大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第22回

2019年02月25日 23時23分11秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第20回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第22回



セノギが昼のパンを持ってきた時にこの部屋のものは自由に使っていいと言っていた。 勿論、クローゼットの中の服も靴も好きなものを選んで着るようにと。 そして欲しいものがあれば用意すると言っていたので、その時にジャージとスポーツシューズを頼んだ。

『ジャージ? でございますか?』

『はい。 色は何でもいいですけど出来れば紺か黒で、メーカーものでなくていいです。 家ではずっとジャージだったから』

『承知いたしました』

と、その時にセノギが紫揺付きの話をしようとすると、要りませんと、前回と同じ答えを返した。
そして上下セットのジャージとシューズが2日後に部屋に届けられた。 有難くもTシャツとトレーナー、厚手のフルジップの長袖パーカー付きの5セット。 そして季節がらなのか、ベンチコートが3着。 それも全てしっかりとメーカーもの。

「考えただけで目が飛び出そう・・・」 いくらかかったのだろうか。

並べたジャージの内、一着のズボンとTシャツ、厚手のフルジップパーカーの1セットを残してクローゼットに片付けると、ずっと着ていたシルクの一枚物を脱ぎすぐに着替えた。 Tシャツの上に着たフルジップのパーカーの着心地がいい。

「出来るか出来ないかは分からないけど、とにかく体だけは作っておかないと。 絶対にここから出るんだから」 言うとすぐにストレッチを始める。

もともと生まれつき身体が柔らかい方ではない。 長い間何もしてこなかっただけに筋や関節、筋肉が硬くなっている。 
座って足を揃えて伸ばすと、ゆっくりと腹から胸を伸ばした足につけるよう、前屈の姿勢をとる。 胸をつかせると伸ばした手で足先を持ち手前に引くと足の裏側の筋が伸ばされる。 今度は反対に足先を向こうに倒すように押さえる。 
足先を離し身体を起こすと伸ばした足を大きく開き、さっきと同じように腹から胸に床につけていくが、少々キツイ。 

「うわぁー、どれだけ硬くなっちゃってたんだろ」

その身体をゆっくりとゆっくりと伸ばすが、胸をつけることが出来ない。
今度は座った姿勢から上半身を後ろに倒して仰向けに転ぶと、揃えて伸ばした足を顔の近くまで持ってくる。 その足首を手で顔に引き寄せる。 尻が浮かぬようにしてグイグイと何度も足を額に付けると、今度はその片方の足を離して前後開脚の体勢をとるがこれがイマイチ。

「タァー、股関節硬った!」

体勢を180度変えて足を床につけ開脚をするが、横も前後もつかなくなっていた。

「何この硬さ・・・絶対怪我する」 段々と身体があったまってきて厚手のフルジップパーカーを脱ぎ捨てる。

今度はうつ伏せに寝て身体の横に手をつくと軽く腰を反らせてみる。 強くは反らさない。 でないと腰が潰れる。 絶対的な腰痛持ち、前方に曲げることには痛みは走らないが、後方に腰を反らせると今は眠ってくれている痛みが目を覚ますかもしれない。 その眠りを妨げたくはない。 その腰もかなり硬くなっている。 腰や股関節の柔軟性を元に戻すには早くとも3日はかかるだろう。 腰にも股関節にも歪みがあるのは分かっている。 無理に戻すことはしたくない。

あと気になるのは肘膝関節と肩。
膝は関節炎を持っていたし、肩は脱臼をした経験がある。 肘も何度も脱臼をしかけているし、手首から肘にかけては癖のように腱鞘炎にもなっている。 だが、膝の痛みは学校を卒業してからはなかったし、水も溜まっていない。 脱臼をした肩においては顧問に早々にギプスを外され、地獄のリハビリをさせられていた。 肘は注意していれば簡単に関節が緩むことはないし、腱鞘炎の痛みも今は全くない。
壁に手をつけ肩を入れる。 下手な痛みはない。 だがやはり現役の頃のような柔軟さには欠ける。
フゥー、と息をつき手の指を組むとその掌を上に向けてギュッと後ろに逸らす。 そのまま左右の身体の側面も逸らす。 今度はお尻の辺りで指を組み前方に腰を曲げるとその腕を上げる。

「さて」 言うと部屋の中央に向かって立つと足首と手首を回し、回し終えた足先の甲をギュッと床に押しつけて足の指の骨をポキポキと鳴らす。
下げていた手をゆっくりと床につき、右足を上げると遅れて左足も上げ倒立をとった。 肘にも手首にも痛みはない。 腱鞘炎の痛みもこないようだ。 そのまま手で数歩あるいてみるが、自分の体重は充分に支えられる。 ゆっくりと右足を背中側におろしていきながら、手で半回転する。 左足をほとんどそのまま残して右足を床につける。

「うわー、頭に血が上りそう」 現役の時には何ともないことなのにすぐに座り込んだ。 

「ブリッジは明日にまわそ」

倒立からのブリッジ。 それは胸も肩も柔らかくしておかなくてはいけないが、何故か胸の骨だけは何をしなくとも昔から柔らかかった。 腰痛持ちにとってブリッジはイタイところであったが、そこは、その程度は避けられない。
こうして身体を動かすと、踊りたくなってくる。 床の規定演技や自分の好きだったフリーのダンス部分を踊り始める。

「やっぱり身体を動かすのがいい」 

タンブリングを抜いた床の演技が終わると、今度はまるで平均台の上に立っているように、平均台の演技を始める。 これもまたジャンプやダンス部分だけであるが。

「あ? あれ?」 

敢えてこうして踊ってみると自分のフリーの演技にどれだけダンス部分がなかったのかに気付いた。 仕方なく側転で入るとそのまま止まって倒立を取り、ゆっくりと膝を伸ばした両足を揃え腰を曲げて胸の方に下ろしてくると、そのまま平均台に見立てた床をこすらず腕の中に通し、尻を上げたまま一旦V字バランスをとるとドタンと尻と足を下した。

「ファー、限界」 大腿直筋に筋肉痛のような鈍痛があり、プルプルと痙攣しているようだ。 だがそれは心配するものではない。 単に筋肉が弱音を吐いているだけである。

「腹筋もかなり無くなってるー」 太ももと腹をさする。

「でも、肩の力は結構いけるかも」 

たしかに。 触ると肩の筋肉はまだ落ちていない。 先輩たちが言うには一番長くかかった先輩で、10年は肩の筋肉が落ちなかったと聞いていた。 だが、引退して腹筋に次いで太腿の筋肉はすぐに落ちてしまっていたから、柔軟性だけではなく、筋肉の作り直しもしなくてはいけないようだ。

「はぁ、思うように出来るまでは先が長いのかな・・・」 ゴロンと寝転ぶ。 と、窓の外が目に入った。

「あの木の枝・・・」
起き上がりバルコニーにかかっていない腰高の窓によるとその窓を開け、手を伸ばして枝を掴んでみる。

寒っ・・・と一言いうと

「けっこうしっかりしてる。 うん、いけるかも」
いったん窓から離れて厚手のフルジップパーカーを着て、クローゼットの中にしまっておいたジャージの上着と靴を履くと、窓際に戻ってきて一度下を見る。

ここは3階だ。 下手なことをして落ちたくない。 慎重に腰高窓に上ると膝を折ってしゃがむ。

「わっ、いつもより下が遠い・・・」 わずかな違いであるが、この高さが限界だ。

まだ明るい昼間。 今日は雪も風もなく比較的いつもより暖かい。
目に目標地点を決める。 と、窓を蹴り上げた。 目標地点には目からの情報で勝手に手足が動く。 枝の根元、幹の一番近くに足を落とした瞬間、履き慣れていない靴がズルッと後ろに滑ってしまった。

「わっ!!」 咄嗟に枝を掴むと、もう段違平行棒で出来ていたタコもなくなり柔くなってしまっている掌に痛みが走る。
枝からぶら下がっている状態になった。

「イタ・・・」 言いながらもこのままではどうにもならないと、足で少し反動をつけ蹴上がりをすると枝に足の付け根を置いた。

「イッター」 足の付け根を枝にのせたまま両掌を見ると、皮がめくれていた。

「最悪・・・」 そのまま布団干しのように、枝に腹を預けて上半身を下におろすと、手袋が必要だな、と考えた。 同時に案外まだ綺麗な蹴上がりが出来た、とさっきの大腿直筋の痙攣もなく少々自己満足に浸っている。

「背筋もそんなに衰えていなかったな」 枝に身体を預けて掌を見た時には背筋を使っている。 これは思ったよりも早く身体が作れそうだ。
部屋に戻るには安定した窓に跳んで潜ればいいだけだから簡単であった。


決して紫揺一人の時には部屋に入らない影。 まさか窓から外に出るなどということは想像だにしていなく、ドアの外側についていて紫揺のこの一連の行動を知る由もなかった。


部屋に戻り掌を見る。 あの時、シャンデリアで怪我をした後に、ホテルを抜け出そうとして失敗した時、掌に巻く包帯から血が出ているのに気づき、ニョゼが包帯を巻きなおしてくれたことを思い出すとジワリと寂寥感に襲われる。 ポテンとその場に座ると膝を立て、背を丸くしてその膝を抱えた。

部屋に籠りっきりで毎日何度も繰り返すストレッチ。 3日後には腰も曲がり簡単に開脚もつくようになった。 その上、ブリッジどころか、ゆっくりとした転回や、ハンドスプリングも出来る。 それは美しくもあり、力強くもある。 あの時 『指先や足先もどうでもいい』 と進学担当教師に言ったが、身についたものは仕方がない。

「今度は後方に重点を置こうか」 いわゆるバク転や後方宙返りの事である。

「って、脱走にそんなもの必要か?」 退屈なのだろうか、一人突っ込みを入れた。


雪の降る3日間、部屋に閉じこもったままでストレッチばかりしていたが、今日は雪の降る気配が見えない。 それどころか陽が射す青空だ。 外の散歩にでも出ようかと靴を履く。

大階段を降りると玄関を出て、一度ライオンでも見ようかと西にある小門に歩を向ける。 
西の芝生を歩いていると、あの時の少女がリードを持って犬の散歩をさせているのが目に入った。 犬は土佐犬であった。 きっとムロイの言っていた怠慢な土佐犬というのが、あの犬の事なのだろうとすぐに分かった。 
犬の散歩と言っても土佐犬は何処を歩くわけでもなく、ゆったりとその辺の匂いを嗅いでいる。

「あんな小さな子にも散歩が出来るなんて、きっと大人しい犬なんだ・・・」 

遠目に様子を見ていると、小門から少し離れた向こうに何やら動くものが見えた。 それが段々と小門に近寄ってくる。 目を凝らす。 獅子だ。 獅子が少女を気にして寄ってきたのだ。 少女の方は慣れているのか、獅子を怖がる様子もない。 門がしっかりと閉められていることを知っているからであろうが、紫揺ならすくみ上りそうになる。 と、その時、土佐犬がゆっくりと動き出した。 その様子をじっと見ていると、思いもよらない事が目に入った。

「へぇー・・・そんなことがあるんだ」 驚いた目を輝かせるとクイと口の端を上げた。

「まずはあの女の子とお友達にならないと・・・」 少女に向けて一歩を出した。

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虚空の辰刻(とき)  第21回

2019年02月22日 22時30分39秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第20回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第21回



僅かに開いているドアに駆け寄るとゆっくりとドアを開けた。 するとまた部屋のような空間があり、その先のドアが半開きになっていた。 外からの明かりが漏れ入ってきている。

「外に繋がるドア?」 そっとドアに近寄るとゆっくりと身体を外に出した。

その気配を感じたのか、ドアから少し離れた所に居た少女が目を剥いて紫揺を見た。

「あ・・・あ・・・」 少女が言葉をなくしたかのように喘ぐ。

「あ、あの・・・」 少女の様子に紫揺もなんと言っていいのか分からない。

「も・・・申し訳ございません!」 少女が持っていた洗濯物を投げ出すと額を床にこすり付けて手をついた。

「え?」 自分に対してではなく、誰に言ったのだろうかと周りを見るが誰も居ない。

「申し訳ございません! 申し訳ございません!」 少女はその言葉を繰り返すばかり。

「あの・・・それって私に言ってるの?」

「申し訳ございません!」 少女の額の皮膚が切れるのではないかと思うほど平伏している。

「待って! 待って! 私に言ってるのなら止めてちょうだい」

「申し訳ござい! ・・・」 少女の言葉が止まったが、平伏したままだ。

「私に言ってたの?」

「はい、申し訳ございません」

「顔を上げてくれる?」

「とんでもございません!」 少女がキッパリと言う。

そうだ。 ずっと誰も彼もが自分のことを 『シユラ様』 と呼んでいた。 もしかしたらこの少女もそうなのかもしれない。 自分が何様になっているつもりはないが、周りがそうであるならばこの少女もそうなのかもしれない。 頭を切り替えよう。

「私がそうして欲しいの。 聞き入れてもらえない? 顔を上げてもらえない?」

平伏する紫揺の見えないところで強く目を瞑っていた少女が大きく目を見開いた。 騙されているのだろうか、遊ばれているのだろうか。 疑う気持ちは整理出来ないほどあったが、紫揺の声音に考え選択する余地を見つけた。

「・・・」

「お願い」

少女がおずおずと顔を上げると、そこにはしゃがみ込み目線を合わせる安堵したような顔があった。

「良かった。 ありがとう。 ね、足が痛いでしょ? 立ち上がって」

少女がコクリと頷くと言われるままに立ち上がった。
まだ小学校中学年くらいだろうか。 可愛らしい半纏を着て暖かそうなズボンを穿いている。 ショートカットが可愛らしい女の子だ。

「えっと・・・何をどう言っていいのか分からないけど、とにかく今のようなことはしないで」
そっと手を伸ばすとニョゼがしてくれていたように、少女の額についた砂を払ってやった。

「え?」 少女が色素の薄いグレーの瞳を揺らして改めて紫揺を見る。

「そんなことをされたくないから」

「ですが―――」 少女が言いかけるのを畳み込むように紫揺が言う。

「私はそんな存在じゃないから」
少女が寂しそうな表情の紫揺を目にしたその時、紫揺と少女の横から声が発せられた。

「あーら、アナタがムラサキ?」

「え?」 

目先を移した紫揺が声の主の顔を認める。 少女が声の相手に慌ててまたも平伏する。 その声の主は紫揺から見るからに同い歳くらい。 だが、他の人間から見れば紫揺より完全に年上に見える。 その声の主は髪の毛こそ軽くはしているが花魁姿。 一瞬その姿に驚いたが 『紫』 と言われればそれなりの反応がある。
自分は紫揺であって、祖母の名の紫ではない。 が、睨みつけようとしたその相手の目を見たときに息を飲んだ。
久しぶりに見る黒い瞳だったのに・・・その周りの色が白ではなかった。 白目の部分が淡い青色をしている。 喉を詰めるほどの衝撃だった。

「あら? アナタ、ムラサキじゃないの?」 紫揺の瞳を覗き見るようにして言う。

「紫は私の祖母の名前。 私は紫揺」 祖母の名を2度も呼び捨てにされた事に、衝撃を忘れ苛立ちを覚える。

「へぇーえ、そうなの」 紫揺の身体を下から上に舐めるように見ると最後に紫揺の目を見る。

「そう、まだ開いてないのね」

その言葉に紫揺が眉をひそめる。

「どういう事」

「ふっ、まだ何も知らないという事ね」 と、視線を少女に移した。

「どうしてお前のような者がここに居るの?」

「も、申し訳ございません!」

「謝ってすむものなの?」 淡い青色の強膜を少女に向ける。

「お許し下さい! お許し下さい!」 

少女の怯える姿を見かねた紫揺が少女を抱える。

「私の前に姿を見せるなど言語道断。 どうしてくれようか?」

「あなた、何を言ってるの?」 完全に自分と同い歳くらいと思っているその相手に言い返す。

「あら? アナタにそんなことを言われる筋合いはないわ。 お前、どうしてくれようか?」 一旦は紫揺を見たがすぐに少女に視線を転じた。

「お前って、それなに? その言い方・・・この子に何をしようっていう気?」 祖母を呼び捨てにされた上に、人を蔑む言いように苛立ちを越して腹が立つ。

紫揺のその言葉に声の主が面白そうに答える。

「まだアナタが出来ないことを私がするまで」 嘲弄の笑みを顔に作る。

「なに言ってるの? こんな小さい子に何をするって言うの?!」 紫揺のボルテージが徐々に上がる。

「あら? アナタに私を止めることが出来るって言うの?」

「何がどうだか分からない。 あなたが何を言っているのかもわからない。 でも、この子には何もさせない!」 

そう、ずっと不安だった自分をニョゼが守ってきてくれたように。
少女を抱えていた手を離して少女の前に立ちはだかる。 自分にはその方法しか思いつかない。 ちょっとでもこの少女に手を出そうとしたら、すぐにあの高下駄を蹴ってやる。 そう考えるのが精一杯だった。
声の主と紫揺の考えるステージは全く違うものだったが、紫揺のボルテージは更に上がっていく。 それによって紫揺の瞳の色が徐々に変わっていく。

「あーら、少しは力があるようね。 でもまだ私ほどではないみたい」 紫揺の瞳の色が変わっていくのに少々戸惑いを持ちながらも言い切る。

カッと両目を大きく開くと 「誰が! あなたなんかに負けない!」 そう言い放った途端、意識を失った。 ほんの一瞬。
その時、鋭く赤く光るものが飛んだ。

「キャア!」 声の主が火のついた袂をはたく。

発せられたのは炎であったが、一瞬意識を失った紫揺は、それが何処から飛んできたのか目にすることがなかった。 袂に火が点いた声の主の叫びに、意識を覚醒した紫揺は誰かが火でも放ったのかと後ろを振り返る。 だがそこに誰が居るわけでもなかった。

「はっ、大笑いだな」 声の主の横からまた違う声が現れた。

「瞳に黒を持つ者が、赤の瞳に勝てないなどとはね」 

呆れたように言いながら歩いてきた新たな声の主に紫揺が目先を転じる。 その姿は軽いオーバーセーターの上にジャケットを着たGパン姿であったが、間近に寄ってきた目を見るとまたしても息を飲んだ。

「・・・オッドアイ」
左右異なる虹彩、瞳の色が違う。 左目は薄い黄色だが、もう片方は赤。

小学校の時、飼育係をしていた時の犬にオッドアイが居た。

「オッドアイって・・・。 重みも何もないことを言ってほしくないな。 異 (い) なる双眸 (そうぼう) と言えないか?」 肩までの髪をかき上げる声の主。

「あ・・・あなたもこの子に何かしようと思うの?」 

「とんでもない。 オレは違う」 

袂からいまだに煙を吐いて一人踊っている声の主に一つ視線を送ると、その視線を紫揺に戻した。

「オレの名前はトウオウ。 ようこそ屋敷にいらっしゃいましたムラサキ様」 軽く首を傾けながら紫揺に笑みを送る。

「紫さまって・・・それは私のお婆様のこと、私ではない。 私は紫揺」

「・・・アナタはムラサキ様」 異なる双眸が紫揺の目を捉える。

「って、もう落ち着いたの?」

「落ち着いた? 落ち着くわけない。 あの人がここから居なくなるまで。 それにさっきも言ったけど、私は紫揺」 

トウオウの言う 『落ち着いた』 は紫揺の瞳の色が戻っていったことを言っているが、そんなことに気付いていない紫揺は違う意味の返事をする。

「それじゃ、ムラサキ様の気が済むまではシユラ様とお呼びしようか。 貴女に睨まれると怖そうだからね。 それと・・・あのコスプレ女はアマフウ。 オレと同じ24歳」

「え?」 自分と同い歳ではなかったのか?

「昼の食事の時に会っただろ? お姉さま方と」

たしか、セイハが他の二人をお姉さまと言っていたのを思い出した。 

「お姉さま方はもう30に足を突っ込んでいらっしゃる。 あ、ちなみにキノラの方が歳下だけどね。 オレたちの中で一番の年長者はセッカ」

(オレたち? それじゃあ、この人たちがへそ曲がり?) あの時にムロイが名前を言っていたがすっかり忘れていた。

「アマフウのコスプレも見てられないけど、お姉さま方も変わった服を着てただろ?」

「トウオウ! 要らないことを言ってるんじゃないわよ! その洗濯女のせいでこんなことになって!」

ずっと平伏したままの少女の身体がガタガタと震え出した。

「やめな、シユラ様はこの子を気にかけているんだから、それ以上言うとまたやられるよ。 今度は顔に飛ぶかもしれないよ」

「シユラ様? 笑わせないでよ。 どうして様付で呼ばなくちゃいけないのよ!」

「アマフウはアマフウの好きなように呼ぶといいよ。 でも少なくとも今は退散する方が身のためって分からないのか? もうさっきみたいに助けないぞ」

炎はアマフウの袂に辿り着く前に、トウオウの持つ左の薄い黄色の瞳の力によって小さくされていた。

「助ける? ほざいたことを言ってるんじゃないわよ! どうせならあんな炎ぐらい消しなさいよ!」

「アマフウがけしかけたんだろ? オレの手を出すところじゃないじゃないか。 ただ、あまりにも突然だったから少し手を貸してやっただけ。 礼を言われるならわかるけど、何を文句をつけられなきゃならないのかな?」 言うとソッポを向いてそのまま歩きだした。

「ま! 待ちなさいよ!」

走ることがままならない恰好でトウオウの後を追う。
残された紫揺。 何が何なのか分からない。 二人の会話も、それぞれから言われたことも。 第一、どうして袂に火が付いたのだろう。 と、少女のことを思い出し振り返ると 「もう大丈夫よ」 と言いながらしゃがんで少女の肩に手をやった。

「ひっ!」 と、一瞬声が上がる。

「あ、驚かせてゴメン。 もうさっきの人はいないから顔を上げて」

ソロリと少女が顔を上げると、その額が真っ赤になって血が滲んでいる。

「あ、血が出てる。 どこかに薬箱はある?」

紫揺の問いかけに少女が首を大きく振って 「これくらいなんともありません」 と立ち上がり、急いで投げ出した洗濯物を拾い集めると大きく一礼してドアの中に入ってしまった。

「あ・・・」 ドアが閉じられ、一人残された。

何故か急に寂しさを感じる。 一度下を向くとトボトボと歩き出し、今日は部屋で過ごそうと玄関に向かった。



一瞬だったが、独唱が紫揺を感じた。

「塔弥、紫さまはまだ北の領土に入っておられないのは確かじゃ。 北は領土に入る前に紫さまをどこかに連れて行かれておる・・・多分、わしらのように領土に繋がるところに居を構えているのではないだろうか・・・」

「そこは・・・?」

「いま、あまりにも短すぎたが、大陸ではないと感じる」

「日本ということですか?」

「多分・・・」

「領主に伝えてまいります」



「なぁ、爺」 

「何でございましょうか?」

爺と呼ばれた者が、外に居て冷えたであろう身体を温めさせるために、温めたミルクをテーブルに置き話を聞いた。 すると今度は逆に問いかける。

「ではトウオウ様はどうされたいのですか?」

顔を傾けてにっこりと笑った。

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虚空の辰刻(とき)  第20回

2019年02月18日 21時57分40秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第10回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第20回



食事を終えた紫揺の部屋にムロイがやってくると、約束通り紫揺に屋敷の案内を始めた。

5階建ての落ち着いた茶系の壁の屋敷。 1階の玄関から入るとすぐにホテルで言うところのロビーのようになっており、ソファーやテーブルなどが置かれていた。 大階段に行くまではムロイの仕事部屋があり、そのまま大階段を通り過ぎると応接間となっている2つのドアの前を通り過ぎてその奥に先程の食堂、さらに奥には厨房や洗濯室があると大階段の前で説明を受けた。 そして先程は気付かなかったが、大階段の他にも階段が設けられていた。
2階はこの屋敷の住人たちの部屋になっているらしく、その中までは見られなかったが、先ほど会った三人とあと二人のことらしい。
紫揺だけが3階に居るらしい。

「紫揺様はあの者達とは違いますから、同じ階というわけにはいきませんので」

「どういう意味ですか?」
自分を警戒して言っているのだろうか。 ホテルの時のように逃げ出させないようにしているのだろうか。

「あの者達とシユラ様とは雲泥の差があります。 同じ階などには出来ません。 あの者達にも、もう少し身の丈を感じてもらわなければいけませんが、シユラ様も今日のようなことがあれば相手にしなくてよろしいのですよ。 シユラ様が右と仰れば右を向かなければいけない者達なのですから」 

悠揚な弁舌で説明を聞かされるが、紫揺が眉を顰める。 一体どういうことなのだろうか。

「その内に分かります」 紫揺の心を読んだようにムロイが莞爾として微笑む。

3階は紫揺の部屋があり、他の部屋は空いているらしく3階はそのままスルーした。
4階には初めて見る光景があった。

「ここはいわゆる・・・仕事のフロアーです」

「仕事?」

「ええ」

ガラス張りにされた大きな一室にはコンピューターが数台並び、その前に3台につき1人が座っている。

「株です」

「かぶ?」

「ええ、株を動かしているんです」

「かぶって・・・」 小首を傾げる。

「株をご存じありませんか? まぁ、紫揺様のお歳なら知らない方も多いでしょうね。 そうですね、株式会社の株がありますでしょう? その株を買ったり売ったりして資産を増やしているのです」

何となく分からなくはないが、もうひとつピンとこない。

「ああ、特に何も考えられなくて宜しいんですよ。 ただここではこんなことをしているとご理解していただければ」

ガラス越しの様子を見るがその画面に映る意味さえ分からない。
この階の他の部屋はコンピューターの前に座る者達の休憩部屋と他の者の部屋があるということであった。

そして5階に行くと一つの部屋をノックして紫揺に入るように促すと、ムロイは紫揺の後ろについた。 目の前には机が置かれてあり、その先は大きな窓となっていた。 左を見ると離れた所に、ソファーが置かれていた。 そして絨毯の敷かれた上に白髪の老女が正座をして平身低頭しているのが目に入った。

「あ・・・あの・・・」 ムロイを振り返ると 「ショウワ様と仰います。 外でお待ちしております」 と紫揺を残して部屋を出て行ってしまった。

老女に向き直るが、この状況をどうしていいものか分からない。

「ムラサキ様」 頭を下げたままの老女が口を開いた。

「ようこそお出で下さいました。 この時を長く長くお待ち申し上げておりました」

「あの・・・」 一歩二歩と後ずさる。

と、老女がゆっくりと面を上げる。

「これはこれは、この婆 (ばば) が強直なさせてしまっているようでございます」

ショールの胸元をギュッと掴み紫揺の顔は強張っている。

「ご安心なされませ。 何も取って喰うような鬼人ではござりません故」

「・・・」

紫揺の様子に視線を落とすともう一度頭を下げた。

「我が領土をお守りくださりませ」

「領土・・・?」

聞き返す紫揺に老女は何も答えず、沈黙の時が流れる。 耐えかねた紫揺がそっとドアレバーに手を伸ばし部屋を出た。 カチャリとドアを閉めると同時に影が5つ揺らぐと段々と人型をとっていく。

「ショウワ様」

「ああ・・・」 まだ伏したままであったがゆるりと顔を上げ立ち上がる。

「ここまできたならムロイも無茶なことはせんだろうが、お前たちにはこれからもムラサキ様を守ってもらわねばならん。 ケミとカミはここに残りムラサキ様に付いてくれ。 ゼン、ダン、ハンはいったんわしと領土に戻って乱れがないか確認を・・・ああ、待てよ。 ムラサキ様にお付きするのはカミ一人でも良いか?」

「仰せのままに」

「それでは頼む。 長く領土を空けすぎた、一人でも多い方が良い。 ケミも領土に戻ってくれ」

「仰せのままに」

「いつ領土にお戻りになりますか?」 ゼンが問う。

「今からすぐに」

「御意」


「お話は終わりましたか?」

驚き振り返ると、そこにムロイが立っていた。 そう言えば外で待っていると言っていたことを思い出す。

「・・・あのお婆さんは?」

「ショウワ様と仰います。 いわゆる・・・重鎮でしょうか」

続けて 『領土をお守りくださりませ』 とショウワが言った言葉の意味を聞きたかったが、きっと聞いても答えてくれないだろうと飲み込んだ。 この次のステップ、紫揺の祖母、紫が行くはずであったところに行くまでは何も教えてくれないであろう。

「さて、ここには私とセノギや他の者の部屋があります。 ご覧になりますか?」

「いいです」

と、その時一つの部屋の戸が開いて中から女が現れた。

「あ、これは失礼いたしました」 お辞儀をしてまた中に戻ろうとしたのをムロイが止める。

「シユラ様、これはセッカ付きの者です」

言われ、女が恭しくシユラにお辞儀をする。

「付き人をお断りになったそうですが、こうして皆には付き人が居ります。 もう一度お考え直し下さればと思いますが」

「いらないです」 けんもほろろに返す。

「そうですか。 お気が変わればまたその時に。 それでは庭をご案内いたします。 こちらへ」 

言われたままに歩いて行くとエレベーターがあった。 たしかに、ショウワが5階まで階段を上り下りするなんてことは殆どトレーニングに近いであろう。

「あっと・・・忘れておりました。 紫揺様のお部屋の横にこのエレベーターがありますのでご自由にこれをお使いください」

3階ごときで絶対に使わない、と心に命じた。
玄関まで行くとセノギが首元と袖口、裾にタップリとファーの付いたコートと、ボンボンの付いたヒールの低いムートンのブーツを用意して待っていた。
外に出て回廊を歩いて行くと建物の北側に出てその広さに驚いた。 回廊の端から見た北側には別棟があり、そこでは使用人が寝泊まりをしているらしい。 その上、ムロイが最初に言っていたように馬場やテニスコートがあった。 室内プールであろう建物も見える。

「使用人も含めてここに居る者たちが自由に使うところですから、シユラ様もお使いください。 じっとしていては身体も鈍 (なま) るでしょう」

「馬が居るんですか?」

「ええ、今は誰も乗っておりませんが奥に厩舎があります。 ご覧になりますか?」

「いえ、いいです」 馬に興味はない。 あったとしても、見る気もない。

「ではここはこれまでで」 ムロイが踵を返した。

回廊を戻っていく。 建物の端まで来ると夕べ紫揺が見た西の芝生から続く東にあたる表の庭には西の芝生と同じように枯れた芝生がずっと続いて、その片端には車が通れるように石畳になっていた。 その石畳がカーブして木々の中に消えている。

「この道の先に門があります。 その門から外には出られませんように」 言ったムロイが不吉な笑みを見せる。

「屋敷の周りには・・・ああ、一部を除きますが護衛の犬がおります。 躾けられた犬ですので、トレーナー以外には間違いなく吠え噛みつきます。 私もうかつに門の外へは出られません」

「え?」

「人間の警備やセンサーよりよほど確実です。 シユラ様、ホテルの時のようにはいきません。 くれぐれも門の外には出られませんように」

「・・・除いた一部というのは?」

「獅子がおります」

「獅子って、ライオン? 嘘ですよね?」

「本当です。 これは私の趣味ですが。 最初は土佐犬だったんですけどね、この犬が怠慢で私の思うように動いてくれませんでした。 獅子をお疑いならいつでもご確認してくださって宜しいですよ。 西の小門から見えますから」

小門と言っても人が一人通れる程度の門ではない、そこそこの大きさだ。 その門の先に獅子がいると言う。

「屋敷のご案内はこれくらいのものでしょうか。 何か分からないことがあればいつでも訊いて下されば宜しいかと」

「私は家に帰ると言いました」

「シユラ様が過ごされたご自宅のことはお忘れください。 さっ、これからはシユラ様はご自由にこの屋敷でお過ごしください。 私は仕事が残っていますので、ここで失礼させていただきます」

踵を返したムロイが屋敷から出てきた時のドアを潜った。 表庭と南の庭の角に残された紫揺が辺りを見回す。

「犬? 躾けられた犬ってどんな犬なのよ」 

飼育係をしていた。 全く犬を知らないわけではない。 上手くいけば手懐けられるかもしれないと思い、表側の回廊を歩くとホテルのような大きなドアの付いた玄関があった。 先程ムロイが入って行ったドアも紫揺が出てきたドアも同じドアを潜ってきたが、そこはいわゆる勝手口のようだった。 玄関の前を通り過ぎ石畳に出るとその先を歩いた。 木々が続く中カーブの先に門が見えた。 大きな門だ、たぶん電動だろう。

「大きな門・・・。 あっちを小門って言ったのが分かる」

言った矢先に門の向こうに黒いものが走って行ったのが見えた。 瞬時に犬だと分かり、犬種も分かる。

「ドーベルマン!? ・・・最悪、無理」

飼育係として犬にも接したのは、それは皆、俗にいう雑種であり小型犬や中型犬であったりと、ドーベルマンとは顔を合わせたことなどない。

「ドーベルマンって・・・最悪の危険な壁じゃない」 『危険はチャンス』 と考えた自分に歎息を吐く。

「・・・どうしようか」

門の周りを何匹ものドーベルマンが走っていく。

「・・・シェパードじゃないのが救い?」 と自分に問うが、何の救いにもならない。

「脱出・・・無理なのかもしれない・・・」 走るのに疲れたのだろうか、座り込んだ一匹のドーベルマンを見ながら肩を落とした。


屋敷の中に戻って来ると、食堂を通過してその奥に歩いて行く。

「たしか、厨房と洗濯室があるって言ってたけど、それ以上にドアがあるんですけど?」
先程は大階段の前で説明を受けただけで、実際にここまで歩いて来たわけではなかった。

一番奥のドアに目を留め、ドアレバーを下ろすとなんの引っ掛かりもなく下ろす事が出来た。 ゆっくりとドアを開ける。 と、そこは外に続くドアでもなければ部屋でもないようだ。 誰も居ない。 その空間の中に入ると更に2つのドアがあった。 が、そのドアは今まで見たドアとは違って質素なドアであった。 その内の一つのドアが僅かに開けられている。

「ヤダ・・・幽霊屋敷みたい・・・」 家具などもなく窓も何もないが、電気が点けられていた。

と、その時、僅かに開けられていた質素なドアの向こうから声が聞こえた。

「え? 誰か居る?」 耳をそば立たせると鼻歌のようなものが聞こえてきた。 それも少女の声で。

「女の子?」

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虚空の辰刻(とき)  第19回

2019年02月15日 22時05分28秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第10回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第19回



「お早うございます」

紫揺の部屋にセノギを従えてムロイが入ってきた。 ソファーに座っていた紫揺の前に座る。

「昨晩はよくお眠りになられましたか?」 両手の指を組み肘を足にのせると相好を崩す。 

その慇懃な態度に嫌気がさす。

「このお屋敷には来ないと言いました。 それに一日の猶予が欲しいと言ってましたよね。 どういうことですか?」 今までのような虫の鳴く声ではない。

「ああ、やはりお元気になって下さった。 そのままで屋敷の者とも上手くやって下さい」

「私は家に帰ると言いました」

「ええ、確かに伺いましたが、残念ながらそれを叶えてさしあげることは出来ません」

「どうしてですか!」

「屋敷の者と上手くやっていただけましたら、今度こそシユラ様に来て頂きたい所にご案内いたします。 そこですべてをお話いたします」

「本来ならお婆様が行く筈だったって所ですよね」

「ええ、そうです」

「そこにも行きません」

「なんてことを仰るんですか。 シユラ様もお婆様がどんな所に来られるはずだったかお気になるでしょう?」

紫揺の祖母、紫が帰りたいと願っていた場所であり、母親の早季もそこに帰りたいと願っていた場所なのかもしれない。 このムロイが早季の日記に書かれていた 『迎えの者』 なのならば。 そう思うとYesともNoとも答えられず口を引き結ぶ。

「ご納得頂けましたでしょうか?」 紫揺が目を逸らすとムロイが続ける。

「夕べも今朝もお食事をおとりにならなかったそうですね。 お身体によくありません。 昼食はとっていただきますよ。 さっ、食堂で食べましょう、屋敷の者達ももう席についているはずですから、ご紹介いたします」

巧言令色を以って接する態度に鳥肌が立つ。

「セノギさんからお屋敷の案内があると聞いていたのですが」

「ええ、食事が終わりましたらご案内させていただきます」

悔しいがとにかく今はムロイの言うようにしよう。 そうすれば屋敷の中を自由に歩けるのだから。 紫揺が無言でソファーを立つとセノギがクローゼットからショールを出して紫揺の肩にのせた。


ムロイを先頭に大階段で1階に下りると玄関ドアと思しきドアが右手に見えるが反対側に歩く。 左手に2つのドアがあるがそれを越して先を歩く。 両横には夕べ3階から見たように沢山の調度品や額が飾られている。

(これって、どんな趣味なのかな・・・) ボオっとして歩いていると後ろから声が掛かった。

「寒くありませんか?」

後ろを歩いていたセノギが声をかけるが、恨めしそうな顔を向け、その顔を横に振るだけだ。
大きな両開きのドアの前まで来るとセノギが前に出てドアを開けた。 肩にかかったショールをギュッと掴むとムロイに続いてドアを潜った。

食堂と言われて高校の学食を想像していたが全く違った。 ここにも廊下で見たような重厚な彫像があり、簡単に花瓶と呼べない程の巧緻な作品も置かれている。 天井にはシャンデリアが掛かっていて、そのガラスの一粒一粒がダイアのように煌いている。 ドアの正面には大きなステンドグラスが幾つも見える。 そしてそこに1人の後姿がある。  10人は座れるであろう長いテーブルにはテーブルクロスが掛けられてあり、その真ん中には花瓶に淡い色の花束が生けられてある。 そしてそこに座る2人と窓際に立っていた1人がこちらを振り向いた。

「待たせたな」

「待ちすぎてエコノミー症候群になるかと思ったわ」 窓際を離れると言いながら歩いてきた。

ムロイが椅子を引くと 「シユラ様はこちらに」 と、紫揺に座るよう勧めた。 そして隣の椅子を引きムロイも着席した。 初めて見る3人の正面に座る形。

すぐにムロイが言葉を発した。

「シユラ様、この者がキノラです」 

窓際に立っていた黄色の瞳、30代前後であろうか。 緩いフリルのついた白のブラウスの上にグレーのショールを肩に掛け、スリットの入った黒い膝上丈のスカートをはいている。

「シユラ様? ムラサキではないの?」 椅子に座りながら言う。

「おい、ムラサキ様と呼べ。 それにこの方は今はまだシユラ様だ」

ずっと色素の薄い灰色の瞳を見てきただけに、突然に黄色の瞳を向けられて若干、紫揺の心が焦る。 それに今ムロイが言った 『今はまだ』 とはどういう意味なのだろうか。

「シユラ様、失礼をいたしました。 キノラの隣に座るのがセッカです」 と、紹介されたその瞳は赤い瞳だった。

「よろしく」 キノラと同年代であろう。 こちらは胸元に幾重にも大きなひだを利かせた暖かい色のドレスを着ている。

今までの生活で黒以外の瞳を見たことがない、あ、いやムロイと知り合ってからは色素の薄い灰色の瞳を見てはいるが、紫揺にとって黄色や赤の瞳などとは想像だに出来ない色の瞳であった。 ゴクリと喉を鳴らす。

「あら? 緊張しているのかしら? 可愛いのね」 赤い瞳のセッカが言うと、その隣に座るセイハが自ら自己紹介を始めた。

「私はセイハ。 仲良く出来ていけばいいわね」 青の瞳が囁やいた。 

キノラ達よりは随分と若く見える。 服装もラフで明るい色のチュニックに下はスキニー姿。

「トウオウとアマフウはどうした?」

「ああ、あの人たちは勝手にやってるわ」 その2人とは交えないというようにセイハが言う。

「またか・・・」 ムロイが顔を顰める。

「今更じゃない。 何を言ってるのよ」 呆れたように言う。

「ああ、いい」 セイハに向けて言うとすぐに紫揺に目を向けた。

「シユラ様、今日はこの3人の紹介で終りますがあと2人、トウオウとアマフウという者がおります。 この2人は少々ヘソが曲がって・・・あ、いや、この次には紹介できるかと思います」

(ヘソが曲がっている?) 紫揺の頭の中にそれが記憶された。

「とにかくシユラ様、昼食を召し上がって下さい」

「ああ、シユラ様? 食事を拒否しているらしいわね」 キノラが言う。

「・・・」

「ちょっとー、ムロイー、私にはこの子をシユラ様なんて呼べないわ。 シユラでいいでしょ?」 セイハが言う。

「何を言うんだ。 お前の身の丈を考えろ」

「だって無理よ、こんな子を 『様呼び』 するなんて」

「あの・・・いいです。 紫揺で」
さっきは仲良く出来ればいいわね、って言っていたのにこんな子とは何を以ってそう言われたのであろうか、疑問が残るが 『様呼び』 などされたくない。

「そうよね、少なくとも私よりは歳下なんだから」 紫揺に向けて言うとムロイを一瞥する。

料理が運ばれてくるとそれぞれがフォークとナイフを持つが、紫揺は素知らぬ顔をしている。

「シユラ様、召し上がって下さい」
後ろからセノギが言うが微動だにせず前に見える彫像だけを見ている。

「シユラ? 食べなさいよ」

「ああ、あんまり食欲のない時にそんなに言っちゃあ可哀そうよ。 シユラ様、もしかして月の障りなのかしら? そんな時は食欲が出ないわよね、わたくしも同じよ」 

恥ずかしげもないセッカの言葉に、紫揺が顔を赤らめ耳までも真っ赤になってしまった。

「男が居る前でそんな話をするものじゃないわよ。 ほら、シユラが赤くなっちゃったじゃない」

「セッカってそういう所の品がないのよ」

「キノラ、その言い方は何よ!」 バンとテーブルを叩く。

「おい、静かに食べられないのか」

「そうよお姉さま方。 ほら、シユラも驚いているじゃない」

確かに、先々刻までは微動だにせず一点を見つめていて、先程は耳まで赤くした紫揺が驚いて目を見開き、両手でショールを握りしめている。

「シユラ、こんなこと日常茶飯事よ。 こんなことで驚いていたら身が持たなくなるわよ。 ね、それに食べないとお姉さま方にまた下品なことを言われるかもしれないわよ。 そうじゃないのなら食べなさい」

「お姉さま方とはどういう意味? 品がないのはセッカだけよ、一緒にしないで」

言われセイハが肩をすくませペロッと舌を出した。

セッカが言い返そうと口を開きかけた時、ムロイが紫揺に顔を向けた。

「月の障りと言われましたら私には分かりませんが。 ・・・そうですね、こんなことは言いたくありませんが、食べて頂かないと屋敷の案内は出来ません」

紫揺がムロイを睨みつける。

「おや、そんなに怖いお顔はなさらないでください。 これでもシユラ様のお身体を案じているのですよ」

ムロイの台詞にセイハが鼻で笑う。

「屋敷の中をご案内させていただくまでは、部屋からお出にならないようにとセノギから聞いていらっしゃるでしょう? いつまで経ってもあの部屋に籠りきりというのは頂けないと思うのですが?」

と、セイハが突然立ち上がり紫揺の隣に歩いて行くと、テーブルの上のパンを一つ取り紫揺の皿の上に置いた。

「ほら、パンだけでも食べなさいよ。 あ、それとそのスープもね」 指をさしたのはカボチャのスープ。

「・・・」

無言の紫揺に背を向け歩きながら少し大きな声で言う。

「いつまで意地をはっててもどうにもならないでしょう? ムロイに仕返しがしたいのなら体力つけなさいよ」

「仕返しか、まぁそれもいいですよ。 とにかく食べて頂けましたらそれでよろしいので」

唇を噛みしめると振り返りセノギを呼んだ。

「・・・セノギさん」

「はい、如何いたしましたか?」

「このパンとスープを部屋に運んでもらってもいいですか」

セノギがムロイを見ると仕方ないといった様子で頷いた。

「はい、お部屋にお持ちいたします」

セノギの声を聞き終えた途端、紫揺が椅子から降りペコリと一礼してその場を後にした。 紫揺の足音を聞き、食堂を出たことを確信するとムロイが顔を顰める。

「我が儘な仔ギツネが」

「あらあら、そんなことを言っていいのかしら? シユラ様に告げ口しようかしら」 楽しそうな目を向けて赤い瞳のセッカが言う。

「勝手にしろ」 言うとその場を立って食堂を出て行った。

セノギが紫揺に運ぶパンとスープを盆にのせながら背中でムロイを見送る。

「セノギー、あれよね、シユラってカワイイ所があるのね」

「は? と、申しますと?」

「だって、私が言ったパンとスープをちゃんと食べるつもりなんでしょ?」

「ああ・・・そうですね」 珍しくセノギの頬が緩む。

「それじゃあ、それも持って行って」 言うとフルーツの皿を指さした。

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虚空の辰刻(とき)  第18回

2019年02月11日 23時18分40秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第10回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第18回



ベッドから飛び降りると先程の窓に目をやった。 

「あの窓はなんだろ?」 二つの腰高の格子窓に挟まれた大きな窓。

ドアを開けてもきっとさっきの男が居るのだろう。 だったら出口は窓しかない。 大きな窓に歩み寄る。

「あ、あれ? これって窓じゃなくてドア?」

取っ手が目に入ったが、格子の入った窓のようにガラスが張られている。 その格子の間のガラスから向こうを見るが、どれだけ見てもさっき腰高の窓から見た風景と同じ。 辺りはもう夜になっている。
そっとドアの取っ手を握ると下に下げるが、引っ掛かりがあって下がらない。

「うん?」 よく見るとカギがかけられてある。 開錠するともう一度取っ手を下に下げる。 ガチャリという音を立てて取っ手が下に下がった。 そっと押し開けるとそこはバルコニーになっていた。

「外に出られる?」 思わず振り返りベッドに駆け寄ると、ベッドの足元にあった室内履きを履き、そのままバルコニーに出た。 左を見ると、さっきの腰高の窓が見える。 その腰高の窓はバルコニーから外れているようだ。
すると今まで気が付かなかった潮騒の音が耳に入った。

「え? 波の音?」 耳を澄まして聞く。 と、僅かに海の匂いもする。

「なに? これって? 海?」
目を凝らすが、辺りはガーデンライトで枯れた芝生を照らしている以外は先が見えない。
冷たい潮風にブルッと身体が震える。

「・・・どこかの海の町?」

冬の海風、それも夜。 アッという間に身体の芯から冷えてくる。 一度漆黒の暗闇を見据えると部屋に戻り、すぐにベッドに潜り込んだ。

「さっぶー!」 いつものシルクの服だけでは、冬の夜の風は耐えられない。

布団を身体に纏わりつかせてポコンと頭を出すと肺に大きく空気を入れる。

「凍 (こご) える、凍える・・・」 歯をガチガチと鳴らす。

「このままじゃ逃げ出すなんて出来ない・・・とにかく何よりも先にこの服をどうにかしなきゃ」

ミノムシのように布団を纏わりつかせた状態で部屋の中をキョロキョロとすると、取っ手のついたドアが目に入った。

「あれは外に出るドアじゃない」

とにかく身体が温まるまで待って、先に部屋の中を確認しようと決め込んで、頭を引っ込めるとまた布団の中に潜り込んだ。
暫く待っているとドアをノックする音が聞こえた。

「失礼します」 と間をおいて聞こえてきたのは男の声。

「シユラ様、お食事をお下げしてもよろしいでしょうか?」 ベッド脇に来た気配を感じる。

さっき食事を運んできた男が食事を下げに来たのだと分かると、あれから2時間も経ったのかと、2時間もあったのに何も出来なかったのかと肩を落とした。

「下げてください」

布団の中からくぐもった声で答えると、少ししてガチャガチャという音が聞こえ 「それでは失礼いたします」 と、男の声がするとドアを閉める音が聞こえた。
潜り込んでいた布団から顔を出すと息を一杯に吸い込む。 そのまま辺りを見回してソロっと布団を剥いだ。

「もう誰もいないよね」
充分に温まった身体でゆっくりとベッドから降りると、先程目にしていたドアのところまで歩いて行き、取っ手を握ると横にスライドさせた。 自動で電気が点灯する。

するとそこには色んな服が掛けられていた。 明らかにウォークインクローゼットである。

「これって・・・私が着てもいい服?」

ザッと見たところでも、どれもフリフリのボンボリ付きのリボン付き。 
一つを手に取り自分にあてて鏡を見てみる。 どれも紫揺の趣味ではないがサイズは合うようだ。 かけてある服をより分けてジャージを探すが、残念ながらジャージは見あたらない。 大きな衿の縁にフリルが付いたワンピースであったり、可愛らしいフリルのついたブラウスやスカート、大きなポケットに大きなリボンの付いたコートが掛けられ、棚には見た目にもカワイらしい靴が置かれているだけである。

「動きにくい服ばっかり・・・それに、これって我が儘なロリコン男が可愛い彼女に着せたいと思うような服じゃないの?」
眉を顰めると趣味でない服から目を逸らし、クローゼットを閉めると部屋の中を探索し始めた。

まだ開けていないドアを開けてみると、ホテルの一室のように洗面所やバスルームとトイレがあっただけであったが、ここはムロイの屋敷と聞いている。 屋敷の一室なのにバスルームやトイレまであるということが信じられなかった。

「屋敷でしょ? 旅館でもホテルでもないんでしょ? ・・・ムロイさんが言ってた身代金は要らないっていうのは本当だったんだ」 呆気にとられたように呆然とする。

呆然としながらもふと気づいて頭を巡らせる。 何が何だか分からないけど、とにかく考えなくては。

「もしかして・・・うううん、もしかしてじゃなくてきっと今日はもう、何を言っても無理なんだろな。 真っ暗で何も見えないし、着替えられる服もない」 真夜中ということは分かる。 格子窓の窓際へ身を寄せる。

「ムロイさんから何かを聞いてから始めよう」 

ムロイから話を聞けばあとは自由にしていいとセノギが言っていたのだから。 それにセノギが危険なところもあると言っていた。 危険な所というのが魅力的だ。 何かのヒントになるかもしれない。 何かのヒント。 それはこの屋敷から脱出するということのヒント。

「危険はチャンスでもある。 きっと楽しい遊び場に違いない」 紫揺の口角が上がった。



「それで? 見つけられなかったのか?」 阿秀 (あしゅう) の留まっているホテルの一室。

「すみません」 醍十 (だいじゅう)、湖彩 (こさい) の二人が頭を垂れる。

「仕方のないことだ。 責めているわけではない。 ・・・それらしい所も分からなかったというわけだな?」

「・・・はい」

「そうか・・・どうしたものだろうか」 握りこぶしを口元に当てるとトントンと叩く。

「あの・・・」 と言うと、湖彩が醍十の見たことを説明しだした。

多分ここの土地の者は船に乗らなかったということを。
水平線に消えるまで追従する船がないことを確認し、その場から引き揚げてきた男達の顔を見た醍十は全員の瞳が黒だということを確認したのだ。 黒い瞳というのはここの土地の者、少なからずとも北の領土の人間ではない。 ここの土地の者を連れて行かなかったのであろう。

「それは・・・領土に行ったかもしれないということか?」 一番恐れていた可能性への裏付けを聞かされ、顔から血の気が引いていくのが分かる。

「いえ、そこまでは分かりませんが可能性があるかと」

「塔弥へは既に連絡を入れてある。 その上で独唱様が何も言ってこられないということは、今はまだ領土へは行っていないはずだ。 ・・・醍十」 

呼ばれ醍十が垂れていた頭を上げる。

「湖彩と共にその管理事務所に入って今日の資料を調べてくれ」

「え? 醍十とですか?」

「どういう意味だ?」 醍十が怪訝な顔を湖彩に向ける。

「お前じゃ無理だろう。 阿秀、梁湶と醍十を入れ替えてください。 梁湶は書類やデータを見極めるのに秀でていますから」

役所に入って紫揺のことをいろいろ調べたのはその梁湶である。

「いや、醍十だ」

1分1秒を惜しんで紫揺の乗った船を探すのが何よりも先決だということは分かっている。 だがこのまま醍十を此之葉の元に帰してしまうとこれからの醍十の為にならない。 ずっと頭を下げたままになってしまう。 それに管理事務所だ、冬でもある。 何隻も出港した船があるとは思えない。 さほど難しい探し物ではないであろう。

「分かりました」 阿秀が言わんとしていることが分かった。

「よし、行くぞ醍十。 目を皿にして書類を探せよ」 バンと醍十の背中を叩くと上着を手に取り部屋を出て行く。

「なんだぁ? おい、どうしたんだ?」 その後を慌てて追う。


二人が帰ってきたのは深夜になっていた。

「分かったか?」

部屋に入ってきた二人を迎えた阿秀が思わず座っていたソファーから腰を上げた。

「それが・・・コピー機がありましたのでちょっと拝借してきました」 醍十に目配せをすると、胸ポケットから出したコピー用紙を阿秀に渡した。

「・・・これは」

「はい、完全に伏せているようです」

コピー用紙には醍十が見た時刻に船が出ているのはたった1隻。 此之葉たちが乗ったクルーザーのみが記録されていた。 それも今日の出港はその1隻だけだと。

「・・・ここまで完全にしていたか。 俺が甘かったな」

「北の野郎の手なんて想像できませんよ。 マトモじゃないんですから」 言う湖彩の横で醍十が頭を垂れている。

「醍十、気にするな。 お前と同じ立場になれば皆お前と同じ行動をとった。 それが最善のことだったんだ。 それに、それ以前のことを考えると私が攫われた紫さまを追えなかったことが一番の元凶なのだから。 だから、気にするな」

「え?」 醍十が垂れていた頭を上げた。

「阿秀・・・そんなことを考えていたんですか?」

「それに何よりも、独唱様から行動を一刻も早く起こせと指示があったにも関わらず私が間を持ってしまった。 だからお前のせいではない。 元凶は私だ。 お前はお前の出来ることをこなしてくれ。 今の状況では前に進めないが、独唱様からの連絡もない。 紫さまが領土に行かれればすぐに独唱様が察知なさる。 この時間になっても紫さまは領土に行っておられないということだ。 まだ希望はある」

「お・・・俺、日本海を探し回ります」

「ああ、その意気は買った。 だが、お前には此之葉付に戻ってもらいたい」

「どうしてですか!」

「此之葉が言うのだから間違いなくお前が追ったのは紫さまだろう。 それにお前が見た警戒する男たちのこともな。 だが日本海と決まったわけではないだろう? 大陸に接岸したのかもしれない。 大きな範囲をむやみやたらに紫さまを探すことが良い結果を生むわけではない。 今は独唱様に頼るしかない。 それにお前が此之葉についてくれることが此之葉の心の支えとなる。 此之葉についてくれるな?」

「え? ・・・意味が分からないんですけど?」

「お前は・・・野夜 (のや) がこぼしてた愚痴が分かるわ」 湖彩が呆れたという仕草で醍十を見ると続けた。

「此之葉には一番にお前が必要なんだよ。 何も考えないお前がな」

「え? えっとぉ・・・あ・・・それってどういう意味だ!」

「ああ、いい。 お前に気が戻ってくれればそれでいい。 梁湶 (りょうせん) と交代してくれ。 梁湶も此之葉付に飽きただろうからな」
醍十のことを思って事の次第を敢えて軽く言うが、紫揺のことを考えるとそんなに簡単なものではない。 だが湖彩がこの話に乗ってきた。 阿秀の心の意を察して。

「梁湶に此之葉付は厳しいでしょうね」

「ああ、退屈この上ないだろう」

「何故だぁ? 此之葉といて退屈などしませんぞ?」

「だからお前が此之葉につくのが一番誰よりも合ってるんだよ。 梁湶と交代してやれ。 今頃梁湶は此之葉に疲れてミイラになっているかもしれんぞ」

「退屈なのにミイラなのかぁ?」

「ああ、それほど此之葉につくのは難しいんだよ」

「何故だぁ? 此之葉に昼飯の準備をさせるだけなのにか? ああ、今日と明日は別だがそれでも何も変わらんぞ?」 

醍十の言葉に湖彩が頭を抱えた。 ピントが違っている。 醍十以外の人間は、此之葉の気を削がぬために誰も彼もが身を削ぐ思いなのに。

「湖彩の言う通りだ。 お前が一番此之葉に合っている。 此之葉づきに戻れ。 紫さまのことは今は独唱様に頼るしかないのだからな。 梁湶を開放してやれ」

「はい・・・」 分かったような分からないような。 頭を何度も傾げている。

「今夜はこれまでだ。 それぞれの場所に戻って疲れをとってくれ。 明日以降のことはまた連絡する。 それまで待機しておくように皆に伝えてくれ」

二人が頷き部屋を出て行ったのを見送ると大きく歎息を吐き紅茶を淹れた。 明日からのことを考えねばならない。

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虚空の辰刻(とき)  第17回

2019年02月08日 22時42分19秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第10回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第17回



醍十 (だいじゅう) が此之葉のいたところに戻ると、すでに先ほどまで停泊していたクルーザーがいなくなっていた。

「此之葉のやつ無事に乗れたのかな・・・」 此之葉の乗ったであろうクルーザーが遠くに見える。

その此之葉が船から帰ってくるより先に湖彩 (こさい) と梁湶 (りょうせん) が船着場にやって来た。 醍十と合流するとすぐに醍十がガタイのいい男が居たことを話した。

「この男なんだが」 そう言うとスマホで撮った写真を湖彩に見せた。

「だから、前にも言っただろう。 身体の大きいことは分かっているが、特定できないって」

湖彩は野夜から依頼され、北の動きをホテルのロビーで探りを入れていた。 その時にガタイのいい男を見ているはずだったが、顔まで見ているわけではなかった。

「それになんだよコレ、まともに撮れてないじゃないか」 スマホに写っていた写真はかなり遠目で、拡大するとぼやけて顔を特定できるものではなかった。

「ああ・・・。 そうだが・・・。 でも目が黒だったんだ」 目というのは瞳のことだ。

「黒って、どういうことだ?」

「北は目が黒ではないだろう。 でも遠目ではあったが奴は黒だったんだ」

「ってことは、そいつは完全に北の者ではなくてこの土地の者ということか?」

「ああ、船に乗らなかったのは全員黒い目だった。 この土地の者はこの場に残ったのかもしれない」 醍十のその言葉が不安を誘う。

「この土地のものを置いて行ったってことは・・・領土に行ったという事か?」 醍十に問いながらも湖彩と梁湶が目を合わせる。

「分からない」

「いずれにしても船を出すしかない。 阿秀 (あしゅう) に手配を頼もう」

醍十の目が段々と生気をなくしていくのが見てとれる。 自分のせいだと思っているのであろう。

「まずはこの日本海を探せばいいだけだ」 

梁湶が肩を落とす醍十の背中をポンとたたいたが、領土に行ってしまっていては日本海も何もあったものではない。 それに大陸に渡っていたらどうするのか。 もう簡単に探すことなど出来ない。

「あの時、俺が紫さまを無理やりにでも―――」 言いかけた時、管理事務所から男が身を乗り出し 「醍十さんて人居ますか?」 と、声が掛かった。

「あ、俺です!」

「阿秀さんって人から船を出すように連絡があったんですけどナカナカ捕まらなくてね、小さいボートでもいいですか?」

「勿論です!」

「さすがは阿秀だな。 やることが早い」 梁湶が肩をすくめて言うと醍十を見て続けて言う。

「此之葉には俺が付く。 お前は湖彩とボートに乗れ。 紫さまの乗られた船はお前しか知らないのだからな」 


紫揺が目覚めた。

「え?」 周りに見える物がホテルに居た時と違っている。
訳が分からない。 起き上がるとベッドに寝ていたのだと気付いた。

「どうして・・・?」 服はいつものシルクのワンピース。 今日は淡い水色。
ベッドを降りグルリと回りこむと壁には2つある腰高の格子窓があり、その間には同じく格子のある大きな窓が目に映る。 その先が暗く見えるのは気のせいだろうか。 紫揺の記憶は朝食を摂ってから間なしからなくなってはいるが、そこでうたた寝をしたところでもう夜になっているはずがない。 それにこの場所ではなかった。

一つの腰高の格子窓に駆けるとそこから外を見た。 窓のすぐ前には枝振りのいい大きな木の枝が目に入り、その先には今は枯れてしまっているが、暖かくなれば青々とした芝生が見られるのであろうその広い庭を、ガーデンライトが薄っすらと照らしているのが見える。 ずっと先を見ようとするが、先を遮るように背の高い木々が律琳している。 空からはチラホラとボタン雪が降っている。

「え? 夜?」 

窓に額をつけるようにして空を見てみるが、空が暗く雲さえ見えない。 もう一度顔を下して地面を見てみるとその高さから見て3階にいるようだ。 かろうじて耐えられる高さであるからして間違いないだろう。

「どこ?」 唖然として口から出た。


「ムラサキ様が起きられたようだ」
老女の前に立っていたセノギが頷くと軽く会釈をして部屋を出た。


振り返り目に入ったドアのある方に歩いて行き、そっとドアレバーを押すとそれは簡単に下がってドアを開けることができた。 顔を出すといつもドアに張り付いていたマッチョが居ない。
身体をドアの外に出し、そっと後ろ手に閉めるとそこはまるでバルコニーのような大きな廊下であった。 吹き抜けになっている。 真正面には大きな窓が連なり、手すりを持って下を見ると、さながらホテルのロビーの様に広い空間が見えた。 床は大理石で一部にベルギー調の絨毯が敷かれてある。 あちらこちらにヨーロッパ調の柱に彫像や置物、豪奢な額に入った見たこともない絵が飾られている。
そして左横を見ると大階段がある。 誰も居ない。 そっとそちらに歩いて行って階段を降りる。 忍び足で歩く猫の様に。
3階から2階に階段を降り終えても誰の姿もない。 誰かに居られては困るが、それでも誰も居ないとなると現状がなにも把握できていない状態では少々身震いするものがある。

「幽霊屋敷・・・じゃないよね・・・」 怖さのあまり2階までの階段を降り終えても手すりが離せない。

と、その階段の上から声がかかった。

「シユラ様お目覚めですか?」

口から心臓が飛び出るほど驚き身体が固まる。

「シユラ様?」

聞き覚えのある声にそろっと振り返ると、そこには階段を下りてくるセノギの姿があった。

「あ・・・」

「具合は何ともございませんか?」
睡眠薬を飲まされた身体を案じて聞いたが、紫揺自身は薬を飲まされたことなど知らない。

「え?」

「あ・・・お腹がすかれていませんか?」

「あ・・・あの、ここはいったい・・・」

「そのお話も致しましょう。 その為に一度お部屋へお戻りください」

最初に会った時のように今降りてきた階段を上がっていくよう、隣に立ったセノギが片手で紫揺の行く先をいざなった。 
もと居た部屋の中に紫揺を入れると、置かれている電話の受話器を上げ、内線で紫揺の夕飯を用意するよう指示をする。 その後、受話器を置いたセノギが、お待たせしましたと振り返りソファーに座る紫揺の前に座った。

「ここは領主が言っておりました屋敷です」

「え? ・・・だって・・・」

「はい、シユラ様の仰りたいことは承知しております。 シユラ様は帰ると仰っておられました。 そして領主は一日の猶予を欲しいと言いました。 私も聞いておりましたから・・・。 ですが、シユラ様の仰られることを叶えてさしあげるわけにはいかないのです。 シユラ様が帰りたいと仰るお気持ちは分かります。 ですが、この屋敷で暫しお過ごしいただけないでしょ・・・お過ごし願います」 問う言い方を改め、言い切った。

「・・・それは・・・ムロイさんが言ってたその先がお婆様もそうしていかれる筈だったからですか?」

「・・・はい。 ですが、ムラサキ様はムラサキ様です。 シユラ様に是非とも」 

「セノギさんでしたっけ・・・?」 ニョゼから聞いていた。

「はい」

「セノギさんもそう思うの?」

「はい?」

「ムロイさんから言われて無理やりじゃなくて?」

「とんでもございません。 私もシユラ様に来て頂きたいと思っております」

「ニョゼさんは? ニョゼさんはどこに居るんですか?」

「ニョゼは・・・他の仕事に向かいました」

(見捨てられた? 飽きられた?) 顔を上げて話していた紫揺の顔が下を向く。

紫揺の様子を見ていたセノギが苦い顔を作る。

「・・・そうなんだ」 俯いたまま言うと唇を噛む。

「こちらでもシユラ様付が居ります」

「・・・要らない」 蚊の鳴くような声。

「はい?」

「要らない。 誰も要らない」 俯いたままでハッキリと言うと今度は顔を上げて言う。

「私は帰るから」

「シユラ様・・・」 セノギが一つ俯くと続けた。

「今日領主は出ておりますが、明日帰ってきましたらシユラ様にご挨拶があると思います」

「そんなもの要らない」

「シユラ様・・・」

と、ドアのノックが鳴った。 セノギが席を立ちドアを開けるとワゴンを押して見たこともない男が入ってきた。

(また・・・) 黒い瞳ではないと思った。 色素の薄いグレーの瞳。

「シユラ様、今はお食事をおとり下さい」 

セノギの横を過ぎて男がワゴンの料理をテーブルに並べる。

「いらない」

「シユラ様・・・お願いいたします」

セノギの言葉を無視してソファーから立ち上がるとベッドに潜り込んだ。 男がセノギを見る。 頷き男に近寄ると

「暫くはこのまま出しておいてくれ。 そうだな、2時間後にひいてくれ」 まで言うとベッドの横に歩いて行き、紫揺に向かって声をかける。

「シユラ様、どうぞお食事をおとり下さい。 2時間後にお食事をお下げに参ります。 それと、領主が屋敷の中をご案内いたしますので、それまでは部屋からお出になられませんように。 危険な場所もございますので。 失礼かとは思いますが今の男をドアの前に付けておきます。 領主からのご案内が終わればご自由になさってください。 では、失礼いたします」

セノギの言葉が終わると歩く音が聞こえて戸が閉められた。 ベッドからムクっと起き上がる。 プンといい香りが踊りながら鼻を刺激する。 グゥ~と腹が鳴る。 もう辺りは暗い黒の夜になっている。 朝食を食べてから昼食を抜いているのだ、腹もへるであろう。

「お腹が空いても何ともないっ!」 食べものなんかで釣られるものか、と自分に言い聞かす。

小学校の頃からそれまでは痩せ過ぎていたのに、中学2年の後半になると体重の増加がみられてきた。 月の障りが始まったのが原因だったようだ。 体重が増加したと言ってもそれでやっと人並み。 だが、高校で器械体操をするとなると人並では困る。 その体重管理からダイエットを始めていたが、ほんの気持ち程度の事だった。 1年2年の時はそれでよかったのだが、3年になるとたった100グラムでも増えると体が重く感じるようになってきた。 だから、本格的にダイエットを始めたことがあった。 少々食べなくても体調なんか崩さない自信があった。
だが別の所で思うことがある。

「ニョゼさん・・・ニョゼさんが教えてくれたからお腹空いちゃう・・・。 食べなくても平気だったのに、そんなこと考えずにやりたいことに歩いて行けたのに、お腹が空いちゃうなんてことなかったのに。 ニョゼさんがお腹の減ることを教えてくれた」

そう言えば、と、小さなころから食が細かった、と、母親の早季から聞かされていたことを思い出す。

『紫揺ちゃんはあんまり食べてくれなくて。 食が細くてね、心配だったのよ』 という言葉。

それに、自分自身でも思い当たるところがある。 確かに、昼の弁当は習慣として食べるだけで、食べたくて食べていたのではなかった。 それはシノ機械に就職してからもそうであった。 夕飯などは食べたいとも思わなかったが、工夫を凝らして作ってくれる早季の夕飯を有難くいただいていた。 
ただ、朝食だけは食べたかった。 だから、一日過ごすには朝食だけで良かった、朝食のトーストと玄米茶だけで。
ずっとそう思っていたのに、ニョゼと出会ってそうではないことを教わった。
並べられた料理の産地や収穫方法、どんな調味料を使っているかどんな料理法なのか、そんなことを教えてもらってクイズも出されたりした。 それは楽しい時間であり、食べることへ関心を向けることとなっていた。
それに従って胃が段々と膨らんでいく。
きっと空腹の時なのだろう、そんな時には匂いだけで腹が空くようになってしまっていた。

精神で食欲なんかは捨てられる。 でも、捨てられないことがある。 

―――家に帰るんだ。

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虚空の辰刻(とき)  第16回

2019年02月05日 22時03分11秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第10回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第16回



紫揺の部屋のチャイムが鳴った。

「なに? 何度も・・・」
ソファーに座ったままの紫揺がドアに向かって眉を眇める。

最初はムロイに対して何の嫌悪感も覚えていなかったが、先ほど不気味に上がった下瞼がどうにも気に入らない。
だが、入ってきたのは今まで見たこともない男であった。

「失礼します」 と、ソファーのテーブルの上に湯呑みを置いた。

「ニョゼとセノギは領主と話しておりますので、私がお茶を運ぶように言い付かりました。 ニョゼの様には上手く淹れられているかは分かりませんが、どうぞお飲み下さい」
一つお辞儀をすると男が部屋から出て行った。

呆気にとられた紫揺。

「なに?」 と消えた後姿に一言残す事しかできなかった。


男がムロイの部屋に入ってきた。

「あと30分も経てば十分かと」
ムロイの後ろに立つセノギとソファーに座るニョゼを見ることもなく男が小声でムロイに報告をする。

「そうか」 腕時計を見ると話を続けた。

「話はそれだけだ。 ニョゼ、すぐにシユラ様の移動の準備をしてくれ。 屋敷へ移る」

「今すぐにですか?」

「勿論だ。 30分以内に」

ムロイの言葉にセノギが頬を歪める。

「では、荷物をまとめてまいります」 ニョゼが部屋を出た。

「お前たちもすぐに出られるように準備をしておけ」

男がその言葉を聞くとすぐに部屋を出てホテル内に居る全員に連絡をした。

「うん? なんだ?」 ムロイの後ろに立つセノギに動く気配がない。

「シユラ様に何をされたのでしょうか」

「ああ、軽い睡眠薬を飲んでもらった。 さっきも聞いただろう、仔ギツネが家に帰ると言っていたのを。 そんな状態で穏便に屋敷へ連れて行くことは出来ないからな。 それに、挙措を失われて東に知られても困る」

「・・・軽い薬ですね」 東に知られてしまうと聞かされれば反駁することが出来ない。

「ああ、間違いない。 あの時のような無茶な注射は決してするなと言ってあるからな」
ここまで言うとピクリと眉を動かして言葉を続けた。

「ああそうか、お前はあの時の注射を俺の指示だと思っているようだが、俺はそんな指示を出した覚えはない。 ただ、シユラ様をすぐに連れて来いと言っただけだ。 まぁ、連れてきたのは仔ギツネだったがな」

「では、誰が注射などという事を?」

「それはお前の知る必要のないことだ」

「・・・ニョゼには何と言われるおつもりですか?」

「ニョゼはこれまでだ。 屋敷には連れて行かん」

「シユラ様が心を許しておられるのはニョゼだけです。 屋敷へ行けばまた塞がれるかもしれません」

「その時にはその時だ。 だが、さっきの様子からするとそんなこともないだろう。 まぁ、屋敷の連中に慣れるまでは一苦労あるかもしれんがな。 ・・・お前も荷物をまとめて来い。 お前が仔ギツネに付いて屋敷へ行ってくれねばならん。 俺はニョゼを連れて行かねばならないからな」

「先ほど話されていた仕事ですか」 ついさっきまでニョゼに新しい仕事の話を聞かせていた。

「ああ」

「シユラ様のことが終わればと仰っておられましたが、ニョゼはシユラ様が領土に帰るまでと思っているはずです。 屋敷の中でも付くつもりでいます」

「それはお前とニョゼの単なる思い込みだ」 足を組みかえる。

「それに、ニョゼには金をかけた。 しっかりと働いてもらわなければな」

「・・・承知しました」 軽くお辞儀をすると部屋を出た。

紫揺に 『力とは持つものではありませんね・・・』 と言ったが、それは今、ニョゼにも向けられた。
幼い頃より一際目立ってその才を発揮していた。 幼いにもかかわらず一つ言えば十わかる幼子だった。 それを見込んで先代領主が領土から出してこの地にニョゼを送った。 そして英才教育が始まった。 間違えなく、それに答えたニョゼの才。 それを今、現領主ムロイが利用している。

(私は・・・) 頭を巡らせるが、結果は何も出てこない。

領土を守らなければいけない。 それには紫揺が必要だ。 そこに尽きる。

(シユラ様とニョゼ・・・それに、これから関わりゆく者・・・。 どうして領土がシユラ様なくしては成り立たないのか・・・。 シユラ様は北のお人ではない・・・。 それなのにどうしてシユラ様に頼らなくてはならないのか。 北の歪んだ何かがあるのではないか・・・)

ニョゼがムロイに連れられてホテルを出た。 まさかその間に紫揺がこのホテルを出るとは知らず。

セノギが紫揺の部屋を訪ねるとソファーに横たわって寝ている紫揺が居た。 紫揺を抱かかえると用意された車椅子に乗せる。 車椅子を押すのは紫揺に睡眠薬を盛った男。
車椅子に座る紫揺に一つ目をやると 「行くぞ」 と、セノギが先陣を切った。


博多駅まで出ると新幹線に乗り、岡山県でスーパーいなばに乗り換え、鳥取県までやって来た。

「二人とも疲れただろう。 出てから4時間近く経ってる」 細い腕を目の前に上げて時計を見た。

「それ程でもありませんよ」 歳かさの事務員が言う。

その横で此之葉がニコリと笑って首肯する。 なにせこの社長、寂しい髪の毛とは違って、知識が豊富。 その上、冗談もきく。 車中退屈することなどなかった。

「そうか? ならいいけどな。 さぁーて、初日は船だ。 明日は島根に移動して出雲大社だからな」
乗り物に乗り疲れた様子もなく小さな身体で大きく伸びをする。

「社長・・・完全に慰安旅行じゃないですか」 呆れたように年かさの事務員が言う。

「何を言ってるんだよ、君が一緒に来てくれたからこういう事にしたんじゃないか。 此之葉さんとだけならせいぜい船で終わりだよ。 たまにはいいだろ。 旦那のことは忘れてパーッと潮風にイヤなものでも流して、今度は旦那との縁をしっかり結ぶお参りでもしようじゃないか」

「あら、どういう意味ですか?」 横目でチラリと見る。

「旦那より、此之葉さんの心配をするくらいだからな、ねぇ、此之葉さん」

何処か含み笑いを持たせた顔で言うと、此之葉がどう言っていいのか困り顔を返す。

歩きながら話していると 「シノ機械さーん」 と呼ぶ声がした。

大建工業の作業着を着た男性が手を振ってこちらに走ってきている。

「ああ、迎えが来てくれたようだ」


運転をする大建工業の社員によると 「今日の海は凪いでいて久しぶりに穏やかな冬の海を見られる」 と上機嫌の社長がすでに船着場で準備をして待っているという事であった。
車を下りると 「あとは分かりますから」 と慣れた口調で社長が言うと、運転手は 「それじゃあ」 と車に乗って帰って行った。

船着場に向う社長と年かさの事務員、二人の後ろを歩きながら会話を聞いていた此之葉の手に何かが当たった。 振り返るとそこには車椅子があった。

「あ、すみません」

車椅子を押す男を見て、次に車椅子に座る人を見ると、上半身にコートを羽織り下半身にはひざ掛けを足元にかけ、マスクをし深くニット帽を被って寝ている様子の少女が目に入った。

「ああ、大丈夫です」 男が答える。

「おい、何してるこっちだ」
車椅子を押す男を呼ぶ声に男が慌てて車椅子の方向を変えると、前輪に引っかかったひざ掛けがズルリと落ちた。

すぐに此之葉がひざ掛けを拾い上げ少女の足に掛けようとしたその時、少女の足に此之葉の指先が触れた。

(え?) 此之葉が大きく目を開いた。
(まさか・・・紫さま?) 

スイッチをオンにしているわけではなかったが、毎日紫揺の記憶を辿っているとオンにせずとも通じる所がある。 これが阿秀の言っていた此之葉を紫揺の家に行かせない理由であった。

「ああ、大丈夫ですから」
隣にいたもう一人の男が落ちてこないように手荒くひざ掛けを掛けると、二人で足早に車椅子を押していってしまった。

記憶を遡らせる。 あの時、シノ機械の二階の窓から見た紫揺。

(背格好は似た感じがする) 

すぐに陰に潜む醍十 (だいじゅう) に視線を送ったが、残念な醍十。 此之葉の視線の意味を読めない。 仕方なく醍十に見えるようにハンカチを広げて落とした。
それを見てやっと何かあると分かったのか、ズンズンと大股で歩いて来ると前に出でてきて 「落としましたよ」 とハンカチを指差して白々しくしゃがんだ。

「有難うございます」 言うと醍十と共にしゃがんでハンカチを拾うと小声で続ける。

「さっきの車椅子、紫さまと思われます」 言葉短く醍十に伝える。

「え? 間違えないのか?」 

案の定、聞き返す醍十。 それを見越してわざとハンカチを広げて落とした。

「間違っているかもしれません。 でも可能性は大きいと思われます。 後を追ってください」 小声で言いながらハンカチを畳む。

「お、おお・・・分かった」

「此之葉さんどうしたの?」
後ろを歩く此之葉の様子に気付いた年かさの事務員が振り返った。

「ハンカチを落としてしまったようです。 どうも有難うございました」 年かさの事務員から醍十に視線を移すと白々しく言った。

「あ? え? あ、はい」 即答できない嘘のつけない醍十。

頬を人差し指で掻きながら此之葉から身を外し、もう大分離れてしまった車椅子の後を追うと、此之葉たちが向かっている桟橋とは離れた桟橋の方に歩いて行っている。

「船?」 醍十の持つ疑問があるが、追いながら此之葉から聞かされた情報を阿秀へ送っている。

「くっそ、さっさと誰か来てくれないか!」 

ついさっき連絡を入れたところで誰が来るわけではない。 分かってはいるが言わずにはいられない。 一人で紫揺をこの場から攫って成功させるなんて事は出来ない。 失敗して逆にこちら側のことが知られてしまうだけだ。 それに、紫揺と決まったわけではない。
プライベートな船に乗り込む気なのか、はたまたここを通ってどこかに移動するつもりなのか、それにしてもこれ以上身を隠して追える場所がない。

「いったいどこに行く気なんだ」

と思った時、醍十の苛立ちなど無視して車椅子が船に乗り込んだ。 その周りにはスーツ姿の男たちがキョロキョロと辺りを見回す姿が目に映る。

「絶対に紫さまだ・・・」 大きな身を隠しながら醍十が一人ごちる。

「うん?」

覗き込んでいると船に乗らず見送る数人の中にやたらとガタイのいい男が目に入った。

「あいつ・・・」 悠蓮をやった奴に違いないとみてスマホを手に持った。

そしてその醍十が見守る中、とうとう船が出て行ってしまった。 すぐに管理事務所に足を向けて今出て行った船のことを尋ねようと思ったが、つと足を止めた。
船のことを聞きにきた者がいればその情報が北に行くかもしれない、と考えたのだ。 すぐに阿秀 (あしゅう) に問う連絡を入れると、阿秀の返事は醍十が考えたものと同じだった。

『こちらがここまで突き止めていることを知られたくない。 それに聞いても教える事のないようにしているだろう。 そこから何かで出られそうか?』
婉曲に言うが、焦燥感にかられる心中は穏やかではない。

「船はありますけど、どれにも人はいません」

冬の海。 今出た船と、此之葉が乗り込もうとするクルーザーに乗る人間以外どこにも誰も見当たらない。

『そうか・・・。 そこの場所を詳しく教えてくれ』 先程の連絡では大まかだった。

醍十が分かる限りを言うが、即時ということでは的を射ない説明である。 だが心得た阿秀には伝わったのだろう。

『分かった、此之葉付きへ戻ってくれ』

電話を切った阿秀が額を押さえた。 船で移ったその先に領土に移る土地があるのだろうか、そうであったのなら今日中に領土に入るのだろうか。 領土に入られては手も足も出ない。 いや、出ないのではない。 出せない。
だが今はそんなことを考えている時はない。 今すぐに手を打たねば。

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虚空の辰刻(とき)  第15回

2019年02月01日 23時18分21秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第10回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第15回



今まで居た部屋には手を加えることになったからと言われ、控えの部屋に移されたようだが、それでもこんな豪華な部屋に泊まったことなどない。
目覚めた時には天蓋こそないが、立派なベッドに横たえられていた。 我が身を見ると頭にも身体にもあちこちに包帯が巻かれていたり、ガーゼが貼られていた。 それが自分の起こした結果だという事には気付いていない。

「聞き間違えじゃない。 お母さんの声。 守っているから。 見ているから。 ね、紫揺ちゃんって」 頭を下げた。

『・・・その後のことと言うのは本来なら、ムラサキ様にもそうして頂ける筈でした』 ムロイの言った言葉は確かに気になる。 もしかしたら、母親の日記に書かれていた迎えが来るかもしれないというのが、このことかもしれない。 ムロイについて行き、祖父母と両親の骨をお郷に埋めることが出来るかもしれない。 でも、何かが違うような気がする。 それが何なのかは分からない。

「お母さん、思うままに生きていい? あれがお母さんの声だったのなら思うままに生きていい? お母さんが心配する無茶をしていい?」

どこからも返事がない。 だが、紫揺の心に早季の声が今も響いている。

「お母さん、私がお母さんの思う道から外れたらいつでも𠮟って。 これから私は私の思う道を歩くから。 ・・・お父さん、きっとお父さんの願う私で居られると思う。 私は自由に生きる。 だから見守って」
早季の日記から父親の十郎がどれだけ紫揺を自由にしたかったのかが頭に残っている。

「うん。 誰がどうよ、そんなこと知らない。 こんな訳も分からない事に巻き込まれた私の方がいい迷惑だわ」 言いながらもニョゼの顔が浮かぶ。

「きっとニョゼさんも私が居なければもっと違う方向にいけたはず」

自分の存在が他の者の歩みを変えたのかと思うと愚劣の思いにふける。 でも、と思う気持ちがある。 ニョゼは心底自分を思ってくれた、自分を心配してくれた。 それは暖かいものであった。 

そっとベッドから足を下ろした。 今日は淡い緑の服を着ていた。 ソロソロとドアの方まで歩いていく。 さすがに控えの部屋だけあって用心のためか、カメラもあるがドアスコープもあった。 ソッと覗き込むと丁度マッチョがセノギに呼ばれてどこかへ歩いていったところが見えた。 ドアに背中を預けると心の中で1から60までを数える。 ・・・57、58、59、60。
もう一度ドアスコープを覗き込み、誰も居ないのを確認するとソロっとドアを開け廊下を覗き込んだ。 するとやはりマッチョがどこにも見えない。

(今しかない!)
心の中で叫ぶと廊下に飛び出て左右を見る。 左に見える先はすぐに突き当たりになっている。 長く続く廊下の右も突き当りにはなっているが、その前に左に曲がる廊下があるように見える。 右を選んで走ったが、室内履きが邪魔で走りにくい。 一旦止まって室内履きを手にするとまた走り出した。 突き当りまで来ると案の定、左に曲がる廊下があった。
(あった!) と、右にも廊下があるのに気付き、その右を見てみると先が非常階段となっていた。 階段の方が正解だろう。 右に曲がり走るとドアレバーを下ろすが開かない。

「何で開かないのっ!」 ガチャガチャとなんどもレバーを下ろしても下りきらない。 遠くで 『チン』 という音が聞こえた。

「エレベーター・・・誰か来たんだ」 エレベーターがどこにあるかも分からない。

走って元の場所を覗き込む。 と、部屋を出て左の廊下は突き当たりだけかと思っていたのに、他の廊下とつながる所があったようでマッチョがそこから歩いて紫揺の居た部屋の前に立った。

「・・・もう部屋に戻れない」

とにかくこのフロアーがどうなっているのか分からない。 マッチョに見つからないよう一気に前に見える廊下まで走るともう一度振り返って壁からソロっとマッチョを見た。

「見つかってない」 言うと、壁から離れて廊下を走った。 と、また突き当たり。 左に曲がれる。 壁にくっ付いてソロっと先を見ようとしたとき

「おっと、危ないですよ」 声が頭の上から降ってきた。 顔を上げると脚立を持った見たこともない男だった。

「お譲ちゃんこんな所で何してるの?」 今の紫揺の服装はかなり幼く見える。

「え?」

「ここは専用フロアーだから勝手に入ってきちゃいけないんだよ」 腰袋でガチャガチャと工具のあたる音が鳴る。

「あ・・・あ、そうなんだ。 知らなくて。 その・・・迷子になったみたい」

「迷子って、どこから入ってきたの? エレベーターはここの人にしか使えないはずなのに」

そんなことはどうでもいいから一緒に連れて出てよ! と叫びたい気持ちを抑えて、なんとか話さなきゃと口を開いた。

「あっと・・・えっと・・・そう! 階段を上がってきた」 非常階段の方を指差した。

「え? あんな所から来たのかい? 無茶をする。 とにかくここは出なきゃならないからね。 おじさんについておいで」 今紫揺が走ってきた廊下を歩く。

「うん!」 とは言ったものの、辺りに気を張る。

「オジサン、此処で何をしてるの?」 疑われないよう、間を繋げるように質問をした。

「ああ、VIP ROOMがことごとく無茶苦茶になっていてね。 なんだろね、あの部屋で台風でも起きたんじゃないかと思う程だよ。 それを・・・。 って、VIP ROOMって分かる?」

「えっと・・・知らない」

自分のいた部屋がそんなことに? だから、今の部屋に替えられたのか、と納得したが、誰が部屋を荒したのだろう? だが、そんな質問をする前に右手に見える廊下の先にマッチョがいるところまで来た。 マッチョに見つからないよう男の陰に隠れる。

「ん? どうした?」

「あ、なんでもないです」

「ね、その怪我どうしたんだい?」

「え?」

「包帯だらけじゃないか」

「あ・・・ちょっと怪我しちゃって・・・」

「怪我をしたから包帯を巻いてるんだろう? それくらい見れば分かるさ」
非常階段手前の廊下の壁に鍵を持った手を伸ばした。 そこにはよく見るとドアがあった。

(見逃してたんだ・・・)

「え? 怪我?」 男が振向いて紫揺を見た。

「お譲ちゃん、まさかあのVIP ROOMのお客さんじゃないだろうね?」 

今自分が修理をしてきた部屋。 割れたシャンデリアやガラス物が端にまとめてあった。

「え? ・・・そんな―――」 まで言うとセノギの大声が響いた。

「シユラ様が居ない!!」

続いてセノギがにマッチョに言ったのだろう。

「Look for her!」 と叫んだのが聞こえた。

紫揺が男から鍵を取り上げると開錠しドアを開けた。

「こら! なにをするんだ!」 

脚立を持っているため、簡単に動けない。 このフロアーの壁に脚立の傷でも入れてしまっては何か月分の給料が飛んでいくかと思う。
鍵を持ったまま無理矢理ドアを閉めると中から鍵をかけた。
男の声が廊下に響き、マッチョが慌てて走ってくる。

「お譲ちゃん、怒らないから出てきてくれよ。 ね、お父さんもお母さんも部屋を滅茶苦茶にしたことを怒らないからさ、きっと」

紫揺が癇癪 (かんしゃく) でも起こして辺りにあるものを壊したと思っているようだ。 それで両親に怒られるのを嫌って逃げたんだと。
男の声が聞こえるが、それを無視して中をよくよく見ようとしたがまっ暗で何も見えない。 壁伝いに電気のスイッチがないか探るとしっかりと手に当たった。 スイッチを入れ辺りが明るく照らされると、前には大きなエレベーターがあった。 

「作業用のエレベーターなのかな」

とにかく中に入ってみると、ボタンが並んでいた。

「1階へ降りると捕まるかも・・・」 B2ボタンを押した。

ゆっくりと閉まるドアを見定めると、両手に持っていた室内履きを履こうとした時、肝が浮くような感覚に襲われた。 高速エレベーターであったのだ。 思わず壁に背を預けると座り込んで身を縮めた。
その時、エレベーター内に影があわられ、紫揺に気付かれないよう1Fのボタンを押した。
座ったまま室内履きを履いていると、チンという音がなり腰を上げる。

「お元気になられたようですね」
目の前のドアが開かれるとそこにはムロイの姿があった。
紫揺が固まった。


「シユラ様、お怪我がありますのに」 

チョコンとソファーに座る紫揺の目の前に玉露茶の入った湯呑を置く。

「ごめんなさい」

謝りたくなんてなかった。 謝る必要なんてないのだから。 自分の好きなようにしてどうして人に謝らなくてはならないのか。 でも、ニョゼは別だ。 心底自分を心配してくれている。 自由にしたことを責められているのではない、怪我の心配をしてくれているのだから。

あ・・・とニョゼが声を漏らすとすぐに救急箱を持ってきた。

「シユラ様、手の甲の包帯から血が滲んでおります」 ニョゼがその手を紫揺に差し出した。

「あ、ホントだ・・・」 

非常階段から出ようとドアのレバーを何度も動かしたときにでも出血してしまったのだろうか。

「薬と包帯をお取り替えしましょう」 

紫揺がニョゼに手を預けるとゆっくりと包帯を解く。 そのニョゼを見ながら紫揺が自分で分からないことを尋ねた。

「ね、私どうしてこんなに怪我をしてるんですか?」 ニョゼの手が止まった。

「ニョゼさん?」

「・・・シャンデリアが落ちてきたようで、その破片がシユラ様に当たってしまったようです。 わたくしとセノギが駆けつけたときには、シユラ様は倒れられておりました」
再びゆっくりと手を動かしたが、紫揺には記憶がないのかと初めて知った。

「そうなんだ。 いつ落ちてきたのかな・・・」

不思議がる紫揺に何も答えてやれなかった。 ただ黙って包帯をかえることしか出来ない。

「さ、シユラ様これでよろしいかと。 あまり手を動かさないようにして下さいませ。 では、お食事の用意をしてまいります」

コクリと頷く紫揺を見ると救急箱を手にして立ち上がりニョゼが部屋から出て行った。 ドアの向こうではバツの悪そうな顔をしたマッチョが立っていた。

この日を境にニョゼと話すことが多くなった。 とくに食事時にはニョゼから料理の方法や材料の原産地を教わったり、この料理にはどんな材料が使われているかとクイズを出されたりもした。 すると食べる楽しみというよりはその場を楽しめるようになり、徐々に人並みに食べるようになると、ニョゼにだけは表情にいろんな色が出るようになった。

片付けの終えたVIP ROOMに戻ると時折ドアを開けマッチョに 「NO」 と言われることもしばしばあった。

「マッチョ、みんな似た感じで分からないけど何人いるんだろ?」

今度名前でも聞いてみようか。 What’s your name? くらい言える。
朝食を終え、ニョゼが食器と共に部屋を出て行ってまもなく部屋のベルが鳴ると、少ししてセノギを従えたムロイが入って来た。

「お怪我は完全に治りましたか?」 ベッドに座る紫揺に柔らかな仕草でソファーへ腕を向けた。

今はこの男に従うしかないのか。 諦めてベッドから降りるとソファーへ歩き出す。 その紫揺の歩き方を見てムロイが片眉を上げた。 しっかりと地に足が着いている。
紫揺の後ろを歩いてムロイもソファーに座るとジッと紫揺を見る。

「なんですか・・・?」

「いえ、大変お元気になられたと思いまして」

「あの、やっぱり私ここにいる意味が分かりません。 家に帰ります」

3ヶ月前までの紫揺とは別人の様にはっきりとものを言う。 話の内容はさて置き、まさにそれを待っていた。

「ほぉー、ますます嬉しいですね。 それくらいお元気になってもらわねば屋敷へお迎えすることが出来ませんから」

「その屋敷にも行きません。 これから帰ります」

「はい、シユラ様の仰りたいことは分かりました。 では、明日まで猶予をいただきたい」

「猶予?」

「ええ」 

不気味に下瞼が上がったように見えた。

紫揺の部屋を出たムロイがニョゼを部屋に呼ぶようセノギに言った。 ニョゼとセノギが共にムロイの部屋を訪れる。
その間に男が一人、控えのニョゼの部屋に入ると紫揺の茶を用意し始めた。 茶を入れる前に湯呑みに一粒の錠剤を入れようとしたとき、錠剤がピンと弾けとんだ。

「え!?」 男が驚いて錠剤が転がっていく先を見る。 部屋の隅で二つの影が絡んで揺らぐとその影が消えた。

男が錠剤を拾い上げるとそれをポケットに入れ、新しい錠剤を出し今度こそ間違いなく湯呑みに入れた。

「ゼン、要らぬことをするな」

「何を! 何故吾の邪魔をする!」

「ショウワ様からお許しが出ておる」

「なっ!? まさか!?」

「カミがショウワ様にムロイのやりようを報告している」 言うケミが顔を歪めた。

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