『虚空の辰刻(とき)』 目次
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第20回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第22回
セノギが昼のパンを持ってきた時にこの部屋のものは自由に使っていいと言っていた。 勿論、クローゼットの中の服も靴も好きなものを選んで着るようにと。 そして欲しいものがあれば用意すると言っていたので、その時にジャージとスポーツシューズを頼んだ。
『ジャージ? でございますか?』
『はい。 色は何でもいいですけど出来れば紺か黒で、メーカーものでなくていいです。 家ではずっとジャージだったから』
『承知いたしました』
と、その時にセノギが紫揺付きの話をしようとすると、要りませんと、前回と同じ答えを返した。
そして上下セットのジャージとシューズが2日後に部屋に届けられた。 有難くもTシャツとトレーナー、厚手のフルジップの長袖パーカー付きの5セット。 そして季節がらなのか、ベンチコートが3着。 それも全てしっかりとメーカーもの。
「考えただけで目が飛び出そう・・・」 いくらかかったのだろうか。
並べたジャージの内、一着のズボンとTシャツ、厚手のフルジップパーカーの1セットを残してクローゼットに片付けると、ずっと着ていたシルクの一枚物を脱ぎすぐに着替えた。 Tシャツの上に着たフルジップのパーカーの着心地がいい。
「出来るか出来ないかは分からないけど、とにかく体だけは作っておかないと。 絶対にここから出るんだから」 言うとすぐにストレッチを始める。
もともと生まれつき身体が柔らかい方ではない。 長い間何もしてこなかっただけに筋や関節、筋肉が硬くなっている。
座って足を揃えて伸ばすと、ゆっくりと腹から胸を伸ばした足につけるよう、前屈の姿勢をとる。 胸をつかせると伸ばした手で足先を持ち手前に引くと足の裏側の筋が伸ばされる。 今度は反対に足先を向こうに倒すように押さえる。
足先を離し身体を起こすと伸ばした足を大きく開き、さっきと同じように腹から胸に床につけていくが、少々キツイ。
「うわぁー、どれだけ硬くなっちゃってたんだろ」
その身体をゆっくりとゆっくりと伸ばすが、胸をつけることが出来ない。
今度は座った姿勢から上半身を後ろに倒して仰向けに転ぶと、揃えて伸ばした足を顔の近くまで持ってくる。 その足首を手で顔に引き寄せる。 尻が浮かぬようにしてグイグイと何度も足を額に付けると、今度はその片方の足を離して前後開脚の体勢をとるがこれがイマイチ。
「タァー、股関節硬った!」
体勢を180度変えて足を床につけ開脚をするが、横も前後もつかなくなっていた。
「何この硬さ・・・絶対怪我する」 段々と身体があったまってきて厚手のフルジップパーカーを脱ぎ捨てる。
今度はうつ伏せに寝て身体の横に手をつくと軽く腰を反らせてみる。 強くは反らさない。 でないと腰が潰れる。 絶対的な腰痛持ち、前方に曲げることには痛みは走らないが、後方に腰を反らせると今は眠ってくれている痛みが目を覚ますかもしれない。 その眠りを妨げたくはない。 その腰もかなり硬くなっている。 腰や股関節の柔軟性を元に戻すには早くとも3日はかかるだろう。 腰にも股関節にも歪みがあるのは分かっている。 無理に戻すことはしたくない。
あと気になるのは肘膝関節と肩。
膝は関節炎を持っていたし、肩は脱臼をした経験がある。 肘も何度も脱臼をしかけているし、手首から肘にかけては癖のように腱鞘炎にもなっている。 だが、膝の痛みは学校を卒業してからはなかったし、水も溜まっていない。 脱臼をした肩においては顧問に早々にギプスを外され、地獄のリハビリをさせられていた。 肘は注意していれば簡単に関節が緩むことはないし、腱鞘炎の痛みも今は全くない。
壁に手をつけ肩を入れる。 下手な痛みはない。 だがやはり現役の頃のような柔軟さには欠ける。
フゥー、と息をつき手の指を組むとその掌を上に向けてギュッと後ろに逸らす。 そのまま左右の身体の側面も逸らす。 今度はお尻の辺りで指を組み前方に腰を曲げるとその腕を上げる。
「さて」 言うと部屋の中央に向かって立つと足首と手首を回し、回し終えた足先の甲をギュッと床に押しつけて足の指の骨をポキポキと鳴らす。
下げていた手をゆっくりと床につき、右足を上げると遅れて左足も上げ倒立をとった。 肘にも手首にも痛みはない。 腱鞘炎の痛みもこないようだ。 そのまま手で数歩あるいてみるが、自分の体重は充分に支えられる。 ゆっくりと右足を背中側におろしていきながら、手で半回転する。 左足をほとんどそのまま残して右足を床につける。
「うわー、頭に血が上りそう」 現役の時には何ともないことなのにすぐに座り込んだ。
「ブリッジは明日にまわそ」
倒立からのブリッジ。 それは胸も肩も柔らかくしておかなくてはいけないが、何故か胸の骨だけは何をしなくとも昔から柔らかかった。 腰痛持ちにとってブリッジはイタイところであったが、そこは、その程度は避けられない。
こうして身体を動かすと、踊りたくなってくる。 床の規定演技や自分の好きだったフリーのダンス部分を踊り始める。
「やっぱり身体を動かすのがいい」
タンブリングを抜いた床の演技が終わると、今度はまるで平均台の上に立っているように、平均台の演技を始める。 これもまたジャンプやダンス部分だけであるが。
「あ? あれ?」
敢えてこうして踊ってみると自分のフリーの演技にどれだけダンス部分がなかったのかに気付いた。 仕方なく側転で入るとそのまま止まって倒立を取り、ゆっくりと膝を伸ばした両足を揃え腰を曲げて胸の方に下ろしてくると、そのまま平均台に見立てた床をこすらず腕の中に通し、尻を上げたまま一旦V字バランスをとるとドタンと尻と足を下した。
「ファー、限界」 大腿直筋に筋肉痛のような鈍痛があり、プルプルと痙攣しているようだ。 だがそれは心配するものではない。 単に筋肉が弱音を吐いているだけである。
「腹筋もかなり無くなってるー」 太ももと腹をさする。
「でも、肩の力は結構いけるかも」
たしかに。 触ると肩の筋肉はまだ落ちていない。 先輩たちが言うには一番長くかかった先輩で、10年は肩の筋肉が落ちなかったと聞いていた。 だが、引退して腹筋に次いで太腿の筋肉はすぐに落ちてしまっていたから、柔軟性だけではなく、筋肉の作り直しもしなくてはいけないようだ。
「はぁ、思うように出来るまでは先が長いのかな・・・」 ゴロンと寝転ぶ。 と、窓の外が目に入った。
「あの木の枝・・・」
起き上がりバルコニーにかかっていない腰高の窓によるとその窓を開け、手を伸ばして枝を掴んでみる。
寒っ・・・と一言いうと
「けっこうしっかりしてる。 うん、いけるかも」
いったん窓から離れて厚手のフルジップパーカーを着て、クローゼットの中にしまっておいたジャージの上着と靴を履くと、窓際に戻ってきて一度下を見る。
ここは3階だ。 下手なことをして落ちたくない。 慎重に腰高窓に上ると膝を折ってしゃがむ。
「わっ、いつもより下が遠い・・・」 わずかな違いであるが、この高さが限界だ。
まだ明るい昼間。 今日は雪も風もなく比較的いつもより暖かい。
目に目標地点を決める。 と、窓を蹴り上げた。 目標地点には目からの情報で勝手に手足が動く。 枝の根元、幹の一番近くに足を落とした瞬間、履き慣れていない靴がズルッと後ろに滑ってしまった。
「わっ!!」 咄嗟に枝を掴むと、もう段違平行棒で出来ていたタコもなくなり柔くなってしまっている掌に痛みが走る。
枝からぶら下がっている状態になった。
「イタ・・・」 言いながらもこのままではどうにもならないと、足で少し反動をつけ蹴上がりをすると枝に足の付け根を置いた。
「イッター」 足の付け根を枝にのせたまま両掌を見ると、皮がめくれていた。
「最悪・・・」 そのまま布団干しのように、枝に腹を預けて上半身を下におろすと、手袋が必要だな、と考えた。 同時に案外まだ綺麗な蹴上がりが出来た、とさっきの大腿直筋の痙攣もなく少々自己満足に浸っている。
「背筋もそんなに衰えていなかったな」 枝に身体を預けて掌を見た時には背筋を使っている。 これは思ったよりも早く身体が作れそうだ。
部屋に戻るには安定した窓に跳んで潜ればいいだけだから簡単であった。
決して紫揺一人の時には部屋に入らない影。 まさか窓から外に出るなどということは想像だにしていなく、ドアの外側についていて紫揺のこの一連の行動を知る由もなかった。
部屋に戻り掌を見る。 あの時、シャンデリアで怪我をした後に、ホテルを抜け出そうとして失敗した時、掌に巻く包帯から血が出ているのに気づき、ニョゼが包帯を巻きなおしてくれたことを思い出すとジワリと寂寥感に襲われる。 ポテンとその場に座ると膝を立て、背を丸くしてその膝を抱えた。
部屋に籠りっきりで毎日何度も繰り返すストレッチ。 3日後には腰も曲がり簡単に開脚もつくようになった。 その上、ブリッジどころか、ゆっくりとした転回や、ハンドスプリングも出来る。 それは美しくもあり、力強くもある。 あの時 『指先や足先もどうでもいい』 と進学担当教師に言ったが、身についたものは仕方がない。
「今度は後方に重点を置こうか」 いわゆるバク転や後方宙返りの事である。
「って、脱走にそんなもの必要か?」 退屈なのだろうか、一人突っ込みを入れた。
雪の降る3日間、部屋に閉じこもったままでストレッチばかりしていたが、今日は雪の降る気配が見えない。 それどころか陽が射す青空だ。 外の散歩にでも出ようかと靴を履く。
大階段を降りると玄関を出て、一度ライオンでも見ようかと西にある小門に歩を向ける。
西の芝生を歩いていると、あの時の少女がリードを持って犬の散歩をさせているのが目に入った。 犬は土佐犬であった。 きっとムロイの言っていた怠慢な土佐犬というのが、あの犬の事なのだろうとすぐに分かった。
犬の散歩と言っても土佐犬は何処を歩くわけでもなく、ゆったりとその辺の匂いを嗅いでいる。
「あんな小さな子にも散歩が出来るなんて、きっと大人しい犬なんだ・・・」
遠目に様子を見ていると、小門から少し離れた向こうに何やら動くものが見えた。 それが段々と小門に近寄ってくる。 目を凝らす。 獅子だ。 獅子が少女を気にして寄ってきたのだ。 少女の方は慣れているのか、獅子を怖がる様子もない。 門がしっかりと閉められていることを知っているからであろうが、紫揺ならすくみ上りそうになる。 と、その時、土佐犬がゆっくりと動き出した。 その様子をじっと見ていると、思いもよらない事が目に入った。
「へぇー・・・そんなことがあるんだ」 驚いた目を輝かせるとクイと口の端を上げた。
「まずはあの女の子とお友達にならないと・・・」 少女に向けて一歩を出した。
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『ジャージ? でございますか?』
『はい。 色は何でもいいですけど出来れば紺か黒で、メーカーものでなくていいです。 家ではずっとジャージだったから』
『承知いたしました』
と、その時にセノギが紫揺付きの話をしようとすると、要りませんと、前回と同じ答えを返した。
そして上下セットのジャージとシューズが2日後に部屋に届けられた。 有難くもTシャツとトレーナー、厚手のフルジップの長袖パーカー付きの5セット。 そして季節がらなのか、ベンチコートが3着。 それも全てしっかりとメーカーもの。
「考えただけで目が飛び出そう・・・」 いくらかかったのだろうか。
並べたジャージの内、一着のズボンとTシャツ、厚手のフルジップパーカーの1セットを残してクローゼットに片付けると、ずっと着ていたシルクの一枚物を脱ぎすぐに着替えた。 Tシャツの上に着たフルジップのパーカーの着心地がいい。
「出来るか出来ないかは分からないけど、とにかく体だけは作っておかないと。 絶対にここから出るんだから」 言うとすぐにストレッチを始める。
もともと生まれつき身体が柔らかい方ではない。 長い間何もしてこなかっただけに筋や関節、筋肉が硬くなっている。
座って足を揃えて伸ばすと、ゆっくりと腹から胸を伸ばした足につけるよう、前屈の姿勢をとる。 胸をつかせると伸ばした手で足先を持ち手前に引くと足の裏側の筋が伸ばされる。 今度は反対に足先を向こうに倒すように押さえる。
足先を離し身体を起こすと伸ばした足を大きく開き、さっきと同じように腹から胸に床につけていくが、少々キツイ。
「うわぁー、どれだけ硬くなっちゃってたんだろ」
その身体をゆっくりとゆっくりと伸ばすが、胸をつけることが出来ない。
今度は座った姿勢から上半身を後ろに倒して仰向けに転ぶと、揃えて伸ばした足を顔の近くまで持ってくる。 その足首を手で顔に引き寄せる。 尻が浮かぬようにしてグイグイと何度も足を額に付けると、今度はその片方の足を離して前後開脚の体勢をとるがこれがイマイチ。
「タァー、股関節硬った!」
体勢を180度変えて足を床につけ開脚をするが、横も前後もつかなくなっていた。
「何この硬さ・・・絶対怪我する」 段々と身体があったまってきて厚手のフルジップパーカーを脱ぎ捨てる。
今度はうつ伏せに寝て身体の横に手をつくと軽く腰を反らせてみる。 強くは反らさない。 でないと腰が潰れる。 絶対的な腰痛持ち、前方に曲げることには痛みは走らないが、後方に腰を反らせると今は眠ってくれている痛みが目を覚ますかもしれない。 その眠りを妨げたくはない。 その腰もかなり硬くなっている。 腰や股関節の柔軟性を元に戻すには早くとも3日はかかるだろう。 腰にも股関節にも歪みがあるのは分かっている。 無理に戻すことはしたくない。
あと気になるのは肘膝関節と肩。
膝は関節炎を持っていたし、肩は脱臼をした経験がある。 肘も何度も脱臼をしかけているし、手首から肘にかけては癖のように腱鞘炎にもなっている。 だが、膝の痛みは学校を卒業してからはなかったし、水も溜まっていない。 脱臼をした肩においては顧問に早々にギプスを外され、地獄のリハビリをさせられていた。 肘は注意していれば簡単に関節が緩むことはないし、腱鞘炎の痛みも今は全くない。
壁に手をつけ肩を入れる。 下手な痛みはない。 だがやはり現役の頃のような柔軟さには欠ける。
フゥー、と息をつき手の指を組むとその掌を上に向けてギュッと後ろに逸らす。 そのまま左右の身体の側面も逸らす。 今度はお尻の辺りで指を組み前方に腰を曲げるとその腕を上げる。
「さて」 言うと部屋の中央に向かって立つと足首と手首を回し、回し終えた足先の甲をギュッと床に押しつけて足の指の骨をポキポキと鳴らす。
下げていた手をゆっくりと床につき、右足を上げると遅れて左足も上げ倒立をとった。 肘にも手首にも痛みはない。 腱鞘炎の痛みもこないようだ。 そのまま手で数歩あるいてみるが、自分の体重は充分に支えられる。 ゆっくりと右足を背中側におろしていきながら、手で半回転する。 左足をほとんどそのまま残して右足を床につける。
「うわー、頭に血が上りそう」 現役の時には何ともないことなのにすぐに座り込んだ。
「ブリッジは明日にまわそ」
倒立からのブリッジ。 それは胸も肩も柔らかくしておかなくてはいけないが、何故か胸の骨だけは何をしなくとも昔から柔らかかった。 腰痛持ちにとってブリッジはイタイところであったが、そこは、その程度は避けられない。
こうして身体を動かすと、踊りたくなってくる。 床の規定演技や自分の好きだったフリーのダンス部分を踊り始める。
「やっぱり身体を動かすのがいい」
タンブリングを抜いた床の演技が終わると、今度はまるで平均台の上に立っているように、平均台の演技を始める。 これもまたジャンプやダンス部分だけであるが。
「あ? あれ?」
敢えてこうして踊ってみると自分のフリーの演技にどれだけダンス部分がなかったのかに気付いた。 仕方なく側転で入るとそのまま止まって倒立を取り、ゆっくりと膝を伸ばした両足を揃え腰を曲げて胸の方に下ろしてくると、そのまま平均台に見立てた床をこすらず腕の中に通し、尻を上げたまま一旦V字バランスをとるとドタンと尻と足を下した。
「ファー、限界」 大腿直筋に筋肉痛のような鈍痛があり、プルプルと痙攣しているようだ。 だがそれは心配するものではない。 単に筋肉が弱音を吐いているだけである。
「腹筋もかなり無くなってるー」 太ももと腹をさする。
「でも、肩の力は結構いけるかも」
たしかに。 触ると肩の筋肉はまだ落ちていない。 先輩たちが言うには一番長くかかった先輩で、10年は肩の筋肉が落ちなかったと聞いていた。 だが、引退して腹筋に次いで太腿の筋肉はすぐに落ちてしまっていたから、柔軟性だけではなく、筋肉の作り直しもしなくてはいけないようだ。
「はぁ、思うように出来るまでは先が長いのかな・・・」 ゴロンと寝転ぶ。 と、窓の外が目に入った。
「あの木の枝・・・」
起き上がりバルコニーにかかっていない腰高の窓によるとその窓を開け、手を伸ばして枝を掴んでみる。
寒っ・・・と一言いうと
「けっこうしっかりしてる。 うん、いけるかも」
いったん窓から離れて厚手のフルジップパーカーを着て、クローゼットの中にしまっておいたジャージの上着と靴を履くと、窓際に戻ってきて一度下を見る。
ここは3階だ。 下手なことをして落ちたくない。 慎重に腰高窓に上ると膝を折ってしゃがむ。
「わっ、いつもより下が遠い・・・」 わずかな違いであるが、この高さが限界だ。
まだ明るい昼間。 今日は雪も風もなく比較的いつもより暖かい。
目に目標地点を決める。 と、窓を蹴り上げた。 目標地点には目からの情報で勝手に手足が動く。 枝の根元、幹の一番近くに足を落とした瞬間、履き慣れていない靴がズルッと後ろに滑ってしまった。
「わっ!!」 咄嗟に枝を掴むと、もう段違平行棒で出来ていたタコもなくなり柔くなってしまっている掌に痛みが走る。
枝からぶら下がっている状態になった。
「イタ・・・」 言いながらもこのままではどうにもならないと、足で少し反動をつけ蹴上がりをすると枝に足の付け根を置いた。
「イッター」 足の付け根を枝にのせたまま両掌を見ると、皮がめくれていた。
「最悪・・・」 そのまま布団干しのように、枝に腹を預けて上半身を下におろすと、手袋が必要だな、と考えた。 同時に案外まだ綺麗な蹴上がりが出来た、とさっきの大腿直筋の痙攣もなく少々自己満足に浸っている。
「背筋もそんなに衰えていなかったな」 枝に身体を預けて掌を見た時には背筋を使っている。 これは思ったよりも早く身体が作れそうだ。
部屋に戻るには安定した窓に跳んで潜ればいいだけだから簡単であった。
決して紫揺一人の時には部屋に入らない影。 まさか窓から外に出るなどということは想像だにしていなく、ドアの外側についていて紫揺のこの一連の行動を知る由もなかった。
部屋に戻り掌を見る。 あの時、シャンデリアで怪我をした後に、ホテルを抜け出そうとして失敗した時、掌に巻く包帯から血が出ているのに気づき、ニョゼが包帯を巻きなおしてくれたことを思い出すとジワリと寂寥感に襲われる。 ポテンとその場に座ると膝を立て、背を丸くしてその膝を抱えた。
部屋に籠りっきりで毎日何度も繰り返すストレッチ。 3日後には腰も曲がり簡単に開脚もつくようになった。 その上、ブリッジどころか、ゆっくりとした転回や、ハンドスプリングも出来る。 それは美しくもあり、力強くもある。 あの時 『指先や足先もどうでもいい』 と進学担当教師に言ったが、身についたものは仕方がない。
「今度は後方に重点を置こうか」 いわゆるバク転や後方宙返りの事である。
「って、脱走にそんなもの必要か?」 退屈なのだろうか、一人突っ込みを入れた。
雪の降る3日間、部屋に閉じこもったままでストレッチばかりしていたが、今日は雪の降る気配が見えない。 それどころか陽が射す青空だ。 外の散歩にでも出ようかと靴を履く。
大階段を降りると玄関を出て、一度ライオンでも見ようかと西にある小門に歩を向ける。
西の芝生を歩いていると、あの時の少女がリードを持って犬の散歩をさせているのが目に入った。 犬は土佐犬であった。 きっとムロイの言っていた怠慢な土佐犬というのが、あの犬の事なのだろうとすぐに分かった。
犬の散歩と言っても土佐犬は何処を歩くわけでもなく、ゆったりとその辺の匂いを嗅いでいる。
「あんな小さな子にも散歩が出来るなんて、きっと大人しい犬なんだ・・・」
遠目に様子を見ていると、小門から少し離れた向こうに何やら動くものが見えた。 それが段々と小門に近寄ってくる。 目を凝らす。 獅子だ。 獅子が少女を気にして寄ってきたのだ。 少女の方は慣れているのか、獅子を怖がる様子もない。 門がしっかりと閉められていることを知っているからであろうが、紫揺ならすくみ上りそうになる。 と、その時、土佐犬がゆっくりと動き出した。 その様子をじっと見ていると、思いもよらない事が目に入った。
「へぇー・・・そんなことがあるんだ」 驚いた目を輝かせるとクイと口の端を上げた。
「まずはあの女の子とお友達にならないと・・・」 少女に向けて一歩を出した。