大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第67回

2022年05月30日 21時49分15秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第67回



紫揺の両手で耶緒の手を包み込む。

「辺境からお出になってこちらに来ることになり、戸惑われるところも多々あったと思います。 生活環境も違えば何もかも違ったことでしょう。 私も何度か辺境に行きましたが、ありとあらゆることが違いました。 食べ物の食材一つにしてもです。 こちらに来て耶緒さんが初めて見る食材が沢山あったと思います。 料理の仕方を教わり、生活の流れ方を教わり、大変でしたでしょう」

ゆっくりと紫揺が話しているのを聞いているのだろう。 閉じられた耶緒の目から涙が落ちた。 耶緒の手を離すとポケットから出した手巾で拭いてやり、また耶緒の手を取る。
その様子を見ていた秋我が傍らに置いてあった手拭いを手に取ると、反対側の耶緒の枕元に座りまだ出てくる涙を拭いてやる。

「まだまだ慣れない大変な時にお腹に赤ちゃ・・・赤子が宿ってお腹を気にする間もないくらいだったと思います。 普通の生活をしている民ではないのですものね。 秋我さんは領主さんのあとを継ぐ方。 覚えなければならないことも沢山あったと思います」

紫揺の話はずっと続いた。
耶緒だけではなく秋我も紫揺の話に耳を傾けている。 それほどに大変だったのか、己は分かってやれていなかったと、こちらも目を赤くしている。

最初は止まらぬ涙を流していた耶緒だったが、その内に軽い寝息が聞こえてきた。 紫揺がそっと手を離すと何でもないように耶緒の布団を軽くめくった。

胸元辺りは何ともないように視える。 何も無いということは視えていないのだろうか。 まだそこのところに自信が無い。 そのままめくっていくと胃のあたりで灰色に茶色を混ぜたような塊があるのが視えた。

(なんだこれ・・・)

更にめくっていくと、嬉しくも下腹辺りに光り輝くものが視える。 視えているようだ。

「良かった。 赤ちゃ・・・赤子は元気なようです」

「え?」

急に耶緒の布団をめくり始めた紫揺に何をしているのかと問うことすら出来なかったが、五色の力で赤子を見てくれているのだと分かった。 五色にそんな力もあったのか、と初めて知った。
俯いたままの紫揺から目を離すと、秋我が先程まで布団の下に隠れていた耶緒の手を取ってやる。
冷たい。
その冷たい耶緒の手を自分の頬に付ける。

下腹から太腿と視、布団をかけ直すと今度は足元から布団をめくっていき、太腿の下からを視る。
特に何も不審なものは視えなかった。 布団を直すともう一度胃のあたりまで布団を下げる。
やはり胃の辺りに、灰色に茶色を混ぜたような塊が視える。

「耶緒さんの具合が悪くなる前に何を食べられたか覚えていらっしゃいますか?」

秋我が首を捻って考えているようだが、この様子では記憶にないようだ。

「すみません、ちょっと思い出せません」

紫揺が耶緒に視える塊の上に手をかざす。 何か歪んだ嫌なモノを感じる。

「普段食べないものとかってありませんでしたか?」

掌がピリピリしてきた。 北の影の時にもリツソの時にもこんな感触はなかった。

(いったいなんなんだろ・・・)

「すみません、よく覚えていません」

「そうですか。 分かりました」

手を引くと耶緒に布団をかけ直し考える。

北の影の時にはモヤモヤしたものを足の裏から出した。 リツソの時は頭頂部分から出した。
北の影の時にはモヤモヤしたものが足の裏から出ていたから、それに倣って出し、リツソの時には頭頂部に出口を見つけたからだった。

だが二人とも煙のようなものだったから何とかなったものの、耶緒の場合は完全に塊だ。 質量を感じさせる。 その塊を胃から出すにはどこをどう伝って出していいのか分からないし、質量のある塊を出すことなど考えもつかない。
どうしたものかとしばし考えるがやはり見当がつかない。

「悪阻はあるかもしれません」

急に口を開いた紫揺に目を向ける秋我。

「ですが悪阻のせいだけではないようです」

「え?」

「この辺りに良くないものが視えます」

そう言って自分の鳩尾辺りに掌をあてる。

「食べた物の影響かもしれません。 それだけじゃないかもしれませんが、少なくとも食べた物が分かれば薬草師に何か調合してもらえるんでしょうが・・・。
いま耶緒さんは身重なのでちょっとした食べ物にも反応してしまうんでしょうが、秋我さんはどうです? 何かを食べてなにか詰まった感じとか、一瞬でも吐きそうになったりとか、いつもと違うことがありませんでしたか?」

「・・・いいえ、全く」

領主と似たがっしりとした体格。 ちょっとやそっとでは何ともないのかもしれない。

「そうですか」

耶緒の顔を見る。 このままにしておいていいはずはない。 どうすればいいのだろうか。

「水分はどれくらい摂ってますか?」

「この数日、日に白湯を湯呑一杯くらいでしょうか」

全く足らないではないか。
日本では随分と前から水分のことが見直されている。 一日二リットルとかそんな話を聞いたことがある。 それに顧問からも練習前後は充分に水分をとるようにと言われていた。
だが飲むと吐いてしまうのだろう。 どうしたものか。

血の巡りをよくしたらあの塊は取れるだろうか。
血の巡りが悪ければ内臓が冷える。 内臓が冷えると身体も冷える。 あの耶緒の手の冷たさは普通ではない。

紫揺が耶緒に掛かっていた掛布団を再度下腹まで下げる。

「失敗に終わるかもしれませんがやるだけやってみます。 もう一枚お布団を出してもらえますか。 肩が冷えるので」

紫揺の言いたいことが分かった。 すぐに秋我が掛布団を持ってきて耶緒にかけた。 すでに下ろしていた掛布団の上までかけてやる。 温暖な東の領土である。 布団と言っても薄いものだ。

「ここに居て下さっても全然かまいませんが、気にしないで用事があれば何でもしていて下さい」

秋我が頷き「手を取っていてもいいですか?」と尋ねた。
悪阻だけでは無いと聞き、より一層、耶緒のことが心配になったのだろう。

「はい、かまいません」

耶緒の腹に手をかざす。

さっき紫揺は鳩尾の辺りを秋我に示した。 なのに腹に手をかざしている。 秋我にはその意味が分からない。 ただ耶緒の手を握ってやることしか出来なかった。

紫揺はまず腸から温めようとした。 そこから血の循環が良くなればと思って。



「それで強面の武官を呼べと言ったのか?」

四方の従者からマツリが敢えて “強面の武官” と言ったと聞いていた。

「乃之螺のような者にはそれが一番かと」

マツリに対して足を蹴ろうとしてきていたのだ。 乃之螺はマツリを恐れていないということ。

「父上のようなお身体があれば、あの様なことはしなかったのでしょうが」

他出着のままの己の身体を見る。 身体にフィットしているが為、身体の線がよく分かる。 どう見ても華奢・・・とまで言うつもりはないが、決して筋骨隆々とは言えない。 それに顔もただ美しいだけでその中に冷徹さが入っているとはいえ、四方のように威厳のある顔ではないし、声も四方ほどに深く響く声ではない。

実際マツリの言ったことを証明するかのように強面の武官が来た途端、乃之螺が身を縮めた。
乃之螺はマツリの言うようにマツリのことを脅威とも思っていなかったようだが、マツリに対してのほどではないが四方に対しても口が過ぎていた。

威厳を持ち余しているほどの四方であるが、今は二つ名を閉じている。
“四方” であり “死法”。 二つ名の片方である “死法” を閉じているということであれば簡単に潜り抜けられると思ったのだろう。

四方が何かを質問すると的を射ない答えを返す。 すると強面の武官に背中を突かれる。 強面に睨まれ、しぶしぶ答える乃之螺だったがそれの繰り返しだった。

ハッキリ言って単なるビビリンチョである。 強面の武官に睨まれただけで答えるのだから。 ビビリンチョなのに地下と繋がり金を手にしようとしていた。

妹の稀蘭蘭のことは四方から問わずとも乃之螺が喋った。

『せっかく辺境から呼んでやったのにっ! アイツがオレのことを喋ったのか!』

四方に対して口の利き方がなっていない。 武官が押さえこもうとしたのを四方が止めた。

『どういうことだ』

乃之螺によると以前から稀蘭蘭は辺境から出たいと言っていたと言う。 だから官吏となった乃之螺がやっと落ち着き稀蘭蘭を辺境から呼んだという。
最初は良かった。 まだ下級官吏であるからそれほど給金はなかったが、稀蘭蘭も働いて二人で過ごすには何の不自由もなかった。

四方の従者の調べでは乃之螺が両親に金を送っていたとのことだったが、実際には稀蘭蘭が自分で働いた金の一部を乃之螺の名で両親に送っていたのだった。

だが乃之螺が地下の存在を知った。 もっといい生活をしたい。 下級官吏で終りたくない。 乃之螺から地下の者に近づいた。 運良くなのか悪くなのか、それが城家主の手下だった。

宮の情報が欲しければやるが? と。 最初は商人の行程情報を流した。 だがそれも段々と流せなくなってきて、小さな宮の情報を提供するたびに、城家主の手下から金を受け取った。
それを城家主がやっていられなくなったのだろう。 そこから地下の者が官吏たちの親族を誘拐し始めた。

それに焦った乃之螺。
地下の者・・・いや、城家主はマツリの動向を気にしていることを知った。
そこで稀蘭蘭に見張番に近づくように言った。

『どうして?』

『いいから、見張番の誰でもいい。 お前は器量がある。 誰でもいいから見張番に近づけ』

『兄さん・・・ここのところおかしい』

『うるさい! 誰がお前を辺境から呼んでやったと思ってるんだ。 オレの言うようにしろ!』

『どうして』

『見張番の誰でもいい! 誰でもいいから見張り番に近づけって言ってんだ!』

『兄さん・・・どうしたの?』

『うるさい! オレの言うようにしろ!』

乃之螺に言われ稀蘭蘭が百藻に近づいたが百藻の心に稀蘭蘭が惚れてしまった。 乃之螺にしてみれば大誤算だった。

『あの馬鹿がっ! なんの役にも立たない! 誰が辺境から呼んでやったんだと思ってるんだ!』

四方が顔を投げた。
稀蘭蘭も百藻も巻き込まれていなかったのには安堵するところだが、切っ掛けがこれなのかと思うと心穏やかにはいられない。

乃之螺のことは武官に任せた。 椅子に座っていたマツリも四方と同じであった。

乃之螺が仕事を中座してでも地下の者に情報を提供したのは些細なことだった。 宮の行事を大雑把に言っただけだったと言う。
乃之螺を切っ掛けに、官吏たちの親族を誘拐し始めた城家主の手下達に振り向かれなくなったから焦ったということであった。 その時に物珍しかったのだろう、帯門標を手下に取り上げられたという。

そしてまた妹である稀蘭蘭を悪しざまに言い始めた乃之螺のいい草に四方が声を上げた。

『たわけ!』

従者が亀のように首を引っ込めるほどであった。

『いい加減にせよ! お前は己が妹を何と考えておる!』

腰を抜かしたのか、乃之螺が後ろに尻をつき目を大きく開けると四方を見た。


四方とマツリが西の門をくぐる。

「百藻にどう伝えましょう」

何も知らなかった稀蘭蘭であるが稀蘭蘭の兄が捕らえられたのだ。 ましてや稀蘭蘭が百藻に近づいたのが乃之螺に言われてのことだ。

「あるがままだ」

「・・・」

マツリが顔を下げる。

「問われれば、あるがままを百藻に言う。 百藻はそれを分かるだろう」

違うか? という目を送ってくる。

「はい。 そう思います・・・」

百藻はそういう男だ。 だがあの百藻の顔を思い出すと百藻にとって厳しい話となるだろう。

「まあ、こちらが言うより先に稀蘭蘭が百藻に言うのが一番だがな」

尤もである。 己が何を懸念しても始まらぬこと。 頷くことしか出来ない。

「あの者たちのことはもう刑部に渡した。 あとは帯門標の再発行をした者に咎を言い渡さねばならんか」

刑部に渡すほどの話ではないということだろう。 内々に終わらすということ。

「それで? 杠に話したのか?」

片腕になると言う話を。

「はい。 考えさせてほしいということでした」

「ふむ。 何を戸惑っておるのか」

「官吏に就くには簡単なことではありません。 それだけが理由ではないのでしょうが杠もそれを分かっているのでしょう」

「ふむ。 他の者の目もあるか。 では形式だけの試験でもするとしようか・・・」

それでも時季外れではあるが。

「紫を送る前に話しましたから今頃は考えがまとまっているかもしれません」

もう夕餉の刻は充分に終わっている。
紫揺はどうしているだろうか。 泣いていた顔を思い出す。

―――泣かせてしまった。


四方とマツリ二人で遅い夕飯を口にしようとしていたのに、何故かもう既に食べ終わったシキが茶を前に置き同席している。 それどころか紫揺が帰ったというのにどうしてまだ宮に残っているのか。

「え? そんな理由で武官を呼んだのですか? それも強面の武官を?」

「そんな理由とは・・・」

シキに言われ嘆息したマツリ。

「おかげで思ったより早く終わったことは確かにあるが・・・」

マツリをジロリと見る。
見られたマツリが己の身体を見下ろす。

先程四方とだけ話していた時にも己の身体を見た。 その時には他出着だったが今は狩衣に似た衣裳に着替えている。 身体にフィットしていた他出着よりは幾分誤魔化されてはいるが、四方や武官達のようにがっしりとした感じがないし腹のあたりもスッキリとしている。

「確かにあの時の武官のような身体でもなければ顔でもないわな」

「・・・はい」

早い話、マツリは屈強な体躯の持ち主でもないしその上、強面でもない。
あの時の乃之螺のことを考えるにそういう者が必要かと思った。 その者を揃えると乃之螺が早々に吐くと思ったというのだ。

「乃之螺は我を蹴りにこようとしていましたから。 我ももう少しでも父上や武官のような体格があれば良かったのですが」

「マツリを蹴ろうとしていたのは、ある意味いい度胸だな」

「だから・・・なめられたのです」

食べても食べても鍛練しても鍛練しても、これ以上に筋肉のつかないこの身体。 ついでに強面とはかけ離れた美しいだけの顔。

「刑部に言っておこう」

武官に立てついたくらいの話ではない。 マツリを蹴ろうとしたのだ。 四方に立てついたのではないが、この罪はそこそこ重い。

「それはよろしいかと。 我に足りないものがあったのですから」

顔は変えられないが身体は変えることが出来る。 そして威厳を持てていない己の足りなさである。
マツリの言いたいことは分かった。 その少しでもリツソに理解してもらいたいと思うのは四方の我儘だろうか。

「それより姉上は邸に戻らなくて良いのですか?」

「ええ、今日はまだ。 明日戻るわ」

「義兄上もまだこちらに?」

「ええ」

しっかりと残らせている。

「マツリ、杠とはお話をしたの?」

「いいえ。 時がありませんでしたので。 このあと話をしようと思っています」

すぐにでも話したかったが、四方の夕餉に付き合わなければいけない。

「では波葉様のいらっしゃるお房に来てちょうだい」

その為に残らせているのだから。

「え?」

「波葉様も杠のことは気にかけています。 杠は波葉様のいらっしゃるお房に居ます。 杠が何か言いましたら波葉様がマツリの後押しをするでしょうし、杠もマツリと相対しているだけでは言いたいことも言えないということもあるでしょう。 杠が言い籠ると波葉様が助け舟を出して下さるかもしれないわ」

「ですがこのことは杠と我だけで・・・」

「男三人、お酒でも呑んで気を緩めてお話しするのも一つよ。 マツリのように堅苦しくばかりいても本音というところは出にくいこともあるわ」

「そうだな、シキの言うのも一つか」

「父上」

声を挟んできた四方にマツリが目を向けた。

「そう言うな。 尾能とは若い頃ちょくちょく呑んで話しておった。 特に澪引のことはよく相談もしておった」

尾能は若い頃からずっと四方に付いていた。 その時は単なる数いる中の従者であったが、似た歳頃は尾能だけであった。 他の従者は少なくとも四方より十歳は上だった。
それから段々と従者が入れ替わり、今では年長者から二人目が尾能である。 尾能を側付きまでに教育したのは今では最年長の朱禅であった。

「母上の?」

シキが目を見開いて四方に訊いた。

「わしのこの立場だ。 勿体ない話だと簡単に首を縦に振ってくれんでな。 尾能が色々とお膳立てもしてくれたが簡単にはいかなかった。 だが結局、父上が澪引を気に入られて領主命令となったがな」

「え!? では母上は父上のことを想っていらっしゃらなかったのですか? お爺様のご命令で父上と婚姻を?」

「そんなはずはなかろう。 あくまでも切っ掛けだ。 澪引がわしの立場だけにこだわっておったのだから」

「そう言えば、杠も勿体ない話だと言っておりましたわ」

「杠と話されたのですか?」

「体よくその言葉を使う者もおるが杠はその気が無いわけではないのだろう。 シキの言うように軽く酒でも呑んで、杠が引いている一線を取り払って話すのもいいのではないか?」

「杠が我に一線を?」

「言いたくはないがあくまでも、わしと尾能、マツリと杠は主従関係。 尾能も杠も一線を引いているのは当たり前であろう。 明日もまた忙しい。 深酒はするなよ」

明日は造幣所に向かわなければならない。
白木から聞いた三人は確実に捕らえるとしても、他にもいないかマツリに視させなければならない。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第66回

2022年05月27日 22時19分19秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第66回



「帖地、お前は弟家族を地下の者に捕らわれた。 そこには酌量の余地がある。 だが見張番のことはそうはいかん」

帖地が目を瞑り頭を垂れる。

「白木殿から言われた時から分かっておりました。 それに弟夫婦が捕らわれたとは言え、わたしの致しましたことはどんな問罪を受けようともあるがままを申し上げ、罰を真摯に受けるつもりで御座います」

もう一度叩頭する。

「刑部にお前を引き渡す。 刑部にもはっきりと申すよう」

「はい」

叩頭の中から帖地の声が聞こえる。

「弟家族の心配はいらぬ。 地下から武官が引き出してきた。 我がこの目で見てきたので間違いはない」

思わず帖地が頭を上げた。 その目が大きく見開かれている。

「子にも傷はない。 安心せよ」

見開かれていた帖地の目から涙が零れ、伏せるとそのまま嗚咽を漏らした。

次に白木の居る部屋に入ったが、帖地と同じようなやり方で地下の者が接触してきたと言う。

「妹には背中に小さな痣が御座います。 奴らはそれを知っておりました・・・。 今は妹から聞いただけだが、わたしの返事次第では見てみると言っておりました。 いつ妹に手を出されるか、そればかりが心配で・・・申しわけ御座いませんでした」

こちらもあっさりと認め、やったことは見張番のことだけだったと言い、帖地には悪いことをしたと言う。
だが財貨省にいる限り簡単に終わらせることは出来ない。 零れ金のことがある。

「金を横流しするよう地下の者から言われなかったか」

ここまでは四方が問うていたがここでマツリが問う。 四方を見て答えていた白木がマツリを見て答える。

「・・・言われました」

一言いうと瞼を閉じ俯き加減になった。

「しかとこちらを見て答えよ。 何と言われた」

顔を上げるとマツリを見る。

「金貨を流してこいと。 ですがそんなことは到底できません。 妹のことは心配でしたがあの管理下の元、誤魔化すことなど」

「断ったというのか」

「何度断っても断りきることは出来ませんでした。 ならばと、造幣所に地下の者が用意した者を入れろと言われました。 やろうとしていることは目に見えております。 ですが妹のことしか考えられませんでした。 これ以上断るとどうなるか・・・」

「それでどうした」

「造幣所の掃除番として入れました。 出来るだけ造幣に関わらないようにと」

「何人」

「三人で御座います」

「あとでその者たちの名を聞く」

口を真一文字にした白木が首肯する。

白木からはまだ僅かに禍つものが視える。 まだ何かを隠している。

「先ほど見張番のことだけと言っておったにも拘らず、地下の者に言われ三人の者を造幣所に入れたということか」

「・・・申し訳ございません」

「それだけでは無かろう」

白木の目が泳いだ。 黙って聞いていた四方にも分かる。

「ここまできて隠し立てをして何になる」

白木が頭を垂れる。

「顔は上げよ。 我を見て答えよ」

ゆっくりと顔を上げマツリを見る。

「光石の・・・採石場と加工場の人数を増やしました」

「何人」

「・・・採石場に三人、加工場の掃除に二人で御座います」

隠していたことを言ってどこかで安堵したのだろう。 白木の目から禍つものがすっと引いた。

「その者たちの名もあとで聞く」

首肯なのか頭を垂れたのか分からない仕草で肩ごと落とした。

マツリが四方を見ると頷いてみせる。 もう禍つものが視えないということだ。

「あとは刑部に任せるが今のように隠し立てをすることなく、お前が関わったことを全て答えるよう。 妹の心配はせんでよい。 地下から武官が妹夫婦を助け出した」

「え・・・」

肩ごと落としていた顔を上げると四方を見た。

「妹に恥じるようなことのないようにせよ」

立ち上がった四方が従者に視線を送る。 一瞬目をパチクリした従者だったが、すぐに造幣所と採石場、加工場に増やした者達の名を聞くのだと分かり他の従者に筆と紙を用意するように言った。
これが尾能なら既に用意されていたはずだ。

あとの事は用意をしに行った従者に任せ、目をパチクリした従者が前を歩く。
残るは乃之螺。

マツリの気は重い。 もし乃之螺の妹、稀蘭蘭も関与していたのならば純粋に百藻に惚れたのではなく、百藻を利用しようとして稀蘭蘭が近づいたのかもしれない。
四方もそれを懸念しているだろうが、あの百藻の嬉しそうな顔を四方は見ていない。

白木の部屋を出て歩いていると無意識にため息が出る。

「少なくとも百藻は関係ないだろう」

マツリの溜息が百藻のことを問うように聞こえたのか、四方が真っ直ぐに前を見ながらマツリに言う。

「はい。 あの百藻にはそのようなことは無いと思いますが」

「が、なんだ」

「乃之螺が妹を利用して百藻に近づけたのなら・・・、百藻がどれだけ気落ちするかと」

「互いに誓い身を固めた。 百藻も己が女房にした以上、己の責は己が取ろう」

己の責・・・己の感情のやり場ということだろうか。

「まあ、そんなことの無いように願うが」

四方が百藻のことを想っている言葉だろう。
歩いていると声が聞こえてきた。

「いい加減になさいませ! これ以上暴れられますと武官を呼びますぞ!」

乃之螺だけは大人しくしないので、他の者を刺激しないよう別棟に入れたと従者が言った。
こういうところは気が回るらしい。

「先に失礼いたします」

マツリが四方の前を走った。 どの棟のどの部屋にいるかは知らないが声がきこえているのだ、そこに行けばいい。
三段の階段を降りると、置いてあった履き物を履いて声のする方に向かった。

声の聞こえてきていた棟の部屋の外に四方の従者が一人立っている。

「マツリ様」

「暴れておるのか」

「はい、先ほどから。 それまでは大声を上げたり、抑えようとした者の手を弾く程度でしたが」

マツリが履き物を脱ぎ三段の階段を上がり襖戸の前に立つと、回廊に座していた四方の従者が襖戸を開けた。
わめく乃之螺を三人がかりで押さえている。

「何をしておる!」

乃之螺と従者の声に負けない程のマツリの大音声が響く。

「マ、マツリ様・・・」

乃之螺を抑えていた従者が手を離した途端、乃之螺が走り出そうとした。
従者が「あっ!」 と手を伸ばした時には遅かった。

マツリが乃之螺の足を払う。 乃之螺が大きく前のめりに転んだ。 すぐに乃之螺の腕を取ると後ろに固め立ち上がらせるが、マツリの手を払いのけようと暴れる。 だが簡単にマツリの手が離れない。 今度は後ろに立つマツリの足を蹴ろうと足を出すがそれを簡単に避ける。

「縄を持ってくるよう」

従者一人がすぐに走った。 あとの者はどうしていいか分からない。

乃之螺の手を固めたまま部屋の中に歩かせる。
さすがにマツリ相手だ、罵詈は吐かないようだがそれなりに物申している。

「このような扱いを受けるいわれは御座いません!」

「我はお前が地下に入って行くのを見たが、それをどう釈明する」

襖戸を開けた時に間違いなく地下に入って行った者の顔と確認した。

「マツリ様のお見間違えで御座いましょう!」

「妹は稀蘭蘭といったか。 稀蘭蘭はお前のしていることを知っておるのか」

「わたしの? わたしの仕事のことで御座いましょうか!? もちろんに御座います!」

「お前の仕事のことではない。 妹を巻き込んでおるのかと問うておる」

「何に巻き込むと仰いますか!」

従者が縄を手に戻ってきた。 それを受け取ると素早く後ろ手に括る。

「どうしてこのような罪人扱いをされなければならないのですか!」

「四方様が来られる、座すよう」

「納得がいきません! 縄で括られ座らされ、それこそ罪人ではありませんか!」

一度閉じられていた襖戸が開き四方が入ってきた。
マツリが乃之螺の足を払って座らせる。 こけないように後ろ手に括っていた手は取っている。

「四方様に失礼があればそれこそ罪人だ。 分かっておろうな」

椅子が二つ用意されたがマツリは乃之螺の後ろから離れる様子はない。 万が一にも逃げ出さないようにということもあるが、四方に問い詰められ暴挙に出ないとも限らない。

「帯門標を失くしたそうだが」

四方は帯門標のことから話していくようだ。

「随分と前で御座います」

声を荒げることは無いが、ふてぶてしく答え四方の方を見ようともしない。

「どこで失くした」

「失くした場所が分かっておれば、失せものではありませんでしょう」

「帯門標を失くすということは有り得ぬことだが?」

「朝、参内しましたら失くなっておりました。 誰かの嫌がらせとしか思えません」

失せた場所が分からないと言ったところなのに、参内したらなくなっていたという。 再発行をしてもらうために官吏に色々言ったのだろう、その中で言ったことをいい加減に思い出しながら言っているのであろう。 一貫性がない。

「誰か文官がお前に嫌がらせをしたというのか」

「そうとしか考えられません。 前日にちゃんと掛けて帰ったのですから」

帯門標は仕事を終えると名札の上に掛ける。 そして翌日参内した時に名札の上に掛かっている帯門標を身に付ける。

「ということは誰かに恨まれておることでもしておるのか」

「その様なことは御座いません。 それ以外考えられないと申しております」

これは長くかかるな、と思ったマツリ。
従者に目を合わせると、こちらに来るように目顔を送る。
寄ってきた従者に耳打ちをする。

聴取を終えた三人を刑部省に連れて行くように。 そして体格の良い強面の武官を三人呼ぶようにと。
“強面” と聞かされた時には一瞬小首をかしげたが従者が頷くとその場をたった。
乃之螺は明らかに地下と繋がりがある。 武官が出て来ても何ら不思議はない。



湯浴みをしている紫揺が左の首筋に手をあてた。
口を引き結ぶ。
手を離すと手拭いに石鹸を付けゴシゴシと首筋をこすると涙が溢れてきた。
どれだけこすってもあの感触が消えない。
次から次にポロポロと涙が落ちる。

「う・・・」

声が漏れてしまった。

此之葉が目先を上げる。

「紫さま? 何か御座いましたか?」

紫揺に湯浴みの準備をして欲しいと言われた時、紫揺の様子がちょっと違うように思えた。 気になり脱衣所で紫揺を待っていた。

「・・・何でもないです」

完全に何でも有る。
鼻声だし、先ほどの声は堪(こら)えていたが漏れてしまったという感じの声だ。

はぁー、と此之葉が溜息をつく。 きっと紫揺は何を訊いても答えてくれないだろう。
本領で何があったのだろうか。 本領から帰っても悔しさが残るほどマツリと言い合いをしたのだろうか。 それともリツソとの許嫁の話しだろうか。

ちゃぷん、と湯船につかった音が聞こえた。

「紫さま、お着替えをこちらに置いておきます」

紫揺の返事が聞こえない。

「紫さま?」

聞き耳を立てるが紫揺の返事どころか何の音もしない。
失礼いたします、と言って木の戸を開けると湯船の中に紫揺が沈んでいる。

「紫さま!!」

一瞬にして顔色を変えた此之葉が湯船の紫揺の肩を掴んだ。

「わっ!」

ザバンと湯から顔を上げた紫揺が叫んだ。

「む・・・む、紫、さま・・・」

腰を抜かしている此之葉。
デジャヴだ。 このシチュエーション。 ニョゼも同じような顔をしていた。

「あ。 潜ってました」

「あ・・・そうで、そうでございましたか・・・」

失礼をいたしました、と言うと四つん這いになって出て行った此之葉。
四つん這いになれるということは腰は抜けていなかったようだ。 それとも一瞬だけ腰が抜けたが、まだ完全に回復し切れていないのだろうか。

ふと左腕を見る。 まだうっすらだが喜作の指の形が残っている。 言われてみないと指の形とは分からないだろうが、此之葉に気付かれなかったようだ。

湯浴みから上がった紫揺の首の左部分が真っ赤になっている。

「紫さま、お首の横が」

「その、痒くて。 こすり過ぎたみたいです」

「すぐに薬草を持って参ります。 お待ちくださいませ」

「いいです。 このくらいなんともありませんから。 それより耶緒さんが気になりますから領主さんの家に行きます」

こすり過ぎた。 ひりひりしている。 ちょっと後悔。
眉尻を下げた此之葉だったが紫揺がさっさと歩き出した。 紫揺の半歩斜め後ろを歩く。

「此之葉さん、お料理どうなりました?」

「葉月ほどではありませんが多少は作れるようにはなりました」

阿秀が此之葉は冷や奴しか作れないと言っていたがレパートリーが増えたのだろう。 それにしても冷や奴を料理と数えていいのだろうか。

「そろそろお嫁に行けそうですか?」

「え?」

「ここって、お料理が出来ないとお嫁にいけないんですよね?」

ああ、そういうことかと、赤くなりかけた顔の熱が引いていく。

「はい」

「阿秀さんもいい加減に告白すればいいのに」

「え?!」

「お二人とも相思相愛ですよ。 なのにあの堅物ったら、いい歳して」

「え、あの、その・・・」

せっかく引いていた色がまたもや浮上してきた。 それも一気にカッと赤面した。

領主の家に入るとタイミング良くなのか悪くなのか阿秀が居た。 こちらに背を向け椅子に座っている。
更に顔を赤くした此之葉。

「どうした此之葉」

阿秀の正面に座る領主が此之葉の顔を見たのだろう。

「いえ、何でもありません」

阿秀が振り向いて此之葉を見た。

「どうした、熱でもあるのか?」

ドンカン、と声に出して言いたかったが、これ以上此之葉の顔を赤くするのも可哀想だ。 もとより赤くさせる気など無い。

「お熱じゃありませんからご心配なく」

領主にではなく阿秀に言うと、自分は耶緒に会っているから此之葉の好きにしておいてくれと言い残し、我秋に案内され奥に消えて行った。

「お、お茶をお淹れします」

茶を淹れると言い訳してその場から消えたのはいいが、茶を出さなくてはいけない。
領主だけではなく阿秀にも。

我秋が戸を開ける。

「耶緒、紫さまが来て下さった。 具合はどうだ?」

秋我の後ろから紫揺がヒョコっと顔を出す。

「あ・・・申し訳ありません、このような」

畳の上に敷かれた布団に耶緒が横たえていた。 その身体を起こそうとするのを紫揺が止める。

「気にしないで下さい。 お楽に」

申し訳なさそうな顔をした耶緒だが辛いのだろう、すぐに横になった。
耶緒の布団の横に紫揺が座る。 布団が掛けられているから身体の状態を視ることが出来ない。
だからと言って布団を剥いでもらっても視られるかどうかの自信はない。

「悪阻が酷いそうですね」

「こんなに辛いものだとは思っていませんでした」

顔色も悪ければ声も蚊がなくようだ。

「秋我さん、耶緒さんはきちんと食べてます?」

「それが何も喉を通らない様で」

紫揺の後ろに座った秋我が言う。

「悪阻の経験がないですから何とも言えませんけど、食べなくちゃお腹の赤ちゃんにも良くないですよ」

振り返り秋我に言っていたが、耶緒がそれに答える。

「無理に食べても吐き戻してしまいます・・・。 悪阻の時期が終わると食べられるようになると思いますので」

蚊の鳴く声で耶緒が言う。

「手を繋がせてくださいね」

そう言うと少し布団をめくり、その中に紫揺の手を入れた。
氷のように冷たい手。

―――どうして。

悪阻というものが分からない。 どう判断していいのか分からない。 でも分らないで済ませてはならないし、分からないという顔を見せても耶緒が不安になるだけだ。

「今から私が一方的にお話をします。 聞いても聞かなくてもいいです。 眠たくなったら寝てください。 耶緒さんの楽にだけしておいてください」

紫揺の手が温かい。 強張っている身体がゆっくりと解けていくように感じるのは気のせいなのだろうか。
それにしてもこの寝たきりの自分に紫揺は何を話したいのだろうか。 横たえていては紫揺に失礼とは分かっている、紫揺の言葉に甘えては駄目だとは分かっているが、もう身体が疲れている。
考える事すらままならなくなってくる。

コクリとゆっくり小さく耶緒が頷いた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第65回

2022年05月23日 23時18分42秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第65回



一文字にしていた唇を噛むと話を続けた。

「力の限界を知るようにとは言われましたから、まだそこのところが分かっていないみたいです」

「シキ様が? もう少し詳しく説明していただけなかったのですか? それとも四方様でしょうか?」

四方なら説明がないかもしれない。

「・・・マツリです」

思い出したくもなければこの口でその名前を呼びたくもない。

「え・・・。 あの、マツリ様とお力のお話を?」

いったいどういうことだ。 この二人に会話というものは成り立たないはずだ。

「マツリのことはいいです。 着替えてきます。 あ、湯浴みもしてきます。 明日じゃなくて着替えたら耶緒さんを訪ねに来ます」

馬で長々と走ってきていたのだ。 こんな砂埃だらけで妊婦に、ましてや気分を悪くしている妊婦に会うわけにはいかない。
前に置かれた茶を一気に飲むと領主の家を出て行った。

「相変わらず・・・」

「ゆるりということをされないようですね」

「それにしてもマツリ様と何かあったのだろうか」

結局、本領に行く本来の理由は訊けなかったが、紫揺は言いたくないのだろう。 話を誤魔化されたことには気付いている。

「シキ様も四方様もお忙しくされていたのでしょうか」

それでマツリと話した。

「う・・・む。 お二人がお忙しくされていて、これだけ長引いたとも考えられるが、だからと言ってマツリ様と紫さまではまともに話など出来ないはず」

「お力の事となると別とか。 それともシキ様も四方様もお忙しさからお話が出来ない状態で、四方様からマツリ様にお話しするように言われたとか」

マツリとて四方から言われれば “否(いな)や” とは言えないだろうが、四方もマツリと紫揺の状態は知っている。 それは避けたいはずだ。

領主が腕を組むが全く分からない。



キョウゲンに跳び乗りすぐさま宮に戻ったマツリ。
庭に降り立つと四方の従者が走って来た。 マツリを待つように四方から言われていたのだろう。

「マツリ様が戻られましたら、捕らえた文官たちのところにご案内するようにと四方様から言いつかっております。 ご案内いたします」

マツリが頷くとキョウゲンには部屋に戻るように言った。
飛んでる間キョウゲンの様子がおかしかったからだ。 昼日中を飛んだことがいけなかったのかとキョウゲンに問うと、そんなことは無いと言っていたが、ときおりふらついていたこともあった。

あまりにもマツリから一気に思考が流れてきたからであったが、ふらついていた理由はマツリには分からないだろう。

どちらにしても寝床で休憩が必要だ。

四方の従者が優しく捕らえた者たちの居る場所に案内をする。 宮の内にある門を抜け西の門に向かっている。

マツリが口を歪めた。 最初っから分かっていれば西の門の中でキョウゲンを降りたのに、と。
そう考えるマツリの頭に紫揺の声が響いた。

『マツリはいつもフクロウに乗ってるだけじゃない。 いっつもフクロウの背中に乗ってるだけなのに・・・』 山の中を歩けるの、と続いた。

短く鼻から息を吐くと下を向く。
指を口元に伸ばす。
紫揺の気持ちを何も訊くことなく一方的に言った。

―――泣いていた。

手を下す。
大きく溜息を吐く。
下げた手を額に上げると何度かさする。
息を吐く。

一方的過ぎたのだろうか。 もっと他のやり方があったのだろうか。 だが紫揺の言っていた目星とか何とか、そんな目で他の男を見て欲しくはなかった。
焦ったのかもしれない。
長い溜息を吐いた。

「マツリ様?」

声に顔を上げると前を歩いていたはずの従者が横に立っている。

「いかがされました?」

「何がだ」

「いえ、何度も溜息をおつきになっておられるので、わたしが振り向き足を止めましたら、ぶつかりそうになりましたが・・・。 何かご心配事でも?」

(え・・・そんなことがあったのか? 気付かなかった)

それに溜息なんてついていた記憶はない。

「ああ、悪かった。 ちょっと考え事をしておった。 進んでくれ」

「何か御座いましたら、いつでもお声掛けくださいませ」

そう言うと歩き出し一番奥にある建物に足を向けている。

(隔離だな)

こんな所に来る者などいない。

「父上はかなり用心されているようだな」

「はい、全く様子が分かりませんので。 ですがこちらで良かったと思われます。 文官の一人が大声を出していたそうですので、他の場所でしたら誰かに聞こえた事でしょう」

まだ罪人とは決まっていないのに官吏を捕らえていることになるのだから醜聞が悪い。

「他の者は?」

「大人しく座しているようです」

前を見た時に丁度一つの部屋から四方と従者が回廊に出てきたのが見えた。 四方もマツリに気付いたようだ。 勾欄に手をつきマツリを待つ様子を見せる。

「走る」

従者に一言いうと走り出し、長靴を素早く脱ぐと三段だけの階段を上がって四方の前に出た。

「遅くなりました」

「無事に送ったか」

「はい。 山の下まで東の者が迎えに来ておりましたのでそこで紫を渡しました。 領主には後日顔を出すということを伝えるようにと」

うむ、と四方が頷く。

「いま厨の女、常盤に事情を聴き終わったところだ」

マツリが頷く。

「毎日が泥の沼に沈んでいたようだったと言っておった」

口を一文字に結んだマツリが深く頷く。 常盤の気持ちを考えると毎日が不安どころでは無く、常盤の言う通り正に泥沼に身を沈めていた状態だったのだろう。

「事を知りすぐに動けたことが何よりです」

杠の救出から始まったことだが、つくづく紫揺の行動には感謝しなくてはならない。
囚われている者のことを知ったのは偶然と言ってしまえばそれだけなのだろうが、紫揺が子供の声に気がつき、俤が居ないと分かっていても一つ目の地下に足を運んでいなかったら今も何も分からなかっただろう。
それは紫揺だから出来たのだろう。
口に出さずとも四方もマツリも胸の内で思っている。

「あとの者はまだなのだが乃之螺を最後に順に訊いていく」

「はい。 同席させて頂きます」

「それと、調べさせたところ乃之螺には妹が居る。 名を稀蘭蘭という」

目を剥いたマツリ。

「まさか・・・百藻の?」

「そうだ。 乃之螺にはそこのところもよく訊かねばならん。 心しておいてくれ」

「・・・承知いたしました」

あの時の嬉しそうな百藻の顔が浮かぶ。 もし乃之螺と稀蘭蘭が百藻を利用しようとしていたのなら・・・。

四方が隣りの帖地の居る部屋に足を向けた。
四方とマツリが部屋に入ると座したままの帖地が手をついて叩頭していた。

「申し訳ございません・・・」

「ここに連れてこられた理由が分かっているということか」

優しくここに連れてこられた者たちは喧騒こそ聞こえていたかもしれないが、地下の者たちが武官によって捕まったことを知らない。 もちろん家族を救出されたことも。 常盤だけは先ほど四方から聞いて安堵の涙を流していた。

従者が二人分の椅子を用意すると四方とマツリが座った。 マツリの椅子は四方の椅子より少し後ろにずらされている。

「はい・・・」

「頭を上げよ」

ゆっくりと腕を伸ばしていくが身体が四十五度ほどで止まった。

「帖地、お前の知っていることを話してみよ」

頭を垂れたままの帖地が喉を詰まらせながら話した。
それはまるで急に降ってきたようなものだったという。


官吏としての仕事を終え家路に向かった。 帖地は一人住まいだ。 家の鍵を開けようとしたが鍵が開いていた。
朝、鍵をかけ忘れたのだろうか、そんな筈はないだろうに。 首を捻りながら戸を開け家の中に入ると鍵をかけ、履き物を脱ぎ家の中に入った。
すると部屋の中に後姿の座している人影が見えた。
ああ、弟が来ていたのか、と一瞬思ったという。

既に両親に先立たれていた兄弟は互いの家を行き来する為、互いの家の鍵を渡しあっていた。
だが甥っ子の気配がない。 弟夫婦はいつも夫婦そろって帖地の家に来ていた。 子が出来てからは必ず家族三人で来ていた。 弟だけが来るということは無かった。 それに弟がこんな刻限に訪ねてくるはずがない。
何か不穏を感じ玄関の戸の鍵を開けにいこうとした時、部屋の中から声が掛かった。

『甥っ子は可愛い盛りか』 と。

弟の声ではないのは明らかだ。

『誰だ』

『俊蓬(しゅんほう)って名前だって? ちょっと捻ってやったらすぐに泣きやがった』

『俊蓬に何をした!』

踵を返し部屋の中に入ると座していた男が身体ごとこちらに向いた。 知らない男だ。

『あのガキだけじゃない』

そういうと家の鍵を男の顔の前にかざした。

『お前の弟がこの鍵のありかを話した』

互いの鍵は万が一にも盗まれないように大切に保管している。

『ちょっと目の前で女房を可愛がってやろうと思ったらすぐに場所を吐きやがった。 兄思いな弟だな』

嫌味のように言うと、フッと鼻から息を吐いた。

『な! なにを!!』

帖地が男に食って掛かろうとした時、後ろから羽交い絞めにされた。 仲間が部屋内にいたようだった。

『おいおい、そんなに怒らなくてもいいだろう。 オレたちはお前に話があるから来ただけだ』

後ろから帖地を羽交い絞めにしていた男が帖地の方向を少し捻る。

『ウッ・・・』

腹に拳を入れられた。 羽交い絞めにしていた男が手を離すとズルズルとその場にうずくまる。 まだ仲間がいたようだ。

『いいか、お前の可愛いい甥っ子が可愛けりゃ、宮の中のことを俺らに話しな』

『・・・宮の、中・・・?』

腹を抱えながら苦しそうに問い返す。

『そうだ。 特にマツリだ。 マツリの予定を調べろ。 そうだな、三日後にまた来る。 それまでに調べておけ。 何ならお前が地下に来てもいいがよ』

『地下・・・お前たちは地下の者か! ・・・ウッ!』

歯を食いしばりながら問うたが今度は背中を蹴られた。

『おめーは言われたことだけやりゃあいいんだよ』

続けて脇腹にも足が入ってくる。

『おい、見えるところは止めとけよ』

『ちょっと楽しむだけだい』

そう言うと何度も何度も腹や背中、太腿を蹴られ続けた。

『さっさと調べて地下に言いに来るんだな。 おめーの弟がおめーのようにされる前にな。 ああ、それとも女房を先に可愛がってやろうか? それとも甥っ子か? どっちがいい?』

『うう・・・』

声が漏れるだけ。 言い返すことが出来ない程、身体を蹴られた。
男が鼻で笑うと立ち上がり、うずくまっている帖地の肩を踏む。 前のめりに倒された。

『誰かに言ったら、誰がどうなるかは分かってるな』

そう言うと鍵を投げ家から出て行った。


「申しわけ御座いません」

再度帖地が叩頭する。

「事情は分かった。 それでマツリの何を言った」

「マツリ様のご予定など分かるはずは御座いません。 ですが領土の祭に行かれることだけは分かっております。 時節柄、東の領土の祭に行かれることを話しました。 東の領土の祭は月が満ちた時。 その様に申しました」

叩頭したまま答える。

帖地の言うところにおかしな点がある。
時節柄ということは東の領土の祭近くに帖地がこのような目に遭ったということだ。 少なくとも東の領土の祭の前の北の領土の祭のことは言わなかった。 ということは、帖地に地下の者が接触したのは北の領土の祭以降ということになる。

東の領土の祭は春月。 だが少なくとも一人目の見張番の人数を増やしたのはもっとずっと前だ。
マツリが考えるが四方も同じことを考えているようだ。
疑問を振り切ったのだろうか、間をおいて四方が訊ねる。

「金は受け取ったか」

「・・・はい。 断りましたが突きつけてきました。 受け取らないとどうなるか分かっているかと。 仕方なく受け取り家の中に置いております」

「他には」

「数日前で御座います。 男達がまたやってきて厨の女にこれを渡せと言われました」

懐から畳まれた紙を出した。 それは薬を包んでいる紙と一目で分かる。

「厨の女とは」

「常盤、という女と聞きました」

「渡さなかったのか」

「男たちが・・・。 女に渡す時にマツリ様の御膳に入れるように伝えろと言いました」

帖地が首を振る。

「これが何かは想像がつきます。 そんなことは出来ません」

「そうか。 他には」

「・・・御座いません」

「頭を上げよ」

帖地が先程よりは早く頭を上げたが、また体が四十五度ほどで止まり頭は垂れたままだ。
四方が “頭を上げよ” と言った意味がマツリには分かる。

「しかりとこちらを見よ」

マツリが言う。

帖地がマツリを見るとマツリが帖地の目の奥を見る。

「真にか」

「はい」

「地下とのことはもう何も無いと言うか」

「はい。 御座いません」

やはり帖地の中に禍つものは見えない。
マツリが四方をチラッと見た。 四方の表情に変化はない。

「父上」

マツリが “父上” という声音だけで帖地の中に禍つものが視えないと報告する。
それを受けて四方が口を開く。

「見張番を増やしたのは帖地、お前だな」

「はい」

「誰に言われて増やした」

「・・・白木殿で御座います」

四方の眉がピクリと動いた。
四方もマツリも白木のことは紫揺から聞いていた。 白木の妹夫婦が囚われていると。

従者に調べさせていたのは乃之螺だけではない。 白木は以前、帖地の上役だったということが分かっていた。 そしてその時は二人とも財貨省にいた。 その後、帖地だけが移動した。
これはマツリが紫揺を送っている時に分かったことで、マツリはこのことを知らない。
帖地が移動となって直接の上役ではなくなったが、それまでの繋がりは切れるものではない。

「白木は財貨省だ。 見張番のことを言うのはおかしいと思わなかったのか」

「そう申しました。 ですが切羽詰まったように仰られて・・・。 最後には頼むと。 ご様子がおかしいので何かあったのかとお訊ねしましたら知り合いの息子だと。 職を持てないでいるから助けてやって欲しいとお聞きました」

≪馬酔亭≫ で聞いた蕩尽(とうじん)か小路(こうじ)のどちらかだと分かるが、先に入った方の蕩尽だろう。

「その者の名は」

マツリが問う。

「蕩尽という者で御座います」

蕩尽は官吏の下で働いていたと聞いている。

「蕩尽が官吏の下で働いているのを知らなかったのか」

「え?」

帖地が一度下げた頭を上げマツリを見た。

「蕩尽本人からそう聞いておる」

「まさか・・・。 その様な話は」

「蕩尽だけか」

「あとに小路(こうじ)という者を・・・」

「小路は四都(よと)の官所(かんどころ)で馬番をしておったと本人が言っておったが、それは知っておったか」

悔しそうな顔をして首を左右に振る。

「小路は何故入れた」

「再度、白木殿に言われました」

「そのことを何故報告しなかったのか」

上役に。

上役の指示なくその様なことをしてはならないということは当たり前の事である。

「言えませんでした」

帖地が頭を垂れる。

「何故に言えん」

マツリが問う。

「白木殿が・・・頼むと言われました。 ・・・頭を下げられました」

上役が部下に頭を下げる。 以前の部下といえどもそれを袖にすることは出来ない。 ましてや秘密裏に行って欲しいという目だ、上役に報告するなどということは出来ない。
帖地には白木の言うことを蹴ることが出来なかった。

これはあくまでも、帖地と白木の間のことだ。 見張番のことでは帖地に地下の者が関してはいないということになる。 辻褄があった。
だが同時にこの時すでに、白木には地下の者が関与していたということだ。
紫揺も言っていた。 白木の妹夫婦が一番最初に攫われてきたと。

目の前に居るのは帖地だ、白木ではない。 この事は帖地が地下の者から脅しにあう前の話。
今の帖地の話から白木も切羽詰まっていたのだろう。 だからと言って見過ごせられるものではないが。

「白木が頭を下げた。 だから上役に報告もせず次に小路を入れたのか」

「・・・はい」

四方が大きく息を吐いた。 マツリが四方を見る。 四方があとは頼むと吐いた息の中に入れている。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第64回

2022年05月20日 22時53分53秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第64回



「それは違うわ」

杠がゆっくりと顔を上げる。

「マツリは側付きも従者も持たないわ。 どれだけ父上が勧めても。 でも杠にだけはマツリの手となり足となり動くことを承知したわ。 マツリも本当のところはそういう者が必要だったのでしょう。 マツリの動く範囲を考えれば一人では大変なこと。 でも誰にもマツリの考えを話す気にはならなかったみたい。 杠以外には」

「・・・」

己以外には?

「マツリにとって杠は特別なの。 マツリの考えや、やろうとしていることを言える相手なの。 そして杠はそれに応えているわ」

シキが婉然と微笑んで続ける。

「だから甘んじているなどということは無いの。 杠が甘んじていると感じるのならばマツリも同じ。 マツリが何よりも気にしていた地下を杠に預けたのですから。 今回のことも杠がいなければこれほど早く事が動かなかったでしょうし、リツソのことも今までもそうよ」

「今回のことは己が捕まっただけで御座います。 紫揺の功績だけで御座います」

紫揺・・・紫の功績と言われれば、シキの頬が緩む。

「マツリの近くに居てもらえるかしら?」

独り思案したいと思っていた。 何を思案するかも分からないのに。 だが、ささくれが落ちたような気がする。

「マツリ様に何もかもお話していただきます」

己のことをどうして陰から見ていたのか。 どうして己を手足として使ってくれたのか。 どうして己とは初対面のような顔をしていたのか。

「それで杠が納得すればマツリの片腕となってもらえるのかしら?」

「お話し次第で」

シキに目を合わせていた杠。 その目を蒼穹に向けた。
マツリが話すことに己が心を寄せられるだろうか。
・・・きっと寄せられる。
マツリの言葉を待ちたい。 己を受け入れてくれる言葉を。

「マツリは言葉が足りないわ」

「存じております」

マツリには失礼な話だが。

シキがホッと胸を撫で下した。



「いい加減、ムカつくんだけど」

紫揺が何度意味が分からないと言ってもマツリは無言で歩を進めていた。
今は既に洞を抜け東の領土の山の中だ。

前を歩くマツリの横を走った。 大きな岩を二つトントンと跳ぶと、高い木の枝に手を伸ばし蹴上がりで上がると、そのまま中抜きをして枝に座った。
これはこの木を見た時からしたかった事だったが、今はそんな理由でしたのではない。

マツリが紫揺を見上げる。 手を伸ばそうとも届かない高さだ。

「何をしておる」

「ムカつく。 何の説明もない」

「説明とは」

ついでに “むかつく” とは?

「マツリが言ったことの説明」

『お前の目星の中に俺を入れておけ』 ましてや『俺以外は入れるな』 そう言ったことの説明。

「そのままだ」

「なに? 全く意味分んない。 マツリは関係ないでしょ?」

「関係がない?」

「私の伴侶を探すのに本領は関係ないじゃない。 どれだけ本領に遠い親戚が居てもそれは本領の話しなんだから」

「血縁・・・親戚も何もない。 関係ない」

「だったら何で急に言ったの? 納得できない。 あ、地下に関係?」

今の紫揺の認識ではマツリと紫揺の関係は、地下か若しくは杠で繋がれているようだ。

「地下って楽しいもんね。 そういうことか。 うん、地下のことだったらいつでも呼んで。 すぐに行くから。 マツリが迎えにさえ来てくれれば即行地下に行けるし、わざわざ伴侶にならなくてもいいじゃない」

上を見上げていたマツリが顔を下した。 大きく溜息をつく。

「なにそれ」

溜息が気に食わなかったらしい。

「いま本領は忙しい最中(さなか)だ。 いつまでもこうしておるわけにはいかん。 下りてこい」

地下で捕らえた者のこともある、明日から動かねばならないこともある。
それに帖地の目は見たが他の者の目は見ていない。 シキが視れば容易いだろうが、四方がお役御免となったシキを使うはずはない。

「答えになって無いんだけど」

「・・・下りてきたら、お前の言う納得ができる」

紫揺が眉を上げる。 どういう意味だろうか。

「じゃ、そこどいて。 下りるから」

マツリが一歩後ずさる。

紫揺が眉を顰める。
もっと下がって欲しいということなのだが、マツリが一歩分しか空けなかった。
ふん、いいだろう、鼻先をかすめて完璧に下りてやろうではないか。

軽く膝から下をあふると腕の力も手伝って枝から跳び、着地を完璧に・・・。 着地を・・・。
足がぶら下がっている。 長靴の下に地がない。
そう思ったのは一瞬。

城家主の屋敷の塀を跳び下りた時、あの時と同じだ。 腹の辺りに後ろから腕をまわされマツリに抱えられている。
だがあの時はすぐに降ろしていた。

「だからー、これくらいの高さ何ともないって」

せっかくずっと上りたかった木から跳び下りたのに。 台無しだ。
と、側頭部に息がかかった。

「ん?」

振り向こうとした。

「じっとしていろ」

マツリの声が側頭部のちょっと上から聞こえる。

「結構この体勢しんどいんだけど」

パンダが飼育員に後ろから抱っこされている図だ。
マツリの辟易したような溜息が聞こえる。

「領土の者も本領の者も女人が抱えられたり、親でもなければ兄弟でもない者の腕の内に入るなどということは簡単にすることではない。 ましてや女人は己が気を許した者にしかさせない。 お前はどうして平気だ」

紫揺が倒れた時にマツリが紫揺に手を添わせたり顔を見せたりということに “最高か” と “庭の世話か” が戸惑いを見せたのは尤もであった。
兄弟でもない者の腕の内、それは宮で杠に抱きついたことを言っているのだろう。 そして抱えられるというのは、今この時の事とエトセトラだろう。 東の者にも抱っこされたと話していたのだから。

器械体操で補助されたり、空中での姿勢を教えられるとき、監督やコーチから抱えられるのは当然だ。 そんなものには慣れっこだ。
だがそんな理由を話そうと思うと、器械体操とは、から説明しなくてはならない。

面倒臭い。

「日本に居る時、沢山抱っこしてもらったから何とも思ってない。 下ろしてよ」

―――持ち上げられた。

「上げるんじゃなくて、下ろしてってば!」

キョウゲンの羽ばたく音が聞こえたと思ったら、マツリの銀髪が左の目の端に入ってきた。

「なに」

眉間に皺を寄せ不機嫌に言うと、僅かに右に顔を傾けるようにして左に首を捻じろうとした。
マツリの銀髪がはっきりと目に映る。

首に柔らかい感触。

「は?」

ゆっくりと感触が離れる。

耳元でマツリの声がする。

「まだ接吻はせん。 だがもうお前は俺の許嫁だ」

ストンと地に足が着いた。

首に感じた柔らかい感触・・・あれはマツリの唇。
左手で首を押さえる。

どうしてそんなことをされなくてはいけない。 どうしてマツリの許嫁にならなくてはいけない。
下りてくれば納得すると言っていた。 それがこれだというのか。

許嫁って・・・なに。

許嫁は知っている。 でも分からない。 杠に訊かなかった。 教えてもらっていない。
違う。 もう杠はいない。 自分は東の領土に帰るんだから。

目が熱い。

「紫、お前は誰にも渡さん」

―――何が納得だ、納得など出来るはずがない。

「お前って言うなっ!」

左手を下すと紫揺が振り返った。
勢い良く振り返ったせいで、目に溜まっていたものがキラリと輝いて横に飛ぶ。

バチン。

腕を真っ直ぐに伸ばした紫揺の掌がマツリの頬を打った。

紫揺がマツリを睨むがマツリは打たれても睨まれても平気な顔をしている。 決して睨み返してなどいない。 むしろ口の端が上がっている。

マツリを睨む目からポロリと水が落ちる。

「納得なんかしない」

紫揺が踵を返すと走り出した。

「待て! 走るな!」

マツリが追うが紫揺の足の速さは常人の女人のものではない。 それにここは整備されていない山道。 石が転がっていれば足元も悪い。 手を着いて大きな岩の上に上がるといとも簡単にピョンピョンと跳び、来た時のルートをかなりショートカットしている。

マツリは自分の足元と紫揺の背を見ながらになり遅れを取り始めた。

キョウゲンが止まっていた枝から飛び立ち、そのまま真っ直ぐ前に飛んで行くと紫揺の横を飛んだ。

「紫さま、危のうございます。 一度お止まり下さい」

キョウゲンの声とともに遠くにお転婆の啼く声が聞こえた。 前方への推進方向を斜め上に変えるよう岩を跳ぶと片足づつ着地し、そのまま走り出すのではなく足を止めた。

もしかしてずっと前から聞こえていたのかもしれない。 キョウゲンの声で葉擦れの音や川の流れる音が耳に入って来た。

ポケットに手を突っ込む。 手巾を取り出すと涙を拭く。

下ではお転婆をつれたお付きの者達が待っているのだろう。 いつ戻ってくるか分からない紫揺を毎日毎日待っていたのかもしれない。
涙顔など見せられない。 大きく深呼吸する。 気持ちを整えて涙を引かす。
後ろにマツリが立っているのが分かる。

「馬の声が聞こえた。 下でお付きの人たちが待ってくれてる。 だからもういい」

「東の者に手渡すまでは戻らん。 とにかくこんな所で走るな」

手巾でぎゅっと目を押す。
大丈夫。 もう涙は出てこない。
歩を出し歩き始めた。

枝に止まっていたキョウゲンがマツリの肩に移動する。

歩いているのはマツリに言われたからじゃない。 鏡がないから分からないが、目から水が出ると大抵は白目が赤くなっている。 それを少しでも治すように、時間稼ぎのために歩いているだけだ。
無言で山を下りる。

馬の嘶(いなな)きと蹄の音が聞こえる。
ずっと待っているのだから馬を走らせているのだろう。

お転婆は誰が連れて来てくれたのだろうか。 お転婆は大人しく連れられていたのだろうか。
ガザンは毎日何をしていたのだろうか。
此之葉の料理の腕は上がったのだろうか。

震える口元が緩む。

東に帰ってくれば東のことを考えている。
杠のこともマツリのことも考えていない。
だからそれでいい。
自分は東の人間なのだから。


山を下りると東のお付きと呼ばれる者たちに紫揺を渡したマツリ。 すぐに本領に戻らなくてはならない。 それ故、東の領主へは後日顔を出すと伝えてもらうことにした。
何故かその間、見たこともない犬がマツリの匂いを嗅いでいた。 東の者が止めないのでそのままにはしておいたが、東の者たちが意外そうな顔をしていたのは目に留まっていた。

紫揺はすぐに愛馬お転婆に乗っていた。

あとで聞いた話によると、紫揺が本領に向かった日、誰がお転婆を連れ帰るかという話になりシブシブ阿秀がお転婆を連れ帰ったらしい。 そして翌日お転婆をやっとのことで厩から出し、誰がお転婆を山まで連れて行くかという話になった時、ガザンがお転婆に近寄ってきて、何故かお転婆とガザンが意気投合したらしく、山と厩の往復はガザンがお転婆の横を走って暴走させないように誘導していたということであった。

シープドッグならず、ホースドッグのようだ、と紫揺は思ったが、お付きの者達は違った。

「似た者同士気が合うのかなぁ?」

この口調は醍十。

「一匹と一頭と一人か?」

「いや、気が合うというよりは、一頭と一人を一匹が守りをしているという感じだろう」

「一頭と一人は完全に同じ性格だからな」

「あれは・・・どうにかならんか?」

「この領土で一頭を抑えられるのは、一匹と一人。 一匹を抑えられるのは一人。 一人を抑えられるのは・・・」

全員が塔弥を見た。

「無理」

塔弥が言った途端、醍十と塔弥以外の頭に拳骨が落ちた。 主犯および実行犯、阿秀からのものだ。
いつの間に部屋に入ってきていたのだろうか。

痛ッテー、という五声の輪唱が決まった。

「“一人” とか “あれ” とか、お呼びの仕方を考えろ」

誰も “一人” と “あれ” が紫揺のことだとは言っていない。


久しぶりのお転婆の乗り心地に満足し、厩に戻ると手入れをしかけた紫揺の手を阿秀が止めた。

「あとは塔弥がいたします。 領主がお待ちです」

お転婆は塔弥に対しては他の者に比べると大人しく手入れをさせていたらしい。 とは言え、気を緩めるといつ噛みついてくるか分からないし、蹴られるかも分からない。

「ガザン、頼む」

塔弥が言うと心得たとばかりにガザンがお転婆の横に付く。

紫揺が両眉を上げた。 自分の居ない間に塔弥とガザン、お転婆の図式が出来上がっていたようだ。
安心して塔弥とガザンに預けるかと歩を出す。 後ろを阿秀が歩く。

「ガザンはかなり頭がいいですね」

阿秀が言う。

ガザンを褒めてもらって悪い気はしないし、それどころか嬉しい。

「塔弥以外の者が言っても聞きませんが」

「え?」

阿秀に振り返る。

「他の者が言っても知らんぷりです」

阿秀越しに塔弥を見る。 それに倣うかのように阿秀も振り返ったが、すぐに前を見て「行きましょう」 と、まだ塔弥を見ている紫揺に声を掛けた。

領主の家に入るとすぐに領主が迎え出てきた。 かなり心配していたようだ。

「ご無事で・・・」

「あ、ゴメンなさい。 心配をかけるつもりはなかったんですけど」

勝手に心配をしていただけだと、領主が首を振る。
領主の後ろには我秋が立っている。 口の端を上げ、お帰りなさいませと言うように頭(こうべ)を垂れた。

「お疲れで御座いましょう。 茶を淹れて参ります。 どうぞ中へ」

まだ安堵の表情だけの領主の後ろで秋我が言うと、やっと我に戻ったのか、領主も頷き「どうぞ」と誘(いざな)った。

長卓につくとすぐに領主が口を開いた。

「紫さまのお力の事は分かりましたでしょうか」

「かなり分かりました」

実践してきたのだから。

「他には?」

「え?」

紫の力を知りたいと言って本領に向かった紫揺だが、それが取って付けたものだと分かっている。
本来の理由があるはず。

紫揺の前にコトリと湯呑が置かれた。 秋我が茶を淹れてくれたのだろう。

「耶緒(やお)さんは?」

「まだ気分を悪くしておりまして」

悪阻(つわり)が酷いようだ。

「大丈夫なんですか?」

「本人は病気ではないからと言っておりますが、紫さまに茶も出せず申し訳ありません」

「そんなことはないです。 気にしないで下さい」

秋我に言うと、領主を見た。

「どなたか出産経験のある方に耶緒さんに付いて頂いてはどうですか?」

秋我と耶緒は秋我が見ていた辺境の地で知り合ったと聞いている。 耶緒の両親は辺境に居る。 領主の妻であり秋我の母はとうに亡くなっている。 出産経験のある弟夫婦の義妹は夫婦ともども辺境に住み領土を見回っている。 この家で男二人だけでは不安だろう。

領主が秋我を見る。

「お前から見てどうだ?」

「悪阻がどういうものかは分かりませんが。 かなり顔色を悪くしておりましたが今は少しましになったと思います」

料理も出来ない状態で女達が代わる代わる食事の用意をしに来ているという。

「領主さん、強い女の人って妊娠出産を病気と考えません。 無理をしてでも動こうとしたりします」

辺境でそんなところを沢山見た。

「耶緒さん、最初に無理をし過ぎたってことは無いですか?」

たしかに秋我が止めるまで病気ではないからと動いていた。 「そうかもしれません」と秋我が頷く。

「絶対に誰かに付いてもらった方がいいです」

秋我夫婦はずっと辺境で暮らしていた。
だが領主もそろそろ歳だからと、紫揺が見つかったのを機に領主としてのお役を教えるため秋我夫婦をここに呼んだ。 それは紫揺が東の領土に来て間なしのことだった。 だから紫揺と耶緒は似た時にここに来ている。

耶緒がここで暮らすようになってまだ二年経っていない。 十六年かかって三十一歳で慣れない土地での初めての妊娠。 不安は山のようにあるだろう。

「今はどんな感じですか?」

「はい。 大分、落ち着いております」

「私が会っても大丈夫そうですか?」

顔色がマシになり落ち着いているのなら心配はないようだが一度視ておきたい。 視られるかどうかは分からないが。
でも手を握るくらいは出来る。 それだけでも全然違うはずだ。

「もちろんですが・・・」

秋我がどうしたものかと領主を見る。

紫揺に妊娠出産の経験が無いのは明らかだが、女同士にしか分からないことがあるのかもしれない。
領主が頷いてみせ紫揺に言う。

「紫さま、今はお疲れで御座いましょう。 明日にでも」

紫揺は言うが早いか、するが早いかという人間だ。 この短期間でそれがよくよく分かった。 今 “是” とだけ答えるとすぐに耶緒に会いに行くだろう。 だから明日と言った。

「えっと・・・本領に行っていた報告はこれで終わりでいいんですよね? ちゃんと紫の力が分かった・・・とまではまだハッキリ言えませんが・・・」

『これ以降、限界を超えるような使い方をするんじゃない。 己の力を分かっていくよう』

マツリに言われたことが頭をかすめる。
そしておまけでついほんの前のことも。

紫揺が口を一文字にしている。 話は途中なのに。

「紫さま?」

領主が紫揺の名を呼ぶ。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第63回

2022年05月16日 21時36分19秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第63回



「あとの事は一旦、刑部に任せればよいか」

「はっ」

固い返事で答えたが胸の中は安堵で一杯だ。

捕らえた者のことは刑部に任せ、まずは二日後のことに手をまわさねばならない。 光石の横流しの現場を押さえる。

「武官長を呼んでくれ」

従者が襖戸を開け回廊に座る従者に指示を出す。 従者が頷くとその場をたった。

光石に関しては採掘場から重さや数を書いた書類を文官である官吏が確認し、加工場からの仕上がった重さと数、屑となった重さが書かれた書類を文官が照らし合わせるだけである。

文官からはその誤差があるとは報告を受けていないし、毎回重さと数が書かれたものは四方も確認をしている。
そこから考えると採掘場か加工場、若しくは両方に地下と繋がっている者がいるのだろう。 書類に乗せない光石が存在するということ。 そして出来上がったもの、若しくは加工前のものを今回のように横流しをしている。

現場を押さえると同時に採掘場と加工場にも足を踏み入れなくてはならない。
負傷した武官のことは書かれているが、どれだけの人数が出て行ったのか、五十人余りというだけではっきりした人数をまだ知らされていない。
地下に行くまでに拾える武官が居ればそれを拾っていくと言っていた。 どれだけの武官が無傷で帰ってきて動けるのか。

「さて、造幣所はどうするか・・・」

光石もそうだが造幣所も文官の管理の下にある。
囚われていた者の中に造幣所と関係する部署の者はいなかった。 だが乃之螺のことがある。 親兄弟が囚われの身となっていないのに地下と繋がっていた。

腕を組み目を閉じる。

もしまだ地下と繋がっている官吏が居たとしても、地下から何人もの人間をひっ捕らえてきたのだ。 これだけ賑やかにしているのだから、地下に手が回ったことは分かっているだろう。 逃げるのなら逃げているだろう。 その時に他の者のことを考えるなどとはしないはず。 わざわざ造幣所の者に知らせることなどしないはず。
そういう者達だから地下と繋がっているのだから。

四方の目が開いた。

「疑心暗鬼に囚われて機を逸してはなんにもならんか」

“はず、はず” と小胆なことばかり考えていては腹に力が入りきらない。

光石の採石場と加工場は互いに近くにあるが、造幣所は全く違う方向にある。
光石の採石場の者たちはその仕事から屈強な体躯の持ち主たちだ。 加工場の者も採石場の者ほどではないが、これも逞(たくま)しい体躯を持っている。 とうてい文官の手に負えるものではない。
武官を出すしかないが、造幣所の者はさほどの体躯の持ち主たちの集団ではない。 とはいえ取り押さえるには武官が必要になってくる。 だが全員が武官でなくとも、文官でも逃げ場を固めることくらいは出来るだろう。 負傷している武官の人数を考えると多くの武官を必要にはできない。
元の部署に戻らなくてはならない者もいるだろうし、その者が負傷していれば他の者が穴埋めをしなくてはならない。 宮都の中を放っておくことも出来ない。

要らない時に六都で問題を起こしてくれたと、六都に向かって行った武官たちの影の後姿が脳裏を横切る。
四方が組んでいた腕を解いた。

「財貨省長を呼ぶよう」

財貨省長にも話を聞かせよう。
四方がもう一度腕を組み目を閉じた。 己の判断が間違っていないか再考する。

暫しの時のあと財貨省長が執務室を訪れた。
捕り物があったことは知っていたが、己らに関することでは無いと帳面に張り付いていたようだ。

「暫し待て。 武官長が揃って話をする」

財貨省長が頭を下げ従者の横に座した。
ほんの暫しだった。 すぐに武官長四人が執務室に訪れた。

武官長三人は明け方近くに顔を合わせた衣そのままであったが一人は違った。
刀と鎧こそ置いてきたのだろうが、群青色に染め上げた皮で出来た衣を身にまとい、その衣に血が飛び散っている。
財貨省長がその姿を見て「ヒッ」と声を上げた。

「御前にこのような姿で申し訳御座いません」

着替える暇もなく指示を出していたのだろう。 この武官長が地下で武官を率いていたということだ。

「城家主の屋敷を押さえられたようだな」

「紙一重で御座いました」

紫揺の功績あってこそと言っているのだろう。

「大儀であった」

文官である財貨省長と武官長に目を送ると光石と零れ金の話をした。 そして

「二日後に光石を横流しにする情報がある。 そこへ武官に向かってもらいたい。 幾人向かえる」

「五十名ほどで地下に向かいました。 負傷した者がおりますが動けない者を除きますと手傷を負ったとは言え、三十名程は動けますでしょう。 二日後であれば宮都に散っている者や他の都に居る者も集められましょう」

他の三人の武官長に問うように視線を送ると三人ともが頷いた。

「マツリも行く故、それ程には要らんと思うが。 では二日後の横流しと光石の採石場と加工場は武官長に任せる。 財貨省長、各所に働いておる者の数を確認し武官長に知らせてくれ」

「はい」

「で、造幣所だが、明日にでも文官の手を借りて押えたいのだが、そちらの方にも動けるか?」

「と! とんでも御座いません!」

武官長に問うたのに財貨省長が顔を引きつらせて物申した。

「わ、我ら文官が血・・・血を見るなど。 そ、そ、それにかかって来られては!」

立ち塞がって逃げ場を防ぐことも出来ないということか。 財貨省長の言いたいことが武官長に分かった。 もちろん四方にも。

武官長たちが小声で話し何度か頷き合っている。

「二日後が光石関係で、造幣所が明日でよろしいでしょうか?」

問う武官長に四方が頷く。

「それでは財貨省長殿のお手は煩わせません。 我らが押えます。 ですが財貨官吏にも来て頂きたいと存じます。 我らでは分からぬところがありますので」

尤もだ。

「財貨省長、それでよいか」

「は、はい。 た、た、単なる立ち合いで御座いましたら。 その、あくまでも文面での立ち合いで」

四方が武官長を見ると武官長が頷く。

「では明日、頼む」

武官長四人と財貨省長が頭を下げ執務室を出た。

武官長は動けるものを動かせばいいが、財貨省長はこれから人選を考えなくてはならない。 文官は誰も荒事に首を突っ込みたくないのだから不興を買うだろう。

「そろそろ調べはついたか?」

四方が従者に目をやる。
ここに居ない四方の従者全員が優しく捕らえたものを見張っているわけでは無い。

「先ほど」

そう言って記載されている日誌の頁を広げて四方の前に置いた。

従者一人が四方の命に走っていたのだった。
四方が文官の日誌に目を這わせる。
そこには参内した乃之螺が帯門標が無くなったと声高に言っていたということが書かれていた。
そしてその後、帯門標が再発行されたことも。

再発行などとはあってはならない事。
どうしてここでもっと詰められなかったのか、四方が大きな歎息を吐く。

マツリが乃之螺を見ていなければ乃之螺が訴えることを四方も信じたかもしれない。 だがそれは有り得ないと思いながら。

帯門標は宮から出ることは無い。 誰かに盗られたとしても、乃之螺を嵌めようとしていたとしても、この日誌の日付からして問題が起き出した時が良すぎる。
城家主の台所から乃之螺の帯門標が出たことは揺さぶりに大きな意味を成すだろう。

情報を得た乃之螺が仕事中に席を外し、地下に情報を流しに行ったと考えるのが一番無難だろう。
その時に帯門標を外し忘れたか、外して元の位置に掛けてしまえば己が宮に居ないことになってしまうのを恐れ、そのまま身に付けていたのか、それとも懐に入れていたか。
地下の者に帯門標を自慢したのか、物珍しいものだから見せろと言われて取り上げられたのか、はたまた懐から落としてしまったのか。 いずれにせよ、乃之螺の帯門標が地下の城家主の屋敷から出てきたことは明らかだ。

だが地下の中には入ってはいないのだろう。 官吏の姿で地下になど入ってしまえばそれこそ百足や杠が気付く。
洞の入り口あたりか、姿を隠すために洞を少し入ったところか。

だがそれほど早急に中座をしなければならない程に急いだ情報とは何なのだろうか。 それを探るための何かがないかと、乃之螺の身の上も調べさせていた。

四方が日誌を閉じる。 従者が日誌を下げると手に持っていたもう一冊の頁を開いて四方の前に滑らせる。

乃之螺は辺境出身と書かれてあった。 官吏となって三年。 二十八歳。 家族構成は両親と歳の離れた妹。

辺境出身者が官吏の試験を受け、そして合格をした。 辺境から合格者を出すというのはそうそうあるものではない。 本人の努力が実を結んだのだろう。

辺境にいる者は中心の都(と)のように幼少から勉学などしていない。 きっと官吏になりたく辺境から出て来て中心のどこかの都で働きながら勉学に励んだのだろう。 その為に出だしが遅れ二八歳だというのに未だ下級官吏なのだろう。
まだまだ下級で決して高い給金ではない。 それでも辺境に居ることを思うと高い金子が手に入っていたはず。

なのにどうして。

調べてきた従者に目を移す。 従者が立ち上がり四方の斜め前に端座をする。

「乃之螺という者は辺境に居る両親に金子を送っていたようで御座います。 そして文官となって二年目に辺境から妹を呼び寄せ二人で暮らしていたそうですが、最近になり妹が身を固めたようでございます」

「兄として祝儀が必要になったということか」

「裏をとれたわけではござませんが、考えられます」

いや待て。 婚姻をするほどの相手だ。 昨日今日知り合っただけでは無かろう。 随分と前から分かっていたはずなのだろうから、兄としては早々から準備をしようとしていたはずだ。

「妹の名は」

「稀蘭蘭(きらら)と申しまして十八の歳で御座います。 相手は見張番で御座います」

四方の目が大きく開いた。

「見張番と?」

「はい」

「百藻か?」

最近身を固めたのは百藻だとマツリから聞いている。 そして百藻は四方もよく知っている。

「はい」

百藻に限ってまさか地下と繋がっていることは無いはず。 だがもし、乃之螺が稀蘭蘭を利用していたとしたら、いやそれ以上に稀蘭蘭も手を貸していたなら。

「百藻と稀蘭蘭という者をすぐに・・・」

言いかけて口が止まった。 真一文字に括る。

「いや、よい。 乃之螺のことが明らかになってからで。 苦労であった」

従者が頭を下げて身を引く。

ひっ捕らえた者や囚われていた者は刑部に任せるが、疑いのかかっている官吏と厨の女はまだ刑部に渡すわけにはいかない。 乃之螺もそうだ。
四方の方である程度明らかにしてから引き渡す。
刑部もその方がいいだろう。 一気に何人もの者達を問罪にしなければいけないのだから、今はこれ以上人数を増やしてほしくはないだろう。 ましてや明日、明後日にも増えてくるのだろうから。

ふと、あることに気付いた。

地下の者相手だ、問罪をする時に常より武官が必要になってくるかと。 武官に見張らせておかねばいつ暴れだすかもしれない。
明日には刑部省から武官長に要請があるだろう。
今、武官の人数を減らしたくはない。

「刑部省長を」

先ほど下がった従者が四方の近くにいた従者に頷くと執務室を出て行った。

いくらも待たない内に刑部省長が汗を流してやって来た。 省長自らも動き回っていたようだ。
ふてぶてしい者たちを牢屋に入れるのは武官がしたとしても、降って湧いた七十二人ものふてぶてしい者を問罪していくにあたり、色んな準備をしていたのだろう。

「忙しい時に悪い」

「いいえ、とんでも御座いません」

何度拭いても汗が止まらないようで「申しあけありません」と言いながら手巾で汗を拭いている。

「今日連れ帰ってきた者たちの問罪なのだが、明後日後に始めては貰えんか」

「と仰いますと?」

「あれらはかなり危険要素を含んでおる。 問罪の場に武官数名を立たさなければならんだろう。 だが明日、明後日と、武官には出払ってもらわなければならん」

「数名だけでも残ることが無いということで御座いますか?」

「宮の警護と宮都の巡回、牢の監視以外の者は全て出ることになるであろう。 それに万が一のことを考えると数名では不安が残る」

「承知いたしました」

「ああ、それと・・・」

今日ほどではないが明日、明後日とまた捕らえ者が増えるかもしれないと言うと、刑部省長はゲンナリした顔で執務室を出て行った。

「茶を一杯」

従者が置いてあった茶を淹れる。
それを一気に飲み干すと立ち上がり、優しく捕らえられた者達の居る部屋に向かった。






「杠、どうするのですか?」

マツリと杠の話を聞いたあと、紫揺の着替えている部屋に向かったシキが紫揺との別れを惜しみながらも大階段で紫揺を見送った。
その後に杠の居る所に戻ってきた。

杠はマツリの言った褒美に即答はしなかった。
回廊を蹴ってキョウゲンに跳び乗ったマツリを見送ると顔を下げたまま回廊に立ったままでいた。

このまま何かを考えたいが、何を考えられるだろうか。 何を考えればよいのだろうか。
一人でゆっくりと考えたい、己の戻る場所はどこなのだろうか、己の居場所はどこなのだろうか。

分からない。

だが少なくとも今はあの寝起きした部屋に戻ってもいいのだろうか。

顔を上げた杠。

「勿体ないお話で御座います」

「それはどういうこと?」

「親もなく辺境に生まれ何の学もない己などにその様な褒美を頂くことで御座います」

官吏になるには簡単なことではない。 その資格を褒美としていただく、それは甘んじていると言いたいのだろう。

「それが理由なのですか? 他に理由はないのですか?」

「・・・申し訳御座いません。 今は何も考えることが出来ない様で御座います」

考えなければいけないということは何かに迷っているのだろうか。

「杠はマツリと一緒に居るのが嫌なの?」

「とんでも御座いません。 それこそ勿体ないお話で御座います」

シキが細い息を吐いた。

「マツリは杠のことをそんな風に思っていないわ」

杠が何のことかと小首をかしげる。

「マツリはずっと杠を見てきたわ」

「え・・・」

どういうことだ?

「杠とマツリが初めて会った時から気にかけては陰から杠を見ていたわ」

マツリが己を見ていた? そんなことは知らない。 マツリからも聞いたことは無い。
だが養い親の元に居て仕事を言い渡された時には、マツリが飛んでいるのを時折見ていた。 それはあの時のように辺境を見回っているのだと思っていた。 だがその時にマツリが陰から己を見ていたということなのか?

己の命はマツリに救ってもらった命。
そしてあの時マツリが現れてくれなければ、父と母に最後の別れが出来なかっただろう。 はっきりとは覚えていないが、あの時は別れなどまともに出来ていなかったように記憶している。 ただ泣き叫んでいただけだったろうか。
それでもあの時にマツリが現れなければそんなことも出来なかった。

それにあのままだったら父と母は埋葬されなかった。 父と母をあのままにしておけば、川に流されどこに行ったのか分からずじまいだったかもしれない、獣や鳥に身体を食い千切られてしまっていたかもしれない。 そんなこともなく父と母は埋葬された。
マツリには感謝してもしきれない。

マツリにはこの身を使ってもらうことで恩返しがしたくて何日も通ってマツリの手足として使ってくれと頼んだ。
突然現れた己にやっと首を縦に振ってくれた。

「マツリ様は・・・己のことを知っておられたということで御座いますか?」

成長していく過程の己を。

あの時助けたまだ五歳ほどだった己が養い親の元を離れ、マツリを訪ねに来た時に己に気付いていたのか?

『名は何と申す』

『杠に御座います』

少し考える様子を見せたマツリ。

『では、我の元で動く時には “俤” という名で動くよう』 

己の名を言った時にどこか心の隅で己のことを思い出してもらえるだろうかという期待があった、だがそんな素振りを見せなかったマツリに寂しさは覚えた。

だがマツリは気付いていたのか?

ハッと気づいた。 あの時、紫揺が居た時、養い親の話をしかけた時、マツリは『言うでない』 と言った。
己が辛い目に遭っていたことを知っていたのか。

「ええ。 杠は疑う相手ではないからと、杠の申し出を受けたと父上に報告と承諾を頂いていました。 それからもマツリは杠のことはいつも気にかけていました。 特に地下に入ってからは」

「マツリ様が・・・」

「地下に入った杠と連絡を取ることが出来なくなった時、マツリは地下に入ることが出来なかったの。 その様子を見ていた紫が無謀にも地下に向かったのには驚いたけれど、紫もマツリのあまりの心配のしように手を貸したいと思ったのでしょうね」

シキから目を外すと顔を下げた。
己は手足となっているつもりだった。 だがそうでは無かったのか、マツリに見守られ心配をされていただけなのか。

「己はマツリ様に甘んじていただけか・・・」

呟くように言ったのをシキは聞き逃さなかった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第62回

2022年05月13日 22時23分11秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第62回



高校時代、部活一筋でやってきた。 クラスメイトもそれを知っている。 スポーツ科と芸術科が混在している女子だけのクラス。 クラスメイト自身も部活一筋でやってきていたのだから。

だが高校生という年齢。 それまでの情報から飛躍したことを考えるし、顧問に隠れて男子生徒と付き合っていた者もいた。 休み時間には女子高生が甘く感じる色んな話が盛沢山だった。
だがそこに紫揺は入っていなかった。 クラスメイトが入らせなかった。

教室でみんながワイワイとしている。 そこに入ろうと紫揺が近づく。

『シユが来た』

一人がそう言うと、囲んでいた雑誌を大慌てで隠す。
クラスメイトは紫揺には要らない情報を入れないようにしていた。 紫揺に限らず器械体操部員には。 器械体操部の顧問に要らないことを教えたと知られたらどうなるか分かったものではない。 校内で権力のある顧問だ。

結果、器械体操部全員がとは言わないが、少なくとも紫揺はクラスメイトから子供が生まれるための作業を聞かされることはなかった。

『なんかさ、こんなことって何も知らない子にはからかって言えるのに、シユには言いにくいんだよね。 顧問のことがなくてもさ』

『言えてる。 なんだろうね、言う方に胆力がいるって言うの?』

『あんまりにも知らなさすぎるからねー。 傷つけたくないって思っちゃうよね』

『それもあるけど、なんかねぇ、こっちがいけないことしちゃってる気がするんだよね。 罪の意識感じるって言うの?』

クラスメイトからはそう言われていたが、だが、紫揺もチューくらいは知っていた。
チューをしたら、子供が生まれると。

両親が健在だった紫揺の家ではテレビを点けられることが殆どなかった。 親子の会話が優先されていた。 その時にBGMとしてテレビは点けられていなかった。
小学校時代は母親がパートから帰ってくるまで外で遊んでいたし、中学で部活に入ってからは母親より紫揺の帰りの方が遅かった。
よって、テレビからのアレやコレやの情報は入ってこなかった。

地下に入る前、マツリに女だとバレるとどうなるか分かるだろう、と言われたことがあった。 何も知らなない筈なのにそれに対しすぐに納得したのは、もう両親が居なくなってから見ていたテレビからの情報であった。
風呂上がり何気なくテレビを点けるとドラマにチャンネルがあっていた。 運悪くなのか良くなのか、目に飛び込んできたのはベッドシーンだった。
見てはいけないものを見た気がして慌ててチャンネルを変えると、二時間サスペンスが流れた。 男に追いかけられ廃工場で押し倒され服を破られるシーン。
その二つが目に焼き付いていた。 その二つを勝手につなぎ合わせ、あんな風にされるのだと思った。



「・・・お前」

ゆっくりとマツリが振り返る。

「これが最後の警告。 今度こそ、次にお前って言ったら許さない。 絶対にアンタって言うからね」

マツリがこめかみを押さえる。
ふと、杠が言っていたことが頭に浮かんだ。

『だがこれだけはマツリ様から教わるといい』

杠が言っていたのはこの事だったのか。
紫揺が何も知らなかったということを杠は見抜いていたということか。 それとも紫揺と話して知ったのだろうか。
それにもう一つ。

『よくお考え下さい。 声を荒立てず紫揺の目を見てお話しください』

洞に入って紫揺と話をしている時、位置的に目こそ見ていないがマツリは声を荒立てていない。 紫揺はケンカを売ることなく普通に話している。
それに気付いたマツリ。

後者は身をもってよくよく分かった。 だが前者は・・・。

「接吻をすると子が生まれると?」

「え? そうでしょ?」

マツリが座り込んだ。

「なに? じゃないの? じゃ、しなくていいの? しなくても子供が生まれるの?」

元飼育委員。 小学生が読む飼育本に繁殖のイロハが詳しく書かれているわけではなかった。

「じゃ、ラッキー。 結婚をして手を繋げはいいのか。 うん、そこそこの人ならいいか。 嫌いじゃなければいいんだ」

杠から聞いたこともあるがそこを元に幅を広げて考えよう。

「・・・杠はなんと言っておった」

しゃがんでこめかみを押さえているマツリが問う。

「うん、と。 私に危険が生じたら身を呈して守ってくれる人。 何か疑問に思ったら何でも教えてくれる人。 私を大事にしてくれる人。 他にも色んなことを言ってた。 でも東に居て危険なんてこともないし、疑問に思ったらみんなが答えてくれる。 お付きの人たちも民もみんな大事にしてくれてる。 そう言ったら杠が納得して、それなら胸を締め付けられる人、私の胸を刺す人、って言ってた」

それがどういうものかは分からないが、杠の言ってくれた、教えてくれた人が現れたとしてもそれに値する二番目の人を領主に言うつもりだ。
杠には悪いが一番目は・・・選んではいけない。 そんな傲慢な事が出来るはず・・・したくは無いのだから。

「胸を刺す人?」

胸を刺す・・・胸が刺される。 棘のような物で。
己はそれを知っている。
片膝をついて頭を下げる。

「マツリ?」

どうしてそんな状況になったのか。 いつ、どうして、どこで、何を考えていた時に、何を見ていた時に。

「マツリ?」

紫揺がマツリの前にしゃがむ。 マツリの顔を覗き込む。

「大丈夫? もう一人で帰れるから。 休んだ方がいい」

寝不足ではあるがそれでも地下で楽しく身体を動かせた。 だがマツリはずっとどこかに出ていたし疲れているだろう。 それに紫揺と同じく寝不足なはずだ。
先に飛んで行ったキョウゲンが戻ってきた。
マツリの様子に地面に足を着く。

「キョウゲン、マツリを連れて帰ってくれる? 私に付き合わせてキョウゲンも疲れてるだろうけど」

キョウゲンがマツリを見る。

「マツリ様?」

「・・・なんでもない」

「なんでもなくないでしょ?」

マツリが顔を上げる。
そこに紫揺の顔があった。

ドキン。

心臓が今にも撥ね跳びそうになる。 撥ね飛びそうになった後に何かに鷲掴みにされた。
刺される痛みなどない。
息がしにくい。
杠が言っていたことが頭を駆け巡る。

『では己が紫揺を抱いても良いと仰いますか? マツリ様は己にそうするように仰るのですか? 紫揺にも』

『紫揺がマツリ様のお知りにならない者の奥になっても。 その者に抱かれても。 夜な夜な』

(紫が杠に、知らない者に・・・)

鷲掴みにされている心臓が更に握り締められる。
眉根に皺を寄せる。
握り締められる中、思い出すことがあった。
波葉から色んな話を聞かされた。 すべて理解したつもりだ。 それは『恋心』 に書かれていたものと全く同じなのだから。

(俺は・・・)

紫揺から目を外す。

(ある種の者なのか・・・)



【恋心:困った者】
それは恋をしていることに気付かない者である。
どうして気付かないのかは、拙筆者には分からない。
己の想うまま感じるまま、全てを受け取ればよいものを、どこかで歪めてしまっている。 これを困った者という。
お相手に恋心を抱いてもいないのに、恋心を抱いていると勘違いしている者もいる。 これも困った者である。
また、己の想いを押し付けようとする者もいる。 これも困った者である。
恋心に気付かない者のことを困った者というが、別編ではある種の者という。 それは “嫉妬の編” に続く。

“恋心” にそう書かれていた。

(俺が・・・紫に恋をしている? ・・・どうして)



【恋心:恋の理由】
恋に理由などない。



地下の城家主の屋敷の窓から紫揺が跳び下りようとした時、塀を跳んだ時、あれくらいなら紫揺は簡単に跳び下りられることは分かっていた。
だが手を出し紫揺を受けとめた。

―――何故。

目を瞑りあの時の場面を思い出す。
紫揺が杠に抱えられていた場面を。 紫揺が杠を見上げその紫揺を杠が見ていた。 何かを話していた。

だから。

―――取り戻したかった。

(馬鹿な)

取り戻すも何も始まってもいない。

ふと波葉が杠に向けた時のことを思い出す。
あれは完全に杠に嫉妬していた。 シキもそう言っていた。 妬いていると。

(俺は)

―――波葉の気持ちが分かる。

一度閉じた目をゆっくりと開ける。
キョウゲンが大波のように押し寄せてくるマツリの感情に目を何度もパチクリさせている。

「いいって。 洞窟には誰も居ないから。 山の中って言っても、洞窟を抜けたら東の領―――」

立ち上がりながら言った紫揺の声にハッとなったマツリが紫揺を見上げる。

「どうしたの?」

マツリが立ち上がる。

「東の領土には送って行くと言ったはずだ」

「気分が悪いんじゃないの?」

紫揺が眉を上げる。
マツリの頭に杠からの声が響く。

『紫揺を想っておられることをお認め下さい』 

一旦目を閉じた。 三つ数えて目を開ける。

「杠は胸を刺す人、と言っておったのだろう」

「いや、話し戻す? 疲れてるんじゃないの?」

「その様なことは無い。 杠の言ったことを問うておる」

何を言っても無駄か。
杠に言われたこと。 “胸を刺す人” 言われた時には、心臓をナイフで刺されたところを想像した。
それを言うと思いっきり “最高か” と “庭の世話か” が、心の中で笑っていたようだった。 押しとどめてしっかりとクスクスと笑っていたが。
杠が説明してくれた。 それで何となく分かった。

「うん、そう言った」

言葉の綾というのだろうか、同音異義語というのだろうか、どちらでもないのだろうか、杠の言葉はまだ何となくしか分かっていないが分かろうとする気はある。 でもそんな人は当分現れないと思っている。
杠が言うに何を考えることもない、何を探ることもない、紫揺が自然に感じるはずだと。
だがそんな人とは今までに出会ったことがない。

「杠が胸を刺す者と言ったのに、そこそこの者、嫌いでなければいいと考えるのか」

「だから言ったじゃない。 いつかは現れるかもしれないけど領主さんを安心させたいって。 目星をつけていれば領主さんも安心するだろうし」

「いつまで経っても杠の言うような者が現れなければ、その者を伴侶にするということか」

「当分、現れる気がしないから結局そうなるかもしれない」

「杠は、杠をがっかりさせる男は許さないと言っておった。 それをどう考える」

「杠が言ってくれたことは嬉しい。 でもそんな人が居るとは限らないし・・・今のところ居そうにないから。 だから私から感じてそこそこの人。 杠から見ても納得してもらえる人」

『紫揺がマツリ様のお知りにならない者の奥になっても。 その者に抱かれても』

紫揺がマツリの知らない者の奥に、その手に抱かれる・・・。

「遠縁、と言っておったな」

『夜な夜な』

そんなことを許す気はない。

「塔弥さんの事?」

「紫の遠縁は山と居る」

「え? マツリ、知ってるの?」

「本領には五色の遠縁が山と居る」

「いや、本領の話しじゃないし」

「俺も紫の遠縁だ」

「は?」

そう言われればシキから聞いていた。
本領領主の一代目は五色だったと。 ましてやその一代目は一人で五色を持つ者だと。
五色とは遠い親戚関係にあり、一人で五色を持つ者は五色の中で一番近い親戚だと。

「お前の目星の中に俺を入れておけ」

「は? なんで?」

「俺以外は入れるな」

「はぁー?」

「領主にそう申しておけ。 行くぞ」

マツリが歩き出すとキョウゲンがマツリの肩に乗った。
やっとマツリから流れてくるものが治まった。 今まで分からなかったものが繋がれて一つのものとなった。

「ちょっと、意味分んないんだけどっ!」

紫揺がマツリの後を追う。

『紫揺に意識はありませんが紫揺もマツリ様のことを心の内で呼んでいます』

マツリの心の中で、杠の言ったことが何度も繰り返された。



宮では、四方が執務室で忙しく書類に目を通している。
囚われていた者の名、多数の捕らえた者の名、負傷した武官の名が書かれている書類。
城家主の屋敷から持ち出した光石やその他気になる物はまだ寸法も測れていなければ、整理も出来ていない様でそれはまだ提出されていない。

「尾能の母御は?」

目の前に端座している従者に問う。

いつもは四方の執務室の座席の斜め左右に座す文官は居ない。 戻ってきた武官たちの間で右往左往している。 武官のみならず文官も総出となっている。

「傷は多くあります。 左肩は脱臼しておりましたが医者が関節を入れました。 今はまだ痛みに耐えておられるようですが傷も何もかも医者が手を施しました」

「尾能への報せは」

「医者からの結果を持っておりまして今やっと走っております」

他に囚われていた者達は傷も何も一切ないことを聞いていた。 ただ、小さな子が訳も分からず真っ暗な牢屋に入れられ泣き暮れていたとも聞いていた。

「子は」

「今は落ち着いております」

「刑部(ぎょうぶ)は」

「動いております」

「抜かりはないか」

尾能が居ない。 尾能からの指示がない、それは大きなことだ。 それもこんな大きな事態の時に。

「・・・」

はい、とは言い切れない。

「どうした」

「申し訳御座いません、尾能殿がお考えになるほどには子細を考えられません・・・」

四方が長い息を吐いた。 正直な所だろう。 あらゆるところで四方も身を持って感じている。

「そうか・・・」

尤もだ。 尾能はずっと四方に付いていた。 何十年も。 四方とは阿吽の呼吸だ。 経験数も年数も違う。 その上で四方の気付かない事にも手をまわしていた。

四方が言わんとすることを尾能が心で分かっていた。 形で分かっていたわけではないが為、それを誰かに教えるということは不可能に近いことだった。 だが基礎となる所は前任から教わっていた。 その前任も尾能とは違う形で四方に寄り添っていた。

尾能が後任を探すには四方に寄り添う気持ちがある者を探さねばならないが、元より後任に任せる気持ちはない。 前任は年齢的なものと尾能を育てたということ、それがあり退いたが、四方と変わらぬ年齢の尾能である、ずっと尾能が四方の側に居るつもりだ。

尾能は四方が何を考えているかを分かり先手先手で動いていた。 そんな尾能のような存在は四方には大きかった。
今回のことでつくづくマツリにもそんな存在を置きたかった。 それが杠だった。
尾能は側付き。 側付きとして四方に仕えている。 同じ様に杠をマツリの側付きにと提案した四方にマツリはそれを是としなかった。

『我に側付きも従者も要りません』

『だからとて、いつまで杠を百足のように動かすのか』

『・・・その気は御座いませんが杠がそれを望んでおります』

『杠の望むままにか』

『はい。 杠は我の横にじっと座って何かを待つなどということはしたがりません。 己の足で動きます』

『そういうことか』

『ですが今回のことで考え直さねばとは思っております。 杠に何かあった時、救う者がいなければと』

『では、杠に配下を持たすか』

『・・・杠が承知すればの話ですが』

『では、側付きでも従者でもなく、マツリの片腕として迎えればどうか』

『・・・どういうことでしょうか?』

『官吏として役を持てばよい。 マツリ付の官吏となる。 今までもそのような官吏がおった。 それが形を変えて今は百足となった。 それを復活させる。 杠が宮に居ながらも配下に足を運ばせる。 その指示、情報を収集する。 それをマツリに伝える。 現場を踏んでいた杠なら細かい指示も出せよう。 まあ、宮でじっとしていることには変わらんが今まで以上に頭を回転させねばならん。 実際に宮の外に足を運んでも良かろうが、その時に身分があるのと無いのでは大きな違いが出てよう。 どうだ』

『父上、どうしてそれほどに?』

『ああ、杠は真を持つ者。 そう感じた。 そういう者がマツリに付くに越したことは無い』

それに杠のことはずっと知っていた。 いや、マツリがあまりにも気にしているから百足に探らせもしていた。

『杠をお認めになって下さいますか』

『認めるなどと・・・。 杠はマツリの気にしておる地下の流れを知っておる。 マツリに言われ地下に入ったのだからな。 だが地下に入れと言われ簡単に入れるものではない。 それを意ともせず杠は地下に入った。 あらゆる情報をマツリに聞かせた』

『百足も地下に入り父上に情報を入れました』

『百足は百足となった時からその覚悟がある。 鍛えもしておる。 だが杠はそうでは無い』

地下に入った百足は人知れず動き地下の者が話すことに耳を傾けていた。
だが杠はその渦の中に飛び込み身を現して話を聞いた。
百足のやり方と杠のやり方は全然違っていた。

今回の事、そこで百足が下手を踏んだ。 人知れず動いていた百足なのに城家主の手下に近づき過ぎ姿を見られてしまった、そこが失敗だった。

『側付きでもなく、従者でもなく、我の片腕としてならば』

そう言ってマツリが承諾をした。

『マツリ付の官吏であるから無条件にとはいかんが、通常の官吏のように資格試験は無いものとする。 それを今回の褒美としよう』

その後マツリが杠と話したのかどうかはまだ聞いていない。
今度こそ紫揺を送って東の領土に向かっているはずだ。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第61回

2022年05月09日 22時24分09秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第61回



遠くからマツリと杠の様子を見ていた。 四方が何を言ったのかは知っていた。

「ああ、やはりこちらに居られましたか。 朱禅殿」

朱禅が振り向く。

「御文で御座います」

「ああ、有難うございます」



眼下で馬が三頭走っている。
後ろを走る瑞樹が紫揺の馬に横付けをした。

「如何なさいましたか? ご気分が優れられない様でしたら一旦止まりましょうか?」

「いいえ、大丈夫です。 何でもありませんから」

前を走る百藻は蹄の音で瑞樹が紫揺の横に付いたのには気付いていたが、会話は聞こえてはいなかった。
紫揺の後姿を見ていた瑞樹。 今までは背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見ていた姿勢が今日は背を丸くし下を向いている。
瑞樹が一度後ろを振り向く。 後方に何もないことを確認する。 そしてそのまま百藻の横に付けた。

「いつ紫さまが馬から落ちられるか分かりません。 紫さまは何でもないと仰っていますが」

「前後を変わる」

百藻が斜め横に走ると馬のスピードを緩め紫揺の後方についた。 瑞樹がそのまま紫揺の前を走る。
たしかに、瑞樹の言うように紫揺の身体が初めて馬に乗る者のように揺れている。
馬から落ちられては見張番としての責務を問われる。
百藻が紫揺の馬の横に己の乗っている馬をつける。

「紫さま、一度馬をお止め下さいませんでしょうか?」

「え? どうして?」

「馬の様子がおかしいので」

「え?」

気付かなかった、と思う紫揺だが、馬の様子がおかしいのではなく紫揺のお様子がおかしいのだ。

瑞樹の話からすると紫揺の様子がおかしいが、紫揺は何でもないと言っていたということだ。 そうならば単に馬を止めるようにと言っても止めないだろう。 だから紫揺の矜持に触れないよう馬の様子がおかしいと言った。
この辺りに稀蘭蘭(きらら)が惚れたのかもしれない。

紫揺が手綱を引いて馬を止める。
後ろの様子を気にしていた瑞樹が方向を変え紫揺の元に馬を走らせる。

「如何いたしましょう」

「降りてくれ」

「御意」

キョウゲンが滑空するとマツリが跳び降りた。

「どうした」

縦に回ったキョウゲンがマツリの肩に乗る。

「マツリ様、申し訳御座いません。 蹄に土がこびりついたようで」

既に馬から降りている百藻が言うと続けて、おい、と言って瑞樹に目を送る。 瑞樹が馬を降ると腰に付けていた道具を出して既に下馬していた紫揺の馬の足を上げさせ蹄の中の土をかく。

瑞樹は百藻が言わんとしていることは分かっていた。 だから土をかくのは真似程度のことである。
馬の手入れはきちんとしている。 宮を出る前にも蹄の中の土はかいている。 この程度走ったくらいで蹄の中の土がどうのこうのということは無い。
馬のせいにして紫揺を止めた、そういうことだ、と。
四肢の蹄の中をかく間に落馬をすることの無いように百藻が話をするだろう。 そう思いながら馬の足を上げさせ蹄の中をかいている。

自分の乗っていた馬の首を撫でている紫揺。
馬に心を寄せる。 馬はなんの訴えもしていない。 紫揺が馬の首に抱きついた。
蹄の裏をかいていた瑞樹が「あ・・・」っと声を上げ、馬の足を下した。
マツリと百藻が紫揺を見る。

「ごめん」

瑞樹が百藻を見たがマツリと共に紫揺を見ているだけだ。

「ごめんね、要らない迷惑かけたね。 重かったよね。 今度はちゃんと乗る」

首を羽交い絞めにされた馬がじっと紫揺の声に耳を傾けている。

「紫さま・・・?」

瑞樹が紫揺に声を掛ける。

「すみません。 いい加減に乗っていました。 ちゃんと乗ります」

愛馬のお転婆ならとうに不服三昧であっただろう。
まだ四肢全部の蹄の土をかいていないのに紫揺が馬に乗った。

「お願います」

百藻がマツリを見る。

「お元気になられたようで」

「そのようだな」

・・・そのようだな。 全く以ってそのようだな。
だがここで疑問を持ってはいけないのだろうか。
以前、紫揺はキョウゲンが昼日中を飛ぶことに暗色を見せていた。 暗色では治まらない事も言っていた。
今はその昼日中。 なのにキョウゲンに労わりの言葉がない。

大きくなったキョウゲンに跳び乗ったマツリ。

「時を無駄にした。 悪いな」

夜行性のキョウゲンが、この昼日中に飛んでいるのだから。

「ご心配なきよう」

眼下の三頭が再び走り出した。

後ろを走る瑞樹が納得するように頷く。 紫揺が今まで通り馬に揺られることなく、背筋を伸ばし馬の揺れに身体を合わせている。
ただいつもの覇気は感じられない。

何もない土地を走り続け岩山を上る。 ここでは馬を歩かせるが、馬の足元に注意しなければ拳ほどの大きさの石がどこに落ちているか分からない。
落ちていれば前を歩く百藻が注意を促すだろうが、後ろを歩いている瑞樹にしてみれば先ほどのことがある。 今はしっかりと馬に乗ってはいるが気が気ではない。

上空を旋回するキョウゲンの背から岩山を見ると怪しい影など見えない。 キョウゲンが見張番の居るところに滑空をしマツリが跳び降りた。

キョウゲンを見ていた見張番が既に剛度を呼んでいる。

「今朝がたはご迷惑をお掛けしました」

剛度は見張番の長である。 部下が地下の者と繋がっていたということも勿論だが、武官から逃げマツリに多大な迷惑をかけた。

「気にするな。 皆は知っておるのか?」

「ここに居る者には言いました。 来るはずの者が来ないんですから。 それにすぐに分かることですんで」

「そうか。 人数の調整が必要だな」

四人が捕らわれた。 もともと新しく入った二人は必要ではなかったが、もう二人は以前から居た者だ。 二人の補充が必要だろう。
剛度が顎に手をやり髭をかくように指を動かす。

「今のところはいいです。 この人数でやっていきます」

元々は十六人いた見張番が十八人になったのだ。 それから四人抜け、今日から十四人になっている。 その十四人が朝と昼からの二交代制に分かれる。 ということは、朝と昼で見張番が立つのは七人ということになる。

「だが西の五色が来ては人数が足らんだろう」

西と北の五色は五人。 北の五色は馬に乗れるが西の五色は馬に乗れない。 今回の紫揺のように五色だけで来るということは本来有り得ない。 五色につく “古の力を持つ者” と領主が必ず一緒だ。
西の五色が本領に来ることがあれば、五色と “古の力を持つ者” と共に馬に乗る見張番六人と前後に付く者二人、合わせて八人が必要になってくる。
それに此処を留守には出来ない。 残る者も必要だ。 今まで十六人体制の時には剛度が上手くやりくりをしてきたが、十四人ではどうにもいかないだろう。

「もともと領土からは、滅多に誰も来ません。 西も北もそうです。 それに座生(ざおう)と金治(きんじ)が、息子の不始末を補いたいからって、いつでも手を貸すって言ってきてますんで。 ただ働きで」

最後の言葉を言いながらニヤリと笑っている。
座生と金治というのは、技座(ぎざ)と高弦(こうげん)の父親であり、元見張番でもあり、年下である剛度の部下でもあった。

「そうか、だが必要な時はいつでも言ってくれ」

「有難うございます」

「百藻と瑞樹には何も言っておらん」

見張番の大捕り物があった時には百藻と瑞樹は地下の入り口で紫揺と杠の乗っていた馬の番をしていた。 ついでにそのまま武官に使われ、何十頭もの馬の番までさせられていて知る由もなかった。

「分かりました。 おっ、来られたようです」

マツリが首をまわすと百藻が岩山から姿を現した。 続いて紫揺が姿を現す。 落馬も何もなかったようだ。

「苦労であった」

そう言うと百藻に腕を伸ばす。 百藻が下馬し袈裟懸けにしていた袋をマツリに渡す。

「借りていたものだ。 急なことで悪かったな」

袋を剛度に渡すと剛度が袋の重みに気付いた。

「ほんの礼だ」

袋の中には紫揺が来ていた服と履き物。 そして金貨が入っている。

「有難うございます。 頂きます」

この袋だけでも民が持てるような生地では無いのに。 女房が喜ぶだろうとホクホク顔で受け取る。
普通なら台が用意されるところをそれを必要としない紫揺が下馬をした。 待機していた見張番が手綱を受け取る。

杠はまた逢えると言っていたが紫揺に気を使っただけだろう。 この岩山に来ることはもう無いだろう。
会うことはもうないだろうと、本領に来ては付いてくれた百藻と瑞樹によくよく礼を言うと、マツリと話している剛度のところに来た。
突然にお願いした事を再び詫びポケットに手を入れる。
このポケットは東の領土で付けてもらっていたものだ。 中の物が落ちないように、ボタンの注文まで付けてあった。

「すごく役に立ちました。 有難うございました」

光石を剛度に渡した。

紫揺が光石を持っていることを不思議に思っていたマツリだったが、それを問うタイミングを逃していた。 だがいま紫揺が言ったことで剛度が持たせたのか、と得心した。

「役に立ったんでしたら光石も喜んでいますでしょう」

ガハハっと豪快に笑うと懐に入れた。

「女房にもよくよく礼を言っておいてくれ」

剛度が袋を持ち上げ軽く顎を引く。

「行くぞ」

紫揺がハッとしてマツリを見た。 既に後ろを向き歩き出している。
杠なら優しい笑みで紫揺が動くのを待ってくれていたはずだ。

―――だけど。

杠とマツリは違う。 別の人間なんだ。 誰しもに杠のようにして欲しいと願うのは自分勝手なことだ。
走ることなく歩き出した。 距離は空いたまま詰めることはしなかった。
見張番たちの居た広いところを抜け、左手を岩山に添わせて下を向いて歩く。 右手は崖である。

ドン。

何かにあたって、二、三歩後ずさる。 右は崖だ。 左腕が引かれた。

「ぼぉっと歩いておるからそうなる」

マツリに当たったようだった。
紫揺の左手の手首を見る。

「もう治ったようだな」

マツリが湯殿で掴んだ左手首にはもう跡形もなく握った後は消えている。

「腕は」

見ると気分が悪くなるから見てはいなかった。 あの喜作の指形など。

「これに着替える時に世話歌さんが布を巻きなおしてくれてたから、まだじゃないかな」

包帯である晒し布の下には薬草で作られたシップのような物が貼られている。

「そうか」

手を離すと方向を変え歩き出した。
無言で岩山を上ると洞の前に出た。

「もうここでいいよ。 あとは洞窟の中だし山を下りる道も覚えてる」

「そういうわけにはいかん」

背中にかかる声に一瞬足を止めたマツリだったが再び歩き出す。
マツリが洞の中に歩いて行くとキョウゲンがマツリの肩から飛び立った。

紫揺からしてみれば別に気にするほどのことではないのだが、二人で居て無言の時というのはあまり歓迎したくない。 それに今は一人でいたいというのもある。
長い溜息をついてマツリのあとに続いた。

洞の中に入ったマツリは紫揺が来るのを待っていた。

「見張番が立ってくれているから、洞の中に何かがということはまず無いが、万が一のことがある。 離れるな」

いくら見張番が立っていてもシステムさえ知っていれば見張番の居ない夜には、大きめな光石を持っていると入り込むことが出来る。 そういうことの無いように、光石は簡単に流通させていないのだが、各領土から入ることは出来る。

西南北の領土が洞をどんな風に管理しているのかは知らないが、東の領土では洞には何もしていない。 システムさえ知っていれば入り込むことが出来るし、偶然に入り込むこともあるかもしれない。
ここで万が一があれば、マツリが責任を負わなくてはならなくなるのだろう。

紫揺にしてみれば捕まるなんてヘマをする気はないが、急に後ろから殴られれば逃げるも何もあったものではない。

「分かった」

マツリの後ろをとぼとぼ歩く。
少し歩くと眉間を寄せたマツリが後ろを振り返る。

「真後ろを歩かれるのは気分のいいものではない。 斜め後ろを歩け」

「なんで」

「お前は地下にいる時に真後ろを取られたらどんな気分になる」

取られたら、何という言い方だとは思ったが、マツリの言いたいことは分かった。 これは習性のようなものなのだろう。

「お前って言うな」

言いながら一歩横にずれる。
マツリが歩き出す。 その横一歩後ろを紫揺が歩く。

「杠はどうして紫と呼ばん」

何故か急なマツリからの質問にナンダ? とは思ったが、間を空けることなく即答する。 間を空けてしまっては負けたような気がするからだ。

「紫揺って呼んでほしいって言ったから」

「・・・ニホン・・・ニホンに帰りたいのか」

マツリにほんの僅かの間があった。 どこか勝ったような気がして気分がいいが、今の質問は帰りたいと言ったらどうするつもりだ。 洞は塞がれたのに。

「帰りたいって言ったら帰してくれるの」

「・・・それは現実的な話ではない」

「だったら聞かなきゃいいのに」

いったい何が言いたいのか。

「帰すとは言っておらん。 帰りたい気持ちがあるのかと訊いておる。 ニホンで呼ばれていた名を呼んでほしいくらいなのだからな。 ・・・それとも杠は特別か」

そういうことか。 それにしても間が多いな。

「杠は特別。 それは当たり前」

杠は特別。 当たり前に。
そう言われて頷く。 マツリも杠のことを気にかけてもいるし認めてもいる。 もしその杠のことを少しでも否定されれば、たとえ相手が紫揺だろうと訊問に近いものをしていただろう。
紫揺が続けて話す。

「だからと言ってそれが理由じゃない。 二十一年・・・十八年も紫揺って呼ばれてきた。 お父さんとお母さんが紫揺ちゃんって、ずっと呼んでくれてた。 友達もそう。 その名前で呼ばれたいと思うのは当たり前じゃない。 やっと紫って名前になれたくらいだもん」

十八年。 それは十八の年ということだろう。 紫揺から聞いた話ではその歳に両親を亡くしているということだったのだから。

「そうか」

訊ねておいて短い返事。 紫揺がマツリの背中を睨む。

「姉上に言われたこと・・・」

「へ?」

「・・・伴侶を探すのか」

「ああ、そのこと。 頑張るしかない。 領主さんが心配する前に目星はつけておこうと思う」

「・・・目星」

「塔弥さんみたいな人がいいかなって思うけどなかなか居ない」

「トウヤ? ああ、姉上が独唱付きと言っておられたか」

「うううん。 もともとは紫付きなんだって。 紫が居なかったから、紫を探している独唱様に付いていただけだって。 だから今は私付き」

「そのトウヤという者が良いのか」

「いいって言うか・・・。 一番気を使わないって言うか。 遠縁にあたるからかなぁ」

「遠縁なら他に探せば居よう」

「面倒臭いな」

「面倒臭い? ・・・杠はどんな風に言ったのか」

呆れるように言う。

「杠は悪くない。 杠にはちゃんと言われてる。 それも分かってる。 ただ・・・」

しばらくの沈黙が流れる。

「ただ、なんだ」

「・・・杠の言うような人が現れる気がしない。 いつかは現れるかもしれないけど。 でも・・・」

何を言いにくくしているのか、とマツリが思うが紫揺自身が分からないのだ。 当の本人が分からないのだから聞いているマツリに分かるはずはない。

「でも、なんだ」

「・・・領主さんを安心させてあげたい、が・・・一番かな」

マツリが足を止めた。

「どういうことだ」

どうしてこの話にそんなに食い付くのだろうか、と思いながらも日本との違いを口にする。

「・・・日本では二十三歳・・・二十三の歳で結・・・婚姻してなくても何も言われないけど、こっちって若くして結婚するらしいね。 南の五色が言ってた。 南の五色にはもう子供もいるみたいだし」

年齢を気にしているのかと、紫揺の言いたいことは分かった。 だからと言って。

「お前は、領主を安心させるために、伴侶を得るというのか」

「今度お前って言ったら、絶対アンタって言う」

マツリが溜息を吐く。

「婚姻を何と考えておる」

「結婚し・・・婚姻の儀を挙げるんでしょ? で、一緒に暮らす」

次の言葉を待つマツリ。 だが紫揺が何も言わない。

「それから」

「え? それからって。 ・・・子供が生まれて教育する。 その子が五色ならそれでいいし」

領土にはその他に何かあるのだろうか。

「子が生まれて・・・。 伴侶のことはどうなっておる」

「えっと・・・仲良くしてる。 もし喧嘩しても子供には喧嘩をする所を見せない、とか?」

何を訊きたいのだろう。 領土の婚姻たるもののイロハでも教えてくれるのだろうか。

「領主を安心させるために選んだ伴侶と仲良く居られるのか」

「それはそれなりに選ぶ。 そこまで馬鹿じゃないし。 ちゃんと手を繋がれても嫌じゃない人を選ぶ」

どんなに強くても喜作のようなやつは選ばない。

「手を繋がれても?」

何のことかと足が止まる。

「あ・・・。 チューは、しなきゃいけないか・・・」

マツリの足が止まったことは分かっている。  紫揺も足を止め顔を歪めた。顔を歪めた。

「ちゅー?」

僅かにだが肩越しにマツリが紫揺の方を見ると、紫揺がそれに気付いて目を逸らすように視線を落とす。

チューが通じないか。 だからと言ってどう説明しろという。 説明の難しさを感じるし同時に恥ずかしい説明ではないか。

「えっと・・・。 口と口がくっ付く」

下を向いて言うしかない。

「接吻か」

どこかで聞いたことがある。 ここではチューではなく接吻というのかと、頭の中にメモった。

「・・・でなきゃ、子供が生まれないもんね」

マツリに聞かせる為ではなく、ポソリと言った。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第60回

2022年05月06日 21時52分08秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第50回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第60回



「マツリ! どこに尾能さんの母上が居るの?」

何度も回廊を曲がり、回廊を降りるとずっと歩き、見たこともない宮の中にある門を二つ抜け全く知らない所まで来た。 今迄に来たことの無い場所だ。 目の先に武官たちが居る。

この宮という所はどれほど広いのだろうか、と紫揺が思ったが、ここは宮の中には違いないがマツリたちが暮らす宮内ではなく、武官舎(ぶかんしゃ)がある敷地内である。

マツリが振り返ると目の前に紫揺が居るではないか。

「どうしてお前がここに居る!」

ずっとマツリの後ろをついて来ていたがマツリは全く気付かなかった。
頭の中は先程、杠に言われたことで一杯であったのだから、紫揺が何度呼ぼうともそれにも気付きもしなかった。

先ほどの波葉のあの変わりよう。 普段大人しい波葉が睨む目を持ち声さえ荒げてもいた。
杠はその波葉のここを、声を荒げた波葉のことを『己がシキ様とお話していたのがお気に障られたようです』 そう言った。
己が声を荒げるのは・・・。
そんなことばかり考えていた。

「尾能さんの母上が気になるからに決まってるでしょ」

「その様なことは武官に任せておけ」

「ウッザ」

「何と申した」

「ウザイって言ったのよ! もういい! マツリに訊かない!」

そう言うとマツリを通り越して武官に向かって走り出した。 すぐに「あ、ああぁぁ―――」 と、紫揺の後ろで声がする。
“最高か” が武官の波にもまれ消えて行く。

その二人の気配が消えたことに気付き、地にすってしまった後ろの裾をたくし上げ、いったん止めた足で再び走り出す。

手の空いていそうな武官一人を見つけ尾能の母親のことを訊いた。 訊かれた武官が戸惑った様子を見せている。
武官は紫揺のことを知らないのだから当然である。 ましてや紫揺が今回のことで功労を得ているなど知らない。
だがそれを差し引いても武官舎の敷地内に宮内の者がいる。 それも宮で上級を示す衣装を着ている者に訊かれては戸惑いを隠すことなど出来ない。

「だから、尾能さんの母上はどこにいらっしゃるんですか?」

「そのようなことは・・・御方(おんかた)様がお知りになるようなことでは御座いませぬ故・・・」

「オンカタってなに? そんなのどうでもいい。 尾能さんの母上! どこにいらっしゃるんですかっ!」

「地下に囚われていた者はどの馬車におる」

紫揺の背後から声がした。 紫揺が振り向くと後ろにマツリが立っていた。

「あ、あちらの二つの馬車で御座います」

紫揺のことは知らないが、マツリのことはもちろん知っている武官が離れた所に止まった馬車を指す。
マツリが歩き出す。 遅れて紫揺も歩きだした。
こんな時、杠なら「行こう」と紫揺に声を掛けるだろう。 だがそんな声が聞こえない。

屈強な身体をした武官が何人も行きかっている。
野太い声。 喚く声。 晒し布(さらしぬの)をしているが、そこから血が滲んでいる何人もの武官。 鉄のような血の臭い。 馬が地をかく音。 鎧のあたる音。

(杠・・・)

たった一言なのに。

「む、紫さまー」 と未だに “最高か” が武官の波に揉まれている。

・・・杠がコイシイ。

馬車から人が降りてくる。 その誰にも見覚えがある。 だが、もう一つの馬車からは見覚えのない者がおりてきた。 そして最後に見覚えのある顔が尾能の母親の手を取って降りてきた。
またもやマツリを抜いて紫揺が走った。

「尾能さんの母上!」

尾能の母の手を取っている百足が振り返った。 足元を見ていた尾能の母が顔を上げる。

「あ・・・あなたは」

尾能の母が目を大きく開けた。
衣裳や印象は全く違うが光石に照らされた紫揺の顔を忘れてはいない。
百足も同じく目を開き驚きを隠せない。 あの小汚い服を着ていた紫揺が地位のある衣裳を着ているのだから。

「お身体の具合は?」

「え、ええ。 なんとか」

全く何ともなくはないが初めて紫揺が見た時より傷もなにも増えていないだろう。 あちこちに巻かれた晒し布が痛々しいが。

「良かった」

「あの、貴方様は」

小さな老女だ。 傷だらけの、見えないところにも痛みを負っているはずだ。 それなのに凛としている。

「尾能さんの母上。 ご無事で何よりです」

そう言うと踵を返した。 今すぐ杠の元に行きたい。 杠に会いたい。

後の裾を持ったまま地を蹴り走る。 うろ覚えの門を一つ潜った。

ドン!

尻もちをついた紫揺が顔を上げると、文官が前にたたらを踏んで振り返ってきた。 どうも後姿の文官にぶつかったようだ。

「申し訳御座いません」

文官がすぐにしゃがんで紫揺の様子を見るが位の高い衣装を着ている。 簡単に手を添えて立たすわけにもいかない。

「あの・・・宜しければお手を・・・」

紫揺を覗き込んできた顔の一部には印象に残るものがあった。

「いいえ、こちらこそゴメンなさい」

手を借りることなく立ち上がりパンパンと衣裳をはたくと、後ろの裾を持って走り出した。

「お・・・お待ちくださいませー」

文官の横を “最高か” が息を弾ませヨロヨロと走り過ぎていく。

「なんだ?」

キョトンとした文官が三人の走り去る姿を見送った。

もう一つ門を潜ると見覚えのある小階段を上がり、何度も回廊を曲がって先程まで居た部屋の前に来た。

冷静であれば、よくも迷わずに戻って来られたものだ、と思っただろう。 それとも一種の火事場の馬鹿力だろうか。 杠に会いたいが為に帰巣本能といっていいだろうか、そんな野生の勘が働いたのだろうか。

襖戸は閉められている。
顔を下げ瞼を閉じる。
一つ二つ三つ四つ五つ・・・。
大きく深呼吸を一つ。

手を伸ばし襖戸を開ける。
そこに杠が居るのだろうか。 もう誰も居ないのだろうか。

「紫揺?」

杠の声が聞こえた。 ゆっくりと顔を上げる。

「どうした?」

杠がこちらを向いて立っている。

「杠・・・」

「何かあったか?」

「杠・・・」

「どうした?」

「杠!」

走り出した紫揺。
ドン! と杠にしがみ付く。

「どうした?」

杠の手が紫揺の体を覆う。

「・・・」

「そうか、何も言わなくてもいい」

“最高か” が、ひぃーひぃー言いながら戻って来てその場に倒れ込むように座り込んだ。

「ど、どうしたの!?」

「紫さまが・・・紫さまについて行くのが・・・」

息を切れ切れにしながら言う。
“庭の世話か” がピンときた。
紫揺がちょこまかと走ったのだろう。 裾を持つ身としては、ついて行くのに必死だ。

「ご苦労様。 それより紫さまはどうされたの?」

肩で息をしながら、え? とした顔を上げ “庭の世話か” を見ると、眉を寄せている。 その視線を紫揺に移すと紫揺が杠の腕の中にいるではないか。

“最高か” が互いに目を合わせるが心当たりはない。 二人が首を振る。

やっと息を整え座り直した “最高か” が、外であったことを説明するが、その中には紫揺が杠の胸に飛び込まなければならないことはどこにも見当たらない。

「いつも通りね」

「ええ」

最初は襖内で横に並んで座っていたが、声を押し殺して話すが故、いつの間にか車座になってしまっていた。

「引っかかるとすれば、馬車に向かってマツリ様が歩き出された時くらいかしら」

「何かあったの?」

「チラリとしか見えなかったけど、紫さまがお寂しいお顔をなさったの」

「紫さまが?」

「・・・そういうこと。 よく分かりましたわ」

え? 顔を上げるとそこにシキがしゃがんでいた。

「シ、シキ様!」

「シキ様、このような所にお座り下さいませんよう」

思わず言った昌耶だったが、その昌耶も四人の話に耳を傾けていて全く気がつかなかった。

昌耶に言われようがシキが考えに耽(ふけ)る。
四方の言葉を思い出す。 杠は口にしなければならないことも心得ていると言っていた。 紫の衣装を褒めていたと。
マツリの言葉が足りないのは知っている。 紫揺もそれは分かっているだろう。 だが杠と出会って言葉に安らぎを覚えたのかもしれない。

杠はそれこそ目の中に入れても痛くないほど紫揺を妹として迎えている。 あの二人の雰囲気を思い出すとそれは間違いない。
それは想いもあるだろうが、想いだけでは足りないものがある。

―――言葉

シキが立ち上がり杠と紫揺の元による。
いいかしら? と杠に目で問うと杠が頷く。

「紫?」

「紫揺、シキ様がご心配をされている」

杠にしがみ付いたまま顔を横に向ける。 そこにシキの姿が目に入った。

「どうしたの?」

紫揺が首を振る。

「何も無いわけじゃないでしょう? こうして杠の内にいるのだから」

そうだった。 もう東に帰るんだ。 もう杠と会えないんだ。 甘えた事なんて考えてられないんだ。
それに東には頼れるお付きたちがいる。 あれやこれやと面倒を見てくれている。

「ごめん・・・」

そう言うと杠の体から離れた。

「紫?」

「ご心配かけてすみません。 何でもないです。 急に・・・その、急に杠に逢いたくなって」

杠が紫揺の頭を撫でながら「お会いできたか?」と問う。 きっとシキもそれを問いたかっただろう、紫揺が心を寄せている事なのだから。 だが今の紫揺を見て問うて良いのかどうかを迷っているようだった。

「うん。 傷は増えてなかったと思う」

「そうか。 良かった。 すぐに尾能殿にも報せがいくだろう」

杠が応えるのを聞いて、きっとマツリなら “そうか” で終わるだろうとシキが思う。 紫揺を安心させるよう、尾能に知らせがいくとまでは言わないだろう。

こんな時なのに、ふと波葉ならどう言うだろうかと考えてしまった。 振り返ると波葉が椅子に座って様子を見ている。 波葉は今の話を聞いていたはず。
波葉の隣に立つと問いをかけた。

「え? 私ですか?」

「ええ、波葉様なら何と仰いますか?」

今の杠を己に置き換え、紫をシキに置き換えた図を頭に浮かべる。

『尾能の母上のお傷は増えておりませんでした』

『それはよう御座いました。 尾能殿も心配しておられましょう。 すぐに私がお報せに・・・』

いや、せっかくのシキとの時を失いたくない。 そうとなると・・・

『それはよう御座いました。 紫さまからのご報告で尾能殿も心配しておられましょう。 四方様がすぐに報せを走らせられることで御座いましょう。 ご安心ください』

うん、コレしかない。 と、そのままを言う。

波葉から聞くと本当にそうだろうかと、波葉の言葉をシキが疑う。 先に杠が言っていたのを聞いたからではないだろうか。 などと。
だがそんなことを考えても詮無いこと。 どうして訊いてしまったのだろうか。

・・・え? と気付くことがあった。
杠の言葉は人の心に・・・心の底に知らず入ってくるのだろうか。

マツリの言葉の少なさはマツリ自身が思考し完結させている。 それを聞いた側はマツリの言葉に補足を入れ考えなければいけない。
つくづく杠が恋敵でなかったことに感謝しなければいけない。

「紫揺? 紫揺は俺に逢いたくなったのではないな。 それはきっと寂しかったんだ」

杠の声が聞こえた。
顔を向けると紫揺と杠が向かい合っている。 紫揺の肩には杠の手が乗っている。 腰を曲げ僅かに傾けた杠の顔。

(寂しかった?)

「戻ってきた武官殿の喧騒も耳に入っただろう。 不安にもなる」

尾能の母親が気になると言って出て行ったが、今聞いた紫揺の説明でまさか武官の中に入って行ったとは思いもしなかった。
地下でのことを考えると十分にあり得るが、宮での紫揺を見ていたらそこまで想像が膨らまなかった。

「違う。 地下の人の中にいても全然不安もなかったし、寂しくもなかった」

「あの時は気が張っていただろう。 でも今はそうじゃない。 戻って来た武官殿を見てはマツリ様に頼りたくもなるだろう。 何でもいいから一言いって欲しいと思うのは当たり前だ。 だけどマツリ様にはお立場がある。 分かってるだろう?」

きっとマツリが紫揺の不安を払拭させるようなことを何も言わなかったのだろう。 簡単に想像できる。

「でも・・・」

「赤子の様だぞ」

でも、と言いながら下げた顔を再び上げる。
優しい顔が目が、紫揺の目を捕らえている。
地下からの帰り、ずっとこうして話してきた。 一つを訊けば二つも三つも答えてくれる。 紫揺を否定しない言い方をして分からせてくれる。
心が詰まる。
心許なく杠の名を一度呼ぶと、またしがみ付いた。

「・・・紫揺」

紫揺が何を言いたいか、いや、言いたいではない、思っているかは分かっている。 そっと手をまわし、諭すように言う。

「紫揺、紫揺の心の奥底で何を、誰を一番―――」

「マツリ様・・・」

その声に杠が顔を上げると襖戸口にマツリが立っていた。

同時にシキと波葉も振り返っている。 マズい所を見られた、二人がそんな目をしている。 二人だけではない、紫揺と杠を除くここに居る誰もが同じことを考えている。

「行かれますか?」

焦る様子も見せず杠がマツリに問う。
マツリが頷く。

「紫揺、また逢える。 きっと」

紫揺にだけ聞こえるように言った。
紫揺が顔を上げる。

「マツリ様が来られた。 気を付けて帰れよ」

杠から離れて後ろを振り向くとそこにマツリが居た。

“最高か” と “庭の世話か” がススッと紫揺の前に来て「お召し替えを」と言い、四人が付くと紫揺が部屋を出て行った。
部屋を出た所まで杠がついて行き、紫揺を見送ると未だに立ったままのマツリの背中に言う。

「兄と妹の今生の別れです」

紫揺にはまた逢えると言ったのに、マツリには今生の別れと言う。
マツリが顔を下げる。

「仲のいい兄妹だな」

「シキ様とマツリ様ほどでは御座いません」

マツリが振り返り何かを言うより先に杠が口を開く。

「地下に戻ります」

先程まで紫揺に向けていた顔付きとは一転している。

「地下はいい」

「え?」

「杠は共時に顔を見られておる」

・・・迂闊だった。 言われるまで気がつかなかった。 己が宮にいるなど有り得ないのだから。

「地下には再度新しい百足を入れると父上が仰っておられた。 今回の大掃除でそちらからの情報で間に合うだろう」

「迂闊で御座いました。 申し訳御座いません。 それではどちらに」

「父上からの褒美を受けんか?」

どうしてここで褒美の話になるのか?

「それは・・・」

「宮仕えだ」

シキと波葉が目を合わす。 いったいどういうことだろう、という目をしている。

「何を仰るかと思えば・・・。 己は料理など出来ませんし厨に入ることも出来ません。 下足番か掃除番でしょう。 ですがそれではマツリ様にお仕えすることにはなりません。 己はマツリ様にお仕えしたく、手足となりたいので御座います」

下足番か掃除番。 これが杠でなければ紫揺のことで腹を立て貶めたいのかと思うかもしれないが、杠はそんな風には考えない。 マツリがそんな人間ではないということを知っている。

「いやそうではない。 官吏としてだ」

「ご冗談を。 己は学も無ければ何の資格も持って御座いません」

「その資格が褒美だ。 父上は是非にと仰っておられるが?」

紫揺が走り去った後、武官たちから報告を聞き、状況を見ていた四方に付くとその時、四方に言われた。 マツリに異論はない。

「マツリ様・・・己は次に何処へ行けば宜しいでしょう」

「褒美を受けぬということか?」

「己はマツリ様の手足となることを望んでおります」

「では、父上の褒美を受けるということだな」

杠が僅かに首を傾げる。

「宮仕えにも色々ある。 父上が仰っておられるのは官吏となり俺の片腕にということだ。 俺もそれを望んでいる」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第59回

2022年05月02日 21時52分24秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第50回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第59回



襖戸に耳をくっ付けていた丹和歌。

「静かになったようですわね」

その下で同じような格好をしている昌耶。

「ええ。 でもまだヒソヒソとお話になられておられるようですわね」

「何をしておられます?」

上から声が降ってきた。
ビックリして襖戸から飛びのくと、そこに波葉が立っていた。

「な、波葉様」

「こちらにシキ様とマツリ様がいらっしゃるとお聞きしましたが・・・」

「あ! はい。 こちらに居られます」

まるで何もなかったかのように昌耶と丹和歌が左右から襖戸を開ける。

と、目に飛び込んできたのはシキがこちらに背を見せ、右に座る者の顔を見ているようだ。 いや、見ているだけではない。 右に身体が傾いている。 まるで寄り添っているように。
シキの右に座る者がシキの顔を見て何かを話している。 若い。 優しい面立ち。 その顔が少し傾くと間をおいて笑顔になる。
その二人の正面にはマツリが座っている。 会話には入っていないようだが、どうして姉弟で隣り合って座らないのか。 それにどうしてシキが末席に座っているのか。

「波葉様?」

襖戸を開けているのにもかかわらず波葉が入ろうとしない。

「如何されました?」

その声に押されるように波葉が部屋の中に入った。 そして杠を睨みながらゆっくりと三人の座る所に歩いて行く。

一番に気付いたのは杠であるが、その杠は波葉のことを知らない。 だが官吏の服を着ているのは分かる。 帯門標に目を移そうとした時、シキが振り向いた。

「あら、波葉様」

シキの声に波葉がシキに目を移す。

シキが “様” を付ける相手? 杠が首を捻る。

シキの声にマツリが一人耽(ふけ)っていた沈思から浮き上がるように波葉を見た。

「何をしておいででしょうか」

シキの座るところまで来た波葉の声がいつもより硬い。 いつもにこやかな表情も硬い。

部屋に入らないまま襖戸をそっと閉めた丹和歌と昌耶だが隙間は空いている。 そこから二人分の目、四つの瞳が覗いている。

「どうかなさいました?」

「今、何をしておいででしたでしょうか」

同じことを繰り返して言うと視線を移し杠を睨む。

「義兄上? どうかなさいましたか?」

単なる官吏と思っていたがマツリの言葉でシキの伴侶と分かった。 礼を欠いてしまった。
立ち上がり深く礼をする。

「失礼をいたしました」

「あ、ああ。 義兄上、この者は杠と申しまして我の友で御座います」

“友” という言葉に驚いた杠が腰を折ったまま目を大きく開けた。
己のことをそんな風に思ってくれているのか。 いや、心底思っていようがいまいがそんな風に紹介をしてくれるのか。 それだけでも勿体なく涙の出る思いである。

「マツリ様の友であられるのなら、何故シキ様の隣に座っているのでしょうか」

「波葉様、そんなことより杠の頭を上げさせて下さいな」

「そんなこととは、どういうことで御座いましょう」

「波葉様? 如何なさいました?」

「お聞きしていますのは私の方です」

「義兄上?」

「シキ様には末席にお座りいただき申し訳ございません。 シキ様がお席を一つ空けて下さっておられます、決してシキ様の隣には座して御座いません」

頭を下げたままの杠が言う。

そう言われてよくよく見てみればシキと杠の間には椅子が一つある。 その椅子にシキが手をついて杠の方に傾いていたのか、それが寄り添っているように見えたのか。
だからと言ってどうなのだ。

「杠と申したか。 頭を上げよ」

杠がゆっくりと腰を伸ばした。

「シキ様、ご夫君様はマツリ様のことをご存知で御座いますか?」

「え? ええ」

マツリの事、それは今が今だ。 マツリが紫揺を想っていることを問うてきているのは分かる。 だが今は波葉が話しているというのにシキに問いかけるなどと、礼を欠く杠ではないはずなのに。

「シキ様と何の話をしておった」

礼を欠いた杠に、ひときわ波葉の声が大きくなった。

「マツリ様のお話しで御座います」

波葉に睨まれているというのに清々しささえ感じるように答える。

「目の前にマツリ様が居られる。 そのマツリ様が話に入らず、シキ様と二人で話していたということか」

「波葉様、どうなさいました」

「義兄上、とにかくお座りになられれば」

シキとマツリが波葉に言うが当の波葉は杠を睨み据えているだけである。 その杠が波葉に応える。

「左様で御座います」

「いったいどんな話があると言うかっ」

いつも穏やかな波葉だが、珍しく言葉尻に力が入った。

「マツリ様と紫さまのお話で御座います」

杠の返事に、そういうことか、とシキが得心する。
波葉がマツリと紫揺のことを知っていたのならば、その一言でまとめられ説明など要らない。
それに知らなければシキが波葉に言わなかったということになる。 そうなれば今の状況に沿う他の何らかの説明が必要であっただろう。 マツリのことを内密にしていたシキと、伴侶に何も話してもらえていない波葉の立場を悪くさせない何かの説明を。
それを確認するために礼を欠くと分かっていても訊いてきたのか。

「その事、シキ様がお気にされていることは知っておる。 だが、其方は関係が無かろう!」

声を荒げる波葉に襖戸の隙間から見ていた十二の瞳が驚いて見開く。

「マツリ様、シキ様のご夫君様は己がシキ様とお話していたのがお気に障られたようです。 いかが致しましょう?」

余裕の笑みさえ見せて波葉から目を離さずマツリに問う。

マツリが、え? とした目を杠に送る。

「己のことは己で語らんか!」

「まあ、そうでしたの? 波葉様、もしや妬いておられるのですか?」

「や、や、妬いてなど! ・・・決してそのようなことは!」

睨み据えていた杠から目を外し、慌ててシキを見る。

「ええ、そうですわね。 たしか・・・心が淋しくなったり痛くなると仰っておられましたものね。 妬いて怒るのはマツリだって」

「あ・・・」

「え?」

「シキ様、それ以上は」

スッと会話に入ってきた杠。 これは願いごとである、シキの目を見ることなく顔を俯けて言った。

「あら、だって勝手に妬いておいて長い時を杠に頭を下げさせるなんて」

そう言った時にふと気づいた。

さっき杠が言った 『シキ様とお話していたのがお気に障られたようです』 あの言葉、波葉を見てはいたがマツリに問うていた言葉だった。 そしてその言葉に反応したのはシキ自身だった。
もしかしてあれは、波葉が妬心しているのをシキに分からせるつもりだったのだろうか。 そしてその事をシキの口から言わせるように持っていったのだろうか。
そうだとすれば、人の口を使わせるのが上手いのかもしれない。 だがそれは先程の失礼を欠くと分かっていても問うてきた、相手の立場を考えるという心ある考え方とは真反対になる。

いや、そうではないか。 あの場合、シキが気付いて何かを言うのが一番場が収まったに違いない。 それに妬心していることを第三者が言ってしまっては波葉の矜持が傷つくか、怒りを持たせるだけ。 波葉に気付かせるにはシキが言うのが一番心の琴線に触れない。
杠はそこまで考えていたのだろうか。 そうであるならば人の機微にかなり敏感・・・いや、心があるのだろう。 そして頭も切れるということ。

「シキ様、お願いで御座います。 これはご夫君様だけでなく、男の矜持に関わりますのでどうかお許し下さい」

俯き加減だった頭を下げる。

「そうね、分りました」

もしかして四方は杠のそういうところも気付いていたのかもしれない。

「頭を上げてちょうだいな」

襖戸の間に見えている十の目がパチクリしている。 残りの二つの瞳についている口が嬉しそうに口角を上げる。

「杠殿って・・・」

「ええ、腹も据わっておいでだけど」

「他人の代わりに頭も下げられるのね」

「見目だけではなく素晴らしいお方ですわね」

「ほんに。 あのような者が独りでいるなど、なんともったいない」

八つの目が下を見る。
その下、最下段では、紫揺が杠を褒められて嬉しそうに笑っている。

「あ、その、杠と言ったか。 思い込みとはいえ。 すまなかった」

シキに言われ、頭に上っていた血が一気に下がった。 完全に独善していたようだ。

「とんでも御座いません。 己のような者がシキ様のお近くに居りましたのがそもそものご無礼で御座います。 申し訳御座いません」

上げた頭をもう一度下げる。

「あら、身を寄せていたのはわたくしよ。 マツリに聞こえないように杠にマツリのことを言っていたのだから」

「我に聞こえないようにとは?」

杠が襖戸を見た。 十二の目がぎょっとしたように見開いてそのまま襖戸がゆっくりと閉まっていく。

「紫揺を想っておられることをお認め下さい。 お認めになることなく妬いてばかりおられましたら紫揺は遠ざかっていくばかりで御座います。 宜しいのですか? 紫揺がマツリ様のお知りにならない者の奥になっても。 その者に抱かれても」

襖戸が閉められたとはいえ、最後は声を静めて言う。

「な! なにをっ!」

「夜な夜な」

この顔のどの口からそんな言葉が出てくるのか。
完全に嗾(けしか)けている。
マツリはぐうの音も出ない様子だ。

シキがまたもや頬を赤くする。 シキだけではない、たとえ声を沈めて言っていても聞こえていた波葉もだ。

「よくお考え下さい。 声を荒立てず、紫揺の目を見てお話しください」

すると襖戸の方を見て声を掛ける。

「紫揺、入っておいで」

両方からすっと襖戸が開いて紫揺が入ってくる。
その後に五人が続いて入ってきて襖内に座る。 今度は堂々と見ていられる、聞いていられる。 あの腰が攣(つ)りそうな格好をしなくてもいい。

「なに?」

「シキ様、ご夫君様はお座りになられませんか?」

そうだった。 波葉が座らない限り杠が座れないのだった。 杠に促さるまま波葉に座るように言う。 これで最末席は波葉となった。
波葉が座るのを見て紫揺を座らせ杠も座る。

「マツリ様と何か話は無いか?」

「別に?」

「マツリ様は?」

「・・・無い」

「そうで御座いますか、分かりました。 己の勘違いのようで御座いましたか」

マツリに向けていた顔を紫揺に戻す。

「紫揺は今日、東に戻るんだな」

紫揺好みの優しい顔で訊いてくる。

「うん」

「もう会えないがいつも紫揺のことを想っている。 この地から紫揺を見守っている。 シキ様に教えて頂いたことをよくよく考え良い男を見つけろよ。 俺をがっかりさせる男は許さないからな」

先ほどの賑やかしい話の中に、シキから伴侶を迎えるようにと言われているという話を紫揺がしていた。 そして跡取りをもうけることを。 そんな話の中から、紫揺が男女間のことを何も知らないのだと、杠と “最高か” と “庭の世話か” が知ったのであった。

マツリが眉根を寄せる。
マツリだけではない。 話の筋が見えない。 どういうことだ。 誰しもがそう思っている。

何も知らない波葉にしてみれば杠が紫揺のことを想っているようにしか聞こえない。 だが東と本領の人間。 結ばれることは出来ない。 諦める代わりに杠が認める男を探せと言っている。 そうとしか聞こえない。
それをどうしてマツリの目の前で言うのか。 マツリはこの杠のことを友と言っていたというのに。 それに先程、何やらマツリに言っていたようだが。
そういえば頭に血が上ってしまっていて杠の衣装にまで気がいっていなかった。 帯門標を見ようとするが位置的に見えない。 着ている衣裳からすれば四方の従者のようだが、顔に見覚えがない。 いったいどこの者なのだろうか。

「うん。 今まではそんな目でみんなを見ていなかったから気がつかなかったけど、これからはそんな目で見る」

早い話、男漁りをすると言っている。

「紫、それはもしかして・・・」

眉尻を下げてシキが訊ねる。

「はい。 紫の力を残すということです。 シキ様に言っていただくまで考えもしませんでしたけど、杠と話して相手を選ぶのも大切なことって分かりました。 本腰入れて探します」

―――本腰入れて男漁りします。

「そんなお話を杠としたの?」

「シキ様が紫揺に仰られたことは肝要なことで御座います。 紫揺はよくよく理解致しました」

「我は聞いておらん」

マツリが紫揺を睨み据えるように言う。

「シキ様とのお話をどうしてマツリに言わなくちゃいけないのよ」

「杠に言ったではないか」

「杠には言うわよ」

「マツリ様、そのように紫揺をお睨みにならないで下さい。 紫揺は己を兄と慕って相談をしてきただけで御座います」

「うん。 男選びのコツ」

「バッ! 女人が口にすることでは無かろう!」

シキがほんのり頬を染めている。 先ほど杠が言った、よくよく理解したというのはそういう意味なのか。

襖内に座る昌耶を除く四人が思い出したのか、くすくすと笑っている。 その時の話しを一緒に聞いていたのだから。

「ですが紫揺は子を残さなくてはなりません。 五色様の血を引いた子を。 何としてでも子をっ、残さなくてはなりません。 お相手には紫揺にふさわしい方を紫揺の目で見つけてもらわなければなりません。 お相手をっ」

不自然な話し方だと充分に分かっている。 だがマツリにはここまで言わなくてはならないだろう。

「東に戻って伴侶を探すというのか」

杠から目を転じて紫揺をジロリと見る。

「うん。 だってそうしないと東の紫が今度こそ途切れてしまうもん」

「・・・」

紫揺から目を外すと斜め下を向いた。

あと一押し、と杠が思った時、遠くに喧騒が聞こえた。

「・・・武官が戻ってきたようだな」

立ち上がりマツリが部屋を出て行ってしまった。 皆が無言でもう見えなくなったその背中を見送る中、紫揺の声が響いた。

「尾能さんの母上が気になるから見てくる」

杠に言うと紫揺がマツリの後を追った。 その後を “最高か” が追う。 “庭の世話か” はこの後を聞くために、見るために残っている。 その辺りは暗黙の了解で四人とも今の杠には興味津々である。

「あ・・・」

波葉がシマッタという顔をしている。 己はマツリの食事が整ったと言いに来たのだった。 すっかり忘れてしまっていた。

「シキ様、下世話なお話をお聞かせしてしまいお耳を汚してしまいました。 申し訳御座いませんでした」

立ち上がり杠が頭を下げる。

「あ・・・。 いいえ、気にしないで。 頭など下げないで座ってちょうだい」

お許し願え有難うございます、と言い椅子に座った。

「マツリ様には正攻法ではお考えいただけないと思いまして」

「正攻法?」

「はい。 一つ一つマツリ様がお考えになったことや、お感じになられたことに注釈をつけたとて、言葉の意味は分かられても心の底まではご納得いかれないでしょう」

シキと波葉が目を合わせた。
全く以ってそうである。

「見事に私はそれをしました。 結局マツリ様には分かって頂けなかった様です。 杠殿はマツリ様のことをよく分かっているようですが、何処に所属を?」

杠が立った時に帯門標を見ようとしたがすぐに杠が頭を下げたので見えなかった。
だがどう見ても己より年下。 年齢だけで括れるわけではないが、己より高い位置ではない筈。

「いいえ、己は仮初にこのような衣装を着させて頂いておりますが、その様な地位は御座いません」

地下から這い出てきました、とは言えない。

「と言うと?」

「波葉様、宜しいでは御座いませんか。 杠はマツリの友、それだけのことで御座いますわ」

杠がゆっくりとシキに頭を下げる。

「ね、杠。 これからどう致しましょう」

杠が下げた頭を上げると波葉を見た。

「要らぬことを申し上げました。 申し分け御座いません」

先ほど杠が言った注釈をつけて、という話のことである。

「あ、その様なことは・・・」

波葉に頭を下げると真っ直ぐに前を見た。 まるでそこにマツリが座っているかのように。

「きっとマツリ様は武官の報告のあらかたを聞かれて紫揺を東に送られると思います」

襖内で座っている “庭の世話か” と、何故か昌耶もコクコクと首を縦に振っている。

杠がシキを見る。

「その時が最後の時になるかと思います」

「最後の時? それはどういうことかしら?」

「紫揺は東に帰ります。 マツリ様は時折東にいかれるでしょうが、当分は本領のことでお忙しくされます。 普通で考えますに想いは募られるでしょうが、マツリ様はそれを撥ね退けるお心をお持ちです。 その時には己の言ったことがマツリ様のご記憶から外れるかもしれません」

己の言ったこと、それは下世話なこと。 マツリにそんな話を出来る者はこの宮にはいない。

シキが溜息を吐きながら肘から上を上げると、その掌の中に美しい額を置いた。
波葉がシキの背をゆっくりとさする。

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