フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

映画「アナ雪」/三鷹阿波おどり

2014-08-31 11:49:21 | 日記

   本来なら厳しい残暑の昨今のはずが、ぐずついた天気ながら涼しい日が続いており体が楽である
   昨日は今話題のアニメ映画「アナと雪の女王」を観た。私が加入している福祉法人の記念行事による会員招待で、三鷹の市民会館での上映であった。日本の映画興行史上の記録を塗り替える勢いで、「アナ雪」の言葉が社会現象にもなっている評判の割には大した感動はなく、まあお子様向けのディズニー映画というところであった。

  昨日・今日、三鷹の夏の祭典「三鷹阿波おどり」が行われている。今年47回目、もう半世紀に近い歴史になり、30ほどの連(踊りのチーム)が市内中心部の商店街を踊り歩く。 私はお祭り好き人間なのだが、あの鐘と太鼓の強烈なリズムと笛の響きとが相まって阿波踊りには格別心が騒ぐ。
   阿波踊り大会では前週行われた高円寺が有名で、本場の徳島に次ぐ規模と人気を誇っている。今年58回目を迎え、私も5,6回は観に行っている。
   「踊る阿呆に観る阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損損」と囃される阿波踊り、実は私も一度出場したことがある。もう18年も前のことだ。市報に載った阿波踊りの初心者講習の案内を家内が見つけ、勧められてそれに応募してみた。1回2時間、5,6回ほどの講習で踊りの手ほどきを受けた後、その主催者から本番への出場を誘われ、市内でも伝統のある「銀座連」に入れてもらった。手ほどきを受けた踊りの方ではなく囃し方(伴奏)の締め太鼓を受け持たされ、本番直前会社帰りに4,5日特訓を受けて本番に臨んだ。2日間の当日はお揃いの浴衣と鉢巻にて、心地よい緊張の中で太鼓を叩いて練り歩いたことがまだ記憶に鮮明である。残念ながらその年の12月に九州へ転勤になり、阿波踊りへの出場はそれで終わってしまったが、銀座連にはかつての「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」のボーカルであり、現在はNHKの紅白などで「ニューブリード」の伴奏の指揮を執っている三原綱木さんがいて、練習の時は新米の私に声を掛けてくれ、打ち上げの時には席が隣りになって飲み交わしたことがよい思い出になっている。

 ↓ 昨日の三鷹阿波おどりの光景

   


[日本語教師の中国滞在記] 北京編#9―学校での食事

   外国での生活で一番気になるのが毎日の食事であろうか。私は海外の出張や旅行で、食事に困ったという記憶はない。大体何でも食べられるし、お腹を下したこともない。しかしせいぜい数日、長くて2週間くらいのことであったので、3カ月毎日のこととなると少し事情が異なる。
   北京の実験学校は幼稚園と小学校を除いて全寮制であり、食事は3食とも学校内の食堂でとる。食堂は100席くらいの教職員用に学生用は500席以上のものが2つ、それに韓国人のためのものが1室あった。なぜ韓国人用が別室かというと、国民食ともいうべきキムチ食べ放題とするためであることが後でわかった。
   私は原則教職員食堂で食べるのだが、ちょっと時間が遅くなると料理が無くなり学生食堂の方に行かされることが再々であった。どちらも、仕切りのついたトレイにカフェテリア式に自分で取るスタイルだが、肉料理や魚介料理などの主菜は並んで給仕係によそってもらい、米飯やパンなどの主食を含めた他の料理(副菜が3,4品)は自分で好きなだけ取るのである。3カ月の間特に苦手な料理もなくまずまず美味しかった。
   私はリュウ先生から食券をまとめてもらい、それを毎食給仕係にちぎって渡す。料金は朝食40円くらい、昼と夕は100円くらいであった。
   困ったことは夕食時間が早いことである。夕方6時過ぎに行くと教職員食堂の料理がなくなってしまうことがよくあった。学生食堂の方に行くのだが、こちらも7時頃にはほとんど食事が終わっている。例えば6時半頃食事をすれば、500席以上のだだっ広い食堂で2人か3人がひっそりと食べることになる。わびしい限りだ。もう一つ困ったことがある。それは晩酌である。学校の施設なのだから食堂でアルコールはご法度なのだろうが、私は缶ビールを持ち込んで飲んでいた。ある日、背広を来た事務官のような人からすごい剣幕でまくし立てられた。怒っているのは顔と声で分かるが、中国語の分からない私には意味が分からない。辛うじて「私は日本人だ。中国語は分からない」と中国語で伝えたが、剣幕は収まらない。その内、手でビールを飲む仕草をしたので意味を解した。そうか、晩酌はダメか。翌日は部屋に帰ってから飲んだが、それでは味気ない。料理あってこその晩酌である。そこで一計を案じた。冷えたビールをウーロン茶のペットボトルに移して食堂に持ち込んだ。色といい、わずかばかりの泡といい両者見分けがつかない。その後はとうとうこの手で通し切った。
    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医療費2割負担になったが/定期健診 

2014-08-29 22:34:20 | 日記

   先日、郵便受けに市からの小さな郵便物が届いていた。今月満70歳になったので「国民健康保険高齢受給者証」というのが送られて来たのだ。9月1日から医療費の窓口負担が3割→2割になるのだが、実は70歳になれば1割負担になると皮算用をしていた。だが1割負担は暫定の特例措置で、私の生年からは特例がなくなって2割負担なのだそうだ。2割でもありがたいことなのだが、生まれるのが5ケ月遅かったことで負担が2倍になったという何となく損した感じが残る

   私の住む三鷹市では40歳以上の国民健保加入者に対して、毎年メタボ予防を主眼とした定期健診が実施される。会社時代は組合健保の定期健診を受けていたが、リタイア後は市の健診(無料)のお世話になっている。昨年の健診では腹囲を始め血圧・血糖値・コレステロールの全てが基準値オーバーで、医師から来年は間違いなくメタボのレッドカード、週一日の休肝(晩酌を断つ)と食後のデザートはやめるよう指導を受けた。「よーし見ておれ」と週一休肝を貫いたところ、今年は体重が3キロ弱落ち、血圧・コレステロールが下がった。血糖値は変わらなかったが医師(昨年の人)からは努力を認められた。
   今年はさらに5年に一度の「胃がんリスク検査」と「PSA(前立腺腫瘍マーカー)の検査」を受け(これも無料)、一応現状心配なしという結果であった。検査は全て最寄りの病院・医院で受けられ、大変楽でかつ無料(その分保険料を払っているが)なのでありがたいことである。    

 

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#8―生活基盤の整備

   日本留学班の授業の方はスムーズに軌道に乗った。次には生活基盤の整備である。
   #3(愕然とした北京到着)に書いたように北京に着いた日、宿舎となる実験学校の寮に案内された時は、ベッドと机・椅子が一式あるだけで電化品はじめ生活用品が全くなかった。その後リュウ先生から携帯電話が貸与され(料金のチャージは当方負担)、室内のコンセントを取り付けてもらい、洗濯機の取水・排水ホースを整備してもらい、冷蔵庫はリュウ先生の家の使い古しを借り、給水器(ミネラルウォーターのサーバー)をセットするなど、生活用品も少しずつ揃って行った。
   日本のように水道の水が飲めない中国では給水器は必須アイテムで、25Lくらいのミネラルウォーターのプラ瓶を配達してもらう。水は配達料込みで50円くらいなものであった。毎日の晩酌が欠かせない私にはビールを冷やす冷蔵庫もすぐに欲しいものだった。パソコンのインターネット接続には約10日、テレビが見られるようになるまでは4週間くらいかかるスローモーぶりであった。日本の家族や知人とのメールなどはしばらく教師事務室にあるリュウ先生のものを借りた。スーパーはリュウ先生から教えてもらったほか、自分でも見つけて買い物に不自由はなかった。不自由はないというものの、中国語が分からないのでスリリングなものではあった。銀行で日本円を中国元に両替し、キャッシュカードを作って引出すことも出来るようにもなった。これでまずまず生活基盤らしものができた。 

         
   教学楼(教室棟)エントランスに鎮座する「かんがえる人」像

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政活費=生活費?/夏休みの宿題

2014-08-27 11:00:59 | 日記

   朝日新聞が「調査研究のために自治体が地方議員に支給する政策活動費(政活費)が鳥取を除く46都道府県が、領収書を添付しなくても政活費を支給できる制度を設けていることがわかった。」と報じている。政活費は年2~12回に分けて議員側に前払いされ、余った分が返還されるが、ほとんどの議員が使い切りで使途の不透明なものも多いという。

   ”号泣議員”こと野々村(元)兵庫県議で話題になった政活費を、同新聞が都道府県議会に聴取したものだそうだが、政活費が第二の議員報酬(つまり生活費)になっていることは皆薄々感じていたことで今更の感もある。
   なおこれも今更だが、野々村(元)県議が大量の郵便切手を買い込んでいたのは換金または商品券に換えて使っていたことが明らかになった、と何かに報じられていた。 

   長い夏休みが終り多くの小・中学校では来週から新学期が始まり、あるいは既に始まっている学校も少くない。夏休みの終り近くなると宿題に追われたり、宿題のあり方についての議論が活発になったりする。先日のやはり朝日の特集で、『夏休みの宿題はすぐやる方か、終り頃になって駆け込みでやるか」の読者アンケートが載っていたが、ほぼ拮抗して「すぐやる51%/後でやる49%」となっていた。(手元に紙面がないので曖昧な記憶だが) 
   これについては私は断然前者の方だった。昆虫採集などは別にして、宿題帳は1週間くらいでやり上げて、後を気楽に遊びたかった。 でもほぼ半々というところは面白い。

 

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#7―いよいよ日本語教師デビュー

   (2014年)9月2日からいよいよ日本語教師として教壇に立つことになった。
   教室は私の寮の部屋から3,4分、一旦隣の教師事務室に”出勤”し、リュウ先生と分担して教室に入る。 私はネイティブ・スピーカーとして日本語の会話(口語)の授業が担当、リュウ先生が文法や読み書きなどの担当。しかしたった2人の教師でそんなにきちんと分業することもできず、リュウ先生の都合の悪い時には私が読み書きの授業を代行することもあった。と言うより、リュウ先生は何かと野暮用が多く、次第にサブティーチャーであるはずの私のウェイトが高くなって行った。 
  授業時間は(はっきり覚えておらず大雑把だが)8時半から夕方5時まで。途中2時間の昼休みがある。中国の学校ではどこも昼休みが長く、ヨーロッパみたいに午睡をする。授業時間の開始と終了は日本と同じようにチャイムで知らせる。

   私の授業には「新・標準日本語会話」という教科書が用意され、主にそれを用いた。日本にいる時に俄か勉強ながら学習した指導法などを参考に日本語の発声練習は次のような方法を取り入れた。
   ①教師(私の)の発声を聞いて全員揃って復唱する→②教師の発声に従って一人一人個別に復唱する→③生徒の一人が先導して残りの者がそれに従って復唱する→④教師の発声なしで一人一人個別に発声する→⑤生徒同士で会話形式で発声する
   ①以外は授業を進める中で順次取り入れて行ったもので、③は私のオリジナル、②④⑤は生徒数3人という少人数ならではの練習法であった。
   何しろ生徒数たった3人の授業だ。顔や名前を覚える苦労もなく、個人授業に近い家族的な授業が始まった。

  
3人の生徒と私(11月:みんな長身)  教室のある3階の廊下から望む校外

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンパシフィック水泳と萩野選手

2014-08-25 12:15:17 | 日記

   パンパシフィック水泳選手権がオーストラリアのゴールドコーストで開かれていて、昨日競技が終了した。「パンパシフィック水泳」って何?と思うが、元々日・米・豪・加の4カ国が欧州ほかの地域に後れを取らないように始めた「環太平洋」諸国による国際水泳大会だそうだ。参加国がブラジルなど太平洋沿岸国以外にも広がり、オリンピック、世界戦選手権に次ぐ規模とレベルの大会になっている。テレビでは日本選手出場の種目をはじめ連日実況中継をしていたが、スポーツ番組観戦好きの家内は水泳のおばちゃん選手であり、コーチもしている競技とあって目が釘付けになっていた。私も期待の種目を中心に家内の観戦に相伴した。最大の期待は萩野公介選手で、期待通り個人種目で2つの金メダルとリレーなどで3つの銀メダルを獲得した。中にはロンドン五輪などでのスーパースターであるマイケル・フェルプス(米)を破っての金もあった。まだ20歳、これまでの日本選手に見られない多種目挑戦型のスイマーである。実に楽しみだ。萩野選手が牽引した日本チームは全34種目で金7、銀8、銅4個と健闘した。 
 

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#6―個人授業のような小さなクラス

   9月1日、中国の新学年が始まった。ボランティアの日本語教師である私が勤めるのは実験学校の日本留学班。実験学校は島根県の江の川高校と姉妹校提携を結び、学生と教師の交換・交流をしていたが、前年から提携を解消していた。日本留学班は残したが、生徒の募集や留学先の高校探しなどは主任教師を勤めていたリュウ先生が学校から委託を受けていた。中国と日本の学年度の違いから、中学を卒業した生徒を9月から翌年3月の日本の高校受験までの約半年間、基礎日本語を教えるクラスであった。私はビザの滞在期間の前半3カ月の任期でお引き受けした。

   クラスは10名程度の家族的な定員であったが、その年集まったのは3名の男子であった。
   その3名が次々に集まってきた。リー.H君はお金持ちの子で一人っ子。日本行きの希望が強く、親の反対に抗して一旦進学した高校を辞めての応募であった。性格もよく3人の中でのお兄さん格である。ナガサキ.K 君はお父さんが東京で特殊車の輸出販売の事業をしており、そのせいもあって日本名を名乗っていた。少しボンボンでお姉さんが一人いる。3番目のジョ.W君はサッカー少年。どういうレベルか知らないけれど国家3級の認定を受けているとか。母親は青島大学の教師というけれど、全く躾ができておらず、授業中は厄介者だった。
   教師はリュウ先生と私、まずは個人授業みたいな5人のクラスである。(後にはツォン.R君という30台の男性助手が加わることになる)
 
    みんなが揃ったところで教室に入り、全員の自己紹介をした。私は日本出発前に中国人に手伝ってもらって作っておいた挨拶文を読み上げ喜ばれた。
   日本留学班の教室は教学楼(教室棟)の3階、20人くらいが入れる部屋で、隣に専用の教師事務室がある。教室内は一人座りの机や教壇、黒板とチョークなど日本でもおなじみの光景である。いよいよ教師として教壇に立つのだ。(つづく) 

 

   
    実験学校の教学楼(教室棟)    後に加わった助手(左端)を含めて6人の小なさ世帯

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

更なる雨の被害/奇怪な代理出産

2014-08-23 07:23:45 | 日記

   19日のブログで京都府福知山地方の洪水等雨の被害を取り上げたばかりだが、20日深夜というか21日未明には広島市北部地域で大雨による大規模な土砂災害が発生。死者・行方不明が90人に上るといい、捜索がまだ難航しているとのことだ。南からの暖かく湿った空気が山にぶつかって上昇気流となり、それが連続することによって未曽有の大雨をもたらしたのだそうだ。土砂崩れが起きた現場は上空からの写真を見ると豊かな緑の山のようだが、もろくて崩れやすい地質なのだという。
   最近は台風より、局地的かつ”未曽有”の大雨による災害が目立つ。これは異常気象なのか、多雨国日本の宿命なのであろうか。

   奇怪なニュースが大きく報じられている。オーストラリア人がタイの女性に代理出産してもらった子どもの内障害のある子を引き取らなかったことが発端で、 タイでは代理出産がビジネス化していることが表面化。その中で24歳の日本の資産家が15人もの代理出産をしてもらっていたことが分かって、いろいろな憶測を呼んでいる。若い独身男性が15人もの子どもを持つ・・・奇怪な話ではある。

 

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#5―明けて北京は快晴青空


   日本を発って北京入りした前日は、空港に着いて出迎えがおらずにヤキモキしたり、宿舎の部屋には生活用の備品が何もなくて愕然としたり、寝る時は蚊に悩まされたり、心身ともに疲れ果てたが、夜が明けると快晴で青空。疲れがスッと軽くなった。今日は日曜で明日9月1日から日本留学班の授業が始まる。リュウ先生が教師の事務室に案内してくれ、先生のパソコンを借りて取りあえず家内や数人の知人に無事北京着のメールを送った。それから迷子にならないよう学校の位置を確認しながら周辺を歩いてみた。明日からは9月に入るこの時期、秋の気配も感じられるが陽射しは強かった。学校の周囲やキャンパス内の位置が大体つかめた。

   「北京は快晴青空」と書いたが、それは北京オリンピックの賜物である。中国の都市などの大気汚染はよく知られたところだが、海外から多くのお客がやって来るオリンピック開催に向け、国の威信を賭けて環境浄化に努めたその成果というわけだ。
   

   実験学校は小学校から高校までの一貫校であり、かつ幼稚園や韓国人学級、音楽学院、カナダの大学への進学コースなどを併設しているマンモス学校である。幼稚園と小学生を除いては全寮制のため寮は6階建て4棟の壮観さである。明日からの新学期に備えて、生徒たちが続々寮に戻って来た。さあ、明日から私も”先生”になるのだ。(つづく)

     
実験学校の吹き抜けのエントランス  壮観な寮の光景 私もこの一角に滞在

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする