると「桃配山」とあり、関ヶ原合戦の際、徳川家康が最初に陣を構えた場所とあった。さらに進むと、旧中山道があり、関ヶ原宿という看板もあった。「歴史の町なんだ」と改めて認識する。
 そうこうしている内に、伯母と従姉に「4時頃までには戻る」と約束した時間になる。目的だった伯母の田畑はとうに通り過ぎてしまったようだ。慌てて引き返す。
          

 伯母の家に近付くと、伯母と従姉が外に出てこっちを見ていた。「長く帰ってこないから心配したよー」と2人が口を揃えて言う。心配かけてしまったようだ、申し訳ない。「桃配山という所を見、その先の関ヶ原宿の辺りまで歩いた」、「そんなところまで行ったの、だから遅かったんだね、まぁ、中に入って」となり、中へ入って、コーヒーを御馳走になる。そして、電車の時間となって、「もうそろそろ」と席を立つ。
  「弁当作ったから、持って行きなさい」と、料理上手な従姉Eの手作り弁当を頂く。おこわ1パック、五目寿司1パック、それぞれが私の日常の2食分にあたる量。そのパックの倍以上の大きな弁当箱に煮物、焼き物などを詰めたもの。食える量では無いが、その厚意に心温かくなる。厚意をバッグに入れて関ヶ原駅、電車に乗った。
 その夜は岐阜駅のホテル、外へ飲みに行かず、スーパーでビールと日本酒を買い、E姉さんの弁当を肴にホテルの部屋で飲んだ。歩き疲れてもいたので部屋でのんびりできたのは良かった。美味しい弁当で心も癒された。ちなみに、ご飯ものは冷凍した。
          

 14、侍とファッション
 旅に出る前、倭国はもう秋、涼しかろうと思って、着替えには長袖Tシャツも1枚入れていた。長袖Tシャツ1枚分、半袖Tシャツは日程分を持っていない。しかし、倭国も暑かった。たくさん歩いて、山にも登って、たくさん汗をかいている。長袖Tシャツを着る機会は無い、したがって、半袖Tシャツが1枚足りない、買わなきゃあ。

  ということで9月29日夕方、岐阜駅近くのホテルにチェックインする前に駅近辺を散策してTシャツを探した。が、紳士服を売る店が無かった。ホテルにチェックインし、ホテルの人に訊くと、「そういえば、この辺りには無いですねぇ」とのこと。「岐阜は侍の町だから、侍は着るものに頓着しないという気風ですか?」と訊いたら、彼は苦笑いし、「観光地に行けば、観光客用のTシャツがあると思います」と助言をくれた。
 翌日、岐阜城へ行く。そこは観光地、土産物品店に入ると確かに観光客用のTシャツはあった。あったが、デザインに私好みの物が無かった。岐阜城といえば織田信長だ、店の人に「例えば、天下人とか風雲児とか天下布武とか勢いのある字体で書いたものは無いですか?」と訊いたのだが、そういうものは置いていないとのことであった。

 不足分のTシャツは結局、名古屋で買った。名古屋駅の地下街は広く、たくさんの店舗があって、男性用の洋品店もあった。買ったTシャツ、天下人でも風雲児でも天下布武でもなく、豚のイラストの入ったもの、私好みだからではなく、安かったので買った。
          

 15、根性無しの旅人
 9月30日、ホテルは朝食付き、早めに食べて、荷物の多くをホテルに預け、小さなバッグにカメラなどを入れ、ホテルの人に岐阜城までのアクセスを聞いて、チェックアウトして出かける。途中までバス、乗るバスを間違えたようで途中から徒歩。
  それでも、ほどなく金華山の麓へ着く。麓から歩く道もあったようだが、高尾山と同じくここでも山の途中までロープウェー、そこからトコトコ歩く。
          

 頂上に着くまで、何人かの人とすれ違い、頂上に着くと、20名ばかりの人がいた。その多くはご年配の方々であった。健康ウォーキングだろうなと想像できたが、それにしてもこの険しい山道の上り下りは、年寄りにはきつかろうと思う。その通り、お年寄りの中にはニコニコしている人もいたが、疲れ切った顔をしている人もいた。
 頂上から下りてすぐ、初老の女性に挨拶された。高尾山でもそうだったが、山登りする人はすれ違う人に挨拶する。私もたいていそうする。「たいてい」とは、虫や鳥の写真を撮る時、私は息を殺してシャッターチャンスをじっと待っていることが多い。そんな時に声を掛けられたら無視する場合もある。そんな時に声を掛ける人はあまりいないが。
  挨拶した女性に、たくさんのお年寄りたちが山登りしていることについて「健康のためのウォーキングですか?」と確かめた。「その通り」とのこと。いくつかのグループがあって、みんなで競うようにして登っている、毎日のように上る人もいれば、月に1回登るかどうかという人もいる。それぞれのグループで記録もとっているとのことであった。
          

 頂上近くのお休みどころに展望台があり、そこで周りの景色を眺めていると、初老の夫婦が登ってきた。2人並んだ写真を撮ってあげ、少し会話する。2人は地元の人ではなく青森からの旅人であった。「歩くのが好きで、2人で時々旅するんです」とのこと。夫婦仲良く元気に歩ける、何かイイ感じ、こんな夫婦だったら結婚もいいかなと思った。

  金華山を下りて、ホテルに戻って、荷物を取り、名鉄線で犬山へ、犬山公園駅で下りてトコトコ歩き、犬山城見学。トコトコ歩いて犬山駅へ、そこから名古屋駅。予約していた駅近くのホテルへ。時間はまだ午後4時、チェックインの時間前だったので荷物を預け、駅近辺の商店街へ、不足分の半袖Tシャツと土産物を買いに。
 1時間余歩き回って、疲れて、地下街の飲食店の1つに入り、晩酌セットなるものを注文し、生ビールをジョッキ1杯飲む。疲れがどっと出る。「こりゃ、夜、外へ飲みに行くのはきついな」と思い、地下街のスーパーでビールと日本酒の小瓶を買ってホテルへチェックイン。しばし横になって、シャワーを浴びて、この日もホテルの部屋で飲む。
 土産物は明日買えばいいやと、さっき土産物として買った名古屋名物を肴にして飲んで、早く寝た。夜の街を元気に歩けなくなった根性無しの旅人となってしまった。
          

 16、退屈な時間
 10月1日、ホテルで朝食を食べて、8時にはチェックアウトし、名鉄駅近くのコインロッカーに荷物を預け、地下鉄に乗って名古屋城へ、名古屋城はオープンが9時というので、隣接する名城公園を先に散策する。名城公園は広かった。いつものように木や花の写真、鳥や虫の写真を撮りながらだったので時間を費やした。気がつけば11時過ぎ。名古屋国際空港発、那覇着の予約した飛行機は12時40分発だ。目的だったはずの名古屋城見学は中止して、急いで名古屋駅に戻る。荷物を預けたコインロッカーがどこだったか思い出せず、それを探すのに時間がかかって、土産物を買う余裕が無かった。しかし、「土産物を駅の商店街で買わなかった」ことが、後に功を奏することになる。
          

  空港には12時頃着く。余裕だ。先ずは搭乗手続きをしてそれから土産物を買おうと、予約していたJALのカウンターへ行く。そこで大失態したことを知らされる。「お客様の予約は昨日の日付です」と。「えーっ!」だったが、ここは踏ん張って、「新規に買うとしたらいくらになりますか?」と訊く。「4万・・・」と聞いているうちに気が遠くなりかけた。そんな金、財布に無ぇぞ。確か3万円残っていたかどうかだ。
 眩暈を覚えながらさらに踏ん張って、「安い航空会社がありますよね」と訊いたら、スカイマークを紹介してくれた。スカイマークの便はあった。そして、金額は2万4千円、ホッと安堵する。「土産物を駅の商店街で買わなかった」ので、財布の中にそれだけの分は残っていた。その代わり、沖縄への土産は少ししか買えなかった。

 沖縄に帰れる。那覇空港から家近くのバス停までのバス代も残っている。土産物も少しは買えた。取り敢えずめでたしめでたし。であるが、12時40分発の予定が、スカイマークの便は18時発。これから6時間、空港で何する?金も無ぇし。
  空港での6時間、退屈な時間だった。こんな退屈、何年ぶりだろう。旅に出る前、植付けする作物が多くあってあんなに忙しかったのに今、ボーっとしている。「たまには何もしない時間を持ちなさい」ということであろうと楽天的解釈をし、ボーっとした。
 しばしボーっとしていたが、しかし、頭の良い(と自分で言う)私は、土産物購入費を多めに削って、2千円ばかりの余裕を残していた。空港の飲食店で生ビールセットなるものを摂る。ビールがとても旨かった。退屈な時間が楽しくなった。展望デッキにベンチがあったので、そこに座って旅日記をつける作業をし、退屈を返上した。

 沖縄に着いて、空港からのバスも運良くすぐに乗れて、家に着いたのは9時半頃、旅の荷物を整理して、シャワーを浴びて、いつもなら夢の中にいる午後10時から晩酌を始める。その時のメインの肴は岐阜の従姉E姉さんが作って持たしてくれた五目寿司、ホテルで冷凍していたが空港での6時間でもう解けていた。おこわの方は傷んでいたが、五目寿司は酢飯なので腐ってはいなかった。全部食った。美味しかった。感謝。
          

 以上、5泊6日東京岐阜お詫び行脚の旅、その旅日記はここでおしまい。
 なお、この旅はもう1つテーマがあり、それは「つわものどもが夢の跡を偲ぶ旅」で、戦国時代の古城を訪ねる旅。これについては来週です。

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東京岐阜お詫び行脚の旅その1-東京編

2014年10月17日 | ガジ丸の旅日記

 1、序章
 2006年10月、北海道を旅した。「旅こそ人生」と思うくらい旅好きな私はその年まで年に1~2回は県外の旅をしていた。県外の旅、亜熱帯の沖縄には無い景色が倭国では見られるからだが、旅の先々で土地の人々と会話するのも私は好きである。
 翌年2007年の春に母が入院し、秋には他界し、2010年の春には父が倒れ、まもなく他界し、その後は財産管理、家屋敷の管理、財産処分などに時間を取られ、県外脱出する時間の余裕も、心の余裕もなかった。今年の2月に家屋敷の処分が済んで、やっと心に余裕ができた。お金の余裕は無いのだが、懸案事項もあったので、思い切って旅。

 懸案事項とは、家屋敷を失ったこと、トートーメー(位牌)を寺に預けたことなどを、父の姉である岐阜の伯母、母の弟である東京の叔父に直接会って、報告しなければと思っていた。家屋敷を失ったこと、トートーメー(位牌)を寺に預けたことを、私はブログなどで「不肖の息子は」とか、「甲斐性無しの息子は」とか書いているが、実は、私自身はそれが悪いこととは思っていない。「しょうがないこと」という認識。
 それでも、「弟が努力苦労して手に入れた家屋敷が無くなるのは寂しい」と伯母は思っているのではないか、「姉が努力苦労して手に入れた家屋敷が無くなるのは寂しい」と叔父は思っているのではないかと、それが少し気にかかっていた。
 東京在の友人Iが9月27日に国立で結婚披露パーティーを開くというので、それにもついでに参加することにし、気にかかっていたことを解消するための旅。

 2、気持ちの良いホテル
 9月26日、昼過ぎに羽田着。羽田からバスで吉祥寺駅に直行し、若い頃(35年ほど前)住んでいた懐かしの吉祥寺駅近辺を散策して、夕方には京王線府中駅近くにあるホテルに入る。ホテルの名前は「HOTEL松本屋1725」。
 松本屋は小さいけれど、外観はスッキリしていてきれい。シングルルームの室内もきれいであった。受付にいたのは若い(40歳前後)男性。応対が丁寧で気持ちが良い。

  翌朝、朝食付きの予約をしていたので、1階にある食堂へ行く。食堂も小さい。20名ほどの席しかない。小さなカウンターに並べられていたのはパンが3種と、小さなカップに入ったゴボウサラダ、ジャムとマーガリン、果物が少々、カウンターの傍にコーヒーメーカーがあり、その傍のテーブルに牛乳がある。メニューはそれだけ。
 それだけでは物足りないと思う人も多いであろうが、私は大いに満足した。パンは3種類あり、そのどれもが美味かった。それだけで私は大満足。ワイン飲みたいと思ったほどだが、朝なのでそれは我慢。ゴボウサラダも美味しかった。
          

 松本屋には翌日も宿泊した。28日の朝、あんなに美味しかった朝食を私は食べなかった。府中在の従兄Hが朝迎えに来て、朝食は別の場所でとなったのだ。しかし、あのパンを食べないのは惜しい。で、厨房を1人で切り盛りしている若い女性に頼んだ。「美味しいパンなので持ち帰りたい」と。彼女はニッコリ笑って、パンを袋に詰めてくれた。
 ちなみに、裏付けは取っていないが従兄Hからの情報によると、松本屋は元々老舗の旅館であった、息子の代になって建て替えられビジネスホテルになった、老舗は接客が丁寧で評判も良かったとのこと。現松本屋もその伝統を受け継いでいるみたいである。

 3、夢を追う老後
 26日、夕方6時、約束通り従兄Hがホテルに迎えに来て、二人で近くの居酒屋へ。彼と会うのは、私の父が存命中、彼が沖縄へ仕事で来て、父に会いに来てくれた。その時以来だから5~6年ぶりだろうか。彼とは時々メールでやりとりしているので、父が死んだことも、家屋敷を手放したことも、私が農夫をやっていることも知っている。

 飲みながらあれこれたっぷり会話する。メールで彼の近況も多少は知っていたが、長く勤めていた会社を定年退職した、まだ働くつもりで仕事を探している、田舎(岐阜県関ケ原)にはたぶん帰らない、などといったことを新しく知る。
  数ヶ月前に彼から来たメールにもあったが、「音楽を復活するつもりだ」についても彼は熱心に語った。若い頃バンドを組んで音楽をやっていたのは、私が大学進学で東京暮らしをしている頃に聞いて知っていた。私も大学の頃の2~3年はバンドを組んでいた。私の所属するバンドは一度も他所で発表することなく、大学卒業と共に自然解散した。Hのバンドが活躍していたかどうかは聞かなかったが、同じく自然解散したのであろう。
          
 Hが言う「音楽を復活する」というのは、作品を作って発表することのようだ。定年退職後に若い頃抱いていた夢を追う。良いことだと私は思った。そういう私もまた、彼と同じく数年前まで楽曲を作っていた。その楽曲は友人のKがバンドを作って発表することになっているが、その方向に動いてから3年、まだ、ちっとも日の目をみていない。
 老後は夢を追う季節なのだと思う。就職して、夢を追う余裕もないほど働かされて、結婚してさらに時間を失い、定年になってやっと得た自由時間、夢を追うに最適。

 4、できる息子
 27日、朝9時、沖縄在の従妹Nの夫で、東京で自営業をしているAとホテル近くで落ち合う。前日の約束では昼休みに会うことになっていたが、彼の仕事の都合で9時となった。ホテルの食堂でしばしユンタク(おしゃべり)。
  彼ら家族が東京へ出たのはいつ頃だったかはっきり覚えていないが、長男のSが小学生だった頃は沖縄に居を構え、そこで何度か会っている。
 「Sはいくつになった?」
 「もう35だ。」
 「えーっ、もうそんなになるのか。結婚は?」
 「結婚、まだだよ、しないかもしれないなぁ。」
 「仕事はちゃんとしている?」
 「うん、もう現場を任せられる。今日も俺とは別の現場をみている。会社経営のことも教えている。あと2~3年したら彼に会社を任せ俺は引退だ。沖縄に帰るつもりだ。」
 などといった話をした。女房(私の従妹)と彼女の姉(私の従姉)が実家の処分で揉めていることについて彼の意見を求めたが、「面倒臭い」の一言でそれは終わった。
          

 5、働く老人
 27日、朝10時過ぎ、Aと別れた後、高尾へ向かう。その日は八王子の叔父の家に行くことになっていたが、西八王子駅で叔父と待ち合わせた時間は午後3時、それまでたっぷり時間がある。何しようかと考えていたら「高尾山がいいよ」とAが勧めてくれた。
  高尾山に登った。途中までロープウェーで行ったのだが、それでも山頂まで行ってロープウェーの駅に戻るまでの歩きで疲れてしまった。土曜日だったこともあり、山道を歩く人も多く、山頂で休んでいる人も多く、景色を見るより人を見ている方が多かった。人ゴミが嫌いで、自然の景色が好きな私はそれによって疲れがさらに増したと思う。
          
          

 西八王子駅には約束の3時ちょい前に着く。駅前で待っていると黒い車が私の正面に停まって、助手席の窓が開き、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。叔父の女房H叔 母さんだった。運転していたのは娘(私の従妹)のY、ほどなく叔父もやってきて、4人で叔父夫婦の家に行く。途中、スーパーに寄って、叔母がビールとつまみを買った。
 「普段は発泡酒なんだけどね、あなたが来たから今日はビールよ」と叔母が言う。私も普段は発泡酒で、ビールなんて滅多に飲みませんと言おうと思ったが、「ありがとう」とだけ言い、気になっていたことを叔父に訊いた。
 「もう、働かなくてもいい歳でしょう、何でバイトなんかしているの?」と。叔父が口を開く前に叔母が答えた。
 「まだ、家のローンが残っているのよ。働いてもらわなくちゃ。」とのこと。叔父は確かもう70歳を超えている。それでも働く必要があるのか、財産を残すためにか、厳しい老後だなぁと思った。隣の叔父の顔を見ると、苦笑いをしていた。

 6、小失敗いくつか
 日付は戻るが、26日、那覇空港からの出発時、搭乗券を胸ポケットに入れて保安検査のゲートへ行く。「搭乗券を見せてください」と係員が言うので、ポケットから出して見せた。搭乗券を手に持ったまま、荷物を背負って搭乗口へ歩く。搭乗口近くの椅子に腰掛けた時、手に持っていたはずの搭乗券が消えているのに気付いた。歩いてきた所を戻って探したが無かった。航空会社の人に訊くと、「身分を証明するものがあれば乗れますが、搭乗は一番最後になります」とのこと。ホッと安堵。これが小失敗の1つ目。

 叔父の家からの帰り、駅まで従妹のYに送って貰った。その間の10分ほど彼女とじっくり話ができた。Yとは私が大学の頃に会って以来だから35年ぶりくらいだ。当時彼女は小学生、その頃から可愛かったが、今は美人になっていた。その頃、彼女は私に懐いていたので、当然、彼女も私のことはよく覚えていて、楽しい10分間だった。
  叔父の家では叔母のおしゃべり(昔からよくしゃべる人だった)に圧倒されて、帰りの車の中では楽しくて、すっかり忘れてしまったが、叔父たちの写真を撮ること、叔父のマイホームの写真を撮ることを忘れた。これが小失敗の2つ目。
 同じ理由ですっかり忘れてしまったが、叔父たちへ沖縄土産を差し上げるのを忘れた。わざわざ荷物になるのを持ってきたのに。これが小失敗の3つ目。
 もう一つ、叔父の家に行くと計画してから考えていたことだが、もしも、従妹のY、あるいは従弟のRに会えたなら、彼女、または彼の連絡先、メールアドレスを訊くつもりであった。叔父は電話で話した時、トンチンカンな受け答えになったりする。叔母は同じく電話で話した時、関係無いおしゃべりが多くなる。なので、これから連絡する時は彼らの娘や息子とメールでやりとりしようと思っていた。それも忘れた。小失敗の4つ目。
          

 Yに送られて京王八王子駅から府中へ向かう。その日、夕方6時から友人Iの結婚披露パーティーがあった。府中駅に着いたのは5時頃、ちょうどその時、新郎のIから電話が入った。「今、どこにいるんですか!?」、「今、府中に着いたところ。」、「もう始まってますよ!」、「えっ!6時からだったのでは?」、「4時半開始ですよ、そのままそこからすぐにタクシーで来てください!」という会話。
 私は16時を6時と勘違いしてしまったようだ。高尾山登山でたっぷりの汗をかいたので、ホテル行ってシャワーを浴びて、着替えて・・・のつもりだったが、彼の要請通り、駅前からタクシーに乗り、パーティー会場へ向かった。小失敗の5つ目。

 7、熟年結婚で民謡披露
 汗に濡れたシャツのまま、普段着のまま、髭も剃らずにパーティー会場へ1時間ほど遅れて着く。会場は10卓ほどあり、私が案内されたのは、新郎馴染みの沖縄居酒屋に集まる仲間達のテーブル。会場には新郎以外に私が知っている人はただ1人、新郎が習っている沖縄民謡の師匠M女史の友人で、同じ沖縄居酒屋の常連でもあるT女史。彼女が私の席の隣だったので、パーティーが始まって1時間のあらましを聞き、同じテーブルにいる面々を紹介してもらった。で、皆と話ははずみ、私は楽しく過ごせた。

  その日の3週間ほど前にT女史から電話があり、「パーティーの開催日が急に変更されたので、Iさんの師匠のMさんやその仲間の芸達者たちがスケジュールが合わなくて今回参加できない。Iさん(新郎)はせっかく沖縄民謡を習っているし、沖縄民謡の余興をやりたいと思う。ガジ丸さんやってくれませんか?」と。「私は唄もサンシンも下手糞なので遠慮したいが、ウチナーンチュの私が下手糞なのに倭人のIさんが上手ということで、Iさんの前座、引き立て役としてならやりましょう」と、結局は承諾した。
          

  パーティーのそろそろお開きになる頃に新婦の方の友人達の余興があり、それが済むと司会者が「新郎の方からもお一人、わざわざ沖縄からいらっしゃって沖縄民謡を披露してくれるそうです。どうぞ」と名を呼ばれた。「何で一人なんだよ、騙しやがったな」と思いつつ、「わざわざ沖縄からという紹介も拙かろう、いかにも上手みたいに聞こえるじゃねーか」と思いつつ、しょうがなく前に出てマイクに向かう。
 サンシンは新郎が用意していた。「チューニングできないから、予めやっておいて」という条件も彼は無視していて、人前でチューニングという汗をかくことまでやらなければならなかった。それでも少しは練習していた1曲をテキトーに弾き終えた。そして、持っているサンシンを「それでは真打の登場です」と新郎Iに渡した。新郎が唄を披露した後に、「新郎も急に振られて困ったでしょう」と司会者が言っていたので、やはり、新郎が歌うことは予定には無かったみたいである。騙すつもりであったか!と思わぬでも無かったが、大学時代の学園祭で、観客の前でギターを弾いて唄を歌った時以来の人前経験、少し間違えたけど、テキトーでもまあまあ歌えたので気分は良かった。

 新郎は後期オジサンという年齢、新婦は再婚で孫もいる後期オバサンという年齢。「何で今さら結婚?面倒臭くないか?」と私は思うが、新郎Iは楽しそうであった。実は、パーティーは5月に開く予定であった。それが延期されたのは、同じテーブルにいる新郎の飲み仲間達から聞いた噂では、新郎の方が結婚に踏み切れず、延期されたとのこと。マリッジブルーになったみたいである。熟年でもそうなる。それは私にはよく理解できる。生活が一変するのだ、食いたい時に食いたいものを食いたいだけ食うということができなくなるのだ、部屋の中で勝手に屁をこくこともできなくなるのだ、そりゃあ悩むぜ。
          

 8、秋の匂い
 結婚披露パーティーは9月27日、沖縄居酒屋に集まる仲間達はT女史を除いて皆初めましての人達であったが、楽しく会話ができ、良い時間を過ごさせて貰った。新郎から2次会に誘われ、そこには唯一の知人T女史も、同じテーブルにいた人達も参加しなかったが、別テーブルだった新郎の大学時代の友人達と話が弾み、パーティーの最後に上手な沖縄民謡を聴かせ会場を盛り上げてくれたプロのミュージシャンの女性とも話が弾んで、新婦とも初めましての挨拶から話ができ、そこでも楽しい時間を過ごせた。
 その2次会の最中に府中在の従兄Hからメールが入った。「高知から姉のAが来ています。明日の朝食、皆で一緒しませんか?」と。承諾の返信をした。

  で、翌朝、Hが迎えに来て、別のホテルのレストランへ行く。姉のAは、当然ながら私の従姉になる。彼女の結婚式だったか、はっきり覚えていないが、私が学生時代に岐阜で会って以来、35年ぶりくらいになる。テーブルにはもう一人女性がいた。「そちらはI姉さんの娘さん?」と訊くと。「何て失礼な!」と怒られた。隣のHが「俺の女房だよ、昔会っているだろう?」と紹介した。昔、は25年前くらいのこと。35年ぶりのA姉さんはその顔をほのかに覚えていたが、25年前の美女は覚えていなかった。血の濃さのせいか?いやいや、A姉さんは実家に写真もあって、それで見覚えていたのだ。
          

 農夫は早起きである。見習い農夫の私も早起きである。前夜、2次会まで参加して寝たのは12時前だったが、その日の朝も5時過ぎには目を覚ましていた。7時にHが迎えに来るまで30~40分ほどホテルの近所を散策した。金木犀の香りがした。
 金木犀の存在は大学時代にその香りと共に知った。秋の匂いと覚えていたが、沖縄には無い植物なので、金木犀という存在もすっかり忘れていた。今回の旅の初日、井之頭公園を散策している時にそれに気付いたが、府中のホテルの近くに金木犀の並木があった。
 金木犀の軟らかく甘い匂いが私は好きである。何だかほんわかする。会う人々と楽しい時間を過ごし、散歩すれば金木犀の匂い、オジサンは幸せ気分に浸った。
          

 以上、東京岐阜お詫び行脚の旅の前編(東京編)でした。続きは来週。

 記:2014.10.11 ガジ丸 →ガジ丸の旅日記目次


トロっと旅する北海道2006秋

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 1、ゆっくりでもギリギリ

 那覇発千歳行きは15時20分の出発。遅い時間である。洗濯をし、軽く部屋の掃除もし、旅の荷物の準備を終え、『笑っていいとも』を観ながら昼飯を食い、タバコに火をつけ、コーヒーを飲む。こういう”のんびり”は私の大好物である。
 コーヒーを飲みながら時間の逆算をする。出発30分前には着きたい。家から那覇空港までは約1時間かかる。ということは1時50分に出れば良い。で、その通り出る。バス停まで歩き、バスを待ち、バスに乗り、首里駅に着き、モノレールを待ち、モノレールに乗り、那覇空港に着く。待ち時間が意外に長くて、家から那覇空港まで1時間と予想したが、1時間10分かかった。「ちぇ、またもギリギリか」と自分の性格を呪う。
 ”のんびり”が大好物の私だが、こういう場合はそうもいかない。出発まで20分しかない。慌てる。早足で歩き、搭乗手続きをし、早足で歩き、搭乗口へ入る。額に汗を滲ませて出発ロビーに着いたのは10分前。コーヒーを飲む暇は無いが、一服はできる。喫煙室へ入りタバコに火をつける。その時、アナウンスがあった。札幌行きの便は定刻より25分遅れるとのことであった。慌てて損した気分で、旅の始まり。

 2、温度差15度

 家を出るときの私は、半袖のTシャツに長袖のYシャツ姿。周りの人から見れば「何だアイツ、こんな暑い日に」といった格好である。那覇の気温は29度であった。これから北海道へ行くのである。長袖のYシャツは最低限必要だろうと思ってのこと。
 機内アナウンスで、千歳の気温は14度とのこと。予想より低い温度であったが、準備は怠り無い。飛行機から降りる前に、バッグに入れてあったブルゾンを出して着る。沖縄の冬用のブルゾンである。ほんの3時間で夏から冬にやってきたわけである。

 今年春の四国の旅で、愛媛県の松山駅から高知県の高知駅までのJR区間、特急も含めどこでも何度でも乗り降り自由という切符を買った。私はそれが周遊券と呼ばれるものだと思っていた。ガイドブックを見ると、北海道にも周遊券があった。今回は稚内へ行くので道北ゾーンを選び、新千歳空港駅のみどりの窓口でそれを注文する。ところが、周遊券とは、そのゾーン内からある程度距離の離れたJRの駅からしか購入できないとのことであった。知らなかったぜ!電車に慣れないウチナーンチュなのであった。
 とりあえず、ホテルのある琴似駅までの切符を買おうと、「それじゃあ、コトジまで1枚」と言ったが、窓口の可愛いお姉さんは「はっ?何ですか?」と訊く。あー、聞こえなかったのかと思い、今度は大きな声で「コトジまで」と言うと、可愛いお姉さんはニッコリ微笑んで「コトニ、ですね?」と応える。琴似はコトニと読むのであった。知らなかったぜ!・・・まあ、そんな、ちょっとした恥をかきつつ琴似駅へ向かう。

 3、突然の雨で

 琴似駅は、新千歳空港駅から電車に乗って、札幌駅から二つ先の駅。駅では若い美女が一人、私を待っていた。美女は嫁いで、札幌に住んで数年になる。彼女の父親から託されていた彼女へのプレゼントを渡し、飲み屋街の場所を教えて貰う。時刻は既に8時、飲むこと以外はほとんど何もできない時間。ホテルにチェックインして、荷物を軽くして、教えてもらった飲み屋街へ向かう。その前に翌日の酒を購入しなければならない。
  飲み屋は遅くまで開いていようが、スーパーは9時とか10時には閉まるはず。明日は5時間の列車の旅、朝出るのが早いので、その5時間のための酒と肴を今日の内に用意しておかなければならないのだ。駅傍のスーパーでそれらを買い揃える。
 「さて、飲み食いだ」と思ってスーパーから出ようとしたら、外は雨であった。しばらく待ったが、すぐには止みそうに無い。で、しょうがなくホテルへ戻る。ホテルの自動販売機でビールを買い、明日のためにと買った惣菜を肴に飲む。当然、ビール1缶では足りない。明日のためにと買った日本酒4合瓶を開ける。湯飲みに4杯、ちょうど半分の2合くらいを飲む。それだけ飲むと、その分肴も食う。結局、明日のための肴は全部食っちまった。突然の雨で予定が狂ってしまった。何となく前途多難の予感。
     

 4、トロっと旅する

  「よし、日本の北の果てに行こう」と決め、「そうや、宗谷へ行こう」と駄洒落も思いついて、今回の北海道4泊5日の旅は稚内で1泊する旅となった。札幌から稚内まで特急で5時間かかる。ご、ご、ご、5時間も!!!かかる。電車の中で5時間!昼間の5時間を、いったい何して過ごすんだ?・・・そりゃあもう決まっている。飲むんだ!
 前夜に準備してあった日本酒4合は、その半分を飲んじまったので、前夜に準備してあった肴は全部食っちまったので、駅の売店で日本酒2合瓶とおかずの多い弁当を買う。おかずの多いというのは、そのおかずを肴にしようということ。さらに、 ビール1缶を買って、列車に乗る。列車に揺られて、酒に酔って、トロっと旅するの始まり。
     
 ところが、前途多難の予感は当たっていた。列車が混んでいて座れない。せっかく買ったビールも酒も弁当も手がつけられない。じつは、列車全体は混んでいない。4両ある内の1両だけが混んでいる。JRが何を考えているか知らないが、4両の内3両は指定席となっており、残りの1両だけが自由席であった。平日なのでそう混むことはないだろうという私の予想は概ね当たっていたが、自由席が1両しかないのは想定外であった。
 このまま5時間立ち続けかと不安に思っていたが、旭川駅でごそっと降りた。自由席もガラガラとなった。ここからやっと、トロっと旅するが始まった。飲んで食って、寝て、飲んで食って、寝て、飲んで、飲んで、稚内に着く。用意した酒は飲み干した。
     

 5、真昼の長い影

  稚内駅からバスに乗る。50分揺られて宗谷岬に着く。天気は良かった。海は少し煙っていたが、サハリンの陰も薄く見えた。ただ、海風がとても強く、気温も11度くらいしか無くて、あんまり寒くて、ゆっくり眺めることはできなかった。
     
 先週、ユクレー島物語『マジムン三匹蝦夷の旅』をアップしたが、その絵は、実は旅に出る前に描いていた。描いてはいたが、旅から帰って描き直した。何故かと言うと、影が違っていたのである。沖縄では10月でも、真昼(12時頃)なら影は短い。ところが北海道は真昼でも影が長い。午後3時でまるで夕方のような影。影は北へ向かって伸びて いる。太陽が南の空の低い位置にある。そうであった。ここは緯度が高いのであった。
 じつはもう一つ、『マジムン三匹蝦夷の旅』の絵(注1)で三匹が会話しているが、その内容も旅から帰って書き直した。
 「ここが日本の最北の街、稚内か」(ゑんちゅ小僧)
 「南の島からあっという間だったから、実感わっかない」(ケダマン)
という駄洒落を入れてあった。それを、行きつけの喫茶店のオバサンに話したら、「オヤジギャグ」と冷ややかな目をされた。で、この部分は削除した。・・・オヤジで悪いか!と今になって思う。俺はオヤジだ!と、これからは堂々としていたいと思う。
     

 6、酔っ払った理由

 宗谷岬では、帰りのバスを1時間半後の便に決め、その間滞在する予定であった。であったが、あんまり寒くて散策ができない。土産品店をちょっと覗いて、あとはバスの待合室で予定の1本前のバスを待った。宗谷滞在は30分となった。
 ホテルは稚内駅の近く、チェックインを済ませて、バッグを軽くして近辺を散歩する。ここは風が弱い分、宗谷岬ほど寒くは無い。駅の周辺をぐるりと回って、大きな土産物品店に入る。海産物を多く置いてある。生鮮魚介類が目に留まる。美味しそうである。ケガニ、タラバガニなどを試食する。やはり美味い。特にケガニが美味い。そこでいくつかの食品と日本酒4合瓶を買う。明日の列車の中で飲み食いする分である。
     
     

 その建物の2階は割烹になっていた。そこへ入る。まだ6時前だったが、外はもう真っ暗になっていた。夜ならば、堂々と飲む。そこは寿司も握ってくれるような店で、カウンターがあり、座敷も10室ばかりある広い店。そこの大将が気さくな人で、「そこに座って、話しやすいから」と自分の立ち位置に近いカウンターの席を勧めた。
 そこで生ビールを飲み、生ウニと銀ダラを注文する。銀ダラは空きっ腹にちょっと脂のあるものをと思って、生ウニは、利尻島がバフンウニの名産地と聞いていたので。
 「お客さん、ウニは10月1日で漁は終わったよ。今は禁漁期間だよ。」と大将は言いながら、生ウニの皿を出してくれた。見た目は、私が想像していたのと同じで、とても美味しそう。食べたら、想像通り美味い。で、大将の方を見ると、
  「それはね、いわば密漁モンだね。」と言い、ウニの皿に別のものを乗っけた。
 「これが、この時期スーパーで普通に売っているウニ。食べ比べてごらんよ」と言う。いやいや、普通のウニったって、沖縄で食べるのよりはずっと美味い。しかし、最初のウニに比べるとその味は数段劣る。私は満足感に浸る。酒を1合飲む。
 私が注文したのは生ウニと銀ダラだけであったが、「私はカニにはあまり詳しくないんだが、いいカニ味噌があるよ」と言いながら、カニ味噌も皿に乗っける。これも美味い。酒を1合飲む。さらに、その日作ったというイカの塩辛も出してくれた。塩気のほとんど無い、ハラワタだけで味付けしたような塩辛。これもまた美味い。酒を1合飲む。
 旅の夜、一人で飲む時はたいてい生ビールを1杯、日本酒を2、3合の私だが、この夜は銀ダラでも1杯飲んで、さらにその後、旅のオジサンが一人話の中に加わり、その話を肴にもう1杯飲んでしまった。いつもより酔っ払って、稚内の夜は終わった。
     

 7、カニラーメンで乗り遅れ

 旅の3日目の朝は早かった。稚内から旭川行きは朝7時10分発。それを逃すと午後の13時45分発となる。午後の便では旭川着が17時半頃となり、動物園に行けない。何としても朝の便であった、ホテルにモーニングコールを頼んで、何とか間に合う。
 列車でNさんに会った。Nさんは昨夜、飲み屋のカウンターで途中から話に加わった旅のオジサン。彼は神奈川の人で60代後半くらいの歳。前の週に『中川森の学校』という自然学習セミナーに参加し、その後、利尻島まで足を伸ばし、稚内にいたとのこと。
  Nさんは、じつは昨日旭川に向かう予定であった。カウンターの端の席でラーメン食って、店を出て、しばらくして戻ってきた。列車に乗り遅れたとのことであった。稚内旭川(札幌まで)間の列車は1日に3本しかない。逃した列車は最終便。ということで、Nさんはその夜稚内に1泊することとなり、我々の話の仲間となったのである。
 「いやー、あのカニラーメンがね、悪かったね。カニが多くてね、それを食べるのに時間がかかってしまってね。失敗だったなあ。」とのことであった。Nさんとはその後、旭山動物園でも一緒になる。動物園見学の後、彼は旭川空港から帰途に着く。
 稚内から旭川までは4時間近い列車の旅。そこでもまたオジサンはビール1缶を飲み、昨夜買っておいた酒4合を飲みつつ、トロっと旅する。
     

 8、野球も動物園も

  今回の旅、じつは私は日程を間違えた。10月の第一週のはずだったが、旅行会社であれこれ話をしているうちに第二週となってしまった。何か勘違いしたのだと思うが、何を勘違いしたのか覚えていない。第二週には模合(楽しい飲み会)があり、世界のウチナーンチュ大会(このHPで紹介したいと思っていた)があったのに。
 第二週はもう一つ不味いことがあった。プロ野球日本ハムファイターズである。パの優勝決定戦が11日から始まるのであった。お陰でホテルがなかなか取れなかった。札幌では駅から遠く値段の高いホテルになってしまった。日本ハムファイターズ の活躍は、私にとってはまったく運の悪いことであった。しかしそれは、言うまでも無く、札幌市民にとってはとても幸せなことのようで、札幌は街全体が笑っているみたいであった。

 日ハムが札幌市民に愛されているのは、球団や選手たちの努力のお陰であろう。観客を楽しませるためにいろいろ工夫しているということを聞いている。観客を楽しませるための努力はまた、旭山動物園にも言えるようだ。園内では、動物を楽しく見せるための工夫がいろいろなされていた。特に、案内所のサービスが充実していて良かった。
  北海道の人は、稚内の割烹の大将も人懐っこく親切で、客に喜んで貰おうとというサービス精神旺盛であったし、駅ビルの土産物屋のオバサンたちも気さくな人が多かったし、もちろん”概ね”のことであるが、周りと仲良くしようとか、周りに喜んでもらおうという気分を持った人が多いのではないかと、私は感じた。
 旭山動物園、しかし私はそう楽しくは無かった。ゆっくりじっくり眺めながら写真を撮るということを目的としている私には、人気があって観客の多い場所ではその目的が果たしにくいのであった。子供たちがいっぱいいて煩いし、狭い場所にたくさんの人が詰めてくると、一箇所で十分立ち止まるなんてできないし、よって、消化不良のまま動物の前を通り過ぎることが多かった。雨が降って1時間ばかりはぼーっとしていたし、携帯の電池が切れて、案内所で充電している間もまた、ぼーっとしていたし。
     
     
     

 9、ラーメン失敗

 私はウチナーンチュのくせして沖縄ソバがそう好きでは無い。嫌いでもないので食べないことは無いが、それでも平均して月に1食ぐらいである。
 麺類で私の好きなものランキングをつけると、蕎麦、うどん類、そーめん類、スパゲッティー類、沖縄ソバ、ラーメンの順となる。沖縄ソバよりラーメンは下位にきているが、食べる頻度はラーメンの方が多い。料理する時間の無い時などにインスタントラーメンを食べている。インスタント沖縄ソバもあるが、沖縄ソバは一種類の味しかないのに比べ、ラーメンはいろいろな種類がある。いろいろ食えば飽きないのである。
 いずれにせよ、私はラーメンを好んでは食べない。旅先でラーメンを食べることも少ない。過去に福岡の屋台で、北九州の屋台で、宮崎の店で経験したくらいである。何しろ蕎麦が好きなものだから、旅に出ると蕎麦を食う。あるいは、うどんが名産の地ではうどんを食う。うどんと蕎麦では断然蕎麦の方が多い。昼飯に天ざるを食う。天ぷらを肴にビールまたは日本酒を飲み、蕎麦を啜る。これが私の旅の楽しみの一つ。

  旭山動物園見学の後、旭川駅に戻って、ホテル(駅の傍)にチェックインして、バッグを軽くして、旭川美術館へ向かう。4時に入って、閉館の5時に出る。もうだいぶ遅い時間であったが昼食を取ることにした。駅に戻る途中に蕎麦屋はないかと探す。無い。駅の周辺をブラブラ歩き回る。蕎麦屋は見つからない。旭川はラーメンで有名であることは知っている。ラーメン屋がたくさんあることは想像でき、その通りたくさんあった。旭川といえど日本である。蕎麦屋も無いはずは無いと思い、探し続ける。が、結局蕎麦屋は見つからなくて、適当な場所でラーメン屋に入った。6時頃だったと思うが、客の一人もいないラーメン屋。ラーメンは思った以上に脂っこく、胃がもたれる。後悔する。
 ラーメンは失敗だったが、その前に行った旭川美術館は良かった。空海マンダラという企画展をやっていて、数年前から仏像に興味を持っていた私は大いに満足した。
     

 10、貧相だが旨い物好き

 旭川美術館に隣接して常盤公園という、地図で見ると割りと大きな公園がある。美術館見学の後、その公園を散策して、植物の写真を撮る予定であったが、既に辺りは薄暗くなっていた。まだ5時だというのにである。旅から帰って調べた。この時期、那覇の日の入りは18時ちょうど。5時ならばまだ昼間の内。6時半頃までは明るい。そして、札幌の日の入りは16時50分。5時を過ぎると薄暗くなる。

 その薄暗い中をトボトボ歩いて旭川駅へ戻った。ホテルに隣接したビルを、蕎麦屋を探しながらぐるぐる回る。駅前の商店街をぐるぐる回り、デパ地下で土産物、食い物を物色し、蕎麦屋が見つからないので、食べる予定では無かった旭川ラーメンを食い、少々後悔しながらその頃はもう真っ暗、夜である。暗い中をブラブラしながら飲み屋を探す。
 あるビルに温度計があった。6度。那覇ではかつて記録したことの無い低い気温。10度以下になることさえ2、3年に1回あるかないかという環境にいるウチナーンチュにとってはいちじるしく寒い。歩き回るのは止めて、ホテルのロビーに戻り、観光案内地図を見る。その中から「郷土料理」と名の付いた店を選び、そこへ向かう。
  旅先で飲み食いする際、私は、ガイドブックや観光案内地図に記載されている店に入ることはほとんど無い。ブラブラ歩いて、適当な店に入る。自分には旨いもの察知能力が備わっていると思っているからだが、1時間前のラーメン屋のように失敗することも多くある。それでも、失敗も旅の楽しみの一つと考えている。話のネタになるし。

 さて、観光案内地図で紹介されている店ならば、失敗は無かろうと思いつつ、選んだ店に入る。その店は、さすが観光案内地図で紹介されているだけのことはあって、客はいっぱい。私はそこで、生ビール1杯と日本酒2合を飲んだ。肴はエゾシカのたたきと焼シシャモの2品。酒も料理も旨かったが、値段は少々高め。稚内の大将のような気さくさはあまり無い。「貧相な旅人はあまり相手にしたくないなあ」という雰囲気がちょっと感じられて、居心地が悪かった。もちろん、店が悪いのでは無く、貧相な私の責任。
     

 11、自由席と指定席の謎

 北海道4日目、旭川の朝は寒かった。空調をしていなかったので、寒さを直接感じた。後で、テレビのニュースで知ったのだが、この日の最低気温は0度とのことであった。
 この土地は暗くなるのが早い。暗くなると写真が撮り辛い。早めに飲み食いして、早く寝て、早く起きて、朝早くから行動した方が良いと、昨夜になってやっと気付いた私は、昨夜は早く(11時頃)寝たので今朝は6時に目が覚めた。のだが、寒くてベッドから出ることができない。ウダウダして、二度寝して、結局起きたのは7時半。

 稚内から旭川の列車は、朝早いし、混むことは無かろうと予想して自由席にした。その通り空いていて、のんびりと酒を飲みながらの旅ができた。旭川から札幌行きは、少なくとも1両しかない自由席は混むであろうと予想して、指定席を取った。ところが、いったいJRは何を考えているのか知らないが、札幌行きの列車は下り列車とは逆に、4両のうち3両が自由席で、なおかつ指定席の車両もその三分の二は自由席であった。指定席は7列目までの28席しかなかった。その少ない指定席は当然、ほとんど埋まった。
  9時の列車に乗り、窓際の席で、先ずは朝のビールを飲む。気持ちいい。これだから旅は止められない。という良い気分で、JRの意図をしばらく考えた。下りは4分の3が指定席、上りは12分の1が指定席としているのは何故?・・・わがんねぇ。

 札幌駅に着いてすぐに北海道立近代美術館へ向かう。観光案内で訊くと、徒歩では遠いという。観光案内地図を見るとさほどの距離では無かろうと思ったが、美術館からの帰りは歩いて植物園、札幌大学を回って駅に戻るという行程にしようと決め、勧められた通りバスに乗る。美術館には11時過ぎに着く。2時間ばかりを過ごす。
     

 12、少年よ大石を抱け

 美術館から北大植物園へ行く。植物園ではたびたび立ち止まって写真を撮る。1時間半ほどを過ごす。そこから北海道大学へ、クラーク博士の銅像を見に。
 徳川家康の言葉だったか、「人生は重い荷物を背負って坂道を登るようなもの」(家康についても内容についても確かでは無い)というようなのことを聞いた覚えがある。聞いた時は「そうじゃ!」と思った若造だが、今は、「戦国時代のような厳しい時代に生きる人は大変だなあ」という感想である。今の私の人生にそのような厳しさは無い。
  人生はそう厳しいものでは無いということは若い頃から感じていた。有名になろうとか金持ちになろうとか、イイ女を我がものにしようとかなど思わなければ、割と楽に生きられるということは何となく解っていた。戦わなければ、人生は楽なのである。
 というわけで「少年よ大志を抱け」は、それが人の生き方における正しい言葉であるとするならば、私は落第である。「そりゃ、重いよ、大変だよ」としか言いようが無い。できれば、「小志でもいいよ」と付け加えて欲しいものだ。それなら私も、何とか。
 クラーク博士の銅像を見に行ったのは、その写 真を撮るため。写真を見ながら絵を描くため。クラーク博士の肩に大石を乗っけた絵を描くため。大志を抱くのは大石を抱くのと同じくらい大変な事という意味の絵。「男共、頑張れ!」って絵。
     

 その日の夜、飲み屋で、札幌時計台は日本の三大がっかり観光名所であるということを聞いた。確かに、時計台は想像していたよりも小さかったが、それよりも私は、札幌大学のクラーク博士像にもっとがっかりした。札幌大学にあったクラーク博士像は、教科書や雑誌でよく見知っている像では無かった。立って、右腕を水平に伸ばし、どこか遠くを指差しているあの像では無かった。札幌大学の像は、小さな(実物大)胸像であった。「これに大石は乗せられないぜ」と落胆しつつ、私は大学を後にしたのであった。
     

 13、道の広さ、区画の広さ

 札幌大学から駅に戻った頃はもう薄暗くなっていた。6時に地下鉄すすきの駅で待ち合わせの約束があったが、それまでまだ1時間近くある。駅に隣接した地下の生鮮食品売り場へ行って、買い物する。静岡に住む美人の友人Kさんに贈ろうと思って、初め、魚の干物、ウニの瓶詰め、タコの燻製などを選ぶ。ふと、干物を焼き、燻製を齧りながら、手酌で酒を飲んでいる美女の姿を想像する。いやいや、そんなことはするまいと、それらを全てキャンセルし、同じ店にあった北海道のカレー、チーズなどと替えた。
 そんなこんなで、そこの売り子のオバサン(おそらくその店の女将さん)と長く話をする。そのついでにすすきの行きの地下鉄駅の場所を訊く。
 「すすきのは南北線だから、そこを行くと駅があるわよ」と教えてくれたが、続けて、
 「だけどね、そう遠くはないから、街を見ながら歩いて行ったら」と勧める。で、私は勧められた通り歩いて行くことにした。素直なのである。
     

  観光案内所で貰った地図を広げる。すすきのまでは思ったより遠い感じがした。女将さんは「15分くらいよ」と言っていたが、早足で歩けばということなのだろうと解釈し、いつもよりは少し速めに歩く。寒いので、速く歩いても汗はかかない。地図を見ると大通り公園が中間地点にある。しかし、15分経ってもその大通り公園に着かない。だいたいが、この街は1区画がいちいち大きい。たいていの街なら1区画1分くらいだと思うが、ここはその倍以上ある。また、横断する道路もいちいち広い。札幌の地図は、沖縄の街の地図を3倍くらいに拡大したものと同じだと思わねばならない、とは後で思った。
 それでも何とか約束の6時にはすすきの駅に着いた。30分以上はかかっている。女将さんの15分は、「走っていけば」ということなのであったかと解釈した。でもまあ、歩いたお陰で、札幌時計台に遭遇した。後で、時計台は三大がっかり観光名所の一つだと聞かされたが、いやいや、確かに想像していたものよりは小さな建物であったが、なかなか良い雰囲気を持っていた。さて、三大がっかり観光名所の残りは何処?と訊くと、二つの内一つは不明だが、もう一つは沖縄の守礼の門ということであった。さもありなん。

 14、性風俗が溶け込む街

 すすきのというと男の遊び場所というイメージを私は持っていた。確かにそういった場所もちらほらあったが、すすきのは新宿の歌舞伎町みたいな場所とは違い、ごく普通の繁華街であった。買い物したり、食事したり、(男の遊びという意味でなく)遊んだりと、家族連れ、恋人同士、友人同士が集う場所であった。性風俗店が並んでいるというような一角は(少なくとも私が歩いて見た分では)無く、そのような場所はポツンポツンと点在しており、街の風景に溶け込むかのようにして存在していた。そのような店の前を子供や女子高生が歩いていたとしても、何の違和感も無いのであった。

 さて、「トロっと旅する北海道」最後の夜は、そんなすすきので飲むこととなった。店は海産物の美味しい店とのこと。このHPに口煩いオバサン役としてたびたび登場する従姉がいるが、彼女の娘が今、亭主の仕事の関係で札幌に住んでいる。店はその若い夫婦が選んでくれた。そして、一緒に時間を過ごしてくれた。じつは、「3、突然の雨で」の中で、琴似駅で私を待っていた美女とはその娘のこと。私とは子供の頃から仲良しで、私が目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた娘だ。
 海産物の美味しい店では、たくさんの種類の美味しいものを食べた。私は小食なので、一人で食べる時は2、3種類しか取れないのだが、若い夫婦が一緒だと彼らがいろいろ注文してくれるので、それらを少しずつ食べることができた。一人は気楽でいいのだが、こういう場合は人数の多い方が良いと改めて感じた。
 今の時期しか無いという「生ししゃも」をにぎりで食う。旨い。ブリ、マグロ、イカ、タコの刺身も旨い。カキフライ、焼きジャガも旨い。特に生ガキは、沖縄で食べるそれとはまったく違うものであった。一口で食えるのかいなと思うほどの大きな身を口の中に入れる。プリッとした感触を噛む。汁が口の中に広がる。それはもう、「甘い」という他言いようが無いほどの旨みが詰まったもの。沖縄で産地直送新鮮などといったものを何度か口にしているが、それらは何かしら苦味がある。北海道の生ガキはそんなもの一切無い。大きさは沖縄の倍以上あって、旨さは10倍以上ある。とても満足した。

  その日、ジンギスカンにしようかという話もじつはあった。「魚にして」と私がリクエストした。ジンギスカンは東京でしか食ったことが無いが、特に美味しいものだという記憶が私に無い。羊を食うくらいなら沖縄のヒージャー汁(ヤギ汁)の方がずっとましと私は思っている。ヒージャーの方が臭いし、肉に味がある。海産物では北海道にはるかに劣る沖縄であるが、羊系の肉についてはヒージャーの方に私は軍配を上げたい。
 「ジンギスカンにしようか?」と言ったのは従姉の娘である。好きなようである。
 「昨日食ったエゾシカのたたきもまあまあ旨かったぜ」と私が言うと
 「シカは食べない」と応える。
 「ジンギスカンは食うんだろ?どちらかというと鹿より羊の方が可愛いぜ」
 「ジンギスカンは食べ物なの!美味しいからいいの!」
エゾシカも食い物だし、まあまあ美味しいしと私は思ったのだが、彼女の、反論は許さないというキッパリとした口調に、それ以上は口にできなかった。可愛いのだが、目の中に入れても痛くないのだが、母親に似て気の強い女なのである。きっと、新婚家庭はカカァ天下なのであろう。私は、優しそうな顔をした若い亭主に同情するのであった。
     

 15、早寝でも遅起き

  帰る日の朝、酒の飲みすぎで疲れていたのだろう。寝坊した。8時前だった。飛行機は10時50分発。いつものことだが、慌てた。せっかく朝食代を払っているので、慌てて食べる。慌てて食べたせいで、胃がもたれ、胸をムカムカさせながら札幌駅まで歩く。思ったより時間がかかって、これを逃すと飛行機に間に合わないという最後から2番目の電車、9時25分発にギリギリ間に合う。立ちっ放しで35分、飛行場には10時過ぎに着いて、搭乗手続きを済ませたのが10時15分。35分の余裕がある。ゆっくり買い物する。9時25分発の次の電車だったら買い物は十分できなかったかもしれない。何とかセーフして、まったく私は、ラッキーなオジサンなのであった。

 新千歳空港駅へ向かう電車の中、車両内はとても混んでいて、私は連結部分のドアの辺りで立ちっ放しでなのであったが、そこもまた、右も左も人に触れるほど混んでいた。飛行場へ向かうのである。旅行用の大きな荷物を持っている人が多いということも、混んでいる原因の一つであった。そんな中、大きなバッグを下に敷き、その上に座っている若い女がいた。その女と私との間には斜めになって立っているオジサンがいる。彼女が立ちさえすれば、そのオジサンも真っ直ぐ立てるのであるが、他人の難儀はどうでも良く、自分の楽が大事だと思っているようである。若者の「自分さえ良ければ」という風潮はこの先の日本国にどんどん広まるのであろうか。ちょっと淋しく思う。

 さて、最後にそんな淋しい思いも感じながらの今回の旅は、行きはバタバタして、前途多難の予感であったが、稚内の夜はとても楽しく、旭川はまあまあ楽しく、札幌の夜はまた、とても楽しく過ごせた。日本ハムファイターズの”せい”で、いつもの安いビジネスホテルに泊まれず、宿泊代がいつもより余分にかかってしまったが、それはまたそれなりに、ちょっと贅沢な気分を楽しめたということで、良しということにした。
     

 16、ブルゾンが荷物

 帰る日の朝、テレビで天気予報を確認した。札幌の最低気温は約10度。飛行機に乗るまではブルゾンが必要である。那覇の最高気温は約29度。那覇に着くのは午後2時過ぎだからちょうど最高気温の頃である。しかもその気温は百葉箱の中の気温なので、実際にはもっと高い。おそらく31、2度はあるであろう。半袖Tシャツ1枚の世界である。ブルゾンなんてとても着ていられない。で、ブルゾンをバッグにしまう。
 私の旅はたいていデイバッグ1つの旅である。旅行期間中の着替え、カメラ、筆記用具などが主な荷物となるが、それらはバッグの半分以下に収まる。旅の帰りには土産を買って帰るが、7、8箇所分の土産を買うが、小さめのものにすればそれら全てもバッグの中に収まる。自分用の酒の肴も2つ、3つはたいてい収まる。今回はしかし、ブルゾンが邪魔した。結局、お菓子の箱は別途紙袋に入れて持つこととなった。
 お菓子の箱は別途となったが、酒の肴はバッグに収まった。北海道は酒の肴にことかかない。今回はいつもより多く買った。多くても、それらは全て袋入りで薄い。ホッケの干物2枚の他、ホッケの燻製、イカの燻製、タコの燻製、ホタテの燻製、タコの干物、ししゃもの佃煮風のもの、などなどがバッグの中に収まった。

  それらの肴の中で面白いものが一つあった。それは稚内で買ったものだが、その名前に惹かれて思わず買ってしまったもの。ラベルには「虫の珍味」とあった。よく見ると虫では無く、中と一が縦に並んで一文字に見えるもの。おそらく製造会社のロゴなのであろうが、「虫は美味しい」という本を前にちらっと読んでいたので、虫のようなロゴがすぐに目に付いたのであった。中身はもちろん虫では無く、タコの燻製のようなもの。
 「虫の珍味」は友人のHにあげたが、別の2つ、3つを先週の土曜日、馴染みの飲み屋へ持って行くつもりであった。その飲み屋、食べたいものは自 分で持っていかなければならない飲み屋なので、こういう土産は喜ばれる。もちろん私も食う。
 ところが、北海道4泊5日を、昼も夜もトロっと旅した私は、おそらく酒の飲みすぎで肝臓が疲れていた。帰って2日後の火曜日の夜は、腰に鈍い痛みも感じるほど。したがって、その後、飲む酒の量を減らしている。土曜日、馴染みの飲み屋へも行かなかった。賞味期限10月24日の燻製を食うのはきっと、賞味期限後になるだろう。
 それにしても、肝臓にダメージを感じるなんて、歳を感じてしまう。この先も私は、酒を飲む旅をしたいと思うのだが、果たして、オジサンの肝臓は持ってくれるだろうか。今回の旅は楽しい旅だったが、家に帰ってから不安を感じる旅となってしまった。

 以上、トロっと旅する北海道の報告は終わり。
 記:ガジ丸 2006.10.21~10.26 →ガジ丸の旅日記目次


愛媛高知の旅2006春-高知編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 15、足りなかった酒と肴

 宇和島から江川崎へ向かう電車「しまんとグリーンライン」では、予想に反して車内での飲み食いができなかった。電車に慣れないウチナーンチュなのであった。で、中村から高知へ向かう特急に乗る際には、乗る前に駅前の観光案内所へ行き、
 「次の特急に乗るんですが、その中で飲み食いはできますか?」と訊いた。案内所のきれいな若いお姉さんは
 「え?それは・・・できますけど・・・。」と怪訝そうな顔をして答えた。最初に「電車に慣れないウチナーンチュなんですが」と断りを入れた方が良かったかもしれない。特急の車内で飲み食いは普通のことで、「何訊いてるのこのオジサン。何か特別なものを食べたり飲んだりするのかしら?」という怪訝だったかもしれない。

 ビール500ミリリットル1缶と干し貝柱を買い、9時21分発高知方面行きの特急に乗る。高知へは10時58分着の予定。予想していたことではあるが、約1時間半をビール1缶、干し貝柱(小)では全然足りなかった。
  去年までは、1時間以上の電車の旅がある場合は、ビール1缶に加え、日本酒2合も飲んでいた。肴も乾物では無く、駅前のスーパーで煮物や揚げ物などの惣菜を買って、それらを酒の肴としていた。が、今年はそれを控えた。今回、酒と肴が足りなかったのは私のうっかりミスでは無く、そうしようとの私の意志なのである。
 オジサンは知能や体力も落ちているが、酒にも弱くなってしまった。去年の旅では電車移動中の酒が効いて、美術館のベンチで鼾をかいて寝てしまった。静かな館内での鼾は他の客に迷惑であろうと、今年からは昼間の酒は控えるようにしたのである。

 土佐くろしお鉄道もまた、松山宇和島間と同じく山越えであった。途中トンネルがいくつもあって、景色を楽しむということもあまりできなかった。飲む酒も無いオジサンは少しウトウトする。車内案内の声は若い女性の声であった。「お出口は右側です」の「出口」のグと、「右側」のガにアクセントのある柔らかい口調が、耳に心地良く残った。
     

 16、偉人の出る土地柄

 高知では、牧野植物園、高知県立美術館、桂浜の3ヶ所を巡る予定である。高知駅に着いて、駅前の観光案内所へ行く。予定している3ヶ所の交通の便や所要時間などを訊き、どこをどのように回るかスケジュールを決めるつもりである。

 観光案内所のオジサンはぶっきらぼうな人で、訊かれたことに答えるだけ。まあ、それで十分なのではあるが、あまり親切な感じでは無かった。で、訊きたいことだけを訊いた私もさっさとその場を離れたのであるが、10mほど行ったところで、後ろから怒鳴る声が聞こえた。振り返ると、さっきまで私が立っていた観光案内所の窓口の前で、土地の人らしきオジサンが私の方を見て怒鳴っている。ここは『極道の妻たち』の土地である。「やばいかも」と思った私は、ちらっと見て、あとは無視して歩き続けた。すると、そのオジサンはさらに大声で怒鳴った。また振り返る。やはりこっちを見ている。「やはり俺か」と観念して、オジサンを、今度はしっかりと見る。オジサンは手に何か持って、それを私に向かって振っている。よく見ると、それは私のスケッチブックであった。

  旅にはスケッチブックを持って行く。旅の記録がそれには書かれてある。絵日記風にしようと思ってスケッチブックにしたのであるが、今までに絵を描いたのは3度しかない。いずれにせよ、記憶力の不安な私にとっては大事なもの。それをうっかり落としてしまったようだ。見ると、バッグのチャックが開きっ放しになっていた。
 スケッチブックを拾ったオジサンは怒鳴っていたのでは無い。怒っているように見えたその顔も怒っていたのでは無い。私には高知弁がそのように聞こえ、大声を出すその顔がそのように見えたようなのである。「男じゃけん。意思表示は大声ではっきりと。」ということなのかもしれない。意思の強さ、押しの強さなどを持っているからこそ、この土地から歴史に残る偉人が多く輩出されたのであろう。
 ちなみに、隣の愛媛の言葉はのんびりした感じで、柔らかかった。
     

 17、旅人の心得

  駅前から路面電車に乗る。はりまや橋で乗り換えて県立美術館へ向かう予定。で、はりまや橋に着いて、運転手のいる側の降り口へ行き、200円を出す。電車賃は190円である。若い運転手だった。彼はムッとした顔をして、言う。
 「ここでお釣はでません。」
 「どこで両替するんですか?」
 「後にいる車掌が両替します。」ということなので、最後尾の車掌のところへ行って両替してもらい、再び前の運転手のところへ行き、乗り換えの方法を訊いて、金を払う。運転手はあからさまに嫌な顔をしている。「モタモタすんなオヤジ、オメェのせいで電車が遅れてるんだぞ!」とでも言いたそうな顔であった。
 電車の乗り方、運賃の支払い方、乗り換えの仕方などは事前に調べておくのが旅人の心得なのであったかと、私は高知で初めて気付かされたのであった。

 18、老眼のせいで

 はりまや橋で降りて、県立美術館方面行きの停留所へ向かう。路面電車の運転手に「乗り換えの電車はどこで待てばいいですか?」と訊いて、彼が面倒臭そうに「あっち」と大雑把に指差したところに停留所はあり、そこへ行った。が、そこは逆方面行きの停留所であった。見ると、すぐ近く、運転手が大雑把に指差した範囲内であろうところにもう1つの停留所があり、そこが美術館方面行きであった。道を渡り、そこへ向かったが、あと十数メートルというところで、美術館行き電車は出て行ってしまった。
     

  その日宿泊するホテルは、はりまや橋から美術館へ向かう途中にあり、地図で見ると歩いて10分くらいの距離である。次いつ来るか分らない電車を待つよりはと思って、ホテルへ向かう。チェックインの時間までには3時間ほども早かったのだが、ホテルの受付の女性は親切で、部屋を準備してくれた。「なんだ、高知の人も親切ではないか」とホッと一安心。バッグの中身の大方を部屋に置いて、身も心も軽くなって、美術館へ向かう。
 地図で見ると、美術館はホテルから歩いて20分ほどのところにある。路面電車に乗って、また嫌な思いをするよりはと、歩いて行くことにする。
  高知県立美術館という案内標識を探しながら歩く。地図だとこの辺りではないかと思われるところまで来ても、そのような標識は無かった。さらに歩く。数百m歩いても標識は無い。「おかしい」と、改めて地図を見る。めったにかけない老眼鏡をかけて見る。
 ガイドブックの小さい地図に「高知県立美術館」という文字がある。高の前にP.156と書かれてある。そのP.を、老眼鏡をかけない私は美術館の位置だと思ったのだが、館の後に何やら羊の顔みたいなマークがあり、それが美術館の位置なのであると、老眼鏡をかけた私は気付いたのであった。P.と羊の顔との間は1キロ以上離れている。
 美術館に着いたのはホテルを出てから40分を過ぎていた。汗をたくさんかき、少々疲れていた。40分も離れているなら電車にすれば良かったと後悔したのだが、初めに、老眼鏡をかけるのを面倒臭がった私が悪いのである。

 19、おたく文化

 高知県立美術館では『造形集団海洋堂の軌跡』という企画展をやっていた。海洋堂についての知識はまったく無い。ポスターを見ると、どうやらフィギアのメーカーみたいである。ウルトラマンでいえばウルトラセブン、仮面ライダーでいえば初代藤岡弘の世代である私は、それ以降のヒーロー物をあまり知らない。子供の頃から漫画は大好きだったが、人形で遊ぶことをあまりしなかった私は、フィギアに対する関心は薄い。
  展示内容はヒーロー、アイドル、怪獣、動物、美少女、エロ少女までさまざま。確かにそのオリジナリティー、細部に至るまでの精巧さは芸術の域に達しているのだと感じる。日本の漫画やアニメが今はもう世界的に受け入れられて、一つの文化をなしているように、海洋堂のフィギアもまた、おたくの産んだ文化となっているのだろう。
 展示物を一通り見て、初め、ただの妄想の産物に過ぎないとの感想を持った私は、私が妄想するガジ丸のキャラクターと同じじゃねぇかと思って、そして、気付いた。
 「そうか、海洋堂の作家たちも私と同じ妄想族なんだ。ただしかし、彼らのは多くの人に受け入れられる妄想で、私のは自己満足の範囲内にしかない妄想なんだ」と。

 海洋堂のフィギアは、私が知らなかっただけで、とても有名で、人気があるらしい。アキバ系と呼ばれる人たちだけのものかと思っていたが、多くの子供たちをワクワクさせ、ドキドキさせるものらしい。子供たちに夢を与えているらしい。偉いのである。
 それにしても海洋堂の女性のフィギアは、裸体に近い女性も服を着た女性も、もえーな女性も女子高生もそのほとんどが、おっぱいが異常に大きい。私の妄想の女性のおっぱいは概ね手頃な大きさ(ユーナは小さい)なので、少し驚く。
 異常に大きいおっぱいが一般受けするのかと思い、エンマン大王の付人におっぱいの大きな女性を登場させることにした。で、描いた。2時間ばかり努力したが、どうもおっぱいが大きいと全体のバランスが取れない。実際のモデルがないと描けないみたいだ。が、私の知っている人には大きなおっぱい・・・がいた。子供を産んだばかりのM子が今、大きなおっぱいだ。が、見せてと言ったら殴られそうである。諦める。
     

 20、後姿もカッコイイ

  美術館からバスに乗って桂浜へ行く。日本の歴史上の人物で、これからあるべき国の形をしっかりと見据えていた人物の一人、坂本竜馬に会いに。
 桂浜に着いてすぐに竜馬像のある場所へ向かう。階段を上りきって、眼前に海が広がる崖の上にそれはあった。初対面の竜馬は後姿であった。午後の陽射しに照らされていた。竜馬は海を眺めている。その姿は、しっかり明日を見て、悠然と立っているみたいで、後姿もカッコイイのであった。背中が男を表現している。写真を撮る。
 その顔も拝もうと前に回ったのだが、逆光で顔がよく見えない。写真を撮るが、写真でも暗かった。でも、まあ、いいのである。背中だけで十分竜馬のオーラが私には伝わったのである。こんな男が日本にはいた、というだけで何か嬉しいのであった。
     
 
 桂浜は全体に大きな公園となっており、浜辺から樹木の生い茂った中を、写真を撮りながらブラブラした。その後、坂本竜馬記念館へ行く。竜馬に関する資料は観ておきたい、さらに、竜馬を理解できるようになりたい、などと思ってのこと。
 記念館へ入ろうとしたら、その入口に警備員が出てきて、「閉館まで15分しかありませんが」と申し訳無さそうに言う。そうであった。またも私はうっかりしていた。こういった場所が5時頃には閉まるのであることを忘れていた。竜馬像を観たり、桂浜を散策する前に、先ず、ここに来なければならなかったのだ。たくさん後悔する。
      
     

 21、ちょっとだけ役に立つ

  竜馬像の前に浜へ下りる階段があった。せっかくの階段なので下りてみる。桂浜の浜がそこにはあった。沖縄とは違う浜辺の景色。波が高く、砂が黒い。
 浜辺をブラブラ散歩していると大きな犬に出会った。「おー、これが土佐犬か。」と、土佐犬なのかどうか確認したわけでは無いが、そう確信するほどの堂々とした体躯に私は、「うん、こいつは強い。ケンカしたら負ける。木刀持っても負ける。真剣なら互角。」などと妄想する。主人にリードを持たれた姿であったが、そのオーラはしっかり感じた。
     
     

  この旅の初日、松山城を散策している時に蚊にたくさん刺された。二日目の宇和島城でもたくさん刺された。で、宇和島で虫除けスプレーを買った。三日目の四万十川トボトボ旅では、バッグの中に虫除けスプレーはあったのだが、意外にも四万十川では蚊に刺されることが無かった。で、虫除けスプレーは使わずに済んだ。
 桂浜は全体に大きな公園となっており、浜辺からその公園内を散策することにした。その多くは藪の中であった。藪の中なので蚊が多い。宇和島で買ったスプレーがこの時初めて役に立ってくれた。のんびり歩くことができ、じっくり写真を撮ることができた。
 翌日、高知城を散策した時にも蚊はたくさんいた。私はたくさん刺された、何故?
 とんまな私は、高知城へ行く前にバッグをコインロッカーに預け、バッグの中に虫除けスプレーを入れたまま忘れたのであった。虫除けスプレーは桂浜の公園を散策しているほんの1時間ばかり、ちょっとだけ役にたっただけということになった。
     

 22、たった五切れです

  高知の夜は、今回の旅の最後の夜。旨いものを食べようと、はりまや橋近辺で飲み屋を探す。看板に土佐料理、または郷土料理と書いてある店を探す。「いかにも」という大仰な店がいくつかあったが、そこは避けて、割合小さな店を選ぶ。
 落ち着いた、イイ感じの雰囲気の店。まだ6時過ぎという早い時間だったせいか、客は少なかった。ために、落ち着いた上に静かであった。私好みとなっていた。

 先ずは生ビールを頼む。それからメニューを開く。店を探し回っている間に既に気付いていたが、 土佐と言えば鰹のタタキである。メニューの本日のお勧めに鰹のタタキはあった。今が旬なのであろう。旬といえば、その隣に鱧(はも)料理もあった。両方食べたいし、他にも焼き物や煮物料理も食べたかったので、小食の私は念のため、
 「鰹のタタキって量は多いですか?」と女将さんらしき人に尋ねた。
 「いえ、たったの五切れですよ。」と彼女が言うので、たったの五切れなら大丈夫かと思い、とりあえず、鰹のタタキと鱧の唐揚げを頼む。
 しばらくして、出てきた鰹のタタキは、確かにたった五切れではあった。が、その一切れは、沖縄で 食べなれている鰹の一切れの3倍くらいの大きさがあった。鰹のタタキと鱧の唐揚げを全部食べたら、腹いっぱいになってしまった。店を出る。
     
     

 そうそう、その店の壁に貼られていたメニューの中にゴーヤーチャンプルーがあった。こんなこと、数年前までは想像もできなかったこと。日本の、南の果ての田舎の料理が、今はもう全国的に市民権を得たということだ。ちょっと嬉しかった。
     

 23、言うこと聞かない売り子

 腹はいっぱいになったが、酒は飲み足りない。かといって、どっか店に入るのはちょっと面倒に感じる。カメラのメモリーカードがほぼ満杯になっていたので、写真の整理もしなければならない。で、ホテルの部屋で飲むことに決めた。
 まだ8時前、デパ地下が開いていた。日本酒二合瓶を買う。酒だけでは淋しいし、これからホテルへ戻って、風呂に入って落ち着いた頃には、胃の中のものもいくらかは消化しているだろう。肴もちょっと買うかと店内を物色する。

 「全部半額だよー」と声がする方へ行くと、野菜や肴の唐揚げを売っている惣菜屋があった。バラにあるものをいくつか詰めたパックが600円のところを300円らしい。だが、そのパックに入った量は多すぎる。
 「多すぎるので、減らしてください。魚の唐揚げは要りません」と注文する。ハイハイと売り子のオバサンは肯きながら、魚の唐揚げを出す。出したかと思ったら、
  「イカも美味しいよ」と言って、イカを入れる。
 「多いです」と重ねて言うと、「多いの」と答えつつ、イカを出す。出したかと思ったらまた、今度は鶏を入れる。言うこと聞かない売り子なのである。そして、こっちが口を出す前に、輪ゴムでパックを閉じ、袋に入れ、
 「ハイ、600円をおまけして500円でいいよ。」とおっしゃる。500円出す。デパートを出てから、「全部半額だよー」を思い出したが、後の祭りであった。商魂逞しいっていうのか、何だか、生き馬の目を抜かれたような気分であった。
 ホテルに戻って、風呂に入り、窓を全開にして、パンツ一丁の姿で椅子に座り、夜空を眺めながら酒を飲んだ。酒は旨かった。腹は立ったが、惣菜も旨かった。
     

 24、牧野には縁無く

 HPで植物を紹介するようになってから1年半ばかりになるが、最近は植物の学名にも興味を持つようになった。牧野富太郎の名前はずいぶん前から知ってはいたが、学名に興味を持ってからはずっと身近に感じるようになっていた。
 今回の旅の目的は漱石、子規、山頭火、竜馬、四万十の鮎などあったが、その第一は、高知にある牧野植物園を訪ねることにあった。日本の植物学の大権威である。彼の名を冠した植物園は、ぜひ、観ておかなければならない。

 高知駅の観光案内所で尋ねた時、そこのぶっきらぼうなオジサンが、「今日は無いが、明日の土曜日ならはりまや橋から植物園までバスがあるよ」と教えてくれた。土曜日は帰る日だが、帰りの飛行機は午後2時10分発。午前中たっぷり植物園を見学できる。
 で、土曜日の朝。ホテルの近くにもバス停があったが、念のため、ホテルの人に訊く。すると、植物園行きのバスは特別なバスで、そのルートにある全てのバス停には停まらないとのこと。ホテルの近くのバス停には停まらないとのこと。そこからもう一つはりまや橋よりのバス停には停まるとのこと。訊いて良かった。ラッキーであった。
  で、そこのバス停まで歩いた。予定の倍の時間がかかってしまったが、バスが来る5分前には着いた。旅の最終日はラッキーな事が続きそうだと予感された。ところが、
 バス停の標識をボーっと眺めていると、「このバスを利用する際はカードが必要です」と書かれてある。しかも、「カードはバス内での販売はしておりません」とある。そして、カードを販売している最寄の場所が地図で示されてある。そこは、バス停から見える場所にあった。見えてはいるが、道を渡った向こう。往復5分ではとても行けない距離。次のバスは1時間後、帰りの飛行機を考えると、植物園見学は1時間半しかできない。どーする、としばし悩んだが、結局、牧野植物園は諦めることにした。

 第一の目的であった牧野植物園ではあったが、牧野には縁の無い旅となってしまった。今回の旅、ついてないことが多かったが、やはり、最終日もそうなった。

 25、違いの判らないオジサン

  牧野植物園見学を諦めたことで、時間がぽっかり空いた。「土佐二十四万石博」なるものが高知城公園で開かれているらしいことを、どこかで、そのポスターを見て知っていたので、そこへ出かける。他に行くところは思いつかなかった。
 私は若い頃、歴史小説が好きで、特に司馬遼太郎が好きで、その作品はいくつも読んでいる。で、坂本竜馬が活躍していた頃の土佐藩主は山内容堂である。土佐山内家の始祖は山内一豊である。などといったことを承知している。
     

 今やっているNHK大河ドラマの主人公が山内一 豊の妻らしい。ドラマの原作は司馬遼太郎の『功名が辻』ということは知っているが、その内容はほとんど覚えていない。山内一豊の妻がおりこうさんであったこと、持参金で馬を買って、その馬が一豊の出世に大いに役立ったことくらいが記憶に残っている。そのおりこうさんの役を仲間由紀恵がやっている。ウチナーンチュの女優だ。ウチナーンチュだからといって私に縁は無い。
 ウチナーンチュの女優といえば仲間由紀恵の他に、『ちゅらさん』の国仲涼子も有名だが、国仲涼子は、私の実家近くにあるぜんざい屋さんでバイトをしていたらしい。そこで顔を合わせたかもしれない。また、『ちゅらさん』で彼女が演じていた女子高生は首里高校のセーラー服であった。私は首里高校出身である。というわけで、彼女とは僅かに縁があると言える。そんな彼女が先日テレビに出ていて、「加藤ローサ」と紹介された。「え?改名したの?」と一瞬疑う。そう、私は彼女と加藤ローサの区別がつかないのである。二人は似ている。ちなみに、私は、モー娘の辻ちゃんと加護ちゃんの区別もつかない。
     

 26、城が呼んでいる

  大河ドラマの主人公をウチナーンチュがやっている、ということには興味あるが、テレビドラマ(民放も含めてドラマはほとんど観ない)には興味が無いので、せっかくやってきた土佐二十四万石博の会場であったが、そこは素通りする。高知城へ向かう。
 城郭に興味を持っていたわけではない。今回の旅はしかし、不思議に縁があった。たまたま愛媛城を見学し、宇和島でも時間が空いて、たまたま宇和島城を訪ねた。そして高知城となる。興味が無いので何という感想も無いのだが、ただ、美しいとは思った。ヨーロッパの城などよりこっちの方を 私はずっと好む。そこで、「あっ」と思う。
 植物動物、食い物ばかり見てないで、日本の伝統美にも目を向けなさいということかもしれない。「日本建築もなかなか良いですよ」と城が私を呼んだのかもしれない。
 そうなのである。日本の古い建物は伝統美なのである。それがそこにあるだけで独特の空気を作ってくれる。仏像に興味があって、京都奈良の仏閣を訪ね仏像を観て来たが、その仏像を包んでいる建物に私はこれまで目が届かなかった。建物が、じつは、日本の景色を、日本らしい美しさとして表現しているアイテムであると、今回少し気付いた。
     
     

 27、忘れるオジサン

 高知城は広くて、2時間余の散歩となった。木立の中は薄暗くて、そこでたくさんの蚊に刺された。こんな時のためにと買った虫除けスプレーは、はりまや橋のコインロッカーに預けたバッグの中であった。途中、デジカメのメモリーカードが満杯になった。予備にと持ってきたカードもまた、バッグの中であった。
 「何か忘れ物ばっかりしてるなあ」と思いながら、ベンチに座って、カメラのメモリーから要らない写真を消去する作業を、老眼の目をシバシバさせながら(老眼鏡もバッグ)やっていて、ふと、もう一つの忘れ物に気付いた。

  前夜、はりまや橋の飲み屋で飲んだ後、デパ地下に立ち寄ったが、そこでお土産も少し買ってあった。自分用の土産で、魚の干物と漬物。どちらも要冷蔵だったので、ホテルの冷蔵庫に入れて、そして、それをそっくり忘れてしまっていたのだ。
 ホテルに電話して、部屋の冷蔵庫に忘れ物が残っていることを確認して、取りに行く。そこからはりまや橋に戻って、コインロッカーから荷物を取り出し、近くのベンチでしばし休憩。歩きっ放しだったので少し疲れていた。飲み物を買い、タバコに火をつける。  タバコもバッグに入れっ放しであったが、これは忘れたのでは無い。散歩している間は吸うことも無かろうと持たなかったのだ。2、3時間吸わないのはよくあること。その後のタバコがまた美味いのである。疲れていると尚更なのである。
 横に灰皿のあるベンチに座って、冷たい飲み物で喉を潤して、そして、タバコを咥え、ライターを点ける。ついてないオジサンは、ここでもついてない。ライターはガス切れとなっていた。ついてないオジサンは、ライターの火も点かないのであった。

 28、余裕のクリハラさん

  高知竜馬空港とは、何ともカッコイイ名前である。いったいいつから高知と空港の間に竜馬が入るようになったのか。バス停で、私と同じく空港行きバスを待っているらしい人に聞いた。「2、3年前かしらねえ」とのこと。
 空港には12時20分に着く。飛行機の出発時間は14時10分なので相当の余裕がある。いつも慌てる私にしては、そうはないこと。空港内を散策し、レストランでエダマメを肴に生ビールを飲み、空港の外を散策し、土産物を買い、搭乗口へ入る。

 隣の搭乗口は東京行き。機内への案内が始まっている。そこにいた全ての客が機内へ入った後に、アナウンスがあった。「東京へご出発のクリハラ様、いらっしゃいましたら急ぎ・・・」と呼びかけている。客の一人であるクリハラさんがまだ来てないようである。呼びかけは何度か繰り返されたが、出発の時間となったようで、呼びかけもなくなった。するとその時、白いスーツ姿の紳士が現れて、沖縄行き搭乗口に立った。そこの係員に東京行き搭乗口を指差されて、彼はそこへ向かった。走ってはいない。
 おそらく、白いスーツの紳士はクリハラさんであろう。なんとも余裕なのである。どうやら、紳士は遅れても慌てないようである。私のように全力疾走し、息を切らして、係員の前で頭を掻いたりはしないようである。見習わなくちゃ、と思った。

 那覇空港に着いて、飛行機を降りる前に、何人かいたスチュワーデス(今は違う言い方だが、何度聞いても覚えられない)のうち、もっとも可愛い(私の主観)人が出口で挨拶していたので、彼女に話しかけた。
 「高知空港はいつから高知竜馬空港になったんですか?」と。彼女はちゃんと答えてくれた。であるが、私は彼女の顔に集中していて、その言葉をテキトーに聞いていたみたいで、「○○年です」の○○が何であったのか覚えていない。
     

 29、ついていない旅もまた楽しく

 空港からモノレールに乗る。モノレールのホームへ上るエスカレーターの入口で、小さなバックを左脇に抱え、大きなバッグを右肩に担いだオジサンが、その大きなバッグがエスカレーターの壁に引っかかってモタモタしている。体を斜めにして、やっと通る。その後もオジサンは、さすがウチナーンチュで急がない。エスカレーターを歩いたりしない。途中で、「まもなく発車します」というアナウンスが聞こえても動かない。オジサンと私がホームに立ったとき、モノレールのドアが閉まり、去っていった。
  のんびり屋の私もこの時は「あーあ」と思った。別に走らなくても、エスカレーターを歩いて上るだけでも間に合ったはずだ。オジサンに邪魔されない階段を使えば良かったと後悔する。家に着いてすぐ、友人の店に行き用事を済ませ、戻ってシャワーを浴びて、飲み会へ行く、というのがこの日の予定。なるべく早く家に帰りたかったのであった。

 首里駅からバスに乗り、家の近くのバス停で降りる。沖縄は雨、ずーっと雨だったらしい。バス停から家までは徒歩10分。その間、運悪くずーっと土砂降りで、四万十で使った際に壊れた傘を差して、バッグを濡らさないように歩いたら、体の前半分は濡れてしまった。まったく、最後の最後までついていない旅であった。まあ、でも、こうやっていろんなことがあるから楽しいとも言える。こんなのが思い出になるのである。
 最後に、高知の悪口みたいなことをたくさん書いてしまったが、良くないことが話のネタになりやすいのでそうなった。悪意はまったく無い。高知に対し嫌だと思う感情もありません。おそらくまた近い内に高知を訪ねるでしょう。牧野植物園を目的に。

 以上で2006年愛媛高知の旅日記は終わり

 記:ガジ丸 2006.6.24~6.30 →ガジ丸の旅日記目次