『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第67回
紫揺の両手で耶緒の手を包み込む。
「辺境からお出になってこちらに来ることになり、戸惑われるところも多々あったと思います。 生活環境も違えば何もかも違ったことでしょう。 私も何度か辺境に行きましたが、ありとあらゆることが違いました。 食べ物の食材一つにしてもです。 こちらに来て耶緒さんが初めて見る食材が沢山あったと思います。 料理の仕方を教わり、生活の流れ方を教わり、大変でしたでしょう」
ゆっくりと紫揺が話しているのを聞いているのだろう。 閉じられた耶緒の目から涙が落ちた。 耶緒の手を離すとポケットから出した手巾で拭いてやり、また耶緒の手を取る。
その様子を見ていた秋我が傍らに置いてあった手拭いを手に取ると、反対側の耶緒の枕元に座りまだ出てくる涙を拭いてやる。
「まだまだ慣れない大変な時にお腹に赤ちゃ・・・赤子が宿ってお腹を気にする間もないくらいだったと思います。 普通の生活をしている民ではないのですものね。 秋我さんは領主さんのあとを継ぐ方。 覚えなければならないことも沢山あったと思います」
紫揺の話はずっと続いた。
耶緒だけではなく秋我も紫揺の話に耳を傾けている。 それほどに大変だったのか、己は分かってやれていなかったと、こちらも目を赤くしている。
最初は止まらぬ涙を流していた耶緒だったが、その内に軽い寝息が聞こえてきた。 紫揺がそっと手を離すと何でもないように耶緒の布団を軽くめくった。
胸元辺りは何ともないように視える。 何も無いということは視えていないのだろうか。 まだそこのところに自信が無い。 そのままめくっていくと胃のあたりで灰色に茶色を混ぜたような塊があるのが視えた。
(なんだこれ・・・)
更にめくっていくと、嬉しくも下腹辺りに光り輝くものが視える。 視えているようだ。
「良かった。 赤ちゃ・・・赤子は元気なようです」
「え?」
急に耶緒の布団をめくり始めた紫揺に何をしているのかと問うことすら出来なかったが、五色の力で赤子を見てくれているのだと分かった。 五色にそんな力もあったのか、と初めて知った。
俯いたままの紫揺から目を離すと、秋我が先程まで布団の下に隠れていた耶緒の手を取ってやる。
冷たい。
その冷たい耶緒の手を自分の頬に付ける。
下腹から太腿と視、布団をかけ直すと今度は足元から布団をめくっていき、太腿の下からを視る。
特に何も不審なものは視えなかった。 布団を直すともう一度胃のあたりまで布団を下げる。
やはり胃の辺りに、灰色に茶色を混ぜたような塊が視える。
「耶緒さんの具合が悪くなる前に何を食べられたか覚えていらっしゃいますか?」
秋我が首を捻って考えているようだが、この様子では記憶にないようだ。
「すみません、ちょっと思い出せません」
紫揺が耶緒に視える塊の上に手をかざす。 何か歪んだ嫌なモノを感じる。
「普段食べないものとかってありませんでしたか?」
掌がピリピリしてきた。 北の影の時にもリツソの時にもこんな感触はなかった。
(いったいなんなんだろ・・・)
「すみません、よく覚えていません」
「そうですか。 分かりました」
手を引くと耶緒に布団をかけ直し考える。
北の影の時にはモヤモヤしたものを足の裏から出した。 リツソの時は頭頂部分から出した。
北の影の時にはモヤモヤしたものが足の裏から出ていたから、それに倣って出し、リツソの時には頭頂部に出口を見つけたからだった。
だが二人とも煙のようなものだったから何とかなったものの、耶緒の場合は完全に塊だ。 質量を感じさせる。 その塊を胃から出すにはどこをどう伝って出していいのか分からないし、質量のある塊を出すことなど考えもつかない。
どうしたものかとしばし考えるがやはり見当がつかない。
「悪阻はあるかもしれません」
急に口を開いた紫揺に目を向ける秋我。
「ですが悪阻のせいだけではないようです」
「え?」
「この辺りに良くないものが視えます」
そう言って自分の鳩尾辺りに掌をあてる。
「食べた物の影響かもしれません。 それだけじゃないかもしれませんが、少なくとも食べた物が分かれば薬草師に何か調合してもらえるんでしょうが・・・。
いま耶緒さんは身重なのでちょっとした食べ物にも反応してしまうんでしょうが、秋我さんはどうです? 何かを食べてなにか詰まった感じとか、一瞬でも吐きそうになったりとか、いつもと違うことがありませんでしたか?」
「・・・いいえ、全く」
領主と似たがっしりとした体格。 ちょっとやそっとでは何ともないのかもしれない。
「そうですか」
耶緒の顔を見る。 このままにしておいていいはずはない。 どうすればいいのだろうか。
「水分はどれくらい摂ってますか?」
「この数日、日に白湯を湯呑一杯くらいでしょうか」
全く足らないではないか。
日本では随分と前から水分のことが見直されている。 一日二リットルとかそんな話を聞いたことがある。 それに顧問からも練習前後は充分に水分をとるようにと言われていた。
だが飲むと吐いてしまうのだろう。 どうしたものか。
血の巡りをよくしたらあの塊は取れるだろうか。
血の巡りが悪ければ内臓が冷える。 内臓が冷えると身体も冷える。 あの耶緒の手の冷たさは普通ではない。
紫揺が耶緒に掛かっていた掛布団を再度下腹まで下げる。
「失敗に終わるかもしれませんがやるだけやってみます。 もう一枚お布団を出してもらえますか。 肩が冷えるので」
紫揺の言いたいことが分かった。 すぐに秋我が掛布団を持ってきて耶緒にかけた。 すでに下ろしていた掛布団の上までかけてやる。 温暖な東の領土である。 布団と言っても薄いものだ。
「ここに居て下さっても全然かまいませんが、気にしないで用事があれば何でもしていて下さい」
秋我が頷き「手を取っていてもいいですか?」と尋ねた。
悪阻だけでは無いと聞き、より一層、耶緒のことが心配になったのだろう。
「はい、かまいません」
耶緒の腹に手をかざす。
さっき紫揺は鳩尾の辺りを秋我に示した。 なのに腹に手をかざしている。 秋我にはその意味が分からない。 ただ耶緒の手を握ってやることしか出来なかった。
紫揺はまず腸から温めようとした。 そこから血の循環が良くなればと思って。
「それで強面の武官を呼べと言ったのか?」
四方の従者からマツリが敢えて “強面の武官” と言ったと聞いていた。
「乃之螺のような者にはそれが一番かと」
マツリに対して足を蹴ろうとしてきていたのだ。 乃之螺はマツリを恐れていないということ。
「父上のようなお身体があれば、あの様なことはしなかったのでしょうが」
他出着のままの己の身体を見る。 身体にフィットしているが為、身体の線がよく分かる。 どう見ても華奢・・・とまで言うつもりはないが、決して筋骨隆々とは言えない。 それに顔もただ美しいだけでその中に冷徹さが入っているとはいえ、四方のように威厳のある顔ではないし、声も四方ほどに深く響く声ではない。
実際マツリの言ったことを証明するかのように強面の武官が来た途端、乃之螺が身を縮めた。
乃之螺はマツリの言うようにマツリのことを脅威とも思っていなかったようだが、マツリに対してのほどではないが四方に対しても口が過ぎていた。
威厳を持ち余しているほどの四方であるが、今は二つ名を閉じている。
“四方” であり “死法”。 二つ名の片方である “死法” を閉じているということであれば簡単に潜り抜けられると思ったのだろう。
四方が何かを質問すると的を射ない答えを返す。 すると強面の武官に背中を突かれる。 強面に睨まれ、しぶしぶ答える乃之螺だったがそれの繰り返しだった。
ハッキリ言って単なるビビリンチョである。 強面の武官に睨まれただけで答えるのだから。 ビビリンチョなのに地下と繋がり金を手にしようとしていた。
妹の稀蘭蘭のことは四方から問わずとも乃之螺が喋った。
『せっかく辺境から呼んでやったのにっ! アイツがオレのことを喋ったのか!』
四方に対して口の利き方がなっていない。 武官が押さえこもうとしたのを四方が止めた。
『どういうことだ』
乃之螺によると以前から稀蘭蘭は辺境から出たいと言っていたと言う。 だから官吏となった乃之螺がやっと落ち着き稀蘭蘭を辺境から呼んだという。
最初は良かった。 まだ下級官吏であるからそれほど給金はなかったが、稀蘭蘭も働いて二人で過ごすには何の不自由もなかった。
四方の従者の調べでは乃之螺が両親に金を送っていたとのことだったが、実際には稀蘭蘭が自分で働いた金の一部を乃之螺の名で両親に送っていたのだった。
だが乃之螺が地下の存在を知った。 もっといい生活をしたい。 下級官吏で終りたくない。 乃之螺から地下の者に近づいた。 運良くなのか悪くなのか、それが城家主の手下だった。
宮の情報が欲しければやるが? と。 最初は商人の行程情報を流した。 だがそれも段々と流せなくなってきて、小さな宮の情報を提供するたびに、城家主の手下から金を受け取った。
それを城家主がやっていられなくなったのだろう。 そこから地下の者が官吏たちの親族を誘拐し始めた。
それに焦った乃之螺。
地下の者・・・いや、城家主はマツリの動向を気にしていることを知った。
そこで稀蘭蘭に見張番に近づくように言った。
『どうして?』
『いいから、見張番の誰でもいい。 お前は器量がある。 誰でもいいから見張番に近づけ』
『兄さん・・・ここのところおかしい』
『うるさい! 誰がお前を辺境から呼んでやったと思ってるんだ。 オレの言うようにしろ!』
『どうして』
『見張番の誰でもいい! 誰でもいいから見張り番に近づけって言ってんだ!』
『兄さん・・・どうしたの?』
『うるさい! オレの言うようにしろ!』
乃之螺に言われ稀蘭蘭が百藻に近づいたが百藻の心に稀蘭蘭が惚れてしまった。 乃之螺にしてみれば大誤算だった。
『あの馬鹿がっ! なんの役にも立たない! 誰が辺境から呼んでやったんだと思ってるんだ!』
四方が顔を投げた。
稀蘭蘭も百藻も巻き込まれていなかったのには安堵するところだが、切っ掛けがこれなのかと思うと心穏やかにはいられない。
乃之螺のことは武官に任せた。 椅子に座っていたマツリも四方と同じであった。
乃之螺が仕事を中座してでも地下の者に情報を提供したのは些細なことだった。 宮の行事を大雑把に言っただけだったと言う。
乃之螺を切っ掛けに、官吏たちの親族を誘拐し始めた城家主の手下達に振り向かれなくなったから焦ったということであった。 その時に物珍しかったのだろう、帯門標を手下に取り上げられたという。
そしてまた妹である稀蘭蘭を悪しざまに言い始めた乃之螺のいい草に四方が声を上げた。
『たわけ!』
従者が亀のように首を引っ込めるほどであった。
『いい加減にせよ! お前は己が妹を何と考えておる!』
腰を抜かしたのか、乃之螺が後ろに尻をつき目を大きく開けると四方を見た。
四方とマツリが西の門をくぐる。
「百藻にどう伝えましょう」
何も知らなかった稀蘭蘭であるが稀蘭蘭の兄が捕らえられたのだ。 ましてや稀蘭蘭が百藻に近づいたのが乃之螺に言われてのことだ。
「あるがままだ」
「・・・」
マツリが顔を下げる。
「問われれば、あるがままを百藻に言う。 百藻はそれを分かるだろう」
違うか? という目を送ってくる。
「はい。 そう思います・・・」
百藻はそういう男だ。 だがあの百藻の顔を思い出すと百藻にとって厳しい話となるだろう。
「まあ、こちらが言うより先に稀蘭蘭が百藻に言うのが一番だがな」
尤もである。 己が何を懸念しても始まらぬこと。 頷くことしか出来ない。
「あの者たちのことはもう刑部に渡した。 あとは帯門標の再発行をした者に咎を言い渡さねばならんか」
刑部に渡すほどの話ではないということだろう。 内々に終わらすということ。
「それで? 杠に話したのか?」
片腕になると言う話を。
「はい。 考えさせてほしいということでした」
「ふむ。 何を戸惑っておるのか」
「官吏に就くには簡単なことではありません。 それだけが理由ではないのでしょうが杠もそれを分かっているのでしょう」
「ふむ。 他の者の目もあるか。 では形式だけの試験でもするとしようか・・・」
それでも時季外れではあるが。
「紫を送る前に話しましたから今頃は考えがまとまっているかもしれません」
もう夕餉の刻は充分に終わっている。
紫揺はどうしているだろうか。 泣いていた顔を思い出す。
―――泣かせてしまった。
四方とマツリ二人で遅い夕飯を口にしようとしていたのに、何故かもう既に食べ終わったシキが茶を前に置き同席している。 それどころか紫揺が帰ったというのにどうしてまだ宮に残っているのか。
「え? そんな理由で武官を呼んだのですか? それも強面の武官を?」
「そんな理由とは・・・」
シキに言われ嘆息したマツリ。
「おかげで思ったより早く終わったことは確かにあるが・・・」
マツリをジロリと見る。
見られたマツリが己の身体を見下ろす。
先程四方とだけ話していた時にも己の身体を見た。 その時には他出着だったが今は狩衣に似た衣裳に着替えている。 身体にフィットしていた他出着よりは幾分誤魔化されてはいるが、四方や武官達のようにがっしりとした感じがないし腹のあたりもスッキリとしている。
「確かにあの時の武官のような身体でもなければ顔でもないわな」
「・・・はい」
早い話、マツリは屈強な体躯の持ち主でもないしその上、強面でもない。
あの時の乃之螺のことを考えるにそういう者が必要かと思った。 その者を揃えると乃之螺が早々に吐くと思ったというのだ。
「乃之螺は我を蹴りにこようとしていましたから。 我ももう少しでも父上や武官のような体格があれば良かったのですが」
「マツリを蹴ろうとしていたのは、ある意味いい度胸だな」
「だから・・・なめられたのです」
食べても食べても鍛練しても鍛練しても、これ以上に筋肉のつかないこの身体。 ついでに強面とはかけ離れた美しいだけの顔。
「刑部に言っておこう」
武官に立てついたくらいの話ではない。 マツリを蹴ろうとしたのだ。 四方に立てついたのではないが、この罪はそこそこ重い。
「それはよろしいかと。 我に足りないものがあったのですから」
顔は変えられないが身体は変えることが出来る。 そして威厳を持てていない己の足りなさである。
マツリの言いたいことは分かった。 その少しでもリツソに理解してもらいたいと思うのは四方の我儘だろうか。
「それより姉上は邸に戻らなくて良いのですか?」
「ええ、今日はまだ。 明日戻るわ」
「義兄上もまだこちらに?」
「ええ」
しっかりと残らせている。
「マツリ、杠とはお話をしたの?」
「いいえ。 時がありませんでしたので。 このあと話をしようと思っています」
すぐにでも話したかったが、四方の夕餉に付き合わなければいけない。
「では波葉様のいらっしゃるお房に来てちょうだい」
その為に残らせているのだから。
「え?」
「波葉様も杠のことは気にかけています。 杠は波葉様のいらっしゃるお房に居ます。 杠が何か言いましたら波葉様がマツリの後押しをするでしょうし、杠もマツリと相対しているだけでは言いたいことも言えないということもあるでしょう。 杠が言い籠ると波葉様が助け舟を出して下さるかもしれないわ」
「ですがこのことは杠と我だけで・・・」
「男三人、お酒でも呑んで気を緩めてお話しするのも一つよ。 マツリのように堅苦しくばかりいても本音というところは出にくいこともあるわ」
「そうだな、シキの言うのも一つか」
「父上」
声を挟んできた四方にマツリが目を向けた。
「そう言うな。 尾能とは若い頃ちょくちょく呑んで話しておった。 特に澪引のことはよく相談もしておった」
尾能は若い頃からずっと四方に付いていた。 その時は単なる数いる中の従者であったが、似た歳頃は尾能だけであった。 他の従者は少なくとも四方より十歳は上だった。
それから段々と従者が入れ替わり、今では年長者から二人目が尾能である。 尾能を側付きまでに教育したのは今では最年長の朱禅であった。
「母上の?」
シキが目を見開いて四方に訊いた。
「わしのこの立場だ。 勿体ない話だと簡単に首を縦に振ってくれんでな。 尾能が色々とお膳立てもしてくれたが簡単にはいかなかった。 だが結局、父上が澪引を気に入られて領主命令となったがな」
「え!? では母上は父上のことを想っていらっしゃらなかったのですか? お爺様のご命令で父上と婚姻を?」
「そんなはずはなかろう。 あくまでも切っ掛けだ。 澪引がわしの立場だけにこだわっておったのだから」
「そう言えば、杠も勿体ない話だと言っておりましたわ」
「杠と話されたのですか?」
「体よくその言葉を使う者もおるが杠はその気が無いわけではないのだろう。 シキの言うように軽く酒でも呑んで、杠が引いている一線を取り払って話すのもいいのではないか?」
「杠が我に一線を?」
「言いたくはないがあくまでも、わしと尾能、マツリと杠は主従関係。 尾能も杠も一線を引いているのは当たり前であろう。 明日もまた忙しい。 深酒はするなよ」
明日は造幣所に向かわなければならない。
白木から聞いた三人は確実に捕らえるとしても、他にもいないかマツリに視させなければならない。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第67回
紫揺の両手で耶緒の手を包み込む。
「辺境からお出になってこちらに来ることになり、戸惑われるところも多々あったと思います。 生活環境も違えば何もかも違ったことでしょう。 私も何度か辺境に行きましたが、ありとあらゆることが違いました。 食べ物の食材一つにしてもです。 こちらに来て耶緒さんが初めて見る食材が沢山あったと思います。 料理の仕方を教わり、生活の流れ方を教わり、大変でしたでしょう」
ゆっくりと紫揺が話しているのを聞いているのだろう。 閉じられた耶緒の目から涙が落ちた。 耶緒の手を離すとポケットから出した手巾で拭いてやり、また耶緒の手を取る。
その様子を見ていた秋我が傍らに置いてあった手拭いを手に取ると、反対側の耶緒の枕元に座りまだ出てくる涙を拭いてやる。
「まだまだ慣れない大変な時にお腹に赤ちゃ・・・赤子が宿ってお腹を気にする間もないくらいだったと思います。 普通の生活をしている民ではないのですものね。 秋我さんは領主さんのあとを継ぐ方。 覚えなければならないことも沢山あったと思います」
紫揺の話はずっと続いた。
耶緒だけではなく秋我も紫揺の話に耳を傾けている。 それほどに大変だったのか、己は分かってやれていなかったと、こちらも目を赤くしている。
最初は止まらぬ涙を流していた耶緒だったが、その内に軽い寝息が聞こえてきた。 紫揺がそっと手を離すと何でもないように耶緒の布団を軽くめくった。
胸元辺りは何ともないように視える。 何も無いということは視えていないのだろうか。 まだそこのところに自信が無い。 そのままめくっていくと胃のあたりで灰色に茶色を混ぜたような塊があるのが視えた。
(なんだこれ・・・)
更にめくっていくと、嬉しくも下腹辺りに光り輝くものが視える。 視えているようだ。
「良かった。 赤ちゃ・・・赤子は元気なようです」
「え?」
急に耶緒の布団をめくり始めた紫揺に何をしているのかと問うことすら出来なかったが、五色の力で赤子を見てくれているのだと分かった。 五色にそんな力もあったのか、と初めて知った。
俯いたままの紫揺から目を離すと、秋我が先程まで布団の下に隠れていた耶緒の手を取ってやる。
冷たい。
その冷たい耶緒の手を自分の頬に付ける。
下腹から太腿と視、布団をかけ直すと今度は足元から布団をめくっていき、太腿の下からを視る。
特に何も不審なものは視えなかった。 布団を直すともう一度胃のあたりまで布団を下げる。
やはり胃の辺りに、灰色に茶色を混ぜたような塊が視える。
「耶緒さんの具合が悪くなる前に何を食べられたか覚えていらっしゃいますか?」
秋我が首を捻って考えているようだが、この様子では記憶にないようだ。
「すみません、ちょっと思い出せません」
紫揺が耶緒に視える塊の上に手をかざす。 何か歪んだ嫌なモノを感じる。
「普段食べないものとかってありませんでしたか?」
掌がピリピリしてきた。 北の影の時にもリツソの時にもこんな感触はなかった。
(いったいなんなんだろ・・・)
「すみません、よく覚えていません」
「そうですか。 分かりました」
手を引くと耶緒に布団をかけ直し考える。
北の影の時にはモヤモヤしたものを足の裏から出した。 リツソの時は頭頂部分から出した。
北の影の時にはモヤモヤしたものが足の裏から出ていたから、それに倣って出し、リツソの時には頭頂部に出口を見つけたからだった。
だが二人とも煙のようなものだったから何とかなったものの、耶緒の場合は完全に塊だ。 質量を感じさせる。 その塊を胃から出すにはどこをどう伝って出していいのか分からないし、質量のある塊を出すことなど考えもつかない。
どうしたものかとしばし考えるがやはり見当がつかない。
「悪阻はあるかもしれません」
急に口を開いた紫揺に目を向ける秋我。
「ですが悪阻のせいだけではないようです」
「え?」
「この辺りに良くないものが視えます」
そう言って自分の鳩尾辺りに掌をあてる。
「食べた物の影響かもしれません。 それだけじゃないかもしれませんが、少なくとも食べた物が分かれば薬草師に何か調合してもらえるんでしょうが・・・。
いま耶緒さんは身重なのでちょっとした食べ物にも反応してしまうんでしょうが、秋我さんはどうです? 何かを食べてなにか詰まった感じとか、一瞬でも吐きそうになったりとか、いつもと違うことがありませんでしたか?」
「・・・いいえ、全く」
領主と似たがっしりとした体格。 ちょっとやそっとでは何ともないのかもしれない。
「そうですか」
耶緒の顔を見る。 このままにしておいていいはずはない。 どうすればいいのだろうか。
「水分はどれくらい摂ってますか?」
「この数日、日に白湯を湯呑一杯くらいでしょうか」
全く足らないではないか。
日本では随分と前から水分のことが見直されている。 一日二リットルとかそんな話を聞いたことがある。 それに顧問からも練習前後は充分に水分をとるようにと言われていた。
だが飲むと吐いてしまうのだろう。 どうしたものか。
血の巡りをよくしたらあの塊は取れるだろうか。
血の巡りが悪ければ内臓が冷える。 内臓が冷えると身体も冷える。 あの耶緒の手の冷たさは普通ではない。
紫揺が耶緒に掛かっていた掛布団を再度下腹まで下げる。
「失敗に終わるかもしれませんがやるだけやってみます。 もう一枚お布団を出してもらえますか。 肩が冷えるので」
紫揺の言いたいことが分かった。 すぐに秋我が掛布団を持ってきて耶緒にかけた。 すでに下ろしていた掛布団の上までかけてやる。 温暖な東の領土である。 布団と言っても薄いものだ。
「ここに居て下さっても全然かまいませんが、気にしないで用事があれば何でもしていて下さい」
秋我が頷き「手を取っていてもいいですか?」と尋ねた。
悪阻だけでは無いと聞き、より一層、耶緒のことが心配になったのだろう。
「はい、かまいません」
耶緒の腹に手をかざす。
さっき紫揺は鳩尾の辺りを秋我に示した。 なのに腹に手をかざしている。 秋我にはその意味が分からない。 ただ耶緒の手を握ってやることしか出来なかった。
紫揺はまず腸から温めようとした。 そこから血の循環が良くなればと思って。
「それで強面の武官を呼べと言ったのか?」
四方の従者からマツリが敢えて “強面の武官” と言ったと聞いていた。
「乃之螺のような者にはそれが一番かと」
マツリに対して足を蹴ろうとしてきていたのだ。 乃之螺はマツリを恐れていないということ。
「父上のようなお身体があれば、あの様なことはしなかったのでしょうが」
他出着のままの己の身体を見る。 身体にフィットしているが為、身体の線がよく分かる。 どう見ても華奢・・・とまで言うつもりはないが、決して筋骨隆々とは言えない。 それに顔もただ美しいだけでその中に冷徹さが入っているとはいえ、四方のように威厳のある顔ではないし、声も四方ほどに深く響く声ではない。
実際マツリの言ったことを証明するかのように強面の武官が来た途端、乃之螺が身を縮めた。
乃之螺はマツリの言うようにマツリのことを脅威とも思っていなかったようだが、マツリに対してのほどではないが四方に対しても口が過ぎていた。
威厳を持ち余しているほどの四方であるが、今は二つ名を閉じている。
“四方” であり “死法”。 二つ名の片方である “死法” を閉じているということであれば簡単に潜り抜けられると思ったのだろう。
四方が何かを質問すると的を射ない答えを返す。 すると強面の武官に背中を突かれる。 強面に睨まれ、しぶしぶ答える乃之螺だったがそれの繰り返しだった。
ハッキリ言って単なるビビリンチョである。 強面の武官に睨まれただけで答えるのだから。 ビビリンチョなのに地下と繋がり金を手にしようとしていた。
妹の稀蘭蘭のことは四方から問わずとも乃之螺が喋った。
『せっかく辺境から呼んでやったのにっ! アイツがオレのことを喋ったのか!』
四方に対して口の利き方がなっていない。 武官が押さえこもうとしたのを四方が止めた。
『どういうことだ』
乃之螺によると以前から稀蘭蘭は辺境から出たいと言っていたと言う。 だから官吏となった乃之螺がやっと落ち着き稀蘭蘭を辺境から呼んだという。
最初は良かった。 まだ下級官吏であるからそれほど給金はなかったが、稀蘭蘭も働いて二人で過ごすには何の不自由もなかった。
四方の従者の調べでは乃之螺が両親に金を送っていたとのことだったが、実際には稀蘭蘭が自分で働いた金の一部を乃之螺の名で両親に送っていたのだった。
だが乃之螺が地下の存在を知った。 もっといい生活をしたい。 下級官吏で終りたくない。 乃之螺から地下の者に近づいた。 運良くなのか悪くなのか、それが城家主の手下だった。
宮の情報が欲しければやるが? と。 最初は商人の行程情報を流した。 だがそれも段々と流せなくなってきて、小さな宮の情報を提供するたびに、城家主の手下から金を受け取った。
それを城家主がやっていられなくなったのだろう。 そこから地下の者が官吏たちの親族を誘拐し始めた。
それに焦った乃之螺。
地下の者・・・いや、城家主はマツリの動向を気にしていることを知った。
そこで稀蘭蘭に見張番に近づくように言った。
『どうして?』
『いいから、見張番の誰でもいい。 お前は器量がある。 誰でもいいから見張番に近づけ』
『兄さん・・・ここのところおかしい』
『うるさい! 誰がお前を辺境から呼んでやったと思ってるんだ。 オレの言うようにしろ!』
『どうして』
『見張番の誰でもいい! 誰でもいいから見張り番に近づけって言ってんだ!』
『兄さん・・・どうしたの?』
『うるさい! オレの言うようにしろ!』
乃之螺に言われ稀蘭蘭が百藻に近づいたが百藻の心に稀蘭蘭が惚れてしまった。 乃之螺にしてみれば大誤算だった。
『あの馬鹿がっ! なんの役にも立たない! 誰が辺境から呼んでやったんだと思ってるんだ!』
四方が顔を投げた。
稀蘭蘭も百藻も巻き込まれていなかったのには安堵するところだが、切っ掛けがこれなのかと思うと心穏やかにはいられない。
乃之螺のことは武官に任せた。 椅子に座っていたマツリも四方と同じであった。
乃之螺が仕事を中座してでも地下の者に情報を提供したのは些細なことだった。 宮の行事を大雑把に言っただけだったと言う。
乃之螺を切っ掛けに、官吏たちの親族を誘拐し始めた城家主の手下達に振り向かれなくなったから焦ったということであった。 その時に物珍しかったのだろう、帯門標を手下に取り上げられたという。
そしてまた妹である稀蘭蘭を悪しざまに言い始めた乃之螺のいい草に四方が声を上げた。
『たわけ!』
従者が亀のように首を引っ込めるほどであった。
『いい加減にせよ! お前は己が妹を何と考えておる!』
腰を抜かしたのか、乃之螺が後ろに尻をつき目を大きく開けると四方を見た。
四方とマツリが西の門をくぐる。
「百藻にどう伝えましょう」
何も知らなかった稀蘭蘭であるが稀蘭蘭の兄が捕らえられたのだ。 ましてや稀蘭蘭が百藻に近づいたのが乃之螺に言われてのことだ。
「あるがままだ」
「・・・」
マツリが顔を下げる。
「問われれば、あるがままを百藻に言う。 百藻はそれを分かるだろう」
違うか? という目を送ってくる。
「はい。 そう思います・・・」
百藻はそういう男だ。 だがあの百藻の顔を思い出すと百藻にとって厳しい話となるだろう。
「まあ、こちらが言うより先に稀蘭蘭が百藻に言うのが一番だがな」
尤もである。 己が何を懸念しても始まらぬこと。 頷くことしか出来ない。
「あの者たちのことはもう刑部に渡した。 あとは帯門標の再発行をした者に咎を言い渡さねばならんか」
刑部に渡すほどの話ではないということだろう。 内々に終わらすということ。
「それで? 杠に話したのか?」
片腕になると言う話を。
「はい。 考えさせてほしいということでした」
「ふむ。 何を戸惑っておるのか」
「官吏に就くには簡単なことではありません。 それだけが理由ではないのでしょうが杠もそれを分かっているのでしょう」
「ふむ。 他の者の目もあるか。 では形式だけの試験でもするとしようか・・・」
それでも時季外れではあるが。
「紫を送る前に話しましたから今頃は考えがまとまっているかもしれません」
もう夕餉の刻は充分に終わっている。
紫揺はどうしているだろうか。 泣いていた顔を思い出す。
―――泣かせてしまった。
四方とマツリ二人で遅い夕飯を口にしようとしていたのに、何故かもう既に食べ終わったシキが茶を前に置き同席している。 それどころか紫揺が帰ったというのにどうしてまだ宮に残っているのか。
「え? そんな理由で武官を呼んだのですか? それも強面の武官を?」
「そんな理由とは・・・」
シキに言われ嘆息したマツリ。
「おかげで思ったより早く終わったことは確かにあるが・・・」
マツリをジロリと見る。
見られたマツリが己の身体を見下ろす。
先程四方とだけ話していた時にも己の身体を見た。 その時には他出着だったが今は狩衣に似た衣裳に着替えている。 身体にフィットしていた他出着よりは幾分誤魔化されてはいるが、四方や武官達のようにがっしりとした感じがないし腹のあたりもスッキリとしている。
「確かにあの時の武官のような身体でもなければ顔でもないわな」
「・・・はい」
早い話、マツリは屈強な体躯の持ち主でもないしその上、強面でもない。
あの時の乃之螺のことを考えるにそういう者が必要かと思った。 その者を揃えると乃之螺が早々に吐くと思ったというのだ。
「乃之螺は我を蹴りにこようとしていましたから。 我ももう少しでも父上や武官のような体格があれば良かったのですが」
「マツリを蹴ろうとしていたのは、ある意味いい度胸だな」
「だから・・・なめられたのです」
食べても食べても鍛練しても鍛練しても、これ以上に筋肉のつかないこの身体。 ついでに強面とはかけ離れた美しいだけの顔。
「刑部に言っておこう」
武官に立てついたくらいの話ではない。 マツリを蹴ろうとしたのだ。 四方に立てついたのではないが、この罪はそこそこ重い。
「それはよろしいかと。 我に足りないものがあったのですから」
顔は変えられないが身体は変えることが出来る。 そして威厳を持てていない己の足りなさである。
マツリの言いたいことは分かった。 その少しでもリツソに理解してもらいたいと思うのは四方の我儘だろうか。
「それより姉上は邸に戻らなくて良いのですか?」
「ええ、今日はまだ。 明日戻るわ」
「義兄上もまだこちらに?」
「ええ」
しっかりと残らせている。
「マツリ、杠とはお話をしたの?」
「いいえ。 時がありませんでしたので。 このあと話をしようと思っています」
すぐにでも話したかったが、四方の夕餉に付き合わなければいけない。
「では波葉様のいらっしゃるお房に来てちょうだい」
その為に残らせているのだから。
「え?」
「波葉様も杠のことは気にかけています。 杠は波葉様のいらっしゃるお房に居ます。 杠が何か言いましたら波葉様がマツリの後押しをするでしょうし、杠もマツリと相対しているだけでは言いたいことも言えないということもあるでしょう。 杠が言い籠ると波葉様が助け舟を出して下さるかもしれないわ」
「ですがこのことは杠と我だけで・・・」
「男三人、お酒でも呑んで気を緩めてお話しするのも一つよ。 マツリのように堅苦しくばかりいても本音というところは出にくいこともあるわ」
「そうだな、シキの言うのも一つか」
「父上」
声を挟んできた四方にマツリが目を向けた。
「そう言うな。 尾能とは若い頃ちょくちょく呑んで話しておった。 特に澪引のことはよく相談もしておった」
尾能は若い頃からずっと四方に付いていた。 その時は単なる数いる中の従者であったが、似た歳頃は尾能だけであった。 他の従者は少なくとも四方より十歳は上だった。
それから段々と従者が入れ替わり、今では年長者から二人目が尾能である。 尾能を側付きまでに教育したのは今では最年長の朱禅であった。
「母上の?」
シキが目を見開いて四方に訊いた。
「わしのこの立場だ。 勿体ない話だと簡単に首を縦に振ってくれんでな。 尾能が色々とお膳立てもしてくれたが簡単にはいかなかった。 だが結局、父上が澪引を気に入られて領主命令となったがな」
「え!? では母上は父上のことを想っていらっしゃらなかったのですか? お爺様のご命令で父上と婚姻を?」
「そんなはずはなかろう。 あくまでも切っ掛けだ。 澪引がわしの立場だけにこだわっておったのだから」
「そう言えば、杠も勿体ない話だと言っておりましたわ」
「杠と話されたのですか?」
「体よくその言葉を使う者もおるが杠はその気が無いわけではないのだろう。 シキの言うように軽く酒でも呑んで、杠が引いている一線を取り払って話すのもいいのではないか?」
「杠が我に一線を?」
「言いたくはないがあくまでも、わしと尾能、マツリと杠は主従関係。 尾能も杠も一線を引いているのは当たり前であろう。 明日もまた忙しい。 深酒はするなよ」
明日は造幣所に向かわなければならない。
白木から聞いた三人は確実に捕らえるとしても、他にもいないかマツリに視させなければならない。