ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

東京岐阜お詫び行脚の旅その2-静岡~岐阜編

2014年10月24日 | ガジ丸の旅日記

 9、襟裳岬か?
 旅の計画を練っている時、静岡のK女史に「会える?」とメールしたら、「夕方からなら大丈夫」と返事があり、「ホテルは浜松がいいです」との助言もあった。その助言を磐田にはホテルが少ないんだろうなと私は受取った。ネットで探すと磐田にも少ないながらホテルはあり、運良く空いていて予約ができた。そのことをK女史にメールすると、「ホテルのことでは無く、食事するところが多いので浜松を勧めたんです」とのこと。
          

  9月28日、府中本町駅から関ヶ原までの乗車券を買い、乗継乗継(鉄道に慣れないウチナーンチュには面倒臭い)して静岡駅で途中下車。駿府城を見学し、掛川駅で途中下車し、掛川城を見学し、磐田駅で降りる。掛川城公園で祭りをやっており、日曜日ということもあって人が多く、人ごみの嫌いな私は掛川城見学をさっと済ませたため、磐田には予定より1時間余も早く、4時には着いてしまった。K女史との約束の時間は6時、2時間も余裕がある。ホテルにチェックインして荷物を軽くして駅周辺の散策に出る。
 しばらく歩いて、森進一が歌った「襟裳岬」が口から出た。歌詞の「なにもーなーいー春ーですー」が思い浮かんだのだ。何も無い、ことは無い。建物も道路も信号機もあり、車が走っていて人も歩いている。が、観光客が見るべきもの、観光客が入りたくなる店が無い。コンビニは駅前にあったが、スーパーマーケットが無い。
  6時になってホテルで待っていたら、約束通りK女史が迎えに来た。「退屈したでしょう?磐田は見るところ無いんですよ」と申し訳なさそうに言う。「うん、確かに。襟裳岬を口ずさみながら歩いたよ、何もー無ーいーってやつ」と答えたら、彼女も笑った。

 彼女が案内してくれた料理屋へ入り、ビールを飲み、彼女が勧めてくれた料理を食べ、その料理があんまり美味しいので日本酒を飲み、途中から彼女の友人M女史も加わって愉快な時間を過ごした。で、思った。磐田は襟裳岬では無い。何も無いことは決して無い。美味しい料理がある。旨い酒がある。そして何よりイイ女がいた。
          

 10、オバサンになっても
 静岡県磐田に住む友人K女史と初めて会ったのは20年ほど前のこと。その頃から彼女は化粧っけの薄い人であった。「見た目より中身」と男気質の持ち主かと思いきや、茶道をやり、着物も好きという女性らしさも持ち合わせている。何より美人である。すっぴんでも十分魅力的な顔立ちで、背も170センチ近くあり、すらっとして、腰のくびれもある。胸は、そういえばマジマジと観察したことないが、たぶん目立たない。
  それから数年後に会った時は、彼女の髪に白いものが混ざっていた。「染めないの?」と訊くと、「いいんです」と、いくらかムッとしたようなトーンで答えた。いいんです、これが私です、どこが悪いの?と言いたかったのかもしれない。見上げた女と、私は「好き」を通り越して、彼女を尊敬するようになった。

 今回会った時、彼女はその前、10年ほど前だったかに会った時よりも若く見えた。鈍感な私でもすぐに気付いた。彼女は白髪を染めていた。彼女は中期オバサン、もうすぐ後期オバサンという年齢である。でも、それよりずっと若く見えた。
 ガジ丸通信10月24日付の記事『アンチアンチエイジング』にも書いたが、見た目に若いということよりも、私は彼女の元気さや感性の柔軟さ、それらを若さと呼んでも良いのだが、それが好きである。オバサンになっても魅力的なのである。
          

 11、金の稲穂
 9月29日、磐田駅を出て、浜松駅で途中下車、浜松城を見学し、浜松駅から伯母の住む関ヶ原へ向かう。関ヶ原の手前の駅(名前は忘れた)から、車窓の向こうに金の稲穂が見えた。たわわに実った稲穂が金色に輝いている景色、見たかった景色。
 私の好きなシンガーソングライター鈴木亜紀の作品『海が見えるよ』の一節に、「金の稲穂の向こう・・・」とあり、見たいと思っていたが、米の田んぼの少ない沖縄ではあまり見られない景色だ。米の田んぼは伊是名島や八重山のどこかで見てはいるが、時期が稲刈りの時期では無く、金の稲穂は見ていない。輝く稲穂、今回車窓から見た。

  関ヶ原に着いたら、金の稲穂の写真を撮ろうと思ったが、駅を下りて伯母の家に向かって歩いている間にそれは無かった。伯母の家に着いて、一通り「家屋敷を不詳の息子は失くした」関連の話を済ませ、伯母の「早う結婚せんかい」攻撃を「私、草刈が大好きなんですという女がいたら結婚してもいいけど」でかわしながら、「来る途中、稲穂が見えたけど、この辺りならどこに行けば見える?」と訊いた。「この辺りはもう稲刈りは済んでしまったわ」とのことであった。残念、車窓からでも撮っておけば良かった。
 ちなみに、「私、草刈が大好きなんですという女がいたら結婚してもいいけど」に伯母は、「そんなモンおらんわ、我儘言わんと早う探さんかい」と再攻撃した。それには「世の中広いんだから、もしかしたらそんな女いるかもよ」とかわした。
          

 12、長生きの目標
 伯母Tは去年脚を怪我して、今少しビッコ(差別用語だったっけ?)をひいているが、数年前までは田んぼも畑もやっていた。田んぼで米を、畑で野菜を作っていた。その田んぼも畑も今は草ボーボーで、たまにシルバーに頼んで草刈しているだけとなっているらしい。休耕地となっていることは以前に伯母の息子である府中の従兄Hから聞いていた。それで、今回伯母に会ったら、ちょっと相談してみようと思うことがあった。
  「米作りを覚えたい」と私は数年前から何となく望んでいた。何となくと言うか、日本酒を米から自産したいという陰謀を企んでいた。で、「今の畑が順調に生産できるようになってから、たぶん2~3年後になると思うけど、米作りを覚えたいので、伯母さんの田んぼを使わせてくれないか?」と頼んだ。答えは「もちろん喜んで」だった。

 「今年11月29日は父(伯母の夫)の13回忌になる、親戚十数人集まって、法要を行い、その夜は宴会する予定。参加して」といった内容のメールを数ヶ月前に府中に住む従兄Hからもらっていた。その日、伯母からも「来月29日はJ(伯母の夫の名)の13回忌があるから来なさいよ」と別れ際言われた。「貧乏農夫だから、そうしょっちゅうは旅できないよ」とやんわり断り、「でも2、3年後には米作りを教わりに来るから、それまで元気でね」と言い、従姉が作ってくれた大量の弁当を入れて重くなったバッグを担いで、手を振った。もう80半ばを過ぎている伯母、家屋敷を失くした甲斐性無しの甥に米作りを教えることを、長生きの目標にして欲しい。
          

 13、癒しの弁当
 関ヶ原の伯母の家に着いたのは、鉄道に慣れないウチナーンチュが電車の乗り換えに手間取って、予定より1時間余遅れた午後2時頃。家に入ると早速大盛のカレーライスを御馳走になり、お菓子やヨーグルトを御馳走になり、茶碗蒸しまで御馳走になった。私は小食なのでそう多くは食えないのだが、伯母の世話をしている従姉のE子は料理上手で、どれも美味しく頂いた。小食の胃袋が完食した。心温まるもてなしであった。

  話したかったことを話し終え、出された料理を食べ終えて、近所の散策に出た。目的は伯母の田畑を見ること。「片道30分程度」と道順を聞き、とことこ出かける。途中の所々で立ち止まって、いつものように植物の写真を撮りつつ歩いていたら、古戦場らしき場所が目に入った。近付いて看板を見ると「桃配山」とあり、関ヶ原合戦の際、徳川家康が最初に陣を構えた場所とあった。さらに進むと、旧中山道があり、関ヶ原宿という看板もあった。「歴史の町なんだ」と改めて認識する。
 そうこうしている内に、伯母と従姉に「4時頃までには戻る」と約束した時間になる。目的だった伯母の田畑はとうに通り過ぎてしまったようだ。慌てて引き返す。
          

 伯母の家に近付くと、伯母と従姉が外に出てこっちを見ていた。「長く帰ってこないから心配したよー」と2人が口を揃えて言う。心配かけてしまったようだ、申し訳ない。「桃配山という所を見、その先の関ヶ原宿の辺りまで歩いた」、「そんなところまで行ったの、だから遅かったんだね、まぁ、中に入って」となり、中へ入って、コーヒーを御馳走になる。そして、電車の時間となって、「もうそろそろ」と席を立つ。
  「弁当作ったから、持って行きなさい」と、料理上手な従姉Eの手作り弁当を頂く。おこわ1パック、五目寿司1パック、それぞれが私の日常の2食分にあたる量。そのパックの倍以上の大きな弁当箱に煮物、焼き物などを詰めたもの。食える量では無いが、その厚意に心温かくなる。厚意をバッグに入れて関ヶ原駅、電車に乗った。
 その夜は岐阜駅のホテル、外へ飲みに行かず、スーパーでビールと日本酒を買い、E姉さんの弁当を肴にホテルの部屋で飲んだ。歩き疲れてもいたので部屋でのんびりできたのは良かった。美味しい弁当で心も癒された。ちなみに、ご飯ものは冷凍した。
          

 14、侍とファッション
 旅に出る前、倭国はもう秋、涼しかろうと思って、着替えには長袖Tシャツも1枚入れていた。長袖Tシャツ1枚分、半袖Tシャツは日程分を持っていない。しかし、倭国も暑かった。たくさん歩いて、山にも登って、たくさん汗をかいている。長袖Tシャツを着る機会は無い、したがって、半袖Tシャツが1枚足りない、買わなきゃあ。

  ということで9月29日夕方、岐阜駅近くのホテルにチェックインする前に駅近辺を散策してTシャツを探した。が、紳士服を売る店が無かった。ホテルにチェックインし、ホテルの人に訊くと、「そういえば、この辺りには無いですねぇ」とのこと。「岐阜は侍の町だから、侍は着るものに頓着しないという気風ですか?」と訊いたら、彼は苦笑いし、「観光地に行けば、観光客用のTシャツがあると思います」と助言をくれた。
 翌日、岐阜城へ行く。そこは観光地、土産物品店に入ると確かに観光客用のTシャツはあった。あったが、デザインに私好みの物が無かった。岐阜城といえば織田信長だ、店の人に「例えば、天下人とか風雲児とか天下布武とか勢いのある字体で書いたものは無いですか?」と訊いたのだが、そういうものは置いていないとのことであった。

 不足分のTシャツは結局、名古屋で買った。名古屋駅の地下街は広く、たくさんの店舗があって、男性用の洋品店もあった。買ったTシャツ、天下人でも風雲児でも天下布武でもなく、豚のイラストの入ったもの、私好みだからではなく、安かったので買った。
          

 15、根性無しの旅人
 9月30日、ホテルは朝食付き、早めに食べて、荷物の多くをホテルに預け、小さなバッグにカメラなどを入れ、ホテルの人に岐阜城までのアクセスを聞いて、チェックアウトして出かける。途中までバス、乗るバスを間違えたようで途中から徒歩。
  それでも、ほどなく金華山の麓へ着く。麓から歩く道もあったようだが、高尾山と同じくここでも山の途中までロープウェー、そこからトコトコ歩く。
          

 頂上に着くまで、何人かの人とすれ違い、頂上に着くと、20名ばかりの人がいた。その多くはご年配の方々であった。健康ウォーキングだろうなと想像できたが、それにしてもこの険しい山道の上り下りは、年寄りにはきつかろうと思う。その通り、お年寄りの中にはニコニコしている人もいたが、疲れ切った顔をしている人もいた。
 頂上から下りてすぐ、初老の女性に挨拶された。高尾山でもそうだったが、山登りする人はすれ違う人に挨拶する。私もたいていそうする。「たいてい」とは、虫や鳥の写真を撮る時、私は息を殺してシャッターチャンスをじっと待っていることが多い。そんな時に声を掛けられたら無視する場合もある。そんな時に声を掛ける人はあまりいないが。
  挨拶した女性に、たくさんのお年寄りたちが山登りしていることについて「健康のためのウォーキングですか?」と確かめた。「その通り」とのこと。いくつかのグループがあって、みんなで競うようにして登っている、毎日のように上る人もいれば、月に1回登るかどうかという人もいる。それぞれのグループで記録もとっているとのことであった。
          

 頂上近くのお休みどころに展望台があり、そこで周りの景色を眺めていると、初老の夫婦が登ってきた。2人並んだ写真を撮ってあげ、少し会話する。2人は地元の人ではなく青森からの旅人であった。「歩くのが好きで、2人で時々旅するんです」とのこと。夫婦仲良く元気に歩ける、何かイイ感じ、こんな夫婦だったら結婚もいいかなと思った。

  金華山を下りて、ホテルに戻って、荷物を取り、名鉄線で犬山へ、犬山公園駅で下りてトコトコ歩き、犬山城見学。トコトコ歩いて犬山駅へ、そこから名古屋駅。予約していた駅近くのホテルへ。時間はまだ午後4時、チェックインの時間前だったので荷物を預け、駅近辺の商店街へ、不足分の半袖Tシャツと土産物を買いに。
 1時間余歩き回って、疲れて、地下街の飲食店の1つに入り、晩酌セットなるものを注文し、生ビールをジョッキ1杯飲む。疲れがどっと出る。「こりゃ、夜、外へ飲みに行くのはきついな」と思い、地下街のスーパーでビールと日本酒の小瓶を買ってホテルへチェックイン。しばし横になって、シャワーを浴びて、この日もホテルの部屋で飲む。
 土産物は明日買えばいいやと、さっき土産物として買った名古屋名物を肴にして飲んで、早く寝た。夜の街を元気に歩けなくなった根性無しの旅人となってしまった。
          

 16、退屈な時間
 10月1日、ホテルで朝食を食べて、8時にはチェックアウトし、名鉄駅近くのコインロッカーに荷物を預け、地下鉄に乗って名古屋城へ、名古屋城はオープンが9時というので、隣接する名城公園を先に散策する。名城公園は広かった。いつものように木や花の写真、鳥や虫の写真を撮りながらだったので時間を費やした。気がつけば11時過ぎ。名古屋国際空港発、那覇着の予約した飛行機は12時40分発だ。目的だったはずの名古屋城見学は中止して、急いで名古屋駅に戻る。荷物を預けたコインロッカーがどこだったか思い出せず、それを探すのに時間がかかって、土産物を買う余裕が無かった。しかし、「土産物を駅の商店街で買わなかった」ことが、後に功を奏することになる。
          

  空港には12時頃着く。余裕だ。先ずは搭乗手続きをしてそれから土産物を買おうと、予約していたJALのカウンターへ行く。そこで大失態したことを知らされる。「お客様の予約は昨日の日付です」と。「えーっ!」だったが、ここは踏ん張って、「新規に買うとしたらいくらになりますか?」と訊く。「4万・・・」と聞いているうちに気が遠くなりかけた。そんな金、財布に無ぇぞ。確か3万円残っていたかどうかだ。
 眩暈を覚えながらさらに踏ん張って、「安い航空会社がありますよね」と訊いたら、スカイマークを紹介してくれた。スカイマークの便はあった。そして、金額は2万4千円、ホッと安堵する。「土産物を駅の商店街で買わなかった」ので、財布の中にそれだけの分は残っていた。その代わり、沖縄への土産は少ししか買えなかった。

 沖縄に帰れる。那覇空港から家近くのバス停までのバス代も残っている。土産物も少しは買えた。取り敢えずめでたしめでたし。であるが、12時40分発の予定が、スカイマークの便は18時発。これから6時間、空港で何する?金も無ぇし。
  空港での6時間、退屈な時間だった。こんな退屈、何年ぶりだろう。旅に出る前、植付けする作物が多くあってあんなに忙しかったのに今、ボーっとしている。「たまには何もしない時間を持ちなさい」ということであろうと楽天的解釈をし、ボーっとした。
 しばしボーっとしていたが、しかし、頭の良い(と自分で言う)私は、土産物購入費を多めに削って、2千円ばかりの余裕を残していた。空港の飲食店で生ビールセットなるものを摂る。ビールがとても旨かった。退屈な時間が楽しくなった。展望デッキにベンチがあったので、そこに座って旅日記をつける作業をし、退屈を返上した。

 沖縄に着いて、空港からのバスも運良くすぐに乗れて、家に着いたのは9時半頃、旅の荷物を整理して、シャワーを浴びて、いつもなら夢の中にいる午後10時から晩酌を始める。その時のメインの肴は岐阜の従姉E姉さんが作って持たしてくれた五目寿司、ホテルで冷凍していたが空港での6時間でもう解けていた。おこわの方は傷んでいたが、五目寿司は酢飯なので腐ってはいなかった。全部食った。美味しかった。感謝。
          

 以上、5泊6日東京岐阜お詫び行脚の旅、その旅日記はここでおしまい。
 なお、この旅はもう1つテーマがあり、それは「つわものどもが夢の跡を偲ぶ旅」で、戦国時代の古城を訪ねる旅。これについては来週です。

 記:2014.10.19 ガジ丸 →ガジ丸の旅日記目次