大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

虚空の辰刻(とき)  第152回

2020年05月29日 23時51分24秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第152回



満腹になった六人が筋肉痛でギクシャクしながらも領主の部屋に戻ると、此之葉が領主が向かい合ってソファーに座っていた。

「領主、今から我々が阿秀と交代してきます」

悠蓮が言った後ろに野夜と湖彩が控え、少し離れて醍十、梁湶、若冲と居る。

「わたしと此之葉も行く。 此之葉いいか?」

問われ、コクリと首肯する。

「領主はここでお待ちください」

「いや、紫さまの気がいつこちらに向かわれるとも限らん。 その時にはすぐにでも出向く」

「ですが・・・」

「私のことは構うな。 此之葉行くぞ」

ソファーから立ち上がると、着物の裾を翻して一歩を出した。

どうしたものかと目線をかわすが、領主には運転手が必要だ。 此之葉もいる。 醍十が領主と此之葉の後に付くと悠蓮が阿秀に連絡を入れる。

『分かった。 では、領主の仰るようにしてくれ』

阿秀の返事は即座に端的だったが、続いた言葉があった。

『昨夜と同じく悠蓮と野夜、湖彩がこちらに来てくれ。 若冲と梁湶はその場に残れ、 醍十はすぐに帰す』

長期戦になるかもしれないと見たのだろう。 二十四時間、若しくは十二時間二交代制で紫揺の周りを固めるつもりらしい。

「了解」

悠蓮がスマホを切ると残っている者にその旨を伝えた。

「了解」

四人が応え、悠蓮に続いて野夜と湖彩が車に向かった。

しばしの間、梁湶と若冲がゆっくりと出来る。
三人を見送った梁湶と若冲。 領主の前では何ともない顔をしていた二人だが、一人は筋肉痛に見舞われている。

「痛ッター」

「情けない」

「言うな。 どれほど紫さまに惑わされたかお前は知らないんだからな」

痛さと戦いながら気だるげに、そっとソファーに身を置いた。

「運動不足だろう」

「それもあるかもしれんが、いや、あるだろう。 自覚はしている。 だが、あの紫さまの動きには到底ついて行けなかった。 それなのについて行こうとするからこんなことになった」

「早い話、運動不足なんだろう」

「それ以上言うとぶっ飛ばす」

「それは避けたい。 ・・・なぁ、それより阿秀なんだけど」 向かいのソファーに座る。

「阿秀? 阿秀がどうした?」

「俺の知らない阿秀を垣間見た」

「どういうことだ?」

「そうだな、例えば・・・」

そう言うと、杢木との会話を話し出した。

「阿秀が “失礼” とか言って、メモを指に挟んで取り上げたんだ。 俺たちの前ではそんなことはしないのに」

それに、とその時の細かな仕草や受ける雰囲気を言った。 そしてシノ機械での嘘八百を平気でついて、いつ用意をしたのか、名刺まで用意していたということも。

「いや、あの時はそうでもしなきゃならなかったとは思うけど、どこか違うんだよな。 雰囲気というか、身のこなしというか・・・」 

「ああ、そういうことか。 営業スマイルでやってただろ?」

「営業スマイル?」

たしかに、杢木はそれにやられていた。 それ以前にも。 だがそれは若冲の知るところではない。

「阿秀の手だ。 と言っても自然に出るようだがな」

「手って?」

「あれ? 何も知らないのか?」

「なんのことだ?」

「阿秀がこの地で働いていたのはホストクラブだ」

「はっ!?」

「阿秀がどこで働こうかと思っていた時に、スカウトされたらしい」

「はっ?」

「おい、よく考えろよ。 クルーザーやら車やら、俺たちの此の地の収入で買えるわけがないだろう」

確かに。 此の地の日雇いで働きながら此の地のことを知る。 若冲の収入は僅かなものであった。 その僅かな収入ですら生活費に消え、今後のことにと領土の為にと、口座に送る事さえままならなかった。

「阿秀も好き好んではホストになっていないが、収入が大きいからな。 俺たちが動けるのも阿秀のお蔭だ」

「おい、待ってくれ。 それじゃあ、クルーザーも車も女からプレゼントされたものなのか?」

「お前、阿秀を見くびるな。 阿秀がそんなものをホイホイ頂くわけがないだろう。 正当に接客をしているだけだ。 クルーザーや車なんかは、あくまでも阿秀の給料から出している。 その給料が俺たちの十倍百倍だってことだ」

「は?」

「阿秀ならそれくらい出来るだろう?」

「阿秀なら出来るって・・・その、もしかしてアンナことやコンナことも?」

「馬鹿か。 阿秀は小手先なんか使わない。 阿秀がそこにいるだけで客が寄ってくるんだよ」

「は?」

「阿秀は身のこなしが柔らかい」

「ま、まあ確かに」

「気遣いが出来る」

「ああ、俺たちでは比べ物にならない程にな」

「それに、頭の回転も早ければ記憶力もいい。 此の地で言うところの、男前だ。 背も高くてスレンダー」

「・・・」

今聞いた全てにおいて、自己嫌悪に陥りそうなところを何とか無言でくい止める。

「ホストと言っても阿秀にその気はない。 客が阿秀のしたことを自分にだけしてもらえていると勝手に思っているだけだ。 だから阿秀目当ての客が増える。 イコール月給が俺たちと雲泥の差になる。 まぁ、阿秀も営業用と・・・っていうか、俺たちと、俺たち以外とで区別しているようだがな」

「どうしてそこまで詳しいんだ」

「あ・・・」

「吐け」

「いや・・・阿秀の収入がいいから、俺もと思って阿秀に頼み込んで・・・行った」

「は!?」

「その日の途中で辞めたけどな」

「堪え性のない」

「言うか!?」

「でも、それじゃあ、それだけ客が集まるなら、同じホストから嫌われるだろ?」

成績の世界だ。 疎んじられているのではないかと言っている。

「お前は阿秀を嫌ったことがあるか?」

「・・・ない」

「だろ? 阿秀は女だけじゃなく男さえも自分の懐に入れられるんだよ」

その言いようはどうだろうか。 色んなことを考えてしまうではないか。

「醍十は・・・醍十はその事を知っているのか?」

「さあ? 俺は此の地の金銭的なことを任されているから、阿秀から聞いたが、醍十が知っているのかどうかは知らない。 領主は根本的にホストなんて言葉も知らないけどな」

「・・・醍十には出来れば言わないでくれ」

自分だけでもこれだけ衝撃を受けたんだ。 醍十が知ってしまえば、心打ち砕かれて領土に帰ってしまうだろう。

シノ機械の二階で笑いを抑えたことを思い出す。 阿秀が嘘八白を並べ立てていた。 若冲と此之葉のことを秘書と言っていた。 それに名刺を出したタイミング。 醍十が聞いたら、パニックを起こすだろう、そう思った。
ああ、それにと思う。 阿秀が自分たちのよく知らないアパレルなどと言ったのは、そこからの情報だったのかと。

梁湶は書類系に長けていたから、派遣で会社に勤めたが、他の者は特に秀でるものはなかった。 だから日雇いやバイトだった。 それで日銭を稼いで此の地のあれこれを知った。 多分、父親も祖父もそうだったのだろう。 領土とは全く違う世界だったのだから。

「特にアレコレと言う気はないが、どうしてだ?」

「醍十が・・・ショックを受けるだろう」

「あ・・・有り得るか」

「俺も少なからずともショックを受けている」

「止めろ。 阿秀はそういう風ではない」

「ああ、分かっている・・・」



「阿秀も休めばどうか?」

醍十が領主と此之葉を運んできた。 その醍十にホテルに帰って身体を休めるようにと阿秀が言っていたときに、領主が言ったのだった。

「いいえ、私は何ともありませんので」

そう領主に言うと再び醍十に向き直った。

「梁湶と若冲とともに、明日か今晩からこちらを頼まねばならん。 それまで休憩しておいてくれ。 此之葉のことは私がみる」

領主も見るということだ。

「阿秀はまともに寝てもいないんだろぉ?」

「北からのことはこれから悠蓮と野夜と湖彩に任す。 私は此之葉に付くだけだ。 知れている」

「領主、どうしましょう」

助けを求めるように領主を見た。

「阿秀、身体を壊してからではどうにもならん。 一旦休んではどうか」

「・・・はい。 では車で仮眠をとらせてもらいます」

領主から二度まで言われてしまえば、これ以上は否とは言えない。 醍十が車で帰っても、悠蓮たちが乗って来た車が後に残る。

「それじゃあ阿秀が仮眠をとってる間は俺が此之葉を見る。 阿秀は野夜たちの乗って来た車で仮眠をとるといい。 俺は充分寝たからな」

寝坊さえしたのだから。

領主と此之葉が少ししたら車に戻ることは分かっている。 こんな所でいつまでも立っているわけにはいかないのだから。 その二人が後部座席に座っているのに、おちおち運転席か助手席で仮眠など取れるはずがない。
シートも倒してゆっくりすると良い、醍十はそう言っているのだ。

「・・・では、そうさせてもらうか」

醍十なりの気の使い方に甘えることにした。

「ああ、此之葉のことは心配しなくていいぞぉ。 なんたって今朝は一人で朝飯が食えたんだからな」

「一人ではないぞ。 私もいたが、私の用意までしてくれた。 な、此之葉」

此之葉が恥ずかしそうに俯くが、阿秀は何のことやら意味が分からない。



机に突っ伏していた紫揺が顔を上げた。

「あ・・・あのまま寝ちゃったんだ」

疲れてはいたが、海水に浸かった身体を洗いたかった。 重たい身体を動かすとシャワーを浴び着替え、電気を消すだけ消して、そのまま座り込んでしまったのだった。

しばしボーッとしてからテレビを点けた。 ワイドショーが映し出された。 チャンネルを変えるが、さしてどこも変わらないし、紫揺に何か見たいものがあるわけでもない。 ゆっくりと立ち上がると、部屋の奥にある洗面台で歯を磨いた。 顔を洗おうと石鹸を手に取った時、花の名前が浮かんだ。

「雪中花」

アマフウの香りの元となる花の名。

「アマフウさんともっと親しくなっていればよかったかな。 それにトウオウさんの傷どうなったかな」

セキとニョゼと分かれたのはもちろん辛い。 だが、中途半端で放り投げてきたことは、トウオウの傷を作ったまま放り投げてきたことは責任逃避でしかない。 鏡の中の自分を見る。 右の頬、そこに手を当てる。 トウオウが唇を重ねたその頬。

「合格だって言ってくれた」

だけどそれはアマフウとのこと。 トウオウとのことではない。

「怪我させた相手に合格って言ってくれた。 でもほかに何か言って欲しかったな」

それは贅沢だろうか、と自分の顔をよくよく見る。

「そう思うこと自体、責任逃避なのかな」

石鹸を手に取ると顔を洗った。


部屋に戻ってくると、隅にシノ機械に持って行っていた鞄が置いてあるのが目に入った。

「あ・・・昨日は気付かなかった」

机の上にあった表札には気付いていたが。

座って鞄の中を見る。 家の鍵が抜かれている以外、鞄は何事もなかったかのようにあの日のままだ。

「あの人が持ってきてくれたんだ」

昨日話した女の子、此之葉が紫揺のロッカーから家に持ってきてくれたのだろう。

「昨日、冷たい言い方をしたな・・・。 それに戸を開けてくれた人にも随分と意地悪な態度をとった」

アマフウとトウオウの顔が浮かぶ。

「あとで悔いても仕方が無いのに・・・」

――― 悔いるぐらいなら。

「話は聞かない。 でも非礼は謝ろう」

会うチャンスはあるはずなのだから。

『我らが北の者から藤滝紫揺さんをお守りいたしますことをご了承ください』
あの時、阿秀が言っていた。 とは言っても紫揺は阿秀ではなくセノギモドキと名付けているが。

グゥ~っとお腹が鳴った。 結局、昨日は早朝に杢木親子と朝食を取っただけであった。
杢木は坂谷が紫揺に昼食をとらせているだろうと思っていたが、そんな時間は坂谷には無かった。

「取り敢えず、何か買いに行こう」

冷蔵庫の中に食べられるものなど残っていないだろうかと一応冷蔵庫を開けてみた。 スッキリと整理されていて、ラップをかけていた残り物など無かったし、今すぐ食べられるものもなかった。

「冷蔵庫の中・・・整理してくれたんだ」

あの時のままだったら、冷蔵庫の中で沢山のカビが生えていただろう。
意外に几帳面な醍十である。

鞄の中から財布を取り出し立ち上がった。

「あ、その前に」

昨日脱いだものを洗濯機に放り込む。 買い物に行っている間に洗濯機が働いてくれる。

外に出ると昨日は気付かなかったが、会社に置きっぱなしになっていたはずの自転車が置かれていた。
攫われた時は会社の自転車を使っていた。 紫揺が通勤で使っていた自転車は、駐輪場に置いていた。

「鍵・・・」

玄関の中に入ってみると、下駄箱の上に自転車の鍵が置かれていた。 後輩が誕生日の時にプレゼントしてくれたストラップがついた鍵。 夕べはこれにも気づかなかった。

鍵を握りしめる。 何もかもあの時と一転してしまった。 頬に二筋の涙が落ちる。 鍵を握りしめたまま座り込んだ。

「紫さま・・・」

紫揺が玄関を開けた時に緊張を走らせた悠蓮。 戸が開けっぱなしにされた紫揺の姿を陰から見ていた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第151回

2020年05月29日 22時37分17秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第151回



家じゅうの電気が消えた。

「お休みになられたようか」

三人がそれぞれに一人ごちた。

野夜が伸びをして、身体をほぐしていると一台の車が近づいてきた。 道はアスファルトではあるが、舗装工事をした後がそこここに見える。 ヘッドライトが必要以上に上下に揺れている。
咄嗟に身を隠した。 身体に緊張が走るが、悠蓮や若冲たちから聞いていたランドクルーザーではないのは分かる。

ゆっくりと止まった車のライトが消され、中から降りてきたのは長身痩躯。 街灯に照らされたのは阿秀であった。

「阿秀・・・」

緊張が一気に解け、阿秀の前に姿を現した。

「あ・・・すまん。 驚かせたか」

脱力している野夜を見て悪びれることなく言った。

「交代する。 全員ホテルに引き上げて休んでくれ。 若冲と車組も戻ってきて今頃高いびきだ」

「え? ですが、それでは阿秀が」

自分たちは僅かでも電車の中でゆっくりと出来たが、阿秀は一人車を走らせ、その後は領主と此之葉を連れていたのだ。 ずっと気を張っていただろう。

「気にするな」

言うが早いか、スマホを操るが早いか、湖彩に悠蓮を連れて表に来るように言った。

「え? 交代って?」

「それも一人でですか?」

「野夜にも言った。 気にするな」

「ですが」

三人が口を揃える。

「納得してもらえないのであれば継ぎ足そう。 私は走っていないのでな」

紫揺との早朝の逃走劇のことを言っているのは、誰にでも分かることだった。

「今日は身体を休めて明日の朝からまた頼む」

「・・・」

情けない姿を思い出すと言い返すことも出来なかった。


この日一晩、阿秀は紫揺の家に張り付いていたが、怪しい影の一つも見ることはなかった。

「諦めたのか? いや、そんな筈はない」

あれだけこちらと変わらぬ差で紫揺を攫って行ったのだ。 何十年と目を光らせていたに違いない。 それを一度逃げられたくらいで諦めるなどとはない筈。
あの早朝の逃走劇を思うと紫揺は逃げてきたはずだ。

「見失っただけか? それとも・・・」

北の領土の者の内部で思わぬことがあったのだろうか。


戻ってきていた船と車組、若冲(じゃくちゅう)、梁湶(りょうせん)と、醍十(だいじゅう)。 明日は阿秀が帰ってくるまで、梁湶と若冲には朝から領主に付いているようにと言い、醍十は朝起きた時の此之葉の面倒を見るようにと言われていた。

なのに―――。

シノ機械で働いている時にこのホテルに泊まっていて勝手が分かっているようで、もうカードキーも使えるようになっていた此之葉。 まだ寝ている醍十たちを置いて、領主と朝のご飯を食べに一階のレストランへ降りてきていた。 バイキング方式で和洋食と揃っている。

領主を座らせておいて、和食を載せたトレーを領主の前に置く。 何故か此之葉の後ろには、このレストランのボーイが立っていて同じようにトレーを持っている。 そのトレーを此之葉が受け取った。

どうも今にも折れそうな此之葉が、着物を着た祖父と旅を楽しんでいると見たのだろう。 それでは一つお手伝いを、という感じだ。

実際は醍十と何度も来ていたが、醍十の影になって此之葉が見えなかったのだろう。 それ程醍十が此之葉について回っていたということである。

此之葉がトレーを置き席につく。 トレーには領主と同じものが載っているが量が違う。 ほぼ一種類が一口分だ。

「此之葉、疲れは取れたか?」

「はい」

「そうか。 わたしはまだあの乗り物には慣れんな。 あちこちが痛む」

腰をさすりながら言っている領主を微笑んで見ている。

「食事を終えましたら、お薬を塗りましょうか?」

「いやいや。 構わん」

その様子を微笑んで見ている先程のボーイ。 隣に立つボーイが囁いた。

「今どき珍しいな」

「ああ。 身体の中に若草の風が吹いたみたいだ」

「・・・そんなこという奴だったっけ、お前って・・・」

気持ち悪そうな顔をして一歩横に離れた。


「美味しそうだな。 さて、此之葉が選んできてくれたんだ、美味しくいただこう」

「領土のような味ではありませんが」

領土の味にも素材にも、此の地の物では対抗できないと言っている。

「そこまで言ってしまうと、料理人がかわいそうだ」

領主が箸を動かすと、此之葉もニコリと微笑んで箸を手に取った。
静かに始まった食事の中、三品ほど口に入れ終わってからおもむろに此之葉が口を開いた。

「紫さま・・・どうお考えでしょうか」

「ふむ、戸惑っておられるだろうな」

「戸惑っておられるということは、否定はされていないということでしょうか?」

「紫さまの血が流れておられる。 東の領土を否定されない筈だ。 それに夕べ阿秀が言っておったように、すぐに灯りが消えなかった。 此之葉の言ったことをよくよく噛み砕いて考えておられるのではなかろうか」

「そうだといいのですけれど・・・」

「食事中に心配事をするのは身体によくない。 楽しいことを考えながら食べんとな」

出汁巻きを少し上に上げると口に入れた。

「はい」

想像上の孫と祖父の口パク会話を見ていたボーイのお尻が叩かれた。

「ぼさっとしてないで、大皿を下げてこい」

いつの間にか、ほうれん草の和え物が載っていた大皿が空になっていた。


「それにしても」

食べ終えた領主が茶をすすりながら言う。

「阿秀からは紫さまを走って追いかけてしまったと聞いたが、まさかなぁ・・・」

ホテルに着くより先に、阿秀が簡単に電話で報告を済ませていたが、醍十が阿秀と帰ってきた時、事の顛末を身振り手振りを添えて話した紫揺のサル話のことだ。
そして阿秀に此之葉の様子を見てきてくれと言われた時、醍十はしっかりと此之葉にも聞かせていた。

「ご軽捷(けいしょう)でいらっしゃいましたようで」

そういう他にない。

「まずは一番にそこを謝罪せねばならんかな」


散々朝寝坊をした六人が転がるようにして領主の部屋に入った時には、朝食を終えた領主が涼しい顔で外を眺めていた。

醍十は此之葉の部屋で「此之葉が朝ご飯を一人で食べられたー」 と、変に感動して泣いていた。

領主に気にするなと言われた寝坊組五人と醍十がレストランに向かって歩いているが、若冲を除く五人が五人とも不自然な歩き方をしている。 とくに悠蓮は腰を曲げての機械仕掛け、野夜は少々足を引きずっているようだ。

五人ともひと眠りをして、身体をぐっすり休ませたのはいいが、一晩おいて筋肉痛と打撲痛が襲ってきたのだった。

「自業自得だ。 全くとんでもないことをしでかして」

冷ややかな目で五人を見ると、梁湶と醍十、湖彩の太腿をこついて一番前に出た。

「ドゥワ!」 と、三人が声を上げた。

さすがに野夜と悠蓮には手を出さなかった。

「それにしても、紫さまはそんなに敏活に動かれていたのか?」

若冲はその姿を見ていない。

「そりゃもう・・・」

こつかれた湖彩が半分涙を流しながら続ける。

「小さくていらっしゃるから―――」
「ちょこまかと、ネズミみたいに―――」
誰だ?

「いや、サルだな―――」
誰が言った?

「ナマケモノではないのは確かだ」
相手は紫さまだぞ。

「コロコロ転がる仔パンダでもないなぁ」
最後は醍十だな。 そして全員が言ったな。

「お前ら・・・」

「そんなこと言っても、もしあの場に若冲が居たら、俺たちと同じ運命をたどってるのは間違いないんだぞ」

「あの場に居た阿秀は紫さまを追ってなどいない」

「そうだ、阿秀だ」

「どうしてあそこで阿秀が待ち構えてたんだぁ?」

「どこに行くかもわからなかったのに」

「それどころか、まず、駐車場に行ったんだぞ」

「普通、逃げるのにUターンなんかしないだろう」

よし、再度これで全員が言ったことは間違いない。 好き勝手いっている内に最後の二人においては、紫揺に対しての敬語も忘れている。

あれやこれやと後ろの五人が話しているのを聞いていた若冲だったが、急に違う方向の言葉が聞こえてきた。

「あ・・・もしかして・・・俺だ」

梁湶が言った。

「どういうことだ?」

前を歩いていた若冲が梁湶を振り返る。

「俺の書いた紫さまの報告書。 阿秀はあれを頭に入れてたんだ」

「報告書?」

全員がそれを頭に浮かべる。

(サルって書いてたっけ?) 若冲と梁湶以外の全員が頭の中で思っただろう。

「器械体操部だった。 成績優秀な」

「そんなこと書いてたかぁ?」

この口調は言わずと知れた醍十だ。

「お前・・・俺の報告書をちゃんと読まなかったな」

「右に同じ」
「その右も」
「そう言われれば、書いてあったかもしれないが・・・」

若冲は歩きながら、冷ややかな目ではなく、冷ややかな耳で聞いている。

「ったく! 信じられん。 頭に入れなかったのか!?」

「エラソーに言うな」

醍十を除く三人が口を揃えた。

「で? なんで器械体操部って知ってたからどうなんだぁ?」

醍十の質問が的を射ていないが、言いたいことは分かる。

「よく考えろよ。 あれって、紫さまのされてたことって、他のスポーツをしていたとて出来ない筈だ。 器械体操をしていなければできない事だ。 そのへんの子供・・・あ、いや、たとえ他のスポーツの経験があるからと言っても、女性には簡単に出来ない事だ」

「そう言われればぁ・・・」

これは醍十。 その後に何を考えたのだろう。 誰にも分からない。

「女性が簡単に跳ぶことなんて出来ない場面があったな」

「跳ぶどころか、仕掛けてきたところもあった」

「言われれば、あの訳の分からない四角が無造作にならんでいたところでは・・・あの四角を鉄棒のように渡ってた」

よし、醍十を除く三人が理解してくれたようだ。 梁湶が頷く。

「鉄棒は男子だ。 女子は段違い平行棒」

意外な所で若冲が突っ込みを入れるが、言われてみればそれが際立ったところがあった。

「最初の車止め。 あれって、よくは知らないが、紫さまは若冲が言うところの、その段違い平行棒に見たてられたのか?」

悠蓮が言う。

「そうかもしれんな」

答えた梁湶もまた、詳しくはない。

「でも、それがどうなんだぁ? どうして阿秀が先回りしたんだぁ?」

醍十の疑問だが、他の三人も同じだ。

「車を船着き場の駐車場に入れる前、あの場所が右方向に見えるだろう?」

道路を走ってきて駐車場に入れる時にはまず左折をする。 左折をした後、その右手に広いスペースがあり、そこの正面奥右手に建物が見える。 その広いスペースに逃走劇をした場所があった。 ちなみに、道路から左折をしてそのまま走って行って、車止めを過ぎるとまた左折をして駐車場に入れる。

「場所的に言えばそうだが、阿秀が船着場に行ったのは深夜だ。 道路から曲がる時に一瞬ライトに照らされたぐらいだろう? そんなものを見るより、曲がった先を見るんじゃないのか?」

湖彩が言う。

阿秀は領主と此之葉を寝かせてからホテルを出て来ている。 夜も遅くなって阿秀が車に向かったのを見て、六人が尾行(つ)けたのだから

「いや、領主をお連れしたときに見ていたはずだ」

深夜に阿秀が船着き場に来た以前に、一度領主と此之葉を連れて船着き場に来ていた。

「・・・そういうことか」

野夜が言う。

「どういうことだぁ?」

「だから、紫さまは身体能力に長けてらした。 それを梁湶が報告書に書いていた。 阿秀は俺らと違ってそれを頭の隅おいていた。 僅かなこともな。 領主を海にお連れしたとき、阿秀は周りの風景を頭に入れたのだろう。 その中に俺たちが紫さまを追った場所も入っている。 で、実際に紫さまが走った。 走らせてしまったというのが適切なのだろうが。
俺たちはただ、紫さまに止まっていただくことしか考えず、紫さまの後ろを追った。 だが阿秀は、紫さまが追う俺たちから逃げようとされるには、頭に置いていたあの場所を使われるのではないかと思ったんだろう。 障害物を使われるとな。
大の大人の男から、それも複数から逃げるには、平地では無理がある。 お小さい紫さまだ、それも身体能力に欠けている紫さまではない。 器械体操のことを思うと、障害物が俺たちから逃げられる一手だ。 だから障害物の先に回り込んだ」

「ふーん・・・。 野夜の説明は長いな」

「だから! 阿秀は紫さまが器械体操部であったから、あの場所を選ぶと思ったんだ」

「そうか。 んじゃ、紫さまがあの場所を選ばなかったら、阿秀は棒立かぁ?」

「・・・」

考えもしない質問だった。 ぐうの音が出なくなった野夜に代わって梁湶が言う。

「あの場面だ。 紫さまがあの場所をお選びになることは間違いなかっただろう。 それ以外の場所をお選びになっていれば・・・」

「なんだ? どうなんだ?」

「藤滝紫揺さんは紫さまではなかったかもしれない」

「どういうことだ?」

野夜が言う。

「紫さまは・・・」

「なんだ?」

「いや、俺の記憶違いかもしれない。 領土に帰って資料を読み直す」


『紫さまは為すべきことを、分かっておられる』 領土にある “紫さまの書” にそう書かれてあった。


紫揺はまだ東の領土のことも分かっていなければ、紫たるやも分かっていない。 だから『為すべき事』 というのは今の紫揺の為すべきことということだろう。 決して東の領土の紫としてではないが『為すべきことを、分かっておられる』 なのだろう。 それがあの障害物が置かれていたスペースを選んだ。

「なんだよそれ」

「・・・にしても、やっぱり阿秀は食えんな」

野夜が言う。

「だから食いたかないって」

湖彩が言った。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第150回

2020年05月25日 22時25分13秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第150回



返事がない。
もう一度ノックをする。
くぐもった声が聞こえた。

更にノックをする。

「どなたですか?」

今度はハッキリと聞こえた。

「遅くに申し訳ありません」

可愛らしい女の声だった。 家の中の玄関の灯りが点くと鍵を開ける音がし、引き戸が開けられた。

「藤滝さんのお宅でしょうか?」

リクルート姿の市松人形のような女の子が立っていた。 話し方は見た目と違って随分と落ち着いている。

「あ・・・はい」

「紫揺さんはいらっしゃいますでしょうか」

分かっていて敢えて訊く。

「紫揺は私ですか・・・」

此之葉が深々と頭を下げた。

「え? なんですか?」

「此之葉と申します。 藤滝さんにお話を聞いていただきたく参りました」

頭を下げたまま口上を述べる。

「え? それって・・・」

東西南北の人? そう言いたかった。

「偽の手紙を出したのは私です」

手紙と言われて思い出すのは、坂谷と佐川が言っていたことだ。

「どうして・・・」

「佐川様に要らぬご心配をかけぬ為でした」

「どうしてあなたが佐川さんのことを知ってるんですか!?」

声が荒れる。

「私は東の者です」

下げていた頭を上げるとそう言った。

「また!? またそんなことを言うんですか! 東とか北とかって! 私には関係のない話! 帰って下さい!」

戸を閉めようとした。

「シノ機械の方々によくしていただきました」

「え?」

唐突に言われた短いながらも務めていた会社名。 すっかり忘れていた。

「皆さん藤滝さんの身を案じておられました」

「どうして知ってるの?」

「ご説明させていただきます」

一呼吸置いて口を開きかけると紫揺がそれを止めた。

「中に入って下さい」


領主が陰から紫揺の声を聞いていた。 その隣には阿秀、後ろには野夜が立っている。

「此之葉、上手くやってくれますかね」

「どうだろうか・・・」

紫揺の憤りを誰よりも知っている阿秀。 簡単にはいかないであろうことは想像が出来る。

「かなりお怒りのようだな・・・」

今の紫揺の声を聞いた領主が言う。
紫揺の怒りは想像以上であった。


家の中では此之葉が紫揺に聞かせていた。
紫揺が攫われた日、紫揺を迎えにシノ機械の二階に自分たちは居た。 二階から紫揺が攫われるのを見て追ったが追い切れなかった。

紫揺が急に居なくなってしまえば、シノ機械が捜索願を出すかもしれない。 そうなることを東の領土は望んでいない。
紫揺は急遽郷に帰ったということにして、その代理として此之葉が仕事に就いた。
会社で紫揺の話を耳にするのは社員のみならず、社長も紫揺が元気にやっているのだろうかと案じていた、と。

「ちょっと待って下さい」

話しに納得がいかない紫揺。

玄関の中には入ったが、此之葉は靴も脱がず話している。 紫揺が玄関の上がり口の板間にいたからだ。

「はい」

「どうしてあなたが私の代わりに勤めなくちゃならなかったんですか? 急遽郷に帰ると言ってしまえばそれだけでいいことじゃないですか」

「藤滝さんの後を濁したくなかったからです」

「どういう意味ですか?」

「藤滝さんが居なくなることで、ご迷惑をお掛けすることの無いようにということです」

「じゃ、あなたはまだシノ機械で働いているんですか?」

「ハローワークでとても良い方にお会いしました。 その方に後を引き継いでいただきました。 社長も社員の方々とも上手くやっておられましたので、そちらへのご心配には及びません」

「そ・・・そうなんだ。 じゃ、偽の手紙のことは?」

「そちらも同様で、捜索願を出されては困るということもありましたが、先ほど申しましたように、佐川様にご心配をお掛けしないためです」

「あなた達・・・その、東? 私を攫ったんじゃないのに、どうしてそうまでするんですか?」

「私のしたことへのご説明は私からさせていただきますが、領土のことになりますと領主からお話しを聞いていただきたく思います」

「また領主・・・」

聞き飽きた代名詞、溜息交じりに言う。

「お会いになっていただけませんか?」

「北っていう所で話は聞きました」

「・・・」

「北とか東って、実際にそんなものがあるなら、領土の抗争でもしてるんですか?」

「北と東だけではありませんが、実際それぞれに領土は御座います。 抗争と言われると少し困ってしまいますが。 藤滝さんが行かれたのはあくまでも北の領土です」

「そう言われたからって、信じられると思いますか? 単に北とか東って言って、私を攫う手段を変えただけなんじゃないですか?」

「決して、私たちは攫うというようなことは御座いません。 そのようなことをすれば、藤滝さんが悲しまれるだけです。 私たちはそんなことを望んでおりません」

「・・・仰りたいことは分かりました。 でもそれを信じたわけではありません。 お帰り下さい」

自分では駄目だったか、視線を落とすと深く一礼し 「お話を聞いて下さり有難うございました」 と言い、踵を返した。

戸に手を添え開けかけた時

「あ、ちょっと待って下さい。 あと一つ訊きたいことがあります」

「はい」

戸から手を外すと紫揺に向き直った。

「この家ですけど・・・」

どう訊いたものかと、次の言葉が出てこない。

「勝手なことをして申し訳ありません。 藤滝さんのお荷物で、窓に映る物は見えない所に移動させていただきました。 佐川様にお手紙を出したと同様に、どなたかが藤滝さんの後を追われないようにとしたことです。 会社を辞められた藤滝さんが家に居られると思って、訪ねて来られては困ります。 ですので、私たちがこちらに新たに入居したことにしておりました」

「佐川さんが訪ねてきたって・・・」

「はい、お手紙を出したものの、ご心配をされてこちらをお訪ねになられましたので、もう一度お手紙をお出ししました。 そして応対に出たのは私たちです」

先ほどから東の者とは言っていない。 紫揺がその言葉を嫌っているのが分かったから。

「家賃は?」

「勝手なことをして申し訳ありません。 こちらでお支払いさせて頂いております」

「どうしてですか? 言ってみれば、その、そこまでする必要がどこにあるんですか? 家賃など払わずに、怪しまれないようにするのなら、私に代わって解約をすればいいだけじゃないですか」

「藤滝さんが帰ってこられる場所を無くすなどと、そのようなことは考えておりません」

どういうことだ。

「・・・引き留めてごめんなさい。 どうぞお帰り下さい」

再度深く頭を下げると、今度こそ戸を引き紫揺の前から姿を消した。
引き戸の型板硝子に映り去っていく此之葉の影を目にしながらその場に座り込んだ。

「・・・何がどうなってるの」

此之葉が最後に言った 『藤滝さんが帰ってこられる場所を無くすなどと、そのようなことは考えておりません』 それは、紫揺が帰って来る場所を保持しておくという意味だ。
北にそんな考えは微塵も見えなかった。

「・・・ああ、何を考えてるんだろ。 手を変え品を変えに決まってる。 うん、あの人が言ったことは、東っていう所がやったんじゃなくて、北がしたに決まってる」

自分の知らない所で北とか東とかと言ってムロイがしたのだろう。

でも、と思う。

「セッカさんが北の領土に連れて行くと言ってた」

朝早くにシユラを北の領土に連れて行くと言ったのだから、島からの脱出を決心したのだから。

「それも罠?」

二重三重の。
いや、どうしてそんな罠を仕掛ける必要があるのだろうか。 

「私が機嫌よく北の領土に行くために心情に訴えた罠?」

今までのことを思うとそれは考えられないが・・・。

「どうしたらいいんだろ・・・」

何を考えればいいんだろ、どう考えればいいんだろ。

「疲れた・・・」

新幹線でも再度寝入った紫揺だったが、それだけでは十分に心身共の疲れは取れなかったようだ。


「どうだった?」

家の中から呼ばれることを期待していたが、結局呼ばれなかった領主が此之葉に問う。

「申し訳ありません。 私では力不足でした」

「・・・そうか」

領主が顔を下げると次に「どうしたものか」 と言ったが、それを打ち消すように阿秀が言った。

「いえ、そんなことは無いかもしれません」

領主も此之葉も集められた三人も阿秀を見た。

「此之葉が役不足であれば、玄関の電気は消されているはずです。 腹立たしいことを言われては怒りに任せてすぐに灯りを消すでしょう。 ですが今も点いています」

全員が紫揺の家に目を向けた。 灯りに映るその影が沈んだのを目にした。

「すぐには無理かもしれない。 だが此之葉の言ったことが、紫さまのお心に何かを残したのは間違いない」

此之葉を見て言う。

「そうかもしれんな」

灯りを見ながら領主も言うと、そうであれば良いのですが、と言いたげに此之葉がずっと灯りを見ている。

「今日のところはこれで引きましょう。 車をまわしてきます」

此之葉も領主も疲れただろう。 二人とも電車や車など乗り慣れていないのだし、駅で何時間も阿秀を待っていたのだから。

「そうだな」

やってきた車に乗り込んだ領主と此之葉。

「何かあったらすぐに連絡をくれ」

運転席の窓から顔を出した阿秀がそう言い残して車が去っていった。

二人が持ち場に戻り悠蓮が陰に隠れた。 野夜が悠蓮も連れ帰ってほしいと言いかけたのを、悠蓮自身が止めた。


玄関に座り込んでいた膝をゆっくりと立て、半分ほど立ち上がった時、ある事に気付いた。

「え・・・」

先程の此之葉の言葉が思い出されたのだ。

「たしか・・・」

『どうしてあなたが私の代わりに勤めなくちゃならなかったんですか? 急遽郷に帰ると言ってしまえばそれだけでいいことじゃないですか』

その前に言っていた言葉を思い出した。

『藤滝さんは急遽、お郷に帰られたとお伝えしました。 そして、時折、藤滝さんからお仕事のお話を聞いていたということで、私が代理としてお仕事に就きました』
そう言っていた。

立ち上がり急いで和室に入ると、しまい込んでいたレポート用紙を出す。 早季の日記で分からないことが多かった。 それを書き写していたレポート用紙。

奥の和室に座り込む。 机の上には藤滝と書かれた表札が置かれていた。

≪お郷に帰る、その道が分からなかった≫

「お郷・・・」

北の領主からは一言も聞いていない言葉。 だがこれは間違いなく母親である早季の日記の書き写しだ。 それに会話をしていた記憶がある。
早季が紫揺にお爺様とお婆様の話を覚えている? と訊いた時だ。 その時に紫揺の知っている祖父と祖母の話をしたら、新たに教えてくれた。

『お婆様はお郷に帰ることだけを夢見ていらっしゃったのよ。 お爺様と一緒にお郷にね。 そしてお爺様はお婆様をお郷に帰してあげたいと、時折寂しそうに言ってらしたわ』 と。

「お母さんの言ってたお郷って・・・」

東の者と言った者達の領土のことなのか?

「そう言えば・・・」

ムロイからは、北の領土はお婆様である紫と紫揺が『行く筈だった所』 とか『来て頂きたいところ』 と聞いていた。

二行上に書かれている所に目を移した。

≪私もそこで生まれるはずだったのにね・・・≫
≪お婆様たちのお郷に帰りたかった。 お婆様のお郷に行くんじゃなくて、帰りたい≫

「行くんじゃなくて、帰りたい・・・」

『急遽、お郷に帰られたと・・・』 もう一度、此之葉の言った言葉を思い出す。

他に書いてあることを読んだ。

≪夕べ、早季さんと紫揺さんは違うんです、と十郎さんに言われてしまった。 早季さんは私が守ります。 でも紫揺さんの身にこれから何があるかわかりません。 紫揺さんですよ。 もしかすると迎えがあるかもしれません。 とまで・・・。 お母様にお迎えが無かったのに、紫揺さんにあるのかしら・・・≫

「迎えって・・・あの人達の事?」 

そう言えば言っていたような気がする。

『紫揺が攫われた日、紫揺を迎えにシノ機械の二階に自分たちは居た』 と。
迎えに来たと言っていた。

レポート用紙から目を外していたが、再び続きを読み始めた。

≪私は淡く見えただけなのだから。 十郎さんに相談したら、きっとそうでしょう。 見間違いではないでしょう。 でも、自信が無いのであれば、お義母さんが仰っていた『紫揺』 と言う方の名を付けようと十郎さんが言う。 でもはっきり見たのではないのですから。 そう言ったのだけれど、その時の為にお義母さんが考えられた名でしょう? 冷静に十郎さんが言った≫

「自信がない? はっきりと見たのではない? 紫揺って、紫が揺れるって書く。 お婆様と同じ名前の紫が私に揺れて見えた? それで紫が揺れるって・・・」

その紫とは何であるのだろうか。

≪私たちは守る人間でもあるけれど、紫揺さんの親でもあるんですよ≫

「お父さんとお母さんは守る人間・・・私は守られる人間」

写し書きをしている時には親ならば子を守るというのは、ある意味当たり前と思っていたけれど、よくよく読むと ≪守る人間でもあるけれど≫ “けれど” それは守る人間の立場と別の立場があるということだ。 ≪紫揺さんの親でもある≫ “親でもある” “も” 守る人間と親と二役あると書いているのではないのだろうか。

親ならばそのどちらも含んでの一役の親であって、二役ではないはずだ。
両親は紫揺の親である。 親として紫揺を守る。 それと別な立場で紫揺を守っていたということだろうか。

チラリとあのセノギモドキがいやにご丁寧だったことを思い出す。
自分が考えたことに当てはめると、今まで分からなかったことが、絡んでいた糸がするすると解けていくような気がする。 だが全てを解く気にはなれない。

セノギモドキもそうだったが、セノギもニョゼも丁寧に接してくれていた。 ニョゼには守られていた。 まだ分からない。 完全に解ける前に糸を締め直した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第149回

2020年05月22日 22時48分45秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第149回



セッカがショウワの部屋に入った。

「ムラサキ様が!? 間違いはないのか?」

セッカから渡された丸薬が効いたのか、熱が下がりセッカと話が出来るまでに回復をした。

「屋敷中を探しましたわ。 何よりトウオウが見ていたようで、トウオウもそんな嘘をつく必要などありませんので」

マツリとの話を報告し終え、その紫揺が島から居なくなったと言ったのだ。

「トウオウは止めなかったということか」

「アマフウが止めたみたいですが、トウオウはまだ身体が十分ではないと申しておりましたわ」

「ムラサキ様が出て行かれた後にでも、誰なとに言わなんだのか」

「ムロイが居ればムロイに言ったかもしれませんが。 あのへそ曲がりのトウオウとアマフウですからムロイが居たとて、どうしていたかは分かりませんわ。 過ぎたことを言っても詮無いことですわ。 どう致しましょう」

「どうもなにも・・・ムラサキ様が居られなければどうしようもない」

「どこかに逃げてしまったとでもマツリ様に言いますの?」

「・・・」

「なにより此の地のことが分かってしまいますわ。 ムロイが言っておりましたの、シキ様がムロイを視た時にムラサキ様の居所が分からなかったそうですの。 此の地は本領も知らない地なのではないでしょうか」

洞窟を抜けただけで全然違う世界がある。 それをショウワは肌で分かっていた。

「知らないどころか有り得ん地なのじゃろう。 じゃからシキ様が視られなかったのじゃろう」

「どう致しましょう」

再度訊いた。

「ムロイはどんな具合じゃ?」

「わたくしが駆け付けた時より悪くなってしまいました。 マツリ様に言われて、薬草師を変えたのですけれどその後どうなったかは。 ですがここへ戻る途中でセノギと会いましたから、セノギが見てくれていると思いますわ」

「ああ、セノギがムロイと話をするといっておったが、その様子では簡単に話が進みそうにないかもしれんな。 ムロイは何か言っておらなんだか?」

「珍しく北のことを感慨深く言っておりましたわ。 民や薬草師がムロイのことを気遣っていたようで、それが心に沁みたのかもしれませんわ」

馬車に同行していたが、休憩に入る度に民がムロイの様子を案じながら薬草師に聞いていた。 虚ろながらもそれを耳にしていたのだろう。

「・・・わしが行こう。 わしがマツリ様と話をする」

セノギから聞いたその昔に北が行った愚行。 そしてその考えに翻弄されていたとマツリに言ったセッカ。 此の地のことはうまく伏せて言ったようだが、セッカは紫揺を伴ってマツリに会い、マツリを通じて紫揺を東に帰すつもりだったようだ。

マツリがムロイにずっとムラサキを隠していたと言ったようだったからだ。 いくらなんでもそれは誤解だと言い、紫揺は偶然に見つけただけだと言い切ったようだ。

だがそんなことで引くマツリではない。
シキが出てくる前に話を終わらせたい。 どこまで此の地のことを隠し通せるかは分からないが。

「ショウワ様、まだそのお身体では」

セッカの後ろで話を聞いていたニョゼが言葉を挟んだ。

「もう老いぼれじゃ。 最後の最後に北の領土の役に立ってもよかろう」

「最後などと、何を仰います」

「そういうことじゃ。 セッカ、お前はどうする? ムロイが心配か?」

「ええ、勿論ですわ。 ですがムロイもセノギもいない、ましてやショウワ様まで屋敷を空けられるのでしたらここに残りますわ。 キノラも仕事のことで何かあったらしくて、追われているようですから」

そう言うと後ろに立つニョゼを振り仰いだ。

「ニョゼ、ショウワ様に付いて行ってもらえるかしら?」

「心配など要らん。 なんともないわ」

なにより、影たちがいる。

「そうはいきませんわ。 病み上がりですのに。 わたくしが鬼と呼ばれてしまいますわ」

ニョゼに同行するよう頷いてみせ「それでは失礼いたしますわ」と言って部屋を出て行った。

結局、この日この地を出られなかったセッカ。 挙句に何もかもをショウワに任せ、その補佐にニョゼがつくこととなった。

「ショウワ様、どうしても明日行かれるのですか?」

「ああ。 薬がよく効いた。 たしか薬草師が作ったと言っておったな」

「はい。 セッカ様が頂いて来られたと」

「熱さましだけでは、此の地の薬の方が上であろうが、それだけではないものを感じるわ。 やはり身体は正直というのじゃろうな」

そう言えば、とニョゼが気付いた。 熱が下がり目覚めた時より随分と良くなっている。 それも目覚めた時には、まだセッカと話せるほどには無かったというのに。 熱が下がってからも段々と良くなってきているようだ。

「北で作ったお薬の方が良く効くということでしょうか」

「そうじゃろうな。 身体がなじんでおるんじゃろう」

具合がよくなったのなら食事をとって欲しい。

「それでは、お食事を召し上がられませんか?」

「ああ、そう言われれば腹が減っておるな」

「お作りしてきます」

ニョゼが部屋を出てドアが閉められ、続いて続き部屋になっているドアも閉められた気配がする。

「心配をかけたなケミ」

ドロリと影が歪みショウワから離れた所で人型をとった。 人型は片膝をつき、もう一方の足に腕を乗せている。

「大事ございませんか?」

「ああ。 それよりムラサキ様のことは知っておったか?」

斜め横に姿を現したケミに顔を向けて問う。

「いいえ。 カミがムラサキさまが見当たらないとは言っておりましたが、まさか島を出ておられたとは。 吾の不覚です」

「いや、わしがムラサキ様に付いておけと言わんかったからじゃ。 ムロイが居ないことで安心しておったのが仇となったわ。 そうか、では今のムラサキ様の居所は誰にも分からんということか」

ケミから目を外すと前を見た。

「・・・」

「わしももう、限界じゃ。 わしの力では、ムラサキ様が相当のお力を出されん限り追えん。 もうそんなことはないじゃろうからな。 ムラサキ様を追うことは出来んじゃろう」

「・・・」

「・・・夢を見た」

どこを見ることなく語りだした。

「先代と暮らしていた時の幼い頃の夢じゃ。 ケミには信じられんかもしれんが、わしにも幼い頃があった。 ・・・先代は厳しいお人じゃった。 古の力を叩きこまれた。 ・・・そして今お前たちがいる」

「・・・」

古の力を叩きこまれて吾たちが居る? どういう意味なのだろうか。

「お前たちの・・・。 いや、今はやめておこう。 ・・・ハンは動けるか?」

「体が鈍ると言っておりましたが、少なくともまだ膝が十分動かせるようではありませんし、ハンが強がっているだけにも思えます。 カミによりますと最近は食をあまり摂りたがらないようです」

「そうか・・・せめて、領土の入り口までは歩けるか?」

「ハンを領土に行かせるのですか?」

「可能ならな」

「吾とカミが肩を貸せば、入口までなら歩けると思います」

「そうか。 じゃが、それは出来んじゃろうな」

カミとケミがハンに肩を貸すと、ハンの身体が沈み込んでしまう。 背丈が違いすぎる。 歩くどころではないだろう。

「ハンを置いていくにも助ける者がいるか・・・。 では明日ケミも領土に戻れ。 カミにはハンについているように言っておいてくれ」

「仰せのままに」

続き部屋のドアの開く気配がした。



西から今にも沈みそうな夕焼けが射している。 ご近所さんから美味しそうなカレーの匂いが漂ってきた。
自分の家の前に立っている。
表札が無くなっている。

「当たり前だ・・・」

家賃を払っていなかったのだから。

佐川にはああ言ったが、その場だけの言い逃れだった。 それに自分の考えに何の確信があったわけではないし、もう知らない誰かが住んでいてもおかしくはないのだから。

それによくよく考えた。 あの日、鍵をかけて家を出たのだ。 今、鍵は持っていない。 仮に持っていたとしても、他の人が住んでいるのなら不法侵入になってしまう。

玄関の前で頭を垂れることしか出来なかった。
と、誰かが横を通ったのが目に入った。 え? と、頭を上げると、知らない男が鍵を開け戸を開けると振り返った。 その顔は下げられている。

「外からの目がありますので、カーテンを取り替えさせていただきました。 お荷物は少々動かしていますが、それ以外には手を付けておりません」

そう言って手の中の鍵を差し出した。
怪訝な目を送っている紫揺に男が、どうぞ、と言った。

「アナタは誰なんですか?」 

「東の者です」

また東西南北。 いや、西と南はない、北と東。 聞くだけで嫌気がさす。 取り上げるように鍵を男の手から取ると、玄関に入りピシャンと戸を閉めた。 乱暴に鍵をかける。 鍵をかけた音が平和そうなご近所から漏れてくる会話や、おいしそうな匂さえもシャットアウトするかのように。

「嫌われたもんだな」

野夜が現れた。

「ああ、それも致し方ないかもしれないな」

野夜に続いて現れた湖彩が言った。 北に囲われていた時にどんなことが起きていたかも分からないのだから。

「それより」

湖彩が紫揺に対峙した悠蓮を見た。

「身体はいいのか?」

完全に張りぼてでやられた悠蓮の尾骶骨もさることながら、筋肉痛も酷い。
サンダーバードですぐに寝落ちた。 悠蓮と湖彩と野夜が交代に寝るはずだったが、あまりに悠蓮が寝入っていたので起こすこともなかった。 それが仇となったのかもしれない。 駅に着くからと湖彩に起こされた悠蓮がしきりに顔を歪めていた。


『どうした?』

『か・・・身体が。 それに尾骶骨も・・・』

そう言っていたのだ。 完全に寝てしまったが為に、肉体が甘えたようだった。


「忘れようとしてるんだから言うな」

紫揺の前ではスムーズに動かしていた身体だったが、今はお爺さんのようになっている。

「もしかして、二人とも寝てないのか?」

「ああ、お前がぐっすりと寝ていたからな」

「楽しみだな」

悪かったな、ではない。

「何がだ?」

「明日の朝がだ」

激しい運動をしたからといって、すぐに筋肉痛はこないし、打ち身も然り、軽いものであれば骨への痛みも気が張っていれば、痛みを感じることはない。 これが寝入ってしまうと大どんでん返しになる。 悠蓮はそのことを言っているのだ。

「何を言ってんだか。 それよりこれからどうする? 北の気配は全くなかったが」

湖彩が悠蓮を見て言う。

「北が紫さまを見失った可能性が高いが、少なくとも警察署での書類のことを考えるとこの家の場所は知っているはずだ」

資料室から紫揺に関することを盗み見たから、この家の場所を特定し、すぐに仕事先に現れたのだろうから。

「それを知っているのは此の地の者かもしれない、ということも含んでいるのか?」

北は此の地の者を使っていた。

「ああ。 警察署で見た限りは・・・北の関係者の二人は粗忽だった。 この家の場所を知っているのは、どちらかと言えば此の地の者と思う」

北の関係者、それは此の地で雇われた者。

「荒っぽい此の地の者か」

悠蓮が吐き捨てるように言った。 伸されたのだから言いたくもなるだろう。

どこからか声が聞こえる。 道を歩いて来ている声が。 こんな所に見かけない大の男が三人も立っていては怪しく思われる。

「悠蓮、きついかもしれないが、このまま紫さまの周りにいるしかない。 どこか陰に隠れていろ。 俺と湖彩が見る」

「悪いな」

あっさりと受け取ると。 お爺さん姿の悠蓮が陰に紛れていった。

「表裏どっちがいい?」

「どっちでも」

「では俺が表。 裏を頼んだ」

「了解」

二人が陰に隠れながら辺りを警戒して数時間が経った頃、大中小の人影が街灯に照らされてこちらにやって来るのが見えた。
表を見ていた野夜が身体に緊張をほとばしらせた。 陰からその姿を見ていると見覚えのある顔が街灯の下に照らされた。

「領主・・・」

阿秀と此之葉の顔も見える。 陰から身を出した。

「野夜がいるようです」

阿秀が言うと頷く領主に続けて問う。

「このまま行かれますか?」

領主が阿秀を見る。

阿秀からの報告を受けた領主、阿秀が言うには今の紫揺に会うには時が早すぎるということだったが、猶予はない。
いつまた北に攫われるかもしれない。 阿秀からの報告を聞いたあと、すぐに阿秀の運転する車でホテルを出て此之葉と共に電車でここに向かった。 そして駅で待つこと数時間、阿秀が車でやって来た。

どれだけ速度違反をしたのだろうか。

ちなみに船でここまでやって来ていた若冲を回収したのは、車で移動してきた梁湶である。

「領主」

野夜が駆け寄ってきた。

「紫さまは中に居られます。 北の動きは見受けられません」

野夜の報告に頷いた領主。 動いていた足が止まった。

「此之葉、頼めるか?」

「・・・はい」

「此之葉を行かせるのですか!?」

野夜が驚いたように言ったが、反対に阿秀の溜飲が下がった。

「そういう事でしたか」

「なんだ? 阿秀は考えなかったということか?」

「未熟でした」

散々、要らないことを考えたようだった。
ホテルで領主が此之葉を呼んでくれと言った。 そしてその後に紫揺の家に向かうと言った。
今の紫揺の状態で領主と会わせても決して良い結果が出ないだろう。 領主の気持ちが変えられないかと、運転中に散々考えていた。

車中どれだけ考えても紫揺が領主に会うとは言わないだろうと思っていた。
それに万が一にも今の紫揺の前に領主が現れ、何を言ってもどう謝ろうとも紫揺が耳を傾けないことは分かっていた。
だから止めるつもりだったが、止めきれなかった。 まさか、此之葉を使うとは思ってもいなかった。

「では頼む」

頬に緊張を走らせた此之葉が一歩二歩と進む。

「阿秀・・・」

領主の後ろに控えた野夜が阿秀を覗き見た。

「連絡をしないで悪かった。 領主がお考えを変えられるかもしれないと思ったのでな。 だが此之葉を使うとは思ってもいなかった」

此之葉が引き戸をノックした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第148回

2020年05月18日 22時56分51秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第148回



紫揺が首を振る。

「そんなことないです。 思い出すのは毎日思い出していますから。 お父さんとお母さんと一緒に居た年月は私の宝物ですから」

「紫揺ちゃん・・・」

あの時の辛さを乗り越えたのか。 両親との思い出を想うことが出来る様になったのか。

「佐川のおじさん、お母さんの声が聞こえたんです。 その、信じてもらえないかもしれませんけど。 『―――守っているから。 見ているから。 ―――ね、紫揺ちゃん』 って。 私、泣いてばかりいたんです。 悲しんでばかりいたんです。 何度謝っても、お父さんもお母さんも、私を許してくれるはずないって思ってて。 そしたら、お母さんの口癖が『―――ね、紫揺ちゃん』 って聞こえたんです」

ホテルでのことだ。 紫揺のあまりに悲しむ姿に母の振りをしてケミが言った言葉。

『―――生きて
―――生きて』
そう言った後に、ケミが言っていない言葉が入った。
『―――守っているから。 見ているから。 ―――ね、紫揺ちゃん』 と。

紫揺はその言葉だけを佐川に言った。 ケミの言葉も母親の言葉と思っていたが、心のどこかで本当の母親の言葉かそうでないのかは分かっていたのかもしれない。

「そうか、そうか。 何を言ってるんだい、信じない筈はないだろう。 早季(さき)さんがどれだけ紫揺ちゃんを可愛がっていたのか知ってるんだから。 悲しんでばかりの紫揺ちゃんを、早季さんが放っておくはずないんだから」

俯き加減にコクリと紫揺が頷く。

「ほら、さっきまでの元気はどうしたの? 顔を上げて」

新谷が止めてくれてよかった、と坂谷が数時間前を遡った。 そんなことがあったとは考えもしなかった。 新谷が止めなければズカズカと紫揺の心の中に入っていたかもしれない。

「で、まだその流浪っていうのを続けるの?」

それはそれで心配だ。

「先のことはまだ分かりませんけど一旦家に戻ります」

「あ・・・家は・・・」

他の人が住んでいる。

「坂谷さんから聞きました。 おじさんが心配して見に行ってくださったって」

「うん。 知らない人が居た。 引越して来て間がないって言ってたよ」

「多分・・・大家さんが貸したんだと思います。 大家さんには暫く家を空けるって言っておきましたから。 一年くらいは空けるつもりだって。 だからその間に誰か短期で貸してほしいって言ってきたら、気にせず貸して下さいって言ってましたから。 そしたらその間の家賃が浮きますから」

ウソだ。 そんなことは言っていない。

「え? そうなの? あ、そう言えば、話をしてくれた人は、そこの住人じゃないって言ってたかな」

記憶を掘る。

「そうだ、友人の引越しの手伝いをしただけって言ってたか。 そうか、事情をよく知らなかったのか」

「そうかもしれません」

背中に滝のような汗が流れていたが、それがやっと枯渇した。
嘘が成り立った。

新大阪駅から大阪駅までの一駅分の車内で、そして佐川との待ち合わせ場所まで歩いている間に、坂谷から色々聞かされたうちのこれが、この話がネックだった。

最初は金沢駅で聞かされていた話だが、その時には大きく反応した。 だが、移動の間に考えた。 引き落としではなく、毎月大家宅に家賃を持って行っていた。 その家賃を長らく入れていないのだから、荷物も何もかも撤去され、顔も見たことの無い誰かが住んでもおかしくはないと。

だがよくよく考えた。 『お探ししておりました。 藤滝紫揺さん』 と言った “東の者” と名乗る男が言ったことを。
紫揺が『家に帰ります』 と言うと『承知いたしました。 ご自宅までお送りいたします』 そう言っていた。
それは、紫揺の家の場所を知っているということだろう。 そしてその家は、東の者という人間が確保しているのかもしれない、きっとしているだろう。

北とか東とか好き勝手なことを言っている男達だが、北と言われるムロイ達のしてきたことを考えるとホテルではVIP、屋敷においては高給ホテル並み。 最初にムロイが言ったようにお金には困っていないどころか、贅沢三昧の状態だった。

そして東の者と名乗る人物が現れた。 身のこなしも、言葉使いも洗練されていたものだったし、その者の言いようがセノギそのものと感じた。

北とか東とかと言ってそこにどんな境界線があるのか、それともそれも嘘なのかは知らないが、どちらも金にものを言わせて調べ上げ、北なり東なりに都合よく物事を運んでいるのではないだろうかと思った。

だから東の者というのが、紫揺の家を押さえているのではないかと。
確信などないし大間違いかもしれない。 坂谷から聞いた以外のことを佐川が聞いているかもしれない。 大きな賭けだった。

「や、坂谷さん私の早とちりだったようで、すみません」

頭を掻き掻きその頭を坂谷に下げた。

「いえ、それを言うなら職業的に自分のミスです。 ちゃんと突っ込んで訊かなかったんですから」

「いやいや、紫揺ちゃんからの筆跡がどうのこうのということも、私の思い過ごしばかりで、いや、お恥ずかしい・・・」

(筆跡? なんのことだろう)

だがこれ以上話を広げたくない。 黙っていよう。

「二通目はその事に触れていたんだよね、その頃には流浪っていうのをしていたんだよね、少しは落ち着いていたってことかな?」

「はい」

坂谷が微笑んでいるということは、元気に微笑み返して応えるのが妥当だろう。

「ね、言ってたでしょ? ここに来るまでに、どれだけ佐川さんが心配されていたのか。 よく分ったでしょう?」

「はい、本当におじさん御免なさい」

筆跡のことなど、手紙が二通あったなどとは聞いていなかったが、心底心配をかけたのは分かった。

「それじゃあ、家に戻るんだね?」

家に戻る。 嬉しい言葉だ。 じわじわと実感が込み上げてくる。

「はい」

ヒマワリのようだ、紫揺の顔を見た坂谷が思った。 それくらい紫揺の顔が生き生きとしていた。 あの時の陰はない。

「佐川さん、もう心配は要らないかもしれませんね」

「そうですね」

坂谷を見た佐川が紫揺に目を戻した。

「紫揺ちゃん?」

「はい」

「安心していいかな?」

「おじさん・・・」

「いいのかな?」

コクリコクリと、首肯する。

「心配ばかりかけてごめんなさい。 大丈夫です、本当に大丈夫です。 これからは、おじさんに心配をかけないように生きていきます」

ニョゼが見たら、どれ程紫揺が強くなったかと思うだろうか。


佐川と分かれ、坂谷に連れられて新大阪駅に戻ってきた。 これから新幹線に乗って博多駅に向かう。
緑の窓口で切符を買うと坂谷がホームまで付き添ってきた。 なにせ目的地さえ覚えていなかった紫揺なのだから放ってはおけなかった。
見送るまでは出来なく、紫揺をホームに立たせると坂谷は足早に去っていった。

「たしかに流浪だな」

クッと喉を鳴らす。 全く一人で駅の中を歩けないあの紫揺が計画的に事を起こすにはかなり無理がありそうだ。

新幹線に揺られる。

「嘘八白並べた・・・」

正確には八百も百も十すらも並べていないが。

「平気で嘘をつけるようになった」

平気じゃなかったけど。

「お父さん悲しんでるだろな」

『嘘はいけないよ』 いつもそう言っていた。

座席から腰をずらしてボォーっと新幹線の上部を見る。 完全ではないが、少なくとも五十%は放心状態だ。

「あ、そういえば・・・」

思い出したことがあってポケットに手を入れた。

切符を買う時に自分で払いはしていたが、その時にあるはずのものを目にした覚えが無かった事に気付いた。
右のポケットに小銭。 左のポケットに日本銀行券の数枚の札。

船に居た時は札とメモを右のポケットに入れていたが、釣銭を貰った時に小銭を右のポケットに入れたので、札を左のポケットに移したのだった。
右のポケットをジャラジャラと言わせて探るが、メモの感触がない。 次に左のポケットから札を出して、一枚一枚の間に挟まっていないかと見るが、メモの姿などない。 再度ポケットに手を突っ込んでも何もない。

「うそ・・・落としたの?」

でも切符を買う時に札の間に挟まっていたら気付くだろうし、ポケットから出した時に落としたのなら、坂谷が気付くはずだ。
金沢駅でも新大阪駅でも窓口で坂谷が何もかも言ってくれて、次に紫揺が窓口に立って支払いをしていたのを後ろから見ていたのだから。

ちなみに新大阪―大阪間の一駅分は往復とも坂谷のおごりだった。

「あ、それともあの時・・・」

船を下りた後、ポケットのファスナーを閉め忘れていて、ポケットから諭吉さんが顔を出していた。 誠也が言ってくれなければ、諭吉さんを落としていたかもしれない。 メモはその時に浜辺で落としたのかもしれない。

「サイアク・・・」

これが映像なら巻き戻しも出来ただろう。 だがそうはならない。

「考えても返ってこない・・・」

いつ落としたなんて考えても事は変わらない。

「先輩にお金を返せない・・・」

連絡先が分からなくなったのだから。


夜、誠也のスマホがブーンと揺れた。 画面には “春樹” と出ている。

「おい、なんで連絡してくれなかったんだよ」

『電源切ってたのそっちだろ』

「あ・・・そうだった」

切っておかなければ、持ち込み禁止を破っていることがバレてしまう。

「無事に出られたみたいだな」

『あ、ああ・・・』

なんだ? その言い方、何も見てもいなかっただろうに何を知っているんだ? と一瞬思ったが、すぐに春樹が続けた。

「電車にも乗せてくれた?」

『ああ』

「なんだよそっけない」

うっさいよ! こっちは落ち込んでんだよ! と言いたかったが、それは自分のミスと言っていいのだから公明正大には言えない。
それに春樹には告げなくてはいけないことがある。

『紫揺ちゃんから連絡あった?』

――― ちょっと待て。 今何と言った?

「紫揺ちゃんって・・・」

『彼女の名前じゃん。 お前が教えてくれた』

「いや、そういう事じゃなくて」

――― そう呼んでいいとは言っていない。

「そう呼んでたのか?」

『当たり前じゃん。 他になんて呼ぶんだよ』

(コイツ! 俺が紫揺ちゃんと出会ったのが、何年前だと思ってんだっ。 それに再会して何日目で “紫揺ちゃん” って呼べたと思ってんだっ。 それをコイツはっ!)

『金沢駅まで車で送って行った。 そしたら紫揺ちゃんの知り合いに会って―――』

(そうだ! 紫揺ちゃんの知り合いに会ったんだ! あの人なら紫揺ちゃんの連絡先を知ってるはずだ!)

「なに? 知り合いって誰?」

『警察って言ってた』

(ああ、そうだ。 サカタニって言ってた。 えっと・・・どこの警察署だって言ってたっけ)

「警察? 警察が紫揺ちゃんの知り合い? それ、間違いないんだろうな」

『紫揺ちゃんも知ってるぽかったから、間違いないんじゃない? その場にいない人の話もしてたし』

(ちょっと黙れよ。 ああ何警察だったっけ・・・)

「でも、そうならもう連絡があってもいい筈なんだ」

おっと、その話だった。

『連絡ならない』

「は? どういうことだよ」

『紫揺ちゃん、お前の書いたメモを落としていった』

「え!?」

『浜辺ギリギリまでゴムボートで行くつもりだったんだけどさ、岩礁が多すぎて行けなかったんだ。 で、紫揺ちゃんの腰辺りかなぁ? そこまで浸かっちゃってさ、お前が渡したメモと札を入れている上着は、手に持って浸からないように上げてたみたいだけど、その後に上着をドボンと見事に海中に入れちゃってさ、船に乗った後はポケットから金とメモを拭いたりして、その後ポケットに入れたはいいけど、ファスナーを閉め忘れてたみたいで、メモだけを船の中に落としてたってわけ』

「え“え”―――!!」

『声、大きすぎ。 言い変えれば、落としたのを見つけてよかったじゃん。 気が付かなかったら、紫揺ちゃんに何かあったと心配しなくちゃなんなかったんだから』

「だからって、ちゃんと家に帰れたかどうかわからないじゃないか!」

それに今後の連絡予定はどうするんだよ。

『大丈夫だって。 その警察と二人で一旦大阪で降りて誰かと会うみたいなことを言ってたけど、そこまではその警察がついてるだろうし、その後もあの人ならちゃんと新幹線か何かに乗せてくれてるよ』

「・・・信じていいんだな」

『さすがの紫揺ちゃんも、博多駅が大きいからってそんなに迷わないだろうよ。 地元に帰った安心感もあるだろうし、在来線に乗ればそれで終わりだろう?』

「・・・よく知ってんな」

博多駅に帰れるように、切符を買ってやってほしいとは言ったが、在来線とかそこまでは言っていない。

『親父がね、紫揺ちゃんを気に入ったみたいで、家に帰れるかどうか心配でアレコレ訊いてた。 まぁ、最初にお前が言ってた紫揺ちゃんを心配する気持ちがよく分かったよ。 俺も親父も。 そう言えば朝飯は一緒に食べたけど、ちゃんと昼飯食べたかなぁ・・・』

時間的に言って、坂谷が食べさせているはずだが、仕事の合間にちょっと抜けるだけと言っていた。

「朝飯を一緒に食べた?!」

自分はそんなことを一度も経験していない。

『当たり前だろ。 時間を考えろよ。 親父のおごりだけど。 まぁ、とにかく、紫揺ちゃんは無事に帰った筈だ。 そしてその紫揺ちゃんからの連絡は百パーセントないということ。 じゃな』

―――プツン。

「ガア――――! なんだよ! 一方的に切りやがって!」

スマホを叩きつけようと腕を上げたが、おっと、そんなことをして壊れては困る。 不承不承と言った態で横に置いた。

「くっそー、連絡ないのかよ・・・」

似たような、真反対のようなセリフをもう一人も吐いていた。

「くっそー、長々と話させて! えっと・・・なに警察って言ってたっけか!」

髪の毛をグシャグシャと手でかき回して思い出そうとするが、あの黒い手帳を開けて見せられては、誰も一瞬固まるだろう。
思い出せない以前に聞いていなかったという方が正しいだろう。 坂谷の名前を思い出したのは、紫揺が坂谷の名前を何度か呼んでいたからだけだったのだから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第147回

2020年05月15日 22時41分00秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第147回



坂谷に紹介された男は新谷(しんたに)と名乗り、坂谷と同業だということだった。
“ダブル谷” かろうじて覚えやすい。

サンダーバードに乗り込むとその男二人が前に座っている。 正確に言うと、窓際に座る紫揺の目の前に新谷、斜め前に坂谷である。

「で? 金沢で何をしてたんですか?」

「え? ちょっと・・・はい、あの・・・ボート・・・はい、ボートに乗せてもらっていました」

咄嗟にいい案が浮かばず、そのままを言うしかなかった。

「ボート?」

「ボートって言わないのかなぁ? よく分かりませんけど船です。 それとクルーザーっていうのを見ました。 さっき一緒だった・・・杢木さんって言うんですけど、杢木さんがそのクルーザーを気に入ってました」 

話をどうにかして無難な方に持って行こうとするが、まるで小学生の感想文か、夏休みの宿題の日記だ。

「さっきの彼だね。 彼とどういう仲?」

「え?」

「おい、坂谷、女の子にそんなことを訊くんじゃないよ。 無粋なヤツでゴメンね」

「いや、でも。 あの状態で急に居なくなって、思いもしない所で再会したんだ。 そこに男子が居たら気になるだろう」

“あの状態” という言葉で通じるということは、紫揺の身に起きたことを新谷は知っているということだ。

「だから、会えたんだからいいじゃないか。 人それぞれあるんだから。 それとも何か? 彼女がいなくなった後のことを根掘り葉掘り訊くつもりか? それじゃ、職業病も酷すぎるぞ」

これ以上言い合いをするのも大人気ない。 二人が紫揺に目を移すと大人の口喧嘩など、どこ吹く風というように、規則正しい寝息を立てていた。

夕べは一睡もせず起きていたのだから、知らない男二人が目の前に居ても、上眼瞼挙筋(じょうがんけんきょきん)が弛緩しても仕方がない。
それに脱走するにあたっての緊張、アマフウとセイハとの対峙、挙句に東の者との追っかけあい。 サンダーバードの心地いい振動が揺りかごとなってもおかしくない。
瞼が閉門を告げていた。

「本当に二十歳を過ぎてるのか?」

「ああ、あの時が高校を卒業して間がなかった時だったからな。 あれから三年は経ってる」

「二十歳を過ぎて長距離の移動がジャージか。 普通、この歳だとそれなりの服装をするだろう。 身長は人それぞれだが、それにしても顔が幼いな。 最近の子はませてるからなぁ、そこから考えると良く見積もっても高校生。 下手したら小学生に見えなくもないぞ」

「俺も初めて会った時はジャージだった。 あの時も十八歳には見えなかったよ。 思い出したくはないけど懐かしいよ」

「志貴さんからも聞いたよ。 いたましいな」

「ああ」

私が殺した、私が殺したと、呪詛のように何度も言っていたと志貴から聞いている。

「でも、今見た限りでは立ち直ってそうだな」

「だといいけどな。 それにしても、さっき歯切れが悪かったな」

「金沢で何をしてたのか訊いた時か?」

「ああ」

「だから止めろって、職業病。 それに同じ質問でも、俺たちがするのと一般人がするのとでは受ける側の気持ちも違うんだから。 さっきの彼女もそうだったんじゃないのか?」

「・・・そうかな。 まぁ、それじゃあ、その辺のことは、佐川さんに任せるか」

「そうしろ」

鞄の中に手を入れるとクリアファイルを出して坂谷に渡した。

「昨日徹夜で仕上げた。 読んでおいてくれ。 俺はちょっと寝る」

腕を組んですぐに寝る姿勢に入った。

新谷から渡されたクリアファイルからホッチキスで止められたA4用紙をだすと、溜息をつきながら肘かけに肘を置いて読みだした。

紫揺たちの居る車両の通路を一人の男が歩いて来た。 後姿の紫揺を見ることは出来ない。 他の座席に目を配らせ、前から歩いてきた男性とすれ違う。 そのまま歩いて行き車両を出ると野夜が居た。

「どうだった?」

「怪しい影は見えなかったと思うが、前回のように此の地の人間に依頼していたのなら、瞳だけでは判断がつかないからな」

北の領土の人間の瞳は薄いグレーだ。

野夜のスマホが鳴った。

『こちらは異常なしと思われる。 紫さまは寝ていらした』

先ほど悠蓮とすれ違った湖彩からの連絡である。
互いの進行方向に相対して座っている乗客を見て回っていたのだ。

「了解。 こちらも異常なし」

『了解』

「っとに! なんでここで坂谷が現れるんだよ。 俺が全然動けない」

野夜と坂谷、互いに顔を合わせたのは、警官のふりをして潜り込んだ警察署内であった。

野夜と醍十が警察署に潜り込んだ時、北の関係者も二人潜り込んでいた。 その二人が警察署内にある資料室で、紫揺に関する何かを見つけたようだった。 それを阻止するために、一度目は醍十が、二度目は野夜が坂谷に接触した。 野夜においてはそこそこ坂谷と話をした。

「あっちは野夜の顔を覚えてるか?」

「多分な。 職業柄、顔を覚えるのに優れているはずだ」

「職業柄か。 ・・・言い変えれば、紫さまが安全だということになるな」

「あ・・・そうか」

紫揺が警察のガードを受けているということになる。

「あまり気を張らなくてもいいかもしれんな。 それに北がもしここまできて追ってきていないとすれば、そう簡単に紫さまの居場所を特定できないだろうしな」

「まぁ、そうだが」

「少なくとも、この車内はまだ安心し切れないが、それでもあの警察が居るし、これが走っている間はあの北といえど、どうしようもないだろう。 ちょっと気を楽にしようさ」

これとはサンダーバードの事。

「そうだな。 湖彩を回収して座席でちょっと休むか」

連絡を受けた湖彩がすでに座席に座っていた野夜の横に座った。 斜め前には悠蓮が座っている。 悠蓮の横の座席も確保してある。 誰が座ることもない。

「あの警察、俺に気付いた」

「どういうことだ?」

野夜と悠蓮が声をそろえる。

「俺が往復したことに気付いた」

「で?」

「顔を見られたと思う」

野夜が天を仰いごうとしたが、サンダーバードの灯りがすぐ近くに見えただけだった。 気を取り直して顔を下げると誰に言うことなしに言った。

「あの坂谷ってヤツはそうなんだよ」

「どういうことだ?」

「だから、俺の顔も忘れていない筈だ」

「偶然じゃないのか? 顔を上げたら湖彩が居たというだけじゃないのか?」

「いや、そういう目ではなかった」

「・・・湖彩と野夜はアイツが居る間は前に出られないということか」

「いや俺と湖彩だけじゃなく、北の関係者も出られないだろう。 奴らも顔を見られている。 まぁ、同じ奴が来るかどうかは分からんが」

「だがさっきも言ったようにこれに乗っている間、少なくとも次の駅に着く間は大丈夫だろう。 しばしの安息をあの警察から貰おう」

張りぼてを跳び損ねた悠蓮が言う。 完全に尾骶骨をやられて、出来ることならば今すぐにでも横になりたいのだから。
三人の会話を他の二人が聞いたら『甘えたことを!』 と言ったかもしれない。

その二人、若冲は船で梁湶は車でと不眠不休で先の長い海と高速をひた走っている。

そして『甘えたことを!』 などと言わない阿秀と醍十もハンドルを握っている。

阿秀は領主と此之葉を金沢駅でおろし、ホームまで連れて行った。 あとは乗り換えのことを領主に言っておいたが、気が気ではない。 この車に乗せて移動できれば良かったのだが、長距離を車で移動するには領主の身体がついてこられないだろう。

それに反して醍十は

「うーん、一人は寂しいなぁ。 此之葉だけでも連れてくればよかったかなぁ」 などと言っている。

そんな船と車組の四人の気など知らないコチラの三人は、交代で寝ることにした。
まずは阿秀から一番近くにつくようにと言われていた悠蓮が。 他の二人は気を利かせて悠蓮が眠入るまで話をしなかったが、いとも簡単に悠蓮が落ちた。

「早いな」

野夜が言う。

「紫さまが目の前で攫われることを阻止できなかったんだ。 気負いも大きいだろう」

シノ機械のつかいの帰りに紫揺が攫われた時のことを言っている。

「は・・・そうか、そういうことか」

「なんだ?」

「阿秀だ」

「阿秀?」

「悠蓮に紫さまに一番近くにつくように言ったのは、そういう理由だったんだ」

「見えん」

「だから、前回の悠蓮の失敗を―――」

「悠蓮の失敗?」

「ああ、今、湖彩が言ったことだ。 悠蓮は目の前で紫さまを北に持って行かれたんだ。 それを悠蓮がどんな風に思っていたか。 言わずとも分かるだろう。 だからここで悠蓮以外の者を紫さまに付かすと、悠蓮がどう考えたか」

「ああ・・・。 そういう事か」

「阿秀も食えんな」

「食いたかない」

紫揺を追いかけていた時に、いつの間にか紫揺の前に立っていた阿秀を頭に浮かべながら言った。


サンダーバードがスピードを落とした。

「藤滝さん?」

紫揺に声を掛ける坂谷。

遠くで久しく聞いていない苗字を呼ばれた気がした。

「藤滝さん?」

もう一度聞こえた。 誰かの口が紫揺の苗字を呼ぶように動かしている映像が夢現に見えた。

「もう着きますよ」

「あ・・・」

何も分からないまま声が漏れ、瞼を薄く開けた。

「疲れてたのかな?」

「・・・」

状況が分からない。 頭を、記憶をフル回転させる。 出発点はガザンと海岸に出た時だった。
ガザンと海岸に出て・・・海岸・・・船・・・。

「ヴァ!」

意味の分からない声を上げ上体を起こした。
何もかも思い出したようだ。

「良くない夢を見てた?」

「あ・・・」

「よく寝てたよ」

「あ・・・寝ちゃってましたか」

確実に寝ていた。 それも爆睡。

「疲れてたのかな?」

遠回しに職業病が出ている。

「夕べ寝ていませんでしたから」

「寝なかった? どうしてかな?」

ウッカリ要らないことを言ってしまった、と気づく。

「その・・・おじさん・・・杢木さんのお父さんと夜釣? をしてましたから」

父親が『夜釣の邪魔をしちゃいけない』 と言っていたのを覚えていた。 夜釣りは夜の釣りであろう。 確信はないがそれ以外に考えられなかったから使った。

「あの彼の父親と夜釣をしてたの?」

「おじさんがしてただけで、私は見てただけです」

釣りの何かを訊かれても全く知らない。 自分も釣りをしていたなどウッカリ言ってしまえばボロが出る。

「えっと・・・それより、どこに着いたんですか?」

「・・・新大阪駅です」

この少女は目的地を覚えていないのか・・・。
坂谷の横で新谷が笑いを噛み殺している。


「え? 紫揺ちゃん!?」

待ち合わせの店で佐川が腰を上げた。

「佐川のおじさん・・・」

新大阪駅で降りると 「ちょっとここで待ってて」 と言われ、坂谷と新谷が足早にどこかに行き、十五分ほどして坂谷一人が戻ってきた。 新谷はそのままどこかに行ったらしい。
その後ここに来るまでに、佐川がどれだけ紫揺のことを心配していたのかを坂谷から聞いた。

「どうして?」

紫揺の後ろにいる坂谷を見た。

「偶然会ったんです」

坂谷に向けていた目を紫揺に向けた。

「紫揺ちゃん、どうしてたんだ?」

まだ幻想を見ているかのように声に力がない。

「佐川さん、取り敢えず藤滝さんに座ってもらいましょう」

「あ、ああ。 そうですね。 紫揺ちゃん座って」 

「はい」

四人掛けのテーブル。 紫揺が佐川の前に座ると坂谷がどうしたものかと躊躇する。

「元気にしてるみたいだね」

佐川が紫揺の顔を見て言う。 以前見た時より頬がふっくらとしている。 やっと声に感情が入った。

「おじさんにはご心配ばかりお掛けして」

坂谷から聞いた。 家を引っ越したと紫揺が佐川に手紙を出したと。 それは誰がどうしたかは分からないが、それはあったのだろうと受け流すことにした。 北だの東だのが、勝手にやったことなのだろうと憶測したからだ。

坂谷が立ちっぱなしなのに気付いた佐川が横に詰め、坂谷の座る場所を開けた。 坂谷がそっと佐川の隣に座る。

「何処に引っ越したの?」

「引っ越しっていうか・・・」

そこまで考えていなかった。 どう言えばいいのだろうか、あの家に戻るつもりだったのだから。

「流浪してました」 これしかない。

「流浪?」

「はい、とにかくアチコチに」

「じゃ、どうして引越したなんて書いたの? あ、いや、失礼。 出過ぎました」

新谷の教えを思い出し、禁忌の入口に入りかけてUターンをする。

「引っ越しって書いた方がおじさんが安心するかと思って」

坂谷の顔を一度見てから佐川に顔を戻す。 苦肉の言い訳。 北とか東が何をしたのか。 それでも誰も巻き込みたくない。

「そうか、そうか。 いや、紫揺ちゃんが元気にしてくれていたんならそれでいい。 それにあの時よりずっと元気になってる」

“あの時” と言ってしまったことに気付き、紫揺に思い出させてしまったかと、慌てて言い添える。

「ごめん、せっかく元気になったのに思い出させたね」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第146回

2020年05月11日 22時28分21秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第146回



暗闇の中、太い蝋燭が部屋の四角(よすみ)に一つずつ置かれている。 蝋燭の火が何処からか入ってくる僅かな風によって揺れ、二つの影をゆらゆらと揺らせている。

女が洞窟の中にある一見しては分からない薄い岩戸を開けて入ってきた。

「どうだった?」

「熱がお出になったようだ」

入ってきたのはケミだった。

「此の地の薬を飲まれたのだろう? 一度は目覚められたのか?」

再度カミが問う。

「ああ。 だがあまりはっきりとはしておられなかった。 セッカ様が領土の熱さましをニョゼに渡していた」

部屋の真ん中まで歩いて来ると、敷物の上に座り蝋燭を囲んで車座となった。

「たしか、お前も薬草師に丸薬を貰ったのではなかったか?」

すこし調子を戻していたハンが問う。

ケミは北の領土に戻った時には民の格好をし薬草師に丸薬を貰っていた。 若い薬草師が作る丸薬は頭痛によく効いた。 だが頭痛のことはゼンにしか言っていない。

「ああ。 何度かショウワ様にお渡ししたが、今回はニョゼの出入りが多すぎて迂闊にショウワ様の前に姿を現すことが出来ん」

「ニョゼか。 まぁ、ニョゼなら抜かりなく運ぶだろう」

「それより・・・」

二人の目を交互に見てケミが話し始めた。

「セッカ様がマツリ様と会われたかもしれん。 ニョゼにショウワ様が目覚められたら、マツリ様からの緊急な話があると言っておった」

「マツリ様から!?」

カミに続いて声音静かにハンが問う。

「どういうことだ」

「それ以上は分からん。 それにダンやゼンからもそんな話を聞いておらん。 領土から帰って来ておらんのだからな」

ハンとカミが目を合わせてほぼ同時に腕を組んだ。 長く時を過ごせば似てくるのだろうかと、ケミがふと思った。

「少し休んで吾はまたショウワ様の元に戻る。 お身体のこともあるが、マツリ様からの緊急の話というのも気になる」

「ああ、そうだな。 だがショウワ様の下知が無ければ吾は動けん。 どうしたものか」

ショウワからまだ休んでいろと言われたものの、体が鈍ると言いたいのが見てとれる。

「まだ休んでおればよかろう。 ショウワ様もそう仰っておられたのだから」

カミが目を眇めて言う。

「もう十分に休んだ」

「セノギの回復より遅れているからと見栄を張りおって」

長く看病していたカミにはそれがよく分かる。

「カミの言う通りだ。 お前は深山の奥深くからずっとセノギを担いで山を下りてきたのだろう。 セノギと比べてどうする。 それにその膝、まだ十分に曲げ伸ばしが出来ぬではないか」

「うるさいわ。 小娘二人に何を言われることなどないわ」

解いた腕を再度組んでソッポを見ようとするが、斜め右にはカミ、同じく斜め左にはケミがいる。 上を見るしかなかった。

「ほー、そうか。 吾らと違ってハンは大人であろうからな。 では少なくともカミには礼を言ったのだろうな?」

「聞いた覚えはないが、別に要らん」

「・・・」

「寝食を忘れて看病をしていたというのに、礼の一つも要らんというのか?」

「要らん。 誰かがやらねばならぬことを吾がしただけだ」

二人の声が耳に響く。

「あーーー! もういい!!」

叫んで二人の会話を止める。

「カミ、恩に着る。 いずれ恩を返す」

「そんなもの返されたくはないわ」

蝋燭を見ながら言うと、スッと立ち上がった。

「ケミ、屋敷の中の様子はどうだった?」

「特に言われておらなんだから見ておらん。 ムラサキ様もセキやニョゼと楽しくされておられるようだったからな」

ケミにとってはそれが一番安心できる所であった。

「そうか。 では鈍った身体を動かしてくる」

ハンを見下げると口の端を上げてみせた。

ほんの小さな意趣返しである。

「勝手にしろ」

その場でゴロンと転がった。

のちに紫揺が居なくなったと知るとは、この時には微塵も思っていなかった。



島から船が出て行った。
キノラが大事になる前にと、雲渡を連れて証券取引等監視委員会に出向いて行ったのだった。 帰って来るまでは仕事を止めるようにと言い置いてある。



金沢駅のロータリーで車が止まった。

「ここで大丈夫です」

全然大丈夫ではないが、これ以上手間をかけさせるのは申し訳が無い。

「いいよ。 ちゃんとホームまで行って、電車に乗せるように春樹から言われてるから。 じゃ、親父その辺で待ってて」

そう言って車のドアを閉めた。

父親はどこかに車を停めて自分もホームまで紫揺を見送ると言ったが、何故か誠也が大反対をし、紫揺にまで言われてしまい渋々ロータリーに車を入れたのだった。

『紫揺ちゃん、甘えられるときには甘えようよ。 それに何よりおじさんが送って行きたいんだから』

『そう言ってもらえると嬉しいです。 でも充分甘えさせていただきました。 これ以上甘えると、太ってしまいます』 そう言って、清々しい笑顔を見せた。

愚息の誠也が言っただけなら簡単に引かなかったが、紫揺も口をそろえて固辞をするものだから、しつこくして嫌われるのも考えものだと、引いたのだった。

運転席からプチっとスイッチを押して助手席の窓が開く。

「じゃ、紫揺ちゃん気を付けて帰るんだよ」

運転席からぽっちゃりした体を捻じって窓から紫揺を見上げる。

「はい。 本当にありがとうございました」

「いつでもおじさんに頼っておいで。 そうだ、うちにも遊びにおいで」

――― 頼っておいで?

誠也のこめかみがピキンと鳴った。

「有難うございます」

「親父、いつまでも引き留めてんじゃないよ。 ほら、紫揺ちゃん行こう」

紫揺の腕をとると歩き出した。

「コラ―! 紫揺ちゃんの腕が折れるだろう!」

運転席から助手席に身を乗り出すようにして、父親が叫んだ。

(そう言えば、いつからお嬢ちゃんじゃなくて紫揺ちゃんって言い出した? あのクソ親父めっ!)

誠也が心の中で罵詈を吐いたが、のちに誠也自身も “コイツはっ!” と、吐かれるとは思ってもいなかった。 

「あの! 本当にありがとうございました!」

誠也に引っ張られながら、小さくなる窓を見て最後の礼を言った。


紫揺が降りた車の離れた所で、一台の車から合計三人が降りてきた。

「頼んだぞ」

「了解」

短い会話が交わされ、先に悠蓮が歩きその後ろを湖彩と野夜が歩く。

梁湶の運転する車が動いた。 車をここへ置いていくわけにはいかない。 これから長い時間をかけて紫揺の家に向かう。


駅構内にはスーツ姿の男が多く、特に三人が目立ったものではなかった。 悠蓮の目配せで湖彩と野夜が間隔を開けて紫揺の斜め後ろについた。

「俺も金沢駅は初めてだからなぁ。 まぁ、ちょっと迷ってもちゃんとホームに送るから」

「はい」

いざ駅構内に入って、つくづく誠也について来てもらってよかったと思った。 こんなに大きな駅を一人で歩いたことなどないのだから。

「まずは切符。 サンダーバード」 と、口にして案内板をキョロキョロ見ながら歩いた。 何故か二人の手が繋がれている。

誠也が紫揺の腕を取って歩き出した後、腕を離して「はい」 と言って、手を繋ぐ仕草を見せ「こんなに人が居たらはぐれるよ」 そう言ったのだった。

紫揺にしてみれば初めて会った時に『足元に岩が多いから危ないよ』 そう言って誠也が紫揺の手を取って歩き出したことがある。 それと同じ感覚で手を繋いでいた。 誠也に下心があったのかどうかなどは知らない、考えてもいない。

湖彩の目がある男をとらえた。 二人の男が会話をしていたが、その内の一人が会話を止めて紫揺の方をじっと見たからだ。 湖彩が後ろにいる悠蓮に目で合図を送る。 それに気付いた野夜も男を見た。

男がもう一人の男に軽く手を上げ、走って紫揺に向かってきた。 悠蓮が紫揺の前に出ようとしかけたのを、すぐに野夜が手を上げて止めた。 身構えていた湖彩にも動くなと合図を送る。

「アイツは警察だ」

位置を変えて悠蓮の元に来た野夜が耳元で囁いた。

「え?」

「俺は顔を知られている」

湖彩に引くように手招きすると、三人で人の流れの中に隠れた。

「藤滝さん! 藤滝紫揺さんですよね!」

「え?」 という顔をしたのは紫揺と誠也。 走り寄ってきた男に見覚えなどない。

「知ってる人?」

誠也に訊かれ困ったように首を振ると、繋がれていない方の手で誠也の腕を握った。 手を変えて攫いに来たのかもしれない。 今は誠也に頼るしかない。

「そっか、覚えていませんか。 忘れてもらった方が良かったんだけど。 忘れてもらった方が良かったんだけど、気になっていましたから声をかけてしまって・・・悪かったね。 でもやっぱり、佐川さんと会う日は藤滝さんが関係する」

「佐川さん?」

その人物には心当たりがある。 両親の葬儀を仕切ってくれた父親の同僚の名だ。 でもだからと言って全面的に信用できない。

「ちょっと、あなた、いったい誰なんですか?」

二人の会話に誠也が割って入ってきた。

「あ、失礼」

そう言って胸ポケットから黒い手帳を出し開いて見せた。

「五島南署の坂谷と申します。 藤滝さんと会った時は掛野署にいました」

「・・・あ」

家の玄関で会ったことを思い出した。 それ以降のことはあまり記憶にないが、両親の元まで連れて行ってくれたはずだ。

「思い出してもらえました?」

「はい・・・」

「あ、必要以上は思い出さないでください。 佐川さんが心配されていましてね、もちろん自分もですが。 それで今日、佐川さんと会うことになってるんです。 出来れば佐川さんに安心してもらいたいから、藤滝さんにも来てほしいんでけど、これからどちらに?」

紫揺ではなく誠也を見た。

「それは・・・」

黒い手帳の男は敵意のない目で見ているが、その目の奥に何かを隠しているのは分かる。 紫揺を弄んでいるのではないか、と。

「これから家に帰るんです」

答えたのは紫揺だった。

「家に?」

「はい」

「家というのはどちらですか?」

「え? あの、坂谷さんが来てくれた家に」

この坂谷という男は何を言っているのか?

「でも引っ越しされたんですよね?」

佐川がそう言っていた。 手紙ももらったし、行ってみればもう別の人が住んでいたと。

「え?」

引越した?

「今は男の人が住んでいたと佐川さんが仰っていましたが」

野夜は坂谷に顔を知られているため、背中を向けていたが、聞き耳を立てていた三人が互いに渋面を作った。 あったことの報告はし合っている。 男の人とは梁湶のことだ。

「どういうことですか?」

「佐川さんが藤滝さんを心配されてご自宅を見に行かれたんです。 そしたら、やっぱり藤滝さんが引越しをされていて、新しく入居してきた人しか居なかったと。 藤滝さんとは会えなかったと聞きました。 偶然に自分もその日、藤滝さんの様子を見に行ってましてね、肩を落とされた佐川さんに会ったんですよ」

「やっぱりとはどういうことですか?」

「藤滝さんが引越しをすると、佐川さんにお手紙を書かれたでしょ?」

「・・・」

攫われただけではなく、知らないところで何かが動いていたというのか。

「紫揺ちゃん?」
「藤滝さん?」

紫揺は知らない此之葉の書いた手紙のことだと分かり、紫揺がどう返事をするのかと三人は待つことしか出来なかった。

「今からどこで会われるんですか?」

何が動いていたかが分からない。
坂谷は警察の人間だ。 攫われていたから匿って欲しいと言ってしまえばいいのかもしれないが、そんな種類のようなものではないだろう。 それにこれから警察が出てくるとなると更にややこしくなってくるのは目に見えている。 墓穴を掘らないように取り敢えず話を変えて進めよう。

「大阪です。 佐川さんが出張で大阪に来られているらしいので」

「坂谷さんのお仕事はいいんですか?」

「自分もこれから大阪に行かなくちゃならないので、その合間にちょっと抜けさせてもらうんです」

誠也の腕を掴んでいた手を離し、繋いでいた手の力を抜いた。

「紫揺ちゃん?」

「杢木さん、本当にありがとうございました」

離された手を足につけて深々と頭を下げた。

「ここからは坂谷さんに連れて行ってもらいます」

「でも本当にこの人警察の人なの?」

「それは間違いなく」

紫揺の代わりに坂谷が返事をし、離れたところで野夜も頷いていた。

「まだ切符も買ってないんです」

「じゃ、こっちじゃなくてアッチ」

歩いていた方向と違う方向、坂谷がやって来た方を指さした。

「くれぐれもおじさんによろしく言っておいてください。 それと、おじさんに会えてよかったって」

――― 俺には?

「遊びに行きますって」

――― 誰と遊ぶの?

また深くお辞儀をして坂谷の横についた。

二人が揃って歩いて行く。
呆気ない幕切れ。

坂谷が先に話していた男に何か言っている。 紫揺の姿が人波の中に消えていく。 ついでに坂谷と名乗った男とその連れらしき男も。
駅にはこんなに沢山の人が居るのに、誠也の耳には何の喧噪も入ってこない。 紫揺の影さえ見失った気がする。

ついさっきまでのことが思い出される。
何か食べようとファミレスに入ったとき、うるさい父親が紫揺の横に座った。 誠也が紫揺の横に座って良からぬことをしてはいけないからと。 紫揺の座るスペースが狭くなり、紫揺が苦笑いをしていた。 父親が紫揺に話しかけていた。

そんな時にある事が閃いて、紫揺の落し物のメモをポケットから出した。
歩いている店員の胸元を見て、ひとりの店員を呼び止めた。
『その三色ボールペン、ちょっと貸してもらえますか?』

父親の弾丸トークに紫揺が耳を傾けている間に、借りた三色ボールペンを使って春樹の携帯番号の下に自分の携帯番号とフルネームを書いた。 黒で書かれている春樹の番号より目立つように赤で。

ストーカーは認めなかったし、同性愛もすんなりとは認めなかったが、ロリコンを認めるのは早かったようだ。 紫揺の年齢を考えると決してロリコンではないが。

よく考えれば、なにも春樹を経由しなくても、直接自分の携帯番号を知らせればいいのだ。 そう、メモに自分の携帯番号を・・・メモに・・・。

ポケットに手を突っ込んだ。

「あ“あ”あ“ ――― !!」

存在してはならない物がポケットの中で手に触れた。

「渡し忘れた―――!」

ポケットから出したメモが、長い間の暗闇から灯りに照らされて、眩しそうに目を細めただろうか。

「俺の間抜け―――!!」

沢山の目が誠也に向けられた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第145回

2020年05月08日 22時06分25秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第145回



紫揺を見送ってからは、杢木から連絡があるだろうと待っていたのだが、スマホは沈黙を守っていた。 仕方なく朝に連絡を入れようと思っていたが、ほぼ明け方まで連絡を待っていたせいで寝過ごしてしまって未だに連絡をとれていなかった。

「迎え? 何を言ってるの? 迎え? 船? どういう事なのかしら!?」

「だからー、迎えの船に乗ってこの島を出て行った」

「どういうこと! 止めなかったの!?」

「止めたよ。 アマフウが」

紫揺を引き留めようとしたセイハを止めた、というのは所々割愛しよう。
多分セイハはドアに耳をくっ付けてこの会話を聞いているはずだ。 だが反論などしに出てはこないだろう。 出てこないではなく出たくても出てこられないはずだ。 あの頭では。
トウオウはそう踏んでいた。

爺からセイハの河童話を聞いていた。 いくらキャスケットを被っても河童姿を見られたのだから、涼しい顔をして出てこられるはずがない。 あのセイハが。

そして間違いなくそれは当たっていた。 腹立たしさにドアの向こうでセイハがキャスケットを投げつけていたのだから。

「トウオウは何をしてたの!」

「ほら、オレまだこんなだから、身体が自由に動かないじゃん? ああ爺に聞かせたいな。 そしたらちゃんと大人しくしてたオレをドンダケ褒めてくれるかなぁ~」

「馬鹿なことを言ってるんじゃなくてよ!」

まだ筋肉痛が十分に残っている身体で階段をかけ上がっていった。

「わぁー、足腰はまだまだ若いねー」

トウオウの言葉がセッカの背中に張り付いたが、無視をして紫揺の部屋に向かった。

「トウオウ!」

聞こえてきたのは階下からだった。

「なに?」

「今言ってたことは本当なの?」

「もう、セッカもキノラも疑り深い。 オレってそんなに信用ないわけ? だったらキノラもシユラ様の部屋を見てきたら? それとも屋敷中シユラ様を探す?」

眉を寄せたキノラが上げていた視線を戻して春樹を見た。

「って、聞いといて無視かよ」

いいながらも、手すりに腕を置いて顎を乗せる。 これからキノラの前に座る青年とどんな会話がなされるのか興味がある。

「手短に聞きます」

「はい」

「さっきの様子では、春樹さんと雲渡さん二人の様子がおかしく見えました。 春樹さん、心当たりがありますか?」

こういう問われ方をされては、雲渡のことを言うしかない。 雲渡にも同じような訊き方をするだろう。 そうなれば雲渡がシラをきって、挙句にこちらに濡れ衣を着せるかもしれない。 そんなものを着せられてはいい迷惑だ。

キノラからすれば、雲渡がシラをきり春樹が正直に知らないと言っては、事実を知らないキノラは成績が良く多分気に入っているであろう雲渡の方を信じる可能性が大きい。

見方を変えればインサイダーをしているから成績がいいとも考えられるが、キノラがそう考えるかどうかにかける胆力など持ち合わせていない。 持っているのは、万が一にもコソコソと証拠探しをしている春樹に対して、雲渡がなにか咎めた時の為にと、いつも持って歩いていた胸ポケットの中の物だけだ。

セコイ男と思われても仕方ない。 これを出すしかない。 それで信じてもらえればいいが。

「あります」

「え?」

意外な返答だったようだが、それは一瞬だった。 すぐに上がった眉を下ろした。

「それは?」 

胸ポケットから二つ折りにされた二枚のメモを出し、テーブルに置いた。

「雲渡のデスクで見つけました」

そう言って、その内の一枚をひろげて指で押さえる。
そのメモには 『勝蔵テクノロジー、噂に高いボンクラ息子に近く社長の座を譲る』 と書かれてあった。

「勝蔵テクノロジー・・・」

「はい、雲渡が全て売ったやつです。 その二週間後にはこの発表がなされて、株がガタ落ちになりました。 こちらは雲渡のお蔭で大損を免れました」

筆跡は雲渡のものに見える。 だが、春樹が真似て書いたともいえる。

「そしてその後にこれです」

もう一枚のメモもひろげ指を置いた。

そこには 『KIYAMA 新開発、二か月後に発表』 と書かれていた。
KIYAMAというのは、ほんの数年前に上場したところで機械部品を扱っている。 特に昨今は二輪に強いようで、一時に比べ二輪離れしている昨今だが、若いにわかライダーに人気があるらしい。

「ここは・・・」

「はい、つい先日雲渡が大量買いしたところです」

メモをじっと見ているキノラ。

『雲渡さん、ここはまだ安定していません。 なのにこんなに』

『ええ、たしかに。 ですが、たったこの数年で跳ね上がっていますし、今も右肩上がりです。 これからはもっと上がるはずですよ』

『ですが買い過ぎです。 いい所でいくらか戻して下さい』

『では・・・そうですね。 三か月の猶予を下さい。 特に変化が無ければ半分は戻します』

そんな会話をしていた。 雲渡は三か月の猶予と言っていたが、このメモには二か月後と書いてある。 万が一、発表が遅れた時の事を考えてそう言ったのだろう。

メモから目を離さないキノラを見て、まだ押しが足りないか、と思う。

「夜間取引も行っていたみたいですが、それは何の証拠もありません」

メモから手を離して身体を起こす。

紫揺が夜、春樹に会いに行ったとき、仕事部屋に明かりが点いていたのを何度か見たが、それは雲渡が仕事部屋に入り込んでいたからだった。 それは紫揺の知ったところではないが。

「夜間取引?」

「はい。 ここは鎧証券を通して夜間取引が出来ますよね?」

確かに。 でもそれは誰にも言っていない筈。 それに春樹が何を言いたいかもわかる。 夜間取引は間違いを踏まなければ功績を上げやすい。

「鎧証券のことをどうして知っているの?」

「雲渡のパソコンの履歴を見ればわかります」

パソコンにパスワードを入れるのは禁止されている。

市場は九時から始まり十五時の後場で売買を終わらせる。
八時に出勤し一時間で情報を集める。 そして九時から取引を開始する。 十五時に売買を終わらせると、あとの二時間は今日の情報を収集する時間となっていた。 それ以外はパソコンを触ることを許されていなかった。 昼休憩の六十分すらも。

鎧証券はキノラが時々使っていた。
キノラ以外は必ず時間内で取引を終わらせるようにさせていた。 だがどうしても気になる時や、ムロイに何か言われた時にはキノラが使っていた。 だから手数料を引かれていても全く気にはならなかった。

だが春樹の言うことを信じるなら、雲渡が単に一度でも偶然に閲覧しただけかもしれない。 時間外に閲覧したのならば、それは許しがたいが。 それに雲渡の履歴から鎧証券のことを知った春樹自身が時間外取引をして、それをまさに雲渡がしているかのように言っているのかもしれない。
キノラが逡巡していると階上から声が降ってきた。

「へぇー、夜間取引? それって何時?」

春樹が身を捻じって階上を見る。

「黙っていなさいと言ったでしょ!」

キノラが階上のトウオウを睨みつける。

「キノラに言ってない。 ね、君。 それって何時まで?」

気になることがある。

キノラを一顧すると再び階上に目を移し 「ニ四時までです」 と答えた。

「ふーん、じゃ、あの怪しい眼鏡の兄ちゃんは、その夜間取引ってのをしに来てたのか。 納得、納得」

「どういうこと?」

眼鏡と聞いて、思わずキノラが訊いた。

「黙ってろって言ったのに、ご質問? お姉さま?」

キノラが睨みつけると大袈裟に肩をすぼめてみせた。

「何度か見たんだよな。 眼鏡の兄ちゃんが四階に上がっていくのを。 気持ち悪くてさ。 なんか、ヌラ~ってしてるだろ? あの兄ちゃん。 それでもあの部屋に入るから、キノラが何か言ってたんだと思ってた」

屋敷で眼鏡をかけているのは一人だけ。 それは雲渡。

「何度か? 一度ではなくて?」

「うん? アマフウの部屋に行くときに何度か見た。 気ン持ち悪い顔してたから、キノラに言われてなにか悪さをするんだろうなと思ってたけど、そういうことだったんだ」

と言いながらも、夜間取引がナンタルヤも分からなければ、雲渡がやったことが非難されるものかもわかっていない。 だから

“私に言われてなにか悪さを? それってどういうこと!?” と反撃が返ってくるかと思ったが、意外や意外、キノラが顔を下げてしまった。

「あれ? キノラお姉さまどうしたの?」



「あの、さっきは有難うございました」

「ん?」

一度仕事部屋に戻りまた階段を下りてきた春樹がトウオウを見つけて礼を言った。



あの後、顔色を悪くしたキノラが座を外した。
仕事部屋に戻った春樹が全員に 「今日の聞き取りは中止になりました。 仕事を続けるようにということです」 と報告した。

理由を聞かれたが分からないと答えた。 雲渡がどこか安堵しているのが気に障る。
報告をし終った春樹が部屋を出ようとするのを一人が見咎めた。

「仕事中だぞ」

ここでは一番下っ端の春樹だ。 エラソーに言われても仕方がない。

「報告後、皆さんの様子をキノラさんに報告するように言われていますから」

「俺たちの様子?」

一人が言ったが、他の二人も春樹に目を向けている。

「ええ、ややこしいことに巻き込んでしまったのではと、キノラさんが気にされていましたから」

嘘八百とはこのことか。

「へぇー、あのキノラさんがねぇ」

信じられないが、事が事だけに有り得るかもしれない。

「じゃ、報告に行ってきます」

「あ、ああ・・・あ!」 

“あ” が多すぎる。 それに “あ” の次は “い” だ。 コイツは “あ” を四回言ったから “あいうえ” ・・・クソ、あ行完成ならず、未完成。

「はい?」

「なんて報告するんだ?」

「皆さん落ち着いて仕事をされてましたって」

全然そんなことはなかった。 パソコンの画面は放置され、一塊になって、あーやこーやと言っていた。 その中に雲渡も入っていたから胸糞悪い。

「あ・・・そっか。 うん、そうだよな。 キノラさんにヨロシゲに言っといて」

“宜しく” ではなく “宜し気”。

「はい。 了解です」

暗黙の了解です。

人を最初の餌食にしながらよく言うよ、と心の中で呟くがそれは誰にも聞こえない。



いま春樹の目の前にトウオウとアマフウが居る。

「あの、さっきは有難うございました」

「ん?」

「だれ?」

アマフウがトウオウを見上げる。
トウオウがネームプレートに目を移す。

「春樹君だって」

「ふーん、ここのルールをよく知らないようね」

「え?」

なんのことかと、当惑の様子を見せる春樹にトウオウが言った。

「オレはオレの見たことを言っただけ。 礼を言われるようなことはしていない」

「あ・・・はい」

この青年の後押しが無ければ、まだ自分は疑われていたのかもしれなかった。 だから一言礼を言いたかった。 その為にキノラに報告をしてくると嘘をついて仕事部屋を出て来たというのに、無下に断られてしまった。

「行きましょ」

アマフウをチラッと見て春樹に目を戻した。

「ここのルールその一。 君の関係者以外には話しかけない。 その二、三、四、五は省略。 じゃな」

アマフウの腰に手を回すと、連れ立って屋敷を出て行った。

「あ・・・」

そう言われれば、最初にそんなことを言われていた。

「あの人達って、誰なんだ?」

何をしているんだろうか。 この屋敷の住人? それにしても人間関係が分からない。
さっき見たセッカの姿を思い浮かべる。

「あの女の人にお姉さまって言ってたし、キノラさんにもお姉さまって言ってた。 姉弟?」

五色が聞いたら誰もが脳天から大噴火を起こすだろう。

「でも全然似てないし。 なにより目の色だって全然違うし・・・」

初めてトウオウのオッドアイを見た時はビックリした。 間近で見ていたら声を上げていたかもしれないが、階下と階上で遠目だったから、驚きはそんなに大きくなかった。

キノラとセッカの瞳は面接で見ている。 外人の血が混じっているのだろうとその時は思った。 そして今見たアマフウの強膜にはかなり驚いたが、服装に合わせて白目用のカラコンを入れているのだろうと思った。 そんなものがあるのかどうかは知らないが。

――― そんなものは無い。

今日のアマフウの服装は見事なほど美しい色をしたスカイブルーの膝丈のチャイナ服だった。 だからそれに合わせて、カラコンを入れているのだと思った。

「紫揺ちゃんが居なくなってあの女の人、驚いてたよな。 それにキノラさんも」

いったい、ここの住人と紫揺にはどんな関係があるのだろうか。



ショウワの寝室から出てきたニョゼ。

「お熱は?」

ショウワの寝室の隣にあるソファーに座っているセッカが訊いた。

「37度8分でした。 微熱ですが、お歳を考えますと医者に行った方がよろしいかと」

「・・・そう」

いったん下げた顔が何かを思い出したのか、ポケットを探る。
ムロイがまだ目覚める前、薬草師と話していた時にムロイに使った熱さましの薬の話をしていて、とても効果があるからと、丸薬にしてあるものをいくらかもらってきていた。 ショウワに熱があると聞きポケットに入れていたのだった。

ポケットから丸薬を出すとテーブルに置いた。

「領土の薬草師にもらいましたの。 熱さましよ。 ショウワ様に飲ませて差し上げて」

「領土の・・・」

「ええ、ムロイにもよく効いていたみたいですわよ。 ショウワ様は私たちより領土でのお住まいが長いんですから、お薬は此処の解熱剤より領土の物の方が、お身体に合うのじゃないかしら」

「セッカ様? お顔のお色がよろしくないようですが・・・」

「ああ・・・。 そうかもしれなくてね。 気分が優れませんわ」

「ショウワ様にご報告があると仰っておられましたが、そのことででしょうか?」

「ええ・・・ですが今のショウワ様に、お話はお辛いでしょう」

ニョゼの立場では是とも否とも言えない。

セッカが立ち上がると時計を見た。 9時35分。

「一時間ほど寝ていますわ。 それまでは起こさないでちょうだい。 それ以降にショウワ様が、お話の出来る状態になられたようなら呼びに来てくださらないかしら。 ショウワ様にはマツリ様からの緊急のお話だと伝えてちょうだい」

「・・・」

マツリと聞いて返事すらも出来なかった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第144回

2020年05月04日 22時18分42秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第144回



成人を既に迎えているのだから親など二の次だろう。 独立して一人で暮らしていてもおかしくない歳なのだから、他人が口を挟むところではない。
だが息子の二歳下と聞かされても、本人が21歳と言っても、この誠也の父親は頭ではわかっていても心が自分の感性に正直だった。

「・・・」

「心配してらっしゃるんじゃない?」

紫揺の何を分かっているわけではなかったが、こんな小さな子が一人で真夜中に面識のない人間の船に乗るなどと有り得ない。 それにどうして一人で船に乗って来たのかも分からない。

「・・・父と母は・・・」

“父と母?” 幼い子が言う言葉ではない。 というような顔をして父親が聞いていたが、紫揺の言葉が止まってしまった。

「紫揺ちゃん?」

バックミラーに映っていた紫揺が頭を下げたのを見て思わず名前を呼んだ。 助手席でも誠也が、どうしたのか? という顔をしている。

「・・・亡くなりました」

「え?」

助手席から声が漏れた。

「私には父も母もいません。 親戚縁者も。 だから誰も心配なんかしていません」

手に持っていたメモをもう一度ポケットに押し込んだ。 今じゃなく、あとで渡そうと。

「・・・悪かったね。 嫌なことを訊いちゃった」

「いえ、そういうつもりで言ったんじゃないですから」

そうか、と小さく言うと一呼吸おいて続けた。

「でもね」

「はい」

「紫揺ちゃんのことを心配している人は、いなくなんてないんだよ」

長年培ってきた話術が出たのか心の底からなのか、絶好の間をおいて少しトーンを落として一言いった。

「いるよ」

「・・・え」

「おじさんは、紫揺ちゃんの周りにどんな人が居るのかは知らないが、少なくともその中に紫揺ちゃんのことを想っている人が居るはずだ。 心配をされていると思うよ。 おじさんなんて、ちょっと前に紫揺ちゃんに会っただけじゃない? それでも紫揺ちゃんのことを心配しているよ」

「おじさん・・・」

「紫揺ちゃんが、男に囲まれてるのを見た途端、走りだしたんだからな」

「え?」

「すぐに足が絡まってこけたけど」

「お前っ! 要らんことを言うんじゃない!」

「おじさん」

「最寄り駅になんかに降ろさないよ。 金沢駅に行こう」

「え? でも遠いんじゃ」

地理はよく分からないし、今自分がどこに居るかも分からない。 だが、改めて最寄り駅ではなく、どこどこの駅と言われれば、少なくとも最寄り駅より遠いことは分かる。

「九州方面に帰るんだろ? 金沢駅からだったら在来線を使わなくてもいいから。 サンダーバードで京都駅か新大阪駅まで出て、それから新幹線に乗り換えればいい。 しらさぎって手もあるけどね、サンダーバードの方がいいだろう。 紫揺ちゃんの持っている諭吉さんで足りるから心配しなくていいよ」

「よく知ってんだな」

「ちょっと前まで会社員だったんだからな。 出張もあるわな」

「ふーん」

口を尖らせて言うと後ろを振り返った。

「紫揺ちゃん、言っただろ? 親父のやりたいようにさせてもらえないかな?」

本心ではなかった。 いや、少し前までは本心だったが。
紫揺が父親の心配をし懸命に足をマッサージする姿を見て・・・父親が許せなかった。 いや、そうではない。 許せないのではなく “甘えんな!” そう思った。 最初は。

父親の足を懸命にマッサージする紫揺の姿。
父親のクソ足をマッサージする紫揺。 それだけではなく、筋肉や筋を伸ばすために、父親の靴を脱がし、足の裏までをとって動かし、脹脛の緊張・・・隆起とやらと向き合っていた。
面白くない。 不愉快。 胸糞悪い。

だから 「クソ親父がいい所に運んでくれるよ」 という言葉になった。

「クソ親父って何だ!」

父親が言うのは尤もである。

一瞬、親子喧嘩でも始まるのかと思いどうしたものかと身構えたが、それ以上何も言い合うことはなかった。

「父親と息子の会話ってこんな風なんですね」

顔をほころばせて言う。

「さーて、どうかな。 コイツは愚息だからこんな会話になってるんじゃないかな」

バックミラーに映る紫揺に話しかける。

「うん、いいね。 そうやって笑っていなさい」

バックミラー越しに目が合うと紫揺の顔が更にほころんだ。 父親の顔もほころぶ。

(気分ワル。 なんだよそれ。 それって俺のセリフじゃないのかよ)

プイッと、顔を横に向ける。

(って? え? なんでそんなことを思わなくちゃいけないんだ?)

思いながらも、面白くない。 更に面白くない。 まったくもって不愉快だ。 そう思った比較級くずれを思い出す。

(え・・・うそ。 マジ?)

ガバッという効果音でもしそうなほど勢いをつけて、後ろに座る紫揺を見た。

「はい?」

紫揺がキョトンとしている。

凝視する。

「あ・・・あの」

小さくだが、ほんの小さくだが

(ドキがムネムネ・・・ちがう。 俺、何を焦ってるんだ。 もとい。 胸がドキドキして・・・る?)

「杢木・・・さん?」

「・・・いや、なんでもない」

前に向き直った。

「なにやってんだお前は」

右から父親の声がする。

(ウソダロ。 有り得ない・・・俺がロリコンだなんて。 俺の、俺の標語は・・・ “愛せよ、ボン・キュッ・ボン” だ。 それを譲るなんて有り得ない。 それもこんな何の色気もないチビッコに。 あ・・・でも・・・)

トウオウと阿秀はボン・キュッ・ボンではない事に気付いた。

(ウソダロ―・・・)

助手席で頭を抱えだした息子に冷ややかな目を送った誠也思い込みの恋敵がバックミラーの紫揺に話しかけた。

「どこかで朝ご飯でも食べようか」

同性愛、ストーカー、ロリコン。 一日を待たずしてどころか、数時間も満たない内に三つの自分を発見した。
同性愛の方は勘違いの部分があるが。 さて、どの道を選ぶのだろうか。



屋敷で電話が鳴った。

屋敷内には固定電話が置いてある。 それは親子電話で親機がホールに。 子機が、厨房、ムロイの仕事部屋、セノギの部屋。 そして仕事部屋にも置いてある。
その他の各部屋には内線だけができる電話が置いてある。
基本、外線からの電話をとるのはセノギである。 お付きたちは外部とのパイプ役は出来ない。

今はセノギが居ないため、子機をとったのは仕事部屋に居たキノラであった。

「はい」

“もしもし” ではなく “はい” 。

『こちらは証券取引等監視委員会ですが』

「はい?」

『証券取引等監視委員会です』

「・・・そんな所から電話を頂く理由などありませんが?」

画面を見ていた春樹が首を捻ってキノラの背に向けた。 聞いているうちにキノラの様子がおかしく感じられたからだ。
まぁ、この屋敷に来て初めて電話の音を聞いたのだから、電話に出た時のキノラの応対など聞いたことなどないのだから、これが普通なのかもしれないが。

「は!? 何を理由にそんなことを仰るんです!?」

『ですから、一度こちらまで―――』

「行かねばならない理由などこちらにはありません」

『あなたは代表者ではありませんよね?』

誰が代表者かはもう調べている。 それは男、ムロイである。 声の主は女。

「ムロイは今出ております」

『いつお帰りですか?』

「予定などありません! それに今は私がムロイ代理です!」

領主代理はセッカだが、仕事に関してはそうだろう。 誰も文句は言えまい。

これが親機なら受話器を叩きつけて切っただろうが、悲しくも子機だ。 持っていた手の親指でプッチと切った。
“証券取引等監視委員会” と、長々とした名を名乗った相手は、インサイダー取引の件で確認したいことがある、金融庁まで来てほしい。 とのことだった。

これに応じなければ罰金若しくは懲役があるのは知っている。 それに今は呼び出しで済んでいるが、立入検査や差し押さえなどされては仕事が滞るだけではなく、領土のことが万が一にでも露見してしまってはどうにもならない。 それに・・・。

子機を充電器に置いたキノラが振り返る。 仕事部屋に居る全員と目が合った。

「まわりくどいことは言いません」

と前置きをして続ける。

「インサイダーなどということはしていませんね」

ビクッと体を震わせたのは雲渡。 目を大きく開いたのは春樹。 あとの者は困惑の色を見せ互いに見合っている。

「電話がかかってきたからと言って、仕事を止めたくはありません。 ですが一人ずつに話を聞きます。 順番にホールに下りてきてください」

そう言うとすぐに部屋を出て行った。
バタンと閉められたドア。

「ど、どういうことだよ、インサイダーって」

一人が言う。

「ああ。 でも今はそんな事よりホールに下りる順番だ。 待たせたら怖い。 どうする?」

もう一人が言う。

「まずは・・・新米、からか?」

更にもう一人が言うと、三人の目が春樹に集中する。

「・・・分かりました」

掌を上に向けて肩の高さまで上げ、オーバーアクション気味に応えると席を立った。
雲渡をチラッと見ると青ざめた顔をしている。 これでは誰がインサイダーをしていたかは一目瞭然だろう。

(さて・・・疑っていたことを言うべきか言わざるべきか)

部屋を出ると階段を降りて行った。


階段を上がろうと歩いていると、ホールを歩いている青年の後姿が目に入った。 ホールにあるソファーにはキノラが座っている。
青年は領土の者ではなくここで仕事をしている者だ。 方向からすると外から入ってきたのではなく、小階段を使っておりてきたのだろう。 こんな時間にホールを歩いているなどとは珍しいことだ。

「もしかしたら・・・あの人がシユラ様の手紙を預かってくれた人かしら」

つい足を止めて見てしまったが、気にしながらもそのまま階段を上がった。 手には体温計と替えのタオルを持っている。

セキは 『キノラ様の仕事の人? よくわからないけど、私たちと同じ所で生活している人から預かりました』 そう言いながら手紙を渡してくれた。

ムロイの仕事部屋で何度も何度も紫揺からの手紙を読み返した。 もう今日の分の涙が枯れ果てた。 明日また読むとまた涙を流すだろうが、泣いているばかりでは紫揺に恥ずかしい。
紫揺の気持ちが嬉しかったし、紫揺は自分の道を歩き出したのだ。 自分も出来ることを、せねばならないことを、したいことをすればいい。

そして今自分の出来ることは、せねばならないことはショウワの身を案じることだ。 そう思うと最後の一粒を落として立ち上がった。

もちろん、紫揺が居なくなったことは誰にも言っていない。 紫揺がここを出て行くことを誰にも止める権利などないのだから。 ムラサキとしての力のことが気にならないと言えば嘘になるが、そのことも含めて紫揺がここを出て行ったのだ。

――― 心配などいたしません。 シユラ様なら乗り越えることがお出来になる。

立ち上がった後、ムロイの部屋でそう締め括った。


青年がキノラの前に立つと一礼した。 キノラが向かいのソファーに座るように促しているのが見てとれる。

「あら」

声のした方に目先を変えるとセッカがいた。

「体温計にタオル? なに? シユラ様はお熱でも出されたのかしら?」

「いえ、これはショウワ様に」

「お熱を出されたの? ・・・まぁ、お熱を出されても構わないわ。 ご報告さえ聞いていただければ。 で? シユラ様は?」

「あ・・・あの」

ニョゼが言い淀んでいるとトウオウの声が響いた。

「へー、珍しいねー、キノラ何してんのー?」

廊下の手すりに肘をついて階下のキノラに言った。
アマフウの部屋を訪ねようと部屋を出てきたら、珍しい所を見て訊かずにはいられなかったようだ。

セッカとニョゼがトウオウの声につられた。
仕事をしている者は大階段を使わないように言われている。 それに屋敷の中を自由に歩くことも禁じられている。 それなのに五色の目がある時間にフロアーを歩き、ましてやソファーに座るなどあり得ない。

階下からキノラと振り返った春樹が二階を見上げた。

「お黙りなさい」

「あら、ご機嫌斜め」

肩を竦めると少し離れた所に居るニョゼの手を見た。

「あれ? 体温計って?」

「ショウワ様のお身体の具合があまりおよろしくないようなので」

「ふーん」

両手を後頭部に組むと「お歳だからね」 と言いながらアマフウの部屋に向かおうと一歩を出した。

セッカもついトウオウにつられて階下を見ていたが、その顔を戻して先程までの会話を続ける。

「で? シユラ様は?」

トウオウの足が止まった。

「はい・・・その」

腕は後頭部に置いたまま、回れ右をしたトウオウ。

「シユラ様ならいないよ」

「いない? どういうことかしら?」

トウオウに向けたセッカの眉が寄る。

「屋敷から出て行ったってこと。 ってか、島から出て行った」

「冗談を言ってる暇はないの。 こっちは急いでいますの」

「まぁ、信じる信じないは自由だけどな。 ってことでオレはちゃんとセッカお姉さまに報告したからな」

言い終えるとまたもや回れ右をして歩き出そうとした。

「ちょっと待ちなさい、いったいどういうことなの?!」

階下では本来話すことも忘れて、キノラと春樹が二人の会話を聞いている。
春樹にとっては気になるところだし、それに “紫揺様” と言っている。 “様” 付け。 どういうことだ、と思わなければいけないのに、紫揺の名前を聞いただけで、その動向を聞いただけで “様” 付けが吹っ飛んでしまっていた。
そして春樹とは違う意味で、キノラも紫揺の話に食い入っている。

「だーかーらー」

またもやクルリと回転するが、だるそうに手は下ろされた。

「夜中、この島を出て行ったって」

「出て行ったって・・・船も何も無いのにどうやって出て行ったというの?」

「船ならあったよ。 迎えが来た」

良かった会えたんだ、と春樹が胸を撫で下ろした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第143回

2020年05月01日 22時34分00秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第143回



紫揺が何をどう考えているかなど知らない阿秀。
もとより紫揺の性格も知らなければ、北の領土の者たちとどんな話をしてきたのか、今までどうしていたのかも想像できないのだから、阿秀に出来ることは、紫揺の質問に真摯に答えるだけであった。

「領主の判断次第ですが、領主は藤滝紫揺さんに無理強いをされたりはいたしません」

(あれ? 予定外・・・)

ムロイとは全く違うことを言っている。 だがムロイも嘘をついていた。 ホテルから帰すと言っておいて知らない間に屋敷に連れて行かれていた。
いや、あの時ムロイははっきりと帰すとは言っていなかった。 猶予をくれと言っていただけだった。 だがこうして抜け出してこなければ、結局は嘘ということになったはず。

この目の前にいる男は、北の領土ではなく東の領土の者と言っていた。 それは言葉だけを考えると北と東とで領土が分かれているということだろう。
あの北の領土を東にずっと歩いて行くと、目の前にいる男の言う東の領土というところがあったのだろうか。
いや、どこに何があろうと関係ない。 今はこうして島を出てこられたのだ。 そして二度と攫われる気などない。 家に帰るだけなのだから。

あれこれと考えている内に少しは頭に上っていた血が下がってきた。

「私が何にも関して、イヤと言えば解放してくれるということですか?」

「まずは領主とお話しください」

「解放してくれないということですね」

「そのようなお考えは持たれませんように」

この男の言葉にふとトウオウ付きの爺の姿が目に浮かんだ。 

「お説教ですか?」

「決してそのようなことは御座いません」

全くもって、この男はセノギであり、爺である。 あの地の者そのもの。 これ以上なにも話したくない。

「私は誰にも会いません」

「・・・承知いたしました。 ですが藤滝紫揺さんが領主にあっていただけると思われるまで、我らが北の者から藤滝紫揺さんをお守りさせていただきますことをご了承ください」

(ストーカーかっ!)

思っていても言えるセリフではない。
それにもし言ってしまって、万が一にもそれを誠也が聞いてしまえば卒倒するだろう。 それは紫揺の知るところではないが。

「勝手にしてください」

目の前のこの男の言葉を信用するならば、北の領土と東の領土というのは敵対しているのだろうか。

それにしても、この男からは無理矢理何かをしようという気配を感じない。 例えば、攫ったりとか。
この男を都合よく信用するとして、北の領土と言っている人達から守ってもらえるのは歓迎だ。 また連れ去られるのはイヤなのだから。 なんのために脱出してきたか分からない。

向き直って歩き出す。

「有難うございます。 これからどうなさいますか?」

「家に帰ります」

「承知いたしました。 ご自宅までお送りいたします」

「ケッコーです!」

「ではせめて駅までお送りさせてください。 ここから駅までは遠く、簡単にタクシーも走っておりません」

「ケッコーですと言いました。 駅までは歩いて行きます。 これ以上話しかけないでください」

「失礼いたしました」

ズンズンズンと歩く紫揺。 完全に船着き場に戻っていく。 駅と全く反対方向である。 一定の距離を置いて阿秀ではなく、息を吹き返した悠蓮が付いている。 それから随分と離れて野夜と湖彩がいる。

「紫揺ちゃん・・・」

悠蓮が止まって管理棟に身を隠す。 湖彩と野夜がそれに倣(なら)う。

「え?」

薄っすらと聞こえたのは杢木の声だ。
前だけを向いて歩いていた紫揺が横を向いた。

「えっと、いったい何がどうなってんの?」

阿秀の姿を追っていた誠也がサルを見たあと、なにやら不穏な雰囲気を持った阿秀と紫揺の姿を見て引き返していた。 管理棟を通り越した端まできて、どうしたものかと考えながら、上から父親を眺めていた。 そして足音に気付き振り返ると紫揺が歩いていた。

「杢木さん!」

蜘蛛の糸とは、このことだろうか。

「え?」

あまりにも紫揺が顔を輝かせながら走り寄ってくる。 さっきまでの紫揺と全然違う気がする。

「まだ帰ってなかったんですか!?」

「え、ああ。 親父があんなだから」

視線を下に送る。
その視線の先を追うと、誠也の父親がぶっ倒れているではないか。

「おじさん!」

言った途端、高い壁を跳び下りて父親の元まで走った。

「おじさん! おじさん! 大丈夫ですか!? 杢木さん、救急車―――」

そう言いかけた時、父親の肩に添われていた紫揺の手を父親が握った。

「何ともないよ。 ちょっと足がつっただけ」

「足? 足ですか? 足のどこですか?」

「脹脛がちょっとね。 それより紫揺ちゃん、さっき囲まれていたんじゃないのか? どうしたの? 大丈夫なのか? ・・・痛っ」

身体を動かして痛さが再燃したようだ。

「大丈夫です」

――― その筈です。

言いながら、父親の脹脛をマッサージし始めた。

「紫揺ちゃん! そんなことしなくていいよ! 勝手に治るから!」

「いえ、させてください。 それに私、上手なんです」

――― 多分。

身体のことの知識はなくとも、我が身を持って分かっている。 骨や関節は当たり前だが、筋肉や靭帯、それも分かっているつもりだ。 ただ、脂肪は分からないが。

「筋肉が隆起しています。 じっとしててください」

何年も走ることがなかったのに、急に走って僅かながらの筋肉が痙攣したのだろう。 その筋肉を徐々にほぐす。

「・・・ああ、痛みが引いていく」

紫揺と父親の姿を上から見ている誠也。

――― 面白くない。

紫揺の手の動きを見る。

――― 更に面白くない。

今度は父親の靴を脱がせ、足の裏に手を添え何やらしだした。

――― まったくもって不愉快だ。

すぐに紫揺のように跳ぼうとして足がすくんだ。 高い。 走って回り込むと長く緩やかな坂をかけおりた。

「親父! もう何ともないんだろ!」

「お前・・・労わるってことを知らんのか?」

「労るもなにも、今はもうどうもないんだろうがっ!」

「紫揺ちゃん、有り難う。 あの痛みが嘘みたいにスッと引いたよ」

「本当にですか?」

「ああ」

父親が身体を起こしてきた。 その顔に痛みを我慢している様子はないようだ。

「良かったです」

紫揺と共に靴を履いた父親も立ち上がった。

「さて、帰ろうかね。 どこまで送ろうか」

「有難うございます。 最寄り駅までお願いできますか?」


「醍十、お前は領主の元に行け。 その筈だっただろう」

梁湶が言う。

「あ・・・」

「紫さまのことは俺らが守る。 既に阿秀が領主に連絡しているはずだが、子細まで話せていないだろう。 こと細かなことをお前から領主に話せ。 任せる」

「あ・・・ああ」

その時、

「醍十」

と、声がした。 阿秀の声だ。

「領主の元に向かう」

阿秀の隣には若冲がいる。

「えぇ? 阿秀も?」

「ああ。 若冲は船を移動させてくれ。 紫さまが家に帰られる。 梁湶、後を任せる。 四人で一台に乗ってくれ」

ということは阿秀と醍十が二台の車にそれぞれ分かれて車に乗るということだ。

「了解」

二人が応える。

「車をまわしてきます」

醍十と梁湶が駐車場に入って行った。
梁湶がまわしてきた車から降り、その運転席を阿秀に預けた。

阿秀と醍十の運転する車を見送ると、梁湶が再び駐車場に入り運転席に座った。 紫揺の後を追っている湖彩たちを待つためだ。


「ではすぐにでも紫さまの元に」

ホテルに着いた醍十からの報告を聞いた領主が腰を上げかけた。 それは殆ど紫揺のサル技と思われるパルクールの話ではあったが、最終的に紫揺と接することが出来たというものだった。

「領主、続きがあります」

「続き?」

「はい」

そう言うと、目線を醍十に転じた。

「此之葉の様子を見てきてくれ」

「え? 此之葉がどうかしたんですか?」

「それが分からないから見てきてくれ」

此之葉の機微は誰よりも醍十が察するだろう。
此之葉には領主の隣の部屋をとっているが、いつもは領主の部屋にいる。 だが今は遠慮をして自室に戻っていた。

開口一番、紫揺と会えたという醍十からの吉報を聞いて喜んでいるはずだが、一人放っておくのは気になる。
醍十が部屋を出ると、阿秀が紫揺との苦々しい会話を領主に聞かせた。

「・・・そうか」

「本来なら、紫さまのお心に、我が領土の色が塗られたのでしょうが、北が黒を塗ってくれたようなものです」

「・・・そう怒るな」

「怒ってなどおりません。 ですが許せるものではありません」

そう、何世代も前から。
それを今の北の領主が紫揺に押し付けたのかと思うと、腹が煮えくり返る。 が、怒ってはいない。 らしい。

「分かっておる、分かっておる。 私の言葉の選び違いだ。 悪かった。 で、いつ紫さまにお会いできる?」

「紫さまのお心だけを考えますと、現段階では見当はつきかねます。 北との間で何があられたのやら・・・」

「紫さまに、何よりも一番に謝罪をせねばならないのは私だ。 祖のしたことを謝らねばならん」

「それは・・・我が祖が誰よりも」

途中まで言って頭を下げた。
あの時、あの時代に先代紫の周りを警護していたお付きの頭は阿秀の祖だったのだから。

「・・・阿秀の祖のせいではない。 時の領主の・・・我が祖父の過ちだ。 それが事の始まりだ」

「そのようなことは」

「危険を回避できなかったことも然り、その後のことも然り。 祖父の判断が間違っておらなければ、今も・・・その昔も紫さまが東の地に居られただろう。 ・・・どの道を選んでいてもな」

“どの道” それは紫が居なくなったことを知った本領が、新たな紫を迎えるようにと勧めたのを “是” とせず “否” としたことを遠回しに否定をしている。
“否” と断を下したのは時の領主だ。
“是” としていれば、今も昔も紫と呼ばれる人物が東の領土にはいたのだ。
今やっと今代紫が見つかったが、振り返った何十年は紫がいなかった。 時の領主を斟酌しながらも難ずるように言った。

「ですが民もそれを望んでいなかったはずです」

「いや、説き伏せるのも領主の務めだ。 全ての責任は領主にある」

「・・・」

「此之葉を呼んできてくれ」



セノギと爺・・・。
セキがいい人と受け止めていたセノギ。 逃がしてくれたトウオウの爺。
ブンブンブンと、紫揺が頭を振る。

阿秀のことを考えていたのだ。 阿秀に初めて会った時に、セノギ的立場の人間だと思った。 それ相応の言葉選びも姿勢もセノギに似ていたからだ。 加えて言うとバックの人間たちの存在が、そう思う色を付けていた。 そしてセノギにはなかった爺のようなことを一言いった。

(誰よ) 

誰よと言われても、東の者だと名乗ったが? その先を名乗らせなかったのは紫揺ではないのか? 『・・・東とか北とか・・・。 それって何なの!?』 そう言ったではないか。 阿秀の名を問わなかったではないか。
だが、阿秀も問われては困っただろう。 紫さまに名を名乗るのは一番に領主なのだから。

(北とか東って、東西南北? なによそれ、勝手に二方向を言えばいいってもんじゃないわよ)



紫揺を乗せた車が走る。 その後を一台の車が追っている。 セダンである。
運転席に梁湶、助手席には湖彩。 そして後部座席に悠蓮と野夜。
車の中では沈黙の時が続いていた。 ほんの少し前の自分の、自分たちの醜態に誰も口を開くことが出来なかった。
紫揺の後を追って紫揺を捕まえられなかったどころか、尻もちを着くは、前のめりにこけるは、遠回りと分かっていても迂回をしたは、情けない姿を演じたのだから。



「なに?」

助手席に座っていた誠也が後ろを振り返った。

「え? なんですか?」

「ブツブツ言ってるけど、なに?」

心の中で思っていたことが口に出ていたらしい。

「あ・・・ちょっと・・・。 その、気にしないでください」

笑みを向けたつもりが、苦笑でしかない。

「そう?」

と、前に向き直った時にポケットにあるメモがカサっと音をたてた。 メモの存在に気付き 「あ」 と声を漏らす。

(そうだった! 忘れてた。 これであの美青年のことが聞ける。 それにあの人のことも。 あれだけ親密に話してたんだ、親しい中なんだろうな)

美しくない三段論法は瓦解した。
阿秀と紫揺が話しているのを見て、不穏な雰囲気と感じたのを、親密と置き換えるとは、どこでどうすり替えたのか。

ニマリと笑ってメモを取り出す。 身体を捻じって後ろを見ようとする動作より、父親の声の方が早かった。

「紫揺ちゃん?」

「はい」

「お父さんとお母さんは?」

バックミラーをちらりと見ると、まるで迷子の幼児か小学生に訊くように、ちょっと悪さをした中学生にでも訊くように問いかけた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする