『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第152回
満腹になった六人が筋肉痛でギクシャクしながらも領主の部屋に戻ると、此之葉が領主が向かい合ってソファーに座っていた。
「領主、今から我々が阿秀と交代してきます」
悠蓮が言った後ろに野夜と湖彩が控え、少し離れて醍十、梁湶、若冲と居る。
「わたしと此之葉も行く。 此之葉いいか?」
問われ、コクリと首肯する。
「領主はここでお待ちください」
「いや、紫さまの気がいつこちらに向かわれるとも限らん。 その時にはすぐにでも出向く」
「ですが・・・」
「私のことは構うな。 此之葉行くぞ」
ソファーから立ち上がると、着物の裾を翻して一歩を出した。
どうしたものかと目線をかわすが、領主には運転手が必要だ。 此之葉もいる。 醍十が領主と此之葉の後に付くと悠蓮が阿秀に連絡を入れる。
『分かった。 では、領主の仰るようにしてくれ』
阿秀の返事は即座に端的だったが、続いた言葉があった。
『昨夜と同じく悠蓮と野夜、湖彩がこちらに来てくれ。 若冲と梁湶はその場に残れ、 醍十はすぐに帰す』
長期戦になるかもしれないと見たのだろう。 二十四時間、若しくは十二時間二交代制で紫揺の周りを固めるつもりらしい。
「了解」
悠蓮がスマホを切ると残っている者にその旨を伝えた。
「了解」
四人が応え、悠蓮に続いて野夜と湖彩が車に向かった。
しばしの間、梁湶と若冲がゆっくりと出来る。
三人を見送った梁湶と若冲。 領主の前では何ともない顔をしていた二人だが、一人は筋肉痛に見舞われている。
「痛ッター」
「情けない」
「言うな。 どれほど紫さまに惑わされたかお前は知らないんだからな」
痛さと戦いながら気だるげに、そっとソファーに身を置いた。
「運動不足だろう」
「それもあるかもしれんが、いや、あるだろう。 自覚はしている。 だが、あの紫さまの動きには到底ついて行けなかった。 それなのについて行こうとするからこんなことになった」
「早い話、運動不足なんだろう」
「それ以上言うとぶっ飛ばす」
「それは避けたい。 ・・・なぁ、それより阿秀なんだけど」 向かいのソファーに座る。
「阿秀? 阿秀がどうした?」
「俺の知らない阿秀を垣間見た」
「どういうことだ?」
「そうだな、例えば・・・」
そう言うと、杢木との会話を話し出した。
「阿秀が “失礼” とか言って、メモを指に挟んで取り上げたんだ。 俺たちの前ではそんなことはしないのに」
それに、とその時の細かな仕草や受ける雰囲気を言った。 そしてシノ機械での嘘八百を平気でついて、いつ用意をしたのか、名刺まで用意していたということも。
「いや、あの時はそうでもしなきゃならなかったとは思うけど、どこか違うんだよな。 雰囲気というか、身のこなしというか・・・」
「ああ、そういうことか。 営業スマイルでやってただろ?」
「営業スマイル?」
たしかに、杢木はそれにやられていた。 それ以前にも。 だがそれは若冲の知るところではない。
「阿秀の手だ。 と言っても自然に出るようだがな」
「手って?」
「あれ? 何も知らないのか?」
「なんのことだ?」
「阿秀がこの地で働いていたのはホストクラブだ」
「はっ!?」
「阿秀がどこで働こうかと思っていた時に、スカウトされたらしい」
「はっ?」
「おい、よく考えろよ。 クルーザーやら車やら、俺たちの此の地の収入で買えるわけがないだろう」
確かに。 此の地の日雇いで働きながら此の地のことを知る。 若冲の収入は僅かなものであった。 その僅かな収入ですら生活費に消え、今後のことにと領土の為にと、口座に送る事さえままならなかった。
「阿秀も好き好んではホストになっていないが、収入が大きいからな。 俺たちが動けるのも阿秀のお蔭だ」
「おい、待ってくれ。 それじゃあ、クルーザーも車も女からプレゼントされたものなのか?」
「お前、阿秀を見くびるな。 阿秀がそんなものをホイホイ頂くわけがないだろう。 正当に接客をしているだけだ。 クルーザーや車なんかは、あくまでも阿秀の給料から出している。 その給料が俺たちの十倍百倍だってことだ」
「は?」
「阿秀ならそれくらい出来るだろう?」
「阿秀なら出来るって・・・その、もしかしてアンナことやコンナことも?」
「馬鹿か。 阿秀は小手先なんか使わない。 阿秀がそこにいるだけで客が寄ってくるんだよ」
「は?」
「阿秀は身のこなしが柔らかい」
「ま、まあ確かに」
「気遣いが出来る」
「ああ、俺たちでは比べ物にならない程にな」
「それに、頭の回転も早ければ記憶力もいい。 此の地で言うところの、男前だ。 背も高くてスレンダー」
「・・・」
今聞いた全てにおいて、自己嫌悪に陥りそうなところを何とか無言でくい止める。
「ホストと言っても阿秀にその気はない。 客が阿秀のしたことを自分にだけしてもらえていると勝手に思っているだけだ。 だから阿秀目当ての客が増える。 イコール月給が俺たちと雲泥の差になる。 まぁ、阿秀も営業用と・・・っていうか、俺たちと、俺たち以外とで区別しているようだがな」
「どうしてそこまで詳しいんだ」
「あ・・・」
「吐け」
「いや・・・阿秀の収入がいいから、俺もと思って阿秀に頼み込んで・・・行った」
「は!?」
「その日の途中で辞めたけどな」
「堪え性のない」
「言うか!?」
「でも、それじゃあ、それだけ客が集まるなら、同じホストから嫌われるだろ?」
成績の世界だ。 疎んじられているのではないかと言っている。
「お前は阿秀を嫌ったことがあるか?」
「・・・ない」
「だろ? 阿秀は女だけじゃなく男さえも自分の懐に入れられるんだよ」
その言いようはどうだろうか。 色んなことを考えてしまうではないか。
「醍十は・・・醍十はその事を知っているのか?」
「さあ? 俺は此の地の金銭的なことを任されているから、阿秀から聞いたが、醍十が知っているのかどうかは知らない。 領主は根本的にホストなんて言葉も知らないけどな」
「・・・醍十には出来れば言わないでくれ」
自分だけでもこれだけ衝撃を受けたんだ。 醍十が知ってしまえば、心打ち砕かれて領土に帰ってしまうだろう。
シノ機械の二階で笑いを抑えたことを思い出す。 阿秀が嘘八白を並べ立てていた。 若冲と此之葉のことを秘書と言っていた。 それに名刺を出したタイミング。 醍十が聞いたら、パニックを起こすだろう、そう思った。
ああ、それにと思う。 阿秀が自分たちのよく知らないアパレルなどと言ったのは、そこからの情報だったのかと。
梁湶は書類系に長けていたから、派遣で会社に勤めたが、他の者は特に秀でるものはなかった。 だから日雇いやバイトだった。 それで日銭を稼いで此の地のあれこれを知った。 多分、父親も祖父もそうだったのだろう。 領土とは全く違う世界だったのだから。
「特にアレコレと言う気はないが、どうしてだ?」
「醍十が・・・ショックを受けるだろう」
「あ・・・有り得るか」
「俺も少なからずともショックを受けている」
「止めろ。 阿秀はそういう風ではない」
「ああ、分かっている・・・」
「阿秀も休めばどうか?」
醍十が領主と此之葉を運んできた。 その醍十にホテルに帰って身体を休めるようにと阿秀が言っていたときに、領主が言ったのだった。
「いいえ、私は何ともありませんので」
そう領主に言うと再び醍十に向き直った。
「梁湶と若冲とともに、明日か今晩からこちらを頼まねばならん。 それまで休憩しておいてくれ。 此之葉のことは私がみる」
領主も見るということだ。
「阿秀はまともに寝てもいないんだろぉ?」
「北からのことはこれから悠蓮と野夜と湖彩に任す。 私は此之葉に付くだけだ。 知れている」
「領主、どうしましょう」
助けを求めるように領主を見た。
「阿秀、身体を壊してからではどうにもならん。 一旦休んではどうか」
「・・・はい。 では車で仮眠をとらせてもらいます」
領主から二度まで言われてしまえば、これ以上は否とは言えない。 醍十が車で帰っても、悠蓮たちが乗って来た車が後に残る。
「それじゃあ阿秀が仮眠をとってる間は俺が此之葉を見る。 阿秀は野夜たちの乗って来た車で仮眠をとるといい。 俺は充分寝たからな」
寝坊さえしたのだから。
領主と此之葉が少ししたら車に戻ることは分かっている。 こんな所でいつまでも立っているわけにはいかないのだから。 その二人が後部座席に座っているのに、おちおち運転席か助手席で仮眠など取れるはずがない。
シートも倒してゆっくりすると良い、醍十はそう言っているのだ。
「・・・では、そうさせてもらうか」
醍十なりの気の使い方に甘えることにした。
「ああ、此之葉のことは心配しなくていいぞぉ。 なんたって今朝は一人で朝飯が食えたんだからな」
「一人ではないぞ。 私もいたが、私の用意までしてくれた。 な、此之葉」
此之葉が恥ずかしそうに俯くが、阿秀は何のことやら意味が分からない。
机に突っ伏していた紫揺が顔を上げた。
「あ・・・あのまま寝ちゃったんだ」
疲れてはいたが、海水に浸かった身体を洗いたかった。 重たい身体を動かすとシャワーを浴び着替え、電気を消すだけ消して、そのまま座り込んでしまったのだった。
しばしボーッとしてからテレビを点けた。 ワイドショーが映し出された。 チャンネルを変えるが、さしてどこも変わらないし、紫揺に何か見たいものがあるわけでもない。 ゆっくりと立ち上がると、部屋の奥にある洗面台で歯を磨いた。 顔を洗おうと石鹸を手に取った時、花の名前が浮かんだ。
「雪中花」
アマフウの香りの元となる花の名。
「アマフウさんともっと親しくなっていればよかったかな。 それにトウオウさんの傷どうなったかな」
セキとニョゼと分かれたのはもちろん辛い。 だが、中途半端で放り投げてきたことは、トウオウの傷を作ったまま放り投げてきたことは責任逃避でしかない。 鏡の中の自分を見る。 右の頬、そこに手を当てる。 トウオウが唇を重ねたその頬。
「合格だって言ってくれた」
だけどそれはアマフウとのこと。 トウオウとのことではない。
「怪我させた相手に合格って言ってくれた。 でもほかに何か言って欲しかったな」
それは贅沢だろうか、と自分の顔をよくよく見る。
「そう思うこと自体、責任逃避なのかな」
石鹸を手に取ると顔を洗った。
部屋に戻ってくると、隅にシノ機械に持って行っていた鞄が置いてあるのが目に入った。
「あ・・・昨日は気付かなかった」
机の上にあった表札には気付いていたが。
座って鞄の中を見る。 家の鍵が抜かれている以外、鞄は何事もなかったかのようにあの日のままだ。
「あの人が持ってきてくれたんだ」
昨日話した女の子、此之葉が紫揺のロッカーから家に持ってきてくれたのだろう。
「昨日、冷たい言い方をしたな・・・。 それに戸を開けてくれた人にも随分と意地悪な態度をとった」
アマフウとトウオウの顔が浮かぶ。
「あとで悔いても仕方が無いのに・・・」
――― 悔いるぐらいなら。
「話は聞かない。 でも非礼は謝ろう」
会うチャンスはあるはずなのだから。
『我らが北の者から藤滝紫揺さんをお守りいたしますことをご了承ください』
あの時、阿秀が言っていた。 とは言っても紫揺は阿秀ではなくセノギモドキと名付けているが。
グゥ~っとお腹が鳴った。 結局、昨日は早朝に杢木親子と朝食を取っただけであった。
杢木は坂谷が紫揺に昼食をとらせているだろうと思っていたが、そんな時間は坂谷には無かった。
「取り敢えず、何か買いに行こう」
冷蔵庫の中に食べられるものなど残っていないだろうかと一応冷蔵庫を開けてみた。 スッキリと整理されていて、ラップをかけていた残り物など無かったし、今すぐ食べられるものもなかった。
「冷蔵庫の中・・・整理してくれたんだ」
あの時のままだったら、冷蔵庫の中で沢山のカビが生えていただろう。
意外に几帳面な醍十である。
鞄の中から財布を取り出し立ち上がった。
「あ、その前に」
昨日脱いだものを洗濯機に放り込む。 買い物に行っている間に洗濯機が働いてくれる。
外に出ると昨日は気付かなかったが、会社に置きっぱなしになっていたはずの自転車が置かれていた。
攫われた時は会社の自転車を使っていた。 紫揺が通勤で使っていた自転車は、駐輪場に置いていた。
「鍵・・・」
玄関の中に入ってみると、下駄箱の上に自転車の鍵が置かれていた。 後輩が誕生日の時にプレゼントしてくれたストラップがついた鍵。 夕べはこれにも気づかなかった。
鍵を握りしめる。 何もかもあの時と一転してしまった。 頬に二筋の涙が落ちる。 鍵を握りしめたまま座り込んだ。
「紫さま・・・」
紫揺が玄関を開けた時に緊張を走らせた悠蓮。 戸が開けっぱなしにされた紫揺の姿を陰から見ていた。
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満腹になった六人が筋肉痛でギクシャクしながらも領主の部屋に戻ると、此之葉が領主が向かい合ってソファーに座っていた。
「領主、今から我々が阿秀と交代してきます」
悠蓮が言った後ろに野夜と湖彩が控え、少し離れて醍十、梁湶、若冲と居る。
「わたしと此之葉も行く。 此之葉いいか?」
問われ、コクリと首肯する。
「領主はここでお待ちください」
「いや、紫さまの気がいつこちらに向かわれるとも限らん。 その時にはすぐにでも出向く」
「ですが・・・」
「私のことは構うな。 此之葉行くぞ」
ソファーから立ち上がると、着物の裾を翻して一歩を出した。
どうしたものかと目線をかわすが、領主には運転手が必要だ。 此之葉もいる。 醍十が領主と此之葉の後に付くと悠蓮が阿秀に連絡を入れる。
『分かった。 では、領主の仰るようにしてくれ』
阿秀の返事は即座に端的だったが、続いた言葉があった。
『昨夜と同じく悠蓮と野夜、湖彩がこちらに来てくれ。 若冲と梁湶はその場に残れ、 醍十はすぐに帰す』
長期戦になるかもしれないと見たのだろう。 二十四時間、若しくは十二時間二交代制で紫揺の周りを固めるつもりらしい。
「了解」
悠蓮がスマホを切ると残っている者にその旨を伝えた。
「了解」
四人が応え、悠蓮に続いて野夜と湖彩が車に向かった。
しばしの間、梁湶と若冲がゆっくりと出来る。
三人を見送った梁湶と若冲。 領主の前では何ともない顔をしていた二人だが、一人は筋肉痛に見舞われている。
「痛ッター」
「情けない」
「言うな。 どれほど紫さまに惑わされたかお前は知らないんだからな」
痛さと戦いながら気だるげに、そっとソファーに身を置いた。
「運動不足だろう」
「それもあるかもしれんが、いや、あるだろう。 自覚はしている。 だが、あの紫さまの動きには到底ついて行けなかった。 それなのについて行こうとするからこんなことになった」
「早い話、運動不足なんだろう」
「それ以上言うとぶっ飛ばす」
「それは避けたい。 ・・・なぁ、それより阿秀なんだけど」 向かいのソファーに座る。
「阿秀? 阿秀がどうした?」
「俺の知らない阿秀を垣間見た」
「どういうことだ?」
「そうだな、例えば・・・」
そう言うと、杢木との会話を話し出した。
「阿秀が “失礼” とか言って、メモを指に挟んで取り上げたんだ。 俺たちの前ではそんなことはしないのに」
それに、とその時の細かな仕草や受ける雰囲気を言った。 そしてシノ機械での嘘八百を平気でついて、いつ用意をしたのか、名刺まで用意していたということも。
「いや、あの時はそうでもしなきゃならなかったとは思うけど、どこか違うんだよな。 雰囲気というか、身のこなしというか・・・」
「ああ、そういうことか。 営業スマイルでやってただろ?」
「営業スマイル?」
たしかに、杢木はそれにやられていた。 それ以前にも。 だがそれは若冲の知るところではない。
「阿秀の手だ。 と言っても自然に出るようだがな」
「手って?」
「あれ? 何も知らないのか?」
「なんのことだ?」
「阿秀がこの地で働いていたのはホストクラブだ」
「はっ!?」
「阿秀がどこで働こうかと思っていた時に、スカウトされたらしい」
「はっ?」
「おい、よく考えろよ。 クルーザーやら車やら、俺たちの此の地の収入で買えるわけがないだろう」
確かに。 此の地の日雇いで働きながら此の地のことを知る。 若冲の収入は僅かなものであった。 その僅かな収入ですら生活費に消え、今後のことにと領土の為にと、口座に送る事さえままならなかった。
「阿秀も好き好んではホストになっていないが、収入が大きいからな。 俺たちが動けるのも阿秀のお蔭だ」
「おい、待ってくれ。 それじゃあ、クルーザーも車も女からプレゼントされたものなのか?」
「お前、阿秀を見くびるな。 阿秀がそんなものをホイホイ頂くわけがないだろう。 正当に接客をしているだけだ。 クルーザーや車なんかは、あくまでも阿秀の給料から出している。 その給料が俺たちの十倍百倍だってことだ」
「は?」
「阿秀ならそれくらい出来るだろう?」
「阿秀なら出来るって・・・その、もしかしてアンナことやコンナことも?」
「馬鹿か。 阿秀は小手先なんか使わない。 阿秀がそこにいるだけで客が寄ってくるんだよ」
「は?」
「阿秀は身のこなしが柔らかい」
「ま、まあ確かに」
「気遣いが出来る」
「ああ、俺たちでは比べ物にならない程にな」
「それに、頭の回転も早ければ記憶力もいい。 此の地で言うところの、男前だ。 背も高くてスレンダー」
「・・・」
今聞いた全てにおいて、自己嫌悪に陥りそうなところを何とか無言でくい止める。
「ホストと言っても阿秀にその気はない。 客が阿秀のしたことを自分にだけしてもらえていると勝手に思っているだけだ。 だから阿秀目当ての客が増える。 イコール月給が俺たちと雲泥の差になる。 まぁ、阿秀も営業用と・・・っていうか、俺たちと、俺たち以外とで区別しているようだがな」
「どうしてそこまで詳しいんだ」
「あ・・・」
「吐け」
「いや・・・阿秀の収入がいいから、俺もと思って阿秀に頼み込んで・・・行った」
「は!?」
「その日の途中で辞めたけどな」
「堪え性のない」
「言うか!?」
「でも、それじゃあ、それだけ客が集まるなら、同じホストから嫌われるだろ?」
成績の世界だ。 疎んじられているのではないかと言っている。
「お前は阿秀を嫌ったことがあるか?」
「・・・ない」
「だろ? 阿秀は女だけじゃなく男さえも自分の懐に入れられるんだよ」
その言いようはどうだろうか。 色んなことを考えてしまうではないか。
「醍十は・・・醍十はその事を知っているのか?」
「さあ? 俺は此の地の金銭的なことを任されているから、阿秀から聞いたが、醍十が知っているのかどうかは知らない。 領主は根本的にホストなんて言葉も知らないけどな」
「・・・醍十には出来れば言わないでくれ」
自分だけでもこれだけ衝撃を受けたんだ。 醍十が知ってしまえば、心打ち砕かれて領土に帰ってしまうだろう。
シノ機械の二階で笑いを抑えたことを思い出す。 阿秀が嘘八白を並べ立てていた。 若冲と此之葉のことを秘書と言っていた。 それに名刺を出したタイミング。 醍十が聞いたら、パニックを起こすだろう、そう思った。
ああ、それにと思う。 阿秀が自分たちのよく知らないアパレルなどと言ったのは、そこからの情報だったのかと。
梁湶は書類系に長けていたから、派遣で会社に勤めたが、他の者は特に秀でるものはなかった。 だから日雇いやバイトだった。 それで日銭を稼いで此の地のあれこれを知った。 多分、父親も祖父もそうだったのだろう。 領土とは全く違う世界だったのだから。
「特にアレコレと言う気はないが、どうしてだ?」
「醍十が・・・ショックを受けるだろう」
「あ・・・有り得るか」
「俺も少なからずともショックを受けている」
「止めろ。 阿秀はそういう風ではない」
「ああ、分かっている・・・」
「阿秀も休めばどうか?」
醍十が領主と此之葉を運んできた。 その醍十にホテルに帰って身体を休めるようにと阿秀が言っていたときに、領主が言ったのだった。
「いいえ、私は何ともありませんので」
そう領主に言うと再び醍十に向き直った。
「梁湶と若冲とともに、明日か今晩からこちらを頼まねばならん。 それまで休憩しておいてくれ。 此之葉のことは私がみる」
領主も見るということだ。
「阿秀はまともに寝てもいないんだろぉ?」
「北からのことはこれから悠蓮と野夜と湖彩に任す。 私は此之葉に付くだけだ。 知れている」
「領主、どうしましょう」
助けを求めるように領主を見た。
「阿秀、身体を壊してからではどうにもならん。 一旦休んではどうか」
「・・・はい。 では車で仮眠をとらせてもらいます」
領主から二度まで言われてしまえば、これ以上は否とは言えない。 醍十が車で帰っても、悠蓮たちが乗って来た車が後に残る。
「それじゃあ阿秀が仮眠をとってる間は俺が此之葉を見る。 阿秀は野夜たちの乗って来た車で仮眠をとるといい。 俺は充分寝たからな」
寝坊さえしたのだから。
領主と此之葉が少ししたら車に戻ることは分かっている。 こんな所でいつまでも立っているわけにはいかないのだから。 その二人が後部座席に座っているのに、おちおち運転席か助手席で仮眠など取れるはずがない。
シートも倒してゆっくりすると良い、醍十はそう言っているのだ。
「・・・では、そうさせてもらうか」
醍十なりの気の使い方に甘えることにした。
「ああ、此之葉のことは心配しなくていいぞぉ。 なんたって今朝は一人で朝飯が食えたんだからな」
「一人ではないぞ。 私もいたが、私の用意までしてくれた。 な、此之葉」
此之葉が恥ずかしそうに俯くが、阿秀は何のことやら意味が分からない。
机に突っ伏していた紫揺が顔を上げた。
「あ・・・あのまま寝ちゃったんだ」
疲れてはいたが、海水に浸かった身体を洗いたかった。 重たい身体を動かすとシャワーを浴び着替え、電気を消すだけ消して、そのまま座り込んでしまったのだった。
しばしボーッとしてからテレビを点けた。 ワイドショーが映し出された。 チャンネルを変えるが、さしてどこも変わらないし、紫揺に何か見たいものがあるわけでもない。 ゆっくりと立ち上がると、部屋の奥にある洗面台で歯を磨いた。 顔を洗おうと石鹸を手に取った時、花の名前が浮かんだ。
「雪中花」
アマフウの香りの元となる花の名。
「アマフウさんともっと親しくなっていればよかったかな。 それにトウオウさんの傷どうなったかな」
セキとニョゼと分かれたのはもちろん辛い。 だが、中途半端で放り投げてきたことは、トウオウの傷を作ったまま放り投げてきたことは責任逃避でしかない。 鏡の中の自分を見る。 右の頬、そこに手を当てる。 トウオウが唇を重ねたその頬。
「合格だって言ってくれた」
だけどそれはアマフウとのこと。 トウオウとのことではない。
「怪我させた相手に合格って言ってくれた。 でもほかに何か言って欲しかったな」
それは贅沢だろうか、と自分の顔をよくよく見る。
「そう思うこと自体、責任逃避なのかな」
石鹸を手に取ると顔を洗った。
部屋に戻ってくると、隅にシノ機械に持って行っていた鞄が置いてあるのが目に入った。
「あ・・・昨日は気付かなかった」
机の上にあった表札には気付いていたが。
座って鞄の中を見る。 家の鍵が抜かれている以外、鞄は何事もなかったかのようにあの日のままだ。
「あの人が持ってきてくれたんだ」
昨日話した女の子、此之葉が紫揺のロッカーから家に持ってきてくれたのだろう。
「昨日、冷たい言い方をしたな・・・。 それに戸を開けてくれた人にも随分と意地悪な態度をとった」
アマフウとトウオウの顔が浮かぶ。
「あとで悔いても仕方が無いのに・・・」
――― 悔いるぐらいなら。
「話は聞かない。 でも非礼は謝ろう」
会うチャンスはあるはずなのだから。
『我らが北の者から藤滝紫揺さんをお守りいたしますことをご了承ください』
あの時、阿秀が言っていた。 とは言っても紫揺は阿秀ではなくセノギモドキと名付けているが。
グゥ~っとお腹が鳴った。 結局、昨日は早朝に杢木親子と朝食を取っただけであった。
杢木は坂谷が紫揺に昼食をとらせているだろうと思っていたが、そんな時間は坂谷には無かった。
「取り敢えず、何か買いに行こう」
冷蔵庫の中に食べられるものなど残っていないだろうかと一応冷蔵庫を開けてみた。 スッキリと整理されていて、ラップをかけていた残り物など無かったし、今すぐ食べられるものもなかった。
「冷蔵庫の中・・・整理してくれたんだ」
あの時のままだったら、冷蔵庫の中で沢山のカビが生えていただろう。
意外に几帳面な醍十である。
鞄の中から財布を取り出し立ち上がった。
「あ、その前に」
昨日脱いだものを洗濯機に放り込む。 買い物に行っている間に洗濯機が働いてくれる。
外に出ると昨日は気付かなかったが、会社に置きっぱなしになっていたはずの自転車が置かれていた。
攫われた時は会社の自転車を使っていた。 紫揺が通勤で使っていた自転車は、駐輪場に置いていた。
「鍵・・・」
玄関の中に入ってみると、下駄箱の上に自転車の鍵が置かれていた。 後輩が誕生日の時にプレゼントしてくれたストラップがついた鍵。 夕べはこれにも気づかなかった。
鍵を握りしめる。 何もかもあの時と一転してしまった。 頬に二筋の涙が落ちる。 鍵を握りしめたまま座り込んだ。
「紫さま・・・」
紫揺が玄関を開けた時に緊張を走らせた悠蓮。 戸が開けっぱなしにされた紫揺の姿を陰から見ていた。