大福 りす の 隠れ家

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国津道  第39回

2021年05月31日 22時38分11秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第39回



朝食の用意をしていると祐樹が起きて来た。

「お早う」

「オハヨ。 お休みなのに早いんだね」

祐樹の言うとおりである。 祐樹が来ていても休みの日には少々寝坊をしていた。 社に行く以外は。
チラリと祐樹を見た詩甫が手を動かしながら言う。

「山に行こう」

「え?」

「上らない約束できる?」

「え?」

「ご挨拶に行く?」

祐樹の顔が満面の笑みに変わっていく。

「うん!」

「顔洗っておいで」

「うん!」


電車を乗り継ぎ、タクシー乗り場に向かった。 供え物も花も持っていない。
タクシーを待っていると一台のタクシーが入ってきた。 自動的にドアが開かれる。

「お久しぶりで」

タクシーの運転手からそんな声が聞こえた。

「あ、運転手さん」

浅香と詩甫に大蛇のことを教え、順番にタクシー代を支払えばと提案してくれた運転手であった。

「今日は兄さんと時間差行動?」

別行動ではなく、時間差行動とはどういう意味だろうか。

「え?」

「走ってた時にチラッと見えたんだけど、兄さん歩いてたからさ」

「え? どこを歩いていました?」

「多分・・・ホームセンターに行ったんじゃないかな、凜魁(りんかい) 高校のグラウンドを過ぎかかってたし」

詩甫と祐樹が目を合わせる。

「どれくらい前ですか?」

「うーん・・・お嬢さんたちの一台前だろな」

詩甫たちが此処に来る一台前、詩甫たちはいつも乗る電車に乗ってやって来ていた。 その前となると乗り継ぎに無駄な時間を要する。 それを選んででも浅香は乗ってきたのか。 きっとホームセンターの開店時間に合わせたのだろう。

「一旦、ホームセンターまでお願いします」

詩甫がすぐにスマホを手に取る。
何度目かのコールで浅香が出た。

『はい、浅香です』

「野崎です。 今どこですか?」

『え?』

詩甫に伝えることなくここに一人でやって来ていたのに、その訊き方はどういうことだろう。 まるで浅香がこの地に居るのを知っているかのようだ。

「今、タクシーの運転手さんから、浅香さんがホームセンターの方に歩いていたらしいって聞いたんですけど」

『え? こっちに来られてるんですか?』

浅香は “こっち” と言った。 間違いなくこの地に居るのだろう。

「はい、祐樹と一緒に。 今どこですか?」

『ホームセンターです』

「お社に行くんですか?」

運転手が耳を傾ける。

『・・・はい、そのつもりです。 それに行かなければ曹司と接触できないんで』

とは言っても先週来た時には接触できなかったが。

そういう理由でここに来たのか。

「今そちらに向かっています。 お買い物は終わりました?」

何を目的に何を買ったのだろうか。

『いや、まだです。 思うようなモノが無くて』

それならばタクシーにいったん帰ってもらおう。

「すぐに着きます。 合流させてください」

合流・・・浅香が声なく笑う。

『入り口で待ってます』

声なく笑った浅香の顔が通話を切った途端厳しいものになった。

スマホを耳から外すとすぐに祐樹が訊いてきた。

「浅香が来てるの?」

うん、と応えると運転手に言う。

「すみません近場で。 ホームセンターまででも宜しいですか?」

「そんなことは気にしなくていいよ。 社に行くの?」

「はい」

祐樹が一瞬目を輝かせたが、詩甫を社に連れて行きたくはない。 社どころか山の中にさえ。

「姉ちゃん・・・」

「取り敢えず、浅香さんと合流しよう」

運転手が首を傾げる。 兄さんとこのお嬢さんは彼氏と彼女ではないのか? どうして同じ目的の場所に来ているのにお互いの行動を知っていないのだろうか。

(やっぱり単なる社サークルってのの、先輩と後輩なのかなぁ?)

タクシーが駐車場の中に入りホームセンターの入り口前に止まる。
すぐ目の前に浅香が立っている。

有難うございます、と言って料金を払っている間に祐樹が浅香に走り寄っていく。

「なに? 浅香、まだ何も買ってないの?」

浅香はいつも通りに手ぶらだった。

「うん、思うモノが見つからなくてね」

「ふーん、何を探してんの?」

詩甫が浅香と祐樹の元に歩き出した。 それを見送ったタクシーの運転手がアクセルを踏む。

「若いっていいねー」

兄さんとお嬢さんが彼氏彼女でなくとも、自分の青春時代を思い出す。

「だが・・・コブはどうなんだろうかな」

自分の青春時代にコブはなかった。
コブとは祐樹のことである。

詩甫が浅香の居るところまで歩み寄ると、それまで祐樹に向けていた目を詩甫に転じた。

「社に行かれようとしていたんですか?」

浅香の声は厳しかった。 詩甫の身に何があるか分からないのだから。

「浅香、違う」

浅香への返事は祐樹からであった。

「姉ちゃんは行っちゃいけないって言ってたんだ。 でもオレが社の様子を見たいとか色々言ったんだ」

「祐樹」

「姉ちゃんは黙ってて、オレが言ったことを浅香に説明するんだから」

浅香が頬を緩める。

「その色々って何なんだろうかな?」

「姉ちゃんが行っちゃいけないって言ったから、お社にも行かないし山の中の中にも入んないって言ったんだ。 だから、それを姉ちゃんと約束したから連れて来てくれた」

浅香が眉を上げる。
では何のために来たのだろうか。 それに山の中の中とはどういうことだろうか。

「じゃ、祐樹君は何をしにここに来たのかな?」

「ずっと来てなかっただろ? だから階段の下から大きな声でお社とご供養石にご挨拶をする為」

そういうことか、山の中の中とはそういう意味だったのか。 きっと階段を上がれば山の中の中になるのだろう。
浅香が相好を崩す。

「そっか」

「姉ちゃんを責めんなよ」

「そんなことしないよ」

「さっき怖い顔してたじゃないか」

祐樹、と詩甫が止めると続けて言う。

「あの、浅香さんごめんなさい、勝手に来ちゃって」

祐樹が言うようにさっきの浅香の顔は厳しかった。 浅香にあんな顔が出来るのかと思ったほどだった。 でもそれは、それだけ心配をかけてしまったということ。

「いえ、こちらこそ。 怖い顔をしたみたいで。 僕から一言かければよかったですね。 珍しいですね」

そう言って詩甫の上着を指さす。 今日はウールのコートではなくダウンジャケットであった。

やはりウォーキングシューズのことを考えて購入していた。
買っちゃいました、と返事をしてから話を元に戻す。

「昨日の夕方、急にこんな話になって。 それでその時は駄目って言ってたんですけど、祐樹の言う通りだなと思って急に今朝来ることにしたんです」

「なに? オレの言うこと?」

詩甫が祐樹を見る。

「うん、聞こえないかもしれないけどご挨拶をするってこと。 それって大切だなと思ったの」

「さっき祐樹君が言ってたことですね」

「はい」

「で? 浅香は何を買いに来たの? オレが見つけてやるよ。 お社に持って行くものなんだろ?」

こんな所で買おうとしているのだ、社に持って行くものだろう。

「うーん、それがねぇー、無いみたいだ」

何十分も探していたのだ。 祐樹にも見つけられないだろう。

「店員さんに訊かれたんですか?」

「それがオープンしてすぐだからなのか、田舎だからなのか、レジにも店内にも店員が誰も居ないんですよ」

と、そう言った浅香の肩に誰かがぶつかった。

「あ、すみません」

ぶつかってきた相手に振り向くと、浅香より十センチほど身長が高い。 その上かなりのハンサムだ。 だが浅香より若い顔付き。 凜魁高校生だろうか。

「いえ、こちらこそ」

入り口に立っていた浅香たちが悪いのだろう。

「ここじゃ邪魔になりますから行きましょうか」

「だから、浅香は何を探してんだよ。 オレが探してやるって」

「あー、そうだった。 荷物忘れてた、って、レジがまだだったんだ・・・じゃ、無いと思うけど違う目で探したら見つかるかな」

「おう、まかせろ」

「まずは入ろう」

入り口を入ると、ちょっと待っててくださいと言って浅香が隅に足を向けた。 そこには買い物籠とビニールの袋が置かれていた。
籠と袋を持って戻ってくると、籠には既にいくつかの工具が入っていてビニールの袋には空のペットボトルが入っている。

「え、まさか?」

工具から何をしていようとしていたのかが想像できる。

「ええ、僕たちが足踏みをしている間に社が傾きでもしたらって思って。 でもまぁ、そこまで修理できませんけどね。 完全に僕の専門外ですから」

浅香が言うには先週も見に来たらしい。 その時に社の足元、基礎部分となっている石が崩れてきていたのを見たということであった。

籠の中にはセメントの粉袋が一袋と小さめのタライ、他に金槌や釘、木切れも入っている。
詩甫が首を振る。

「駄目ですよ! 万が一のことがあったらどうするんですか!」

さっき浅香にぶつかった男子高校生らしき青年がカートを押してきたが、声を大きくする詩甫を驚いて見た。

浅香が言ったようにのんびりとしている店なのだろう。 カートも前に出していないようだった。 都会では考えられない。 どんな苦情が来るかしれないし、万引きだって簡単に出来てしまう。 だがそんなことも考えないのだろうか。 それ以前に万引きも苦情も無いのだろうか。 現に男子高校生らしき青年は当たり前のように自分でカートを取りに行っていたようなのだから。

浅香が驚いた目をして足を止めた男子高校生に軽く頭を下げると、すぐに詩甫も気付いて「すみません」 と頭を下げた。

つられたのか返事の代わりなのか、男子高校生らしき青年も頭を下げ店内に入って行った。 片手には紙を持っていた。 買い忘れの無いようにきっと買い出しのメモが書かれてあるのだろう。

「僕には秘密兵器があるんですよ? お忘れですか? 野崎さんの秘密兵器ほど役には立たないかもしれませんけど」

「え? 私の靴より? そんなんじゃ―――」

「あ! 曹司だ!」

「祐樹君、正解。 曹司に見張らせておきますからまずは大丈夫でしょう」

「それなら姉ちゃんもお社に行ける?」

「うーん、曹司って気紛れだしなぁ。 急にどこかに行くかもしれないし、野崎さんは完全に狙われてるからねぇ」

「そっか・・・そうだよな」

祐樹とて詩甫にもう怪我は負わせたくない。

「で? 何が見つからないの?」

「コテ」

浅香が籠の中から一つのコテを出した。

「これの細いタイプ」

「よし、まかせろ」

祐樹が中に走って行った。

「浅香さん・・・」

祐樹を見送った浅香が詩甫に振り返る。

「先週は会えなかったんですけど、今日は見張をさせるために絶対に見つけます。 いい加減な曹司ですけど大丈夫です。 曹司の気分次第ってこともありますから、あまり時間をかける気もありませんので、しっかりと補強できるかどうかも分かりませんけど」

「私がグズグズしてたから、すみません」

「野崎さんのせいじゃありませんよ。 僕たちにだって仕事があるんですから」

詩甫は期末に入り、当分会社が忙しくなると浅香に連絡を入れていたが、忙しくなくとも解決策を見い出せてはいなかった。

「僕たちが動くと祐樹君が迷子になるかなぁ」

きっと祐樹は見つけられなくとも見つけようとも、この場所に戻ってくるだろう。
そう言った浅香の横をカートを押していた男子高校生らしき青年がすり抜けて行った。 スマホを耳に充てている。 会話が終わったのか、すぐにスマホを耳から外した。 カートには既に色んなものが入っていた。 このホームセンターの置き場を熟知しているらしい。

入口に立って誰かを待っているようだ。 すこしすると女の子が走ってやって来た。 男子高校生が手を上げて迎えている。

「星(せい)ちゃん!」

「思いの外早かったから迎えに行けなかった、ごめん」

「うううん、私が早く着きすぎちゃったから」

「駅で待ってれば迎えに行ったのに」

「これくらい何ともないよ。 星ちゃんがよく話していたし、駅員さんに聞いてすぐにわかったから。 大学合格おめでとう」

バッグから出した可愛く包装されている箱を手渡した。

「わっ、ありがとう。 なんだろ?」

重さがないし、可愛く包装されている中身には細長い箱が入っているようだ。

「万年筆。 お小遣い貯めて奮発しちゃった」

「そんなに気を使わなくてもよかったのに」

「だって星ちゃんの夢が叶ったんだもん。 それとこっちは遅ればせのバレンタインチョコ。 手作りよ」

「ありがとう」

照れ臭そうに受け取る姿が初々しい。

「買い物終わった?」

女の子がカートに手をかけていた男子高校生の腕に手を回した。

その様子を見て浅香と詩甫が目を合わせる。 女の子の方が積極的なようだ。 大人びた服を着て確かに美人だがまだ幼い顔をしている。 その幼い顔に化粧を施して、耳のイヤリングは中高生が買いに行く店の物だろう。

背伸びをしてこの男子高校生らしき青年・・・いや、さっき「大学合格おめでとう」 と言っていた。 時期を考えると高校の卒業式はもう終わっている。 だから今は高校生ではない青年、彼氏に背伸びをして合わせているという感じを受けなくもない。

知らず浅香と詩甫が二人の様子を見ていた。
青年である彼氏が歩きだし、女の子も一緒に店の中に入ってきた。

「あと少し。 爺さんがまとめて買って来いって言うもんだから。 小さいコテが見つからないんだよな」

浅香がカートの中をチラリと覗くと浅香が購入しようとしている物と似たような物が入っていた。

「あの!」

まさかと思って浅香が声をかけた。 この星ちゃんと呼ばれた青年はさっき “爺さん” と言っていた。 きっと地元の人間なのだろう。 それにカートの中の内容。

青年と女の子が足を止める。

「はい?」

「それってもしかして・・・お社の修理、ですか?」

充分に社会人と見える浅香が高校を卒業したばかりの相手に丁寧な言葉使いをしている。 呼び止められたとてその内容が何だとて、その言葉一つで気の悪いものではない。

「お社?」

「星ちゃん、知ってる人?」

「いや、知らないけど・・・」

星ちゃんと呼ばれた彼氏が浅香の持つ籠の中を見ると同じような物が入っている。

社や祠なら神主や土地の者が修理をする。 現に今揃えている材料はその為である。 だが見たこともない顔だ。 それに一つだけ誰も修理をしない社がある。

「あの、もしかして社って山の中の社のことですか?」

浅香が「ええ、そうです」 と頷きながら答える。

「この土地の人じゃないですよね?」

「ええ」

「あの社には行かない方がいいですよ」

ということは、社の修理のために揃えた道具では無いのだろうか。

「これは祠の修理の為です。 あの社には近づかない方がいいです。 土地の者さえ近づかないんですから」

「大蛇が出るから?」

青年が一瞬にして顔を歪めた。
既に高校を卒業もしているのにこんな表情を見せるほどにこの話は浸透しているのか。
女の子は見た目と違って場をわきまえる能力があるのだろう、最初に知っている人かどうか訊いただけで口を挟むことなくずっと黙って話を聞いている。

「どうしてそれを? 土地の者しか知らないはずですけど」

「ええ、ちょっとした切っ掛けで耳にしま―――」

まで言うと祐樹が上げた手に何かを持ち、それを振りながら走ってやって来た。

「浅香ー! これでどうだー?」

浅香が工具の所を探して無いと言っていたのだ、祐樹が探しても見つからないだろう。 だから目線を変えた。

「あ? え? なにこれ?」

祐樹から受け取ると “工作” と書かれていた。

「粘土の工作の時に使うやつ」

少し角度のついたヘラであった。 浅香も目先を変えてヘラを探したが、工具の所には品切れだったのか、ヘラと書かれていても何もぶら下がっていなかった。
祐樹の持ってきたヘラは工作用具にしてはしっかりとしている。

「おお、充分役に立つ。 コテの代わりになるよ」

「コテの代わり?」

青年が言った。

「ええ、君もさっき言ってたみたいだけど、小さいコテが見つからなくてね、代わりになる物を見つけてくれたみたい」

青年の陰になっていた女の子が覗き込もうとした時、入口から声がかかった。

「星亜」

青年が入口を振り返ると知った顔が立っていた。

「兄ちゃん」

「爺さんがまだかって。 歳を取ると待つってことが出来ないんだから」

浅香と詩甫が入口に目を向ける。

「え―――!?」

という声が、四人から同時に上がった。 そして次にまた同時にそれぞれが違う名を呼んだ。

「祐樹!?」
「優香ちゃん!」
「詩甫ちゃっ」
「座斎さん・・・」

聖徳太子になれない浅香と青年が取り残された。

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国津道  第38回

2021年05月28日 22時17分26秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第38回



ラインを開ける。

『酔っぱらった座斎がそっちに向かった! 家にいるならすぐに鍵かけて電気消せ! 外なら帰るな!』

今日は期末で忙しくしていた現場とその関係の課が一緒になって打ち上げに行っている。 加奈は労務課だから期末の忙しさは関係無いのだが、何故か参加していた。 それは加奈から聞いて知っていた。 詩甫は祐樹が来るからと欠席をしていた。

「えー!?」

詩甫の声に単行本を読んでいた祐樹が顔を上げる。
すぐに着信音が鳴った。 当の加奈からである。

『やっと既読になった! 今どこ?』

「家」

『もうそっちに着くはずよ、すぐに鍵と電気!』

「は、はいっ!」

『大声出さない!』

「うぇ~ん」

『泣いてる暇はない! サッサと動く!』

玄関は詩甫が帰ってきた時に鍵をかけていた。 でもかけ忘れていないか、スマホを耳に充てたまま確認に行く。 廊下の電気を点けかけてその手を止める。 開け放したドアからリビングの零れてくる明かりで鍵がかかっているのを確認すると、踵を返してリビングの電気を消した。

「おわっ!」

何も予告されていなかった祐樹が声を上げる。

『なに、今の声』

「義弟、祐樹」

『代わって、理由を説明するから。 詩甫は声を出さない、分かった?』

「うん」

『声出すなって』

無茶を言う・・・。

スマホの明かりに照らされた詩甫が口元に人差し指を立てながら、祐樹にスマホを渡す。 何だろうと思いながらも小声で「もしもし」 と言う。

『祐樹君? 加奈よ、覚えてるよね』

加奈と祐樹は会ったことがある。 朧気ながらその名前と会ったということだけは覚えている。

「うん」

『いい? 今から声を出さないで。 返事もしなくていいから』

「うん」

『おいこら!』

思わず祐樹が口を押えた。 完全に加奈を思い出した、怖いお姉さんだった。

『もしかしてだけど、もう少ししたらチャイムが何度も鳴ったり、ドアが叩かれるかもしれないけど、絶対に出ちゃダメ。 完全に居留守を装う。 居留守って分かるよね、居ない振りをすること。 恐い思いをするかもしれないけど、助けが行くまでお姉ちゃんを守んなさい。 今お姉ちゃんを守れるのは君だけなんだからね』

詩甫の手には小さなライトが持たれていた。 夜遅く帰って来る時用に、いつもバッグの中に入れているものである。 窓側にも玄関側にも向けていない。 下に向け足元を照らしている。 小さなライトだけに照らす範囲は広くない。 明かりの片隅で祐樹が頷いているのを見て、加奈との間に話が成り立っているのだと感じた。

『すぐにお姉ちゃんにスマホを渡して電源を切るように言って』

通話は加奈の方から切られた。
祐樹が詩甫を見上げ、小声で加奈から言われたことを伝えながらスマホを渡すと、すぐに電源を切り二人で寝室に移動した。

「姉ちゃん・・・」

怖くて詩甫にしがみつきたかった。

加奈がどんな話を祐樹に聞かせたのか分からない。 詩甫が祐樹の頭を撫でてやる。

「大丈夫」

祐樹は加奈から、怖いお姉さんから言われた。 詩甫を守りなさいと、今守れるのは祐樹だけなんだと。
それなのに詩甫に励ましてもらってしまった。 加奈の言葉が何度も頭の中で響く。
そうだ、今は自分しかいないんだ。 自分が怖がっていてどうする。 詩甫は自分が守る。 詩甫を怖い目になんてあわせない。

「姉ちゃん、怖くなったらオレの手を握るといいからな」

詩甫が微笑んでいるのが分かる。

「うん、ありがと」

途端、チャイムが鳴った。
詩甫より祐樹の顔が強張る。

チャイムが連打するように何度も鳴る。 その内にドアがドンドンと叩かれだした。 チャイムとドアを叩く音。
怖いというより、恐怖しかない。

怖がりの祐樹が怖い映画を見ることは無かったが、アニメでは似たような場面を見たことがある。 コナンだっただろうか、それともジョジョかワンピースだっただろうか。

「おーいぃ、詩甫ちゃー、居るんらろー」

呂律の回っていない座斎の声がする。

「詩ー甫ーちゃー」

思わず詩甫が祐樹の手を握った。 その祐樹の手が震えていた。 祐樹も頑張ってくれているんだ。

「座斎さん、やめろって」

誰かが止めてくれている。 いくらかホッとできたが、座斎のそれは止まない。
幾度も繰り返していた中で何かを言う声がしたと思ったら、座斎が詩甫の名前を呼ぶ合間に「すみません」 という声が聞こえた。 きっと隣の部屋からの苦情だったのだろう。
その声はさっきの声とは違ったようだ。 少なくとも二人は居てくれているということだ。

座斎がまだドアを叩きチャイムを鳴らしている。 詩甫の名を呼んでいる。 止められているようだが手を振り払っているのだろう。 殆ど止まることなく繰り返されている。

「いい加減にしないと警察に通報されますよ!」

さっき座斎を止めていた声が聞こえた。

「だな、通報される前に逃がしてやるか」

え・・・っと詩甫が下げていた顔を上げた。

座斎を止めていた男が振り返る。

「弦さん、遅い」

男、座斎と同じく願弦の部下は途中で加奈から連絡を受けていた。 願弦がそっちに向かったと。

「これでもかっ飛ばしてきたんだよ。 付き合えよ」

願弦が足元のふらついている座斎を肩に担ぐと、ぐぇ、っと座斎の口から声が漏れた。

「おい、吐くなよ」

外の様子がどうなっているのかは分からなかったが、すぐに詩甫がスマホの電源を入れた。 すぐには立ち上がらない。

「詩ー甫ちゃー」

くぐもった座斎の声が遠ざかっていく。 願弦たちが階段を降りて行ったのだろう。
ようやく立ち上がったスマホをタップする。

『詩甫?! 大丈夫だった?』

「さっき外で願弦さんの声が聞こえて居なくなったみたい」

祐樹はその名前を覚えていた。 ラーメンを食べながらバレンタインの話をしているときに聞いた名前だ。 神主の学校を出ていて実家が神社とも言っていた。 そしていま詩甫を助けてくれた人だ。

『うん、遅れて来た願弦さんがすぐに家に戻って車をとって来るって言ってたから、車にぶち込んで家に送って行くんじゃないかな。 座斎を追って途中挫折して戻ってきた奴らには蹴りを入れといたからね』

相変わらず逞しい。

『それより大丈夫だった?』

「明日、お隣さんに謝らなきゃいけない程度」

『そっか、願弦さんギリアウトだったか』

「怖かったけど、祐樹がいてくれたから」

まだ握っている祐樹の手を軽く握ると祐樹も握り返してきた。

『弟君、役に立ったじゃない』

「うん」

『明日、酔いの冷めた座斎を願弦さんが説教しに行く筈よ。 当分は呑まないんじゃないかな。 まっ、少なくとも今日は安心して寝てちょうだい。 弟君に代わってくれる?』

もう終わったというのにどういうことだろうかと思いながら、祐樹にスマホを渡す。
祐樹もキョトンとしてスマホを受け取る。

「もしもし」

『よっ、ちゃんとお姉ちゃんを守ってくれたね』

怖いお姉さんだった。 思わず姿勢が良くなる。 握っていた詩甫の手を離して正座をすると膝の上に置いた。

「うん」

『お姉ちゃんの様子どうだった?』

祐樹がチラリと詩甫を見ると詩甫が立ち上がり、小さなライトをつけてリビングのドアに向かって歩いて行くところだった。

「怖かったみたい」

怖くなったら祐樹の手を握るといいと言っていた。 その手を握ってきたのだから。

『そっか。 弟君がいてくれて良かった。 アンパンマンだね。 ってことで、ついでにお姉ちゃんに暖かい飲み物を入れてあげてくれる? 牛乳なんてあるかな』

アンパンマン・・・さすがに祐樹もとうに卒業している。 完全に一度会った当時のままの祐樹を想像しているのであろう。 だがアンパンマンはバイキンマンをアンパンチで吹っ飛ばすけど、そんなことも出来なかった。 詩甫に手を握って良いというのが精一杯であって、その手が震えていたのが情けない。 少々、祐樹が落ち込む。

「牛乳は無いけど豆乳ならある」

詩甫がリビングから出るとそっと玄関に足を運ぶ。 スコープで見ても誰も居ない。
ドアを開け外を見る。 加奈の話から願弦は車で来ていたはずだ。 どこにも車など見当たらない。 もう座斎を乗せて出たのだろう。

『豆乳か・・・まっ、それでもいいか。 レンチンできる?』

「うん」

『じゃ、レンチンして温めてお姉ちゃんに飲ませてあげて。 ついでに弟君も飲みなさいね。 じゃね、お休み』

「お休みな・・・」

スマホの向こうから聞こえていた喧騒が消えた。 切られてしまった。 怖いお姉さんはすることが早いらしい。

パチリとリビングの電気が点いた。

「加奈、何を言ってたの?」

「うん、ちょっと」

立ち上がり詩甫にスマホを渡すとキッチンに足を運ぶ。 カップを出して冷蔵庫から出した豆乳を注ぐ。 二つまとめてレンジに入れる。

詩甫は急に電気が消されて投げっぱなしにされていた単行本を手に取った。 栞代わりの紙は挟まれていなかったが、折り目がつくことなくちゃんと置いていたようだ。

「さっきのって、姉ちゃんが頼りにしてる願弦さん?」

ブォ~ンとレンジが鳴っている前に立ったまま祐樹が訊いた。
詩甫が単行本を手にしながら振り返る。

「うん。 駆け付けてくれたみたい」

「優しいんだね」

「ドアをドンドンしてた人は酔っ払っちゃってたって加奈が言ってたけど、その上司だからね。 何かあったら責任取らなくちゃいけないし。 願弦さんならそんなこと関係ないだろうけど」

ピーピーピーとレンジが祐樹を呼ぶ。 どうしてレンチンというのだろうか。 どうしてレンピーピーではないのだろうか。 ふとそんなことを思いながら中から二つのカップを取り出し、スプーンでかき混ぜる。

そっと運んで来て座卓の上に置いた。

「加奈ちゃんに牛乳がないって言ったら、豆乳でもいいから温めて二人で飲みなさいって」

怖いお姉さんを思い出していた。 会ってすぐに『加奈ちゃんと呼びなさい』 と言われていたのだった。

そういうことか。 そういう会話をしていたのか。 詩甫自身のことも心配してくれたが、祐樹のことも心配してくれたのだろう。 詩甫に言わなかったのは男子である祐樹を立ててくれたのかもしれない。

「そっか。 ありがと」

カップを持つと一口飲んだ。 ほどよく温まった豆乳が喉を流れて胃に収まるのを感じる。 ホッとできる。
祐樹も同じように飲む。

「安心できるね」

「うん」

祐樹は何も混ぜない豆乳が苦手だったが、何故か張り詰めていた心が溶けていくようだ。

「怖い思いをさせてごめんね」

怖くなんてなかった、そう言いたかったが、震えている手を詩甫に握られていた。 だから

「豆乳って美味しいんだね」

詩甫が微笑んだ。


翌日の夕方、願弦に連絡を入れた。 加奈は願弦が説教に行くと言っていた。 その途中にスマホを鳴らしたくなかったからこの時間まで待っていた。
昨日は、と礼を言おうとしたら先に取られた。

『いやぁ~、あの馬鹿が迷惑かけちゃって。 親御さんともども説教をしておいたから、もうあんなことは無いと思うよ』

座斎の親ともなれば願弦よりずっと年上になるではないか。 その親も一緒に説教をしたとは、さすがは願弦である。

『悪かったな、もっと早く行ければ良かったんだけど。 怖かったろ』

加奈からラインを貰っていた。 加奈が願弦に連絡を入れると、詩甫の部屋の前であったことを願弦から聞いたという。 そして加奈は詩甫たちが部屋に居たことを願弦に伝えたということであった。 最後に全部願弦に任せるといいよ、と書かれていた。
その願弦は自分が悪いわけではないのに謝ってくる。 願弦とはそういう男だ。

『ま、簡単に許せないだろうが、初犯ってことで出来れば許してやってくれないか? 本人も全然覚えていなかったようだし、頭を抱えて反省してたから』

「はい」

プライベートな時間の部下の尻拭いまでしている。
礼を言いずらい。 礼を言うと迷惑をしたと言っているようなものだ。 願弦の部下が詩甫に迷惑をかけたと。

『じゃ、月曜日に謝らせるからさ、それで許してやってくれる?』

「はい」

結局礼を言えずに電話を切ってしまった。 詩甫が礼を言えないように話を持って行ったたのだろう。
口の上手いのは浅香だけではなかったようだ。 それとも詩甫が話し下手なのだろうか。

「姉ちゃん、お礼を言うって言ってたのに言えてないんじゃない?」

単行本を読んでいたと思っていたらしっかりと聞いていたようだ。

「言わせないように持っていかれちゃった」

「ふーん」

きっと祐樹には複雑な話であろう。

「ね、パァーっとしにボーリングに行こうか」

「うー・・・ん」

どうしたというのだろうか、いつもなら即答と同時に立ち上がるのに。
読んでいた単行本に栞代わりの紙きれを挟むとパタンと閉じた。

「お社のことどうなったの?」

「うん・・・まだ解決策が見当たらないの」

「明日行かない?」

「え?」

「オレだけお社に行く。 お社の様子を見てくる。 姉ちゃんは下で待ってて」

「駄目よ、それで祐樹に何かあったらどうするの」

「何もないよ。 浅香と姉ちゃんが話してたろ? 男は大丈夫だって」

そうだった、瀬戸の書いたファイルに指を這わせながら浅香が読み上げた中にそんなことも入っていた。 だがそれは間違った情報かもしれない。 男であっても親戚筋であれば花生が手をかけるかもしれないのだ。

祐樹は親戚筋ではない。 大婆も長治も親戚筋でなければと言っていた。 だから大婆一人で山に上がり、社に辿り着く前か後に花生によって山から落とされる。 社は関係ない、この山である、それの証人に親戚筋以外の男を伴うと言っていた。 親戚筋で無ければ良いと。

だが、だからと言って祐樹一人を社に行かせるなんてとんでもない。
詩甫は親戚筋ではない。 だが二度も現れたから花生に、大蛇に睨まれたのだ。 そして突き落とされた。 その詩甫である瀞謝と一緒にずっと掃除をしていた祐樹なのだから、何をされるか分からない。

いや、花生とは限らない。 詩甫がこの目でその姿を見たわけではないのだから。 でなければ花生が悲しすぎる。

「・・・駄目」

「姉ちゃんっ」

「解決策がまだ浮かばないけど、お社を忘れてるわけじゃないよ、祐樹まで怪我をしちゃったら朱葉姫が悲しむだけなのよ、それにお姉ちゃんも」

祐樹が下を向いてしまった。

「祐樹の気持ちだけで朱葉姫は嬉しいと思ってくれるから、ね?」

「・・・じゃ、山」

「え?」

「山の中の中には入らない、お社にもいかない。 でも山の下からでも・・・目だけで階段上がって坂を上るだけじゃ駄目? 大きな声で朱葉姫とご供養石にご挨拶するだけ。 それならいいだろ?」

「祐樹・・・」

祐樹の気持ちが有難い。

「ね? いいだろ?」

「でも今日の明日じゃ、浅香さんの予定が分からないよ」

「山の中の中に入るんじゃないから、浅香がいなくてもいいだろ?」

「・・・祐樹」

結局ボーリングには行かなかった。 拗ねているわけではないが、テンションの低い祐樹を連れて行っても楽しんではくれないだろう。

夕飯を終え風呂に入り、今は詩甫のベッドの横に布団を敷いて祐樹が寝息を立てている。
寝返りをうって祐樹の方を見る。

(大きな声でご挨拶・・・)

祐樹がそう言っていた。 それも一つかもしれない。 聞こえないかもしれないが、念じる、若しくは聞こえないかもしれないが声に出す。 耳に届かなくとも、それが第一歩かもしれない。 それが必要なのかもしれない。

(祐樹、有難う)

願弦が言っていた、詩甫一人では何も進まない、それをつくづくと感じる。

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国津道  第37回

2021年05月24日 22時37分15秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第37回



二月の決算に忙殺され、やっと落ち着いたのが三月半ばとなっていた。

願弦の心の彼女噂も初めの内だけで、現場と詩甫の居る三階の事務所では殆ど昼休み返上状態でそんな噂を口にする暇さえなかった。

決算に左右されない加奈の居る四階の事務所にも噂が広がってきていたが、加奈にだけには願弦が座斎から助けてくれたことを話していたので、事務所内の噂は加奈が上手く消してくれていた。

「まっ、詩甫の後ろに願弦さんが居るのは間違いないんだから、願弦さん相手じゃ座斎ももう手を出してこないわね」



二月から三月中旬くらい迄は詩甫の残業や休日出勤が多くなるからと、祐樹に来ないようにと連絡をしていた。 それは毎年のことであるから祐樹も文句を言わず納得をしていた。

今はもう三月に入って半ばを越している。 あと一週間もすれば春休みに入る。

気温は高くないが空には雲ひとつ見当たらない。 清々しい朝日がアスファルトを照らしている。
片側一車線の道路では通勤の為の車だろうか、それとももう既に出社した営業マンの車だろうか、マフラーから出る排気ガスで清々しく温められたアスファルトを塗りつぶすかのように、白い煙を吐いている。

歩道を歩きながら口から白い息を吐いて、首にはマフラー、頭にはニット帽を被り、その年齢を表すかのように、背中でランドセルが揺れている。

「祐樹、おはよ」

後ろからポンとランドセルを叩かれた。 振り返ると中学生の制服が目に入った。 それは地元の中学の制服ではない。

「優香ちゃん、お早う」

「祐樹もあと少しで一年生担当だね」

四月になれば入学してきた一年生の、所謂(いわゆる) 教育係となる。 給食当番とは何をするのか、重い鍋などは五年生が持ってあげねばならないが、鍋から一人一人の椀に入れる時に、零さないようにする入れ方などを教えなくてはならない。 掃除の仕方も然りである。

「出来るかなぁ・・・」

自信がないようだ。

「出来るよ、祐樹なら。 だって私が祐樹に教えたんだもの」

「うん・・・。 この前、また受験するって言ってたけど・・・」

「うん、来年の今ごろは合否が分かってるくらいかな」

高校受験ということだ。 この優香は祐樹が五年生になれば、中学三年となる。

「塾も追い込みが厳しいよ。 ね? 祐樹は中学受験は?」

祐樹が首を振る。

「塾は?」

「行ってない」

親に言って塾に行かせてもらって、中学受験をしたとしても、そしてたとえ合格したとしても・・・。 もうその時にはこの優香はその中学にはいない。 だから塾に行く必要も無ければ受験する必要もない。

「そっかー。 じゃ、みんなと一緒の中学なんだね。 その方が楽だからいいかもね」

「楽?」

「うん、知らない子たちばっかりだと、友達作りから始めなくちゃいけないし」

「そうなんだ」

思いもしないことだった。 渦中に入ってみなければ分からないことがあるものなんだ。

「じゃね、五年生頑張ってね」

腕時計を見た優香が制服のスカートを翻して曲がり角で曲がった。 駅に向かう方向である。

優香は祐樹の憧れの女子であった。
詩甫という姉が居るが、詩甫とはまた違ったものを持ち合わせている。 弾けるような元気さと、詩甫のように祐樹のことを窺いながら言葉を発するのではなく、思ったことを口にする。 だがそれは嫌なものではなかった。

詩甫も親の離婚さえなければあんな風に明るかったのだろうか。 いや・・・自分の父親と再婚しなければそうだったのだろうか。

決して詩甫のことを暗いと思っているわけではない。 思いやりがあって何もかも笑みの中に包んでくれる。 優しい姉だ。 それだけに、何もかもを背負ってしまっているのではないかと思う。 だから一人暮らしをしているのが心配なのである。 以前、詩甫は自分は頑固だと言っていたが、そんなことはない。

「姉ちゃん、あれからお社に行ってない」

浅香に・・・曹司に言われたのだから仕方がない。 それになにより、詩甫の身体が一番だ。 目の前で見たあの電車の中であったようなことはもう御免だし、そのあとの事なんて、考えただけでもぞっとする。

「でも・・・」

最後に詩甫の所に行った時、詩甫に元気がなくなっているのを感じていた。 詩甫はそんなことは無いような素振りをしてはいたが、隠しきれるものではない。
それに浅香が詩甫には頼れる人が居ると言っていたが、あの様子では多分相談も何もしていないだろう。

「だから・・・一人暮らしが心配なんだよ」

誰にも何も口にせず、一人で背負い込んでしまう。

耳を押さえて高架下を潜り終えると、またしてもランドセルを叩かれた。

「うっす、さっきの中学生、俺たちが一年の時の五年だろ?」

詩甫のことを考えていたからだろうか、友達が走って来ていたのに気付かなかった。 いや、高架下を潜るのに耳を押さえていたからだろう。 一瞬驚いたが平静を装う。

「うーっす。 そう。 オレ担当だった」

「花瀬が見たら泣くぞ?」

花瀬とはクラスメイトである。

「そんなこと知るかよ」

「とかなんとか言っちゃって、バレンタイン貰ったんだろ? で、ホワイトディに返したんだろ?」

「お母さんが返しとけって買ってきただけ。 それが礼儀だって言うし」

「何返した?」

「マカロンって言ってた」

紙袋の中を見たわけではないから知らないが。

「いーなー、羨ましい」

「貰わなかったってこと?」

とは言っても、祐樹も詩甫以外から貰ったのは今回が初めてである。 それも手紙付きだった。 熱烈に書かれていてドン引いた。

「黙れ、それに祐樹が貰ったことが不思議だよ。 俺より背が低いのに」

背の順で並ぶと祐樹は毎年前から数える方が早い。 三年生の時には今までの最後列で前から五番目だった。 そして今は前から三番目である。

「男は背の高さで決まるんじゃないんだよ」

背の高さ、そう考えた時に、もしかして優香はまだ祐樹のことを一年生扱いしているのだろうか。 一年生の時より身長は伸びているが、他のクラスメイトほどではない。 そうであったのならば少々心がイタイ。

「で? なんて返事したんだよ」

「付き合ってくれって手紙に書いてあったから、付き合う気はないって言った」

「げっ! 嘘だろ!?」

「嘘言ってどうすんだよ」

「頼む! 嘘だと言ってくれ!」

手を合わせて拝み倒してくるが、話しが見えない。 どういうことだろう。

「日向(ひゅうが)ぁ、何か・・・隠してるな」

足を止めて隣に立つ祐樹より随分と背の高い同級生、日向をギロリと睨む。

「あ・・・や、その・・・」

祐樹がずいっと日向に近寄る。 背が低く可愛らしい目をしているが、くりっとして大きくまん丸い分こんな時の目力は結構ある。
もう隠しきれない。
日向がぽつぽつと話し出した。

祐樹は全く気付かなかったが、花瀬が祐樹にチョコを渡したのは誰もが知っていることだったという。
情報源は花瀬の取り巻きであった。 花瀬が振られるはずは無いのだから。 何故なら、花瀬は男子の中では結構人気があって、スポーツがよく出来て、中学受験を控えている頭の良い女子であったし美人だからだ。
その花瀬が祐樹にチョコを渡した。

放課後、廊下で数人の女子と男子が花瀬が祐樹にチョコを渡したということを話していた。 そこで一人の女子が提案したという。 男子からの人気を花瀬と二分する他のクラスの女子の友達であった。

『ね、花瀬さんが振られるかどうか賭けない?』 と。

そこで賭けが始まったらしい。

無論この同級生である日向は祐樹が花瀬と付き合う方に賭けていたというし、大半がそうであったらしい。 振られる方に賭けていたのは言い出した女子とその親友たちだけであったという。

だがその結果を花瀬自身が話さないし、花瀬の取り巻き達も口を閉ざしていた。 花瀬が振られたなどとは、取り巻き達たちが言うはずはない。 それに言う義務もなかった。 賭けに参加していなかったのだから。

そこに一ヵ月待って祐樹がホワイトディに返したと情報を得た。
そこで痺れを切らした女子から結果を聞いて来いと白羽の矢が立ったのが、この日向だったと言う。

「ったく、何しょうもないことやってんだよ」

話を聞いている内に、何を勝手なことを! と怒鳴りたかったが、一応最後まで聞くとその熱も冷めてしまった。 日向が哀れに思えたからだ。 ホワイトディからすぐに白羽の矢を立てられたらしかったが、訊くに聞けず今日までダラダラと伸ばしていたという。 そしてとうとう昨日、女子から呼び出されたらしい。

「うわぁー・・・、アイツ等にお菓子三箱買うのかぁ」

賭けに負けた者が一人三箱、若しくは三袋のお菓子を買うらしい。 そして勝った者へ献上になると言う。

「ば~か」

今にも膝を崩しそうな日向を置いて走り出した。

「ん? 日向は何でこんなに早く登校してたんだ?」

今日このことを聞くために、祐樹を校門で待っているつもりだった日向の気持ちなど祐樹は知らなかった。

その祐樹が今日早めに家を出て来たのは何かあったからではない。 優香に会えないかと思って早めに家を出て来ただけであった。
詩甫のことを考えると気が萎えてしまうから、優香に会えば少しは元気になるかと思っての事だった。 だが会ったことでまた詩甫のことを考えてしまっていた。 憂いてしまっていた。

「今日は姉ちゃんの所に行くから・・・」

白い息を吐きながら走ったからなのか、それとも日向の話に熱を帯びてしまったのか、首元が暑くなってきた。 足を緩めてマフラーに隙間を作る。

日向たちのように詩甫を元気付ける為にお菓子の土産を買ってあげたいが、お菓子を買う金はない。 小遣いは詩甫の所に行く切符代に消えている。
祐樹が唯一完璧に出来るのはラーメンを作ることだけ。

そうだ、今日は久しぶりにラーメンを作ってあげよう。 あれから詩甫が欠かさないよう補充してくれている。 詩甫も時々食べているようだ。

「お?」

目の前に一、二年の時同じクラスで今は他のクラスの同級生が歩いている。 祐樹と同じクラスの花瀬の親友の一人である。 大きな荷物を抱えて今にもこけそうにヨタヨタとしていた。

「たしか・・・五年になったらクラブ部長になるとかって言ってたよな」

現在五年生はクラブに居ないということであった。 クラブに入られるようになるのは四年生からで、今在籍しているのは六年生と四年生だけである。
良いことが閃いた。

「おーい、脇田ー!」

浅香曰くの女心に疎い祐樹が朝陽に照らされたアスファルトを蹴った。 ランドセルの下につけた、糊がしっかりと効いた給食当番のエプロンが入った袋が左右に振れている。


全生徒下校の時間となった。 終わりの会を終わらせたのに祐樹は駅に向かわず教室に残っていた。 そして全生徒下校の時間となってようやく門を潜った。

「脇田・・・一緒に帰ろうって言ったのに」

どうしてか次期家庭科クラブ部長である脇田が顔を引きつらせてブンブンと音がしそうなくらい首を振った。
祐樹にしてみれば一緒に帰ることが今回の礼のつもりであった。 だがそれを断られた。 でも一応、待っていたということである。

でももう今はそんなことはどうでもいい。 ホクホク顔の祐樹の荷物が増えている。 登校時はランドセルだけだったのに、今は右手に小さな紙袋を持っている。

教室から学校を出ると駅に向かって走りだした。



久しぶりに「お帰り」 という言葉に迎えられた。

「ただいま」

「わっ、姉ちゃん、目が窪んでる」

「え? うそ!?」

靴を脱いでいる動作が止まった。

「うそだよ」

「あー、祐樹ぃー」

「一カ月半もずっと残業だったんだろ? 無理するなってこと」

詩甫が靴を脱ぎ終え祐樹の頭を撫でる。 この義弟には心配をかけてばかりいるようだ。

「毎日ってわけじゃなかったから大丈夫よ」

「ならいいけど。 姉ちゃん着替えてきて、オレ、ラーメン作ってるから」

「ん、ありがと。 祐樹に甘えるね」

リビングに入ると部屋が暖められていた。 いつもなら寒い寒いと言いながら急速暖房を入れなければいけないのに。
座卓には今まで読んでいたのだろう、浅香から借りたままの単行本が栞代わりの紙切れを挟んでおかれてあった。
借りたものを広げたまま伏せて置くようなことはしていないようだ。 祐樹なりに気を使っているのだろう。 きっと手もちゃんと洗ってから読んでいるのであろう。

着替えを終わらせキッチンのテーブルに着くと、二人分のラーメンが湯気を立てていた。 卵とキャベツ入りであった。
進化している。

「野菜室のキャベツ使ったからね」

キャベツを切っていた様子は感じられなかったし、立てられているまな板も乾いている。 事前に用意をしていたのだろう。

「手、切らなかった?」

思わず前に座る祐樹の手元を見ると傷は見当たらない。

「うん、あれくらい何ともないよ」

「そっか、じゃ、頂きます」

ちゅるちゅると二人でラーメンを啜っていると、時折祐樹の視線が気になった。

「なに? どうしたの?」

「あ・・・。 えっと、姉ちゃんバレンタインデーに誰かにチョコ渡した?」

浅香が言っていた。 詩甫には頼れる人が居ると。

「うーん、祐樹以外は会社の女子で義理チョコ配ったけど?」

祐樹には事前に渡してあった。
祐樹は貰ったの? と訊き返したかったが、貰っていなければ傷つくだろう。

「義理チョコ? それだけ?」

「一人だけいいのを渡したけどね」

「え・・・。 それって・・・」

「危ないところを助けてくれたの。 お礼を込めて渡したの」

「え! 危ないって、まさかお社!?」

詩甫が首を振る。

「お社には行ってないよ、心配しないで。 会社の帰りに遅くなって絡まれかけたのを助けてくれただけ」

とてもじゃないがコスプレ男に絡まれかけたとは言えない。

「あ・・・何ともなかったの?」

「うん、追い返してくれて部屋まで送ってくれたからね。 そのお礼」

「浅香が・・・姉ちゃんには頼れる人がいるって言ってたけど、その人?」

詩甫が願弦のことを浅香に話したのを思い出した。

「うん、その人。 願弦さんって言ってね、お社のことでも色々と心配してくれてるの。 教えてもらってることもあるし」

「教えてもらってる?」

「うん、神主さんの学校を出てて実家が神社なの。 だから色々とね」

「え?」

「朱葉姫のことは言ってないけど、ほら、大蛇のことがあったでしょ?」

詩甫と浅香が瀬戸の作ったファイルを見て話していたことを祐樹は知っている。 祐樹が頷く。

「大蛇のことも言ってないけど、何となく気づいてるところがあるみたい。 色んな話を教えてくれるから」

祐樹が改めて思った。
朱葉姫と大蛇のことは三人だけの秘密なんだと。

「難しい話もしてくれるけどね」

それは迷惑だという言い方ではなかった。 詩甫にとって願弦は有難い人である。
祐樹が願弦のことを意識しているのは分かる。 ましてやバレンタインにチョコを渡したと言ったのだから。 けれど、そういう相手ではないという意味で難しい話もすると言った。 祐樹に伝わっているかどうかは分からないが。

「神主さんだから・・・神様の話とか?」

「うん。 聞いたこともない話や言葉が出てくるの」

「オレも図書館で本を借りて読んだ。 神様ってお願い事を聞いてくれる道具じゃないって書いてあった」

「そっか。 本を借りて読んだんだ」

祐樹も頑張ってくれているんだ。

よく火が通っていない太いキャベツをシャリッと噛んだ。

ラーメンを食べ終えると洗い物を終え、リビングに戻ってくると祐樹がおもむろに詩甫に紙袋を渡す。

「え? なに?」

「クッキー」

紙袋から中の物を出すと、巾着絞りにした可愛い柄のセロファン紙が出て来た。

「他のクラスなんだけど、五年生になったら家庭科クラブの部長になる脇田ってのがいて、今朝重そうに荷物を持ってたから手伝ったんだ。 そのお礼だって」

脇田が抱えていたのはこの日クラブで最後のお菓子作りの日だった。 その材料や備品をを抱えていたということであった。

「オレとしては脇田にキャベツってどうしたらいいか教えてもらったから、それで良かったんだけど」

それで今日のラーメンにキャベツが入っていたのか。 ましてや前回まで生卵がラーメンの上にのっていたが、今回は溶じてあった。

「放課後待ってろって言われて待ってたら、これをくれたってワケ」

「そうなんだ、なに? その脇田さんって祐樹の彼女?」

「んなわけない」

ふふっと笑いながら、詩甫が祐樹に巾着袋を差し出す。

「ん? なに?」

「祐樹が貰ったんだから祐樹が開けなくちゃ」

セロファン紙はピンクのリボンで結ばれてあった。

「春休みに入ったら、姉ちゃんの所に来てもいい?」

リボンを解きセロファンを広げ、ポリっとクッキーを齧った祐樹が言う。
中に入っていたクッキーは小学生らしく星型や犬の型などになっていた。 味もとりどりでチョコ味ココア味などがあり、マーブルになっていたりナッツが入っているものもあった。

「お母さんがいいって言ったらね」

詩甫の手にもクッキーが握られている。

「お父さんが珍しく旅行って言ってたらしいから、お母さんと二人で行くんじゃないかな?」

「え?」

「お母さん、喜んでたから」

「祐樹・・・」

それは家族旅行ではないのか。 義父は三人で行こうとしているのではないのか。 それなのにどうしてそんな風に考えるのか。 家の中で祐樹はどうしているのだろうか。

「ちゃんとお義父さんにも訊いてくるんだよ?」

「うん、分かってるよ」

母親に訊いても父親が良いと言ったら、いつもそう言われるのだから。

「学校に行ったら脇田さんに美味しかったって言っといてね」

これ以上この話はしたくない。 祐樹も話したくないだろう。

「うん」

「脇田さんって可愛いの?」

「えー、どうなんだろ。 でも俺よりちょっと背が低い」

祐樹は身長を気にしているのだろうか。 うっかり笑い声が漏れてしまった。

「あ? なに・・・?」

「何でもない。 お風呂入ろうか。 用意してくるね」

祐樹が先に入りあとで詩甫が入る。 風呂の掃除をしてから上がりたいからだ。 洗面所で髪の毛を乾かし終え、リビングに戻って来た。

「どっかでスマホ鳴ってたよ」

ついうっかりしていた。 バッグに入れたままだった。

「ありがと」

寝室に行ってバッグの中からスマホを出すと、着信を示すランプが点滅していた。 祐樹が言ってくれなければ気付かないままだっただろう。 それに寝室とリビングの境の戸は開けたままになっている。 閉め切っていれば祐樹さえ気づかなかったかもしれない。

着信は加奈からのラインと電話であった。

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国津道  第36回

2021年05月21日 22時18分04秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第36回



丁度浅香が寝かけた時だった。 午後九時。 合間に軽くは寝ていたが、ほぼ四十時間ほど起きっぱなしでの眠りだった。

曹司が浅香の枕元に立った。 それを朧げな意識の中で知覚はしたが眠気が勝っていた。 曹司を無視するかのように、そのまま眠りの中に入ろうとしたが、曹司がそれを防ぐ。

「おい、亨」

遠くで曹司の声がする。
無視をすればいい。 眠たい、それに眠らなければ明日の出動に支障が出る。 詩甫である瀞謝が見つかるまで散々眠ることを許されずあちらこちらを回らされたのだ。 瀞謝はもう見つかった。 急ぐ用などないはず。

曹司が眉間に皺を寄せる。 浅香が寝息を立てだしたからだ。 眉間に皺を寄せたまま浅香の頭を思いっきりはたいた。

「痛ってー、何すんだよ!」

浅香の上半身がベッドの上で起き上がった。

「先祖が来ているんだ。 起きて迎えなくてどうする」

先祖であり分霊である曹司が当たり前に言う。

「いい加減にしろよ! 俺には俺の生活があるんだよ! 邪魔すんなよ!」

浅香が掛け布団を抱えてその中で丸くなる。
それを見た曹司が溜息を吐く。

「呆れてものが言えんな。 弱体な」

布団の中でギュッと瞑っていた目が開いた。 バサッと掛布団を撥ねる。 もう眠気はどこかに行ってしまった。

「弱体って何だよ!」

密かにEMSの通販を見ていたし、ムキムキにならなくとも、逞しく腹筋が割れているのは憧れであった。 だから消防隊員と共にトレーニングをしていた。 それなのに弱体と言われ逆上した。

「起きたか」

「おちょくってんのかよ」

布団を撥ねてベッドの上に胡坐をかく。

「なにか分かったか」

浅香が睨もうとも素知らぬ顔で前を見たまま曹司が言う。

「あ“あ”ー、うっとうし!」

曹司がチラリと浅香を見る。

「お前は先祖を敬うということ知らんのか」

「だぁー! 曹司は俺だろう! 先祖面するんじゃないよ!」

「まぁ、確かにそうだが、先祖でもあるということを分かっておるのか?」

「知ってるよっ! だとしても曹司は俺だろうがっ!」

「・・・うるさい」

「は!?」

「声を抑えろ」

感情を抑えろということだ。

「はぁー、そうですかっ、そっちの要請があるんならそれに応えましょうかっ。 声は抑えよう。 で、こっちの要請も受けてもらいたい。 俺は寝る」

眠気はとうに飛んでいたが、わざとらしく布団を手に持ち被ろうとすると、曹司の口からとんでもない名を聞かされた。

「花生様・・・その名を知っておるか」

「え・・・」

布団を持つ手が止まり浅香が曹司を見た。

「知っておる、か・・・いや、知ったようだな」

曹司が花生の名前を知っているのは当たり前だろう。 花生は朱葉姫の兄の嫁なのだから。

「曹司・・・何を知ってる」

「それはこちらが訊きたい。 亨は何を知った」

もう目は覚めてしまっている。 身体はだるさを覚えているのに。 明日は河童先輩に頼るしかなさそうだ。

「あの山にまつわる話を聞いた」

大婆と長治から聞いた話を曹司に聞かせた。 その理解の仕方も話した。
話すうちに曹司の顔色が変わってきたのを感じた。 幽霊であるから、顔色などと言うのは幽霊同士でしか分からないだろうが、浅香は幽霊である曹司の分霊だ。 曹司の心の内が分かる。

「曹司にも心当たりがあるようだな。 花生って人に」

暫く下を向いていた曹司だったが、その顔を上げると話し出した。

曹司が花生様と言って花生のことを話す。 どれだけ曹司が朱葉姫と花生に可愛がってもらい、その度に朱葉姫と花生が目を見合わせて微笑んでいたのかを。

「花生様が姫様にそのような怨みを持つことなどない」

「とか言いながら、花生って人を疑ってるんだろ?」

「花生様は姫様をそんな目で見ておられなかった!」

「なのに曹司は花生って人を疑っている」

「・・・花生様はこの世にいらっしゃる、それは間違いない。 だが亨の言うようなことは無い」

曹司は花生と話した。 間違えなく花生はこの世に居る。 だが花生は事情があって朱葉姫と会うことが出来ないと言っていた。
その事情というのが浅香の言ったことなのだろうか。 花生は正々堂々と朱葉姫に顔を合わせられない、それが理由なのだろうか。

「言い切れるの?」

「・・・」

「ふーん、黙っちゃうんだ。 眠たい俺を起こしたくせに」

明日の出動に歪をおこすかもしれないのに。

「・・・違う」

「ん?」

「花生様はそんなお人ではない」

顔を上げた曹司が浅香を見る。

「花生様は姫様の兄上の望むように生きられた。 決してそれを否とはされなかった」

「はい?」

「花生様はお優しくもお強いお人だった。 姫様の兄上の元に嫁いで来られた。 嫁ぐにあたり、確かに亨の言うようなことがあったもかもしれん。 その時の己は小さすぎてそのような事は知らんが、だがそれは姫様の兄上しか知らぬこと。 兄上は花生様を迎えられた。 姫様の兄上は決して癡鈍(ちどん)ではない」

曹司が幼すぎて知らないと言ったのは、花生があの手この手で朱葉姫の兄に近づき首を縦に振らせたことである。

「・・・ってことは疑いを持ちながらも、曹司が考えるに大蛇と呼ばれる人物は花生じゃないってことか?」

「花生様がこの世にいらっしゃるとは思いもしなかったからな」

記憶を精査しなければいけない。

「己の持つ記憶は浅い」

「はい?」

千年以上も生きていて何を言うのか。 その人生の九十九パーセント以上は死んでるだろうけど。

「他の者に比べて朱葉姫様と過ごした時が浅い。 それは花生様に対しても同じ。 幼過ぎた。 機微が分からなかった」

「えっと・・・あの?」

意味が分からない。

「礼を言う」

「はぁ?」

高慢ちきとまでは言わないが、自分勝手も甚だしい曹司が何を言うのか。

「思い出そう、幼い頃を」

千年以上も昔のことを。 そして僅かな機微を辿ろう。

「はぁー?」

スーっと曹司の影が薄くなりその場から居なくなった。

「クッソ! 人を起こしておいてそれかい!」

布団を撥ね上げると寒い廊下を通ってキッチンに入る。 秘密兵器で寝るしかない。
ケトルで湯を沸かしながら食器棚の奥に入れていたボトルを出すが、その手が止まった。

「あ、曹司が接触してきたら訊いておくって言ってたのに」

花生の親族が社に謝りに来たかどうか、訊くのを忘れていた。

「曹司のせいだからな」

自分の都合だけで勝手に来たり帰ったり。
グラスを手に取りウイスキーを入れる。 ケトルの湯はまだ沸いていないが、それくらいが丁度良い。 途中で止めて温まった湯を入れる。 ウイスキーのお湯割りで眠気を誘うしかなかった。



一月も終わろうとしていた。 その間に祐樹が一度やって来ていた。 祐樹も社のことを気にして詩甫に色々訊いてきたが、大婆の所で聞いた話を祐樹に聞かせることはしなかった。

詩甫も詩甫なりに考えたことを浅香に電話で話したが、答えを見つけることが出来なかった。 浅香もまだ詩甫の疑問を曹司に訊けていないということで、二人ともが分かっていることを確認しただけのことであった。

社をいつか閉じるにしても、大蛇のことが先決であるということである。 そして浅香は曹司に民の姿を朱葉姫に見てもらうと言った。 詩甫も朱葉姫に社を終わらせないと言った。
たとえ花生の話を聞いても二人の向いている方向は同じであった。



一人ロッカー室で着替えを済ませた。
隣に座る五年上の先輩と残業をしていたのだが、先輩の自宅から連絡があって子供が熱を出したということだった。

『ごめん、お姑さんがうるさいから』

『気にしないで下さい』

入力しなければならない一覧表がまだ山のようにあった。 その入力を二人でしていた。

『適当な所で切り上げていいからね、明日に回していいから』

はい、とは言ったものの放り投げて帰るわけにはいかない。 自分の机にある一覧表の入力を終わらせると、先輩の机にあった一覧表も入力した。

午後九時を過ぎてやっと終わった。 少し前まで階下で物音がしているのを耳にしていた。 現場でも残業に追われているようだった。 今月は決算月であるから仕方がないが、まだ二月に入って間もないというのに、今年は早くから忙しくなるようである。

グレーのロッカーの戸を閉め、ビジネスシューズに履き替えるとロッカー室を出る。 廊下を歩いていると、男子ロッカー室の戸が開いて中から座斎(ざさい)が出て来た。

「あれ? 詩甫ちゃん残業だったの?」

加奈から座斎のことは聞いている。 ましてや詩甫を狙っているとも。
何てタイミングだろう・・・。

「あ、はい」

「駅まで一緒に帰ろう。 女性の一人歩きは危ないからね」

断るに断れない。 だが座斎とは家の方向は真逆のはずだ。 同じホームにはならない。 駅までなら何とも無いだろう。

「ほら、行こう」

座斎に背中を押されて歩を出した。
二人で会社を出てビル街を歩く。 まだ残業をしているのだろうか、明かりの点いた窓が幾つかある。

「やっぱり現場が忙しかったら、事務所も忙しくなるんだね」

「そうですね。 期末のこともありますし」

素っ気ない返事は出来ない。 それなりに返すしかない。

「あー、そうだよねー、月末に近寄ってくともっと忙しくなるんだよな」

「今日、在庫一覧表の入力をしてたんですけど、まだ出そうですか?」

「うーん、先月までの在庫分だよね。 まだ今月動かしてない商品は・・・あるなぁ」

「・・・そうですか」

明日も残業だろうか。

「在庫数、入出荷の数と合ってた?」

「全てとは言いませんけど、若干の狂いが見受けられました」

「許容範囲?」

「うーん、だと思います」

「俺も?」

「え?」

ずっと目を合わせないように前を向いていたのに、うっかり座斎を見て足を止めてしまった。

「俺も詩甫ちゃんの許容範囲?」

「何ふざけてるんですか」

心臓が飛跳ねそうになった。 平静を取り繕わなくては。 自分にそんな気(け)など無い。 視線を外して歩き出す。

「えー、本気だよ。 ね、彼氏とか居るの? 居ないでしょ?」

居ないでしょ、とはどういう意味だ。 だがここで居ないと言えば突っ込まれるだろうし、居ると言えばまたややこしい話になるだろうし・・・。

「ご想像にお任せします」

答えた後に、浅香ならもっといい答え方をしただろうな、と考えた。 こんな時に浅香の頭が欲しい。

「想像かぁ・・・。 そうだな、詩甫ちゃんってナースの姿が似合うかも」

やはり言葉のチョイスを間違ったようだ。 座斎に想像させてしまった。

加奈が言っていた。 『座斎ってコスプレ男よ』 挙句に『自分が着るんじゃなくて相手に着させる。 写真も撮りまくり。 まっ、詩甫にその気(け)があるなら止めないけど』 などとも言っていた。

「もしかして中学か高校の時セーラー服だった?」

いつの時代、何年前の話をもってくるのか。 それともこの歳になった詩甫にセーラー服を着せようと思っているのか。

「・・・ブレザーでした」

「あ、じゃさ、リボンとかネクタイとかしてた?」

座斎さん、と言いかけ隣にいる座斎を見ようとした時に、座斎が「わっ!」 と言って前屈みになった。
座斎の首に太い腕が巻かれている。 え? と思ってその腕の主を見た。

「あ・・・」

「座斎、俺の彼女に何言ってんだ? うーん? ナース姿? セーラー服? 俺も見たいもんだけどな、お前には見せないよ」

首に腕を巻かれた座斎が相手の姿を見る。

「えー、嘘だろぉー?」

「座斎・・・上司に向かってその言い方は無いだろう」

腕に力を入れたのだろうか、座斎が「ぐぇ」と喉の奥を鳴らす。

「詩甫ちゃんは俺が送って行く。 一人寂しく帰れ」

首に回していた腕を解くと座斎の背中をトンと押した。

「願弦さん・・・」

詩甫が唖然として願弦を見た。

「嘘だろ、詩甫ちゃん? 弦さんと付き合ってるの?」

詩甫に代わって願弦が答える。

「ばーか、俺の心の彼女だよ」

「心の彼女って・・・それって片思いじゃないですか」

「両想いだよ、な、詩甫ちゃん」

詩甫がプッと笑い頷く。

「嘘・・・」

「本当だよ。 とっとと一人寂しく帰れ。 詩甫ちゃんは俺が送っていく」

肩を落とした座斎がトボトボと駅に向かって歩いて行く後姿を詩甫と願弦が見送る。

「よし、俺らも行こうか」

願弦が先を歩き、その半歩後ろに詩甫がついた。

「あの、願弦さん」

詩甫に呼ばれて歩きながら願弦が詩甫を振り返る。

「仕事が終わってロッカー室に戻ろうとしたら、座斎が詩甫ちゃんの背中を押しているのが見えたからね、急いで着替えて後ろで様子を見てた」

「様子?」

「何もなければそれで良かったけど・・・座斎が本領を発揮してきたからな」

それはコスプレの話だろう。

「出過ぎたかな?」

加奈と同じことを言っている。 詩甫にその気(け)があったのなら、出過ぎたということだ。

「助かりました」

願弦が頬を緩める。

「でも願弦さん、もし座斎さんが今の話を誰かに言ったら・・・」

願弦が詩甫に片思いをしている、そんな噂が流れる。
ははは、と願弦が笑う。

「願ったり叶ったりだ」

「え?」

「それで詩甫ちゃんにこの会社で要らない虫がつかないだろう?」

「あの・・・」

どういう意味だろうか。

「詩甫ちゃん一人で社に向かってないよな?」

「え?」

詩甫が改めて願弦を見る。 視線を合わせた願弦が宙を見る。

「こんな言い方をしたら詩甫ちゃん怒るかもしれないけど、詩甫ちゃん一人じゃ何も進まない」

「願弦さん・・・」

「詩甫ちゃんて保守派なんだよな、徹底的に」

「そんなこと・・・」

「無くないよ。 詩甫ちゃんっていっつも下向いてたから。 加奈ちゃんも言ってたよ、最近の詩甫ちゃんは変わってきたって」

「加奈が?」

願弦が大きく頷く。

「詩甫ちゃん、いい人が見つかった?」

「え・・・」

「万が一があるからな、家まで送ってくよ」

願弦と二人電車に乗ると駅を降り、少し歩いていると一台の救急車が詩甫たちの後ろから走り抜けた。 もう赤色灯も灯っていなく、サイレンも鳴っていなかった。 その救急車に後ろから抜かれた。 一瞬浅香のことを思い出した。

『詩甫ちゃん一人で社に向かってないよな?』

きっと願弦がそう言ったからだろう。 ちょっと浅香を思い出しただけだろう。


翌日には願弦が詩甫に片思いをしているという噂が広まった。
願弦はその噂を否定しなかった、それどころか。

「誰も詩甫ちゃんに手を出すなよ、俺の心の彼女なんだからな、って言っといた。 それで良いんじゃない?」

などとのたまった。
それはある意味、職権乱用であったが、詩甫はそんなことを言おうとしていない。

「でも・・・」

願弦の立場がある。 上司としても男としても。
詩甫の顔に願弦が笑う。

「生まれたのが神社だったのが縁だろうな」

「え・・・」

「何でも訊いてくれ。 答えられる勉強はしてる」

「願弦さん・・・」

「経験は少ないけどな」

しっかりと神職としてどこかの神社に入って奉仕などしたことはない。 家の手伝いをするくらいだ。

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国津道  第35回

2021年05月17日 22時03分32秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第35回



瀬戸と別れた後、浅香が詩甫を送って行くと言った。 瀬戸の話があったからだろう。 だが浅香は昨日一日寝ていない。 仕事から戻って仮眠もとらずに大婆の所に行ったはず。 すでに三十時間以上起きていることになる。
丁重に断ったがその返事が『お腹空いてません?』 だった。
確かに今は午後三時をこしている。 昼ごはんなど食べていない。 ぬるく苦いコーヒーを飲んだだけである。

『お弁当を作って下さったお返しにお昼をおごらせてください』

ということで、今浅香と向かい合ってカフェを出た近くのファミレスの座席に座っている。

「うー、お腹いっぱい。 瀬戸さんと話している時にお腹が鳴らないか心配してたんですよ」

食べながらの時には瀬戸の話をしていた。 それは『瀬戸さんってお洒落ですね』 から始まっていた。

浅香はステーキセットを食べた。 そしてその後にケーキを食べ、今は目の前にコーヒーが置かれている。
ドリアを食べた後に浅香に進められてプリンを食べた詩甫の前にもコーヒーがある。 今度は温かい内に砂糖を入れてかき混ぜた。 もちろんフレッシュも入っている。

「聞こえませんでした」

半分笑いながら詩甫が答える。

「ははは、かろうじて鳴りませんでしたから」

ふふ、と詩甫が笑って続ける。

「まだ起きていて大丈夫ですか?」

「そんな心配はご無用です。 勤務中に仮眠もとっていますし、結構こんなパターンの生活をしていますから。 でないと夜が眠れなくなっちゃうタイプで」

じゃ、少しお訊きしたことがあります、と前置いて続ける。

「さっき仰っていた手を尽くすということもお訊きしたいんですけど、大婆さんの仰ったことで気になることがあって」

大婆が言っていた。 社に手を合わせるつもりだったと。 この家では歴代の婆がそうしてきたと長治も言っていた。 きっと歴代の婆が社の前で手を合わせ朱葉姫に謝っていたのだろう。

朱葉姫が亡くなってから何百年と経ってからは、大婆が言ったように社に辿り着けなかったのだろうが、まだ花生が生きている時にも手を合わせに行っていたはずだ。 謝罪をしていたはずだ。

だが朱葉姫からそんな話は聞かなかった。 『瀞謝、頼みがあります』 初めて朱葉姫と会った時に朱葉姫が言っていた。 民の楽しそうな顔を見るのが嬉しいと言っていた。 だがもう長い間見ることがなくなったと。 だから社を終わらせてほしいと。 民が建ててくれた社が朽ちるのを見たくはないと。

「少なくとも花生さんが亡くなる前にも分家や本家が謝りに行っていた筈です。 でもそんなことは朱葉姫から聞きませんでした」

それは朱葉姫と会って話した者でないと分からないことだ。 だが今それをほじくって先に何があるのだろうか。

「朱葉姫はなにかを隠されているんでしょうか」

何かとは、本家や分家が謝りに来ていたことを知っていた。 謝りに来た者は声には出さないだろう。 心の中で謝罪を唱えていただけだろう。 だから他の誰も聞くことがなかったが、力のある朱葉姫には届いていたはずだ。

「僕には分かりません。 でも・・・朱葉姫が仰っていないのならば、考えられることが無くはないです」

少し考えるような様子を見せた浅香がゆっくりと口を開く。

「花生のしたことを知って・・・すぐに謝りに行くことが出来たでしょうか」

「え・・・」

「人間、都合の悪いことは隠したがります。 いえ、そんなことじゃないか。 謝るという勇気は容易いことじゃないと思います。 ましてや相手は誰もに愛された朱葉姫。 本家も分家の人も朱葉姫のことを想っていたでしょう。 多分、どちらかと言うとお社に足さえ運べなかったんじゃないでしょうか。 花生に誰が手を貸したわけじゃありません、ですけど親族がそんなことをして、自責の念があったんじゃないでしょうか」

「ということは・・・」

「あくまで憶測ですけど、かなりの年が流れてから。 それこそ代替わりをしたり、花生の存在さえ見たこともない代になってから社に足を向けたんじゃないでしょうか。 もしそうでないとしても、曹司が言っていました。 朱葉姫も最初から今のような力があったわけではないと」

社に入った当初の朱葉姫には人の心の中を聞く力がなかったということだ。

「そう、ですね」

「うーん、納得してもらえないようですね」

「いいえ、そういう意味では」

「曹司が接触してきたら訊いておきます。 僕からは接触できないので曹司待ちですし、その曹司もいつ来るか分かりませんけど、憶測を並べても解決はしませんからね。 それに野崎さんは朱葉姫の仰ることを信じなくちゃ」

「あ・・・」

ニッと浅香が笑って「じゃ、次は手を尽くすって話ですね」 と言った。
それは具体的にどうのということではない。 詩甫が大婆や長治の話を聞いてどう思ったか、まずはそこからだと浅香が言った。


浅香に送ってもらって部屋に戻って来た。 今日の夕飯は食べなくても充分にお腹が膨らんでいる。
部屋を暖めながらすぐに風呂に湯を張った。

『あんたは花生のことを気づかっているようだが、それは無用なことだ』

『どうして朱葉姫が苦しまなければならんかった? どうして苦しみ死ななけばならんかった? それを考えてくれ』

湯気が上がる中で片手で湯をすくう。 手の両端から湯が流れていく。
詩甫は花生が悲しみの涙を流しながら、人を呪って嗤(わら)っているのではないのだろうかと思った。 それはどれ程悲しいことだろうか。
だがそう考えるのは間違っているのだろうか。

朱葉姫の両親や兄、肉親は朱葉姫が苦しむのを目にして、最後には焼けていく朱葉姫を送ったのだ。
ふぅーっと息を吐いた。

「大婆さんの言う通り。 朱葉姫が苦しみ死ぬことなんてなかった」

だがそこで終わることを大婆は許さなかった。 大婆はどうしてそうならなければいけなかったかと言っていた。

「言ってしまえば・・・」

分かっている。
花生の逆恨みだということは。 だから大婆は花生に気づかう必要などないと言ったのだ。

「それに大婆さんの先祖や、親族も花生さんの手にかかって亡くなっている」

花生は沢山の人を巻き込んだ。
きっと自分を後ろから押したのも花生だろう。 浅香が居てくれたから、低い位置から突き落とされただけだったが、きっと亡くなった人たちは坂の上から突き落とされたのだろう。 加速がついて落ちて行き、石や木に頭をぶつければ当時の医療ではどうにもならなかっただろう。 いや、今の医療でもどうなっているか分からない。

大婆は口にこそしなかったが、そんな人達のことも考えろと言いたかったのだろう。 花生に代わって朱葉姫に謝りに行こうとしていた人達が、どうして当の花生に殺されなくてはいけなかったのか。
その人達の無念を思うと、花生を気づかうことなどないと。

「あ・・・」

でも詩甫はあの土地の人間でもなければ親族でもない。 それなのにどうして・・・。

「お社の掃除をしていたから?」

あの雑巾やバケツを壊したのは花生?

「違、う・・・」

あの程度の掃除で花生の神経を逆撫でるはずがない。 社を修復しているわけではないのだから。

「・・・そうか」

そういうことか。 花生は二度も現れた詩甫に怒ったのだ。
詩甫が朱葉姫の前に現れる時には瀞謝の姿になっている。 それを思うときっと花生の目にも詩甫ではなく瀞謝として映っているのだ。
朱葉姫やみんなが言うように、十分気を付けなくてはいけないということだ。

「どうすれば花生さんの気が休まるんだろ」

リビングでスマホが鳴っている。

「あ・・・」

今から上がっても間に合わない。

「あとでかけ直そう」

もう十分に身体は暖まった。 額に汗すらじっとりと浮いている。 せっかく洗った頭の中に汗が出る前に上がろう。
濡れた髪の毛を乾かして化粧を落としていた顔を鏡に映す。 まだうっすらとピンク色をした怪我の跡が所々に残っている。

「まだ治らないかぁ・・・」

コンシーラーに頼る日々がまだ続きそうである。
基礎化粧品を顔につけて座卓に置いてあるスマホを手に取る。

「あ・・・」

電話を鳴らしていたのは願弦だった。

社のことを訊かれてからは、願弦を避けるように現場にはいかなかった。 とは言っても現場に行かなければならないような伝票ミスが無かったからだが、願弦が事務所に入ってきた時にはさも忙しそうに入力をしていた。

この電話を無視するわけにはいかない。 祝詞を教えてもらい、所作まで習いに行こうとしていたのだから。
スマホの画面をタップした。

『よっ、居留守かと思った』

「そんなことしませんよ、お風呂に入ってました」

『ふーん、早い時間に入るんだな』

「今日出掛けていましたから。 ちょっと疲れちゃっててお風呂でゆっくりです」

『なんだよそれ、疲れてるからこの電話を切れってか?』

「違いますよ。 お風呂でゆっくりして疲れも取れました。 えらく突っかかりますね」

『詩甫ちゃんが俺を避けてるからだろ』

やっぱり気づかれていたか・・・。

「避けてなんていませんよ」

『ふーん。 まっ、いいけどな。 どうだ? 社のことを話す気になったか?』

願弦は願弦なりに心配をしてくれているのだ。

「・・・ごめんなさい」

『なんだよそれ、まるでプロポーズを断るみたいな言い方』

「プ、プロポーズぅ!?」

『みたいな、だよ』

「願弦さん・・・」

大きく溜息を吐く。

『どうする? 年末年始に中止になったの』

驚かせておいて平気で話を進める。 電話では見せられない詩甫が頬を膨らませる。

「あ、それ・・・。 うーんと、今の段階で性急にならなくなったんで。 あーでも、教えてもらっとく方がいいのかなぁ」

『なんだよそれ』

“なんだよそれ” 願弦の口癖ではあったが、この電話の会話だけで何回目だろう。

「うーん、当分・・・待ってもらえますか?」

『別に俺としてはいつでもいいけど?』

「またいつ言うか分かりませんけど」

『そっか』

「ん? なんですか?」

何を言いたいのだろうか。

『・・・いや、それなら当分はあんな事にはならないってことだよな?』

あんな事とは詩甫の怪我のことだろう。
願弦は勘がいいのだろうか、初めて社のことを訊いてきた時『ほら、詩甫ちゃんの傷がその社と関係があるのなら、俺も知らぬ存ぜぬではすまないしな』 そう言っていた。 それとも誰にでも分かることなのだろうか。

『当分はその社に行かないってことだろ?』

「はい、そうです」

花生のことが片付かない限りは社に近づけない。 山に入ることすらできない。 いくら浅香がずっと詩甫のことを見てくれていても花生は一度手を出した。 もう詩甫を許さないだろう、見過ごすことはしないだろう。
社のことを考えると今は社自体のことより花生のことの方が先だ。

願弦に悪霊退散ってできますか? と訊きたかったが、そんなことを言ってしまえば願弦がどれほど心配をするだろうか。
それによく考えると、仮に出来るとしても花生には簡単に立ち向かえないだろう。 朱葉姫が力をつけてきたように、花生にもかなりの力があるはずだ。 簡単に人を突き落とすのだから。

『なぁ、詩甫ちゃん』

「はい?」

『社ってな、色々あるんだよ』

どういう意味だろう。

『鬱蒼としてる社に祝詞を唱えただけで、風が入るっていうのかなぁ』

以前願弦は、あまりにも人気が無さ過ぎ、完全に放っておかれていた社を見たという。
一応自分もその道の者だ。 見て見ぬふりが出来ず社の前で柏手を打ち祝詞を唱えた。 手に何も持っていなかったので、一般の参拝のように手を合わせていると、さも下ろせと言わんばかりに上から押さえられたことがあると言う。

「え・・・」

願弦の手には何も乗っていない。 少なくとも目に見える範囲では。

『そんなもんに負けられないしさ、最後まで唱えたのよ』

するとそれから数日後その社に行ってみると、数人で社の周りを掃き清める姿を見、鬱蒼と茂っていた木々の枝が伐採されていた。
社に風が通り陽の光が当たっている、まるで社が生き返ったように感じたという。 その後も何度か足を運んだが、夕方になると提灯が下げられいつも誰かの姿があり、その内に年寄りのコミュニティーのようになっていったということだった。

『まぁ、単にそんな計画があった前に偶然俺が祝詞を唱えただけかもしれないし、俺の唱えた祝詞のお蔭とは言わないけどさ。 それに祝詞にそこまでの力があると思ってるわけじゃない。 こんなことを親父や兄貴に聞かれたら罰当たりが、なんて言われるだろうけどな』

願弦はなにか新しい風を入れろと言っているのだろうか。 風を入れる、それは心を寄せるということだろうか、それとも祝詞にそこまでの力があるとは思えないと言いながらも祝詞を唱えろということだろうか。

願弦は社に何かあると踏んで言っているのだろう。 だが紅葉姫社と今願弦が言った社とは事情が違うのではなかろうか。
それでもこうして助言をくれるのが有難い。 避けていたことを申し訳なく思う。

「今のお話し参考にさせていただきます。 それと、もう怪我をする気はありませんから」

『そっか。 じゃ、またいつでも相談してくれ』

「有難うございます」

『避けるなよ』

「避けてませんって」

笑いながら、じゃな、と言って通話が切られた。

「浅香さんみたいに心配をかけないように上手く誤魔化せる話術があればいいのに」

スマホを座卓に置いた時に気付いた。 さっき、悪霊退散と考えた。

「いつの間にか花生さんのことを悪霊なんて考えてしまってた・・・」

そんなことない・・・、あるはずがない。
だがそう考えるには、そうではない昔語りがしっかりと残っている。

「それに大蛇・・・」

もし、万が一、花生が大蛇でないとすれば大蛇はいったい誰なのだろうか。
そう考えるのは、さっき大婆たちから聞いた話や浅香が推測した話を覆すことになる。 いや覆すともならなくとも、一部が違ってくる。

時代背景は大婆と長治から聞いた昔語りからしかつかめない。
いや、聞ける相手が居なくはない。

「曹司や朱葉姫。 それに社の中に居た人達」

だが朱葉姫に会いに行こうとも、社の中の人達に会いに行こうとも、山に入らなくてはいけない。 山に入らず会えるのは曹司だけ。
だが浅香から曹司への接触は出来ないと言っていた。

「何をするにも山に行くしか方法が無いのかぁ・・・」



月夜の中、曹司が山の中を見回り終えると雑木林の中に座り込んだ。
花生との会話を思い出す。 いや山の中を見回っている時にもずっと花生とのことを考えていた。
花生は『時折こうしてここまで来て朱葉姫に心を寄せる、わたくしはそれだけでいいの』 そう言っていた。

だが朱葉姫は社の裏で姿を変えた竹箒を見て『わたくしが憎いようです』 と言っていた。 そこに残る念、怨。

浅香の話では瀞謝は坂の更に下である階段から突き落とされた。 瀞謝をそんな目に合わせたのは竹箒の姿を変えた者の仕業であるのは間違いないであろう。

花生は『ここまで来て』 と言っていた。 それは階段を上り切った坂の下だ。 階段に居た瀞謝を突くことができる。 だが社の裏に置いていた竹箒の姿を変えることは出来ない。

花生の言うことを信じるのならば、少なくとも竹箒の姿を変えたのは花生ではない。 だが花生がこの世に居るのならば朱葉姫に会いに来たはず、社に来たはず。

「花生様が仰ることを疑うなど・・・」

花生が嘘をついているのだとしたら事実に対しての辻褄が合う。
事情があると言っていたが、それは何なのだろうか。

下げていた顔を上げる。
山の中に居てても何も新しい考えが浮かばない。 花生を疑うことしか浮かばない。 気分を変えれば何かに気付くかもしれない。

「亨、か・・・」

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国津道  第34回

2021年05月14日 22時38分15秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第34回



曹司と薄(すすき)が社の外に出ていた。 腰付き格子戸の前である。

朱葉姫と曹司、一夜以外の者が社から出るのは滅多にないことである。 薄にしてはこの千年以上の間にこれで二度目ではないだろうか。

一度目は浅香と瀬戸の会話を聞いた曹司が様子をおかしくしていた時だ。 社に戻ることの無かった曹司を心配して薄が社から出てきた時である。
その薄が社の外に出ようと言った。 あまり誰にも聞かれたくない話になるのだろうか。

腰付き格子戸の前に立っていた二人の姿が消えて行くのを、丁度社の中の世界の外から社の中に入ってきた一夜がその姿を見た。

「まぁ、薄が。 珍しいこと」


「どうして花生様のことを訊きたいの?」

社の前から身を隠すように、ほんの三、四歩先を歩いた薄が足を止め、ゆっくりと振り返り訊ねた。

「わたしにはお優しい方でした」

「ええ、そうね。 誰にでもお優しい方だったわ」

今の曹司は二十七歳の頃の姿をしている。 薄は三十五歳ほどの姿。 薄のその姿は朱葉姫が亡くなった時の姿であるが、曹司も同じく朱葉姫が亡くなった時の姿をしていれば、薄と曹司は親子に見えたかもしれない。

だが曹司は朱葉姫が亡くなった頃の姿ではなく、二十七歳の頃の姿をしている。 今はまるで歳の離れた姉弟のように見えるだろう。

「花生様は・・・どうしてこの社に来られなかったのでしょうか」

「それは・・・花生様にしか分からない事ね」

「どんな理由がおありだったか見当はつきませんか? あれほどに朱葉姫を可愛がられていたのですから」

薄が後ろを向いた。 歩を出す気配はない。 歩き進めるのではなく、曹司に背中を向けただけのようだ。

「曹司」

「はい」

「花生様は誰にでもお優しかった。 ・・・一人を除いて」

最後の言葉は小さかった。 曹司に聞かせるように言ったのではなく口の中で呟くように言ったようだった。 だが曹司の耳には届いていた。

「・・・え」

「どうして急に花生様の話を訊きたがるの?」

「あ、いえ、その。 社のことで・・・瀞謝、ええ、瀞謝のことが気になって」

「相変わらず嘘をつくのが下手なのね」

「嘘などと」

薄が曹司に向き直り数歩曹司に近寄る。 その薄の手が曹司の頭の上に伸びる。 手を上に伸ばさなければいけない。

「いつの間にかこんなに大きくなっていたのに、相変わらず嘘をつくのが下手」

曹司の頭を軽く撫でてやる。

「小さな頃からそうだったわ。 つけない嘘をつこうとして民の失敗を隠そうとばかりして」

撫でていた手を下ろした。

「そのような昔の話は・・・」

誰しも小さな頃の話をされるのは気恥ずかしい。 肉体を捨てたとは言え、曹司もまたそうである。

「・・・花生様に、会ったの?」

「あ? え? ・・・あの」

「そう・・・」

曹司の強張った顔が会ったのだと言っている。

「そう・・・、花生様もこの世にいらっしゃるのね」

「あの、決してそのような事は・・・申し上げておりません」

俯いた薄だったが、曹司の言いように暫くして顔を上げた。
曹司、と呼ぶと薄が微笑む。

「朱葉姫様の願いを叶えましょう。 それがわたし達の願いでもあるのですから」

「・・・はい」

薄に話を終わらされてしまった。
薄の言うように、社が朽ちる前に亨と瀞謝は大蛇のことを調べられるだろうか。 そしてその後にどう動くのだろうか。
薄が言った『一人を除いて』 それは誰のことなのか・・・教えてはもらえなかった。

「この場所・・・こんなに寂しくなっていたのね」

人気が無いということもあるが、どこか雑然として寂れた感じがする。 社の中の世界は当時のままの風景を残しているというのに。

「それにお社・・・」

薄が視線を上げたのにつられて曹司も振り仰いで社を見た。
もういつ朽ち果ててもおかしくない。 いや、よくも今までもってくれていたものだ。
朱葉姫が守ってきたこともあるが、朱葉姫にもうその力は残されていない。

「このお社のどこに大蛇が居ると言うのでしょうね・・・。 どうして民はそんなことを信じたのかしら」

曹司が朱葉姫に言った話は一緒に聞いていた一夜から他の者達に伝えられていた。
薄は大蛇や民のことを言っているが、何もりも悲しいのは朱葉姫が民を見られなくなったことを言っているのだろう。

薄の足が社に向いて出された。



電車に揺られて浅香と詩甫が座席に座っている。 もう乗り換えは済んだ。 この電車で浅香と分かれる。 浅香の降りる駅は普通電車しか止まらない。 急行から普通電車に乗り換えていた。

ここまでに詩甫は一言も話さなかった。 急く話ではないが、あまり悠長にも構えていられないのが現実だ。 ましてや二人で会って話を進めて行くのには取れる日が限られている。

何度か浅香から話しかけようとしたが、詩甫が何をどう考えているのかが分からない。 それを聞くためにも話しかけなければいけないということも分かってはいるが、大婆の部屋で涙した詩甫を見てしまっては簡単に話しかけることなど出来ないでいた。

「じゃ、気を付けて帰って下さいね」

浅香の降りる駅のホームに電車が入った。

「あ・・・」

詩甫は全く気付いていないようであった。

浅香のジャケットのポケットの中でバイブの音が聞こえた。 スマホをポケットから取り出すと『瀬戸さん』 と表示されていた。
スマホを持ったままドアの前に立つ。 電車を降りてすぐに出るつもりだ。

「あの、今日は有難うございました」

「今日は一日ゆっくりとしてください」

電車が止まるとドアが開いた。

「じゃ」

ドアから体を出すとすぐにスマホに出る。

「浅香です」

その声がまだ開いているドアの向こうから詩甫の耳に聞こえる。

「え? あ、はい。 じゃ、今すぐ行きます」

ドアが閉まりかけたと思ったら、浅香が身を滑らせて入ってきた。
詩甫がキョトンとして見ている。

「出戻りです」

「え?」

詩甫の座る前に立って吊革を持つと、反対の手でスマホをポケットに戻す。
ドアの閉まる音がするとガタンと電車が走り出す。

「今の電話、瀬戸さんからでした」

「瀬戸さん?」

瀬戸のことは知っている。 会ったことは無いが、瀬戸のお蔭で今日があったのであるし、次へのステップが出来るのでもある。

「ええ、次の駅のカフェで待っているそうです」

次の駅というのは詩甫の降りる駅でもある。

「瀬戸さんにしても大蛇のことが気になっているんでしょう。 今日あちらに寄せてもらうことは連絡していましたから、その報告を聞きたいんでしょうね」

「どうお話しされるんですか?」

大蛇が誰なのかどうして存在したのか。 それをどう話すのか。
大婆の話はそれこそ大昔の話になるが、花生のことは内密にしておきたくて、本家である大婆の家が呪者に言われるがままになったと言っていた。
浅香はそれをどう判断するのだろうか。

「花生のしたことは話せませんね。 今でも長治さんの所ではその昔にあったことを秘密にしたいようですから。 それに今更何を言っても始まりませんし。 ですが何も分からなかったというのは、申し訳ない気がしますし」

瀬戸の話やファイルがあって大婆の家に辿り着いたことは詩甫も分かっている。

「ま、大蛇の話はします」

「どんな風にですか?」

「タクシーの運転手さんの話を頂きましょうか。 朱葉姫があまりにも綺麗だったからそれを妬んだ女が居たとでも」

嘘つきとは言わないが、浅香は話しを立てるのが上手い。 決して誰かを傷つける嘘も言わないであろう。

「あの、お礼を申し上げたいので同席させてもらってもいいですか?」

先ほどまでの考え込むような顔ではない。 少しはショックから立ち直ったのだろうか。 それならこのまま部屋に帰して一人の時間になり、また考え込むようなことをさせるくらいなら疲れていてもカフェで話でもしている方が健康的だろう。

「歓迎します」



カフェのドアを開けると以前に会った時のようなファッションをした瀬戸をすぐに見つけた。
ショート丈のジャケットの下にはハイネックのニット。 ジャケットに色を合わせたカラーのスリムパンツ。 頭の上にハンチング。

瀬戸も浅香をすぐに見つけて片手を上げたが、その手が生命力を失くしたように止まった。 浅香の後ろについてやって来た詩甫を見たからである。
瀬戸が立ち上がり二人を迎える。

「もしかして行った帰りでした?」

浅香から今日、詩甫と一緒に行くと聞いていたからである。

「ええ、丁度部屋に戻ろうと電車を降りたところでご連絡を頂いて、すぐに電車に乗り直しました」

どういう意味なのだろうか、瀬戸が首を傾げる。 その瀬戸が詩甫に向かって視線を向けると僅かに頭を下げる。

「初めましてということにしましょうか。 瀬戸朝霞と申します。 お傷、跡が残らなくて良かったですね」

詩甫にとっては会ってはいたのだろうが、気を失っていたから初めましてだが、瀬戸はしっかりと詩甫を見ていたのだろう。 そして傷というのは顔の傷ということだろう。

「初めまして。 野崎詩甫と申します。 その節はお世話になりました」

あ、そっか。 と浅香が思った。 詩甫は電車の中でお礼を言いたいと言っていた。 それはてっきり今日のことでと思っていたが、そうではなかったようだ。

(結構、野崎さんの心を読めてるつもりだったけど、そうでもなかったか・・・)

「仕事ですから。 座りましょうか」

浅香が詩甫を奥に座らせその隣に座り、二人分のコーヒーを注文した。 瀬戸の前にはレモンの浮いた紅茶が置かれている。

「浅香さんの後輩だとお伺いしましたが。 社サークルの」

「はい」

「少しはお役に立てたでしょうか?」

「少しだなんて。 瀬戸さんのファイルが無ければ何も分からず仕舞いでした。 あの、本当に有難うございました。 どうしてもお礼を申し上げたくて浅香さんについてきてしまいましたけど、ご迷惑ではないでしょうか」

(あ、やっぱり当たってたのか)

「迷惑だなんてとんでもない。 んー、お二人はお付き合いをしてないんですか?」

え? っと浅香と詩甫から声が漏れる。

詩甫を救急車に乗せた時には浅香は詩甫の生年月日すら知らなかった。 その時は付き合ってはいなかったのだろうが、今もなのだろうか。

「いえね、さっき浅香さんが電車を降りようとしていたと仰っていたから」

それがどういう意味なのだろうかと、二人が首を傾げる。

「野崎さんが此処の地域の住人だということは浅香さんから聞いています。 お二人が付き合っているのなら、普通、野崎さんを家まで送るでしょう?」

あ! っと浅香が声を上げる。

「うわぁー、野崎さんすみません。 その、付き合ってる否かにかかわらず、一度も家まで送ったことがありませんでしたぁー」

慌てて詩甫が首を振る。

「そんなことをしてもらっては困ります。 それに夜遅くなった時には送っていただきました」

浅香がまだ嘘をついていた時、残業で遅くなった詩甫を送ったし、初めて朱葉姫に会いに行った時も祐樹の心配をしながら送ってくれた。

「ふむ、充分他人行儀ですね。 じゃ、お付き合いはないということで、僕が野崎さんに目を合わせても浅香さんに怒られるということは無いということで宜しいですか?」

「もちろんです」

少しは戸惑ってくれてもいいのに、と浅香は考えたが、当の詩甫が即答する。

(野崎さん、好きな人が居るのかなぁ・・・)

大婆に触発されたのだろうか、それとも詩甫の手料理を食べたからだろうか、朱葉姫のこととは別にどこかで詩甫のことを気にしている自覚はあった。

「浅香さんも?」

どうして敢えて訊いてくるのだろうか。

(あ、もしかして僕の心読まれてた?)

だが今ここで否とは言えない。 詩甫は是と即答したのだから。

「ええ、そんなことはありませんよ」

にこりと微笑んだ瀬戸が背もたれに背中を預ける。 湯気を上げたコーヒーが運ばれて来たからだった。

「失礼なことを訊いて悪かったですね。 いえね、以前そのパターンでこっぴどく怒られまして」

「目を合わせただけでですか?」

浅香の前をコーヒーカップを持ったウエイトレスの手が詩甫の前まで伸びていく。

「ええ、それも単なる患者の彼氏ですよ? 普通、隊員は患者の目を見て意識の具合を見るでしょう?」

続いて浅香の前にもコーヒーが置かれると、詩甫と同じように浅香が小さく頭を下げる。

「うわっ、信じられませんね。 色んな家族や人間関係には当たりましたが、いや、まだそんなのに当たったことはありません」

「そうそう居てもらっては困りますよ。 殴りかかって来そうになって、他の隊員が止めてくれたりで、その悶着のお蔭で搬送に遅れをとりましたし」

瀬戸は詩甫から見ても男前の部類に入るだろう。 部類に入るどころか先頭に立っていると言ってもいい。 今この服を着ているからモデルにさえ見えるが、救急隊員としての制服を着てマスクをしていても出している目だけでも男前だろう。

患者の彼氏というのは男前の瀬戸に警戒をしたのかもしれない。 いや、殴りかかってきたということは警戒以上だろう。

「それって搬送妨害・・・になるんでしょうか」

浅香と瀬戸は暫く隊員同士の話をしていた。 詩甫にとっては聞くことの無い世界である。 退屈どころか耳を大きくして聞いていた。

「それで、どうでした?」

隊員同士の話が終わり、今日のことを切り出したのは瀬戸の方だった。

「ええ、さっきも野崎さんが仰ってましたけど、瀬戸さんのお蔭でかなり分かりました」

「かなり?」

全てという訳ではないのか。

「お社のことを調べるのに終わりなんてありませんから。 それにあそこのお社はかなり古いものですし」

そういう意味か。 そうだった、この二人は社サークルであったのだった。

「でも瀬戸さんの疑問は解けました」

「あの家が話してくれたということですか?」

背もたれに預けていた背を前に屈める。

浅香が言っていたように、疑問を持ったら突き進むという特殊人物なのだろう。 今は突き進んでいるわけではないが、かなり気にかかっているようだ。

「ええ。 瀬戸さんが持ってらした疑問、どうして大蛇が居て何故とぐろを巻いているのか」

瀬戸が無言で頷く。

「まず第一に、大蛇はお社にとぐろを巻いていません。 とぐろすら巻いていませんし、お社にも居ない。 大蛇が居るのは山です」

瀬戸が深く息を吸い、吐きながら腕を組む。

「第二にどうして大蛇が居るのか」

腕を組んだままの瀬戸が再度頷く。

「大蛇というのはその昔生きていた女性。 朱葉姫の美しさや器量に嫉妬した、とでも言えばいいのでしょうか。 その怨念のようなものがあの山に残っていた。 それがいつの時代からか大蛇の目として言われるようになった。 まぁ、怨念なんて不気味なものですからね、大きな蛇の目として例えたんでしょうね。 そこに不幸が重なった。 それで昔語りとして残っている、ということです」

瀬戸が何度も頷く。 瀬戸とてそれを考えなかったわけではない。 昔話によくあるパターンだ。 だがそんな昔語りが今もなお残ってあの地域の者は山に入りたがらない。

「その怨念というのはまだあの山に残っているということですか?」

「そうだと聞きました」

詩甫が驚いた目をしかけたが、ここで瀬戸に覚られては困る。 浅香が何を考えているのか分からないのだから。

「その女性とは?」

「残念ながらそこまではご存知ないようでした」

「怨念が今も残っているのだとしたら・・・」

チラリと詩甫を見る。

「ああ、野崎さんが落ちたのは違います。 あの日は雨が残って足元がかなり滑りやすくなっていましたから。 僕が気を付けなくちゃいけなかったのに」

「いいえ、私が悪いんです。 浅香さんから足元に気を付けるように言われていたのに」

二人の話に割り込む気はなかったが、この話の流れで黙っていては不自然だろう。

「そうですか・・・。 野崎さんは社まで行かれたのに睨まれることは無かった。 怨念が残っているというのに」

「ええ、それで僕たちが社に行ったことを話しました。 その時には野崎さんには何もなかったと言いましたら、きっとあの地域の人間ではないからだろうと言われました」

「え?」

「怨念っていうのがどういうものなのかは僕には分かりませんが、その女性は朱葉姫の美しさや器量に嫉妬していたわけです。 だがそれだけでは無い、誰もが朱葉姫を愛さなければ、怨念など残さなかったでしょう。 朱葉姫はその地域に住んでいた姫様。 誰からも愛された姫様です。 今の時代のように遠方から朱葉姫を訪ねてくる人は居なかったでしょうから、怨む対象とでも言いましょうか、それは朱葉姫を愛したあの地域の方たち。 そんな風に教えて頂きました」

そういうことか・・・と口の中で言いながら背もたれにもたれると上を向いた。

瀬戸のそんな姿を見ながら、全く浅香という男は、と思った。 練習をしたわけではないし、こうして話すまでに考える時間もなかったはずだ。 それなのに言い淀むことなく、一番大切な真実を言うことなく、だからと言って大きな嘘など言ってもいない。

こんな場面では頼れる相手だが、浮気をしても簡単にかき消してしまうのではなかろうか。 奥さんや彼女は簡単に言いくるめられるのではないだろうか。

「ん? なんですか?」

「あ・・・」

知らない間に浅香を凝視していたようだ。

「いえ、何でもないです」

もうぬるくなってしまっているコーヒー。 今から砂糖を入れても溶けないだろう。 フレッシュだけを入れて一口飲んだ。
豆を挽いたコーヒーに無糖。
苦い・・・。

「ではあの山には、あの地域の者はこれから先も入ることが出来ないということですか?」

上を向いていた顔を戻した瀬戸が言う。
怨念があるのだから。

瀬戸の質問に浅香も詩甫も思い出した。 ファイルに書かれていたことを。

『おれはこの地で生まれ育った。 この地にずっと居たいと思ってる、 でもあのお山には誰も入らない。 入ることを代々許されていない。 社があるのに誰も入ろうとしない』
そのことを言っているのであろう。

「今日の話を聞くまえから野崎さんと話していたんです」

瀬戸が眉を上げて浅香を見てから詩甫を見る。
こちらを見られても浅香が何を言おうとしているのかが分からない。 取り敢えず微笑んでおくしかない。

「僕たち社サークルは色々な社を見ましたけど、あの紅葉姫社はちょっと悲しいなって。 あまりにも寂れているっていうか、人気が無さ過ぎるって言うか」

「そうでしょうね、誰も行かないんですから」

「ですから手を尽くそうかと」

「手を尽くす?」

「ええ、昨日の今日どころか、さっきのさっきその女性の話を聞いたところですから、立ち消えになるかもしれません。 ですがもし、何かの解決策が見つかるようでご協力が欲しいと思いましたら、お手を貸して頂けませんか?」

この二人は色んな社を見てきたのだろう。 そこと比べてあの紅葉姫社がどれだけ寂れているのかを感じたのだろう。 社サークルという珍しいサークルに入っているくらいだ。 社のことを大切に想っているのだろう。

――― 何かが変わるのかもしれない。

有難いことだ。
瀬戸が笑った。 顔だけで。

「喜んで」

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国津道  第33回

2021年05月10日 22時22分10秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第33回



詩甫の涙が止まったようで、浅香に持たされたハンカチで目の周りを拭くと手を下げ、浅香を見た。 長治が眉間に皺を寄せているからだった。 今の浅香の言い方は長治を怒らせただけではないのだろうか。

「大蛇、それが花生という人のことなのではないですか? 花生という人が今も尚あの山に居てお社が朽ちるのを待っているのではないのですか? その昔に呪者によってこの世に幽霊として残った花生という人が、お社を朽ちらせるために人を近づけなくさせた。
蛇に化身出来るかどうかまでは僕の知るところではありませんが、山の中で睨まれればその姿を見なくとも・・・その、当時の人の感覚は分かりませんが、まず日本人の感覚なら蛇と思うのではないでしょうか。
他の獣であればすぐに襲い掛かって来るでしょうし、蛇だと言うだけでは説得性がない。 小さな蛇に睨まれたくらいで逃げ帰ったとは思われたくない、そんな考えが働いたのかどうかは分かりませんし、本当に大きな蛇に睨まれたくらいの凄みを感じたのかもしれません。
大きな蛇、大蛇となれば単なる蛇というのとは別の話になります。 日本人であるならば」

日本人は昔から蛇を神格化し畏れたり、またそれが故に怖れもしている。 反対に禍々しい生き物とも考えている。 単なる生き物では終わらせていない。

浅香が一度止まっただけで一気に話した。

タクシーの運転手も同じようなことを言っていたが、それを裏打ちする話がなかった。 だが今、大婆や長治に聞いた話からすると、間違いなくタクシーの運転手の言っていた通りである。

浅香が話している時、長治は顔を強張らせていたが、頬の筋肉が弛緩したように口の端が下がった。 そして大きく息を吐いた。

「大婆」

長治が大婆を呼んだ。 あとは任せるということである。

目を瞑って浅香の話すのを聞いていた大婆だったが、その瞼が上がった。 その奥にあるもう何十年も色んなものを見続けてきた濁った瞳が詩甫を捕らえた。

「あんたは今あんたの連れが言ったことを信じるか?」

次郎から聞いていた。 なによりも大蛇のことを知りたいと訴えていたのは女の方であると。 それは詩甫ということである。

「はい」

大婆が一拍おいて相好を崩す。

「若いというのはええのぅ」

「大婆」

窘(たしな)めるように長治が言う。

詩甫が首を傾げ浅香が顔を僅かに赤くして下を向いた。 きっと大婆は詩甫と浅香を恋人同士とでも思っているのだろう。

長治に煩いという目を送ってから大婆が続ける。

「わしらもそう考えておる。 わしらの先祖からそう聞いておるでな」

詩甫が何度か目を瞬(しばたた)く。

「あんたが知りたいと言っていた大蛇の正体は花生」

詩甫が口を引き締めて小さく頷く。
花生はどうしてそんな道を選んだのだろうか。 詩甫には理解できないが、人それぞれの想いは誰にでも通じるものではない事は分かっている。

「わしらはな、朱葉姫様に謝らねばならん。 わしらの先祖は朱葉姫に謝ろう謝ろうとして、何度も何度も社に足を運んだ。 何代の時を経ても」

だが花生が呪者の呪いでこの世に存在していた。

「死んだ者の力などは分からんが、花生が死んでからどれくらい経った時か、それこそ百年単位だろうが。 花生はこの本家筋も勿論のこと、分家全ての人間が分かるらしい」

「他の家の人と区別が出来るということですか?」

「ああ、それがどうしてなのかは分からんが」

曹司が浅香を見てすぐに分かったのと同じなのだろうか。 浅香も曹司を見てすぐに自分だと分かった。 いや、曹司と浅香の場合は分霊である。 同じではないだろう。

「わしらの村はその家の血筋の女が仕切るということになっとる。 本来わしが死ねば、この家系の血筋に最後に生まれた女であるわしの娘が仕切ることになっとったが、九十手前で死んでしもうてな。 少なくとも次の女が生まれるまでわしは死ぬに死ねんわけだ」

どうして今ここでこの家を誰が仕切ると言う話になるのだろうか。

(っていうか、この大婆って何歳だよっ!)

「娘が産まれてその次の女が産まれるのを見届けてから社に行くつもりだった」

「大婆は山に入って花生にいつ何をされるか分からんが、死ぬ覚悟で社に手を合わせるつもりだったんだ。 跡を継ぐ女のその後の女が産まれたのを見届けてから社に行く。 この家では歴代の婆がそうしてきた」

「分家連中もな。 だが分家はとうの昔にそれをやめてしもうとる」

「花生という人に睨まれる、からですか?」

長治と大婆が頷く。

「その昔から他の家の者たちは仕切る女が家を代表して社に謝りに行かんでもええ。 何も知らんのだからな。 それどころか女だけではなく男も社に行っていた。 だがわしらの親戚筋では昔から誰一人として社に辿り着いた者はおらん。 いや、辿り着いたのかもしれん。 社から戻る時に山から落とされたのか、それさえも知ることはない」

「親戚筋以外の同行者はいなかったということですか?」

浅香の問に答えたのは長治。

「謝りに行くために山に行くんだ。 多分、誰にも見られずひっそりと足を運んでいたんだろう」

そういうことか。 小さく浅香が頷く。

詩甫が朱葉姫の言っていたことを思い出していた。 もう長い間ずっと民は来ていないと言っていた。 民の顔を見ることは無いと言っていた。
大婆の言う通り、きっと花生の筋の親戚は社にはたどり着けなかったのだろう。 では他の家の者はどうだったのだろうか。

あ、っと浅香の口から声が漏れた。

「だから女の人が睨まれる、という風に昔語りに言い伝えられている・・・」

この家も分家もその血筋の女が仕切っているということは、社に手を合わせに行くのは男ではなく女。 そしてその女たちは花生の手によって不幸に貶められ、花生の親戚筋以外の女たち、他の家の者には睨みを利かせた。 社に来るな、社を修繕するなと。 それとも敢えて睨んでいたのではなく、この家の筋の者かどうかを見ていたのかもしれない。

浅香の説明に詩甫がついさっき頭に浮かべた疑問を消した。 他の家の者たち、女達は睨まれることを怖がって行かなくなったのだ。 家を仕切る女が行かなくなれば段々と誰も行かなくなるのだろ。

「そうだ。 わしが行けば必ず花生は手を下してくるだろう。 相当に親戚筋を恨んでいるようだわ。 逆恨みもいいところというのが分かっておらんのだろう」

「ですが大婆さんが山に行かれて、その、何かあればまた噂が余計に立つのではないですか?」

「ああ、きっとそうだろう。 そんなことは避けたいが、何よりも朱葉姫に手を合わせて謝りたいのが第一だ」

「大婆はな、社に大蛇がとぐろを巻いているとか、社に大蛇が居ると言われていることがどうしても許せん・・・いや大婆だけではない、わしらもだ」

当たり前だ、という顔を長治に向けると次に浅香と詩甫を見た。

「朱葉姫の社だ。 その社に大蛇が居ると。 その大蛇が睨んで人に不幸をもたらすなどという朱葉姫に対して無礼な歪んだ昔語りをわしが死んで証明してみせる、その時まで好き勝手を言っていろ、そのつもりだった。 わしが朱葉姫に謝れる方法はそれくらいしかないからな」

そういう事か、と浅香が溜飲を下げた。
社か山か、そのどちらに大蛇が居るか。 この家の者たちにとって社に大蛇が居るという話は、朱葉姫を愚弄しているに近いものがあったということか。 だから瀬戸が社か山かどちらに大蛇が居るかなどどっちでもいい、そう言ったからすごまれ追い返されたということだったのか。

「大婆は親戚以外の男を引き連れて山に入るつもりだったんだ。 男達を証人にしてな」

「本家筋が来たとなると花生はすぐさまにでもわしを殺すだろうからな。 社まで行きつけんだろう。 それだけで十分だ。 それで社に大蛇が居るという馬鹿な話は消えるだろう」

「そんな・・・」

思わず詩甫の口から洩れる。

大婆が詩甫を見る。 沢山ある皺の中に微笑みが見える。

「わしはそれでええ。 それが本家のすべきこと。 わしの本望。 だが・・・願いは叶えられんようになってしもうた」

命を差し出して社の噂を消そうと考えていたが、跡を継ぐ女の子が生まれてこない。 もう家の中を簡単に移動することすらままならない体になってしまった。

長治が鼻で笑う。

「大婆が歩けんのだったら、わしが負ぶって行ってやる。 わしも本家の血筋だ。 二人ともとっとと花生の手にかかるわな」

大婆と長治の話に詩甫が眉尻を下げる。 朱葉姫はそんなことを望んでいない。 朱葉姫は民の笑顔を見たいだけなのに。
唇を噛み締めた時にうっ、と喉の奥で声を鳴らした。 すぐに持っていたハンカチを目に充てる。

大蛇の正体が分かった。 その背景も。 そして今も花生と対峙している人が居る。 ましてや命を懸けて。 その命を投げ捨てる覚悟ではなく、確定的に死を望んでいる。 それは朱葉姫に対しての謝罪として。
心の中で何度も首を振る。 朱葉姫はそんなことを望んでいない。

たしかに朱葉姫が亡くなる前の苦しみを思うと心が砕かれそうになる。 それと同時に花生という人物への悲しさを思う。 それは花生の我儘だとは分かっている。 朱葉姫が亡くなった後ですら朱葉姫を意識していたのだから。

花生は誰からも見てほしかった、それが叶わなかった。 誰もが朱葉姫が亡くなった後も朱葉姫しか見ていなかった。 それを口惜しいと思った。 どうして花生を見ないのかと。 だから花生は社が朽ちていくのを見て満足するしかなかった。

でも・・・そんな風に考えられるだろうか。
そんな単純なことだろうか。

朱葉姫から花生のことは聞いていない。 それは朱葉姫と詩甫が会う時が少なかったということではあるだろう。 朱葉姫は何よりも先に民だった。 救いたい民のことであった。 その民の笑顔を見て朱葉姫は癒されていた。

花生は朱葉姫のその姿を見ていた筈。 どれだけ厭(いと)う心を持っていても朱葉姫の姿を見ていたのだ。
朱葉姫を厭おうとも民に微笑む朱葉姫の笑顔を見ていた筈。 朱葉姫の声も心も、指先でさえ人を包むであろう。 花生もそれを肌で感じていた筈。 花生も朱葉姫に包まれていたのではないのか。 だから何年も何十年も偽りであっても人に寄り添えていたのではないのだろうか。

花生はどれだけ迷いの中に居たのだろうか。 燃えるような憎しみがあったかもしれない、だがそれを鎮火させる朱葉姫の存在があったのではなかろうか。
花生は悲しみの涙を流しながら、人を呪って嗤(わら)っていたのだろうか。

浅香が沈鬱な表情を見せていた詩甫の指先をつつきバッグを指さす。 花生の話にすっかりと忘れていた。 だが今ここでこれを見せて何か変わるだろうか。

詩甫がバッグからメモを取り出す。 それを大婆の前に置いた。
メモには瀬戸のファイルに書かれていた文言が写し書かれていた。

『あなう、あなう、美しあなう、泣―くぅな』

「お歌みたいなんですけど、ご存知ではありませんか?」

大婆がメモを見、長治も覗き見る。

「どこでこれを?」

長治が言うと浅香が答えた。

「たまたまこちらの地域出身の人と仕事の関係上話すことがありまして、その時に面白い歌だろうと聞いたんですけど、曲調もこれが何の歌かも分からないと言っていまして、今日僕がこちらに来ることを知って訊いてきて欲しいと」

長治が大婆をチラリと見ると大婆がフンっと鼻を鳴らした。

「わしは音痴でな」

「ああ、わしらも大婆から聞くだけだから、曲は分からん」

自分で音痴と言っておきながら、長治の言いように一つ睨みを入れてから浅香に答える。

「これはな、わしらの先祖が花生のことを憎みながらも作った歌だ」

「ご先祖さんが・・・」

「ああ、花生とてもう死んだ人間。 逆撫でをする気はない。 心を鎮めてくれと願った歌だった。 もう誰も覚えておらんだろうがな。 歌の欠片を知っておったということは、あんたのその知り合いはわしらの親戚筋かもしれんな」

「では “あなう” というのは花生さんのこと?」

「ああ、そうだ。 花生とは言われんからな」

花生が幼い時、自分の名前を上手く言えず “あなう” と言っていたという。

「泣くな、気を鎮めてくれ。 早い話が、わしらの筋を恨むな、そういう内容だ。 その昔は山に入る前にはこの歌を歌ったと聞いとる」

抒情詩的でもなんでもなかったようだ。

「その知り合いに花生のことを話すのか?」

長治が言った。

花生のことは漏らしたくないということだろう。

「いいえ、花生さんって人のことはここだけの話のつもりです。 “泣くな” と入っているので昔の子守歌だったとでも言っておきます」

長治が頷いた。



社に戻って来た曹司。 花生のことを朱葉姫に話そうかどうか迷っていたが、とうとう話すことが出来なかった。

花生が言ったように、花生の名を出せば朱葉姫が会いたいと思うだろう。 だが花生は何かの事情があって朱葉姫に会えないと言っていた。 それがどんな事情かは分からいが、これを浅香に聞かせると『幽霊にどんな事情があるんだよ』 きっとそんなことを言うだろう。
我が子孫でありながら己の分霊である浅香は時に不躾なことを平気で言う。

「曹司、どうしたの?」

声の主は、朱葉姫に出す茶を乗せた盆を持った薄(すすき)であった。

幽霊と言ってしまえばそれで終わりだが、社があることによって生きていた時と変わらない生活を送っている。
社に集まってきた者達がそれを望んだからである。 望むことによって形となった。

曹司が朱葉姫に『瀞謝の前向きな姿に事が動いたのかもしれません』 そう言ったのは、今の生活が社に集まった者達の望みによって形となったからであった。 だから瀞謝の想いで事が動いたのではと考えた。

この世に肉体を持っていようがいまいが、想いは事を動かす。 死んでから曹司はそう考えるようになっていた。

「ああ、いえ何も・・・」

そこまで言って思い出したことがあった。
まだ幼かった時に朱葉姫が亡くなった。 毎日毎日泣き暮らしていた己に寄り添ってくれていたのはこの薄だった。 花生も忙しくしながらも曹司を慰めに来てくれてはいたが、花生には跡を継ぐ者の嫁としての仕事がある、薄ほどずっとではなかった。 薄なら花生のことをよく知っているかもしれない。

「花生様のことを伺いたいのですが」



大婆の家を辞した詩甫と浅香。
大婆は最後に

『あんたは花生のことを気づかっているようだが、それは無用なことだ』

立ち上がった詩甫に大婆が言った。

『わしも女だ、今も昔もな』

そこまで言った時に長治がかなり頬を歪めた。 だが窘めることは無かった。

『花生の気持ちが分からんでもない。 女というのはいつも誰にも見てもらいと思っとる。 特に顔が良ければな』

花生は幼いころから誰にもちやほやとされていた。 幼い時には可愛く、年頃になれば美しかったときく。

『きっとあんたのご先祖さんもそう思っただろう。 あんたの言うご先祖さんは女だろう?』

はい、と詩甫が答えた。 だが瀞謝はそんなことは考えなかった。 それを言いたかったが言葉が見つからなかった。
詩甫の困り顔を見て大婆が言う。

『そうか・・・。 あんたを見てればわかる、あんたのご先祖さんも女の持つ執念を持ち合わせておらんかったか』

え? っと言う顔を詩甫が大婆に向けた。

『だがな、あんたのご先祖さんが女の執念を持っとらんかったとしても、花生の情念は誰をも不幸にした。 朱葉姫の周りにいる者の誰をも巻き込んだ』

執念や情念と言われ言葉の意味を知っていても、詩甫にはその真髄が分からない。

『どうして朱葉姫が苦しまなければならんかった? どうして苦しみ死ななけばならんかった? それを考えてくれ』

そう言っていた。

二人が肩を並べて大婆の家の庭先でタクシーを待っていた。 長治がタクシーを呼んでくれたのだった。

大婆が言っていたように詩甫には妬むという気持ちが無いのだろう。 いや、無くは無いだろうが、濃くはない以上に薄いのであろう。
長治に『執念とはどういうことですか?』 と詩甫が聞いたが長治は『その様子じゃあ、あんたはそんなことを考えないようだな』 そう言っていた。

長治の言った意味を浅香はすぐに分かった。 だが詩甫は分からなかったようだった。 きっと詩甫は花生の全ての気持ちが分からないであろう。 その詩甫が大婆から聞いた話をどう理解したのか。
その理解の仕方で今後が・・・進め方が変わる。

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国津道  第32回

2021年05月07日 22時50分41秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第32回



襖が開くとそこには次郎が立っていた。
次郎が座敷に入ってくると、長治に何やら耳打ちをする。 すると長治が頷くと立ち上がり「場所を変える」と言った。
そして今、この部屋に居る。

この部屋、八畳間には硝子戸があり、庭だろうか裏庭だろうか、見渡すことが出来る。 窓の向こうにある濡縁では季節の良い時にそこに座り、茶を啜ると和むことだろう。

「花生は・・・花生の家は我が親族の、先祖の恥さらしよ」

浅香の斜め右手に肘かけの付いている低めの椅子に座っていた “大婆” と紹介されたお婆さんが話し出した。 浅香と詩甫が並んで座り、その正面に長治が座っている。

浅香は長治のことを大将と言ったが、その上がいたようだ。 ラスボスというところだろうか。

部屋の中には少し低めのベッドが置かれてあり、小さなちゃぶ台と濃い茶色の古めかしい抽斗の付いた棚があるだけの畳間であった。 ちゃぶ台の上には四人分の茶が置かれている。 少年の母親らしい女性が運んできたのであるが、やっと客として認められたのかもしれない。

次郎から詩甫の話を聞いた大婆が自室に浅香と詩甫を呼んだのである。 詩甫の先祖の話を聞いて大婆から話しても良いと判断したのである。
大蛇に怯えることなく社を大切にしてくれた詩甫の先祖、朱葉姫に心を寄せてくれた詩甫の先祖。 その先祖に応えなくしてお婆の子孫と言えようか。

長治もそれに反対することは無かった。 その長治が話そうとしていた時だったのだから。

大婆は長治と重複するようなことは訊かなかった。 もし長治が何かを訊いていて、大蛇のことを話すに値しない相手だと判断していたのならば、長治は二人をこの部屋に連れてこなかっただろう、大婆はそう判断をしていた。

大婆から話して聞かせるのは次郎から聞いた “大蛇の正体を知りたい” “大蛇は誰なのか” “先祖の疑問に応えたい” それに答えるだけである。

「今も親族から孤立しておる。 もう誰もその理由を知らんがな」

それは理由を知っているのはもうこの家だけだということだろう。 長治も話しかけていたのだから、大婆はその理由をちゃんと代々言い伝えているのだろう。 それがどう大蛇に繋がるのだろうか。

長治と話していた時と違って詩甫は言葉尻を訊き返すことは無かった。 ただ大婆の話に耳を傾けている。 再び正座をしている浅香も然りである。

「花生は時々実家に帰ってきておった。 その時に憎々しげな顔で言っておった」

当時は花生が戻ってくると、領主の家での生活を聞きに親族が集まっていたという。 生活そのものも聞きたがったが、若い女は領主の長男であり花生の夫の話を聞きたがっていた。 それ程に領主の長男は若い女達から人気があった。

だが誰一人として朱葉姫のことは訊かない。 花生が不機嫌になるからだ。
次の言葉を言いたくないのであろうか、大婆が顔を歪め大きく息を吐いた。



社から出て来た曹司が山を下りて詩甫の落ちて行ったであろう場所に向かった。 これで二度目である。 最初に下りて行ってから今日まで下りはしなかった。

あまり人里に近付きたくないという理由であった。 万が一にも生きている人間に姿を見られてこの山には幽霊が居ると思われることを懸念してのことである。 この山に幽霊が居るという噂が広がれば民の足が遠のく。 それは朱葉姫の想いを妨げることになる。 それはずっと曹司の思いの中にあった。
今の自分は生きている時に幽霊と呼んでいた存在になっているということは十分に自覚している。

そんな曹司がどうして山を下りる方向に足を向けたのか、それは朱葉姫に大蛇のことを話した時に瀞謝の名前が出てきたからであった。

浅香からは瀞謝は大事には至らなかったと聞いたが、だからと言って気にならないわけではなかった。

それに大蛇のことを話した時、いや、正しくは民が朱葉姫の名を覚えていると話した時だ、朱葉姫の反応は気の無いものだった。 それはどうしてなのだろうか。 そんなことを考えながら坂の途中までやってくると坂の下、階段を上がり切ったところに人の後ろ姿が見えた。

人の姿と言っても生きた人間の姿ではない。 半分透けてその姿が僅かに揺らめいている。

もう千年以上も前ではあったが見覚えのある後ろ姿であった。 それに忘れることなど出来ようか。
一緒に同じ屋敷で寝起きをしていたのだから、朱葉姫を可愛がってくれていたのだから。 朱葉姫と一緒によく居た曹司はそれをよく知っている。 それに朱葉姫が可愛がっている曹司だからと、曹司自身も可愛がってもらっていた。

朱葉姫が亡くなった時には曹司を励ましながらも何日も何日も目を腫らしていた。 誰も居ない所で泣いていたのは明らかであった。
見間違うことなどない。

「まさか・・・」

曹司の気配に気付いたのか、その姿が振り返った。
見紛うことなく当時の美しい顔をしていた。 眉を僅かに上げるとその姿が濃くなり、揺らめきもなくなった。

誰が見てもひとりの女の姿である。 だが衣裳だけは今の時代にそぐわない。 時代錯誤な着物を着ているが、それはその時代には豪華な着物であった。

「・・・曹司か、久しい」

女は自分が一番美しかった時の姿をとっていた。 瑞々しく若々しい頃ではない、しっとりとした美しさを持っていた頃の姿。
曹司の姿に懐かしさを覚えたのだろう、しっとりとした笑みで曹司を見ている。

「・・・どうして」

問われた相手が柔らかく口の端を上げる。

「どうして此処に・・・」

女が婉然な笑みで首を傾げる。

「居てはいけないのかのう?」

「い、いいえ、決してそういう意味では・・・」

何故だ、それなら何故、今まで社に来なかったのか。
まさか・・・。
いや、そんなことが有り得るはずがない。

「何を難しい顔をしておるのか?」

「あ・・・いいえ、驚いただけです」

くすり、と女が笑う。

「現世に生きていなくとも驚くことがあるのかのう」

「あ・・・」

幽霊でも驚くことがあるのかと言われたわけである。
恥ずかしさに俯き加減に横を向いた曹司に女が続ける。

「相変わらず可愛らしいこと」

今の曹司は可愛らしいと言われる姿ではない。

「姫・・・朱葉姫様にお会いになられないのですか?」

「お会いしたいのは山々。 朱葉姫がお社にいらっしゃるということは分かっているのですから。 でもわたくしにも事情というものがあるからのう」

「事情?」

女が後ろを向いた。

「わたくしのことは朱葉姫にも皆にも言わないでちょうだいな」

肩越しに女が言う。

「え・・・どうして」

「わたくしが居るとお知りになられれば、朱葉姫もわたくしに会いたいと思われるでしょう?」

それはそうだろう。 朱葉姫があれほど慕っていたのだから。

「でも。 事情があると言ったでしょう? お会いできないの。 朱葉姫に寂しい思いをさせたくないの。 時折こうしてここまで来て朱葉姫に心を寄せる、わたくしはそれだけでいいの」

そう言い残すと女が階段を下りて行った。 その姿が段々と薄れていき、もう人間の目に映ることは無いだろう。

「花生様・・・」

朱葉姫が亡くなってからも曹司は花生に可愛がってもらっていた。 まだ少年の曹司がうっかりしたことをすると、先ほどのようにくすりと笑って窘めてくれていた。

姿を消した花生が小さな光の粒となって木の葉に止まる。

「会わないかと? 相も変わらず甘いのう」

光の粒が歪に歪んだ。



大婆の口が続きを話し出した。 言いたくなさそうな顔をしながら。

「朱葉姫を謗(そし)っておったのよ」

え? っと小さく詩甫の声が漏れる。

「戻って来る度、散々に言っておったということだった。 それは親戚たちにとって気持ちの良い話ではなかった。 誰もが朱葉姫のことを想っていたのだからな」

少し前に長治から執念という言葉を聞かされていた。 結局分からずじまいだったが、この事に繋がるのだろうか。

「花生は誰からも慕われる朱葉姫が憎くうて堪らんかった」

花生は美しかった。 性格も悪いものでもなかった。 朱葉姫の兄の心を射止めるのに少々とんでもない手を使ったことはあるが、それは惚れた弱みであった。 朱葉姫の兄が父が母が朱葉姫を可愛がる。 花生も同じように朱葉姫を可愛がった。 朱葉姫が可愛がる曹司すらも可愛がった。

その姿は誰もが認めるはずだった、そして花生を見るはずだった。 だのに誰の口からも花生の名前は上がってこない。 誰もが口を開けば朱葉姫という。 民ですらそうであった。

「花生の親にしてみれば、朱葉姫が誰からも慕われる気持ちは分かっとる。 自分達もそうなのだからな。 だが我が娘が一番、そう考えるのは親として分からんでもない。 だからと言って・・・」

何度か口を開けるが、その後に口を閉じてしまう。 とうとう大婆が言い淀んでしまった。

「大婆、構わん。 言いたくない事は言わんでええ。 わしが話す」

詩甫と浅香が椅子に座っている大婆から長治に視線を変える。
もう冷めてしまった茶を一口飲むと長治が話し出した。

「親戚、それは血の繋がりがある。 我が先祖でもあると言えよう。 その我が先祖は浅はかなことをした」

そう話し始めた長治の口から次々と思いもよらぬことが話された。

平安の時代前後には呪術で人を呪うということがあった。 飛鳥時代には役所である陰陽寮が設置されていたが、民間の陰陽師が頼まれて人を呪うことを受けていた。 陰陽寮が廃止されてからも呪うということは連綿と続いている。 丑の刻参りがその一つでもあるのだから。

詩甫が目を大きく開き手を口に充てる。 大きく開いた目からハラハラと涙が落ちてきた。
手を充てた口からくぐもった声がする。

「そんな・・・」

花生の両親は呪を使う者を探し、朱葉姫に死の呪いをかけたということであった。 期限は切られていた。

「花生が朱葉姫が嫁ぐまでに、と言ったそうだ。 朱葉姫の幸せな顔を見たくないからと言ってな」

浅香がポケットからハンカチを出すと、そっと詩甫の手を口から外させその手に握らせると、話を止めた長治を見て口を開いた。

「僕はその時代のことをよく知りませんが、今の時代のように簡単に何度も実家に戻ることが出来たんですか?」

一度嫁に出ると帰って来るなと言われた時代もあっただろう。 地域によっても違うことがあっただろう。

浅香の質問に長治が首を振る。

「花生は自分で実家に戻ると言っておきながら、それを快諾する義理の両親すら・・・いや、夫ですらも厭うようになってきた。 花生が居ようが居まいが朱葉姫さえいればいいのかとな」

「そんな勝手な・・・」

「ああ、そうだ。 朱葉姫の両親にしても兄にしても心優しい。 だからこそ朱葉姫もそんな風に育ったのだからな。 両親も兄もきっと花生が親と離れて寂しくないようにと気づかって実家に戻るのを快諾していただろうにな」

長治がハンカチに顔を埋めている詩甫をチラリと見る。

「あんたに聞かせるには惨(むご)いとは思うが、朱葉姫の死は凄惨だったらしい。 何日も苦しんだ挙句、血を吐いてな」

長治は凄惨と言った。 簡単な苦しみ方ではなかったのだろう。 どれだけ怨念を込めた呪いだったのか・・・。 そのように頼んだのか。

詩甫に向けて言っていた長治だったが、今の詩甫には何を言っても涙をするだけだろうと浅香が考えた時、気付いた事があった。

(え・・・怨念? それは朱葉姫が言っていた “怨” ではないのか・・・)

「当時は今のように医学は進んどらん。 確かに呪いという存在はあったが、朱葉姫が誰かに呪われることなどあるはずがない、いや、そんな考えもなかった。 朱葉姫は何かの病で亡くなったと思われた。 だがその病が何なのかが分からん。 だから当時は土葬だったが火葬にされた。 病、流行り病の疑いがある者はそうされる。 それは・・・亡くなった者や亡くした者にとっては悲しいことらしい。 土葬であれば最後のその姿を目に焼き付けておくことが出来るからな。 最後に目に残った姿が骨ではな」

(火葬?)

曹司からは埋葬されたと聞いていた。 てっきりお気に入りの着物を着て土葬されたものと思い込んでいた。 だが今の長治の話しぶりでは、火葬とは曹司も言いたくなかったのかもしれない。

「それだけのことをしたんだ、それで終われば良かったのに」

沈んだ顔をしていた大婆が頷いた。

「罰当たりなことよな」

「いったい何が?」

浅香が大婆と長治を交互に見る。
憮然とした面持ちで大きく息を吐いた長治が腕を組む。

「それだけでは飽き足らんかった」

「え?」

もう朱葉姫が居なくなったのだ。 これで誰もが花生を見る。 そうなる筈だった。 なのに・・・。 民が朱葉姫の死を悲しんで社を建て誰もがその社に通う。 誰も花生を見ることなどなかった。
それは朱葉姫のことを想っていると振舞えば振舞う程、憎しみは倍増していったのかもしれない。

「花生はもう自分自身では抑えきれんもんがあった。 朱葉姫が亡くなり花生もいつ寿命が尽きるか分からん。 その前に手を打とうと考えたんだろう。 親にも言わず朱葉姫に呪いを施した者のところに足を運んだ」

朱葉姫は苦しんだと長治は言っていた。 その力は信じるに値する呪者であると踏んでのことであったのだろう。 だが手を打つ? どうして、何をしに呪者に会いに行ったのか。 浅香にはその理由が全く分からなかった。

「死んでも朱葉姫を呪う」

「え・・・」

「呪者にそう言ったらしい」

「いや、あの・・・」

どういう意味だ。 全く分からない。
戸惑う浅香をそのままに長治が話し続ける。

「花生が死んだと同時に呪いが発動するように頼んだらしい」

「そ、それは幽霊となってこの世に残るということですか?」

幽霊になってまでも、もう現世に居ない朱葉姫を呪うということか?
長治が頷く。

幽霊の存在は浅香も目にしている。 曹司とて浅香自身だと言ってもその存在は幽霊なのだから。

「でも朱葉姫はもういないのにどうして」

「後年の花生の怨みの矛先は社に向けられていた」

誰もが社に足を運ぶのだから。

「その社が朽ち果てるのを見届ける、多分そうすることで気が済むんだろう。 実際に呪者にそう言ったということだ。 社が朽ち果て潰れてそれを見届けてから成仏する。 そのように呪者に頼んだらしい」

浅香がゴクリと唾を飲む。

それは呪者があとになって朱葉姫に呪いをかけたことや、新たに花生に呪をかけた事を本家であるこの家の先祖に洗いざらい話してきたということであった。 決して呪者がそんな呪いをかけてしまって後悔してのことではなかった。 こんなことを言いふらされたくなければ・・・、ということであった。
すぐに親族会議がもたれた。

花生の実家は親族から物を投げられ罵詈雑言の嵐だったという。

恥もなにも捨てて呪者から聞いたことを領主に言い、それで朱葉姫が生き返るのならその道を選んだかもしれないが、もうその時には朱葉姫が亡くなってから何十年も経っていた。 それに朱葉姫は骨になっていた。 生き返ることなどない。

「決して今で言う金持ちではなかったがな、それでも領主の元に嫁がせた家の本家だ」

米や作物、反物、今で言う税を領主を通して納めなければいけなかったが、それさえも呪者に言われるがまま渡した。
口止め料である。

誰もが想い慕う朱葉姫を呪い殺したと噂が広まれば、花生の実家どころか親戚中がこの地にはいられなくなるだろう。 分家を守るのは本家の役割でもあるし、本家自体を守るのは時の当主である。

「では死んだ今もその花生という人はこの世に居るということですか?」

長治が顔を歪めて鼻から息を吐く。 まるで幽霊を簡単に信じている浅香を嘲笑ったようにもとれるが、そうではないであろう。

「あの山で女の幽霊を見たなどと言う話は聞いたこともないし、昔語りにも残っとらん」

長治の返事に浅香が首を振る。

「いいえ、そんなことは訊いていません」

長治が眉間に皺を寄せる。

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国津道  第31回

2021年05月03日 22時32分13秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第30回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第31回



「待ってろ」

顔色を変えた次郎が言い残して部屋から出て行った。

閉められた襖を見ていた浅香が、待ってろと言われた時に顔を上げた詩甫を見ていた。 次郎に負けず劣らずかなり顔色が悪い。

「野崎さん、本当に大丈夫ですか?」

「私、下手なことを言っちゃったんでしょうか」

一度頷いてから縋るような目で浅香を見てくる。
詩甫の脈をとろうと手を出しかけたが、その手を引っ込めた。 脈に異常があったとして今帰るなどとは言えないのだから。 それに今そんなことをしてしまえば、詩甫に余計な不安を与えてしまうだけだ。

「いいえ、言っていませんよ。 それに待っているように言われたんですから、話を聞かせてくれるはずです」

詩甫が両手を胸に当て深く息を吐く。

「まだ緊張してます?」

それなら深呼吸でもしてもらおうか。

詩甫が首を振り「もう大丈夫です。 待つように言われたんですもんね」 と言って一つ大きく息をして続ける。

「実はこちらに伺うことで、浅香さんから最初に連絡を頂いた時、何かのヒントだけじゃなくて確信に触れられるかもしれないと思ったら、心臓がどきどきしてあまり寝られなくて」

「え? あの日から、ですか?」

詩甫がコクリと頷く。

「あ、もしかして顔色があまり良くないのは睡眠不足ですか?」

ファンデーションで誤魔化せていないようだった。
詩甫が両手を自分の頬に充てる。

「そんなに顔色悪いですか?」

「いえ、キョンシーほどではありませんから安心してください」

一瞬目を瞬いたが、すぐに冗談と分かり頬に充てていた手で顔を覆うと手の中でクスクスと笑い出した。

「あまり構えないで良いんじゃないですか? って、電話の時にそう言えばよかったですね」

手を下ろした詩甫の表情は柔らかくなっていて「そんなことないです」 と、その首を振った。


玄関から家を出て畑に行こうとしていた次郎が足を止めた。 父親である長治が畑から戻って来て、軽トラックで運んできた野菜の入ったボックスを作業小屋に入れているところであった。

「親父」

長治が振り向く。

「誰かだと? 誰のことか知りたいだと? そう訊いてきたんか」

表情を変えることなく低く渋い声で訊き返す。

「ああ、正体を知りたいって、大蛇と言われるのは誰のことなのかって」

誰もが昔から大蛇のことは蛇の姿をしていると思っている。 それはそうだろう、大蛇と言われているのだから。 それなのに・・・誰、だと? 誰と訊くからには大蛇が蛇ではなく人間だと分かっていての事。

「何処で聞いたか言っとったか?」

次郎が頷くと、詩甫が話していたことをかいつまんで聞かせた。

「書き記したものがあった?」

「ああ、そう言っとった」

長治が少し考える様子を見せてから口を開く。

「大婆にそのことを話してこい。 わしが座敷に行く」

次郎が踵を返すと、長治は首にかけていたタオルを手に取り、服についた土をはたいて玄関に向かった。 今日はそれほど土ぼこりを被っていないし、泥汚れなどもない。

玄関に入り横にある戸を開けると、直接座敷の広縁にあがることが出来る。 そこから入ると広縁を歩き雪見障子の向こうに座る浅香と詩甫の姿を見た。 顔までは見ることが出来ないが、若者の服を着ているのが見てとれる。

同時に足音を聞いた浅香と詩甫が広縁を見ると、グレーの作業着を着たような男の下半身が見えた。 次郎はブルーを穿いていた。 色が違う。
浅香も気付いたのだろう。
「大将登場ですね」 と小声で言って「気を楽にして下さい」 と続けた。

広縁の雪見障子が開けられると、先ほどの次郎より随分と背の高い細面の男が入ってきた。
詩甫がすぐに戻っていた座布団から身を外す。 浅香もそれに続こうとしたが全く足が動かない。

「あ、った!」

腕を使って動こうとするが、それでも足は上手く動いてはくれなかった。 どうも太腿まで痺れているようである。 詩甫と話していて全く気付かなかった。

「痺れたか」

男が浅香に声をかけながら次郎が座っていた場所に座る。

「あ、はい。 面目ありません」

言ってみれば待っている間に足を崩していればいいのに、生真面目にもずっと正座をしていたのだろう。

「わしも胡坐をかく、気にせず足を崩しとればええ」

「・・・はい、申し訳ありません」

崩せと言われてすぐに動く足では無かった。 徐々に足を伸ばすしかない。
その横で詩甫が手を着いて挨拶しようとしたが、長治が止めた。

「息子から話は聞いた。 浅香君と野崎さん、だな」

名前を呼んだ時にそれぞれの顔を見てそして続ける。

「わしは長治。 この家で名字を呼ばれるとあちこちから返事が返って来る」

今この部屋で苗字を呼んでも、返事をするのはこの目の前に座る長治だけだろう。 それなのにどうしてそんなことを言うのだろうか。 訝(いぶか)しく思いながらも、浅香が一人悶絶を行っている。
その横に座る詩甫が口を開く。

「では・・・長治さんとお呼びして宜しいでしょうか」

先程長治は息子から話は聞いたと言っていた。 次郎の父親なのだろう。 そしてあの少年の祖父であり、浅香がいうところの大将。

「ああ」

手に持っていたいたタオルを畳の上に置くと座卓に腕を置く。

「大蛇の正体を知りたいそうだな」

単刀直入にきた。 少々驚いたがそれは願っても無いことである。

「はい」

「まずはこちらからの質問に答えてもらおう」

「はい」

浅香という男はまだ一人で悶絶している。 この野崎と名乗る娘とだけ話を進めるしかない。 それに次郎が言っていた、書き記したものの話をしていたのは野崎という娘の方だと。

「その書き記したものとはいつの時代のものだ」

「元号の年を書いてあったわけではありませんのではっきりとは分かりませんが、まだ着物を着ていた時代というのは間違いありません」

「着物・・・それだけでは時代が絞れんな」

この家に伝えられていることは千年以上も前からである。 昭和の初めもその前の年代に生まれた者たちも普段着に着物を着ていた。 言ってみれば今の時代も着物を着ているが、この娘の言っているのは普段から着物を着ていたということだろう。

「私の想像では鎌倉時代から室町時代初期ではないかと思います」

長治が眉をしかめる。 想像という以上は想像させる何かがあるのだろうが、その時代この土地は戦に巻き込まれることもなかったはずだし、これと言って何があったわけでもないはずだ。 年代が分かるようなことは何も無かったはず。

「歴史に詳しいわけではありませんから間違っているかもしれませんが、書き記したものの中に、鉄の農具が手に入ったと書かれていました。 農具に鉄が用いられるようになったのは鎌倉時代と歴史の授業で習いました。 ここの土地に伝わってきたのが遅いとすれば、室町時代初期も範囲ではないかと」

瀞謝の更なる記憶は、朱葉姫と一緒に居る時にしか思い出せない。 この農具のことは朱葉姫に会いに行った時に断片的に思い出していた。

『あの鍬(くわ)があれば、お社の周りの雑草を根から取り除けるのに』

浅香ではないが、瀞謝も雑草は気になっていた。 村に鉄製の鍬が入ってきたときにそう思ったことを思い出していた。 それを浅香に語り、浅香が年代を調べたということである。

長治にしては、意外なことを聞かされた。 農具の歴史など考えたことは無かったし、自分も遠い昔に歴史の授業で聞いていたのかも知れなかったが記憶に一切なかった。
その時代とすれば今からおおよそ五百年から九百年前になる。

「次郎から聞いたところによると、書き記したものは大蛇の事ばかりが書かれていたということだったが、農具の事も書いていたということか?」

「直接に農具・・・鍬のことですが、それがどうのとは書かれていませんでした。 ただ新しく鉄の鍬を手にした大人を見て、その鍬でお社の周りの雑草を根こそぎ取り除きたいと書かれていました」

「社?」

次郎からはその昔、書き記した者が社の掃除をしていたと聞いていたが、ついうっかり声に出してしまった。 社が重要なのだから。

「はい。 朱葉姫の祀られている紅葉姫社です」

長治が腕を組んで目を瞑る。

朱葉姫の名前、紅葉姫社のことを言ったのが失敗だったのだろうか。 詩甫が下唇を噛む。

ようやく痺れが解けた浅香がきっちりと胡坐をかき直した。 痺れがきれていたとは言え話はちゃんと聞いていた。 詩甫に失言はなかったはず。 そっと座卓の下で足の上に置かれていた詩甫の手を、人差し指でトントンとつつく。
詩甫が手元を見ると、浅香が親指だけを立てていた。 まだ長治は目を瞑っている。 浅香を見ると浅香が小さく頷いてみせる。

それから数秒後、ゆっくりと長治が目を開けた。

「朱葉姫のことも紅葉姫社のことも、それに書き記されていたということか」

そうでないと有り得ない事だ。 あの社に朱葉姫が御座(おわ)す、その社を紅葉姫社という。 そのことはこの地域に暮らす者以外誰も知らないのだから。
万が一にも、この娘が何かを考えてこの地域に暮らす者からその情報を仕入れたとしても、それが何だと言うのだ、何の得にもならない。
この娘の言う通り書き記されていたのかもしれない。

長治の声は詩甫に訊いているようには思えなかった。 詩甫を見ているわけではなく視線は下がっている。 それに一人で納得しているような口調だ。 どう返事をしていいのかが分からない、頷くしかなかった。

ようやっと長治の視線が上がった。 詩甫と目が合う。

「大蛇のことを聞いて、書き記した者に伝えたいと聞いたが」

「あ、それは現実的ではない事と充分わかって―――」

長治が手を上げてそれ以上言わせなかった。

「思う心があればいい。 それで伝わるだろう」

「え・・・」

どう言う意味だろうか。

「この希薄な時代に・・・。 ご先祖さんは有難く思っているだろうな」

何が言いたいのだろうか。 だが嘘を連ねた。 それを信じ今こうして長治が言っているのだけは分かる。 心が痛い。

「話は長くなる」

「・・・はい」

長治の先祖。 それは朱葉姫の兄の嫁の本家筋であったと聞かされた。 朱葉姫の兄の嫁はこの本家の分家筋から出たということである。

「嫁の方が・・・わしの親戚だがな、惚れまくったのだと聞いている」

朱葉姫の兄はかなりの美丈夫だったようで、引く手も数多だったらしい。 それに性格も良いということであった。
朱葉姫を考えるとその兄だ、そうだろうと納得がいける。

「分家から出た朱葉姫の兄の嫁の名は花生(はなお)」

花生はとんでもない手段を使って朱葉姫の兄に近付いた。 そして朱葉姫の兄の首を縦に振らせた。
花生を信じた兄は花生であれば、我が妹である朱葉を大切にしてくれると思ったからであった。 実際、花生は朱葉姫を大切にした。 父親と兄自身と同じように。



『まぁ朱葉姫、この様な朝早くに』

朝餉も食べることなく、朱葉姫が裁縫道具を持って屋敷を出ようとした時だった。
朱葉姫が口元に人差し指を置く。

『お姉さま、ご内密にしていただけませんか?』

花生が微笑む。

『民の衣が綻(ほころ)んでいたのですか?』

朱葉姫が頷いた。

『畑に出る前に繕おうかと』

再度花生が微笑む。

『そう、行ってらっしゃいませ。 お義父様にも誰にも言わないわ。 それよりお手伝いが出来なくて御免なさいね』

朱葉姫が首を振る。

『お姉さまはいつも母上と一緒に家の中のことをして下さっています。 母上のお手伝いをお任せしっ放しにしているわたくしの方こそ、申し訳が御座いません』

『何を言っているのですか、お義父様のお手伝いを朱葉姫がして下さっているのでしょう? 朱葉姫がなさることによっても、お義父様は民に信認を置かれているのですから』

『そんな、とんでもありません』

『御免なさいいね、足を止めさせて。 朱葉姫、行ってらっしゃいませ、民が待っています』

『お姉さま・・・』

お姉さまと言われて花生が首を傾げる。

『朱葉と呼んでくださいませ』

それは何度も言っていた。 だが花生は一度たりとも “朱葉” と呼ばなかった。 “朱葉姫” そう呼んでいた。 朱葉姫が亡くなるまでずっと。 いや、朱葉姫が亡くなってからもその口からは “朱葉姫” としか言わなかった。
花生が首を振る。

『こんなに可愛らしい朱葉姫をどうしてその様に呼べるものでしょうか』



「花生は朱葉姫を憎んでいた」

「え・・・」

唐突に聞かされた。 どうしてなのか、そんなことを考える隙間もなかった。

「花生は良い妻、良い義理の娘、良い義理の姉を演じていた」

「演じていた?」

長治が頷く。

「わしらの先祖は花生の本音を聞いていたからな」

「本音?」

本音と言われてどういうことなのかは分からないが、少なくとも朱葉姫は愛する人の妹である。
曹司ではないが、朱葉姫が人から憎まれることなど考えられない。 それが他人なら有り得るかもしれない。 万人に愛されるというのは簡単なことでは無いのだから。 だが朱葉姫は花生の義理の妹である、愛する人の妹ではないか。

詩甫とて朱葉姫と何度も会ったわけではない。 それに時代のずれもある。 たとえそうであったとしても、朱葉姫の心からの温かいものは感じていた。
だが花生が良い義理の姉であると言いながらも、長治は演じていたと言う。

「ああ、そうだ。 花生が朱葉姫に執念を燃やしていた、とな」

訳が分からなくなってきた。 どういうことなのだろうか。

「執念とはどういうことですか?」

「朱葉姫には誰もが心を寄せていた。 亡くなってからもな。 だからあの社が建った。 そうでなければ社など建たん」

詩甫は頷いたが、問の答えになっていない。

「きっとあんたの先祖も、社にあるだろう朱葉姫の温かさに触れたんだろう。 当時はだれもが社に行くと心和むと言っていたと聞いている」

ここまで話しても詩甫が疑問を持ったままのような顔をしている。
ははは、と長治が笑う。

「その様子じゃあ、あんたはそんなことを考えんようだな」

詩甫が難しい顔をして首を傾げる。

浅香は朱葉姫と会ったことこそないが、曹司から朱葉姫のことを聞いている。 何か分かったように僅かに下を向いた。

「花生は生きている内は何もしなかった。 一つを除いてな」

再度詩甫が首を傾げる。

「朱葉姫は短命だった。 知ってるか?」

「はい、お嫁に出る前に―――」

シマッタと思った。 その話は浅香を介して曹司から聞いた話だった。 瀞謝が知るところではない。 どう話を繕おうか。

「そうだ、嫁入り前に亡くなった。 それがどうしてか知っているか?」

「え・・・」

どう繕うもなにも話が進んでいる。 ましてや訊かれたことの答えを知らない。

「・・・知りません」

「そうだろうな、知っていれば訊きに来ることもなかっただろうからな」

「あの・・・いったい何が」

襖の外から声がかかった。

「親父」



とうとう曹司が口を開いた。 瀬戸から聞いたことを朱葉姫に話したのだ。 この社に大蛇が居るということを。

「大蛇?」

朱唇皓歯(しゅしんこうし)から出たのはそれだけだった。
曹司が頷く。

「何時からかは分からないようですが、それが原因で民の足が遠のいたかと」

濡れ縁に座る朱葉姫の斜め後ろに座っている曹司、その曹司に朱葉姫に代わって一夜が問う。

「そのような大蛇など見たことも・・・いいえ、そういう問題ではありません。 どれほど長く生きているというのですか。 民が来なくなった後もそのように言われているとはどういうことです」

少々声を荒げて曹司に問いただす。

一夜が言いたいのは、自分が生きている間にこの社で大蛇など見たことは無い、そう言いかけたが、曹司はそんな言い方はしていなかった。 民が来なくなったのは朱葉姫も一夜も亡くなって何百年もしてからである。
だが今は更にそれからも何百年と経っている。 それなのに未だにそのように言われているというのは、どういうことなのだということである。

“どれほど長く生きている” と言ったのは、大蛇が未だに生きているのかと、ある意味嫌味で言っただけである。

「それを瀞謝と亨が調べております」

「瀞謝が逃げないと言っていたのは、その事があってのことなの?」

僅かに振り向いた朱葉姫に曹司が答える。

「そうかどうかは分かりませんが、瀞謝の前向きな姿に事が動いたのかもしれません」

あの時の詩甫である瀞謝の姿は凛としていた。 その姿に事が動き出したのかもしれない。 そう考えるのは夢物語なのかもしれないが、遠目に見たあの時の詩甫である瀞謝の姿はまだ瞼の裏に残っている。 まだ十五にもならない幼い姿だというのに。

「亨が言っておりました。 今も民は姫様の御名とお社のことを覚えていると」

「そう・・・」

顔を戻し前を向いた。

気のない返事だった。 朱葉姫はこの事を何と考えているのだろうか。
その朱葉姫と正反対の声を出したのは一夜だった。

「民が? 民が姫様の御名を覚えていると?」

顔がぱぁっと明るくなった。 一夜も朱葉姫に民の姿を見せたいと願っているのだ。
曹司が頷く。

「その大蛇の謂れがあってお社に近付くことが出来ないようです」

最初に言った言葉を少し違えて一夜に顔を向けて言う。
曹司の言葉に朱葉姫が首を振る。

「此処に、社に大蛇など居ないわ」

曹司もそれは分かっている。 もしそんなものが居れば、社を見回っている曹司が目にしているはずだ。
朱葉姫にしても大蛇となれば民に危険が及ぶ。 すぐに察知してそれなりのことを施しただろう。

「誰がその様な虚言を触れ回ったのか」

一夜の声音と表情が忙しく変わる。 今は怒りの中に苛立たしさと呆れを含んでいるようだった。

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