「14.武田・小笠原軍の渡河 2行」
「15.大内惟信と智戸六郎の戦い 3行」
「16.二宮殿と蜂屋入道の戦い 3行」
の合計8行は、短いので再掲すると、
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其後、打ヒデ/\渡ス人々ニハ、一陣、智戸六郎、二陣、平群四郎、三陣、中島五郎・武田六郎ヲ始トシテ、五千騎マデコソ渡シタル。
駿河大夫判官ト智戸六郎ト戦ケリ。判官ノ手ニカゝリ、河中ニテ廿五騎マデ射流〔いながし〕タリ。寄合〔よりあい〕、懸組〔かけくみ〕、判官ハ数多〔あまた〕ノ敵討取〔うちとる〕。子息帯刀左衛門討〔うた〕レニケレバ、後弱〔うしろよわ〕クヤ覚ケン、落ニケリ。
二宮殿ト蜂屋入道ト戦ケリ。蜂屋入道ハ、二宮殿ノ勢廿四騎マデ射流タリ。渡付〔わたりつき〕テ後、蜂屋入道ト二宮殿ト組タリケリ。蜂屋入道ハ多ノ敵討取テ、我身ニ痛手負〔おひ〕、自害シテコソ失ニケレ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8825fac5abc8d50c23fa7da54c8801b3
「15.大内惟信と智戸六郎の戦い 3行」
「16.二宮殿と蜂屋入道の戦い 3行」
の合計8行は、短いので再掲すると、
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其後、打ヒデ/\渡ス人々ニハ、一陣、智戸六郎、二陣、平群四郎、三陣、中島五郎・武田六郎ヲ始トシテ、五千騎マデコソ渡シタル。
駿河大夫判官ト智戸六郎ト戦ケリ。判官ノ手ニカゝリ、河中ニテ廿五騎マデ射流〔いながし〕タリ。寄合〔よりあい〕、懸組〔かけくみ〕、判官ハ数多〔あまた〕ノ敵討取〔うちとる〕。子息帯刀左衛門討〔うた〕レニケレバ、後弱〔うしろよわ〕クヤ覚ケン、落ニケリ。
二宮殿ト蜂屋入道ト戦ケリ。蜂屋入道ハ、二宮殿ノ勢廿四騎マデ射流タリ。渡付〔わたりつき〕テ後、蜂屋入道ト二宮殿ト組タリケリ。蜂屋入道ハ多ノ敵討取テ、我身ニ痛手負〔おひ〕、自害シテコソ失ニケレ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8825fac5abc8d50c23fa7da54c8801b3
となります。
武田軍の五千騎云々その他の数字は大袈裟かもしれませんが、軍記物の通例といえば通例ですし、後の杭瀬川合戦の児玉党三千騎のようにあまりに過大な訳でもありません。
そこで14・15・16は「B」(積極的に疑う格別の理由がない)とします。
次に、「17.市川新五郎と薩摩左衛門の戦い 3行」は、
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小笠原ハ是ヲ見テ、三千騎マデ討ヒデタリ。一人モ漏サズシテ渡シケル。市川新五郎ハ、先ノ詞ネタガリテ、薩摩ノ左衛門ヲ目ニカケテ、押寄セ、熊手ヲ以〔もつて〕兜ノテヘンニ打立テ、懸テ引寄、頸ヲ討。
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というもので、これは「11.市川新五郎と京方・薩摩左衛門の言葉戦い 8行」を受けています。
このような戦闘場面は戦場でありふれたものでしょうが、11を「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と評価したので、11と密接不可分な17も「D」と判断します。
続く、「18.蜂屋蔵人の逃亡 4行」と「19.蜂屋三郎と武田六郎の戦い 10行」は、
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蜂屋蔵人、是ヲ見テ、「加様〔かやう〕ノ所ハニグル甲〔かう〕ノ者、落ナン」ト思ツゝ、鞭ヲ揚テ、高山ヘゾ入ニケル。同三郎、是ヲ見テ、追付〔おひつき〕申ケルハ、「何〔いづれ〕ヘトテオハスルゾ。加程〔かほど〕ニ成ナンニ、落行〔おちゆき〕タリトモ、蝶〔てふ〕ヤ花ヤト栄〔さかゆ〕ベキカ。返シ給ヘ。父ノ敵〔かたき〕討ン、蔵人殿」ト云ケレドモ、聞〔きか〕ヌ顔ニテ落ニケリ。蜂屋三郎、力及バデヒキカエシ、武田六郎ト戦ケリ。蜂屋三郎申ケルハ、「武田六郎ト見奉ルハ僻事〔ひがごと〕カ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王〔ろくそんわう〕ノ末葉〔ばつえふ〕蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也。父ノ敵討ントテ、参〔まゐり〕テ候ナリ。手次〔てなみ〕ノホドモ御覧ゼヨ」トテ、上差〔うはざし〕抜出シ、滋藤〔しげどう〕ノ弓ニ打クハセテ、飽マデ引テ放〔はなち〕タレバ、武田六郎ガ左ノ脇ニ立タル一ノ郎等ノ冑〔よろひ〕ノ胸板、上巻〔うはまき〕マデ射通〔いとほし〕ケレバ、暫〔しばし〕モタマラズ馬ヨリ落テケリ。二矢〔にのや〕返シテ射タリケレバ、武田六郎ガ小舎人童〔こどねりわらは〕ノ頸骨ヲ、後ヘコソ射抜タレ。其後、六郎ト三郎ト引組〔ひつくん〕デ、共ニ馬ヨリ落ニケリ。上ニナリ下ニナリスルホドニ、三郎、腹巻通〔はらまきどほし〕ヲ抜出シ、六郎ガ甲〔かぶと〕ノテヘン、鎧ノワタガミマデコソカキ付タレ。六郎ハアブナク見ヘシ処ニ、武田八郎、落合テ、六郎ヲ引ノケテ、三郎ガ頸ヲ取〔とる〕。八郎ナカリセバ、六郎ヨモイキジ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
というもので、戦場では蜂屋蔵人のように裏切る人も出るでしょうし、武田六郎と蜂屋三郎の戦闘場面も全く不自然という訳でもないでしょうが、いずれも脚色が多いように感じます。
そこで、18と19は「C」(ストーリーの骨格は史実を反映しているが、脚色が多く、信頼性は低い)と判断します。
続く「20.神土殿と上田刑部の降伏談義 9行」と「21.北条泰時による神土殿父子九騎の処刑 5行」は非常に面白いストーリーです。
(その45)─「命アレバ海月ノ骨ニモ、申譬ノ候ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
(その46)─「阿井渡、蜂屋入道堅メ給ヘ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51f9021c68667da368f5bb7da224bdda
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(その47)─「大夫殿御前ニテ、軍ノ糺定蒙シ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2
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しかし、『吾妻鏡』六月二十日条には、
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【前略】及晩。美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人。於貴舟辺。本間兵衛尉生虜之。又多田蔵人基綱梟首云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
とあり、「美濃源氏神地蔵人頼経入道。同伴類十余人」が貴船近辺で「本間兵衛尉」に生捕りにされたという話は慈光寺本と矛盾します。
どちらが信頼できるかというと、武士の戦功と恩賞に関わる話は『吾妻鏡』の方が信頼できますね。
従って、20・21は「D」(ストーリーの骨格自体が疑わしく、信頼性は極めて低い)と判断します。
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