『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第14回
毎日毎日、両親のことを考えている。 ニョゼが顔を見せてくれているその間は忘れているものの、ニョゼが居なくなるとすぐに両親のことを考えた。
考えようとして考えているわけではない。 涙が勝手に流れ、思い出す。
坂谷が何度も言ってくれた。 これは事故だったんだ、紫揺のせいではないんだ、と。
「まだそうとは思いきれないけど・・・」
と、頭の片隅に年かさの事務員に言われた言葉が浮かんだ。
『ご両親に心配かけないように生きていこうね』 その時は心に引っ掛かりもしなかったのに。
「泣いていたらお父さんとお母さんが心配する?」
そう思いながらもどこかで自分の考えを否定する。 自分が殺しておいて殺された両親が自分のことを心配なんかする筈ない。 枯れることを知らない涙がとめどなく溢れてきた。
頭の中で色んなことが錯綜する。 両親が慈しんで育ててくれた事、母親の一つ一つの言葉、父親の愛に溢れた手。 勿論、坂谷や事務員の言葉も。
「あ・・・」
母親の日記に書かれていたことを思い出した。
『紫揺さんがプレゼントしてくれた旅行をあり難く受け取って早季さんも心を休めましょう』 そう書かれていた。
自分は殺めようと思って両親をあのツアーに招いたのではなかった。 そう、そんなはずはない。 両親へ感謝を込めて贈ったプレゼントだった。 ただ、結果が最悪を招いた。
『両親が自分のことを心配なんかする筈ない』 ついさっきそう思った事が両親への冒涜の様に思われた。
その時、どこかで紫揺を呼ぶ声がした。 とても微かに。
「え?」
―――生きて。
「え? なに? だれ?」
―――生きて。
「お母さん?」 声は男ではなく優しい女の声。
「お母さんなの!?」 布団を跳ね飛ばし、ベッドから飛び降りる。 でもその先どこへ目を向ければいいのか分からない。
「お母さん? お母さんなの?」
―――守っているから。 見ているから。
―――ね、紫揺ちゃん。
「お母さん!! お母さんどこ!! どこに居るの!?」
『ね、紫揺ちゃん』 というのは母親である早季の口癖。
部屋中を歩き回るがそれ以降何も聞こえない。
「・・・お母さん」 その場にうずくまった。
その時、おののいた様に部屋の片隅から一つの影が消えた。
「・・・ケミ、なかなかのものをしたな。 だが、そんなことはショウワ様から命じられていない筈だが?」
「・・・あまりにムラサキ様が不憫でな。 だが・・・」
「なんだ?」
「吾の言った言葉と違う言葉が入った」
「どういうことだ?」
「吾が退散するに至った言葉だ」
『―――守っているから。 見ているから。 ―――ね、紫揺ちゃん』 そんな言葉をカミは発しなかった。
「ふっ、ほんにムラサキ様のお母上がケミの言葉に添えたのかもしれんな」
「気味の悪いことを言うな」
「気味の悪い? 吾らも充分、気味の悪い存在だと思うがな」
憮然としたケミがカミに問うた。
「領主はどうしておる」
「ああ、ムラサキ様が正気に戻られた時の次の手を考えているようだった」
「次の手?」
「屋敷へ戻る時の算段だ」
「どういうことだ?」
「ムラサキ様の意識のある状態で屋敷へ移る気がないようだ」
「もどかしい言い方をするな」
「今度は注射などという荒い手は使わないようだ。 睡眠薬が使われると思う」
「睡眠薬?」
「ムラサキ様を眠らせてその間に移動するという事だ」
「その薬はムラサキ様のお身体に負担はないのか?」
「ああ、知れたものらしい」
「ショウワ様に報告をしたのか?」
「ああ。 かなり頬を歪めておられた。 だが、最後の手段として承知された」
「最後の手段?」
「お生まれになってからあまりにも年月が経ち過ぎた。 万が一のことを考えられたのだろう」
「・・・それだけ使いたくない手という事か?」
「おい、お前の視点はズレているぞ。 ムラサキ様がわが領土に来てくださればそれでいい話ではないか。 確かにムラサキ様のお身体が一番ではあるが、ここでお逃げにでもなられたことを考えろ。 我が領土は灰に朽ちてしまうかもしれんのだぞ」
「分かっている。 灰か・・・あの者たちだ、灰以外にも朽ちる事があるかもしれんがな」
ケミのその言葉にカミが顔を歪めた。
「お前・・・ムラサキ様に付きすぎたな・・・。 吾と代わろう。 お前は領主に付け。 吾がムラサキ様に付く。 ゼンとダンは領主が雇った者たちを見ている」
「ああ・・・その方が良さそうだ」
ずっと影から見守っていたケミが紫揺の元を離れる。 当然だ。 紫揺に介してしまったのだから。 影が言葉をもって介するなどとはもっての他であった。
「お母さん・・・苦しくないの? 痛くないの?」
そして
「許してくれるの・・・?」
『紫揺ちゃんありがとう。 大好きよ。 紫揺ちゃん、笑って』 過去の母親の言葉を思い出す。
紫揺の目から大粒の涙がボトボトと流れ落ちた。
「お母―さ―ん!!」 泣き叫びその場にうずくまった。
重厚な窓がガタガタと揺れる。 ベッドと猫足のテーブルの四つの足が留まることを知らないように揺れ踊る。 部屋中の大きな調度品が左右に揺れる音を出す。 パキンと音を立てて割れたのはサイドボードのガラスと中にあったグラス。 次いでシャンデリアがパンパンと音を立ててガラスが弾けとび、紫揺の上にいくつものガラスが飛び散る。 勢いをつけたガラスが紫揺の纏うシルクの服を簡単に切り裂く。 淡い藤色のシルクの服からジワリと血が滲む。 後ろの首筋にも血の筋が何本も描かれた。
「お叫びじゃ!」 岩屋で独唱が叫んだ。 慌てて塔弥が地図を差し出す。
老女が意識を集中する。 が、すぐに紫揺の激しい感情がおさまった。 紫揺が今まで持っていた感情を全て納めたからであった。
「くっ、追えん」 独唱が唇を噛んだ。
塔弥が独唱の身を案ずるのは勿論であったが、今ここに最後と思える紫、紫揺の足跡を探せるのならばと、独唱の身体を気づかう気持ちと、紫揺を迎えたいという気持ちが一気に濁流として舞い込んだ。 お叫びならすぐにでも場所を特定できると思った。
誰よりもこの領土に紫揺を迎えたいと思う塔弥なのだから。
「お母さん、お母さん・・・」 自分の激しい気を抑える。
「お母さん、許してくれるの?」 頭を上げるとその身体からジャラジャラと音を立ててシャンデリアの大きなガラスが落ちる。
だが、その問いに返事はない。
「・・・ありがとう、大好きよ、って言ってくれた?」 朦朧と辺りを見回す。
「笑ってって言った?」 問うがどこからも返事がない。
「何をしておる! ムラサキ様がお叫じゃ!」
夜、領土から帰ったばかりのセノギにそんな連絡が入った。
すぐさまニョゼを連れて紫揺の部屋を訪ねたが、明かりが点かない。 非常用の予備灯のスイッチを入れても点かない。 仕方なく廊下に備え付けられていた懐中電灯を手に取り部屋の中で点けると、細かな割れたシャンデリアを身に纏い倒れている紫揺が目に入った。 淡い藤色の服に何筋も切れ目が見え、そこから血が滲んでいる。 髪の毛にも細かなガラスが飛んだのだろう、キラキラと懐中電灯の灯りを反射をしている。
「シユラ様!」 ニョゼが紫揺の元に駆けつけようとするのをセノギが腕を掴んで止めた。
「ニョゼも怪我をしてしまう。 これからもシユラ様に付かなくてはいけないんだ、少なくとも手袋をしてからだ」
唇を噛んでセノギの言葉を受けると手袋を探しに部屋を出て行った。
「何があった・・・」
懐中電灯で照らされた部屋中を見渡すセノギ。 サイドボードのガラスもその中のグラスもみんな弾け飛んで割れている。 テーブルとベッドやソファーが移動している。 今にも倒れそうな大きな調度品。 花瓶に入れてあったバラが焼け焦げている。
「・・・これがムラサキ様の力か・・・」 震撼すると共に酷薄さえ感じる。
懐中電灯で紫揺を照らすと床に置き、ゆっくりと歩いて紫揺の横にしゃがみ込むと、紫揺が纏っているガラスの破片を軽くはたいて落とす。
「力とは持つものではありませんね・・・」 抱き上げるとそのままバスルームに運んだ。
翌日、セノギと共に昨夜領土から帰ってきたムロイが、セノギの報告に紫揺の部屋を訪ねた。
「あーあ、やってくれたな」 ムロイに見せるため、片付けることをせずそのままにしてあった。
「支払いが高くつく」
良い物ばかりを取り揃えてあるVIP ROOMなのだから。 だが、そう言いながらも歓心が抑えきれないようだ。
「なかなかに破壊してくれているが大きな物や窓は壊れなかったか・・・まだまだと言うところだな」 と、焼け焦げたバラが目に入った。
「青は充分に目覚めているようだが、赤が目覚めつつあるというところか」 得得と独語すると振り返りセノギを見た。
「仔ギツネはどこにいるんだ?」
「シユラ様でしたらこの部屋が片付くまで、控えの部屋に移っていただきました」
「そうか。 では早々に片付けてくれ」
「・・・はい」
「ほぉー、冬の海か久しぶりだな。 え? いや、それは出来ないよ。 ・・・そうは言ってもなぁ・・・。 ああ・・・ああ、分かった。 じゃ、きくだけ訊いてみるよ」
社長が長電話の受話器を置くとすぐに此之葉を見た。
「ねぇ、ねぇ、此之葉さん」
「はい?」
「今度、一緒に出張しませんか?」
「出張・・・ですか?」
「ええ、大建工業 (だいたつこうぎょう)に」
「大建工業・・・鳥取県ですね」 醍十から聞いていた情報がよぎる。
他の者ならこの情報を此之葉に流さなかったであろう。 此之葉には紫揺の仕事の後始末だけが必要なのだから。 だが、醍十はそんなことを考えない。 送り迎えする車の中で聞かされた情報を何も考えず此之葉に話していた。
「よく覚えていますね。 そうです、鳥取県です」
「あー! 船ですね! ヤダな、社長。 俺を誘ってくださいよー」
「お前たちは出張という大義名分で充分に遊んでいるだろ」
「って、えー!? 社長、此之葉さんと出張デートですか!?」
「なに馬鹿なことを言ってるんだ! そんなこと有るわけないだろうが! 大建工業の社長からのお誘いだ。 この前来た時に此之葉さんが気に入ったらしい。 で、船に招待したいんだと」
「あそこの社長って、すぐに招待するもんなぁ」
「お前も・・・3年前か? 招待されたよな」 男女関係なく気に入れば招待するようだ。
「ああ。 けっこう楽しかったぞ。 ね、此之葉さん行ってみれば? めったにクルーザーになんて乗れないんだからさ」
「社長、私は誘ってもらえないんですか?」 歳かさの事務員が言う。
「おお、旦那さんのことがあるから遠慮したんだが行くか? 一緒に?」
「旦那のことなんてどうでもいいです。 それより此之葉さんが心配だからついて行きます」
「心配ってどういう意味だよ・・・」 薄い頭を一撫でした。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第14回
毎日毎日、両親のことを考えている。 ニョゼが顔を見せてくれているその間は忘れているものの、ニョゼが居なくなるとすぐに両親のことを考えた。
考えようとして考えているわけではない。 涙が勝手に流れ、思い出す。
坂谷が何度も言ってくれた。 これは事故だったんだ、紫揺のせいではないんだ、と。
「まだそうとは思いきれないけど・・・」
と、頭の片隅に年かさの事務員に言われた言葉が浮かんだ。
『ご両親に心配かけないように生きていこうね』 その時は心に引っ掛かりもしなかったのに。
「泣いていたらお父さんとお母さんが心配する?」
そう思いながらもどこかで自分の考えを否定する。 自分が殺しておいて殺された両親が自分のことを心配なんかする筈ない。 枯れることを知らない涙がとめどなく溢れてきた。
頭の中で色んなことが錯綜する。 両親が慈しんで育ててくれた事、母親の一つ一つの言葉、父親の愛に溢れた手。 勿論、坂谷や事務員の言葉も。
「あ・・・」
母親の日記に書かれていたことを思い出した。
『紫揺さんがプレゼントしてくれた旅行をあり難く受け取って早季さんも心を休めましょう』 そう書かれていた。
自分は殺めようと思って両親をあのツアーに招いたのではなかった。 そう、そんなはずはない。 両親へ感謝を込めて贈ったプレゼントだった。 ただ、結果が最悪を招いた。
『両親が自分のことを心配なんかする筈ない』 ついさっきそう思った事が両親への冒涜の様に思われた。
その時、どこかで紫揺を呼ぶ声がした。 とても微かに。
「え?」
―――生きて。
「え? なに? だれ?」
―――生きて。
「お母さん?」 声は男ではなく優しい女の声。
「お母さんなの!?」 布団を跳ね飛ばし、ベッドから飛び降りる。 でもその先どこへ目を向ければいいのか分からない。
「お母さん? お母さんなの?」
―――守っているから。 見ているから。
―――ね、紫揺ちゃん。
「お母さん!! お母さんどこ!! どこに居るの!?」
『ね、紫揺ちゃん』 というのは母親である早季の口癖。
部屋中を歩き回るがそれ以降何も聞こえない。
「・・・お母さん」 その場にうずくまった。
その時、おののいた様に部屋の片隅から一つの影が消えた。
「・・・ケミ、なかなかのものをしたな。 だが、そんなことはショウワ様から命じられていない筈だが?」
「・・・あまりにムラサキ様が不憫でな。 だが・・・」
「なんだ?」
「吾の言った言葉と違う言葉が入った」
「どういうことだ?」
「吾が退散するに至った言葉だ」
『―――守っているから。 見ているから。 ―――ね、紫揺ちゃん』 そんな言葉をカミは発しなかった。
「ふっ、ほんにムラサキ様のお母上がケミの言葉に添えたのかもしれんな」
「気味の悪いことを言うな」
「気味の悪い? 吾らも充分、気味の悪い存在だと思うがな」
憮然としたケミがカミに問うた。
「領主はどうしておる」
「ああ、ムラサキ様が正気に戻られた時の次の手を考えているようだった」
「次の手?」
「屋敷へ戻る時の算段だ」
「どういうことだ?」
「ムラサキ様の意識のある状態で屋敷へ移る気がないようだ」
「もどかしい言い方をするな」
「今度は注射などという荒い手は使わないようだ。 睡眠薬が使われると思う」
「睡眠薬?」
「ムラサキ様を眠らせてその間に移動するという事だ」
「その薬はムラサキ様のお身体に負担はないのか?」
「ああ、知れたものらしい」
「ショウワ様に報告をしたのか?」
「ああ。 かなり頬を歪めておられた。 だが、最後の手段として承知された」
「最後の手段?」
「お生まれになってからあまりにも年月が経ち過ぎた。 万が一のことを考えられたのだろう」
「・・・それだけ使いたくない手という事か?」
「おい、お前の視点はズレているぞ。 ムラサキ様がわが領土に来てくださればそれでいい話ではないか。 確かにムラサキ様のお身体が一番ではあるが、ここでお逃げにでもなられたことを考えろ。 我が領土は灰に朽ちてしまうかもしれんのだぞ」
「分かっている。 灰か・・・あの者たちだ、灰以外にも朽ちる事があるかもしれんがな」
ケミのその言葉にカミが顔を歪めた。
「お前・・・ムラサキ様に付きすぎたな・・・。 吾と代わろう。 お前は領主に付け。 吾がムラサキ様に付く。 ゼンとダンは領主が雇った者たちを見ている」
「ああ・・・その方が良さそうだ」
ずっと影から見守っていたケミが紫揺の元を離れる。 当然だ。 紫揺に介してしまったのだから。 影が言葉をもって介するなどとはもっての他であった。
「お母さん・・・苦しくないの? 痛くないの?」
そして
「許してくれるの・・・?」
『紫揺ちゃんありがとう。 大好きよ。 紫揺ちゃん、笑って』 過去の母親の言葉を思い出す。
紫揺の目から大粒の涙がボトボトと流れ落ちた。
「お母―さ―ん!!」 泣き叫びその場にうずくまった。
重厚な窓がガタガタと揺れる。 ベッドと猫足のテーブルの四つの足が留まることを知らないように揺れ踊る。 部屋中の大きな調度品が左右に揺れる音を出す。 パキンと音を立てて割れたのはサイドボードのガラスと中にあったグラス。 次いでシャンデリアがパンパンと音を立ててガラスが弾けとび、紫揺の上にいくつものガラスが飛び散る。 勢いをつけたガラスが紫揺の纏うシルクの服を簡単に切り裂く。 淡い藤色のシルクの服からジワリと血が滲む。 後ろの首筋にも血の筋が何本も描かれた。
「お叫びじゃ!」 岩屋で独唱が叫んだ。 慌てて塔弥が地図を差し出す。
老女が意識を集中する。 が、すぐに紫揺の激しい感情がおさまった。 紫揺が今まで持っていた感情を全て納めたからであった。
「くっ、追えん」 独唱が唇を噛んだ。
塔弥が独唱の身を案ずるのは勿論であったが、今ここに最後と思える紫、紫揺の足跡を探せるのならばと、独唱の身体を気づかう気持ちと、紫揺を迎えたいという気持ちが一気に濁流として舞い込んだ。 お叫びならすぐにでも場所を特定できると思った。
誰よりもこの領土に紫揺を迎えたいと思う塔弥なのだから。
「お母さん、お母さん・・・」 自分の激しい気を抑える。
「お母さん、許してくれるの?」 頭を上げるとその身体からジャラジャラと音を立ててシャンデリアの大きなガラスが落ちる。
だが、その問いに返事はない。
「・・・ありがとう、大好きよ、って言ってくれた?」 朦朧と辺りを見回す。
「笑ってって言った?」 問うがどこからも返事がない。
「何をしておる! ムラサキ様がお叫じゃ!」
夜、領土から帰ったばかりのセノギにそんな連絡が入った。
すぐさまニョゼを連れて紫揺の部屋を訪ねたが、明かりが点かない。 非常用の予備灯のスイッチを入れても点かない。 仕方なく廊下に備え付けられていた懐中電灯を手に取り部屋の中で点けると、細かな割れたシャンデリアを身に纏い倒れている紫揺が目に入った。 淡い藤色の服に何筋も切れ目が見え、そこから血が滲んでいる。 髪の毛にも細かなガラスが飛んだのだろう、キラキラと懐中電灯の灯りを反射をしている。
「シユラ様!」 ニョゼが紫揺の元に駆けつけようとするのをセノギが腕を掴んで止めた。
「ニョゼも怪我をしてしまう。 これからもシユラ様に付かなくてはいけないんだ、少なくとも手袋をしてからだ」
唇を噛んでセノギの言葉を受けると手袋を探しに部屋を出て行った。
「何があった・・・」
懐中電灯で照らされた部屋中を見渡すセノギ。 サイドボードのガラスもその中のグラスもみんな弾け飛んで割れている。 テーブルとベッドやソファーが移動している。 今にも倒れそうな大きな調度品。 花瓶に入れてあったバラが焼け焦げている。
「・・・これがムラサキ様の力か・・・」 震撼すると共に酷薄さえ感じる。
懐中電灯で紫揺を照らすと床に置き、ゆっくりと歩いて紫揺の横にしゃがみ込むと、紫揺が纏っているガラスの破片を軽くはたいて落とす。
「力とは持つものではありませんね・・・」 抱き上げるとそのままバスルームに運んだ。
翌日、セノギと共に昨夜領土から帰ってきたムロイが、セノギの報告に紫揺の部屋を訪ねた。
「あーあ、やってくれたな」 ムロイに見せるため、片付けることをせずそのままにしてあった。
「支払いが高くつく」
良い物ばかりを取り揃えてあるVIP ROOMなのだから。 だが、そう言いながらも歓心が抑えきれないようだ。
「なかなかに破壊してくれているが大きな物や窓は壊れなかったか・・・まだまだと言うところだな」 と、焼け焦げたバラが目に入った。
「青は充分に目覚めているようだが、赤が目覚めつつあるというところか」 得得と独語すると振り返りセノギを見た。
「仔ギツネはどこにいるんだ?」
「シユラ様でしたらこの部屋が片付くまで、控えの部屋に移っていただきました」
「そうか。 では早々に片付けてくれ」
「・・・はい」
「ほぉー、冬の海か久しぶりだな。 え? いや、それは出来ないよ。 ・・・そうは言ってもなぁ・・・。 ああ・・・ああ、分かった。 じゃ、きくだけ訊いてみるよ」
社長が長電話の受話器を置くとすぐに此之葉を見た。
「ねぇ、ねぇ、此之葉さん」
「はい?」
「今度、一緒に出張しませんか?」
「出張・・・ですか?」
「ええ、大建工業 (だいたつこうぎょう)に」
「大建工業・・・鳥取県ですね」 醍十から聞いていた情報がよぎる。
他の者ならこの情報を此之葉に流さなかったであろう。 此之葉には紫揺の仕事の後始末だけが必要なのだから。 だが、醍十はそんなことを考えない。 送り迎えする車の中で聞かされた情報を何も考えず此之葉に話していた。
「よく覚えていますね。 そうです、鳥取県です」
「あー! 船ですね! ヤダな、社長。 俺を誘ってくださいよー」
「お前たちは出張という大義名分で充分に遊んでいるだろ」
「って、えー!? 社長、此之葉さんと出張デートですか!?」
「なに馬鹿なことを言ってるんだ! そんなこと有るわけないだろうが! 大建工業の社長からのお誘いだ。 この前来た時に此之葉さんが気に入ったらしい。 で、船に招待したいんだと」
「あそこの社長って、すぐに招待するもんなぁ」
「お前も・・・3年前か? 招待されたよな」 男女関係なく気に入れば招待するようだ。
「ああ。 けっこう楽しかったぞ。 ね、此之葉さん行ってみれば? めったにクルーザーになんて乗れないんだからさ」
「社長、私は誘ってもらえないんですか?」 歳かさの事務員が言う。
「おお、旦那さんのことがあるから遠慮したんだが行くか? 一緒に?」
「旦那のことなんてどうでもいいです。 それより此之葉さんが心配だからついて行きます」
「心配ってどういう意味だよ・・・」 薄い頭を一撫でした。