goo blog サービス終了のお知らせ 

ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

愛媛高知の旅2006春-四万十編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 10、四万十川トボトボ旅

  三日目の夜の宿泊は、四万十市中村(つい最近まで中村市)のホテル。JR中村駅の近くにある。江川崎から中村までの道のりは約39キロメートル。当初は、沖縄で計画を立てている時にはこの距離、歩こうかと考えていた。しかし39キロメートル、少なく見積もっても10時間はかかる。11時に出て、夜9時に着く。着ければいいが、途中迷ったら野宿ということになる。へたしたら「沖縄のオジサン四万十で行方不明」なんてニュースになりかねない。よって、歩くのは途中の口屋内までとした。
 江川崎から口屋内までは約16キロメートル。テクテク歩いて4時間、トボトボ歩いて4時間半と見 積もる。実際には、途中雨に降られたりして5時間かかった。
     

 雨に降られる前の約4時間はのんびり歩いた。四万十川沿いの県道441号線を、道々写真を撮りながら歩いた。歩道のある広い道もあったが、その多くは車同士すれ違うことができないような狭い道、車はたびたび行き交うが、歩く人は私以外にいない道をトボトボ歩く。「酔狂な奴がいるぜ」と何人かの運転手は思ったかもしれない。
 空は曇っていたが、風は涼しかった。ウグイスがあちこちで鳴いており、トンビが悠然と空を飛んで いた。途中、今でも薪で風呂を沸かしているんだなと思われる薪の積まれた家があった。見事(私の感性では美しい)な石垣の家であった。つい最近田植えをやったんだなと思われる田んぼがあった、田植えの時の足跡がくっきり残っていた。何のまじないか知らないが、犬の?と思われる頭蓋骨がコンクリート塀の上に置かれてあった。
 四万十川、川沿いの道をトボトボ歩く旅は、まったく退屈しない旅であった。草木の写真や動物の写真もたくさん撮れた。なもんで、歩いている私の顔はきっとにやけていたに違いない。「おかしな奴がいるぜ」と何人かの運転手は思ったかもしれない。
     
     
     

 11、脳から虫

  441号線の道端にはハルジオン(ヒメジョオンかもしれない)が目立った。花が無いので目立っては無いが、ノカラムシはそれ以上に蔓延っていた。それらの道端の雑草を眺めながら歩いていると、同じ虫をいくつも、あちらこちらで何度も見かけた。白黒模様のカミキリムシと、黒と黄色の綺麗な模様をした蝶か蛾の幼虫である。
 白黒のカミキリムシは、松山でも道端のノカラムシの上で見たが、ラミーカミキリという名前で、種子島以北に生息し、沖縄にはいない。(北隆館発行『日本の甲虫』参考)
幼虫については名称不詳。沖縄で撮った蝶蛾の 幼虫も多くあり、それらのほとんどもまた名称不詳なのであるが、それらを含めた中で、四万十の道端の、ノカラムシの上で見つけたこの幼虫は、もっとも綺麗な幼虫なのではないかと思った。しばらく眺めていた。
 友人のE子は虫嫌いで、特に蝶蛾の幼虫が大嫌いで、私が撮った幼虫の写真を見るのも嫌がる。そんな彼女から見れば、四万十の道端で、腰を下ろして幼虫をじっくり眺めている私の行為は考えられないことに違いない。脳から虫が湧き出てくるのを想像するくらい気持ち悪いことなのかもしれない。ノカラムシの幼虫を眺めながら、ノカラムシ、脳から虫を私も連想してしまった。脳から虫は、私も気持ち悪く感じた。
     
     
     

  追記:訂正と補足
 ラミーカミキリを調べていたら、カラムシの上でよく見られるとの記述があった。カラムシについてはノカラムシの頁で少し書いているが、実物を私は知らなかった。で、調べる。カラムシは苧と書き、イラクサ科の多年草。見た目がノカラムシとそっくりなので、てっきりノカラムシと思ったのだが、ノカラムシの分布は琉球列島を北限としているとのこと。ノカラムシはカラムシの変種。
 カラムシの学名はBoehmeria nivea。
 ノカラムシはBoehmeria nivea var. nipononivea f. viridula
 ラミーカミキリの名前の由来となっているラミーもまた、カラムシの変種で、学名は   Boehmeria nivea var. candicansとなっている。

 12、四万十川トホホの旅

  江川崎から口屋内(くちやない)までは約16キロメートル。昔風に言えば四里。その四分の三、三里を歩いたところで休憩所があった。一服する。2時50分。江川崎から4時間歩いたことになる。途中狭い道もあり、そこを10tダンプが通ったりして恐い思いをした。途中暗い道もあり、薄気味悪い思いもした。が、この三里の道程は、空は曇っていたが、雨は落ちず、涼しい風が吹いていて、概ね気分の良い散歩であった。のんびり歩き、景色を眺め、虫や鳥、花を見つけては立ち止まり、たくさんの写真を撮った。
 休憩所に着く少し前からポツポツ降りだした雨 が、タバコに火をつけたとたん本降りとなり、やがて土砂降りとなった。運が良いのか悪いのか判らないが、とりあえず、雨が弱くなるまでそこで待つことにする。約30分の休憩となる。
 そこからの一里は傘を差して、足元を見つめて、黙々と歩く一里となる。このことを故事として、「景色を眺めることも無く、ただ黙々と歩くこと」を「一里夢中」という四字熟語で、遠い将来、言い表すようなことになるかもしれない。
     

 その一里は、まったくトホホの旅となった。雨は時々強くなるし、山のことなので風が強く、ただでさ え小さい折り畳み傘がその強風で引っくり返され、骨が2本折れて、さらに小さくなってしまった。その小さい傘をバッグが濡れないように差して歩いたので、体はいくらか濡れてしまった。いつもより速く歩いているせいで、体は汗でも濡れていた。「ビールが旨い、ビールが旨い」と、後のビールを想像し、リズムをとって歩いた。
 4時過ぎ、口屋内に着く。そこには民宿があった。こんな淋しいところに宿泊する人って四万十川の研究者か何かだろうかと初め思ったが、民宿の名前に舟がついているのを見て判った。たぶん、鮎釣をする人たちのための民宿なのである。「そうだ!鮎だ!」と思い出した。鮎を食べるために私は四万十へ来たのであった。「よっしゃ!四万十の天然鮎を食うぞ!その前にビールを飲むぞ!」と、それらのありそうな店を探した。
     
     
     

 13、テレビ取材中

  郵便局があったので中へ入り、局員に、ビールが飲めて食事のできる場所と、中村行きのバス停の場所を訊いた。すぐ近くに食堂があるとのこと。バス停はそこから徒歩30秒の場所にあるとのこと。その通り、すぐ近くに食堂があった。入った。
 食堂は婆さんが二人でやっている店。4時過ぎという時間帯にしては客が多い。何かワサワサしている。構わず、空いているテーブルへ座る。
 「お客さん、もう遅い時間で料理残ってないけど、いい?」とカウンターの向こうから婆さんの一人が声をかける。さらに、その婆さんはカウンターから出てきて、
 「ここにある料理、どれでも好きなだけ食べて1000円」と言う。カウンターの上には10種類くらいの料理が皿に盛られてあった。
  「バイキング形式なの?」と訊くと、「そう」とのことであった。
 「それよりも、先ず、ビールください。」と私は頼んで、待ちに待ったビールを飲む。これこそが至福の時、めったに味わえない旨いビールであった。
     

 ワサワサしていた理由は、6人ほどの団体客が、じつは客で無くてテレビの取材チームであったからだ。ディレクターがいて、インタビュワーがいて、カメラマンがいて、ライティングがいて、もう一人はおそらく運転手。その中のディレクターらしき人が、
 「すみません、NHK高知のものです。テレビ番組の撮影です。少しの間ガサガサしますが、気にしないでください。」と言ってくれた。で、気にせず私は飲み、食った。
  撮影は3日前からやっているとのこと。6人は泊り込みの仕事で、今日が最終日とのこと。で、その最後の日の、最後の時間に、漁師があるものを持ってくるのを待っていた。私が2本目のビールを頼んだ時、そのあるものがやってきた。テナガエビであった。テナガエビの唐揚げを婆さんが作り、その過程を撮って、番組の撮影は終わりとなった。
 獲れたてのテナガエビの、揚げたての唐揚げを、私も食べさせてもらった。テレビの撮影が無ければ、こんな幸運も無かったに違いない。ところが、肝心の鮎が無かった。訊けば、今年は不漁で、天然鮎はまだ数が少ないとのこと。残念な事であった。
 その店に置いてある食い物はタケノコの煮物などであったが、一つ、珍しい食い物があった。苦味があって、酒の肴に合う。クサリナという名前であったが、詳細は不明。
     
     

 14、遅れないバス

  口屋内から中村へ行くバスは日に3本しかない。私がビールを飲みながら待っているのはその最終便。5時35分の発。待っている場所からバス停までは30秒。5時30分に出て十分間に合う。「沖縄から来た」ということを肴に、婆さん二人とユンタク(おしゃべり)し、NHKの取材班とも声を交わし、テナガエビを食い、タケノコを食い、クサリナを食い、ビール大瓶2本を飲み干して、5時30分、店を出る。
 バス停までは30秒かからなかった。バス停には爺さんが一人立っていた。
 「中村行きのバスはここで待てば良いですね?」と念のために訊いた。爺さんは、
 「あー、そうだけど。でも、もうバスは出たよ。」と答えた。ここのバスは、客がいない時は早めに出たりすることもあるのだそうだ。沖縄のバスは時刻に遅れるのが当たり前だが、ここのバスは遅れるどころか・・・なのであった。

 遅れないバスは私を送れない、なんて洒落言っている場合じゃないのだ。どうする?オジサン。中村まで23キロ、今さら歩いてなんてできない距離だ。店に戻って、タクシーを呼んでもらうことにした。が、ここにタクシーは無いとのこと。のんびりビールを飲んでいたばかりに沖縄のオジサン、ピンチ、どうする?
  婆さんの知人に昔タクシーの運転手をやっていた人がいて、その人に頼んでみるとのこと。で、了解を得る。助かった。中村まで5千円の出費となったが、無事、ホテルに着くことができた。旅は道連れ、世は情けであった。ありがとうございました。
     

 ホテルに着いて、荷物を置いて、飲み屋を探す。が、大雨で、骨の折れた傘を差して歩くには少しきつかった。15分で諦めてホテルに戻る。ホテルのレストランに入る。ここで思いがけず、天然鮎に遭遇する。小ぶりの鮎であったが1200円した。さすが天然、しかも出始め、なのであった。もちろん、美味しかった。
 レストランでテレビのニュースを見る。高知地方は梅雨入りとのことであった。
     

 記:ガジ丸 2006.6.17~6.19  →ガジ丸の旅日記目次


愛媛高知の旅2006春-松山宇和島編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 1、見えざる妨害者

 飛行機は11時50分発。余裕がある。家からバス停まで10分、バス停から首里駅まで10分、首里駅から空港まで30分、計1時間とみて、10時に家を出れば出発の50分前には着く。何の不安も無く出発を待つことができる。旅はこうでなくちゃ。
 旅に出る前、ゴキブリ退治シロアリ退治のため、いつも殺虫剤を部屋にまいていく。ほとんど1缶全部使うほどたっぷりまく。まき終わって、ドアの鍵を閉め、予定通り10時に出る。朝、ゴミを出す時にバッグを車の中に入れ、車の鍵は開けたままだ。

 小雨が降っていたが、傘も車の中。小走りで車に向かう。ところが、車は鍵がかかっている。どうやら、電子ロックのボタンをうっかり押してしまったようだ。キーを取りに部屋へ戻る。殺虫剤がモウモウとした中を入り、キーを取って、降りて、ロックを外し、部屋へ戻ってキーをドア近くの棚へ置いて、部屋の鍵を閉め、車へ走る。ところがまた、鍵がかかっている。走っている拍子にボタンを押したようだ。また部屋に戻る。今度はモウモウとした殺虫剤の中へ入らずに済んだが、ちょっと汗をかいていた。
 今度は慎重に、ちゃんとロックが外れていることを確認し、電子ロックのボタンに触れないようキーを持って、部屋に戻り、キーを置いて、ドアに鍵をかけ、降りる。ところがなのである。慎重にやったのにも関わらず、またもや車は鍵がかかっていた。何か見えざる妨害者が意地悪をしているみたいである。雨には濡れるし、汗はかくし、なのだが、ここで癇癪をおこしてはいけない。落ち着く。部屋へ戻って、キーを取り、降りて、ロックを外し、今度はドアを開けたままにする。そうしてやっと、バッグを取ることができた。車にロックをし、傘を差してバス停へ向かう。10分少々のロスとなった。

 急ぎ足でバス停まで歩いたが、私が着いた時、バスは出たばっかりのようであった。次のバスまで15分ほど待った。そんなこんなで、那覇空港に着いたのは出発の30分前。それでも余裕なのだが、汗と雨でシャツを濡らしていた私はあまり良い気分では無い。何か前途に不幸が待っている旅になるのではないかと、少し不安になる。

 2、危うく帰りが

 自動手続きの機械で搭乗手続きを済ませ、マイレージの登録も素早く済ませる。いかにも旅慣れた人間のようである。「どうだい」というような顔をしていたかもしれない。そんな顔で、搭乗口前の待合にドカッと座り、汗をかいたこともすっかり忘れる。
 出発の10分前、「機内へのご案内」が始まった。「お年寄り、お子様連れのお客様を先に・・・」というアナウンスが終わった後、「松山へご出発の・・・」と私の名前が呼ばれた。「なんじゃい、何かミスをしたか?俺が?」と思いつつカウンターへ行く。
 「落し物です」と手渡されたものはホテルの予約プリントと、帰りの航空券であった。自動手続きの機械の前に落ちていたということであった。ホテルの予約プリントはホテル名とそこの地図、電話番号が書かれているもので、失くしても、まあ、何とかなるものであるが、航空券を失くしたら、帰れなかったかもしれないのである。冷や汗。

 3、濡れた口紅

 松山に着いて、駅で宇和島行きの特急の時刻などを調べ、ホテルにチェックインする。社員教育のよくできたホテルで、フロントの若い女性は「心よりお待ちしていました」といった雰囲気で応対してくれる。雨の沖縄と違って松山は爽やかな青空だった。その空のように私の心も彼女のお陰で晴れ晴れとした気分になった。
  彼女に名前を告げ、ホテル予約のペーパーを見せる。近くでじっくり見ると、とても可愛い女性。そして、何かキラキラしている。もしかして目が潤んでいる?ひょっとして私に一目惚れでもしたか?などと、得意の妄想世界へ入る。
 よく見ると、唇がキラキラしているのであった。まさか、油物を食べて、唇を油でテカテカさせているわけではあるまい。キラキラさせるような口紅があるのだろう。
 濡れた口紅は、私の好きなピンク色で、まるで、「あなたのことが好きよ」と言っているみたいであった。「僕も、君が好きです」と、私は言いたくなるのであった。
     

 4、ついていない旅

  ホテルの部屋に入って一服した後、カメラ、スケッチブック、ペン、ガイドブック以外の荷物を出して軽くなったバックを背負って散歩に出る。先ず、ホテルから近くにある愛媛県立美術館へ向かう。美術館巡りは私の趣味であり、欠かせない。ところが、美術館は閉まっていた。美術館の休館日は普通月曜日なんだが、その日は特別に休みだった。
 今さら道後温泉、一草庵は遠い。しょうがないので、美術館の近くにある松山城見学に予定を切り替える。城郭に興味があるわけでは無いが、松山城は美しい城だとガイドブックに書いてあったので、観ておくことにした。
     

 城の麓に着くと、何やら工事をしている。石垣の補修工事のようである。訊けば、2、3年前の地震で石垣が危険な状態になったのだそうだ。それでも、立ち入り禁止の箇所はごく一部で、城内のほとんどの部分は見学できるとのこと。城のてっぺんへ向かってテクテク歩く。道々、写真を撮りながら2時間ばかりかけて本丸へ辿り着いた。
 美しいと書かれてあった本丸は、全体のごく僅かであった立ち入り禁止の箇所に含まれていた。そこは修復中で、ネットに覆われて観ることはできなかった。
 
 翌日、道後温泉にある正岡子規(ちょっと興味がある)記念博物館へ行ったが、そこもまた、たまたま休館であった。館内整備とのことであった。
 道後温泉をさっと見て、一草庵へ行く。山頭火の終の棲家であったところ。一人住まいにしては意外と大きいなという感想。私ならこの半分でいいかなと思う。そこもさっと見て、昨日見学できなかった県立美術館へ行く。美術館は常設展のみであった。この日曜日までやっていた企画展はピカソとモディリアーニの作品展だったそうである。二人とも私の大好きな画家である。先週来ていればと、ちょっと後悔したのであった。
     
     
     

 5、坊ちゃん100年、パチンコ86年

  高校生の頃、夏目漱石が好きで、その作品のほとんどを読んだ。彼の思想についてはよく理解できていなかったが、そのユーモアは大好きであった。
 今回の旅の目的はいくつかあるが、その一つに、漱石ゆかりの地である道後温泉を訪ねるということも含まれている。道後温泉は確か、『坊ちゃん』の舞台になっていた。
 道後温泉の、アーケードのある商店街には横断幕が張られてあり、それには「小説『坊ちゃん』発表100年」と書かれてあった。『坊ちゃん』発表100年とは私も知らなかった。これはこれは何とも運の良い偶然。100年を記念しての何か面白いこ とがあるに違いないと期待して、街をブラブラした。ところが、横断幕はあんなにも堂々と張られてあったのに、特別な行事は何も無いようであった。何のこっちゃい!だった。
     
     
     

 大学生の頃、パチンコが好きで、よく通った。よく通ってたくさん負けた。たくさん負けたお陰で貧乏が、さらに酷い貧乏に変化することもたびたびあった。それでも、金が入るとパチンコ屋に通った。それほど好きだったパチンコも、ここ10年ばかりはトイレを借りる時くらいにしか入らない。パチンコをやる金は持っているが、パチンコをやっている時 間が勿体無くなったのである。オジサンに残されている時間は短いのだ。
 道後温泉の商店街の入口にパチンコ屋さんがあった。そのショーウインドウに古い形式のパチンコ台が飾られてあり、その横に説明文がある。パチンコは86年の歴史があるとのこと。そんな昔からあって、今なお、パチンコ中毒患者を大勢輩出するほどの隆盛。坊ちゃん100年には驚かなかったが、パチンコ86年にはちょっと驚いた。
     
     

 6、久々の鯨

  松山での夜、居酒屋を探して、ホテルから比較的近いJR松山駅へ向かう。駅の周辺を1時間近くブラブラしたが、らしきものは無い。しょうがないので、ホテルの日本料理店で酒と肴を取る。三十は越しているが可愛らしい顔をした仲居さんが愛想良くて、いろいろおしゃべりしてくれた。飲みに行くなら徒歩20分ほどの市役所近く。遊びに行くなら徒歩では遠い道後温泉とのことであった。疲れていた私は、ビールをジョッキ2杯と日本酒2合で良い気分になり、部屋に戻って、寝た。

 その店で何を食べたか覚えていない。写真を撮 り忘れてしまった。その翌日は宇和島に宿泊したが、そこでの肴は写真に撮った。ホテルの人に紹介してもらった和食の店で鯵の塩焼きと鯨のタタキを食べる。沖縄では見たことの無い大きさの鯵は新鮮で、とても美味しかった。「食べてはいけない」とヒステリックに叫ぶ人もいる鯨は、数年前の長崎の旅以来久々であったが、これまた、とても美味しかった。
 食物からはエネルギーだけで無く、美味しいという幸せも貰う。食えるなら、熊も鹿も虎も食う。犬も猫も山羊も食う。美味しけりゃ、蝉も蜥蜴も鼠も食う。鯨は旨いので、もちろん食う。たくさんの命を頂いて人間は生きている。ありがたや、ありがたや。
     
     

 7、メモリーが足りない

 今回の旅のために、カメラ用のメモリーカードを買った。それまで128メガを使っていたが、その4倍の512メガ。大きなサイズの画像で約400枚撮れる。もちろん、予備として128メガも持っていく。合わせて500枚。400枚で十分なので、500枚なら十二分ということ。大船に乗った気持ちとはこのことを言うのだろう。
  ところが、その余裕が災いしたのである。何でもかんでもバシバシ撮ってしまい、初日は午後2時過ぎから使い始めたのであるが、その半日で200枚近くになる。翌日の夜には512メガが満杯になってしまった。宇和島の夜、飲み屋での酒は8時過ぎに切り上げて、ホテルに帰り、コンビニで買った日本酒をちびちびやりながら、面倒臭がってめったに使わない老眼鏡(今はもう旅の必需品)をかけ、要らない写真を消去する。その作業は翌日の夜も、その次の夜も、ホテルの部屋で日本酒をちびちびやりながら続いた。おかげで今回の旅は、私の夜のメモリー(思い出)も足りないのであった。
     
     

 8、狭まる禁煙包囲網

 二日目の朝、ホテルのレストランで朝食を取る。食後、コーヒーを飲みながらタバコを吸いながらその日の予定を立てるのが、私のいつもの習慣。であったが、その日、「タバコを吸いながら」ができなかった。レストラン内は全て禁煙だった。
  三日目の朝も「タバコを吸いながら」はできなかった。去年の秋の旅までは、朝食の食堂内は概ね分煙であった。吸える席が少なからずあった。が、今回は2つのホテルが全面禁煙。世の中はもうそういうことになっているのだろうと思い、四日目の朝はタバコを持たずに朝食へ出かけた。そのホテルはしかし、喫煙席があった。ただ、そのホテルだけが今回は特別であった。五日目の朝も、レストラン内は全面禁煙であった。

 そういえば去年までは、ホテルにチェックインする際、
  「タバコはお吸いになられますか?」と訊かれた。今回はそれが、
 「禁煙室をご用意できますが、いかがしましょう?」となっていた。つまり、去年まではタバコを吸うのも“普通”の内であったのが、今年からはそれが、“普通”から少しランク落ちしたみたいなのである。「禁煙室をご用意できますが、いかがしましょう?」と訊かれ、「吸います」ときっぱりはっきり、胸を張って答えた私であったが、あともう数年もすると、その「吸います」は、申し訳無さそうな小声になるに違いない。
 狭まる禁煙包囲網である。まあ、タバコを嫌がる人がいる以上、それはしょうがないことである。ただ、できれば、町中全面禁煙だけは避けて欲しい。数少ない愛煙家のためにも、喫煙喫茶とか、喫煙酒場とか、喫煙休憩所というのはいくつか残して欲しいものである。禁煙法なんてものができないよう、法律が心までも縛らないよう願うのみである。

 9、名前だけでもカッコ良く

 三日目の朝、宇和島から四万十川上流にある町、江川崎へ向かう。電車は前日に調べておいた。「しまんとグリーンライン」という名の電車、9時35分発、江川崎駅へは10時42分着、1時間ちょいの鉄道の旅。地形から考えて山登りの路線。
  沖縄で地図を見たときには、その路線、JR予土線という名前だった。電車に慣れないウチナーンチュはここで勘違いする。JR予土線という各駅停車の他に、しまんとグリーンラインという急行があると思ったのである。で、ビールとつまみを買って乗り込む。ところが、しまんとグリーンラインは一両編成の左右向かい合わせの電車。その中で飲み食いする人はいない。私のビールとつまみは、その夜のホテルに着くまで荷物となった。
 そういえば、数年前の長崎の旅でも、佐世保から長崎へ向かう電車にカッコイイ名前の電車があったが、乗ってみると一両編成の通勤電車であったことを思い出す。なんだか騙された気分のウチナーンチュなのではあったが、「名前だけでもカッコ良く」というのは会社としての経営努力なのかもしれない。であれば納得。以後、気をつけます。
     

 記:ガジ丸 2006.6.11~6.14  →ガジ丸の旅日記目次


八重山オジサン三人旅-前編

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

1、いつもこうだから

 「悲しいとき」
 「悲しいとき」
 「擦り傷の跡が1年経っても消えずに、歳だなあーと感じたとき」
 「悲しいとき」
 「悲しいとき」
 「足指の関節の間に縦皺ができて、歳だなあーと感じたとき」
 「悲しいとき」
 「悲しいとき」
 「夕日が沈むとき」
などというネタを持つお笑いコンビは“いつもここから”であるが、私の旅は“いつもこうだから”から始まる。

 「八重山スケッチの旅」の出発の日、朝起きるのに大いに不安があったので、同行の友人Hと、同僚のTにモーニングコールを頼んだ。二人は約束をちゃんと果たしてくれた。であるが、私が那覇空港に着いたのは出発の20分前。搭乗手続きをし、手荷物検査を受け、出発ロビーに着いたのは7、8分前であった。
 既にそこにいたHに、「さすが旅慣れているな。余裕だな。」と言われたが、けして旅慣れているからでは無い。“いつもこうだから”時間ギリギリに慣れているだけである。焦りが顔に出ないだけである。また、けして余裕では無い。家を出て、バスに乗って、モノレールに乗り換えて、空港に着いて、搭乗手続きと手荷物検査を終えるまでは、ずっとハラハラドキドキだったのである。不安でドキドキ、走ってドキドキするから、心臓に悪いことこの上無い。こんなんで、私は我が寿命をいくらか縮めているかもしれない。

 遅れたことの原因はある。3日前の火曜日に伏線はあった。その夜、鶏鍋を作った。家族用の大きな土鍋いっぱい作った。これを3日分の食料とするつもり。翌日の夜、急な飲み会が入った。よって、その夜、鶏鍋は消費されなかった。朝昼の2食分、汁椀2杯分が減っただけ。翌日、急に現場仕事となった。朝も食う時間が無かったので、鶏鍋は夜の1食分が消費されただけ。出発の朝、鶏鍋はまだ、鍋の半分は残っていた。前日の冷ご飯も残っていたので、朝飯を鶏雑炊とした。これが、量が多い上に熱かったもんだから、食うのに時間がかかった。そのせいで、私の出発が遅れたのであった。
 コーヒーを飲む暇はもちろん、髭剃る暇も、雲子する暇も無かった。飛行機の中でずっと我慢していて、石垣島へ着いて私の旅は、雲子から始まったのであった。
      
 記:ガジ丸 2005.11.7



2、史上初の快挙

 石垣島へ向かう飛行機は、朝早い便だというのに満席。機内の雰囲気からその理由が何となく判った。客の多くがたぶん、前日、九州高校野球大会で石垣の八重山商工高校を応援していた人たちなのであった。地元の高校が準優勝したという幸せが、機内に何となく漂っていた。選手の縁者や学校関係者などもいたかもしれない。
 離島の高校が、正式に甲子園出場を果たすのは史上初の快挙らしい。私はスポーツ観戦にはあまり興味が無くて、高校野球のテレビ中継もほとんど観ないのであるが、同行の友人Hはスポーツ大好き人間。サッカー、ゴルフ、格闘技に詳しく、高校野球も大好き。彼の情報によると、八重山商工高校にはリトルリーグから始まる“聞くも涙、語るも涙”のドラマがあったらしい。そのうち、「プロジェクトX」の材となるかもしれない。
 八重山商工高校に行って、甲子園出場おめでとうの横断幕の写真でも撮って、ガジ丸HPに載せようと思った。ホテルについて、受付の人(オジサン1人、お兄さん1人)に場所を訊いた。八重山商工高校の名前を出したとたん、二人の表情が緩んだ。史上初の快挙は石垣島の、ほとんどの人の喜びとなっているんだなあと感じた。
 何だかんだあって、結局、八重山商工高校には行けなかったが、翌日の夜、石垣祭りの出店に八重山商工高校も出店していて、その看板の写真を撮った。
      
 記:ガジ丸 2005.11.8



3、ライバルへ客を送る

 空港から石垣の市街地は近い。ホテルには10時前に着いた。チェックインの時間は午後2時頃だったと思うが、八重山商工高校の準優勝で機嫌が良かったのか、あるいは、元々親切なのか、ホテルの人は、我々をチェックインさせてくれた。

 そこからすぐに竹富島へ渡る。竹富島へは船で15分。港から集落のある場所へ向かって、オジサン二人ブラブラ歩く。同行の友人Hは景色を、私は動植物の写真を撮りながらだから、ホントにブラブラという言葉がピッタリののんびり散歩となった。
 休み無しで3時間あまり島内を散策した後、腹減ったので昼食を取ることにした。時間は2時前となっていた。集落の中心近くにある“なごみの塔”に登って、竹富島の景色を俯瞰(高いところから見下ろすこと。鳥瞰とも言う。ガジ丸は日本語の勉強にもなる。)した後で、そこからすぐ近くにあった食堂へ入る。食堂は満員だった。
 運良く、すぐに席が空いたが、座ると、「30分以上待つことになりますが、よろしいですか?」と店のお姉ちゃんが言う。30分以上待つのは嫌だったので、「ビールだけでいいや」と生ビールを注文する。生ビール一杯とタバコを2本吸う。その間、客が十数人食事を終えて出て行ったが、新しい客が十数人次々と入ってきて、席は常に8割がたは埋まっていた。お姉ちゃんに訊くと、「今日は特別忙しいです」とのことだった。
 厨房を見ると、料理人はオジサン一人。あまりにも忙しかったのだろう、オジサンは客からの注文を聞くたびに怒ったような顔になった。たぶん、「嬉しい悲鳴をあげる」というレベルを超えていたのである。「冗談にも程がある」という気分だ。

 その店を出て、数分も歩くと別の食堂があった。そこは客が少なかった。竹富島は道が分かり辛い。どの道にも石積みの塀と赤瓦の家があって、どこも似たような景色であるからだ。その中で、“なごみの塔”は目立ち、そのすぐ近くにある食堂も目立つ。他の店を知らない客はそこを選ぶ。で、そこだけが満杯となる、ということかもしれない。
 店の壁に、「近くには別の○○という食堂があります」という張り紙をして、地図も添えておけば、客も喜ぶし、他の店も喜ぶであろう。「ライバルに客を送る」なんて、「敵に塩を送る」みたいなこと、なかなかできないことではあるが。
      
 記:ガジ丸 2005.11.8



4、ゆっくり散歩でたくさん

 今回の八重山の旅には「八重山スケッチの旅」という名前を付けた。同行の友人Hは商売人であるが、絵描きでもある。彼がかねてから竹富島旅行を望んでいたので、今回の計画となった。スケッチといっても、スケッチブックに絵を描くわけでは無い。主にカメラでスケッチし、目でも見て、心にもスケッチするということである。

 竹富島に上陸して5分後にはHがカメラを構える。その2、3分後には私がカメラを構える。Hの対象は建物や道を含めた景色、私の対象は動物や植物。それぞれ立ち止まる場所が違うものだから、とてもゆっくりした散歩となった。
 港から集落へは徒歩10分くらいだろうか、それを、我々は倍以上かかっている。その道中で私は、スジグロカバマダラ、シロオビアゲハ八重山亜種、クマバチ八重山亜種、ハシブトガラス、ショウジョウソウ、オオバイヌビワなどの写真が撮れた。
 集落に入ってからはHの方が多く立ち止まる。彼が描きたいと思う景色があちらこちらにあったようだ。途中、ビールを一杯飲み、さらに歩いて、2時間後にまた、同じ食堂に戻って私はビールを飲み、画家は八重山そばを食い、その後、港へ向かいながら写真を撮りつつ、夕方5時半頃に竹富島を離れた。約7時間の竹富島散策であった。
      
 7時間のゆっくり散歩で我々はたくさんの写真を撮った。画家は約200枚、私は約150枚、画家も大満足していたが、私の方もベニモンアゲハ、カラスアゲハ、タテハモドキ、リュウキュウアサギマダラ、クビワオオコウモリなどの動物、ハネセンナ、フトボナガボソウ、ノゲイトウなどの植物など、まだ調べの終わっていないものも含めて50枚ほど、ガジ丸で紹介できる写真が撮れた。紹介するまでには時間がかかりそうだが。
       
 記:ガジ丸 2005.11.8



5、探せないライブハウス

 竹富島から石垣島へ戻ったのは6時頃、ホテルへは寄らずに、すぐに飲み屋を探す。旅するピアノ弾きの鈴木亜紀がライブをやったという店を探す。9月に那覇でライブがあったときに、「どんな店ですか?」と訊いたら、彼女は「いい店ですよ。」と答えた。愛する人が「いい店」と言うのであれば、ぜひ行ってみようと思ったのである。
 確か、そのライブハウスは石垣のもっとも賑やかな商店街の中にあると言っていた。アーケードのある辺りだ。で、その辺りを探すことにする。が、私は店の名前を覚えていなかった。それでも、沖縄の暢気なオジサンは、看板を見れば思い出すかもしれないと甘い見通しなのである。Hを連れてアーケードの近くに向かう。するとすぐに、あっと思う看板が目に入った。南風と書いてパイカジと読む看板。パイカジは、鈴木亜紀のホームページに記述があったことを覚えている。が、ライブハウスの名前であったという確信はまったく無い。しかし、歩き回るのも面倒だったので自分自身に妥協し、中へ入る。その日、別便で鹿児島から来ている友人のNも合流し、三人で楽しい夜を過ごした。

 翌日、Hとは朝から、Nとは午後3時から別行動だったので、夕方、一人でライブハウスを探す。名前はずっと思い出せないまま。大きな土産物屋に入って、そこの従業員である若い女性に、「市内のライブハウスを探している。名前が思い出せない。いくつかライブハウスの名前を言ってくれたら思い出すかもしれない。」と頼んだら、「オールディーズの店なら知っています」と言って、場所を教えてくれた。
 鈴木亜紀はジャズであり、ブルースであり、フォークであり、民謡でもあるのだが、オールディーズというジャンルの音楽とは違うだろうと思いつつ、教えられた場所へ行く。が、そこでは無かった。結局、その日もライブハウスは探せなかった。
 旅を終えて、翌日出勤して、職場のパソコンで確認する。ライブハウスはアーケードの通りにあった。公設市場の真ん前、公設市場へ私は数回行っている。その前も数回通っている。公設市場から出た時、目の前の店の看板を、私は1度も見なかったようだ。
      
 記:ガジ丸 2005.11.8



6、点から点の行動

 鈴木亜紀の名前を前頁で出したが、彼女の作品の中に「私たち点と点だね」というフレーズがある。点と点、ポツンとポツン、二人でいても淋しい。

 「八重山スケッチの旅」二日目は、朝早くから鹿児島の友人Nと(画家のHはこの日別行動)西表へ渡り、ジャングル体験をした。25年ほど前、大学生の頃に私は西表ジャングル散策を一度経験している。25年も前のことなので、記憶に西表の景色はほとんど残っていなかったが、そうきつい山登りでは無かったことは覚えている。
 浦内川の下流からボートに乗って途中まで行き、そこから岸に上がって、歩いてマリユドゥの滝、さらにその上のカンビレーの滝まで登って、ボート乗り場に戻ってくる。「12時に迎えに来ます。それまでにこの船着場までに帰ってきてください。」と船の操縦士は言う。12時までには約2時間半ある。「のんびり歩けるな」と私は予想する。
 船には我々2人を含め20人ほどの客がいた。若い人だけでなく、中年以上、年配の方も多くいた。私はのんびり歩きたかったので、最後尾を行く。途中、何人かを抜くこともあったが、30分後位からはずっと最後尾。そんな私に友人のNも付き合ってくれた。
 カンビレーの滝の手前にあるマリユドゥの滝の、その手前で、既に帰り道の数人とすれ違った。「速いなあ」と思う。歩くとき、彼らは景色を観ていないのだろうか、と思う。歩くとき、彼らはそこにいる生き物たちに目が行かないのだろうか、と思う。歩くとき、彼らはそこの匂いや、音や、空気を味わうことをしないのだろうか、と思う。

 出発点は点、目的地も点、点から点への移動をし、点を観ることだけを目的とすると、その途中の楽しみが消えてしまうのでは無いかと私は思うのである。
 旅先で、私はなるべく歩くようにしている。歩いていると多くのものが目に入る。多くの音が耳に聞こえる。車を運転しての旅を、私は苦手にしている。運転していると、その間に感じられることが少なくなるからだ。遠い距離だと電車やバスを利用する。電車やバスでも、いくらか景色や音を感じることができる。線を味わいたいと私は思っている。
      
 記:ガジ丸 2005.11.9



7、登山申請の必要な横断道

 浦内川でのマリユド(マリユドゥとも)、カンビレーの滝散策を終えて、ジャングルツアー入り口にあるバス停へ戻る。そこで、大原港行きのバスを待つ。
 西表島には客船の出入りする港が3つある。島の北側にある上原港、船浦港(この2つはごく近い)と南側にある大原港。我々は、石垣島から西表島への往路を浦内川に近い船浦港とし、復路を大原港とした。浦内川入り口のバス停から大原港までは1時間ほどの行程。島の中心から見ると、北西の端から真裏の南東の端へ海岸沿いを走る道。島の景色をのんびり眺めながらバスに揺られてみようとの計画。

 バスの時間まではだいぶ間があったので、昼飯を食うことにする。近くに喫茶店があったので入る。喫茶店なので、その土地独特の飲み物(マンゴーとかパイナップルのジュース)はあったが、その土地独特の食い物は無い。で、私と同行の友人のNは生ビールだけとした。飲みながら、その風貌からおそらく倭人の兄ちゃんに訊く。
 「浦内川の案内チラシを見ると、カンビレーの滝からまだ先に道があって、島の中心辺りを通って大原のに抜けることができるみたいだけど、行けるんですか?」
 「行けますよ。さっさと歩いて8時間、休み休みだと10時間ほどかかります。早い時間に出発しないと暗くなるまでに大原へ着きません。」
 「それじゃ、野宿の準備もしていった方がいいですね。」
 「いや、野宿は厳しいですね。ハブは出るし、ヒルもいるし、蚊は多いし。それに、暗くなると道に迷うこともあります。そうなると危険です。」
 確認はしていないが、西表島の山は標高400mあるかないかの高さであろう。ちょっとした丘越えの散歩道と私は甘くみていたが、さすがジャングルなのであった。その西表横断道、渡る際には登山申請をする必要があるということであった。
      
 記:ガジ丸 2005.11.12



8、人の手も借りて

 船浦からバスに約1時間揺られて大原港に着いた。バスに揺られてのんびりと西表の景色を眺めるはずであったが、山歩きの疲れとビールの酔いもあって、その間、私は大方寝ていた。夏のような日差しの下で、南の青い海がちらちら輝き、街路樹のところどころにフヨウの白い花が満開であったのを覚えているくらいであった。
 大原港には海中遊覧船なるものがあった。沖縄にはよくあるグラスボートのようなものであろうと思われた。海底の状況、とりわけサンゴの生育状況については興味があったので、1時間の遊覧で3000円は「ちと高けぇなー」と思ったが、私はそれに乗ることにした。同行のNは少し悩んでいたが、海底観測には参加せず、先に石垣へ帰った。

 遊覧船は思っていたよりも倍くらいの大きさの船。デッキで夕日を眺めながらビールを飲むのが似合いそうな船。グラスボートとはだいぶ違う。乗ると、案内のお兄さんは船底のある船室では無く、上部のデッキへ上がるよう指示した。「ん?海底を観るんでは無いかいな?」と私は疑問に思いつつ言われた通りにする。デッキに上がるとすぐに説明があって、サンゴの群落のあるポイントに着くまではクルージングを楽しんでくださいとのことであった。きれいな景色と潮風、ビールを持ってくりゃ良かったと、私は後悔した。
 25年前に私は西表島を訪れている。その時には、西表の海はサンゴだらけであった。だらけという形容詞はオーバーな言い方では無い。釣りをしようと、泊まっていた家の近くの浜に出た。潮が引いていたのでリーフの辺りまで歩くことにした。浜からリーフまではいくつもある潮溜まりの箇所を除いては、そのほとんどがサンゴで覆われていた。サンゴを踏まなければ歩けないのであった。「ごめんね、ごめんね」と私はサンゴを踏み潰しながら歩いたのだが、さすがに良心の呵責に耐えかねて、途中で引き返したのである。

 20分ほどのクルージングの後、船はポイントに着いた。客(5人)は船室に案内された。船室の底にはガラス貼りの部分は無くて、そこは腰掛ける場所となっている。壁が、前面と両側面、大きなガラス窓となっている。「ほほう」と思っていると案の定、船室の部分だけが降下した。ガラス窓の上端までが海底に沈んだ。西表の海底がそこにパノラマとなって現れた。本土からの観光客の4人が歓声をあげる。
 確かにきれいな景色。歓声はもっとも。さまざまな形のサンゴが辺りを覆い、さまざまな種類の熱帯魚たちが辺りを泳いでいた。しかし、生きたサンゴの下には白化したサンゴの死骸も目立った。25年前にはほとんど気付かなかったサンゴの死骸。私は歓声を上げる気にはまったくならなかった。そもそも、20分も船で移動しなければサンゴの群落が見られないなんてことだけでも、私はいくらか気分が沈んでいたのだ。

 海底観測が終わって、再びデッキに上がる。案内のお兄さんに尋ねる。
 「私が前に見たときより、サンゴの死骸がずいぶん目立つんだけど?」
 「お客さんが前にいらしたのは何年前ですか?」
 「25年ほど前」
 「25年前は、サンゴは昔のままだったのです。ちょうど今から20年前に激変したのです。サンゴがほぼ壊滅状態となりました。原因はオニヒトデです。でも、この20年でだいぶ回復しています。あれでも見違えるほどなのです。」
 確かに、観たポイントも死んだサンゴの上を生きたサンゴが8割がた埋めていた。回復は順調のようであった。それは行政の力だけでは無く、ダイバーたちのボランティアによるオニヒトデ駆除活動が大きな力となったらしい。オニヒトデの異常発生も、元はと言えば人間による地球温暖化が原因と言われている。人間のせいで滅びそうになったのだ。ここは人の力も借りて回復するのに遠慮は要らない。私はオニヒトデ駆除などできないが、環境問題に関心を持つということで遠巻きながら応援する。サンゴの繁栄を祈る。
      
 記:ガジ丸 2005.11.12 →ガジ丸の旅日記目次


新潟から山越え東進の旅2005秋

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 1、旅の初めは20分前

 出発の日、新潟への便は午後1時過ぎ。時間に余裕があった。埼玉の友人に「会えますか」という内容のメールを送る。「会える」との返事。何か土産を買って行くかと考えながら、旅支度をする。3泊4日分のパンツ、Tシャツ、靴下などをバッグに詰め、カメラ、筆記具などを入れ、最後に、航空券の確認、3泊の宿の予約確認などをする。
 宿は3泊ともインターネットで予約しており、旅行会社からの予約確認メールをプリントアウトして、宿の名前、地図などが分かるように準備してある。・・・はずであった。ところが、2泊目の高崎、3泊目の赤坂のホテルについてのプリントはあったが、1泊目に泊まる予定の、新潟の宿のプリントが無い。予約ができているのかどうか不安になる。電話番号も無いし、宿の名前さえも覚えていない。さて、どうしたもんかと。

  近く(車で10分)にある友人の店へ急ぐ。パソコンを貸してもらって、旅行会社にアクセスして、改めて予約確認をすればいいのだ。予約確認のページへ入るには、会員番号と、登録した連絡先電話番号が必要となる。電話番号は、職場か、金曜日の職場か、あるいは携帯電話のどちらか、3回挑戦すればいずれかが当たる。ところが、会員番号が分らない。思い当たる番号をあれこれ入れて試すが、なかなか当たってくれない。焦る。焦るが、落ち着くように自分に言い聞かせ、ゆっくり考える。簡単なことであった。番号照会をすればいいのだ。そして、やっと予約確認メールを受け取る。ここまで1時間。
 そこからの帰り、スーパーへ寄って土産物を買い、家に戻って荷物を取って、空港へ。私にはよくあることだが、搭乗手続はそのギリギリの出発20分前となった。
 旅の計画をほとんど立てていなかったので、待合でノートを広げようと思ったが、席が空いていない。飛行機は満席との表示があったが、確かに客がいっぱい。いっぱいの客の三分の二を占めている団体がいたのだ。修学旅行の高校生たちであった。女子高生のキャッ、キャッ、キャッという笑い声と、話し声で、賑やかな待合であった。

 2、傍若無人の周波数

 たくさんの修学旅行の高校生たちと一緒になった機内ではあったが、さすがに彼らも機内ではさほど騒ぐことは無く、しかも、後部の座席にまとめられていて、前部にいた私はほとんど彼らのことを気にせずに済んだ。じっくりと旅の計画を練ることができるはず。手元を照らす灯りを点けて、ノートを出し、予定を書いていく。
 隣のオヤジ(といっても私よりたぶん十歳は若い。髭面が老けて見える)が新聞を読み出した。オヤジは新聞を広げるので、それだけでも鬱陶しく思うのだが、私の手元を照らす灯が遮られて困った。このオヤジ、スポーツ新聞3紙と一般紙1紙をたてつづけに読みやがった。しかも、隅々まで、時間をかけて。似たような記事を何度も読んで何が面白いのか不思議に思う。結局、計1時間以上、私の手元の灯は明るくなったり暗くなったりした。・・・なんて、書くほど嫌だったわけでは無い。オヤジは、煩くは無かった。

  新潟から長岡までは各駅電車で移動した。電車の中、しばらくは静かで、私はガイドブックの長岡のページを読んでいた。ある駅で、女子高生のカタマリ(5、6人)が乗り込んできて、私の近くの席にカタマリで座った。本が読めなくなった。カワイイ娘がいて、それに目が惹かれたからでは無い。彼女らは煩かった。けたたましく笑い、とめど無くしゃべった。喫茶店で3、4人のオバサンたちが煩いのと同じなのであった。オバサンたち同様、「うるせーっ!お前らは真夏の蝉か!」と私は思うのであった。
 男の声はさほど気にならないが、複数の女の声は煩く感じる。女同士でしゃべると遠慮の無い音量となり、また、声のキーもさらに高くなるからなのかもしれない。それがカタマリになると激しく煩い。傍若無人の周波数となる。ところが、一人の女の声は優しい。恋しているモードの女の声はさらい優しい。私は大好き。
 逆に、隣の席にカップルがいて、恋しているモードの男の声が聞こえてきたりすると、それは煩い。自分が言うのはともかく、他人のそれを聞くのは、私は大嫌い。
     

 3、時代を伝える女流画家二人

 新潟から次の宿泊先、高崎へ向かう。長岡で途中下車し、新潟県立近代美術館へ足を伸ばす。そこでの企画展は私のまったく知らない画家の作品展であった。
 ケーテ・コルヴィッツ。女、妻、母であり、19世紀末から20世紀前半にかけて活動したドイツの版画家、彫刻家。
 20世紀前半のドイツといえば激動の時代。2つの大戦の大きなうねりにケーテも翻弄される。当然ながら死、戦争、飢餓などが彼女の作品のテーマとなり、作品の印象は全体に暗い。もちろん、“暗い”ということは作品の完成度の高さを意味している。“暗さ”は版画というモノクロのトーンの中で、その威力を発揮し、私は圧倒された。
  「ケーテの作品は好きですか?」と訊かれたら、「好きじゃない」とノーテンキな私はきっと答える。でも、その作品の価値は大いに認めるのである。その時代の写真や映像を見ただけでは感じないこと、その時代に生きていた人間の心を、彼女の作品からは多く感じられたのだ。ケーテは、彼女の生きた時代を確かに伝えている。
 ケーテの晩年の作品で、彼女の強い意志を感じた1枚の版画があった。未来に希望を残したいという強い意思。子供を守りたいという母性の意思。どんなに飢饉になっても、種籾だけは食ってはならない、というのは日本の、昔の農村にもあった不文律だと思う。種籾が無ければ未来が無いのである。ケーテの「種を粉に挽いてはならない」は1941年末の作品。それは戦争の時代。ケーテの言う「種」は「子供」のこと。

 高崎では群馬県立近代美術館を見学する。そこの企画展も私のまったく知らない画家。  レオノール・フィニ。アルゼンチンで生まれ、イタリアで育ち、パリで活動した画家。1996年に88歳で亡くなったというので、20世紀のほとんどを生きている。
 長い間活動しただけあって、その作品は若い頃から晩年にかけて多く変遷する。作風がガラッと変わるので、作品から受ける印象も時代によってずいぶんと違った。ただ、彼女は裕福であり、パリの社交界の人気者でもあったようである。つまり、今で言うセレブであり、なおかつアイドルでもあったようなのだ。だから、その作品にはケーテのそれから受ける“暗さ”は無い。人間の醜さを描いた“暗さ”はある。退廃的でもある。
 「フィニの作品は好きですか?」と訊かれたら、「少なくとも後半の作品は好き」とノーテンキな私はきっと答える。人間の欲望を淡々と描き、その善悪を問わない。「じっさい、そうなんだからしょうがないじゃないの」と言っているみたいである。そうであることをそう描いているフィニもまた、彼女の生きた時代を確かに伝えている。
 10年前まで生きていただけあって、彼女は映像も残している。美人かどうかは別にして、私にはとても魅力的な女性に見えた。イイ女というのはこういう人を言うのではないかと思った。彼女に狙われたら私は、イチコロでダウンするに違いない。
     
     

 4、時代を伝える旧友二人

 高崎から東京へ向かう途中、浦和で下車する。大学時代の友人とそこで一杯やるということになっていた。友人Kとは浦和駅の改札口で待ち合わせる。ちょっと遅れて彼はやってきた。女房と一緒であった。彼女とはお初にお目にかかります、であった。
 「子供産んでからブクブク太っちゃって」と前にメールを貰って、痩せるのに効果があるという紫ウコンをその時贈ったのだが、痩せているとは言い辛い体型には、「紫ウコンの効果はありましたか」なんてことも訊き辛かった。でも、自身で言うほどけしてブクブクでは無い。今の若い人は知らないだろうが、日本のお母さんと称された女優の京塚昌子みたいなタイプ。性格も似た感じかもしれない。表情のカワイイ人であった。

  3人で飲み屋を探す。Jリーグの浦和レッズの試合があり、その試合がちょうど終わった頃で、街には赤いシャツを着たサポーターたちが溢れていた。そして、街には活気もまた満ちていた。Jリーグ発足当時のある出来事を思い出す。Jリーグはチーム名に企業名をつけないという当時の川渕チェアマンを、野球の巨人軍の、あの爺さんが批判していたのを思い出す。今の巨人軍の低落振りをみれば、「ざまーみろ」と言いたくなる。
 友人Kの連れて行きたいという店は、レッズサポーターたちの集まる店でもあったので超満員。よって、別の、サッカーとはあまり関係の無い店で飲む。しばらくして、もう一人、大学時代の友人Iも加わった。彼は隣の駅に住まいがあるらしい。Kとは卒業後何度も会っているが、Iとは卒業以来であった。それにしてもだ。当時二十歳前後の美青年たちも、もう五十歳近くになったのだ。Kはカトちゃん禿げ、Iは私と同じザビエル禿げ、どこからどう見ても由緒正しきオジサン、時代を伝える旧友二人なのであった。
     

 5、長い夏のお陰で

 沖縄で着ているには少し暑かったが、薄手の長袖シャツを羽織って旅に出た。向かうは新潟、豪雪地帯の新潟、10月の半ばなので、もう涼しかろうと思ってのこと。薄手のシャツでは、あるいは寒いかもしれないとも予想したが、まあ、この格好で寒ければ現地調達すれば良かろうと心の準備はできている。ちょうど2着しか持っていない沖縄の冬用のブルゾン、その1つがそろそろ消費期限なので、それを仕入れることになろう。
 ところがどっこい。新潟は暑かった。沖縄の気温とほとんど変わらなかった。日中歩いていると汗をかいた。まったく予想していないこと。新潟だけでは無い。途中の長岡も、次の群馬高崎も暑かった。旅の目的には紅葉を観るというのも(どちらかというと、それがメインといっても良いくらい)あり、そのため、高崎から赤城山辺りへ足を伸ばそうという計画であった。ホテルの人に話を訊くと、紅葉はまだとのことであった。

  帰ってから、ニュースを見て知ったことだが、今年は夏が長くて、概ねどこの地域でも紅葉は1週間ばかり遅れているとのこと。富士山の初冠雪も1週間遅かったらしい。ここでも地球温暖化の影響があったのかと思う。そういえば、今年アメリカ大陸を襲うハリケーンが、その数が多く、勢力が強いのも地球温暖化のせいだと聞いた。地球環境の悪化は、私の最も危惧するところなのであるが、それはいわば、「時代を伝える女流画家二人」の頁で紹介したケーテの「種を粉に挽いてはならない」と同じこと。我々は今の地球を食い潰してはいけない。未来に、人の生きていける地球を残さなければならない。京都議定書を批准しないアメリカに地球温暖化の悪影響が及ぶのは神の警告かもしれない。
 長い夏のせいで、旅の目的である紅葉見学を果たせなかったオジサンは、それを残念に思いつつも地球の未来のことまで心配するのであった。偉いね。

 6、宿酔のせいで

 宿酔とは二日酔いのこと。宿酔と書いて「ふつかよい」と読む。「酒の酔いが翌日までさめないこと」(広辞苑)である。文学的知識をひけらかしてみた。

 浦和で大学時代の友人たちとたっぷり飲み、十分酔ってしまう。予定の時刻よりだいぶ遅れてホテルのある地下鉄赤坂駅に着く。午前0時を過ぎていた。小雨の振る中、駅からホテルまでトボトボ歩く。ホテルは思ったより遠くて、歩いているうちに酔いもいくらか醒めてしまう。ホテルの手前にセブンイレブンがあったので、寝酒にしようと日本酒300ミリリットル入り瓶を買う。ホテルにチェックインし、部屋に入る。風呂に入り、買ってきた日本酒を飲んで、酔いが戻ったところで寝る。熟睡する。
 朝8時頃に、昨夜一緒だった友人の一人Iの電話で起こされた。美術関係の仕事をしている彼は練馬区立美術館の場所を調べてくれ、電車での行き方、乗換駅、降りる駅などを教えてくれた。約25年ぶりの男は親切であった。ありがたいことであった。ありがたいことではあったが、電話を受けた私は酷い頭痛がしていた。

  旅の最中に宿酔いなんて、滅多に無いこと。一人旅が多いので、一人で宿酔いするほど酒を飲むなんてことが無いからだ。今回は旧友にあって、まあ、一人で飲むよりは酒が少々過ぎたのかもしれない。が、浦和で飲んだ分だけではたぶん、宿酔いになるには不十分であっただろう。ホテルに入ってからの300ミリリットルが、私の体にとっては余分な量のアルコールとなったに違いない。
 8時に起こされたが、体がだるい。快調には動かない。何とか踏ん張って30分後に朝飯を食いに行く。飯食って、コーヒー飲んでも体はすっきりしない。頭痛は続いている。部屋に戻って、しばらく横になって、ホテルを出たのは10時過ぎ。
     

 地下鉄赤坂駅から先ず、目黒駅へ行った。駅構内のコインロッカーに荷物を預け、身軽になってから練馬区立美術館を見学しようと思ってのこと。その後、Iに教えてもらった通り地下鉄を乗り継いで、目的地へ向かう。降りる駅名を確認しようとメモを探したが見当たらない。たぶん、コインロッカーの中。で、池袋で降りて、駅員に美術館の場所を訊き、降りる駅を教えてもらった。電車に乗る。目的の駅3つ手前くらいで、ふと携帯の時計を見る。既に12時前になっていた。
 これから美術館へ行き、見学して、目黒に戻り、荷物を取って、羽田に着くまでには3時間はみなければならない。飛行機の出発時間は3時20分、ギリギリだ。これでは買い物ができない。職場や大家さん、親戚へのお土産と、その夜の自分用の肴、大好きな糠漬けなどを買わなければならない。美術館は諦める。手前の駅で降りて、引き返す。
 練馬区立美術館では佐伯祐三展をやっていた。佐伯祐三は私の大好きな画家の一人。今まで彼の作品をまとめて観たことが無かったのでとても楽しみにしていた。今回の旅の目的の大きな1つ。宿酔いのせいでその目的を果たせることができなかった。残念。

 7、旅の終わりは3分前

 佐伯祐三を諦めた分、時間はたっぷりある。荷物を預けていた目黒駅で、駅ビル内にあるスーパーへ行き、その夜の酒の肴を買う。ちょっと迷って、松茸を、韓国産2本で3000円を買う。職場や大家さんなどへの土産は空港で買うことにして、コインロッカーから荷物を取り、松茸をバッグに詰め込んで羽田へ向かう。

  羽田へは、出発予定時刻の1時間20分前に着いた。ギリギリの多い私にしては大変珍しいこと。これまで50回以上の旅をしていて、出発時間にこれほどの余裕を持って空港に着くのは滅多に無いことなのである。いい機会だと思い、のんびりと羽田空港を見学することにした。土産品を物色しながら隅々まで歩く。屋上の展望台へ上がり、飛び立つ飛行機の写真などを撮ったりした。もうすぐ自分も飛び立つのであることを、そこで思い出した。時計を見る。3時。搭乗手続きの締め切り時間だ。走った。
 コインロッカーから荷物を取り、荷物検査のゲートを潜り、なおも走る。羽田は広い。沖縄へ向かう搭乗口までは遠い。重い荷物を背負って走り続ける。搭乗口の50メートルくらい手前から声が聞こえた。「沖縄へ出発の島乃ガジ丸様、いらっしゃいましたらお急ぎください。機内へのご案内が最終・・・」という途中で、30メートルくらい手前から手を振って合図する。声の主である地上勤務員の若い女が駆け寄ってきて、私から搭乗券を受け取り、彼女が先になって走る。搭乗口を通る。一息ついて時計を見る。3分前。
     

 というわけで今回の旅。目的の紅葉は見られず、好きな画家の一人である佐伯祐三を観ることもできず、お土産を買うこともできず、お土産よりもなお大事な、自分のための酒の肴(魚の味噌漬けとか粕漬けとか、イカの沖漬けとか、老舗の漬物とか)も得ることができなかった。沖縄で手に入れることのできなかった杉浦日向子の本をいくつか買って帰るつもりでもあったが、それも忘れてしまった。総じて、今回は残念な旅となった。
 が、浦和での旧友との夜は予想以上に愉快で楽しく、幸せな気分をいっぱい味わさせてもらった。それだけで、プラスマイナスでいうとプラスになったと思う。

 新潟から山越え東進の旅は以上
 記:ガジ丸 2005.10.22  →ガジ丸の旅日記目次


愛知万博の旅2005春

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 1、蒸発した4ヶ月

 名古屋初日、徳川美術館とその庭園を見学し、庭園にあった植物の写真を十数枚撮る。2日目の万博会場は、撮りたいと思ったものは主にパビリオン内部にあり、そこはたいてい撮影禁止となっていた。外にあった植物の写真を数枚撮っただけで終わる。
 万博見学は丸2日を予定していたが、朝の満員電車で疲れ、リニモに乗るまでの待ち時間に疲れ、入口の混雑に疲れ、パビリオンの待ち時間に疲れなどして、怠け者のウチナーンチュは1日でうんざりしてしまい、予定を変更する。名古屋3日目は東山動植物公園へ出掛けた。万博会場ではほとんど使うことの無かったデジカメだったが、東山では大活躍した。
 デジカメのメモリーカードは64メガで、200万画素の写真が約130枚取れる。それをカメラに1枚と予備にもう1枚持参していた。前日までの2日間で20枚ほどしか撮っていない写真、動物園だけで100枚を超え、植物園に入る前に予備のカードに取り替えた。
 予備のカードをカメラに装着すると、このカードはフォーマットされていませんという表示が出た。ずっと使っていたのに変だな、と思いつつフォーマットする。データが全て消えますという表示に「もしかしたら」という不安が頭をよぎったが、構わず続けた。
  家に帰ってからその不安が何であったかが判明する。メモリーカード、旅に持って行ったのは2枚だが、家にもう1枚ある。1枚のカードには写真データではなく、エクセルやワードのデータが入っている。ワード文書はガジ丸用の記事であったり、ちょっとしたアイデア、ふと思いついたことなどが書かれており、エクセルには日々の健康管理である体重、体脂肪、血圧などのデータが記入されている。そのエクセルデータは「血圧安定化計画」というファイル名であるが、内容はその他に、毎日のメモ、髪を切ったとか、家賃を払ったとか、誰とどこに飲みに行ったとか、スーパーのレジの女の子に手を触れられて嬉しかったとか、つまり、私の日記のようなものになっていた。そのメモリーカードを写真用のカードと間違えて旅に持って行ったのだ。そして、その中のデータを全て消してしまったのであった。
 メモリーカードのデータは定期的にパソコンのハードにコピーするようにしている。前回その作業をしたのは、調べると、今年の2月初めであった。つまりは、2月初めから5月29日までの約4か月分の私の日記が蒸発してしまったことになる。日記は、昔こんなことがあったということを老後の酒の肴にしようと思ってつけているのだが、この空白の4ヶ月、今は、仕事にガジ丸に忙しかったということと、枝豆の植付けに失敗したということしか思い出せない。

 2、瓜田に沓を入れず

 旅へは、4泊だろうが5泊だろうが、あるいはそれ以上でもリュック1つで出掛ける。大き目のリュックに4泊分くらいの着替えを入れて持っていく。着替えが足りなくなり、洗濯もできない状況になった場合は、パンツもシャツも靴下も現地調達している。
 10年ほど前、アメリカへ行った。2週間の滞在予定に、この時も荷物はリュック一つ。着替えも4泊分。宿泊が姉の家なので洗濯ができる。4泊分の着替えだけではガラガラのリュックであったが、姉夫婦と子供たちへの土産を入れて一杯になる。
 その時のアメリカ旅行は従姉夫婦とその友人夫婦が一緒だった。帰り、私の荷物は持ってきたリュック一つで足りていたのだが、従姉の荷物が彼女自身のバッグや夫のバッグだけでは入りきらないほどの量だったので、私が大きなバッグを買い、それに私の荷物をリュックごとと彼女の荷物の一部を入れた。男一人の荷物としては不自然な大きさであったかもしれない。成田空港の税関でつかまった。バッグの中を隅々まで調べられた。出るまでに相当の時間がかかった。外で待っていた4人に呆れ顔された。「申し訳ない」と苦笑いしながら出てきた私に、「まったく、あんたって面倒かけるねぇ。」と従姉が言った。コノヤローとは思ったが口には出さない。「おめぇの荷物を入れるためのでっかいバッグが怪しまれたんだ。」とも言いたかったのだが。

 「瓜田に沓を入れず」とは中国のことわざで、全文は「瓜田不納履、李下不正冠」となっていて、後半は「李下に冠を正さず」と読む。どちらも「怪しまれるような行動はするな」という意になる。怪しまれるようなことをすると面倒なことになるということは、このアメリカ旅行での一件で、私は十分に理解できた。善人顔(と自分では思っている)しているというだけで信用されるほど世の中甘くは無いということである。以後の人生の教訓となった。

 今回の名古屋の旅も、荷物はリュック一つ。大きなリュックにはいつもなら行動用の小さなリュックも入れていくが、名古屋には友人知人がいないのでお土産の必要が無く、リュックが軽い。このまま動き回っても大丈夫だと思い、小さなリュックは持っていかないことにした。出発の朝になって気が変る。万博会場でいろいろ買うかもしれない。翌日からバッグが重くなるかもしれないと考え、小さなリュックを大きなリュックの中に突っ込んで家を出る。
  那覇空港の出発ゲートでつかまった。「バッグの中にナイフのようなものが入っていますね?」と係員が言う。覚えの無い私は「いや、そんなもん入ってないですよ。」と答えたのだが、「中を見せてください」という要請にバッグのチャックを開いた瞬間、思い出した。私の小さなリュックは、毎日の通勤だけでなく、キャンプや釣り、散歩や山歩きの際にも背負っているもの。釣った魚をさばいたり、植物の葉を採集する時に用いるナイフが入っている。それが、出すのを忘れてそのまま入っていたのだ。もう十年以上も愛用しているナイフ、捨てるわけにはいかない。
     
 リュック一つでの旅は荷物を預けなくて済む。空港を出る際に預けた荷物を待つ時間が省け、次への行動が早くなる。しかし今回は、たった一つのナイフのために、荷物を預けた人たちと同じくらいの時間を待った。帰りの飛行機ではナイフをバッグごと預ける。那覇空港でもたった一つのバッグを待つ。「瓜田に沓を入れず、李下に冠を正さず」の教訓から十年が過ぎて、今回また新たな教訓を得た。
 「カバンにナイフを入れず、急に計画を正さず」

 3、武士の誇り

 名古屋初日は、徳川美術館見学のため空港から大曽根へ向かう。金山でJRに乗り換えた。その電車の中、バッグ(小さな、ハンドバッグというのか)を隣に置いて席を二人分占有しているサラリーマン風の若い男がいた。そこへ行って「ちょいとスミマセン」と断って座る。男は面白く無さそうな顔をする。バッグは膝の上に置かず、ちょいと引き寄せて私との間に置いたまま。こっちは大きなリュックで、お互い窮屈だと思うのだが、彼は気にならないらしかった。
 次の駅で、荷物を背負った婆さんが乗り込んできて、男と私との間に立った。私は席を譲ったが、「いえ、いいんですよ。すぐ降りますから。」と婆さんが断ったので、そのままでいた。ところが、婆さんはすぐには降りなかった。まあ、それはそれで本人の自由だからそれでいい。問題は隣の男。婆さんが目の前にいるのが気に入らないのか、しきりに貧乏ゆすりをする。しまいには携帯を取り出して、大声でしゃべりだした。中国人だった。昨今、経済発展の著しい中国、競争社会となって、勝たねばならぬという意識が強いのか、日本人に舐められてたまるかという思いからなのか、いかにも傍若無人という態度。困ったもんだ、と思った。

  電車で、年寄りに席を譲らないというのはしかし、中国人の若い男だけでは無かった。翌日、万博会場へ向かうリニモの中、先頭に近かった私は座れた。隣は若いカップル。後から年寄りが6、7人も入ってきて、私は席を譲る。ところが、このカップル、まったく無視。万博会場の案内パンフを見ながら二人でずっとしゃべっていた。翌日の地下鉄では、4人分の席が空いて、それを奪い合ったのは、男子学生2人と女子大生2人、それに男子中学生2人であった。席取り競争に勝ったのは男子4人。オジサン、オバサン、ジイサン、バアサンたちは最初から勝てないと思っているのか、競争に参加さえしなかった。困ったもんだ、と思った。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑を生んだ愛知は武士の邦で、武士の誇りを持った人も多かろう。イチローを筆頭に多くのプロ野球選手を輩出しており、Jリーガーや大相撲の力士も多くいるらしい。日々の努力を怠らず、けして弱音を吐かない。自分に厳しく他人には優しい。そんな印象を愛知人には持っていたのだが、どうやら愛知の若者たちの多くは、そんな武士の誇りを忘れてしまっているようだった。残念なこった、と思った。

 4、武士の本道

 スーパーで弁当か飲み物など1つ2つの買物を持ってレジに並んでいると、前に並んでいるカゴ一杯の買物の人が「あんた少ないねえ。私多いから、先にすれば。」と譲ってくれたりすることが沖縄ではたまにある。商品の入ったカゴだけをレジの列に置いてから、買い忘れた振りをして商品を取りに行ったりするインチキなオバサンも沖縄には多い。いずれにせよ、「このぐらい適当でいいさあ。ちょっとした損得じゃないの。」という気分だと思われる。

 名古屋2日目の東山動植物園、その入場券売り場に行くと、2人の中年男性が既に並んでいた。その後に私が並ぼうとすると、1人の男がさっと私の前に割り込んだ。まあ、2人も3人も待ち時間にたいして変りは無かろうと、その時は気にもとめなかったが、3人とも遠足に来ていた幼稚園の園長先生のようで、夥しい数の幼稚園児たちの入場手続きをしているのであった。前日の万博会場でも入場するまでにえらく時間がかかったが、ここでもまた長く待った。
 バス二十台以上が駐車場に停まっていて、それらは全て幼稚園の遠足のバス。子供たちとその親(父親もいくらかいたが、ほとんどは母親)、それに幼稚園の先生たちが公園の入口前を埋め尽くしている。何百人という人数だ。その手続きには時間がかかる。領収書も必要だろう。割り込んだ園長先生、少しでも優しい気持ちがあるのなら、入場券を買うのに10秒とかからない私を先にしてもいいようなものだが、そんなことまったく頭に無いようであった。

  「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を生んだ武士の邦、愛知」とは『武士の誇り』の中でも書いたが、弱きを助け強気を挫くなんてことは、じつは、武士の誇りなんかでは無いのかもしれない。武士の本道は「戦って勝つ」ということのみ、なのかもしれない。傍若無人な中国人の若いサラリーマンは、疲れた体を癒すために電車ではなるべく座る。年寄りがきても席を譲らない。電話も必要とあれば所構わずやる。企業戦士として勝ち抜くためにはそんな心構えが要るのかもしれない。「戦って勝つ」が武士の本道ならば、彼は立派な武士といえるだろう。
 割り込んだ園長先生は、自分が守るべき園児やその父兄をできるだけ早く公園内に入場させて、できるだけ長い時間楽しませるという責任があったのだ。旅行客の一人に、「お先にどうぞ」なんて情けをかけることは、彼にとって、武士の本道から外れることであったのだろう。

 5、追うから逃げる

 お巡りさんに追いかけられて捕まった若い男、「何で逃げたんだ?」という警官の質問に、「追いかけるから逃げたんだ」と答える。若い男は何の罪も犯していないんだが、こっちに向かって走ってくる警官を見たら思わず逃げてしまいたくなる彼の気持ちは、貧乏学生だった私には何となく理解できる。警官は強く、貧乏学生は弱い。捕まったら何をされるかと不安になる。

  東山動植物公園の一角に、広いスペースを網で囲って鳥を放している建物があり、その中へ入った。鳥たちがいる場所は1段高く、長さ30mほど、奥行きは5mほどの土の地面。そこには大小さまざまな樹木が多く植えられ、小さな池も設けられてある。人間が歩くスペースは幅2mほどあり、壁沿いにいくつものベンチが置いてある。鳥たちのいる場所とベンチ、及び歩道の間に壁は無い。観客はベンチに座り、鳥たちを金網を通すことなく間近に眺めることができる。
 先客は老夫婦の二人だけ、数分後には彼らも出て行ったので、後は私一人が観客。ベンチに腰掛 けゆっくりと、たっぷりと鳥たちを眺めることができた。しばらくすると、何羽かの鳥が私のところへ近づいてきた。じっくりと眺め、しっかり写真を撮る。孔雀の1羽が、歩道へ降りて、私の足元へ近付いてきた。背中の模様がきれいだったので、少し通り過ぎてからその背中の写真を撮る。フサホロホロチョウが正面に来てこっちを見る。オシドリの夫婦が近くで日向ぼっこを始める。写真を撮る。他の鳥たちもそのうちやってくるかもしれないと思い、じっと待つ。
     
     

 突然、ドアを開ける音がした。ドアが開くと同時に 大きな声がした。「わー、きれいねぇ、クジャクよ。」とオバサンの甲高い声。私もビックリしたが、鳥たちも驚いたに違いない。私の近くにいた鳥たちもさっと離れていった。オバサンは息子と思われる30歳くらいの男と一緒。息子はさすがに黙って入ってきたが、オバサンはこの後も煩い。「こっちに来て羽根をひろげてくれないかしらねぇ。」などと言う。言うのはいいがオバサン、ちょっと声が大きすぎやあしませんか。と注意したかったのだが、そんなこと耳に入るまいと思い、止める。オバサンは、何事にも動じないタイプの人のようで、私の前を通り過ぎ、近くにいたクジャクを追いかける。ク ジャクは逃げる。「なんで、ここにいたのに逃げるのかしら。」などと言う。「そりゃあ、追いかけるからだ。追いかけられたら、何をされるかと鳥たちも不安になるだろうよ。」と思う。もちろん口には出さない。「声もでかいしよー!」を心の中の思いに付け加える。
 鳥たちが近付いてくるのはもう無理だと私は諦めて、残りの鳥たちの写真を急いで撮って、私はその場を離れた。後で確認すると、ショウジョウトキなど急いで撮った写真はいずれもボケていた。残念。
     
     

 6、駅から遠く、帰りも遠く

 名古屋3日目は、万博見学の予定を変更して東山動植物公園へ行く。万博会場が人でいっぱいなら、他の施設はいつもより空いているに違いないと思った。東山動植物公園も有名な施設ではあるが、幾分かは客数が落ちているだろう。のんびり見学できるだろうと期待した。名古屋駅で駅員にどこで降りたらいいかを訊く。「動物園なら東山公園駅、植物園なら次の星ケ丘駅が近いですよ。」と丁寧に教えてくれた。星ケ丘から植物園、動物園と回って、東山公園駅から帰ろうと決める。

 星ケ丘の駅の出口にティッシュ配りの兄ちゃんがいた。ティッシュは断って、道を尋ねる。彼の教えた通りに道を行く。予想していたより3倍位の距離を歩いて、やっと東山動植物公園北口に着く。そこには大きな駐車場があって、その広さの半分くらいを観光バスが占めていた。ざっと数えて20台以上はあったが、私が入場口に向かって歩いている最中にも数台のバスが入ってきていた。入場口前にはたくさんの子供たちとその親たちが並んでいた。入場券を買うまでに15分位待たされて、うんざり気分だったが、中に入ってもまた、子供たちの騒ぐ声に悩まされるのかと思ったら、昨日の万博会場と同じく、あまり楽しめないかもしれないと予想された。
 子供たちは幼稚園児。近郊の幼稚園から大挙して押し寄せてきたようであった。たぶん、地域の幼稚園が申し合わせて、同じ日、同じ場所で遠足をしようと決めたのだろう。前日の万博会場で小学校の遠足にも遭遇したが、今日はまた、幼稚園の遠足にぶつかってしまった。

 中へ入って案内図を見る。私が立っているところは予想に反して、植物園側では無く動物園側であった。どうりで、駅から入口まで遠かったわけだ。わざわざ遠回りして、混んでる入場口を選んでしまったわけだ。でも、まあ、昨日ほど待ったわけではなく、昨日とは違って空は青空。そう悪い気分では無い。あとは園児たちの騒がしさを避ければよいだけのこと。
 とにかく、園児たちが行く方向とは別の道を歩くことにする。彼らが右へ行けば左、左へ行けば右の道を選ぶ。・・・だが、彼らは皆揃って同じ方向へは進まなかった。あまりにも数が多いので、どの道を歩いても騒がしい声は消えなかった。やっと落ち着いたのはお昼過ぎ、つまり、お弁当の時間が終わって彼らが帰ったあと、それからは、のんびりと景色を眺めながら歩けた。
     

 閉園時間になった時、私は植物園側にいた。星ケ丘の出入り口は既に閉門されていたので、そうなった。門のガードマンに駅までの道を尋ねる。ここからだと東山公園駅も星ケ丘駅も距離に大差はないらしく、解りやすい東山公園駅への道を教えてくれた。公園内を長い時間歩いていたこともあり、腰も足も重い。帰り道は遠かった。
 駅に着いた頃にはお尻も痛くなっていた。昨日今日と、歩き疲れたせいか、立ち疲れたせいか、久々に痔が出ていた。ドラッグストアで入浴剤とオロナイン軟膏を買う。ホテルで湯船に浸かった後、股を広げ、オロナイン軟膏を尻の穴に塗る。なんて、まったく、旅先でみっともない格好をしてしまうはめになってしまったオジサンなのであった。

 7、たった1円の一騒動

 旅先から必ずといっていいくらい買って帰る食い物がある。漬物。もちろん、沖縄にも漬物はある。近所のスーパーにも浅漬け、糠漬けなど多くの種類を置いてある。しかし、元々沖縄に漬物文化は無く、美味しい漬物を作る、いわゆる漬物屋というものはほとんど見ない。美味しい漬物屋は、倭国に行けばたいていどの町にもある。少なくとも大きな商店街とか、デパートの地下に行けば必ずある。そこで、少々高めでも、質の良さそうなものをいくつか買って帰る。

 着いた日に既に、名古屋駅近辺の地下街で美味しそうな漬物のある店を見つけていた。どこの地下街でも、私はよく道に迷ってしまうのだが、美味しそうな漬物のある店は、若くてカワイイ娘が売り場にいた店でもあったのに、帰る日、同じ地下街でその店を探したのだが見つからない。地下をあちこち探し回って、デパートの地下だったかもと2軒のデパートも探したが、どうしても見つからない。帰りの飛行機の時間も迫っていたので、しょうがなく、別の店で漬物を買うことにした。
 ナスとキュウリの漬物を買う。店の若い女が
 「カボチャの漬物も評判いいですよ。いかがですか」と言う。カボチャとは珍しいなと思い、また、女が愛嬌のある表情だったので、ついつい、
 「じゃあ、これも」と買ってしまう。
 「代金は1501円」だと言う。2000円出す。
 「2000円からでいいですか。1円はお持ちで無いですか?」と訊く。
 「あいにく持っていないな。1円くらいまけてよ。」と応える。そう、1円くらいなのだ。こっちから「まけてよ」と言わずとも、普通なら当然まけてくれるはずなのだ。お勧めのカボチャも買ってあげたのだ。が、若い女は曖昧な表情で返事をせずに、奥の方にいたオバサンに何やら相談している。オバサンは電卓をカチャカチャして、何やら若い女に言う。若い女はレジに戻って、私におつりをよこした。百円玉4枚、五十円玉1枚、十円玉4枚、五円玉1枚、一円玉4枚をジャラジャラと。「たった1円も惜しいのか!」と私はムッとする気持ちを苦笑いで表現する。私が必要以上にゆっくりとトレイから小銭を拾うのを見て、若い女は私の気分に気付いたのかどうか、
 「大きな袋に入れましょう。そちらの荷物も一緒にしましょう。」と言って、私が手に持っていた沖縄への土産、万博キャラクターのクッキーの箱もその袋に入れてくれた。
 「何考えているんだ、こいつら」と私は、今度は不思議な思いに駆られる。大きな紙袋は1円以上するはず。それはサービスしても1円は惜しいのだろうか。何故?
 言うまでも無いが、私は1円を惜しんでムッとしたのでは無い。小銭をジャラジャラ拾うよりも五百円玉1個の方が楽だと思ったからだ。財布も重くならずに済むし。空港へ向かう電車の中、漬物の入った紙袋を眺めながら思った。「たった1円もまけないんだったら買うの止す。商品返すから、2000円返してくれ。」と言ったら、漬物屋の姉ちゃんとオバちゃん、どんな対応をしただろうか。
 「それは困ります。1度買ったものは返却できません。」
 「まだ手をつけていないんだから構わないだろう。」
 「たった1円のことじゃないですか。」などと、たった1円のことで一騒動となっただろうか。姉ちゃんはオロオロし、オバちゃんは強気にがなりたてたりしただろうか。「なんだ、どうした。」と周りの人が集まってきただろうか。そういう一騒動、旅の想い出になったかもしれない。試してみれば良かった、と少し後悔した。

 8、ラーメン屋はあるけど・・・

 私は概ね年に2回、旅をしている。旅先では酒をたっぷり飲む。電車で長距離(時間にして1時間以上)の移動がある場合、それが普通の電車ではなく、新幹線のように車内で飲食ができる場合は、移動中の飲食も楽しみにしている。移動中が朝だろうが昼だろうが飲む。また、旅の間の昼飯にもビールはたいてい飲んでいる。昼日中から飲む酒は、また格別に旨い。

 旅先で楽しみにしている食い物もある。沖縄にもあることはあるが、私の住まいの近くには無いので、めったに食えない。沖縄ではめったに食えないが、旅先では(国内旅行に限っては)どこの土地でも駅前に必ずといっていいくらい存在する料理、焼鳥。焼鳥屋に入って鶏肉を食うのでは無い。私が楽しみにしているのはナンコツの塩焼きとモツ煮。今回入った店では、ナンコツ塩は無くて食えなかったが、モツ煮はあった。名古屋名物(元は岡崎市八帖町から始まったらしい)八丁味噌で甘辛く煮込んだモツ煮はたいへん美味しく、とても満足した。

  旅先ではもちろん、ナンコツ塩とモツ煮だけでなく、その土地の名物料理も楽しんでいる。「名物に旨いもの無し」などと言うが、まあ、概ねそうであると私も思うが、「名物に不味いもの無し」とも経験上から確信しているので、名物○○料理などという看板があれば、暖簾を潜る。
 今回の名古屋では、味噌カツをビールの肴に食った。八丁味噌は偶然に入った焼鳥屋のモツ煮でも味わっている。はて、さて、名古屋名物って他に何があったっけ、と次が思い浮かばぬまま帰る日となってしまった。空港(セントレアなんてカッコいい名前がある)で何かもう一つ名物を食って帰ろうと4階の飲食店を見て回る。天むす、手羽先、ひつまぶしなどあったが、それらは沖縄で食うのと大差無かろうと思いパス。お土産屋さんにお土産用の味噌煮込みうどんを見つけ、「これがあったか、これにしよう」と決め、うどん屋を探す。が、無い。ラーメン屋さんは何軒もあったが、味噌煮込みうどんは無い。空港の案内へ行って尋ねる。「そういう店は無い」との答えだった。
 名古屋の玄関に置いていないということは、味噌煮込みうどんは名古屋名物では無いのかと思いつつ、飲食店をぐるぐる巡りながら次案を考える。何軒目かの丼物屋で、名古屋名物にはエビもあったと思い出し、で、そこへ入り、天丼を頼み、食う。しかし天丼は、沖縄で食うのと大差の無い味であった。名古屋名物がエビ天では無くエビフリャーであったことは、家に着いてから思い出した。

 愛知万博の旅は以上
 記:ガジ丸 2005.6.5  →ガジ丸の旅日記目次