大福 りす の 隠れ家

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国津道  第65回

2021年08月30日 22時20分34秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第60回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第65回



詩甫が目を開けると、そこにいつもの着物を着て座している朱葉姫の姿が見えた。

「瀞謝」

「朱葉姫」

辺りを見回すと部屋といっていいのだろうか、社の中と言っていいのだろうか、隅に何度か見た顔ぶれが座っていて一夜と曹司が朱葉姫から少し離れた横に座している。

「花生さんは・・・」

瀞謝の姿となった詩甫が問う。

「お姉さまはお兄様の元に戻られました」

朱葉姫は一緒に戻らなかったのか。

「朱葉姫・・・その・・」

言いにくい。 でも今の朱葉姫の姿もそうだ。 気に入っている着物を着ているのだからそれでいいのかもしれないが、まだまだ朱葉姫に似合う着物もある筈。 いや、転生すると時代的に着物ではなくなるが、ファッションを楽しむことだって出来る。

ここにいる人たちに文句があるのではないが、千年と同じ顔ぶれ。 そしてこの少人数。 新しい出会いもしてほしい。

詩甫が腹に力を込める。

「瀞謝? 心配しなくていいのですよ」

「え・・・」

詩甫が口を開く前に朱葉姫が先に口を開いた。

「瀞謝には申し訳の無いことをしたと思っています」

「あの・・・」

申しわけないとはどういうことだろうか。

「瀞謝にはわたくしの頼みごとを勝手に二転三転させてしまって」

最初の朱葉姫の望み、それは一つには瀞謝が来る度に社に一輪の花を添えてくれていたように、供養石に花を添えて欲しいということであった。

そしてもう一つが、もう朱葉姫を想う者が居なくなった。 いつまでもここにこうしているわけにはいかない。 だが民が建ててくれたこの社を放っていくのは耐えがたい、それに民が心で建ててくれたこの社を朽ちて終わりにさせたくない。 だから最後にこの社を大切にしてくれた瀞謝に社の最後を頼みたいと言っていた。

供養石への花は来る度に供えた。 供養石のことは朱葉姫の想いに応えられたと思っている。

そこに薄の問題が起こった。
詩甫を守るためにもこの話は無かったことにしてほしいと聞かされた。
朱葉姫の言う二転三転とはこの事なのだろうことは分かっている。 だがどこかが違う。

「民が毎日足を運んで笑顔を見せてくれるの」

「・・・朱葉姫?」

初めて朱葉姫と会った時、朱葉姫は言っていた。

『祀られる者は祀る者が居てなればこそ。 祀る者の幸せを願うことが出来るのですから。 ですがそのような者はもう居りません。 わたくしの願いは終わりました』

村の人たちが足を運んでくる。 それは祀る者が現れたということ。

「供養石にもお花を置いてくれているの」

詩甫がぐっと拳を握る。

「朱葉姫、私は・・・」

一度口を閉じ真一文字にすると深く息を吸う。

「瀞謝?」

「私は・・・。 朱葉姫は民に心を寄せられた。 それはまだ三十年と生きていない私には思いもよらない程の長い年月。 朱葉姫に、紅葉姫社に手を合わせた人達・・・民がどれだけ幸せを感じてきたでしょうか」

一夜が頷いている。

「もう・・・」

その一言を言って瀞謝の姿をした詩甫が下を向いて首を振った。 幼い姿の瀞謝が心にいっぱいの悲しみを抱えているように見える。
再び顔を上げると瀞謝の目を通して詩甫が朱葉姫を見る。 その目に涙がたまっている。

「私は・・・朱葉姫に新しい人生を歩んでほしいと願っています」

隅に座っていた誰もが詩甫が何を言おうとしているのかが分かった。 驚いた顔を見せている。 一夜にいたってもそうである。 ただ曹司だけはずっと変わらぬ表情で俯き加減に前を向き半眼で畳を見ている。

「瀞謝・・・」

「これから村の人たちが毎日来るでしょう。 村の中ではお祭も考えにあるようです。 千年か何百年か振りになるんでしょうか。 朱葉姫は・・・これからも朱葉姫は民の顔を見ることができます。 でも・・・朱葉姫はもうご自分の人生を生きて下さい。 いいえ、私が朱葉姫に新しい人生を生きて欲しいんです。 朱葉姫に朱葉姫の明日を見て欲しいんです」

「瀞謝・・・」

驚いた顔を見せていた者の中には詩甫と同じ考えを持った者もいたのだろうか、それとも誰もが思っていたのだろうか、誰からも異を唱える声が上がってこない。

朱葉姫が慈愛に満ちた輝く笑みを見せる。

「このようなことを言っては民に申し訳が無いのですが、わたくしは人の心の移り変わりというものを見てきました」

それは時代背景も大きく左右していたが、それだけではない。 避けられない事態がある時代があったことは確かだ。 社の中に居たとてそれは分かっている。

「今こうして民が手を加えてくれたこの社もいつどうなるか分かりません」

「・・・朱葉姫」

詩甫とてそれは思っていたことだった。 今の人達は足しげく社に通うだろう。 だが三代四代となってはどうなのだろうか。

三太は社に来るだろう。 だが三太の子は? 孫は? その孫の子は? 他の村人にしてもそうだ。
それにいずれこの山も売られるかもしれない。 そこに新しく住宅が建つかもしれない。 浅香が調べた結果では神社として登録されていないということであったのだから。

「瀞謝・・・? わたくしにはもう覚悟は出来ています」

一夜が膝の上に置いていた手を前に着いて前屈みになった。 今までそんなことを聞いていなかったのだろう。

朱葉姫が再度微笑む。

「最後の民を見送った時には、わたくしは戻ります。 この社がまだ建っていても」

「朱葉姫」

「ふふふ、本当に瀞謝は心配性ね。 でも、わたくしの先のことを考えてくれて嬉しいわ。 その時には瀞謝と一緒にこの世に戻って来ましょうね」

「・・・朱葉姫」

二転三転、朱葉姫が言ったのは・・・それはこういうことだったのか。
朱葉姫は何と強いのだろうか。 浅香の言っていた通りだ。

とうとう瀞謝の目から・・・いや詩甫の目から涙が零れ落ちた。

それは張り詰めていた気持ちが解かれたからなのか、朱葉姫が今すぐに戻らないと言ったからなのか、いつか生まれ変わる時には一緒にと言われたからなのか、詩甫本人さえも分からなかった。

詩甫を見ていた朱葉姫が膝立ちになり小さな瀞謝の身体を抱きしめる。

「約束ですよ」

半眼に開けられていた曹司の瞼が閉じられた。



前を走る軽トラの荷台に小刻みに揺れるゴミ袋と男性陣が乗っているのが目に入る。 大婆もいつも通りで良いということで軽トラの助手席に座っている。 軽トラを運転しているのは長治だ。

そして女性陣は次郎の運転するアルファードに乗っている。 アルファードには運転手の次郎を除くと全員が女性であった。 助手席には次郎の嫁が座り、詩甫はセカンドシートに座っている。 有難くも女性陣から色々話しかけられ、朱葉姫のことで心寂しく思う間はなかった。

「あ! 三太!」

思わず次郎の声が上がった。 全員が話していた口を閉じ前を覗いて見てみると、荷台に三太が立ち上がっていた。
すぐさま一人の男性が三太を座らせ、三太の頭を叩いている。

「もう、三太・・・」

助手席で三太の母親がこぼしたが、心配でたまらないのだろう。 小川に行く時にも三太が走り出したのを見てすぐに母親も走り出していた。 三太自身のことも心配なのだろうが、跡継ぎの一人っ子に何かあってはと思っているのかもしれない。

三太が荷台に乗っているのは、祐樹が荷台に乗ってみたいと言い出し、何故か浅香ももう一度乗りたいと言い、祐樹が荷台に乗るのなら三太も荷台に乗ると言い出したのであった。

それにしても三太を座らせたあの男性は親戚の人だろうかと思い詩甫が訊ねたが、赤の他人ということである。

「でもみんな三太が生まれた時から知っとるから、親戚みたいなもん」

「そうそう、三太に限らずどこの子も生まれた時から知っとるから、村じゃ誰もが親戚のおじさんおばさんや」

そういうことか。 これが都会であったなら、他人の子の頭を叩くなんて考えられない事であったが、そういう事なら納得が出来る。

「いい教育ですね」

女性陣が目を合わせて笑う。

この女性陣たちは各家庭から掃除当番としてやって来たその家で一番の若嫁であるらしく、僧里村出身であったり他の村から嫁いで来たという村の環境を熟知している者たちである。

「教育って、そんな大層なもんやないて。 単なる生活」

「そうそう。 な、ええと思ったんやったら野崎さんも彼と結婚したらこっちに来ん?」

「はい?」

「彼、浅香君と付き合っとるんでしょ?」

「と! とんでもない!」

思わず両手を振って否定した。

「あれぇ? てっきりおれもそうと思ってたけど違うんか?」

思わぬ所、運転席からも次郎が訊いてきた。


トラックの荷台でも同じようなことが話されていた。

「え? 違うんか?」

「違うに決まってんだろ」

問われた浅香ではなく祐樹が答える。

「こ、こら、祐樹君、言葉使いを考えよう」

祐樹が口をひん曲げソッポを向く。

「すみません、野崎さんのことになると敏感に・・・」

「ええさ、うちの子も似たようなもんや。 で? ホンマに違うんか?」

チラリと祐樹を見ると睨んでいる。

「ご想像に反して申し訳ないんですが、残念ながら違います」

「えー? そうなんか? そんな風に聞いとったのになぁ」

別の男性が言い、もう一人も首を縦に振っている。

浅香と詩甫のことを知っているのは大婆の家族だ。 長治か次郎か、それとも遠目に見ていた嫁さん連中が噂していたのだろうか。

それを聞いていた三太がヒソヒソと祐樹に話しかけてくる。

「祐樹の姉ちゃんとあのお兄さんが結婚したら、祐樹には兄ちゃんが出来るってことだよな?」

初めて祐樹と会った時には詩甫と浅香を祐樹の姉と兄だと思い羨んだが、あとになりそうではないと聞いていた。

「いいなぁ」

三太には兄弟が居ない。 祐樹もそれを知っている。

「まぁ、な。 姉ちゃんが結婚したらな。 でも浅香でなくてもいいわけで」

「ん? なに? 祐樹はあのお兄さんが嫌いなの?」

「いや・・・そういう訳じゃないけど」

そんな風に言われると考えてしまう。
浅香がいい奴だとは分かっている。 それに相談にも乗ってもらったし、詩甫を大切にしてくれているのも分かっている。
だが嫌いではないからと言って詩甫の結婚相手と考えるのは別だろう。

「オレあのお兄さん好きだな」

「えぇぇー? どこがぁ?」

三太は浅香とそんなに話などしたことは無い筈だ。 なのにどうして。

「だって優しそう」

父親である次郎や祖父である長治を特に怖いとは思っていないし、さっきみたいに頭を叩かれても村の男衆を怖いとも思っていない。
それでも、と思う。

まだ祐樹と会う前のことだ。
長治が浅香と詩甫を大婆の部屋に連れて行き、四人で話しているのを盗み聞きした時だった。 それまでの話を偶然耳にしてどうしても気になりそっと廊下で聞いていた。
それを長治に見つかった。

襖が大きく開けられ浅香と詩甫も振り向いたその浅香をチラリと見たが、呆れたような様子も見せていなければ怒る様子もなかった。 それどころか目の合った三太に『ん? なに?』 と訊いてくれた。

『お兄さん、その話ってこの村の昔語りじゃないんでしょ?』 そう訊きかえした。

大人の話に首を突っ込むなと言われるかもしれない、相手にされないかもしれない、そう思いながらのことだった。
だが浅香はそうではなかった。

『うん、この村のことだなんて、まだ一言も言ってないよ』 そう答えてくれた。

「まぁ、優しいことは優しいかな」

祐樹は浅香に対して散々に言っている自覚はある。 それでも浅香は怒ったりしない。 唯一オジサンと言ったら、それだけは許さないと追いかけ回られるくらいだ。
考えれば本も貸してくれたし、録画も見せてくれた。

大婆が倒れた時も浅香が大婆を見ていた。 詩甫は浅香が見ているから大丈夫だと言っていた。
それに詩甫のことにしてもそうだ。 電車の中で詩甫が苦しみだした時、祐樹は何も出来なかった。 あの時のことはよく覚えている。 よく考えればあの時に限らず浅香はいつも冷静に詩甫の様子を見てくれている。

「それに、いいヤツかな」

「いいなぁ」

「んじゃ、今から兄ちゃんは無理だけど、お母さんに妹か弟を産んでもらえば?」

「欲しいって言ってるんだけど、コウノトリが来ないんだって」

「これだけ色んな昆虫や鳥が居るのに、コウノトリは居ないのかぁ。 コウノトリにとっていい餌とか無いのかな」

「そっか。 ね、コウノトリって何を食べるの?」

二人にとってコウノトリの存在は真剣な生態問題だった。


大婆の家に着くと三々五々散って行く男衆と女衆の間で軽トラから下ろされた大婆に詩甫が走り寄る。
長治に負ぶわれ玄関まで行くと、長治の背から下りた大婆が壁伝いに一人で歩きだした。 詩甫がそのまま大婆の部屋までついて行くと言ったので、三太の母親が詩甫に大婆を預け、姑と長治の弟の嫁たちと盛大な昼ご飯を並べ始めた。 すぐに隣近所、それどころか村中から人が集まったような大宴会になった。

浅香と詩甫が居なければ紅葉姫社はあのままになっていたのだから、遠慮せずに食べてくれと、大婆の家でも十分に料理を出してもらっていたのに、誰もが家から作ったものを持ち寄ってきた。

「呑めんだろ?」

一升瓶を見せられた時には昼間からどうしようかと思ったが「お神酒、お神酒」 と言われ、詩甫が口だけを付け、浅香はいくらか頂いた。

酒を呑みながらも、青年団からはこの夏には太鼓の音を朱葉姫に聞いてもらう予定だとか、婦人会では毎日紅葉姫社と供養石にお供えが出来るのが嬉しいとか、大工からは浅香の突貫工事を嘘か本当か褒められ、隙間が出来ることなく色んな話を聞かせてくれた。

浅香もそうだが祐樹も詩甫が朱葉姫と話をしたことは知っている。 だがその内容は二人ともまだ聞いていないし、時間が足らず途中で戻ってきたのか、ちゃんと話し終えたのかもわからないままだ。
ただ社の前に詩甫が姿を現し、浅香に振り向いた時に頷いてみせていた。 浅香は少なくとも詩甫の想いを告げることは出来たのだろうとは思っている。

村の人々が紅葉姫社のことに、朱葉姫のことに喜んでいる姿は嬉しく思えるところはあるが、朱葉姫に想いを告げた詩甫はどんな思いで聞いているのだろうか。

「浅香さん!」

手を振って座敷の窓がオープンにされている庭から現れたのは瀬戸朝霞だった。

「瀬戸さん」

瀬戸が靴を脱ぎ窓から入ってくると浅香の後ろに回る。

「ご連絡ありがとうございました」

昔語りの誤解が解け少し経った時に瀬戸には連絡をしていた。 なんと言っても大婆まで辿り着かせてくれたのは瀬戸なのだから。

だがこの瀬戸は、社でも山でもどちらに大蛇が居ようと構わないと言った時から、大婆の家には来られない立場ではなかったのだろうか。
その瀬戸がすでに見知っている詩甫にも軽く頭を下げる。

「出禁じゃなかったんですか?」

小さな声で浅香が訊く。

「今回のことで許してもらいました。 特に浅香さんと職種が同じで顔見知りだってことが大きかったみたいですけど」

「そうだったんですか。 今日は? 非番ですか?」

「ええ」

瀬戸が後ろを向くと皿を持った女性と位置を変える。

「姉貴です」

姉貴と言われた女性が所狭しと並べてある皿の間に手に持っていた皿を置く。

「朝霞がお世話になったそうで、これうちで漬けた漬物です。 良かったらどうぞ」

「行かず後家の姉貴ですけど、漬物だけは上手いんですよ」

「前半は取り消しなさい」

思わず姉が突っ込んだ。 仲のいい姉弟らしい。

瀬戸の姉を見た男衆から漬物に箸が伸びてきた。

「京ちゃんの漬物か。 浅香君、京ちゃんのは絶品だで」

「そうそ、食べにゃ損ってもん・・・って、あれ?」

周りにいた誰もが何のことだ? という顔をする。

「浅香君、京ちゃんどうだ?」

「はい?」

「気が強いけど、漬物だけはいけるで」

京ちゃんと呼ばれた瀬戸の姉が手を振り上げたが到底届かない。 仕方なく瀬戸の頭を叩いた。
イテっという瀬戸の声に浅香の声が被る。

「は?」

「清太郎おじさん、浅香さんには野崎さんがいますよ」

浅香と詩甫に二人の関係を確認しておいてそんなことを言う。 姉を酒の肴にされたくないからなのだろうか。

頭をさすりながら瀬戸が言うと清太郎以外の男衆たちが頷いてみせる。 自分達もそう聞いているのだから。

誤解です、と浅香が言いかけたが、その前に頷いていた男衆の一人から言われてしまった。

「で? 二人は何時結婚するんだ?」

並んで座っている二人にまたしてもこの話題が出た。
だが互いに軽トラの荷台で、アルファードの中でそんな話題が出たことは知らない。

浅香の反対側、詩甫の隣に三太と座っていた祐樹がチラリと詩甫を見た。 だがそれだけだった。 トラックの荷台で言ったようなことは口にしなかった。 それは詩甫が相手であったからではない。 三太と話している内に色んなことを思ったからであったが、浅香がそれを知るはずもない。

「いえ、野崎さんとは単に先輩後輩の仲ですから」

嘘ではあるが、一応、社サークルの先輩後輩という設定でこの村に近寄っていたのだから、それを貫き通すしかないだろう。

「え? 付き合うて無いんか?」

「あははー、デートもしたことありませんよ」

「ってことは、浅香君に彼女がおるってことか?」

詩甫がチラリと浅香を見たのが祐樹の目に入った。

「野崎さんにも彼氏がいるんか?」

詩甫が慌てて首を振る。

「野崎さんにはおらんってことらしいから、浅香君、彼女がおらんのなら野崎さんと結婚しちまえ」

「まーた、そんなことを」

「何言うとるんか、二人とも、もうええ歳だろ」

色んな男衆が次から次に話してくる。

「ええ歳っていうか、悪い歳ではないですね」

「なんじゃそりゃ」

男衆たちには相当酒が入っていたのだろう、この浅香の返しに腹を抱えて笑っている。

「浅香さんらしい返し」

まだ呑んでもいない瀬戸も笑い出す。

京ちゃんが持ってきた漬物に箸を進め、他にも並べられた料理に舌鼓を打ち、悪いなと思いながら勧められる半分以上のお神酒を断りながらも、時間が過ぎていった。

朱葉姫はこの民の姿を山の上から見ているだろうか、そんなことが頭の隅に浮かんだ。

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国津道  第64回

2021年08月27日 21時33分07秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第64回



二週間後、浅香から詩甫に連絡があった。
長治から完全に社を修繕したと連絡があり、一度見に来ないかということである。 駅には次郎が迎えに行くとも言っていたという。

詩甫と祐樹がいつもの電車に乗り込み、隣の駅から乗ってくる浅香を迎える。

「お早うございます」

「お早うございます」

「お早う、久しぶりだな浅香」

「よっ、新五年生、授業はどう?」

祐樹を挟んで座席に座る。

「月一の参観日がうるさいし、雨の日に傘持ってき過ぎ」

あまりにも要点を得ない。 どういうことかと浅香が詩甫を見る。

「担任の先生がカッコイイんですって。 参観日は保護者で教室が埋まるし、朝降っていなかった雨の日には、こぞって保護者が生徒に傘を持ってくるらしいです」

「今までなら濡れて帰って来いって言ってたお母さんまで」

「へぇー、なんて先生?」

「護持先生」

護持・・・護持願弦の弟、護持願矢。
そこいらに転がっている苗字ではない、間違いなくガヤである。

そこに詩甫の「え?」 っという声が上がった。

「護持、先生っていうの?」

滅多にある苗字ではない。
詩甫は願弦のことを名前で呼んでいても苗字を知っている。 入社してすぐに名前で呼んでいたわけではないのだから。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

祐樹は詩甫に話す時、護持のことを先生と呼んでいただけであった。

「えーっと、野崎さんその話はまたあとで」

願弦から浅香と呑みに行っていたと聞いていた、それに浅香がこういう時には何かある時だ。 後で話してくれるのだろう。
浅香の視線に頷いてみせる。

「で? どんな先生?」

「いい先生だよ、ちゃんと話を聞いてくれるし、授業も面白い。 分からなかったら放課後残ってでも教えてくれるみたいだし」

「みたい?」

「オレはまだ分からないところはないから」

「優秀じゃん」

「姉ちゃんの弟だからね。 ね、それより今日行って朱葉姫居るかなぁ」

「さあ、どうだろ。 朱葉姫が居るか居ないかは野崎さんにしか分からないけど、曹司が居れば朱葉姫も居るだろうな」

あの曹司が朱葉姫から離れるわけがない。

今日は他の人も居る。 朱葉姫が姿を現すはずはないし曹司にしてもそうだ。 だが詩甫は朱葉姫の姿を見ずともその存在が分かる。 浅香にしても詩甫と同じように曹司と心での会話が出来る。

「祐樹君は朱葉姫に居て欲しい?」

「うーん・・・」

チラリと詩甫を見る。

「お姉ちゃんのことは気にしなくていいのよ、祐樹の思うように言うといいよ」

「うん・・・。 その、分からない」

「分からない?」

浅香が訊き返す。

「うん。 居て欲しいし、姉ちゃんの言うように新しい人生? そっちにも行って欲しい」

「そっか」

浅香と詩甫の中では朱葉姫は特別の存在である。 詩甫は瀞謝として、そして浅香は曹司との繋がりから。 だが祐樹はなんのしがらみもなければ繋がりもない。 それなのに朱葉姫に居て欲しいと考えもすれば、新たな道を歩んでほしいとも考えている。 祐樹にとっても紅葉姫社も朱葉姫も特別なものになっているのかもしれない。

「浅香は?」

「うーん、そうだなぁ・・・祐樹君と一緒かな」

「一緒・・・」

「そっ、あくまでも僕の希望としてはね。 でも朱葉姫の今までを考えるとお社に居る方が幸せなのかもしれないな。 朱葉姫は最初にそれを選んできたんだから」

「浅香さん・・・」

浅香の話に祐樹だけではなく詩甫も耳を傾けている。

「気にしないで下さい。 勝手な僕の妄想みたいなものです。 あくまでも朱葉姫が決めることですから。 それに朱葉姫は野崎さんに何も告げずに居なくはなっていないでしょう。 野崎さんの想いを朱葉姫に話したらいいと思いますよ」

「え?」

あれこれと考え抜いて結局、朱葉姫に自分の思いを話すつもりだった。 だがその勇気があと一つなかった。 要らないことを言ってしまうのではないか、朱葉姫を困らせるだけではないのかと。
だがその背中を今押された。

「今日は他の人がいるから無理かもしれませんけど、朱葉姫の未来を想っている、そんな人がいてもいいじゃないですか」

浅香は・・・自分の思いをいつも分かってくれている。

「はい」



駅に着くとアルファードが停まっていた。 運転席に次郎の顔が見える。 そして助手席で何かが動いたように見えた。
浅香が運転席の横に立ち窓をノックする。 次郎は助手席ばかりを見ていて浅香たちに気付かなかったようだ。
窓が開けられた。

「お早う」

「お早うございます、わざわざすみません」

詩甫も浅香の後ろから顔を出して挨拶をしていると、助手席のドアが開いて三太が走ってやって来た。 助手席に三太が居たようだった。

「祐樹!」

「おー、三太!」

一度会っただけだというのに、もう呼び捨てで呼び合っている。 気が合ったのだろう。

「一番後ろに座ろ」

三太が祐樹の手を取ってドアを開ける。

「おう!」

二人が乗り込むのを父親の顔をした次郎が見ていて次に浅香と詩甫に目を合わせる。

「兄弟が出来たみたいに思ってるらしいよ」

さっきまでそんな話をしていたのだろう。
そういえば初めて祐樹と三太が会った時に、三太は浅香と詩甫の存在に対して『いいなぁー。 オレも兄ちゃんか姉ちゃんが欲しかったなぁ』 と言っていた。

祐樹が兄貴ということだろう。 見た目にもあの小さい祐樹の方が背が高いのだから。 それに祐樹自身も一年生担当になったからなのか、もともと面倒見がいいのか上手く相手をするようだ。

「浅香君たちも乗ってくれ」

「はい、お邪魔します」


山の入り口で浅香と詩甫、祐樹と三太を下ろすと次郎が少し広いところを利用してUターンをするとそのまま車を停めた。
やはり停めるに方向があるらしい。 その先の広いところには軽トラも停まっている。

次郎がやってくると「大婆たちがもう来てるみたいだ」 と言う。

「え? 軽トラで? 大婆さんが?」

老体には乗り心地が悪かろうに。

「ああ、来る時にはほとんど軽トラで来てるよ。 ここはあんまり車を停められないだろ? だから荷台に女衆や男衆も乗せてな」

そうなのか。 村の人たちが来てくれているのか。

「昔はみんな歩いて来てたんだろうけどな。 ま、文明の利器を知ってしまったらこんなもんさ」

「警察に見つかったらイチコロですね」

「ははは、イチコロか。 そうだな、ゴキブリ並みに全員が捕られはしないだろう。 運転手だけってとこだろうけど、この田舎じゃそれもないな」

お目こぼしがあるということか。 事故らないことを祈りたい。

祐樹と三太がじゃれ合いながら浅香たちの前を歩いている。

山に入り階段を上り坂を上ると社が見えてきた。 数人の女性が社や供養石の周りを掃き清めているのが目に入る。 木々の中からも声が聞こえている、誰か居るのだろう。

そのまま歩いて行くと、遠目にも社が綺麗になっているのが分かる。 単に朽ちたところをどうにかしたという程度ではない。 殆ど新築そっくりさんのリフォームだ。

社に近づき上を見上げると、錆が取り除かれ磨かれた鈴があり紅白の布が垂れている。 腰付き格子戸の手前には神饌(しんせん)を置く台があり、そこには既に米と酒、野菜の供え物が置かれていて、その横には榊の入った竹筒がある。 手前には達筆で『紅葉姫社 朱葉姫』 と書かれた立派な板もある。

そして社の前に椅子を置き大婆が座っている。

「大婆さん」

詩甫が声をかけ、大婆の横に近寄って行った。

「おお、来たか。 どうだ、立派になったろう」

「はい、とても」

大婆と目の高さを合わせるように詩甫がその場にしゃがんで社に目を移す。

「朱葉姫が喜んでくれてるとええんだがな」

「そうですね」

大婆は、いや大婆だけではないのだろう。 きっと社に関わった誰もがそう思っているのだろう。
それなのに自分はそれに反することを朱葉姫に言おうとしている。

「この夏にな」

「はい」

大婆に向き直る。

「大袈裟なことは出来んが、青年団が提灯を吊るして太鼓を叩こうかと予定しとるらしい」

「あ・・・それって、お祭ですか?」

「祭という程に大袈裟には出来んということだが、その内にとは考えとるだろうな」

詩甫の結んだ唇が震える。 思わず泣きそうになる。
頭に描いていたことがまさかこんなに早く実行されるとは思いもしなかった。

(朱葉姫・・・)

「ここいらの青年団は太鼓を叩くでな。 まっ、ド素人太鼓だが、太鼓の音はええもんだ。 下手くそでも朱葉姫は聞いてくれるだろうて」

「そうですね」

社の前では次郎と三太が手を合わせている。 大婆と詩甫の話をとぎらせないように考えたのか、鈴は鳴らさなかったようだ。

「姉ちゃん、お供え物」

祐樹は持ってきた供え物を置く前に手を合わせたくないのだろう。 有難くも供え物を置く台はまだ十分にスペースが空いている。

詩甫が大婆と話している間に浅香も長治と話をしていた。

社の中には神饌も何もかも一切を置かないと決まったそうだ。 修繕するに社の中に入ると誰もが何か違ったものを感じたという。 それは人が足を踏み入れてはならない、厳かなようなものでもあり、緑を感じさせる風でもあったようだという。

それが為に神饌を置く台が大きくなったということである。 もちろん賽銭箱は置いていない。 民が作った朱葉姫の社なのだから賽銭箱など要らない。 どこかに不具合が出れば村の人間がこぞって修理をすればいいことなのだから。

「あ、うん、そうだね」

供え物は浅香が持っている。
その浅香を見ると長治と話していたが、目が合った途端に分かったのだろう、長治に頭を下げてこちらに歩いて来た。

「立派になりましたねぇー」

社を見上げて言う。
その浅香の手から供え物の入った紙袋を受け取ると、祐樹が中から菓子折りと花束を出し台の上に置いた。

「悪いな、浅香君のしたことを帳消しにしてしまったみたいで」

祝詞を唱え終えた次郎が振り返り浅香に言う。 三太はまだ上手く唱えられないらしく、次郎の横で手を合わせていただけだ。

「いいえ、思い出すとお恥ずかしいばかりで。 じゃ、僕も朱葉姫にご挨拶をさせてもらいます」

浅香が言ったのを聞いて、大婆が次郎に椅子をずらすように目で言う。

「鈴も鳴らすとええ、ええ音が鳴る。 あれほど錆びてたとは思えんわ」

次郎が大婆の椅子をずらすのを見て、まずはワクワクしている目をしていた祐樹に先を譲る。
祐樹がいい音を鳴らして鈴を振る。

「うわっ、すっげいい音」

「本当にいい音ですねぇ」

大婆が言うようにあれほど錆びていたとは思えない音である。 清々しく透明でそれでいて心に響くような音である。

「朱葉姫に似合う音ですね」

朱葉姫を知る詩甫がつい言ってしまったが、誰もそれを訝しくは思わなかった。 きっと誰もが間違いなく朱葉姫を想像しているのだろう。
続いて浅香も鈴を鳴らし、浅香と祐樹が手を合わせる。

すぐに詩甫が鈴を鳴らすだろうと思っていた祐樹だが鈴の音が聞こえない。 手を下ろし詩甫を見ようと思ったが、電車の中で色々話していたことを思い出した。

(姉ちゃんは特別だもんな・・・)

改めて目をつぶって頭(こうべ)を垂れた。

浅香と祐樹の後姿を見ていた詩甫が小さく頷く。

(焦ることは無い)

朱葉姫と話すことを。

そうは思うが話が段々と進んでいくようだ。 このまま村の人たちの心を聞くと、朱葉姫は帰るべき場所に戻りたいと思っていても戻れなくなってしまうのではないだろうか。

だからと言って朱葉姫と話すために大婆や長治たちの前で姿を消すことなど出来ない。 心で朱葉姫に呼び掛けてそれに朱葉姫が応えてくれたとしても、心での会話では言いたいことを十分に伝えられないような気がする。

(来週にでももう一度来れば・・・)

いや、来週も誰かがここに来て掃除をしているかもしれない。 一日中誰も来ないのを待つわけにもいかないし、姿が消えた時に誰もいなかったとしても姿を現した時に誰もいないとは限らない。

(でも・・・遅くまで居れば)

浅香と初めてここに来た時のように。

「浅香君が教えてくれた小川、有難かったよ、ほんと役に立った」

長治の声に詩甫が考えを止める。
いつの間にか浅香と祐樹が前から居なくなっていた。

「それは良かったです」

「今からみんなで手を洗いに行くけど久しぶりだろ? 一緒にどうだ?」

「浅香、行こうよ」

三太と追いかけっこをしていた祐樹が浅香に走り寄ってきた。 浅香が長治から視線を外すと意味深な視線を祐樹に送る。
その視線の意味に祐樹が気付いた。 具体的には分からないが何かあると感じた。

「大婆さんはお一人でここに残られるんですか?」

浅香たちを迎えに来ていた次郎は集められた葉を袋に詰め込んでいる。 手が汚れただろう。 遅れてきたとて手を洗いに行く筈だ。

「ああ、いつもそうだから気にしなくていいよ」

「じゃ、祐樹君だけをお願いできますか? 僕は久しぶりに大婆さんとお話しをさせてもらいます」

長治にすれば浅香が一人残る大婆に気を利かせたように聞こえた。 大婆に気を使うことは無いと言いかけたのだが、当の大婆はそうではなかった、大喜びである。

「そーか、そーか、若いの。 わしと話したいか。 うーん? それとも、わしの尻の感触を忘れられんで―――」

「大婆!」

長治が叫ぶ。

「うるさいのぅ・・・」

「大婆さんのあの時の状態が気になりまして」

「あの時?」

大婆が何のことかと浅香に向く。

「ええ、初めてここにいらした時に具合を悪くされたでしょう? その時のことも、それ以降のこともお聞きしたくて」

「ああ、そう言やあ、救急隊員だとかって言っとったか」

車中の浅香と長治の話を聞いていたようだが、それを覚えているとは・・・健康状態を訊かずとも十分に頭脳はお元気そうだ。 血栓などおこしていなかったようだ。

「大婆さんの今のご健康がどうのではありません。 お元気そうなので。 そうではなく今後の向上のためにお聞かせ願えればと」

「おお、聞かせてやろう。 あの時はなぁ、急にしんどうなってなぁ・・・」

大婆の話が始まった。 浅香が長治に頷いてみせ、祐樹を呼び寄せると耳元で「出来るだけ長く小川に引き留めておいて」 と告げる。
浅香が何を言いたいのかが分かったのだろう。 祐樹が親指を立てて三太と一緒に小川に走って行く。

「これ、三太! 走っちゃ危ないわよ!」

きっと三太の母親だろう。 すぐに二人の後を追って走り出した。 他の者たちも笑いながら後に続いて行く。

「浅香君、悪いな」

「若いのがわしと二人でおって、なーにが悪いじゃ!」

話しを止めた大婆が長治に食って掛かる。

「大婆さんに勉強させてもらいますので、どうぞお気になさらず」

「ひっひっひ、ほうれ、若いのもこう言うておるわい」

長治に向かって言うと、次に浅香を見て言う。

「若いの、他にもいろいろ勉強させてやるが?」

「大婆!」

再度長治の声が響いた。

長治が浅香を気にしながらも小川の方に向かって行った。 それを見送ると、白々しく大婆の座っている椅子の方向を変える。 社に背を向ける方向にである。

今日は人がいるから朱葉姫とは話せないだろうと言っていた浅香が何を言わんとしているのかが分かった詩甫。 鈴を鳴らすことなく社の前に立ち手を合わせ目を瞑る。

(朱葉姫、お話しがあります)

心の内で言うと詩甫の姿が薄らいで見えなくなった。 浅香がその姿を見送る。

(頼むからみんなが戻ってくる前に戻って来てくれよ・・・)

その浅香の前では大婆が得意満面になってあの時のことを話している。

「それが、その医者がええ顔でな。 わしもあと八十年若けりゃなぁ」

笑いながら浅香が大婆の話に相槌を打った。

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国津道  第63回

2021年08月23日 22時19分56秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第60回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第63回



日本酒が運ばれてきた。 先程の注文を取りに来た女性店員ではない。 願矢の顔を見るために、きっと運ぶのを取り合ってこの女性店員が勝利したのだろう。

願弦がすぐに浅香の猪口に酒を注ぎ、浅香が願弦に注ぎ返す。 願矢の猪口には既に酒が注がれている。

「例のこと、上手くいったことに乾杯ってことで」

願弦が言うと願矢も口を添える。

「何のことか分からないけど、僕は浅香さんに初めましてで」

「じゃ、僕は上手くいったことと願矢さんに初めましてってことで」

三人が猪口を目の高さに上げる。
願弦がクイっと呑むと猪口を置きながら浅香を見る。

「浅香君も詩甫ちゃんを想ってるよな?」

突然の問いであった。 この話はもう終わったのではなかったのか? そのうえ思いもしなかった問い。

「あ・・・」

願矢が笑う。 顔だけで。 イイ男がこんな笑い方をすると絵になる。

「浅香さん、兄貴に見透かされてますよ。 ってことで、僕はまだ見ぬ未来の嫁、その彼女に振られたわけです」

願弦が横に座る願矢を見ると一言「次を探す」 と言ってくる。

「だから、自分の彼女くらい自分で探すから」

「お前の目はあてにならん」

「兄貴ぃー」

「お前だけは神社に括られず自由に生きて欲しいんだからな、それなのに」

何故かこの弟は神社の娘と付き合ってしまう。 だからことごとくそれを邪魔した。

「いや、それは偶然で、結果がそうだったってことだけで」

浅香から見て小さな兄弟喧嘩が始まる気配を感じて話を逸らせようと話題を振る。

「あーっと、願弦さんに願矢さん・・・ってことは、長男さんは?」

願矢を見ていた願弦がその目を浅香に移すと一呼吸入れ面白そうに長兄の名を告げる。

「願成(がんなり)」

願弦の意地悪そうな笑みの意味を少し考える。 たしか弓道部の連中が、と。

「え? あ、すご・・・」

話を逸らせようとしただけなのに、思いもよらぬ方向になった。 いや “弦” と “矢” で、その一種かとは思ったが。

「気付いた?」

父親の名前を言えば気付く者もいようが、まだ父親の名を言っていないここで気付く人間はそうはいない。
それは三兄弟の名前の下の文字 “成り” と “弦” で弓が仕上がり、そこに “矢” が入って弓矢が仕上がったということである。

「“願” って画数が多いじゃないですか、それなのに苗字も画数が多くて試験の時には氏名を書くのに嫌気がさしてましたよ」

たしかに教えてもらった苗字の画数はそこそこある。 それに浅香など名前は “亨” である。 “願” の偏だけの画数にも足りない。

「お前はまだましだろう」と願弦が願矢に突っ込んでから浅香に説明をする。

「“願” は父親から貰ったものでな、願矢が言ったようにそれでなくても苗字の画数が多いのに “願” だろ? ましてや三人兄弟の中で俺が一番画数の多い名前なわけだ、願矢より俺の方が嫌気がさしたよ」

一層、亨という漢字が貧相に感じる。

「ちなみに父親は願弓(がんきゅう)。 うちの神社は小さいけど弓に関係する神社なんだよ、それでこんな名前になった」

弓が二つ揃った。 うわぁー、と言う顔をした浅香の前に刺身が置かれる。 また違う店員だが今度は男性店員であった。 その店員も願矢の顔をチラリと見る。 願矢の顔の造形は男同士であっても気になるところである。
うん、気持ちは分かる。
その願矢は見られることに慣れているのだろう、気にすることなく呼び名の話を始める。

「お袋が願願願願うるさいって言うんですよ。 で、親父には弓(きゅう)さん、兄貴たちには “成” と “弦” って呼んでるんです。 で、僕は何と呼ばれていると思います?」

「え・・・願矢さんだから・・・ “矢”? いや、それはないか」

人を呼ぶに “や” の一言は難しいだろう。
更に浅香が考えようとしたが、隙を与えず願矢が自ら解答する。

「ガヤですよ。 最悪でしょ?」

“願矢(がんや)” の “ん” を取ったということである。

願矢は真剣に言っているのだろうが、浅香にとっては面白みがある呼び名だ。 それにどことなく気に入った。

「ガヤ・・・いいんじゃないですか? 簡単に二人と居ないでしょうし、うーん、僕的には気に入りましたよ。 短いからフレーズとは言えないでしょうけど、僕には耳あたりがいいです。 うん、いいんじゃないですか?」

最初にガヤと聞いてすぐに浮かんだのが魚だった。 ガヤと俗称で呼ばれる魚である。 今の職に就く前、大学の友達と北海道旅行に行った時に食べた魚だ。 美味しかった。

この目の前にいる美麗な男にはもっと違うカッコイイ似合った呼び名があるのだろうが、何故だろう、願弦と一緒に居るからだろうか “ガヤ” が似合う。

願弦と願矢が目を合わせる。
なんのアイコンタクトだろうと浅香が首を傾げると二人が笑い出した。

「な? 浅香君っていいだろ」

願矢が最悪だろうと言ったのだ、気の利いた者ならその意に合わせるだろうし、大半はその呼び名を揶揄する、されてきた。 “ガヤ” それはガヤガヤのガヤであり、エキストラという意味もある。 顔に合っていないと否定する者もいた。
だが浅香はそうではなかった。

「願弦さん?」

「ガヤってね、インド神話に出てくるんだよ」

「え?」

浅香はインド神話など知らない。

「ちょっと説明するにややこしい神さんなんだけどな」

「ややこしい?」

「俺がその神話をガヤに聞かせたから、ガヤがそれを気にしてるってところもあるんだけどな。 ああ、そこはいいんだよ。 でもガヤも浅香君を気に入ったんじゃないかな」

「あ、それは嬉しいことですけど」

母親だけが願矢のことを “ガヤ” と呼んでいるわけではないようだ。

「浅香君、そんな所が詩甫ちゃんにいいんだよ」

「はい?」

どうしてまたここで詩甫の話になるのか。

「まぁ、ガヤもそこそこいい奴なんだけどな、詩甫ちゃんと浅香君のペアには負けるよ」

浅香が何か物申そうと逡巡している間に願矢が口を開く。

「なんだよ、弦兄(げんにい)。 浅香さんのことは、まぁ、確かに。 でもそこそこって何だよ」

「お前、職場で敵も多いだろが」

「敵って・・・」

「言ってただろ、それって敵だろが」

願矢の秀麗な顔が歪に歪む。 だがそれとて一味ある。

「敵じゃなくて、単に思考が違うとか・・・」

「敵のその思考が浅いんだろが」

「いや、だから・・・」

詩甫のことが御座なりになったようだ。 兄弟の話に浅香が入る。

「職場って?」

願弦の職場は知っている。 詩甫から聞いているしなにより詩甫と同じ会社だ。



五月の連休が明けていた。
連休には祐樹が来て学校の話をしていた。 小さな一年生の担当になったと話していた。 それがさも嬉しそうだった。 なのに時折影を見せていた。

『祐樹? 何かあった?』

『うん? 何も? それより姉ちゃん朱葉姫のことどうすんの?』

祐樹には詩甫の想いを言っていた。 まだ小学生の祐樹には難しいかと思っていたが、祐樹も充分に関わっていたのだから、分からなくとも理解し得なくとも話しておくべきだと思ったからだった。 もちろん浅香から言われたことも話した。
祐樹は詩甫の想いを分かってくれたようだった。

『朱葉姫には・・・新しい人生を送って欲しいと思ってるの』

『でも浅香は朱葉姫が決めることって言ったんだろ? それで大婆さんが喜んでるんだろ? それに・・・朱葉姫に新しい人生を送ってもらうにお社をぶっ潰すの?』

祐樹の言う通りだ。 それは分かっている。

浅香が言ったように社はそのままに八百万の神々に村の人々を見てもらう、そして朱葉姫は新しい人生を始める、詩甫にはそんな風には考えられなかった。 村の人々はそこに、社に朱葉姫が居ると信じて社に来るのだから。 空っぽの社なのに。

ポチャンと湯に浸かった詩甫の頭に祐樹の言葉が響く。 『潰す』 受け入れられない言葉。
両手で湯をすくう。

「潰せるわけない・・・」

あれからまだ社を見に行っていいない。 もう修繕が終わったかもしれない。 村の人たちが手を合わせて修繕した社を潰せるわけなどない。

湯をすくった指の間から湯が落ちていく。 掌の中の湯がなくなった。

「空っぽ・・・」

掌の中には湯がない。 暖かなものがない。 掌の中が空っぽ。 社の中も空っぽ。
顔を上げて風呂の天井を見る。 湯気がもくもくと上がっている。



願矢の職場を聞き、意外な顔をした浅香だった。 そして願弦の言う “敵” の話を聞いた。

「え・・・」

どこかで聞いた話である。
いや、どこかどころではない。 はっきりと覚えているし、誰から聞いたのかも覚えている。
願矢は全ての人間の名前を伏せて言っていたが、浅香にはその渦中にある人物の少なくとも一人の名前に心当たりがある。

「その話を聞いたことがあるんですけど、その男子児童って祐樹君って言いません?」

「え?」

まさかそんな言葉が返って来るとは思っていなかった願矢が話し終え、猪口を取ろうとしていた手が止まった。

「ゆうき? ん? どっかで聞いたな」

願矢に代わって願玄が猪口を手にし一口呑む。

「え? 待って、どうして浅香さんが祐樹君のことを知ってるんですか? ってか、この話しをどうして? あ? え? 祐樹君に聞いた? え? 偶然の同名じゃなくて同一人物?」

話を聞いたことがあると言うのだから、同一人物であろう。

「そういえば祐樹君から苗字は聞いてないか」 と言いながら浅香が願矢に頷いて見せ、次に願弦を見る。

「野崎さんの弟さんですよ。 多分、野崎さんとは苗字が違うはずです」

詩甫は祐樹の母親の前夫との間の子だ。 学校のことなどを考えて苗字は変えていないはずであろう。
少し考えた顔を見せた願玄が思い出したように「おお」 と言って手を打つ。

「え? なに? じゃ、すごい偶然。 もしかしてガヤに詩甫ちゃんとの縁があったってことか?」

「かもしれないですね」

心の底からは言えない言葉であったが、事実は事実である。

浅香と願玄がそんな話をする横で、願矢だけは道を逸らさずに今の話のことを考えている。

「えー、嘘だろう、とんでもない人にとんでもないことを話したってことじゃないかぁ」

願矢が話したのは、祐樹が浅香に話したことにプラスしてその後にあったこと。 そして何よりこの話の中心である考えの浅い教師、願弦が願矢の敵と言っていた壬生の話であった。
祐樹が女子生徒をぶったと思い込んでいた教師、そしてその後にも校長の前でも脇田が花瀬のことを陽葵(ひまり)ちゃんと呼んで、それが同一人物と分からなかった教師。

『いえね、ちょっと考えればとか、もう少し周りを見るとか、そういう事が苦手な先生のようでしてね。 校長先生との話しの流れから僕のことが気に食わなかったんでしょう、緊急職員会議でコテンパンに言われました』

そう言ってしまったのだ。 生徒の知り合いに他の教師の苦情を話してしまったわけであった。

「安心してください、口外なんてしませんし祐樹君にも話しませんよ」

浅香がそうであるとは分かっているが、酒の上であろうが、つい、であろうが、話すべきことではなかった。

「祐樹君は誤解されたことをあまり気にしてなかったみたいですよ。 それより・・・脇田さんでしたっけ、女子児童のことを気にしてましたから、ちょっと助言をしました」

「助言?」

「ええ、良かったのか悪かったのかは分かりませんけど、その女子児童を守る? って聞いたんですよ」

『守るってのも色々あってね。 まずは誤解を解くことから始めたらいいんじゃないかな』

祐樹が脇田の荷物を持ったのは教えてほしいことがあったから。 だがその脇田は教えたこと以上に荷物を持ってくれたことが有難いと思った。 殆どこけそうになるほどの荷物を持っていたのだから。 だからそのお礼にクッキーを祐樹に渡した。

『花瀬って子とその取り巻き以外の子を味方につける。 外側から固めていくって方法もあるからね。 そしたらこっちの味方に付いてくれる』

祐樹と話したことを話した。
願矢が納得するように頷く。

「それで他の男子生徒が祐樹君のことを庇うように言ったのか」

おかしいと思っていた。
男子生徒の一人、祐樹から遅れて職員室に願矢を呼びに来た日向は祐樹と仲が良いと生徒からは聞いていたし、前年度も同じクラスだった。 だが他の男子生徒は同じクラスになったこともないようだし、特に友達という間柄ではなさそうだった。 それなのにどうして祐樹を庇うのかと思っていた。

「ちょっとは役に立てました?」

願矢が笑んで浅香を見る。
浅香は願矢が浅香に話したことを後悔しないように、情報を提供してくれたということだ。

「有難うございます」

座卓に手を着いて仰々しく頭を下げる。

「いや、やめて下さいよ。 それにしても小学校の先生も大変ですね」

「マセてんだよな、今どきの子は。 それにゲームかアニメの影響も大きいみたいだな。 ガヤから “献上” って聞いて目が飛び出たよ」

「目が飛び出たって、弦兄、それこそ子供たちからゲームかアニメで想像されるよ」

この兄弟は本当に仲が良いみたいだ。 日頃から色んな話をしているのだろう。 だがその中で願弦は紅葉姫社のことは黙っていてくれていた。 願矢が最初に何のことだか分からないけど、と言っていたのだから。

浅香が猪口を手にして口に充てる。

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国津道  第62回

2021年08月20日 22時04分21秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第62回



校長が護持から話を聞き、更に加害者と言っていいであろう花瀬と花瀬の取り巻きからも話を聞いた。

花瀬は甲斐と単に話そうとしただけだと言い切った。
取り巻きは三角関係を主張した。

もちろん、甲斐も元木も末永も話を訊かれた。
校長から話を訊かれた甲斐は「家庭科クラブが作ったお菓子を食べに行ってただけです」 と答えるしかなかった。
だが元木と末永は違っていた。

「呼び出されたのは甲斐だけじゃない。 脇田も呼び出されてた」 と言った。

その時の話は以前に校長も聞いていた。 その時に祐樹が女子児童をぶったと。

「ああ、男子が女子をぶった時の話しだね」

元木と末永が顔を見合わせる。 その時の話しは脇田の家で聞いている。
だがあくまでもぶたれたと主張していた女子児童というのは花瀬の取り巻きであって、脇田がぶたれたことは聞いていないし、もちろん校長も現場を見ていた教師も知らない。

「校長先生、間違ってるし」

「どういうことかな?」

「脇田が女子にすごまれたから、祐樹がそれを助けようとしただけ。 その時、偶然に女子のほっぺたに手が当たった程度。 甲斐を殴ろうとしたくせに、自分のことになると当たっただけで大袈裟に言うんだから」

脇田はその時のことをまだ担任にも言っていない。 祐樹に止められていたから。

「校長先生、いいですか?」

同席していた護持が校長に尋ねる。

「ああ、はいどうぞ」

校長の了解を得、護持が元木と末永に向かい合う。

「うーん、その話、先生は知らないんだけど、その時も今回も祐樹君が出てくるんだ」

「そりゃそう」

「そりゃそう、ね。 そりゃそうの意味が分からないんだけど、どういうこと?」

女子は・・・花瀬の取り巻きは甲斐が花瀬から祐樹を取ったと言っていた。 それであれば花瀬の取り巻きと甲斐の間だけの話なのではないだろうか。 何故ここで新たな女子が出てくるのだろうか。 それに脇田の時には三角関係は関係していないだろう、それなのに祐樹が出てくるとはどういうことだろうか。

元木と末永が脇田の家で聞いた話をする。

脇田と花瀬は小さい頃からずっと仲良しだった。 だが脇田と甲斐が同じクラスになってから甲斐とも仲良くなった。 花瀬はそれを良く思わなかった。
それは何故か、花瀬と甲斐は男子の人気を二分しているのだから。 その花瀬と人気を二分する甲斐と長く友達でいた脇田が仲良くするのは許せなかった。 だがここのところは憶測でしかない。

その脇田が家庭科クラブで作ったクッキーを祐樹に渡した。 それはその日の早朝、脇田が学校に向かってクッキーを作るに重い材料を持っている時に祐樹が手伝ってくれたお礼だったのだが、花瀬にしてみれば更にそれが許せなかった。 それで脇田を呼び出し、それを知った祐樹が助けに入ったということであった。

「そうか、それで祐樹君が出てくるのか」

元木と末永の話は続く。

「脇田は言ってなかったけど、多分その時より前から色々あったみたい」

「色々って?」

元木と末永が目を合わせる。 それは言っていいものかどうかとお互いが訊ねる視線である。
元木が覚悟をしたように頷く。

「他のやつから聞いたんだけど、家庭科クラブで作ったのを献上させてたって」

「け・・・」

―――献上?

今度は校長と護持が目を合わせる。
きっとアニメかゲームでその言葉を知ったのだろうが、それにしても・・・。

「大体、祐樹が悪いんだよ」

ここにきて祐樹が悪いという。 校長と護持がどういうことだという目をする。

「そうだよ、祐樹が花瀬を振ったから俺たち痛い目に遭ったんだから」

「だよな! お菓子三箱献上させられたんだからなっ!」

お菓子三箱献上、それは何の話だ。

「なんの話かな?」

怒りに任せてついうっかり言ってしまった、賭け事の話し。
思わず二人が後ろを向いた。

脇田が校長室に呼ばれた。
脇田は全てのことを話した。 そして最後に付け足す。

「でもこの話は祐樹君が言うなって言ってて」

言うなと言われていたことを今、護持に話した。 ぶたれたことを。

「どうしてかな?」

「言ったら・・・」

暫く待ったがそれ以上脇田は言わなかった。 それは花瀬を貶めることになるような気がしたからだ。

「ん、そっか」

脇田の気持ちを汲んで護持が言う。
脇田が呼ばれた時には、祐樹が女子生徒をぶったと聞いて現場に足を踏み入れ、その後校長に報告した教師も同席していた。

「護持先生、そっか、じゃありませんよ」

祐樹の件の時に足を踏み入れていたこの教師は護持より数段年上だ。 四十の半ばである。

「壬生(みぶ)先生、脇田さんの気持ちもあります」

脇田が護持を見る。

「私の聴取不足と言いたいのですか?」

聴取不足、それは脇田が取り巻きにぶたれた時のことを言っている。 脇田が今、護持に話した話を壬生には言わなかったのだから。

「壬生先生、聴取などと言う言葉は・・・」

その言葉は間違ってはいない。 だが小学生が目の前に居るのに。

小学生ながらも脇田にも不穏を感じた。 それに対して護持は脇田の気持ちを分かってくれている。

「護持先生、いい・・・」

脇田が言う。

「陽葵(ひまり)ちゃんは優しいから」

陽葵、それは花瀬のこと。

「そうか」

「いつかは分かってくれるから」

「そうだな」

「護持先生、そうだなじゃ―――」

壬生の言葉の途中で校長が口を開く。 これ以上は生徒に聞かせたくない。

「脇田さん、分かりました」

「校長! 今は脇田さんと花瀬さんの話です。 それなのに陽葵ちゃんとか第三者も現れて話に収拾がつかないじゃありませんか!」

壬生は花瀬と陽葵が同一人物とは知らないようだ。 担任では無いのだから仕方がないかもしれないが、護持とて花瀬の担任ではない。 ましてや校長も。 だが護持も校長も話の流れから花瀬の名が陽葵と充分に想像できている。

「壬生先生、花瀬陽葵さんの話ですよ」

第三者ではないですよ、とは校長は言わなかった。

「え・・・」

「脇田さん、よく分かりました」

その日、緊急職員会議がもたれた。 “いじめ” に関することと、おまけに賭け事についてであった。 飴玉一つくらいの小さな物なら目を瞑ってはおけるが、お菓子三箱または三袋は金額的に見過ごせないということであった。


「お姉ちゃん」

甲斐が優香にしがみ付いている。

「ごめんね、塾になんか行かなくてもっと早く来てればよかった」

甲斐が首を振る。

「お姉ちゃん受験なんだから」

優香が甲斐の頭を優しく撫でてやる。

「勉強どう?」

「お姉ちゃんほど出来ないけど塾には行ってる」

「塾の先生は何て言ってるの?」

「・・・まだまだだって」

「そっか」

もう一度甲斐の頭を撫でてやる。

「まだまだ一年以上もあるからね」

「お姉ちゃん・・・」

甲斐が顔を上げる。

「柚葵(ゆずき)ちゃん、柚葵ちゃんなら合格できるよ」

「でも、お姉ちゃんみたいに賢くないし」

優香が首を振る。

「柚葵ちゃんは自信がなさ過ぎ」

「え?」

「お姉ちゃんは柚葵ちゃんの応援団長だからね、何でも知ってるの」

「お姉ちゃん・・・」

優香が柚葵の肩に手を置く。 自然と優香の身体から柚葵の身体が離される。 優香が僅かに屈んだ。

「柚葵ちゃんは受験に合格する。 でもね・・・」

一度深く閉じた瞼を上げる。

「受験が全てでは無いの。 それを分かって欲しいの」

優香は中学受験をして、ましてや東大合格率の高い高校を受験しようとしている。 そんな優香がどうしてそういうことを言うのだろうか。

「私は受験したし、これからもするけど・・・なんて言ったらいいかな・・・」

甲斐姉妹は両親の離婚によって分かれることとなった。 優香は父親に甲斐である柚葵は母親に引き取られた。

「お父さん・・・最近テレビにも出てるよね。 研究、進んでるみたいね」

優香が何を言おうとしているのかは分からないが、甲斐が優香の先を取って言う。
優香が頬を緩める。 妹は父親の姿をテレビを通して見ているのだ。 チャンネルを変えることなく。

「詳しい研究内容は知らないんだけど・・・お父さんあんまり帰って来なくて疲れてるみたいだけど元気だよ」

「うん・・・」

まだあんまり家に帰って来ないのか。 両親の離婚の原因がそれだったというのに。
母親はそれに耐えられなかった。 それがどうしてかは甲斐には分からなかった。 姉も自分もいるのにどうして寂しいと言うのだろうか。

その母親は離婚をしてから平日は毎日パートに出ているが、朝と夜はちゃんと家に居てくれている、毎日顔を合わせている。 それに休みの日にはいつも家に居てくれている。
父親の居ない家、そこに何日も一人でいる優香の寂しさが計り知れない。

「お母さんはどう?」

「うん、毎日パートに出てる」

「今度時間が出来たらマンションに行くね」

母親と甲斐の居るマンションに。

「うん」

学校に間に合わなくなっちゃうから、と言って優香が小学校を出て行った。

優香は何を言おうとしていたのだろうか、どうして今日学校に来たのだろうか。
それにもしかしたら父親と同じ道、研究者の道を歩もうとしているのだろうか。 もしそうであるのならば、優香が望んでその道を歩こうとしているのか、父親に期待をかけられそれに応えようとしているのだろうか。

「お姉ちゃん」

もともと頭の良い姉だった。 その上で勉強も楽しそうにしていた。 きっと父親の血を引いたのだろう。 それが幸福なことなのだろうか、不幸なことなのだろうか。

『受験が全てでは無いの。 それを分かって欲しいの』

それはどういう意味なのだろうか。



人の声、喧騒が賑やかに聞こえる。 それが今日のうっぷんを晴らす声であったり、今日が良き日であったように話す声。 紫煙がたゆたっている場所もある。 鼻をひくつかせれば間違いなく酒臭い。

居酒屋の戸が開いた。 願弦が顔を上げると浅香がキョロキョロと顔を動かしている。

「浅香君、ここ」

願弦が浅香に向かって手を振る。 カウンターでなく座敷であった。
浅香が願弦を目で捕らえると片手を上げて座敷に向かって歩きだした。

「その節はお世話になりました」

願弦の横に座る人物に軽く頭を下げ、一言いって靴を脱ぐと願弦の前に座った。

「詩甫ちゃんから聞いたけど上手くいったみたいだな」

ラインで報告はしていたが、詳しいことを詩甫から聞いたのだろう。

「お陰様で」 と大袈裟に言うと座卓に手を着いて頭を下げる。

「やめてくれよ」

今日の日のことは願弦からラインが入ってきていたのだった。 浅香の都合のいい日を教えてほしい、呑もう、という内容であった。 そして弟も同席していいかとも書かれていた。
熊のような願弦の横には男の浅香さえ目を瞠(みは)る美男が座っている。

「えっと・・・まさか弟さんですか?」

「まさかってどういう意味だよ」

願弦が言われ慣れている言葉に不服気に答えたが、それが作ったものであるのは浅香にはすぐに分かった。 願弦が気を悪くしているのではない。 それに願弦はそういう男だ。 器が広い。
店員が注文を訊いてきた。

「日本酒でいいか?」

座卓を見ると銚子が置かれている。 二人とも燗であるようだ。 ここでビールという訳にはいかないだろうし、浅香とて日本酒が呑めないわけではない。 浅香が頷く。

「腹は?」

「あまり空いていませんけど・・・そうだな、刺身で」

女性店員に視線を送ると、その女性店員がチラリと願弦の横に座る男を見て戻って行った。

一連の様子を黙って見ていた願弦の横に座っていた男、願弦の弟が笑みながら自ら自己紹介を始める。

「初めまして、三兄弟の末子になります、願矢(がんや)です。 何のことか分かりませんけど、何か上手くいったようで。 浅香さんのことは兄貴からよく聞いています」

「初めまして、浅香です。 わぁ、願弦さん何を言ったんですか」

浅香が言うと願矢が美麗な顔を笑みでいっぱいにする。

「僕の嫁候補に挙げていた女性が浅香さんに攫われたって言ってましたよ」

「え?」

「詩甫ちゃんのことだよ」

「またそんなことを」

初めて聞く話ではない。 以前、願弦にそう言われていた。 ましてや詩甫と二人の前で言われたのだった。

「あー、詩甫ちゃんを願矢の嫁にしたかったんだけどなー」

呆気に取られている浅香に願矢が笑みを絶やさず言う。

「兄貴はことごとく僕の彼女に因縁をつけて別れさすんですよ。 お蔭で未だに彼女がいません。 挙句に彼女を通り越して嫁ですよ? 信じられないでしょう」

願矢が願弦をチラリと見て言うが、その雰囲気が良いものだと感じる。 この兄弟は互いのことを分かり合っているのだろう。

「願矢さんには願弦さんのお眼鏡に叶った彼女さん、お嫁さんを迎えてほしいと思っていらっしゃるんでしょう」

それが願矢の幸せになるのだろうから。 そして詩甫を選んだ願弦の目に狂いはないだろう。

「え? あれ?」

言ってから思わず浅香が声を上げた。

ふふん、と願弦が鼻で笑う。

「だからその詩甫ちゃんを浅香君に取られたんだよ」

「え? あ、いや、そんなことは無いです」

願弦が笑う。

「気付いてない?」

「え?」

「詩甫ちゃんは浅香君のことを想ってるよ。 まぁ、浅香君どころか詩甫ちゃん自信が気付いてないみたいだけどな」

「は?」

「くれぐれも詩甫ちゃんのことをよろしく頼むよ」

「あ? え?」

そこで願矢が大きく笑った。

「浅香さん、悪い。 兄貴はこういう人だから」

こういう人も何も・・・。

―――どうだよ。

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国津道  第61回

2021年08月16日 22時42分44秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第60回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第61回



『浅香さん・・・。 私は朱葉姫に生きてほしいんです』

たとえ朱葉姫が一度その道を選んだとしても、朱葉姫と縁ある人と共に歩んでほしい。 社に括られて欲しくはない。

未来を歩いて欲しい。

「野崎さんの仰りたいことは分かります。 でも朱葉姫が決めることです」

それは朱葉姫を孤立させるということでは無いのだろうか。 誰にも相談出来ることなく、甘言を貰うことなく。

「野崎さんが思っているほど朱葉姫は弱い人ではありませんよ」

そうだ・・・甘言などというものを朱葉姫は受けないだろう。
朱葉姫は、可愛く美しく嫋やかで、人心に添うことを望む人。 だがそれだけでは無いだろう。 そうでなければこの年月を過ごしてこられなかったはず。

『・・・そうですね』

自分の先を二の次に出来る人。 でも、だからこそ誰かが言わなければいけないのではないのだろうか。
朱葉姫の顔が浮かぶ。

(朱葉姫・・・)

朱葉姫が今後もずっと社に残るかもしれない、それは詩甫からしてみれば悲しい決断に思えるが、それが朱葉姫の本望。 でもそれは自分を抑えた本望。

結果的に詩甫の思う朱葉姫を考えると要らないことをしてしまった、そう考えてしまう。 あのまま社が朽ちれば朱葉姫は生まれ変われることが出来たのだから。 だからと言ってあの社を朽ちて終わらせるなんて出来なかった。

浅香と共に社を持たせ、朱葉姫に民を見てもらいたかった。 それで終わるつもりだった。 できれば祭の一つもして。

だがそう終われなくなった。 長治たちが社を修繕すると言った。 大工も入ると。 それはずっと社が続くということ。

考え方を変えると、社が続いても朱葉姫がそこにいなくてはならないことは無い。 だが朱葉姫はそんなことをしないだろう。

(私の我儘・・・)

それを朱葉姫に押し付けてしまった。

「野崎さん、要らないことを考えてます?」

『え?』

「考えてますよね?」

『要らない事って・・・』

「長治さん達が社を修繕する。 それは朱葉姫に場を提供するってことです。 場っていうのはお社のことです。 村の人たちが修繕された紅葉姫社に朱葉姫が居るだろうと朱葉姫を信じてお社に行く。 それはそこいらの社と一緒でしょう?」

『え?』

「こんなことを願弦さんに聞かれたら怒られるかもしれませんけど、ご祭神が居ない社は五万とあるんじゃないでしょうか」

「・・・」

神様のことなど分からないが、そうかもしれない。

「でもそこに神様は居るんですよね」

『それって・・・』

「ええ、人が信じる思いです」

『あ・・・』

「それと、八百万の神々」

『八百万、の?』

「あの山にもお社にも八百万の神々がいて下さいます」

八百万の神々のことは詩甫も知っている。 石にも木にも神々がいて下さる。

「願弦さんの受け売りですけど」

そう言えば浅香と願弦がそんな話をしていた。

「万が一にも朱葉姫があの世に行ったとしても、八百万の神々があの村の人たちを見守りますよ」

詩甫が大きく目を開けた。 全く考えなかったことだった。

「日本人は八百万の神々に見守られているんです。 それは朱葉姫が村の人達を見てきた濃い想いより薄いかもしれません。 でもそれで良いんじゃないですか?」

村人が紅葉姫社で手を合わせると願いが叶う、そんなことは必要ではないし、村人たちはそんなことを思ってはいない。

「わぁ、僕かなり願弦さんに影響されたみたいです。 でもね」

浅香が声を改めて言う。

「決めるのは朱葉姫です」

この短い間に同じ言葉を何度聞かされただろうか。

「朱葉姫が決めたことに異を唱える権限なんて僕たちにはありません。 たしかに朱葉姫が最終的に望んだことと違う道を僕たちは敷いてしまいました。 でもそれは朱葉姫の心を思ってのことです。 野崎さんは間違ってはいませんよ」

朱葉姫は社を朽ちて終わらせたくはない、社の最後を頼みたいと言っていた、最終的には社から離れると言っていたのだ。

『・・・はい』

「あの害虫と野崎さんは違うんですから」

浅香の耳元で詩甫の忍び笑う声が聞こえた。



給食時間が終わろうとしていた。

「祐樹」

目を据わらせた日向が祐樹の机の前に立つ。

「なんだよ」

給食でお腹いっぱいになった後、新しくクラスメイトになった男子たちと話していた時だった。 日向とは今年も同じクラスになった。 来年も同じクラスなのは分かっている。 二年ごとのクラス替えだから、このまま持ち上がって六年生となる。 結局六年間同じクラスということだ。

「甲斐が花瀬に呼ばれたって」

「え?」

「脇田の家でケーキパーティーをしたことがバレたって」

言ってはいけない事だが、それでは脇田が呼ばれるのではないのか? どうして甲斐なのか。

「甲斐が来てたのを花瀬の仲間が見てたみたい。 元木と末永がついて行ったけど」

元木と末永も脇田の家に来ていた。 一緒にケーキを食べた。 その時に花瀬のことを訊かれたから答えた。 花瀬のことは何とも思っていないと。 そして花瀬のやり方は許せないと言った。 元木と末永、日向も家庭科クラブの部員達もそれに賛同してくれた。

その時、脇田がチラリと母親を見た。
脇田は母親に花瀬の仲間に虐められたことを言っていないのであろう。 それは脇田と甲斐の会話からも分かる。

脇田はいつか元の花瀬に戻ってくれると思っている。 だから話の中で脇田が叩かれたことだけは祐樹は言わなかった。

脇田の母親は話を聞いて『羨ましいわゎー、思秋期ねー』 と言っていたが、どちらかと言えば反抗期ではないであろうか。

それで脇田が未だに教師に事情を説明していないこと、祐樹に止められている理由を言うと、脇田の母親は祐樹に感謝をし『いつでも何でも言ってね。 何でも相談に乗るわ』 と言ったところで、自分にも作れる料理を教えてほしい、と言ったことから天津飯の作り方を教えてもらったということになった。

「職員室に行ってくる」

「へ?」

祐樹が椅子を蹴って駆けだした。
場所は聞かずとも分かる。 給食棟の裏。

祐樹の後姿を眺めながら日向が声を漏らす。

「祐樹・・・背が低いくせにモテ過ぎだろ。 ふむ、今年は祐樹のモテ期なのかな? ん? ってことは来年あたりオレか?」

祐樹が気付いているかどうかは分からないが、脇田の家に行った時、甲斐が祐樹のことを好きだということに気付いた。 それは間違いないだろう。

花瀬は祐樹より背が高く美人ではきはきとしている。 甲斐は祐樹と同じくらいの背丈で可愛く相手の言葉を待つ、そしてどちらも頭がいい。 二人とも中学受験をするようで、その人気は男子生徒を二分している。 その二人が祐樹に想いを寄せている。

「にしても腹立つなぁー」

選りすぐりすぎだろう。

「って、祐樹が選んでるわけじゃないか」

日向が祐樹の後を追って走り出した。

職員室に飛び込んだ祐樹。 祐樹の学校は校長がオープンを掲げていて、校長室は勿論のこと職員室もドアが開けられている。 あくまでも寒くもなく暑くもない時季だけ、言ってみればエアコンを利かせていない時季だけではあるが。

職員室も席替えがあったようで担任がどの席に居るか分からない。 職員室を見回し担任を見つけた。

二十代後半であるが、それより若干若く感じられる。 一昨年度転任してきたのだが、まだこの学校に慣れていないということでその年は完全に補佐役に回っていた。
祐樹の学校では二年ごとにクラス替えがある。 特に何もなければ担任もそのままというのが前提である。

そして昨年度、六年生担任の予定だった教師の転任の決まった。 その教師に代わって六年生のクラス担任となり、表舞台に出た途端お母様方にモテモテで参観日の日には殆ど無欠席で母親が参観に来ていた。 それどころか、小学校を卒業した姉やどうしてか父親まで参観に来るといったありさまで、教室に入り切れなかったという。

「護持(ごじ)先生!」

「おう、なんだ?」

モデル並みのその容姿には似合わない返事をする。 容姿に似合うとすれば『どうしたんだい?』 ではないであろうか。 そんな飾らない所、気取らないところは生徒に好かれている。

護持はプリントに目を通していた。 一瞬顔を上げて祐樹を見てすぐにプリントに顔を戻す。

「ついて来て!」

護持の机まで走ると腕を引っ張った。

「は?」

「早く!」

祐樹が護持の腕を取って走り出す。

「お、おい、いったいなんだって・・・」

相変わらず容姿に似合わない言葉を口にする護持。
職員室を出るとすぐ後からやって来た日向が走って来て足を止める。

「護持先生、給食棟の裏! すぐに行って! 祐樹と走ってるより早い!」

廊下に居た数人の生徒が何事かと振り返る。

「え? いったい何が?」

給食棟の裏というキーワード。 護持はこの学校に来てまだ三年目だ。 そのキーワードを昨年の受け持ちの生徒から聞いてはいたが、実際に何があったわけではない。 護持からすれば都市伝説のようなものだった。

日向が言った言葉に尤もだと思った祐樹が護持の腕を放し背中を押す。

「先生! 早く!」

踵を返した日向が護持より先に走った。


「甲斐、どういうことよ」

花瀬の取り巻きの一人が言った。
甲斐の前には五人の女子が腕を組んでずらりと並んでいる。 その後ろに花瀬が居る。

「どういうことって・・・ただみんなと一緒にケーキを食べただけだから」

甲斐の横には元木と末永が居る。

「そうだよ、家庭科クラブが作ってくれたのを食べてただけだろ」

元木と末永も祐樹に賛同した。 花瀬のやり方はどこか間違っている。 祐樹に説得されるまでもなく話を聞いただけで花瀬のやり方はキタナイ。

もちろん祐樹からは説得などされていない。 祐樹からはあったことを聞いただけだ。 その上で脇田が先生に何も言えなかったことを祐樹に謝っていた。
明らかに花瀬が悪い。 ここで怯んでは男がすたる。

「あんた達は関係ないでしょ、教室に戻りなさいよ」

「お前らいい加減にしろよ、給食棟の裏なんて」

「そうだ、言いたいことがあるんなら教室で言えよ」

「これは女子同士の話し、男子は関係ないんだから。 引っ込んでなさいよ」

一人二人と花瀬の取り巻きが歩を前に出してくる。

甲斐が肩を丸めて小さくなる。
元木と末永は脇田が叩かれたことを聞いていないが、甲斐は脇田から聞いていた。 自分も叩かれると思うと怖くて小さな身体が余計に小さくなっていく。

(凜ちゃん、これだけ怖かったんだ・・・)

今の状況は怖いが、今の自分には元木と末永が居てくれる。 だが凜は・・・脇田が叩かれた時には誰も居なかった。 脇田がどれだけ怖かったのか。 それを思うと涙が出そうになる。

「甲斐!」

取り巻きの一人から強い口調で呼ばれた。 その言いようにビクリと肩が上がる。

「陽葵が祐樹のことを好きって知ってるよね!」

「なのにどうしてその祐樹とアンタが居たの!」

「そうよ、許せないんだけどな」

そう言った女子が甲斐の目の前に立つと手を上げた。

―――叩かれる・・・

小さくなっていた甲斐がさらに縮こまった。

手を上げた女子の口元が笑った。 そのまま手を振り落ろす。

あっ、と思った元木と末永が止めようとした時には遅かった。

甲斐の頬にその手が当たる寸前、その手首が摑まれた。

驚いた女子がその手の主を見る。
自分達より随分と背が高い。 いや、背の高い花瀬よりなお高い。 そして制服を着ている。 その制服は・・・。

女子が目を大きく開ける。
その制服は誰もが憧れる私立中学校の制服。 この小学校から何度受験してもみんな落ちていた中学校の制服。
だがこの小学校からもようやく、先一昨年の受験に成功した女子が居た。 それが誰なのかこの学年は誰もが知っていた。 自分たちが一年生の時の五年生である一年生の世話係だったのだから。

そこに立っていたのは優香。

「妹に手を上げるの?」

「え・・・」

女子たちは優香の顔と姓名は知っている。 その優香が甲斐のことを妹という。 妹? どういうことだ。

優香の苗字は勢納である。 勢納優香。
対して優香が妹という柚葵の苗字は甲斐。 甲斐柚葵。

「私の可愛い妹なんだけど? 言いたいことがあれば話すことをしなさいよ」

「お姉ちゃん・・・」

甲斐が優香のことをお姉ちゃんと呼んだ。
それは・・・もしかして・・・。
甲斐の家庭環境を考えると有り得ることである。 両親が離婚して兄弟姉妹の苗字が分かれることは往々にしてあることだ。

「あ・・・」

花瀬と花瀬の取り巻きは甲斐が優香の妹などとは知らなかった。 ましてや甲斐に姉が居ることなど。
脇田が祐樹に言っていた『柚葵ちゃんのお姉ちゃんが難関中学を受かったから、私たちの学年は大抵知ってるけど』 それは優香と甲斐が姉妹だということを祐樹に説明していた時の話しだ。
その大抵の中以外に祐樹とこの女子たちは入っていたようだ。

手をつかまれた女子、どこの中学に通っていようが相手は中学生、逆らう胆力など持ってはいない。

甲斐の両親は離婚をしていた。 父親が聡明な優香を引き取り、まだ幼い甲斐は母親に引き取られ苗字も母親と共に母親の旧姓になっていた。

「て言っても、妹が手を上げられるようなことをしたとは思えないんだけど?」

優香が女子の手を離す。

「・・・お姉ちゃん、どうして」

優香がにこりと笑う。

「創立記念日なの。 午前中は塾に行ってて。 創立記念日って言っても午後から授業はあるんだけどね。 その合間に会いに来たんだけど・・・」

優香が甲斐の肩に手を回して自分の方に引っ張る。

「へぇー、君が伝説の勢納優香ちゃんか」

名前を呼ばれた優香が振り返るとそこに護持が立っていた。

「妹の担任?」

「いや、残念ながら違うね。 ま、でも見てたから」

護持は今来た所ではない。 しばらく様子を見ていた。 今後の進め方を考えて事実を自分の目で耳で、見よう聞こうと思っていたからだ。 だがまさか女子が手を上げるとは考えてもいなかった。

優香も同じように考えていたのだろう。 護持の前に優香が立っていた。

花瀬や取り巻きは優香に背を向けていた。 甲斐と元木と末永は目の前の女子だけを見ていて、優香と護持には気付いていなかった。

護持が女子たちに目を移す。

見られていた。 女子たちがビクンと肩を震わせる。

「こういうやり方ってどうなのかなぁー?」

「で、でも、先生っ」

「うん? なに?」

言いたいことがあれば言えばいい。 それが糸口ともなる。 何の糸口か今は分からないが、言いたいことを言うということは全ての糸口になる。 それに言うということは大切なことである。

「ゆ、柚葵が! 陽葵から祐樹を取ったんです!」

「・・・」

それって・・・三角関係・・・?
それも小学生が・・・?
護持が頭を抱えたくなった。

転任してくる前の小学校でもそんなことは無かったし、去年の六年生でもそんなことは無かったのに、どんだけマセてんだ。
こちとら未だに嫁もいなければ、彼女も居ないというのに。
いや、私事は置いておこう。

そこに祐樹が走り込んできた。 遅れて日向もやって来る。

祐樹の目には甲斐と元木と末永の顔が見え、あとは花瀬の取り巻きだ。 後姿の一人はとびぬけて背が高い担任。 そしてその担任の陰になって数人が居ることも分かる。

一度止めていた足を動かし、更に走って「甲斐、大丈夫か!」 と、甲斐の前に行った時、ようやく一人の中学生に気付いた。

「あ・・・優香ちゃん」

優香がにこりと笑った。

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国津道  第60回

2021年08月13日 22時32分39秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第50回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第60回



この何十年と社に手を合わせに行った女たちが息ある姿で戻って来ない。 すぐに言い継がれていた花生のことが頭に浮かんだ。 花生は社が朽ちるのを待っている。 その社に近づくものを許さないであろう。

今はまだ花生の名が出てきてはいないが、花生が言っていたことが親戚筋以外に漏れていて、もし各家で花生が悪言を言っていたと言い伝えられていたのなら、いつ思い出すか分からない。

花生のことは思い出されては困る。

だから他の家々から花生の名を消すために、呪いが大蛇の姿として山に現れた、そう広めた。
山神のせいにはしなかった。 でなければ、どうして山神が大蛇を遣わしたかと、人間が何かをしたからだという話になってしまうかもしれないからだった。 だが呪いという言葉に変えてしまえば、恐れるあまり何に対しての呪いなのかとは口にしない。

それがいつしか僧里村では山ではなく社に大蛇が居ると変わってきた家もあった。 他の村ではいつどう変わったのか、山神ということになっていた。

お婆が花生の名を消すために大蛇話を広めたということ、この事は長治から聞いて次郎も知っていた。 このことは大婆の家では子供を持った時点で伝えられる。 それまでは他と同じように漠然と大蛇と語られ教えられているだけであった。

大婆も長治ももちろん次郎もそのことを浅香に言わなかった。

それを思うと・・・昔語りは全てが真実ではないということだ。 子供の頃、信じてきた昔語りがそうでなかったように。
お婆がしたように、浅香が言うように、どこかに嘘や誤魔化しが混じっているということだ。 そしてそれが主役になるということもあるということだ。

「家によって少々の昔語りの違いはある、口伝やから。 口伝やからこそ違ってきたんやないですか?」

「どういうことや」

「昔語りなんてそういうものやってことですよ。 昔々に誰かがこの山に上った。 そして足を滑らせた。 不幸なことが続いた。 ・・・親父も足を滑らせた」

「え?」

「後ろを歩いていた彼が支えてくれましたけどね」

それが無ければ大婆と共に山を落ちていただろう。

「山の中、雨が降れば足元が悪くなる、滑りやすくなる。 雨が降らんけりゃ土が乾いてこれも滑りやすくなる」

今日は土が乾いていた、 通常なら足など滑らせないはずだが、大婆を背負っていた。 だが孫が居ると言えど長治はまだ若い。 そう思うと年寄があの階段を、坂を上ろうとすれば足を滑らすだろう。 朱葉姫に謝りに来たのは、呪者から聞かされた花生のことを知った花生の親戚筋で、家をまとめていた女たちのはず。 それはその家の年長者であったはず。

「そ、それは、滑ったんか、や、山に居る大蛇に落とされたと違うんか」

話していた男と別の男が言う。 だがまだ大蛇を恐れているのだろう、どもりながら言う相手を一瞥して「滑ったって言っただろ」 と言い捨てて話を続ける。

「親父の時には彼が支えてくれたけど、不幸が続いた時には晴れ間が続き・・・雨が続いていたかもしれん」

「雨で足を滑らせたというんか」

「可能性として。 まだ疑っとるんやったら一度、社まで上ったら?」

「・・・」

誰も返事をしない。

「彼、社の修理もしてるけど・・・いや、社の修理をしてくれたけど、なんともない」

「え・・・」

「社はかなり傷んでる。 雨が続けば朽ちる」

社が・・・朽ちる? 思ってもみなかったことだ。 だか冷静に考えるとそうではないか。 もう何十年、いや何百年と手を入れていなかった社ではないか。

いや待て・・・。 そう考えるとおかしなことがある。 いつから村の人々が社に行かなくなったのか、昔語りはいつからあったのか、正確なところは分からない。 だが少なくとも百年以上、いや二百年、三百年、それ以上。

風雨にさらされたまま何の手入れもされていなかった社が今もある。 ここになって雨が続けば朽ちる、そんな状態でも社がある。 そうれはどういうことだ。

「お・・・大婆が言っとった朱葉姫の返事とは・・・なんや?」

次郎が口角を上げる。

「話さん」

「なっ、どういうことや!」

「村は何百年と紅葉姫社に足を運ばんかった。 放りっぱなしやった。 居もしない大蛇を恐れて。 大婆は社に向かった。 その大婆に朱葉姫が返事をくれた。 おれもそれを受け取った。 それが何かは話してやらん」

「次郎・・・」

「おれの家の宝として語られる。 おれと親父は彼のあとを継いで社を修理する」

「次郎、もしかして今の今まで社がもってたのは・・・その、なんて言っていいのか・・・朱葉姫、か?」

他の男たちも同じように考えていたのだろう。

「朱葉姫が社を守ってくれてたんか?」

「山にも社にも大蛇はおらん、朱葉姫が守ってくれてただけか?」

「想像するも勝手、行くのも行かんのも勝手。 好きにすりゃええ」


浅香の手を借りて長治がセカンドシートに大婆を乗せた。 その大婆がぐったりと体を横たえている。
活きのいい大婆だったが、何十年とずっと家の中に居て急に外に出たのだ。 外の空気に触れただけでも疲れただろう。 ましてや信じられない事に朱葉姫からの返事もあった。 山を下りきると興奮に疲れを感じたのだろう。

浅香が大婆の脈をとっている。 百歳を越している。 年齢的に考えても安心できるものではない。

「姉ちゃん・・・」

「きっと大丈夫よ。 それに浅香さんがみてくれてるから」

「うん・・・」

浅香が大婆の手首から手を離す。

「脈が少し遅いです、呼吸も浅い」

どうしようか。 ここから山を下りて行くにはピンカーブこそないがカーブが続く。 そしてアスファルトが敷いてあるといってもそれは荒く、都会の中のようなアスファルトではないし、時々山からの石が落ちてきていることもある。 決して車で走るに邪魔になるほどの大きな石ではないが、それなりの衝撃はある。

だがそれを押してでも病院に運ばなければならない時もある。
振動を回避するために運ばないか、それとも振動を受けながらでも運ぶか。 二つに一つ・・・。

「・・・しばらくこのまま安静にしましょう」

年齢的なことを考えると判断を下すには勇気のいるものだったが、普段の大婆のことを考えると一時的な可能性が高い。 それなら要らない振動を避けるべきだろう。

それにここで救急車に運ばれてしまえば、語り継がれているだけだった昔語りなのに何百年と息を沈めていた大蛇が現実として受け止められるかもしれない。

山の下で村人が待っていたことは知っている。 大婆の決断を無に帰したくはないし、救急隊員として考えてはいけない事とは分かっているが、大婆も朱葉姫を肌で感じてくれたのだ、それを周りから崩されるようなことはしたくない。

「ああ・・・」

長治にしてみれば大婆はずっと当たり前に生きているものだと思っていた。 それがどこか間違っているとは思っていたが、そう思わせる大婆だった。 その大婆が今は目を閉じてシートに身体をあずけている。

「大婆・・・」



祐樹の学校では既に入学式が終わっていた。

「一年生って小っせーの」

背の低い祐樹だったが、さすがに五年生になった祐樹は一年生よりずっと背が高い。
その一年生の世話係となった祐樹の相手は塁(るい)という名前だった。 両親ともにバスケットボールの八村塁選手のU-16の時から応援しているファンだということで、両親は塁をバスケット選手にしたいらしい。

「塁のお父さんとお母さんって背が高いのか?」

活躍している背の高くない選手もいるには居るが、一般的に考えるとバスケットボール選手になりたければ背が高いことが望まれる。

「うーん・・・。 普通」

給食の鍋を抱えている祐樹の横に付いて歩いていた塁が考えるようにして答えた。

「バスケットボールしたいの?」

塁が首を振る。

「何になりたいの?」

「レゴ」

「へ?」

「レゴ。 レゴブロックで色んなものを作る人になりたい」

レゴとはデンマークの玩具会社であり、プラスティックの組み立てブロック玩具のブランドである。

「そっか」

祐樹も母親が買ってくれたレゴブロックを持ってはいたが、さほど興味を引かなかった。 でもこの塁はレゴブロックに興味を持っているのだろう。

一度詩甫がレゴのテーマパークに連れて行ってくれた。 レゴのスタッフがいろいろと教えてくれてそのときは楽しかった。 目を輝かせて色々なものを組み立てた。 だがその後に続くことは無かった。 性に合っていなかったのだろう。

「なれるといいな」

テーマパークをあとにした時、手を繋いでいた詩甫が祐樹に言った。

『祐樹? 今のうちに色んなものをいっぱい作るといいわよ』

『今のうち?』

『そっ。 大人になったら色々と面倒臭いことがあるみたいだから』

あの時の詩甫はまだ勤めたばかりだった。 今から思えば初任給で連れて行ってくれたのかもしれない。
詩甫の言った“色んなもの” “作る” それはブロックで何かを作る、それだけの意味ではなかったのだろうか。

(あの時は気付かなかったな。 それに・・・)

“大人になったら” という言葉が頭の中で何度も鐘楼が鳴り響くように聞こえる。
祐樹の頭の中には大蛇の昔語りも然り、朱葉姫や花生、薄のことがある。

(よく分かんないことも多いけど・・・)

一年生の塁が祐樹を見上げていた。 その視線に気が付いた祐樹。

「ん? なに?」

鍋を胸で抱え直す。

「祐樹君みたいに言ったくれたの初めて」

「え?」

塁がパァッと顔を明るくする。

「鍋、僕も持つ」

塁が祐樹の抱えている鍋に手を伸ばした。



心配をかけたね、と長治から浅香に連絡が入った。

浅香の指示の元、あのあと家に戻りしばらく様子を見ていたという。
浅香が言っていたのは安静が一番だということで、暫く待って大婆の呼吸が十分に落ち着いてくれば病院に運ぶようにと言われていた。

病院に行くとすぐに点滴をされたということであったが、その後が大変だったという。 点滴がまだ終わらない内から大婆がいつもの息を吹き返したらしい。

『元気に戻り過ぎてな、紅葉姫社の修繕のことであーやこーやと口を挟んできた。 ましてや毎日社に行ってるよ。 まだまだ死なんわ』

どれだけ大婆が元気になったとしても足腰が若い頃に戻る筈はない。 大婆が社に行っているというのは、長治と次郎が背負って山を上がっているのだろう。

「それは、お疲れ様です。 でも大婆さんにとってもお社にとっても何よりです」

長治と次郎の苦労を思いながらも浅香が言うと、それを分かったのだろう長治が電話の向こうで笑った。

『そんなわけで連絡が遅れてすまんかったな』

「いいえ、大婆さんがお元気であればそれが一番なので」

『そう言ってくれると有難い。 社のことだけど、大工が入ってくれることになったよ』

「え? そうなんですか?」

『ああ、あの時、山に居た者たちも手伝ってくれる』

少なくとも材料を運ばなければいけないからだろう。

「それじゃあ・・・」

『ああ、昔語りの大蛇は居ない。 それが段々と広がるだろう』


浅香が詩甫に連絡を入れた。 長治から聞いたことを話すためである。

『それじゃあ、お社は・・・』

耳にあてているスマホの向こうの詩甫が言う。

「ええ、本職さんによって修繕されるようです」

詩甫の返事がない。 浅香は詩甫の気持ちを察してそのまま何も言わなかった。
暫くして詩甫の声がした。

『浅香さん・・・』

「はい」

更に二十秒ほどの間があった。

『朱葉姫・・・朱葉姫は・・・』

詩甫の言わんとしていることは分かる。 浅香も同じように思っているからだ。 だがそれを言ってしまっては、他人である浅香が認めてしまうことになる。 それは言ってはいけないことだと思っている。

「朱葉姫が決めることです」

民の顔を見た、民の気持ちを聞いた、朱葉姫はこれからもあの社に残るだろう。 それは朱葉姫が最初の最初に望んでいたことだ。 望んでいたことが叶ったということ、いや続けていけるということ。
だが詩甫も浅香もそうではなかった。 朱葉姫が社に残る、それを危惧していた。 寂しく思っていた。

切っ掛けは花生の言葉だった。 波夏真が花生を待っている。 そして二人で生まれ変わるという話を聞いたことから始まった。

あくまでも朱葉姫は神ではない。 もし輪廻転生があるのなら、朱葉姫があのまま社に居るということは転生出来ないということになる。

朱葉姫は嫁ぐ前に呪詛された。 それはあの時代の年齢を考慮して歳を重ねた年齢ではなかったはず。 未来的に誰かの元に嫁ぐということだったのか、もう相手が決まっていたのか。 もし相手が決まっていたのならば、その相手は政略的な相手だったのか、それとも・・・。

曹司から聞いていた朱葉姫の父親、そして花生からも聞いた兄である波夏真のことを考えると政略結婚などは有り得ないだろう。

曹司の話では、父親が朱葉姫が嫁ぐために作った衣装の中の一つを朱葉姫が気に入っていて、その赤い着物を着て埋葬され今も身に付けているという。 きっとその着物を着て愛する相手に嫁ぐはずだったのだろう。

未来的に誰かの元に嫁ぐというのではなく、相手は決まっていた可能性が高い。 万が一にも政略結婚であったならば、嫌な相手であれば気に入った着物などないであろう。

詩甫がそう考えると同じ様に浅香も考えている。

未来的に誰かの元に嫁ぐための衣装、その衣装を気に入る朱葉姫。 それは有り得ない。 朱葉姫を知っている詩甫だからこそ分かる。

朱葉姫が心を寄せた誰か。 朱葉姫の父親も波夏真もその誰かに朱葉姫を嫁がせたかったはず。
朱葉姫を知っている詩甫が考えていることなのに、浅香が知っているかのように、朱葉姫が決めることだと答えた。

『浅香さん・・・私は、朱葉姫に生まれ変わってほしいんです』

そして縁があるのならその誰かと結ばれてほしい。
ずっと社に括らされて欲しくない。

『お社で村の人達の喜ぶ顔を見て朱葉姫が微笑むのではなく、朱葉姫自身の手に幸せをつかんでほしいんです』

詩甫は朱葉姫に花生の子孫と、それから幾人かの村の民を見せてから社を閉じるつもりだった。 社を閉じれば朱葉姫は朱葉姫としての生涯を終える。 そして新しい道に踏み出せる。 そこに朱葉姫が心を寄せたその誰かが居てくれる、それを願って。
それが朱葉姫の幸せだと思っている。

「それも一つでしょうね」

『え?』

「人の幸せなんて誰にも分かりませんよ。 自分自身も」

『浅香さん・・・』

「朱葉姫は誰かに恋をしていたのかもしれません。 あの呪詛さえなければ、その恋は成就したのかもしれません。 それで嫁ぐという話になったのかもしれません。 ですがその前に呪詛が行われました。 状況は変わりました」

『・・・』

「その状況は野崎さんと僕が朱葉姫を知るもっともっと以前のことです」

そうだ。 朱葉姫は呪詛された体を癒していた。 そこに民の声が聞こえた。 朱葉姫は恋した相手を待たなかった。 民の声に応えたのだった。

「朱葉姫が決めることです。 僕も曹司も・・・いえ、曹司は朱葉姫が決めたことに従うでしょうけど」

朱葉姫は恋した相手ではなく民を選んだのだった。

『浅香さん・・・』

「全ては朱葉姫が決めることです」

『・・・はい』

詩甫の二つの瞳から各々(おのおの)に一筋の涙が零れる。
愛する人の元に行けない、どれだけ悲しいのだろうか。 背負うということはこういう事なのだろうか。

「野崎さん、朱葉姫を信じて下さい」

『え・・・』

詩甫は朱葉姫を信じている。 疑いなど持ったことは無い。

「いい加減な曹司ですけど、曹司から朱葉姫の心を聞きました」

朱葉姫の心?

『それは・・・』

それは何なのだろう。 朱葉姫は民に添った姫。 ただただ民に添った。
きっとその中で愛する人を見つけたのだろう。 成就することは無かったが。

「朱葉姫は自分の幸せより民を選ばれるだろうということでした。 それが朱葉姫の幸せでもあると」

『・・・え』

「朱葉姫は今も民の幸せを願っているんです。 朱葉姫が居ることによって民が幸せを感じる。 そして朱葉姫自身も民よって支えられている。 その声を聞きたい、その笑顔を見たい。 民の幸せを願いたい」

浅香の言いたいことは分かっている。 朱葉姫が民を選んだことも。 だが詩甫が首を振る。 それでは朱葉姫の未来がない。

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国津道  第59回

2021年08月09日 22時55分04秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第50回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第59回



「神主のようには唱えられんがな。 それに代々伝わっている自作の祝詞だ」

浅香と詩甫と、長治と共に戻ってきた祐樹が手を合わせている長治と次郎を見る。

「いつかは朱葉姫に会える。 紅葉姫社に行ける。 朱葉姫が幸せであるようにと先祖が考えた祝詞だ」

それを代々継いでいるということ。

「え? 祝詞って自作ありなんですか?」

「そんなことは知らん。 だが・・・代々が朱葉姫の弥栄(いやさか)を願ったのは間違いない」

朱葉姫の弥栄・・・。
もう亡くなった朱葉姫に対しての弥栄。
村の人たちが朱葉姫のことをどう受け取っているのかは分からないが、朱葉姫が社の中に居ると信じての弥栄。

詩甫の心の底が熱くなる。

(朱葉姫・・・民が朱葉姫のことを想っています)

<聞こえています>

朱葉姫から詩甫の心の中に返事があった。

<民がわたくしの幸せを願っていてくれている、のね>

<朱葉姫・・・>

詩甫の中で朱葉姫の姿が朧に浮かんできた。 その朱葉姫の姿と焦点が合う。

<瀞謝は・・・やはり心配性ね。 安心なさい>

詩甫が心の中で朱葉姫! と言ったが、もうそこに朱葉姫の姿はなかった。
“安心なさい” それは何を示しているのだろうか。

長治と次郎が戻ってきた。
その時には浅香が大婆を負ぶっていた。 背中には大婆のほぼ胃の位置だろうと思える場所から胸らしきものをグイグイ押されていたのは気のせいだろうか。
長治が浅香から大婆をひったくると次郎の背に乗せる。

「何を乱暴なことをする!」

「要らんことをしとるからだ!」

やはり気のせいではなかったということなのだろうか。

長治も朱葉姫の香りに気付いていた。 まるで憑き物が取れたような顔をしている。

香りに触れる前までは、長治一人で大婆を背負って山を下りるつもりだった。 だが詩甫の言葉を聞いた。
その香りは朱葉姫からの返事、ようやく村の人が来てくれた、そのお礼。
朱葉姫が社にいる。 その社がある山に大蛇などいない。 そう思うと肩から重い荷が下りる。

「じっとしとれ。 今から山を下りるからな」

詩甫が供養石の前に置いていた供え物を慌てて下げる。 祐樹がそれに気付いて社の供え物を下げる。

「次郎、いつでも代わるからな」

「下りだ、どういうこともないさ」

次郎が歩きだす。

坂にさしかかると浅香が次郎の前に回りこむ。

「もし前につんのめりそうになったら大きな声を出して下さい」

振り向き、すぐに助けるということだ。

「長治さんは後ろをお願いします」

尻もちでもつきそうなときには長治に頼むということだ。
長治と次郎が頷く。

薄のことを疑っているのではない。 薄はもうここに居ないのだから。 だが、人死にがあった全てが薄のせいだったのだろうか。
それは誰にも分からない。
坂を下りながら長治が真後ろを歩く詩甫に話しかける。

「野崎さん、ありがとうな」

「え?」

すぐに祐樹と場所を入れ替わって長治の斜め後ろに付く。

「あの?」

「野崎さんと浅香君がいてくれなければ、昔語りはずっと続いていただろう。 ご先祖さんに報告する時にはわしらからの礼を言っておいてくれ」

そうだった。
すっかり忘れていたが、今回大蛇のことを訊きに来た理由は詩甫の先祖が大蛇のことを知りたいという嘘が発端だったのだった。

長治の声は次郎も浅香も、もちろん一番近くにいる大婆も聞いている。

「はい・・・」

返事がしにくい。 嘘はつきたくないものだ。 話を逸らせたい。

「次郎さんとお社を見られてどうでしたか?」

それは社の傷み具合のこと。

「ああ、酷いもんだな」

「すみません、僕の突貫の修理・・・。 専門外っていってもはなはだしく酷かったですよね」

先頭を歩いていた浅香が僅かに振り返り言う。 足は止めていない。
長治が顔の前で手を振って笑う。

「いや、そんなことは無いよ。 確かに手荒だったがな。 浅香君は美容整形には行けないようだな」

浅香が救急隊員だと知ってわざと言っているようだ。

「お恥ずかしい限りです」

あの時はまだ薄のことも分からず、とにかく大蛇から何かをされる前にと酷い所に手を加えただけだった。 それも大急ぎで。 だがそんな言い訳を言えるはずもないし、時間があればきちんとできたのかと問われれば自信がない。

ふと浅香が気付いた。

曹司が言っていた。 薄に可愛がられていたと。
そこで気付いた。
浅香は曹司の分霊。 薄は曹司を可愛がっていた。

浅香がフッと鼻から息を吐いた。
薄は曹司の分霊である浅香に手出しはしなかっただろう。 あれほどに慌てる必要はなかったということだ。

(曹司もナカナカだな・・・)

浅香が口角を上げる。

(曹司って・・・なんなんだよ)

朱葉姫からも薄からも花生からも可愛がられていたという曹司。

(・・・小さい時は可愛かったのかな)

親が流行り病で亡くなったと聞いている。 その後に朱葉姫の父親に引き取られ、朱葉姫が可愛がったと。

「だがちゃんと社が崩れないようにしてくれていた。 浅香君、あとはわしらが修繕する。 安心してくれ」

曹司の身の上に心を馳せていた浅香が現実に戻る。

「え?」

浅香の足が止まり思わず振り向いた。 先頭が止まれば全員の足も止まる。

「その為に長治と次郎を見に行かせたんだからな」

大婆が次郎の背中で言った。

「・・・いいん、ですか?」

「いいもなにも、わしらの社だ。 村の者が怖がって来んでも長治と次郎に直させる」

「まあ、わしらも素人だからな。 その前に大工に掛け合うが、それで駄目ならわしらが直す」

大婆と長治の話を聞いて次郎も口を開く。

「まず下で待っとる者が信じるさ」

無事に大婆も長治も下りてきたのだから、少なくとも山に大蛇は居ないと思うだろう。 あとは女が睨まれる、社を直そうとする者が命を落とすという昔語りが残っているだけだ。 それとて大蛇のせいになっている。

浅香が修繕をしていたのに今もこうして無事でいる。 それを話して信じるかどうかは分からないが、信じないのであれば長治が言ったように長治と次郎で素人修繕をすればいい。 手が足りなければ長治にも次郎にも男兄弟がいる。

「信じんのであれば、親父が言ったように親父とおれで直す。 浅香君」

次郎に呼ばれ浅香が改めて次郎を見る。

「はい」

「親父も言っていたが、浅香君と野崎さんには感謝しとる」

「いえ、そんな・・・。 野崎さんと僕でお社を直そうとしていたのに、そう言って頂けて僕らの方が有難く思っています」

祐樹がオレもだろ、と心の中で浅香に突っ込んだが、さすがに空気を読んだのか口にはしなかった。

「浅香君、あんな修繕じゃ一年は持たんよ」

笑いながら長治が言う。

「ですよね・・・面目ありません」

(浅香さん・・・)

長治が浅香の修繕では一年は持たないと言う。 だが浅香自身はまだ薄のことが分かっていない中でも、一年足らずでも持つようにしてくれたのだろう。 詩甫に一年の猶予を与えてくれていたのか。

「浅香君は外科も無理だろうな」

「あはは・・・」

そんなに酷かったのだろうか。
だが浅香は医者ではない。 そこは勘弁願いたい。

次郎が大婆を背負う為に腰を曲げているとは言えども、下りは軽く歩けた。
次郎の表情に苦痛は見られないが長治が声をかける。

「代わろう」

坂が終わり階段が始まろうとしていた。

「親父、腰を痛めてるんだろ?」

「治った」

次郎が声なく笑う。

「そうか・・・親父、まだまだ家長だな」

「当たり前だ」

途端、次郎の頭が大婆によってはたかれた。

「なーにを言っとるか、こんな蒙古斑持ちに家を預けられるか!」

蒙古斑・・・次郎はお尻に卵の殻を付けていると言われていた。 それから思うと蒙古斑は進歩なのだろうか。
それにしても低レベルだ、と思う浅香が間違っているのだろうか。 そんな浅香が相好を崩す。

(大婆さんはまだまだ現役だ)

浅香の手を借りて次郎の背から長治の背に移った大婆。

「お前より若いのが良かったのに」

ブツブツ文句を言う大婆を長治が叱責していた。

(全ての意味で大婆さんは現役のようだ・・・)

浅香の背筋に訳の分からない悪寒が走りそうになったが、すぐに微笑む。

(うん、お元気だ)

それは命を見てきた救急隊員だからそう思うのだろうか。

階段を下りきると男達が大婆を背負う長治と後ろについていた次郎を囲った。 浅香と詩甫、祐樹は少し離れたところで待つ。

大婆は山から落ちてこなかった。 それは山に大蛇は居ないということだ。 あとは大婆が社にいる大蛇に睨まれて大婆の周りに不幸が起きるということだ。

「大婆・・・」

一人の男が言った。
最初にその男を大婆がねめつけた。 そしてぐるりと囲った男達に目を這わせる。

「大蛇は居らん」

「え・・・」

男達が口の中で言う。

「朱葉姫様が返事を下さった」

どういうことだと男たちが互いに目を合わす。

「信じるも信じんも好きにしろ」

これ以上大婆は何も言わないであろう。 長治が大婆を背負ったまま歩き出す。 浅香と詩甫と祐樹がそれに続く。 同じく長治に続こうとした次郎を男達の一人が肩を掴んで止めた。

「次郎、どういうことや」

「どういうって、社にも山にも大蛇は居らんってこと」

本当は社にも、とは言いたくなかった。 大婆の家ではそれを一番忌避とするのだから。 だが大婆の居る僧里村では、社と山のどちらかに分かれて大蛇が居ると各家で昔語りとして言い伝えられている。 その両方を否定しなければいけない。

「だが! ―――」

次郎が遮る。

「昔語りが言っとるって、言いたいんやろう」

「そうだ」

他の男たちも頷く。

「今の時代にそれを信じるんか?」

地上ではそこいらの四足動物より早く走れる車が走り、上空では何百人もの人間を乗せた飛行機が飛び、遠方の人間とも話すことの出来る電話があるこの時代に。 ましてや一昔前と違って今は有線でなくとも、だ。

「それは・・・」

「今でも桃太郎が鬼を退治したことを信じるんか? 鶴の恩返しを信じるんか?」

男達がムッとした顔をする。

「それは昔語りやなく、昔話や。 昔語りはわしらの先祖が言い伝えたことや」

「そうや、昔話やない。 一緒にするな」

二人の男たちが言うと他の男たちも何度も頷く。

彼、と言って、長治の後ろを歩く浅香を親指で指さす。

「彼が言っとったけどな、全てとは言わんが昔話の中に本当のことはある。 だが全てが本当とは言い切れんし、例えていうこともあるってな」

話しの百の中に一つの嘘を入れる。 その嘘に気付かず誰もがその話を信じる。 そしてその嘘が主役にもなりえる。 浅香はそう言っていた。

浅香が前に来た時、大婆の家で言っていたことだ。
先ほどの浦島太郎の話ではないですが、と話していた時だ。

『浦島太郎には実在した人物がいるそうです。 浦島子と言ってモデルですね。 竜宮城とは一説に蓬莱山のこと。 蓬莱山は古代中国の仙人が住むと言われている山。 仙人とは言ってみれば不老不死です。 その一説を信じるならば中国の神仙思想が入ってきているということになります。
浦島太郎は数え切れない年月を竜宮城で過ごしてきたわけです。 本人的にはそう思っていなくても。 でもたしかに竜宮城にいる間は老けることがなかった。 ですが玉手箱を開けると一気に老人になった。 それは不老不死を唱える神仙思想を絡めたということです。 その思想を人の心に刻んだということ。 あくまでも一説ですけどね。 亀の宇宙船に乗ってどこかの星に行ったという説もありますし』

そして 『昔話に出てくる鬼というのは、対抗勢力や時の朝廷であったりもします』 と、詩甫の会社の神職の資格を持つ者から聞いたと言っていた。

そこで花生の昔語りと結び付けた。 昔語りは全て本当だったのだろう。 昔話のように意図的ではないが、だが一つ、真実であり真実では無かったことがあった。
花生が朱葉姫に呪いをかけたというのは呪者が言っていただけのことである、呪者がそう言ったのは真実。 だがそれは本当に花生がした事なのだろうか、そう疑うとそれまでの浅香の話からそれは事実ではなかったはず。 浅香はそう言っていたが今更証拠などない。 それでも今は信じられる。

何よりも朱葉姫からの礼と言われる香りを嗅いだのだから。

「じゃ、じゃあ、大蛇の昔語りが嘘やったって言うんか」

言った男を見る。 知らない相手ではない。 同じ村の男なのだから。 ましてや相手は次郎の同級生だ。

「その大蛇ってのは、蛇か? 大きな蛇ってことか?」

「大蛇ってんだからそうやろう」

「少なくともおれは社まで行って大きな蛇など見んかった。 小さな蛇もな」

違う男が言う。

「め、目に見えるようなもんではないかもしれんだろ、そんなものは目には見えんかもしれんだろ」

長治より年下だが、次郎よりずっと上の男である。

花生の親戚筋では秘密裏に大蛇の正体は花生だと伝えられていたが、もう親戚筋は忘れている。 そして他の家々は最初から花生が関係していることなど知らない。
他の村では山神が大蛇を遣わしたと言われているが、僧里村の他の家々では呪いが姿をとって大蛇が山にいると言われている。

その大蛇の存在、それは大婆の先祖、その遥か昔、お婆と呼ばれた人が村で広めた話であった。

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国津道  第58回

2021年08月06日 22時49分20秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第50回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第58回



ずっと先に社が見える。 初めて見る紅葉姫社であった。 それは長治だけではない。 次郎も勿論のこと大婆もそうだ。

長治の背から大婆が身体を伸ばして紅葉姫社を見る。

「おお・・・」

大婆が目を丸くして社を見ている。

長治と次郎が社の上を見る。 そこに見たことは無いが花生の姿も、もちろん大蛇の姿もない。 たとえ大蛇が居たとしても簡単に人間の前に姿を現すはずはない。 だから見えるはずはないとは思っていても、つい目がいってしまう。

社に大蛇など居ないのに。
居るとするならば山に居る。 そしてそれは大蛇ではなく花生。 ずっとそう聞かされてきていた。

長治が後ろからはたかれた。

「長治! 早よ行かんか」

「あ、ああ」

長治が歩を出すとその歩きやすさに驚いた。 農作業をしていて健脚力にも体力にも自信があった。 だから一人で大婆を背負って山を上るつもりだった。 だがそれは甘かった。 上り坂や上り階段がどれほど平地と違うのかを実感した。

先ほどまでの歩みと全く違う長治の進み方を見て詩甫が先を譲った。 ここからは長治たちに任せる方が良いであろう。

浅香はまだ万が一のことを考えて長治の後ろにピッタリと付いている。 無理をして上ってきたのだ、急に膝が抜けたりするかもしれない。

長治が少し離れた社の前で足を止める。
すると詩甫が長治たちを抜いてすぐに紙袋から供え物を出し半紙の上に置き、祐樹が前回置いていった花束を下げ新しい花束を置いた。

それをじっと見ていた大婆と長治と次郎。

詩甫が下がると大婆が社に目を這わせる。
社頭に設けられた鈴は青緑の錆が付き、下に垂れていなければならない紐などは一糸さえ見当たらない。 錆が付いていても、よくぞ鈴が残っていたと言わざるを得ない程の状態。 八畳ほどの社の所々はあらゆるところで傷み始めている。
正面だけでもこれだ。 あとの三方はどうなっているのか。

「次郎」

浅香が長治の後ろを次郎に譲り、その次郎が大婆を長治の背から下ろす。 次郎が大婆の手を取っている。
長治はまだ腰を曲げたままだ。

「うう・・・」

「大丈夫ですか?」

浅香が腰をさすってやる。

「焦らなくていいですから、ゆっくりと腰を戻していってください」

「・・・ああ」

「親父、大丈夫か?」

大婆の手を取りながら次郎が訊いたが、大婆は全く長治の心配をしていないようだ。

「大袈裟な、機械にばっかり頼っとるからそうなる」

言い終わると突き出されている長治の尻をパシリと叩いた。

「あがぁっ・・・」

「朱葉姫様の前で情けない声を出すんじゃないわい」

ふん、っというと、次郎に格子戸の前まで連れて行くように顎をしゃくる。
次郎が気づかわし気に長治を見ると、それに応えたのは浅香だった。

「どうぞ、僕がついていますから」

浅香が言うと、次郎が大婆の手を取ったまま歩き出す。 歩くと言ってもほんの数歩である。
格子から中を覗き込みたいようだが、残念ながら大婆の身長では足りないようだ。 代わりになのか、次郎が格子の中を覗き込む。

「なんか・・・」

途中で止まった。 頭を傾げている。

「なんだ、はっきり言わんか」

「いや・・・社の中なのに風が吹いてるような」

詩甫がハッと思った。 詩甫も初めて格子の中を覗いた時に、清々しい緑の風が社の中から吹いてくるようだと感じたからだ。

大婆が再度社を見回す。 あちこちが傷んできている。 きっと社の中も風通しが良くなっているのだろう。

「向こう側に穴が開いとるのかもしれんんな。 次郎、手を離せ」

「え?」

「手が合わせられんだろう」

「あ、ああ」

次郎がそっと大婆の手を離す。
慌てて詩甫も手を合わせる。 そして心の中で話しかけた。

(朱葉姫、花生さんいらっしゃいますか? 花生さんの子孫の方々です。 大蛇の言い伝えを聞いても、こうしてやって来てくれました)

<瀞謝>

朱葉姫の声が詩甫の心の中に響いた。

<朱葉姫! 居て下さったんですね>

<ええ、お姉さまと曹司に言われて・・・。 そう、この民がお姉さまの・・・>

<はい、花生さんは?>

<いらっしゃるわ。 じっとこちらから見ておられるわ。 お幸せなお顔をしていらっしゃる>

良かった、と詩甫が胸を撫で下ろす。

<すぐにとはいきませんが、これからもっともっと民が来ます。 朱葉姫、ずっととは言いません。 でももう一度民たちを見て下さい。 お社もちゃんと修繕します。 お願いします>

<瀞謝・・・>

瀞謝の名を呼ぶと大婆が心の中で話していることを聞いたのだろうか、朱葉姫が語りだした。
大婆が長年社を放っていたことに詫びを入れていると。 その理由もちゃんと話していると。 そして社のことも話し最後に「申し訳御座いませんでした」と言って、あとは心の中が空になったようにしていると。

<民が待って下さいと言っています。 待ちましょう>

大婆が何に対して待ってくれと言ったのかは分からないが、それでも朱葉姫が待ちましょうと言ってくれた。

<朱葉姫・・・有難うございます>

<礼を言うのはわたくしの方よ。 お姉さまも喜んでいらっしゃるわ。 瀞謝の連れて来てくれた民ですものね、わたくしから民に礼をいたしましょう>

え? っと思った瞬間、ふわりと花の香りがした。 きつすぎる香りではないが、それでもしっかりとその香りが社の中から流れてきているのが分かる。

大婆が瞑っていた目を開けた。 次郎も気付いたようだ。

「大婆・・・」

大婆が手を下ろすと「ああ」と一言いった。

詩甫が合わせていた手を下ろし目を開ける。
これが朱葉姫の言った民への礼。

「きっと、朱葉姫からのお返事です。 長い間誰も来なかった。 ようやく村の人が来てくれた。 そのお礼です。 きっと」

きっとではない。 朱葉姫が礼と言っていたのだから。
言い切れないところが寂しくはあるが、朱葉姫の気持ちを伝えたかった。 それを大婆に分かって欲しかった。

いつの間にか詩甫の隣で祐樹も手を合わせていた。 その手を下ろして祐樹も同じように言う。

「うん、そうだね。 朱葉姫ならきっとそうするね」

詩甫と祐樹の言葉が大婆の耳に入る。

自分達は・・・先祖もそうだ、なんと愚かだったのだろうか。 自分たちの先祖が昔語りを信じたまま朱葉姫を粗末にして、ありもしない大蛇に踊らされ、社を放りっぱなしにしてきた。 だがどうだ、この地に何の関係のない者たちが社に花を添え修繕し、朱葉姫のことを分かろうとしている。

この香りが詩甫の言うように、朱葉姫の返事なのだとすると・・・いや、朱葉姫からの返事だ。 それ以外にない。 だから、大蛇など居るはずがない。 大蛇などいない。

「次郎、長治と一緒に社がどれだけ傷んでいるか周りを見て来い」

「ああ、だが大婆、一人で長い間立ってはおれんだろう」

「あ、手を添えるだけで良かったら、私と祐樹が」

詩甫が大婆の手を取ると祐樹が反対側に回り、大婆の手を取る。

「悪いな、すぐに戻って来るから」

次郎の顔がどこかスッキリとしている。 大婆にしてもそうだ。
きっと朱葉姫の心が通じたのだろう。

「馬鹿もんが、何がすぐだ、しっかりと見て来い」

何を言っても言い返される。 頭をぼりぼりとかき、後ろを振り返ると長治がやっと腰を伸ばしたところだった。

「親父、大丈夫か?」

「ああ・・・歳には勝てんな」

「おれより長く大婆を背負っていたんだ、歳のせいじゃないだろう。 それより歩けるか? 大婆が社の傷みを見て来いって」

「ああ、もうなんともない。 浅香君、心配かけたな」

「ぎっくり腰にならなくて良かったです」

長治が無理に腰を伸ばそうとしたのを浅香が止めていた。 こんな所でぎっくり腰にでもなったらどうにもならないからと。

「まだ無理をしないでゆっくりと歩いて下さい。 僕も大婆さんに付いていますから、大婆さんのご心配はなく」

「世話をかけるな」

二人が社の傷みを見始めると浅香が祐樹の横に立った。

「祐樹君、僕たちが直したところがあるだろ? それと僕が釘を打ったところ」

「うん」

「長治さんと一緒に回ってその箇所を教えてあげてくれる? 僕がいい加減に直したところだから。 大婆さんは僕が負ぶってるから心配しなくていいよ」

うん、と言う祐樹の返事に被さって大婆の嬉しそうな声がした。

「ほほぉー、若いのが負ぶってくれるのか」

目が生き生きとしている。
祐樹が恐ろしいものでも見るかのような顔をして、そそくさと長治の後に続いた。

「あと一ケ所ご案内します。 僕で良ければどうぞ」

そう言って屈んで背中を見せる。
ウキウキと大婆が浅香の背に覆い被さる・・・いや、背負われる。

「お尻を触っちゃうことを許して下さいね」

何か言われる前に先手を打って言ったつもりだったが、相手はそう簡単に丸め込まれはしなかった。

「なんなら揉んでもええぞ。 胸は―――」

「大婆! 聞こえとる! 要らんことを言うとるんやない」

有難い長治の突っ込みだった。

浅香が立ち上がると詩甫を振り返った。 一緒に行こうということだ。 社の斜め前に足を進める。 それで浅香がどこに行こうとしているのかが分かった。

供養石の前まで浅香が歩くと、大婆に見えやすいように横向きに立つ。

「こちらが供養石です。 昔語りにありますか?」

昔語りを聞いたが、それは全部ではないだろう。 供養石の話は出てこなかったのだから。

「これが・・・供養石」

それは高さ百五十センチほどで先の尖った厚みの無い石だった。
詩甫が社の前でもしたように、供え物と花束を置きもう枯れている花束を下げた。

「あんた・・・いつもここに来る時にはそうしてくれてたのか?」

「はい。 私に出来ることはこれくらいですから」

「どうしてそこまでする? あんたらには関係のない社だろう」

詩甫が首を振る。

「お社が寂しすぎますから」

「そう言えば、社サークルとか言っとったか」

記憶の良いことだ、と浅香が思った。 大婆の時代にはなかった言葉まで覚えている。 ましてやカタカナを覚えているとは。

「はい」

「・・・さっきの本」

詩甫が首を傾げる。

「五十年ほど前にな、一人の男が紅葉姫社のことを訊きに来た」

それでは本の作者に朱葉姫のことを話したのは大婆だったということか。

「わしらの村の者に訊きに来たみたいでな。 まぁ、それでわしのところを紹介したということだったが」

作者は朱葉姫のことを知らなかったようだったという。 ただ山の中で紅葉姫社を見つけ、あの山にある神社のことを教えてほしい、誰が祀られているのかも、と言っていたという。

「あんたらみたいに色んな社や神社を見て回っていたんだろう」

大婆があの社には朱葉姫が祀られてると言うと、作者が目の色を変えたという。 それはそうだろう『姫伝説』 を書こうとしていたのだから。
だが大婆は朱葉姫と言った途端に目の色を変えた作者を胡散臭く思ったと言う。

「だからと言って嘘は言えんからな、朱葉姫が誰にでも慕われていたと短く話して帰らせた。 まぁ、大蛇のことは話せんし、わしらの知っているのは朱葉姫が民にどのようにしてきたか、その具体例だけだ。 もともと話す内容もあまりなかったがな。 だがあの男も社を見て寂しく思ったかもしれんな」

先程記憶の良いことだとは思ったが、それでも五十年前のことをよく覚えているものだ、それに長い話の中でつっかえることなく話している。 何が言いたいのか途中で分からなくなったということもない。 百歳を超えているというのは間違いではないのかと思ってしまう程だ。

大婆の頭の中を覗いてみたいとも浅香は思った。

「作者さんは色んな神社やお社を回られたようですから」

本は有名どころのお姫様のことが殆どだったが、有名ではなくとも姫の名と社、神社の名前を掲載していた。

「あんたから見てどうだ? この社ほど壊れている所はなかったか?」

要らないことを言ってしまった。 他の社は詩甫の知るところではない。
そこですかさず浅香の救いが入る。

「所詮はサークルで研究者ではありませんからよくは知りませんが、あったと言えば嘘になります。 もっと足を伸ばして色んなところを見ればあるかもしれませんが、僕たちは目にしませんでした」

紅葉姫社が朽ち果てているということを強調したい。 長治たちに命じた大婆の言いようでは、大婆のところか若しくは村で社を修繕してもらえるかもしれないからだ。
朱葉姫のことを考えると村の民が進んで社を修繕するのが一番だろう。 それに・・・公明正大には言えないが、浅香が負担しようとしていた修繕費が浮く。 貯金を崩さなくて済む。 貯金の範囲で納まるかどうかも分からなかったが。

大婆が浅香の後頭部を見る。

「そうか・・・」

大婆が何を考えているのか浅香には分からない。 もちろん詩甫にも。

「下ろしてくれるか」

詩甫がすぐに大婆の後ろに付く。 浅香がゆっくりと足を屈めていく。
浅香の背から下りた大婆。 その手を詩甫がとっている。

「有難いこと」

こうしてこの地で生まれ育った者でない者が供養石に花を添え、供え物をしてくれる。

大婆が手を合わせる。
何か心の中で言っているのであろう。
暫くして大婆が目を開き合わせていた手を下ろす。

「昔語りに供養石のこともある」

浅香が質問していたことを覚えていたようだ。

「この下に髪の毛や爪を埋めたと」

「ええ」

浅香が応える。

浅香の返事に大婆が驚きかけたが、ここに連れてきたということは供養石が何たるやを知っていたということだ。

「誰かに聞いたのか?」

「色んな人に聞きました。 今から思えば村の括りというのが分かっていませんでした」

「それは・・・他の村にも訊いたということか?」

「はい」

「他の村はろくでもないことを言うておっただろう」

ろくでもないとは、何を指しているのかは分からないが、それにYesと答えてしまえば話がややこしくなる。

「いいえ? 昔語りを聞かせて下さっただけです。 村によって少々のズレがあったとは思いますが、ろくでもないこと・・・などは聞きませんでした。 他の村の方が仰るに、この社を一番見ていらっしゃるのが憎里村だと聞きました。 その中でお婆という存在を聞きました」

他の村というのは唯一、座斎村だけだ。 だが座斎村の名前を出すのは憚(はばか)られるし、一つの村で何かを聞いたというだけでは説得力に欠けるだろう。 まるで幾つかの村で話を聞いたように言う。

「ああ、だからわしの所に来たということか」

大婆はお婆の子孫だ。 それは瀬戸の書き記したもので知っていた。
浅香が嘘と真実を折り混ぜて話す。

「大婆さんをお訪ねして正解でした」

大婆が両のもう殆どない眉を上げる。

「他の方だったら、こうしてここに来てくれなかったと思います」

「どういうことだ?」

「彼女の会社の人で神職の人がいた話を覚えていらっしゃいますか?」

「ああ」

「その人に教えてもらったんです」

その地の人間が社、若しくは神社を振り返って見るとその社、若しくは神社に息が入ると。

「息?」

「ええ、淀んだ空気の中に風が入る。 するとその地の人達が社を顧みるんですって。 それを息が入るという表現をしてらっしゃいました」

「・・・そうか」

「ええ、僕たちの想いを大婆さんが汲んでくださったから、紅葉姫社に息が入ったと思います」

「そうか・・・」

社サークルとは捨てたものではないか・・・。

「大婆」

長治と次郎が戻ってきた。

「これは?」

「供養石だ」

「供養石・・・」

長治も次郎も昔語りで聞いている。 その昔語りの供養石が目の前にある。

「何もかも・・・嘘みたいだな」

次郎が言った。 紅葉姫社にしても、この供養石にしても昔語りの存在だ。 それに紅葉姫社の格子の向こうから花の香りがした。
いま長治と社の周りを見て回ったが、香りのする花など咲いていなかった。 それなのに社の中から花の香りがした。
詩甫が朱葉姫からの返事・・・来てくれたことへの礼と言った。
まるで夢物語のようだ。

夢を見ているような目をした次郎に大婆の手が届けば後頭部をはたかれていただろう。

「さっさと手を合わさんか。 朱葉姫の父上にも礼を言え」

手を合わすのは昔の民たちに対して、そしてこの供養石を建てた朱葉姫の父に対しての礼である。

詩甫が供養石に対しては間違いなく言い伝えられているようだと胸を撫で下ろした。
大婆は社も供養石も大切に想ってくれている。 そして長治も次郎も。 昔語りは少々違ってはいても、きっとどこの村の誰もがそうなのだろう。

供養石の前で手を合わせ終わった長治と次郎。 よく考えると社に手を合わせていなかった。

「大婆、ちょっと待っててくれ。 浅香君、いいか?」

大婆が頷き、浅香が「ええ」と応える。

長治と次郎が社に取って返すと、二人が社の前で手を合わせ、なにやら口の中で言っている。

「大婆さん、あれは?」

「祝詞(のりと)」

大婆が三文字で答える。

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