2月1日、『写楽と豊国(~役者絵と美人画の流れ~)展』を、三鷹市美術ギャラリーにて鑑賞。
何故、写楽と豊国? 今でこそ東洲斎写楽と云えば知らぬ者がいないほどの浮世絵師ですが、実は彗星の如く現れ10か月で消えた謎の天才。18世紀半ば、江戸庶民の圧涛Iな支持を得たのは、後に浮世絵界の最大流派、歌川派の総帥となる歌川豊国でした。時空を超越した形でのライバル関係。その作品を思う存分、鑑賞することができました。
〔以下~三鷹市美術ギャラリー HPより〕
寛政6年(1794)に役者絵の分野で競った二人のライバル、東洲斎写楽(生没年不詳)と歌川豊国(1769?825)の作品を軸に、寛政期から幕末までの浮世絵140点をご紹介します。
江戸時代、歌舞伎は老若男女にとって最大の娯楽でした。芝居の演目や役者への関心にはじまり、人気役者の私生活や持ち物、その一挙手一投足にまで人々の注目が集まりました。役者たちや芝居の様子を描いた浮世絵は、歌舞伎芝居の余韻を楽しみ贔屓の役者を身近において眺めるブロマイドであり、美人画にならぶ主要なジャンルとして初期から幕末まで描かれました。
なかでも寛政6年(1794)は、新進気鋭の絵師 歌川豊国(1769~1825)をはじめ彗星のごとく現れた東洲斎写楽(生没年不詳)が活躍し、その時期衰退気味であった役者絵の刊行量はこの二人に牽引されるように増加します。この役者絵の転換期に現れた写楽と豊国ですが、写楽が短期間で姿を消したこととは対照的に、豊国は浮世絵界で最大の流派となる歌川派を拡大し、その後の浮世絵界をリードする存在となります。つづく文化文政期(1804~1830)には、芝居ブームを背景にした数多くの役者絵と、芝居から派生した新しい感覚の美人画が生み出され歌川派の絵師たちが筆をふるいました。
本展では、写楽と豊国を軸にした寛政期の浮世絵を出発点として、幕末にいたる歌川派の役者絵と美人画の流れを展示致します。江戸の人々を夢中にさせた人気役者や力自慢の力士たち、寛政三美人と謳われた評判娘といった人気者を通して、江戸の賑わいをお楽しみください。
出品作家
東洲斎写楽、歌舞伎堂艶鏡、勝川春艶、勝川春英、鳥居清長、喜多川歌麿、歌川豊春
歌川豊国、歌川国政、歌川国貞、歌川国芳ほか
【参考】〔以下~BS TBS 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒 HPより〕
寛政6年1月。江戸三座の正月歌舞伎興行に合わせ、芝の板元・和泉屋市兵衛は新たな役者絵のシリーズを売り出した。絵師は当時売り出し中の歌川豊国。 役者の立ち姿を優美に描いた絵は、大衆の心を掴んだ。このまま役者絵は豊国の一人勝ちになるかと思われたその矢先…思わぬライバルが出現する。 5月興行になり、日本橋の蔦屋重三郎もまた役者絵販売に乗り出す。絵師は全く無名の東洲斎写楽。そのデビューは何から何まで型破りだった。新人にもかかわらず、28点もの作品を一挙に発売。そして、豊国が役者の立ち姿を描いたのに対し、写楽は「大首絵」と呼ばれる半身像、アップのみで勝負に出た。斬新。衝撃的。その存在から作品までもが、極めて異質な写楽の登場。伝統と革新、秀才と天才のプライドを賭けた対決は ここに始まった!!
「東洲斎写楽 VS 歌川豊国」永遠の10ヶ月戦争!!時代を超えた対決のゆくえは・・・
写楽の新しさは、豊国を圧唐オていた。版元の蔦屋は天才・写楽の勝利を確信し、ほくそ笑む。ところが、結果は全く違っていた。そう、写楽は売れなかったのだ。 当時、役者絵とは人気役者のブロマイドのようなもの。異彩を放つ写楽の絵は世間のニーズと合致しなかった。人間の本質まで描き切るかのような件p性は求められていなかったのだ。 豊国に敗れた写楽は、忘却の彼方へと葬り去られた。明治時代に発行された浮世絵師の番付は歌川派で埋め尽くされ、写楽の名は無い。二人の勝負は豊国の完全勝利か・・・。 それから百年以上がたったころ。ドイツの浮世絵研究者、ユリウス・クルトが一冊の本を刊行する。タイトルはずばり「SHARAKU」。この本で写楽は絶賛を浴びる。日本ではとうに忘れ去られていた男が「世界の写楽」になったのだ。 二人の天才絵師のライバル対決。はたして、真の勝者は…。
歌川豊国 歌舞伎堂艶鏡 東洲斎写楽 東洲斎写楽
“三世沢村宗十郎 “三世市川八百蔵” “嵐龍蔵の “中山富三郎
の大星由良之助” 金貸石部金吉” の宮城野”
鳥居清政 喜多川歌麿 喜多川歌麿 歌川豊国
“高嶋おひさ” “山姥と金太郎” “松葉楼装ひ “今やう娘七小町
実を通す風情” 清水小まち”
歌川国芳 “暑中の夕立”
歌川国貞 “神無月はつ雪のそうか”
歌川国芳 “八町つづみ夜のけい”
何故、写楽と豊国? 今でこそ東洲斎写楽と云えば知らぬ者がいないほどの浮世絵師ですが、実は彗星の如く現れ10か月で消えた謎の天才。18世紀半ば、江戸庶民の圧涛Iな支持を得たのは、後に浮世絵界の最大流派、歌川派の総帥となる歌川豊国でした。時空を超越した形でのライバル関係。その作品を思う存分、鑑賞することができました。
〔以下~三鷹市美術ギャラリー HPより〕
寛政6年(1794)に役者絵の分野で競った二人のライバル、東洲斎写楽(生没年不詳)と歌川豊国(1769?825)の作品を軸に、寛政期から幕末までの浮世絵140点をご紹介します。
江戸時代、歌舞伎は老若男女にとって最大の娯楽でした。芝居の演目や役者への関心にはじまり、人気役者の私生活や持ち物、その一挙手一投足にまで人々の注目が集まりました。役者たちや芝居の様子を描いた浮世絵は、歌舞伎芝居の余韻を楽しみ贔屓の役者を身近において眺めるブロマイドであり、美人画にならぶ主要なジャンルとして初期から幕末まで描かれました。
なかでも寛政6年(1794)は、新進気鋭の絵師 歌川豊国(1769~1825)をはじめ彗星のごとく現れた東洲斎写楽(生没年不詳)が活躍し、その時期衰退気味であった役者絵の刊行量はこの二人に牽引されるように増加します。この役者絵の転換期に現れた写楽と豊国ですが、写楽が短期間で姿を消したこととは対照的に、豊国は浮世絵界で最大の流派となる歌川派を拡大し、その後の浮世絵界をリードする存在となります。つづく文化文政期(1804~1830)には、芝居ブームを背景にした数多くの役者絵と、芝居から派生した新しい感覚の美人画が生み出され歌川派の絵師たちが筆をふるいました。
本展では、写楽と豊国を軸にした寛政期の浮世絵を出発点として、幕末にいたる歌川派の役者絵と美人画の流れを展示致します。江戸の人々を夢中にさせた人気役者や力自慢の力士たち、寛政三美人と謳われた評判娘といった人気者を通して、江戸の賑わいをお楽しみください。
出品作家
東洲斎写楽、歌舞伎堂艶鏡、勝川春艶、勝川春英、鳥居清長、喜多川歌麿、歌川豊春
歌川豊国、歌川国政、歌川国貞、歌川国芳ほか
【参考】〔以下~BS TBS 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒 HPより〕
寛政6年1月。江戸三座の正月歌舞伎興行に合わせ、芝の板元・和泉屋市兵衛は新たな役者絵のシリーズを売り出した。絵師は当時売り出し中の歌川豊国。 役者の立ち姿を優美に描いた絵は、大衆の心を掴んだ。このまま役者絵は豊国の一人勝ちになるかと思われたその矢先…思わぬライバルが出現する。 5月興行になり、日本橋の蔦屋重三郎もまた役者絵販売に乗り出す。絵師は全く無名の東洲斎写楽。そのデビューは何から何まで型破りだった。新人にもかかわらず、28点もの作品を一挙に発売。そして、豊国が役者の立ち姿を描いたのに対し、写楽は「大首絵」と呼ばれる半身像、アップのみで勝負に出た。斬新。衝撃的。その存在から作品までもが、極めて異質な写楽の登場。伝統と革新、秀才と天才のプライドを賭けた対決は ここに始まった!!
「東洲斎写楽 VS 歌川豊国」永遠の10ヶ月戦争!!時代を超えた対決のゆくえは・・・
写楽の新しさは、豊国を圧唐オていた。版元の蔦屋は天才・写楽の勝利を確信し、ほくそ笑む。ところが、結果は全く違っていた。そう、写楽は売れなかったのだ。 当時、役者絵とは人気役者のブロマイドのようなもの。異彩を放つ写楽の絵は世間のニーズと合致しなかった。人間の本質まで描き切るかのような件p性は求められていなかったのだ。 豊国に敗れた写楽は、忘却の彼方へと葬り去られた。明治時代に発行された浮世絵師の番付は歌川派で埋め尽くされ、写楽の名は無い。二人の勝負は豊国の完全勝利か・・・。 それから百年以上がたったころ。ドイツの浮世絵研究者、ユリウス・クルトが一冊の本を刊行する。タイトルはずばり「SHARAKU」。この本で写楽は絶賛を浴びる。日本ではとうに忘れ去られていた男が「世界の写楽」になったのだ。 二人の天才絵師のライバル対決。はたして、真の勝者は…。
歌川豊国 歌舞伎堂艶鏡 東洲斎写楽 東洲斎写楽
“三世沢村宗十郎 “三世市川八百蔵” “嵐龍蔵の “中山富三郎
の大星由良之助” 金貸石部金吉” の宮城野”
鳥居清政 喜多川歌麿 喜多川歌麿 歌川豊国
“高嶋おひさ” “山姥と金太郎” “松葉楼装ひ “今やう娘七小町
実を通す風情” 清水小まち”
歌川国芳 “暑中の夕立”
歌川国貞 “神無月はつ雪のそうか”
歌川国芳 “八町つづみ夜のけい”