折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

読書ノート「心に残ったフレーズ」VOL2~ 藤沢周平著 「三屋清左衛門残日録」(文芸春秋社)から

2014-10-09 | 読書
つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打っていた。清左衛門は後ろを振りむかずに、いそいでその場をはなれた。胸が波打っているのは、平八の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。
― そうか、平八。
いよいよ歩く練習をはじめたか、と清左衛門は思った。
人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめた、すべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。(「早春の光」の章より)


今後のことを考えると、新しい本は買わずに図書館で借りるようにしている。
ただし、予約順番待ちで借りるまで時間がかかるのが難点である。

その間は、家にある読み終わった本を読んで待つことにしている。

今は、藤沢周平の本をとっかえひっかえ読んでいる。
藤沢作品の中でも「三屋清左衛門残日録」は繰り返し読んだ作品の一つであるが、久しぶりに読み返してみて新たな感慨を覚えた。

冒頭に掲げた文章は、この物語の最終章の最後のくだりである。

中風で倒れ、無気力になりがちな日々を過ごす幼なじみの平八を、見舞いに訪ねる清左衛門が、途中で必死にリハビリに励む友の姿を目の当たりにした心境が秀逸な筆致で描かれている。

このフレーズには、老いとは、そして生きるとは、という問いかけを我々一人ひとりに突き付けるとともに、改めて藤沢さんの生と死への潔さと覚悟の程が凝縮されている感銘した次第である。


藤沢周平著「三屋清左衛門残日録」(文芸春秋社)

三屋清左衛門は、用人として仕えた先代藩主の死去に伴い、新藩主に隠居を願い出て、国元で隠居生活に入った。
隠居の日々は暇になるかと思われたが、実際には友人の町奉行が抱える事件や、知人やかつての同僚が絡む事件の解決に奔走することになる。さらには、藩を二分する政争にも巻き込まれていく。
世間から隔てられた寂寥感、老いた身を襲う悔恨。老いゆく日々の命のかがやきを、いぶし銀にも似た見事な筆で描く傑作長篇小説。

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