大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第111回

2022年10月31日 21時19分10秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第111回



「なんだか・・・辛気臭いなぁ。 若いもんが頭で考えてんじゃないよ」

胡坐をかき後頭部を掻きながら巴央が言う。

「若いも何もまだ餓鬼だ。 怖けりゃ迷うだろうよ」

こちらも胡坐をかき、手を後ろについてふんぞり返っている京也である。

「怖くなんかない!」

「へぇー、意気がいいじゃないか。 若いもん・・・餓鬼はそれくらいでないと辛気臭くてたまらん」

「ああ、それにこの三人、なんだ? その身体。 オレが鍛えてやろうか?」

自慢の腕を見せる。
見せられなくてもずっと見えていたが、敢えて力を入れられると、その隆起が盛り上がりそこに太い血管が浮き出ている。
この三人と言われたヒョロっこい身体をした三人。 改めて大人たちを見ると全員がガッシリとしている。 その中でも今腕を見せた男は筋肉の塊のようだ。

「六都にこだわりがあるのか?」

京也を見ていた芯直に深く染み入る声が掛かった。

「・・・」

「六都に居た俺を疎んじているなら、俺がマツリ様から身を引くが?」

「そんな! それじゃあ誰がオレたちに学を教えてくれるんだ!」

一番に教えて欲しいと言った柳技が声を荒げて言う。

「手本となるものをすぐに作ろう。 それを元に覚えていくといい」

「そんな簡単に言わないでくれよ」

絨礼が眉尻を下げて言い、享沙を見ていた目を芯直に移す。

「お前、はっきり答えろよ。 六都が嫌なのか?」

「・・・イヤだ。 物を盗ってこい、家に忍び込め。 アンタはそんな金で育ったんだよな」

汚いものでも見る目をして享沙を見る。

「ああ、さっきも言ったがそれは消せない。 そう言われても仕方がない」

享沙を見ていた目をマツリに転じる。

「マツリ様、オレ帰ります」

ずっと黙って見ていたが、そろそろ来るだろう。 だから「そうか。 残念だ」とだけ言った。 それ以上言う必要は無いのだから。

「お前たちは教えてもらうと良い」

マツリが立ち上がると、芯直も立ち上がりマツリの後ろについた。
襖を開けると四方の従者が控えていた。 従者がマツリを覗き込むとマツリが頷く。 門を潜らせろということだろう。

「こちらだ」

従者の後ろをトボトボと歩く芯直。

芯直を部屋から出すと椅子に腰かけ直したマツリ。

「マツリ様、よろしいのですか? 子の方が俺よりずっと長く働けます」

「心配せずともよい。 戻ってくる」

何人かが目を瞬(しばたた)かせた。

「では、この五人は我の下につくということで良いのだな?」

顔を引き締めた大人三人と、まだ幼さの残る二人が口を引き結んで頷く。
それからはマツリの下につくということの意味を詳しく話した。


「あ、杠殿」

前から杠が歩いてきた。

「もう話が進んでいるようです」

「遅れてしまいました」

「四方様がお離しにならなかったのでしょう、致し方ありません。 出来が良いのも考えものですな」

「いいえ、そのようなことは・・・この童は?」

従者の後ろに頭を垂れて立っている芯直。

「マツリ様のお話の途中で出てきました」

「・・・ああ」

「武官に送らせて帰します」

来た時も武官が迎えに来ていた。 だから三人とも郡司の前から宮に来ることが出来た。

「いや、待っていただけますでしょうか」

「はい?」

従者の後ろに回りこんで腰を屈める。

「名を何という?」

「・・・」

「名くらい言えるだろう」

マツリとの話の中で何があったかは分からないが、マツリが簡単に帰すわけがない。

「おい、答えんか」

「ああ、構いません。 己がこの子を預かります。 どうぞお戻りください」

「え? だがマツリ様から帰すようにと言われておる」

「はっきりと仰いましたか?」

マツリは頷いただけだ。

「あ・・・いや、それは」

杠がどういう立場なのかを知っている。 とは言え、マツリから預かった子を杠に渡していいものだろうか。

「少し話をしてみるだけで御座います。 それでも帰ると言うならば己が門まで連れて行きます」

従者が答えを選びかねているのが分かる。

「預かり物をいただけますか?」

マツリから持たされているだろう。 今日一日潰させたのだから。
必要はないが、従者から取り上げれば諦めもつくだろう。

「あ、ああ。 それでは・・・お頼みする」

懐から金の入った袋を取り出すと、ジャラっという音をたてて杠に預けた。
有難うございますと、軽く頭を下げ童の背中を押した。

庭の飾りとなっている大きな石に腰を下ろした杠。 その前には同じように石に腰を下ろしている芯直がいる。

「そうか、芯直という名か」

杠の名は先に言っている。 そしてどうして部屋を出てきたのか、原因である六都を追い出された育ての親のことも聞いた。

「だがその男は、そんな六都が嫌で六都を出たと言ったのだろう?」

そうだ、だから簡単に言い出せなかった。 それに傷つけるようなことも言った。

「芯直は真っ直ぐなのだな。 マツリ様はそういう者を望んでおられる」

「では、あの男も真っ直ぐだと言うのか?」

「ああ、マツリ様の目に狂いはない」

「・・・六都で育ったのにか?」

「何処で生まれようが、何処で誰に育てられようが関係はない。 己がどう生きるかだ」

「え?」

「芯直が育ての親から戻されたのは、芯直がその生き方を選んだからだろう。 その男も同じと思わんか?」

目を瞬かせている芯直を見て微笑むと話を続けた。

「己も郡司から育ての親に回された。 酷かったぞ、結構。 だが食わしてもらっているのは事実だからな。 ああだが、白飯は食わしてもらえなかったな。 芋と・・・木の実か。 まぁいくらも食わしてもらわなかったけどな。 だがその恩は返さなければならんだろう? だから十五の歳まで働きに働き詰めた」

「幾つの歳から?」

「五の歳からだ」

自分は郡司の元で働いて入るが、そう酷い扱いを受けていたわけではない。 それに白い飯は食えている、皿に乗ったおかずもある。

「そして十五の歳を迎えたと同時に育ての親の元を出た。 もう、芋代は返せただろうからな」

ああ、衣代もか、と笑いながら言っている。 その衣がまともでないのは、たとえ童といっても話から想像できる。

「出てからどうしたの?」

「ちょっと縁あってな、マツリ様を訪ねた。 まあそこのところを話すと長くなる。 それからマツリ様の下で働いている」

「え?」

「芯直がこれからしようとしている事と同じだ」

「・・・いや、だって、オレは出てきた」

「出たのならば入り直せばいい」

芯直が俯く。

「それに謝らなければいかんだろう?」

ピクリと俯いた頭が動く。
芯直が男に酷いことを言ったと後悔しているのは、話を聞いている中で明らかに感じ取れた。 特に地下で人の機微に敏感になっていなくとも分かるほどに。

「行こうか」


「杠と申す」

椅子を除け畳に胡坐をかいていたマツリから少し後ろにずれて座している。

芯直を伴って戻ってきた杠が回廊に座る従者に金の入った袋を返すと、従者が呆気にとられたような顔をしていた。
そして部屋に戻ってくると、芯直が享沙に「言い過ぎた。 すまん」と頭を下げ、マツリに向き直ろうとするのを「よい、座れ」と軽く手を上げ止めると「大雑把に我の下につくという意味を話した。 あとで誰なとに聞くがよい」そう言った。
その中で杠のことも話していた。 杠がどういう立場にあるのかを。

「こんな若いのの下にですか?」

一番年長の京也が不服そうに言う。 それはそうだろう、京也はまだ四十にはなっていないが、という歳だ。 対して杠は二十二歳。 一番近いのが巴央だが、それでも杠より二つ三つ上だ。

「それに・・・ナリだけじゃなくて完全に官吏じゃないか」

その巴央が眉根に皺を寄せて言う。
マツリから聞いた杠の話しは、少し前まで地下に潜っていたということだった。 そうであれば気が楽だ。 地下に潜るほどなのだ、気安く話せるだろうと思っていたのに、それがなんだ、まるで生まれた時から官吏のような顔をして座っているではないか。

「官吏にはなりたてです。 親はなく、十五まで辺境で育ての親の元で暮らしていました。 そのあとは皆さんと同じようにマツリ様の下で働いています」

“おります” “御座います” は下で働くものに使うべきではないだろうが、どう見てもいま話している者二人ともう一人、芯直が頭を下げた者は己より歳が上。 さきほど芯直に話したような話し方は出来まい。 それにこの話し方が逆なでをすることもなく、一番無難であろう。

杠が言った事を先に聞いていた芯直が何故か優越感を覚える。 杠には好印象を感じていた。 先ほどは胡坐をかいていたが、今は杠に倣って正座をしている。
その変化に気付いているのはマツリだけだった。

「へぇー、辺境の出から、それも育ての親の出からで官吏になれたのか?」

「マツリ様の下で働くということは、潜り込むために学が必要。 己の身を守らなければならないときもあります、体術も必要。 最初にマツリ様から教えていただいたので、それが良かったのでしょう」

「ふーん・・・」

顎を撫でながら言うが、体毛が薄いのだろう、その顎に髭の跡はない。

「地下に居たとマツリ様から聞いたが、そんな話し方で地下によく居られたな」

黙ってしまった巴央に代わって京也が言う。

「赴いた場所で話し方は変えます。 地下に行く前はあちらこちらに居ましたから、それなりに方言も分かります。 何なら試してみますか?」

マツリの顔を見ると苦笑しながら頷いている。

「試すって?」

問われ、応えるように端座を崩すと片膝を立てた。

「おめーに何を言われる筋合いはねーんだよ。 黙ってな」

言い終わると片方の口の端を上げて目を据わらせている。
今までの声より低く発しただけ。 大声を出したわけでもないのに威圧に押され尊大に見える。
その豹変ぶりに誰もが驚いた顔を見せている。 マツリだけがクスクス笑っている。

「あまり杠を挑発しないでくれるか、宮内で誰かに見られると困る」

杠を受け入れるかどうか、黙って見ているつもりだったが思わず口を開いてしまった。
姿勢を戻すとマツリに軽く頭を下げた。

「こりゃいいや、面白い。 楽しませてもらおうか」

京也が手を叩いて笑い出した。
まるで金縛りにでもあっていたように固まっていた歳浅い二人と柳技が、目をパチクリさせている。

「ま、オレは様子見だな」

マツリに付くかどうかではない。 杠を認めるかどうかということ。
巴央が言うのを聞いてマツリが享沙を見ると、黙って頷くだけだった。

「お前たちは」

芯直が杠を受け入れている、というか、もう杠の手の中にあるのは分かっている。 柳技と絨礼に問う。
杠の豹変ぶりに相当驚いたのだろう。 首を何度も縦に振るだけだった。

マツリが芯直に訊かないことは分かっていた。 だがまだ歳浅い芯直には省かれたように感じるだろう。 ましてや一度部屋を出た身なのだから。

「芯直は話を聞いていなかったな。 マツリ様の下に付き、働くということだが、それはマツリ様に直接ではない。 間に己が入るということだ。 それでいいか?」

杠に問われ、神妙に深く頷いた。 それに笑顔で応えると表情を一転させ、全員を見渡した。

「いま己が見せたように、色んな立場に扮してもらいます。 わざと人の目につくようになのか、隠れるようになのか、その時々で変わります」

どちらかといえば優しげな顔でいた杠だったが、ここにきて厳しい表情と硬い声に変えてきた。

(上手いものだ・・・我には出来んな)

マツリがそんなことを考えているとは露とも知らない杠である。

芯直がモゾモゾとしだした。 すかさず杠が見る。

「痺れがきれてきたか?」

「・・・はい」

そう言われ、芯直が正座をしていたのだと全員が初めて気付いた。 先ほどは胡坐をかいていたはず。 いや、改めて胡坐をかいていたとは見ていない。 享沙を除く全員が胡坐なのだから。 だから享沙は目立っていた。 そこで同じように正座をしていれば気が付いたはずだ。

「崩せばいい」

マツリに軽く頭を下げた後に杠が言った。 そして続ける。

「だがそれも鍛練の一つだと思うように」

誰もが、え? という顔を向ける。

「小坊主に、坊主に扮せといわれたらどうする。 正座が出来ねば扮することなど出来ない。 外に居られる従者の方はずっと端座をしておられる」

こんな時、子供は素直だ。 柳技と絨礼の二人がすぐに正座に座り直した。 享沙は最初っからずっと端座だ。

「こりゃ、思っていた以上に大変か?」

巴央が渋面を作りながら言う。

「ではやめますか? 今ならまだ間に合いますが?」

もうそこそこ話したのだ、間に合うはずなどない。 それを分かって訊いている。 マツリが選んできた者たちだ。 返事も分かっているのだから。

「とんでもない。 面白そうだ」

杠を見た後に京也を見る。 さっき京也が面白いと言ったからだろう。

「ああ、楽しませてもらおうぜ」


「杠殿」

回廊を歩いていると声が掛かり、振り向くと波葉が居た。

「ちょっとこちらに」

手招きをするが、話の内容は大体想像がつく。

「なにやらマツリ様が動かれるらしいな」

「はい」

何処から漏れたのだろうかと思うが、思い当たるのは四方しかいない。

「紫さまのことはどうすると仰っておられた?」

やはりか。

「動かれましたら、当分東の領土に行かれることは出来ないと思います」

「それでは困る!」

横を通り過ぎようとした女官が驚いた目を送ってきた。
白々しい咳払いをして女官に背中を見せる。

「己も明日から宮を出ます」

「え!?」

ゴーンと時を告げる鐘の後に、ドンドンドンと三度太鼓の音が響いた。 就業を知らせる太鼓の音である。

あの日、マツリとの話を終えると、用意しておいた長屋に六人を連れて行った。 六人はそこでしばらく待機である。 その間に柳技と絨礼だけではなく巴央、京也、芯直が享沙から文字を学ぶ。
そして宮都から派遣された文官として一足先に杠が六都に入る。 六都の報告書には目を通しているが、その報告書も如何なものか。 まずは官吏から精査するつもりだ。

「シキ様にご心配なきようお伝えください。 今はややのことだけをお考え下さるようにと」

「いや、だが、それでは!」

「シキ様をお守りできるのは波葉様だけで御座います」

では明日からの準備が御座います故、そう言ってその場を後にした。

「や・・・邸に入れてもらえるだろうか・・・」


「義兄上がそのようなことを?」

暫くはこうして呑むことが出来ないだろうと、マツリからの誘いであった。

「どうされるおつもりですか? あまりシキ様にご心配をお掛けしましたら・・・ややのことが御座います」

二十七歳で初産である。 日本に居れば何ということは無いが、この地では二十七歳にもなれば、もう末子を産み終えていてもおかしくない年齢だ。

「酒の席で御座いますはやめてくれと言っているだろう」

言いながら口を歪めて腕を組んだ。

「父上に申し上げたというだけでは、ご納得をされないということか」

マツリから杠が聞き、それを波葉に話し、そしてシキに伝わっているはずだ。

「シキ様はひたすらに紫揺のことだけを案じておられるのでしょう」

「姉上は・・・攫ってでも連れてこいと仰るか」

「ははは、そうされますか?」

グイッと杯を煽った。 手酌で注ごうとしたら、すかさずマツリの手が伸びてきた。 軽く頭を下げ酌を受ける。

「連れてきたとて忙しい。 これからは紫どころでは無いからな」

マツリらしい。 微笑を作って目を逸らせ窓を見た。 開け放した窓からは月明かりに照らされた夜空が見える。 こちらの窓から見えるのは岩山とは方向が違うが、紫揺の居る東の領土にも続いている夜空。

「今頃何をしていますでしょうか」

「なんだ? 恋しいのか?」

からかうようにマツリが言うと、窓を見ていた視線を下げた。 顔はまだ微笑のままだ。

「恋しい御座います。 マツリ様もそうでしょう」

「はっきりと言うのだな」

「マツリ様は何度も紫揺と会われておられますが、己はほんの数回です」

「だが抱きしめていたではないか」

杠の両眉が上がった。

(ほほぅ~、これは面白い)

「兄としての特権です。 それにマツリ様もそうされたいのであれば、抱きしめられれば良いでしょう?」

「張り倒されるわ」

拳で殴られたことは聞いている。 と言うか、マツリの顔を見て杠から訊ねた。

「有り得なくもないでしょうか」

肩を震わせて笑っている。

「ほんとうに・・・信じられん。 妹によくよく説教をしておくのだな」

思い出したのか、グーで殴られた頬を撫でている。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第110回

2022年10月28日 21時32分36秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第110回



「杠兄様とマツリ様は違うんですか?」

「え? マツリ?」

「だって私が本領で知っているのは、紫さまからお聞きする杠兄様とマツリ様だけですから」

今は喜作の名を伏せよう、道を外れてもらっては困る。

「そっか。 うーん・・・。 全然違う」

「どこがですか?」

「杠は・・・いっつも笑ってくれてる。 手を差し伸べてくれる。 私の思うようにって言ってくれる。 ・・・大きく包んでくれる」

「紫さまの何もかもを許されるってことですか?」

お付きたちからは嘆かわしい話を聞いている。 それを杠は許しているのだろうか、それとも本領では大人しいのだろうか。

「うううん、そうじゃないみたい。 杠とはほんの数回しか会ってないからどう変わるかは分からないけど」

紫揺が首を振る。

「うううん、杠は変わらない」

「紫さま?」

「杠はいけない事はいけないと言ってくれる。 優しく諭すように」

杠の一言一言が思い出される。

「・・・塔弥さんと似てるかもしれない」

「え?」

「ここのところの塔弥さんは厳しいけど。 でもそれって私が悪いからって分かってる」

「そんなこと・・・」

紫揺が首を振る。

「きっと杠も塔弥さんと同じことを言ったと思う。 杠の方が言い方は優しいと思うけどね」

それに甘えたいのだから。 杠の声が、笑みが、手を広げて紫揺を迎える姿が、その記憶が頭に浮かぶ。

「杠に会いたい」

「紫さま・・・」

「杠に会って・・・」

紫揺の口が塞がった。
杠に会ってどうしたいのか、何を言いたいのか。

「杠兄様に会って? それで?」

紫揺が首を振る。

「言ったところで会えないもんね」

ここで話を終わられては困る。

「えーっと、杠兄様って塔弥と似てるんでしょ? その・・・あれですよ、うん、杠兄様の代わりに、塔弥に言うとかって?」

苦しすぎるか・・・。 窮余(きゅうよ)の一策としても浅はかすぎるか。

「駄目でしょ。 塔弥さんは葉月ちゃんのものだもん」

まさか突っ込みも無しに乗ってくるとは思わなかった。

「いや・・・、べつにそんなことは無いでしょ。 いやいや、そういう問題じゃなくて、塔弥はお付きなんですよ? 紫さまのお話を聞くくらい当たり前ですよ?」

「杠は抱きしめてくれるもん」

「あ・・・それはキツイかも」

葉月ではなく、塔弥にとって。

「でしょ?」

「いや、私はどうでもいいんですけどね、塔弥には厳しいかなってだけで。 ってか、抱きしめて欲しいんですか?」

「・・・あ」

自分が言ったことに気付いていなかったようだ。

「私じゃ駄目なんだ」

少し不貞腐れて言う。

「そんなんじゃないんだけど・・・」

「うそうそ。 分かってますよ。 女に抱きしめられるのと、男に抱きしめられるのとでは、全然違いますもんね」

「そんなんじゃなくて・・・」

杠に会って何を言いたいのかではなく、抱きしめて欲しかったんだということが分かった。 気にはなるが、この話はこれくらいでいいだろう。 話を戻そう。

「杠兄様がどんな人か大体分かりました。 で? 杠兄様とマツリ様はどう違うんですか?」

「マツリは優しくな・・・」

『苦しかっただろう、悲しかっただろう、痛かっただろう・・・我にはそれが分からん。 紫一人でよう堪(こら)えた』
紫揺の口が止まった。 葉月が眉を上げる。

「マツリは・・・」

杠とマツリのどこが違う? 全然違うのに、マツリのことを兄だなんて思えないのに、どうして思い浮かばない。

「・・・マツリは、笑ってくれない」

『我は想い人を大切にする、守る。 何と思われていようがな』
『我の想い人は、紫ただ一人』

紫揺の言っている “笑ってくれない” は笑顔を向けないということだろう。
葉月はマツリを遠くから見たことはあっても、会って話したことなどない。 紫揺の首筋に口付けまでしておいて、笑顔を向けていないとはどういうことだろうか。

「笑ってくれないだけ?」

遠慮気味に問う葉月の顔をじっと見たと思うと、激しく首を振った。
紫さま、首がとれるよ! と言いたいのを抑えて紫揺の次を待つ。
激しく振っていた首が緩慢になり、振られていた短い髪の毛がボサボサのまま納まる。

「杠とマツリって全然違うのに、どこが違うか思い浮かばないの。 憧れ続けたお兄ちゃん以上だったのは杠なのに。 マツリなんて、あんなお兄ちゃん欲しいだなんて思わないのに。 全然違うのに分からない」

葉月が口角を上げると、次に溜息とも違う息を吐いた。

「紫さま? マツリ様はお兄ちゃんにはなり得ない。 でもマツリ様に笑って欲しいんでしょ?」

紫揺の髪の毛を手で梳いてやる。
されるがままの紫揺は、まるで何をされているのかもわかっていない仔猫のようだ。

「笑って欲しいっていうか・・・。 杠との違いが一番大きいのはそこかなって」

「そう思われるのは笑って欲しいからですよ」

「・・・」

「もう昼餉時がきますね。 明日また来ます。 そうですね・・・杠兄様の良い所は聞きましたから、今度はマツリ様の良い所を考えておいてください。 書き上げてもいいですよ」

「・・・学校の先生みたい」

「はい、それじゃ、先生からの宿題ですからね。 ちゃんと考えておいてください」

そう言って手をついてから出て行った。

「先生が生徒に手をついて頭下げないって・・・」

宿題と言った以上、学園物の番組も見ていたのだろう。



一月ほど前に遡る。

五都を見回って戻ってきたマツリ。

「お帰りなさいませ」

回廊でばったり会った杠が慇懃に頭を下げる。

「やめてくれって」

杠とは対等にいたいマツリだが、そういうわけにはいかないことは分かっている。 ただ、時々吞み交わす酒の席ではマツリの言を汲んで少々無礼講気味でいてくれる。
今、杠が宮に来る前の単なる主従関係とは全く違った関係を二人で築き上げている最中である。

就業の太鼓はとうになり終わっていたのに、杠の手には書類が乗っている。

「こんな刻限まで。 父上に諫言(かんげん)せねばいかんな」

「四方様もお忙しくされていらっしゃいますので。 如何でした? 五都は」

北の領土でトウオウが臥せったという話があった時もそうだったが、四方と杠の間はかなり通々のようだ。

「ああ、いくつかの長屋が潰されてはいたが、すぐに武官が取り押さえたらしく大事には至らなかったようだ」

「長屋? で御座いますか?」

「ああ。 暴動と聞いておったから、最初は貯蔵蔵(ちょぞうくら)や、都司の家かと思っていたが、そそのかされて気に食わぬ者の家を潰したといった具合だ」

「六都の者は何のためにそんなことを?」

「暇だったから、と抜かしおった」

マツリが腕を組んで口を歪め、杠が溜息をついている。

「六都の大掃除をするが宜しいでしょうか」

息交じりに言うが、本気で言っているわけではない。
六都のことはよく知っている。 地下に入る前にマツリに言われ六都にも居た。 あの六都は簡単にどうにかなるものでは無い。

「地下のようにか?」

半分笑いながら応える。

「地下に比べると広う御座いますか」

それにあの時は城家主の屋敷に踏み込んだだけだ。
うん? と言うと、マツリが何やら宙で考える様子を見せる。
目を戻すと杠を見た。

「良い案かもしれん」

「え?」


それから約一月後。

巴央(ともお)、京也(きょうや)、享沙(きょうさ)が宮に呼ばれた。 造幣所と採石場でマツリが声を掛けた者たちだ。
そして絨礼(じゅうらい)、芯直(しんちょく)、柳技(りゅうぎ)という者達も呼ばれた。

六人は優し~く捕らえられた乃之螺たちが入れられていた建物の中の一室に四方の従者によって案内をされた。
杠にさせるつもりだったが、頑として四方が杠を離さなかったからだ。 『一日、いや、数刻でも惜しいからな』 と言って。
それ程に杠は書類に長けているのだろうかとマツリが思うが、考えてみれば体術だけではなく、文字の覚えも算術の覚えも早かったし、一本筋は通ってはいるが、反対に融通もよく利く。 融通が利くということは頭が柔軟だということだ。 基本を教えてもらえば覚えるのは早いのだろう。

あの日、杠が言ったように六都の大掃除をしようと考えた。 マツリ自身も勿論だが、四方も六都には頭を悩ませている。 六都はこれからも問題を引き起こしていくだろう。
四方が本領領主から退き、順当に行けばマツリが四方に代わってあの書類の山に囲まれなければいけない。 そうなると思うままにならない。 自由に動ける今が好機だろう。
短い期間でどうこうなるものではない。 それだけに今動いていいものかという懸念が無くはないが、好機を逸してはどうにもならなくなるかもしれないと、踏み入れることにした。
まずは六都の大掃除のことを四方に話した。

『六都を!?』

『はい』

『どうやって』

『徹底的に押さえつけます。 その為に武官をお借りしたく思っております。 そして将来的に可能なら勉学をさせます』

『勉学? 六都にそんな所はないだろう。 それに教える者もおらん』

『はい。 それによる金をまわしてはもらえませんか?』

『わしの仕事を増やすと言うのか』

大きな嫌味を言いながらも、首を縦に振った四方であった。
四方に承諾を得ると、次に杠と段取りを話した。
段取りといっても六都の官所(かんどころ)のことは、送られてくる書面でしか分からない。 その書面が真実かどうかさえも分からないし、マツリが直接出向いても取り繕ってまともな話を聞くことができないことは分かっている。

以前、杠は六都の税を怪しんでいたことを言っていた。 まずはそこから着手する。
六都の都司はしょっちゅう変わる。 それが原因なのか、堂々と言えない何かがあるのか、それさえ分からない。

取り敢えずは杠が文官として、六都の官所に潜り込むということだ。 現状は杠が六都から送られてきた書面に目を通し、あくまでも書面上の状態をマツリに話した。
マツリはマツリで、杠にいま目の前にいる六人の話をした。


「遠路、苦労であった。 よく来てくれた」

歳がバラバラの六人が畳に座る一室にマツリが入ってきて開口一番がこれだった。
四方の従者が用意したのだろう、椅子が一脚置かれている。 ほんの逡巡の後、椅子に腰かけた。

享沙と京也だけは互いに顔見知りであったが、他の者たちは初顔合わせだ。 マツリに呼ばれれば宮に来るようと言われていた。 来る気が無ければ来なくていいとも。 だが六人全員がやってきた。

回りくどく言ってもややこしいだけ、単刀直入に言うと前置いてマツリが言う。

「我の下(もと)に付かんか」 と。

誰もが、え? という顔をした。

「決して表立ってのことではない。 裏で動くということだ。 俸給はそれなりに考えておる」

こんな時、互いに目配せたいが、生憎と京也と享沙以外は今日初めて会った相手。 京也と享沙にしても顔見知りというだけで目を合わせていない。

「俸給の問題じゃありません」

案の定、灰汁の強い巴央が口を開いた。

「ではどういう問題だ」

「マツリ様が何を考えておられるかは知りませんが、急にマツリ様の下に付けなどと」

「まあ、そうかもしれん。 だが我から言わせれば急ではない」

六人を見渡す。

「巴央、京也、享沙、絨礼、芯直、柳技」

一人づつに目を合わせ名を呼ぶ。

「お前たちを初めて見た時から決めておった」

眉をひそめる者、小首を傾げる者、指を動かす者、それぞれがそれぞれの反応を見せる。

「巴央、お前は汚いことが嫌いと言っておったな」

「はい」

「我にとってそれが大事」

巴央が眉根を寄せる。

「京也、お前は目を合わせることが大事といった。 我もそれが真にあると思う。 享沙、お前は己の身にあったことをよくよく分かっておる。 それが全ての糧となる」

京也と享沙が頷く。

「絨礼、芯直、柳技」

名を呼ばれて身を硬直させる。 この三人は柳技を除いて宮ではまだ童と言われる歳だ。 柳技にいたっては、やっと十五の歳になったばかり。

三人とも辺境の出である。 辺境は伊達に広い。 それぞれのいる辺境の郡司の元、育ての親を待つ身であったが、十五の歳になった柳技は童ではなくなっていた。 もういつ郡司が手放してもおかしくない。 いや、柳技が飛び出せばよかったのだ。
その柳技の身体には痣が絶えなかった。 郡司が足蹴にしていた。 柳技が出て行くと言ったから。

「まだ歳浅いが、お前たちには一本の筋があると見た」

マツリの話しの仕方から、今は絨礼と芯直に話の重点を置いているのが分かる。 その筆頭に居るのが己だと。 チラリと絨礼と芯直を見た。 どっちがどっちかは分からないが、歳浅いと言われればこの二人しかない。

「学がありません。 多分、他の二人にも」

マツリが口角を上げる。

「学が欲しければ享沙に乞うが良い」

享沙が驚いてマツリを見る。
学などない。 それなのにどうして。

「享沙、そんなに驚く顔をするのではない。 お前はよくやっておる。 それを伝えんか? まあ、お前にも柳技たちにもその気があるのならば、ということだが」

マツリの視線から誰が享沙なのかが分かる。
柳技が享沙に視線を送る。 それにつられて絨礼と芯直も享沙を見た。
この二人は共に口減らしとして幼少の頃、親から郡司に投げ渡された十二歳の少年である。 だが抑圧されてきたからなのか、十二歳にはとても見えない小柄であった。

「オレ・・・オレ、マツリ様の下に付く」

柳技が言う。

「教えて欲しい! オレ、このままじゃイヤだ。 どこかに・・・どこかに、売られるなんてイヤだっ! ずっとびくびくしてそれを待ってるだけだなんて!」

マツリが眉をひそめる。 同時に享沙も眉間に皺を寄せている。

「売られる? どういうことだ」

郡司に預けられれば金銭など発生しないはず。 養子縁組で終るはず。 誰が売るというのか。

「オレが売れれば、金が入る・・・。 でも、オレは・・・オレは物じゃない。 金に換えられるために生きてるんじゃない」

真実は分からないが、一度郡司を洗い直さなければいけないかもしれない。 もし柳技の言うようなら、郡司が十五の歳を迎えた柳技を手放すことなく足蹴にしてまで置いていた理由が分かる。
話が広がってしまった。 マツリが遠い目をしたかったが、今はその時ではない。

「では我の元につくのだな」

マツリが柳技に行った時、待ったがかかった。

「待ってください、それは許せません」

巴央であった。

「どういうことだ」

「こんな小童(こわっぱ)に先を越されたくありません。 オレが一番にマツリ様の下につきます」

「小童とはな。 オレから見ればお前も十分に小童だ。 巴央と言ったか、お前より先にオレがマツリ様の下につく」

四十の歳にはならないが、その京也から見ては二四、二五ほどの歳の巴央は息子と言ってもいいくらいだ。
灰汁の強い巴央と、マツリの前に居るのにもかかわらず、その態度に武官からこ突かれた京也。
またもやマツリが口の端を上げる。

「我は順など問わん」

巴央と京也も共に口の端を上げた。

柳技が享沙を見る。 その目に応えたいが、その前に言っておかなければいけないことがある。

「俺は・・・六都の出だ」

「・・・え?」

柳技ではなく、芯直が思わず小さな声を上げた。

「その六都が嫌で出た。 マツリ様の仰るような学は俺にはない。 それでもいいのか?」

「どこの出なんて関係ない。 それにオレは何も知らない。 教えて欲しい」

柳技が享沙を真っ直ぐに見て言う。
絨礼が口を引き結び頷く。

「オレにも教えて欲しい」

絨礼は郡司から足蹴にされ、それこそ牛や馬のように働かされ、口の利き方が悪いと叩かれた。 それでも文句ひとつ言わずただ耐えていた。 逃げなかった。 逃げれば親の元に行くぞ、と郡司に脅されていたからだ。 親が兄弟が何をされるか分からない。 逃げることなど出来なかった。 その親には口減らしとして放られたのに。

「字・・・字が書ければ、読めれば何かが変わるはず。 教えて欲しい!」

あまりの食い付きぶりに軽く眉を上げた享沙だったが、絨礼の言うように読み書きが出来れば随分と変わる。 それは自分自身で経験済みだ。
それに今まで生きてきて、教えて欲しいなどと言われたことは無い。 己にはそれ程に学は無いが、それでもこの二人に比べると随分と身に付けたはずだ。 それだけでもいいならば、己が知ったことを渡したい。
十五歳程も違う相手に享沙が深く頷いた。

「六都・・・六都の何が嫌で出たんだ?」

訝しんだ目をして享沙を見ていた芯直が問う。

芯直は一度育ての親が見つかっていた。 だがそこには数日ほどしかいなかった。 育ての親から戻された。 芯直が言うことを聞かないからと。
育ての親は畑やどこかの家に入って食べ物を盗んでこいと言った。 それを断固として拒否していた。 その育ての親は六都の出だと聞いていた。 六都から追い出されたと。

「六都は・・・」

相手はまだ歳浅い子。 子に分かる言葉を探す。

「人としての喜びがない。 真の喜びがな。 人の物を盗って金を盗って笑っている。 俺はそれが真の喜びとは思わん。 だが盗った物や金で俺は育てられた。 それは消すことは出来んがな」

「消したいのか?」

「消せるものならばな」

こうして聞いていると享沙の声は深く染み入るような声だ。

芯直が顔を伏せた。 その顔には逡巡の色が見える。
目の前に居るこの男は六都で育った、そんな男を信用できるのか。 そんな男とマツリの下につけるのか。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第109回

2022年10月24日 21時14分53秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第100回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第109回



「ふーん・・・」

いつの間にか葉月が紫揺の後ろに来ていた。
振り返ると昨日書いていた紙を葉月がながめている。 いつも昼餉の後に来るから、あとで破棄すればいいと思っていたのに、しっかりと見られてしまっている。

「わっ! わゎゎ」

〇 薬膳じゃなかった
〇 米が潰れると言った 食べ物を粗末にしてない いいことだ
〇 キョウゲンを大事に思ってる
〇 キョウゲンってけっこう良いフクロウ 最初と印象が違ってきた
〇 力の事を教えてくれた
〇 本を読ませてくれた チョイスして持ってきてくれた
〇 支えてくれた
〇 見守ってくれた
〇 一人ではないと言った

紫揺が取り返すが、時遅し。

「今回は悪口じゃないんですね」

ストンと紫揺の隣に座る。

「もし喜作が―――」

まで言うと、本当に嫌な顔をした。 喜作のことが根こそぎ嫌いなのだろう。

「そんなに嫌いなんだ、喜作のこと」

「うう・・・蹴り倒したいけど、蹴った足に喜作が触れたんだと思うとそれも嫌なくらい」

「ふーん、どれだけ喜作が心を入れ替えても?」

「無理無理。 まず生理的に受け付けない」

「そうなんだ。 じゃ、心を入れ替えた喜作が紫さまの力を知っているとして、紫さまに力の事を教えたらどう思います? ってか、紙にどう書きます?」

「まず話を聞くことが無いと思うけど・・・力の事って言われれば・・・。 あ、いや、それでも聞かない。 喜作が言うなんて嘘か本当かも分からないんだから。 マツリやシキ様が教えてくれるんだもん喜作から聞く必要ないし」

「うーん、じゃあ・・・。 紫さまがお腹ペコペコ、そこが何処なのかも分からない所に心を入れ替えた喜作がやってきて、そっとおにぎりを置いていきました。 喜作が置いたとは知らず紫さまは食べてしまいました」

「いや、誰が置いたか分からないものを食べるなんて、そこまで節操無くは無いよ?」

「例え話ですよ」

ふふっと笑うと続ける。

「お腹が満たされた紫さまは、後でおにぎりを置いたのは喜作だって知りました。 さて、この出来事をどんな風に書きます?」

「えー・・・」

「おにぎり一個でお腹が満たされないなんて言いっこなしですよ」

うーっと言いながら考えているようだ。 ある意味単純で助かる。 単純だからややこしくもあるが。

「おにぎりを・・・おにぎりを置きやがった」

一瞬目を見開いた葉月が大声で笑い出した。 腹を抱えて笑っている。

「そんな笑う?」

ヒーヒー言いながらなんとか笑いを治めると・・・いや、まだくっくと笑っている。

「おにぎりを置いてくれた、じゃないんですか? くく・・・」

「なんで喜作にそんな書き方をしなくちゃいけないの? って、葉月ちゃん笑い過ぎ」

声を立てずにまだ顔をくしゃくしゃにして笑っている。 器用な。
深呼吸を何度かして今度こそ笑いを治めたようだ。

「紫さまにとって、何々をしてくれた、と、何々をしやがった、っていうのはどこで違いが生じるの?」

「それは・・・うーんと、相手かな? ムカつく喜作に “してくれた” なんて思うはずないもん」

「それだけ?」

「うん? 他にあるかな? まあ・・・ “してくれた” って思うってことは、相手を認めて感謝してるんだろうな」

「マツリ様のことは認めてます?」

「またマツリの話?」

「はい。 認めて感謝してます?」

「まあ・・・。 力の事を教えてくれたのは大きいかな」

「ですよね」

葉月が紫揺の持っている紙を指さす。

「マツリ様が何々をしてくれた、って書いてありますもんね」

え? という顔をした紫揺が慌てて紙に目を落とす。
教えてくれた。 読ませてくれた。 持ってきてくれた。 支えてくれた。 見守ってくれた。

「あ・・・」

気が付いていなかったようだ。

「無意識に書いたみたいですね」

紙から目を離し葉月を見る。

「葉月ちゃん・・・目がカマボコ」

「ね、そろそろ認めません?」

頬を小さく膨らませ、上目遣いに見る。

「ふーん、その様子じゃあ、私が何を言いたいか分かってるんですね?」

「嫌いではない・・・らしい」

「強情―!」

「だって、言ってみれば喜作以外が何かをしてくれたら、してくれたって思うし書くもん」

「喜作以外の人って?」

「葉月ちゃんもそうだし、此之葉さんも領主さんも、みんな」

「民も?」

「当たり前」

「それってみんな紫さまが好きな人じゃないんですか?」

「あぇ?」

「あぇ、じゃなくて。 要するに、その好きな人の中にマツリ様も入ってるんでしょ?」

本当はもっと特別と言いたいが、徐々に攻めよう。

片頬をプクーっと膨らませる。

「はい、認めましたね。 では」

人差し指を一本立てて紫揺に見せる。

「紫さまが許せない程のチューをした相手なのに、どうして好きな人たちの中に入るんでしょーか?」

「ううぅぅぅ」

頭を抱えだした。

なにが引っ掛かっているのだろうか。 マツリのことを想っていると気付いて、何か困ることでもあるのだろうか。 それが引っ掛かっているのだろうか。 ましてやそれにも気付いていないということだろうか。
無意識に何々をしてくれたと書いていたくらいなのだから、指摘されるまで気付かなかったのだから、有り得るだろう。 それが全てとは言わないが。

「マツリ様ってイイ男ですよね」

「は?」

抱えていた頭を持ち上げる。 手はそのままだ。

「たしか・・・男のくせに髪が長いとか、白髪か、お爺さんかって書いてましたよね。 もう一度言っておきますけど、白髪じゃなくて銀髪ですけど」

「よく覚えてるね」

手を解除する。

「ロン毛とか銀髪が嫌なんですか?」

「見た目で判断する気はないし、長いからって不潔にしてるわけでもないし、銀髪はマツリのせいじゃないから」

宮に居た時にマツリが茶を飲んで眠ってしまった時、邪魔だろうと思って丸紐を解いた。 サラリと銀髪が落ちてきた。 手で持ってみるとまるで砂丘の砂のようにサラサラと手から零れていった。 撥ねてばっかりしている自分の髪の毛にはあり得ない程、綺麗な髪の毛だった。 ・・・だから三つ編みをしてみた。 サラサラ過ぎて編みにくかったけど、翌日にその型が残っていないか見てみたかった。

(ふーん、マツリ様の肩を持つんだ。 この方法もありかな?)

「でも日本であの髪の色は無いですよね。 行ったことないけど、東京とか都会に居る人みたいにチャラっぽいですよね?」

「まぁ、都会では色々な髪の色に染めてるみたいだけど・・・でもマツリを見てチャラっぽくはないでしょ」

「そうかなぁ・・・今どきの日本の服を着せて原宿とかに行ったらイイ男だけに女の子が群がりそう」

「うーん・・・日本の服を着てるイメージがわかない。 やっぱマツリには本領の衣装が似合うな。 それにあの話し方。 申せ、とか、言うておる、とか、時代錯誤で女の子が引くよ」

「いや、タイムトラベラーとかってよけい気を引くかも。 都会の人ってそれっぽいでしょ?」

コキンと首を倒して考える様子を見せる。

「マツリ様だって女の子が群がってきたらイヤな気にはならないと思いますよ」

「ナイナイ。 マツリに限ってナイ。 それに都会の女の子はマツリに似合わない」

それは女の子にマツリが似合わないのではなくて、マツリに女の子が似合わない、ということ。 あくまでマツリのことを考えているということ、だんだんと脈が出てきたようだ。

「それは紫さまが思ってるだけでマツリ様だって男ですよ? モテて嬉しくないはずないじゃないですか」

「・・・」

黙ってしまった。 言い過ぎただろうか。

「どうだろうね」

『我は想い人を大切にする、守る。 何と思われていようがな』
『我の想い人は、紫ただ一人』
あんなに言い合いをしてたのに、どうして急にそんな風に思ったんだろう。 たしかに幼い頃の杠と同じようなことを経験しているとマツリが知ってからは、怒鳴り合うこともなくなったと思うけど。

「葉月ちゃん・・・」

「はい?」

「塔弥さんのこと好きでしょ?」

「あら、ここにきてそんなこと訊きます?」

「そんなんじゃなくて。 なんて言っていいのかな、塔弥さんって胸を刺す人?」

杠が言っていた。 胸を刺す人と。

「ん? どうしたんです? 急に」

「あ、うううん。 何でもない」

葉月がにっこりと笑んだ。

「よく言いますよね。 うう~刺された~、とかって」

両掌を広げて胸の辺りに重ねて当て、嬉しいのか苦悶なのか幸せなのか分からない顔を作っている。

「え? サスペンス? ナイフで刺すんじゃないよ?」

「分かってます!」

今の演技に対しての評価がそれかと思うと、少々声も荒げたくなる。

「アニメでよくやってるじゃないですか」

黄門様と言い、次にはタイムトラベラーと言ったかと思うと、今度はアニメ。 日本に居る時にどれだけテレビを見ていたのだろうか。

「アニメはあんまり見なかったかな」

「あ、そうなんだ。 でもちょっとコミカルなドラマでもやってましたけど?」

ますます好みのジャンルが分からない。

「まっ、私の場合は胸キュンの方かな」

「胸キュン?」

ちょいちょいクラスメイトが言っていたのを思い出した。

「そっ、塔弥ってすごく頑張ってたの。 こっちが悲しくなるくらいに」

そう言われれば思い出した。 初めて塔弥を見たのは東の領土が持っていた日本の島にある領主の家だった。
ずっと俯いていた。 俯いていたのは、名前を名乗る前に顔を上げてはいけないからだとあとで知ったが、そうではなく、まとう空気が違っていた。 空気そのものが俯いていた。
あとに唱和の家に行った時も、初めて名乗られた時もそうだった。 硬く悲しい空気をまとわせていた。 誰も近寄らせないような、拒むような空気だった。

「だから守ってあげたいと言った方がいいかな」

「え?」

『我は想い人を大切にする、守る。 何と思われていようがな』

「母性本能がくすぐられたわけじゃないんだけど、頑張ってる塔弥を見てたら守ってあげたくて。 その内、胸キュン」

「あ? え?」

オチが説明不足ではないか? 詰めが甘すぎるのではないか? 

「色々ですよ」

「え?」

「人を好きになる始まりなんて人それぞれです。 理由や定義や条件なんてありません」

「でも。 杠が胸を刺す人って・・・」

「杠?」

本領で兄と思える人がいた、それが杠だと言った。
此之葉からは紫揺が兄と思え、兄と思われた方は紫揺のことを妹か弟だと思っている、紫揺がそう言っていたと聞かされていた。
すっかり忘れていた。 そう言えば昨日、杠が幼い時に両親を亡くしていたと聞いていた。

「ああ、此之葉ちゃんから聞きました」

此之葉に杠のことを話したのを思い出した。

「あ、うん。 そう」

「杠兄様(ゆずりはにいさま)って男でしょ?」

兄と思える人がいたと言っていたくらいなのだから男だろう。 それに紫揺が兄と慕う相手だ、呼び捨てになど出来ない。
紫揺がコクリと頷く。

「男には分からない女の気持ちがあるんです」

「え?」

「まぁ、男にも胸キュンはあると思いますが、男ってそこのところを口に出来ないってのもあります」

「あ? え?」

杠の言ったことに穴が開いていたのか?

「まぁ、紫さまが杠兄様の仰ることに―――」

「待って! 胸キュンって、胸が締め付けられること?」

え? という顔を見せた葉月だったがすぐに答える。

「当たり」

杠の言ってたことを思い出せば、胸を締め付けられる人とも言っていた。 いま葉月は男が口に出来ないことがあると言っていたが、杠は言っていた。 杠に穴など無かった。 杠には抜け落ちなど無かったと言いたい。

「杠も言ってた」

「うーん・・・女心をよく分かってるってことか・・・。 杠兄様って経験豊富なのかな?」

「え・・・」

「ま、男だしね。 それくらいの方がいいんじゃないですか?」

塔弥に爪の垢を煎じて欲しい。

「あ? え?」

紫揺が兄と慕う相手のことだ。 刺激が強すぎただろうか。

「単に世間をよく知ってるってことです。 人間観察が出来てるって言うんですか?」

「あ・・・うん」

多分頭の中がグチャグチャになっているだろう。
もしかして・・・。 紫揺はマツリのことを好きなのに気付いていないのではなくて、人を好きになるっていう感情を知らないのか? それを分かって杠はそう言ったのだろうか。

「紫さま?」

「んぁ? あぇ? あ? なに?」

完全に脳みそグチャグチャだったようだ。

「日本で誰か好きになった人がいましたか?」

「うん。 一人だけ」

あれ? 勘違いだったか?

「でもそれは・・・勘違いだったみたい」

勘違い返しか?

「は?」

「えっと・・・器械体操を知ってるよね?」

日本を知っている葉月にだったら話しやすい。

「はい。 スポーツはテレビでめっちゃ見てました。 器械体操も見てました。 気持ちよさそうですよねぇー、男子の鉄棒から飛んでの着地。 女子の平均台はよくあんなのやれるなって思います」

全く以って葉月のテレビ番組の嗜好が分からない。

「日本に居る時、それをやってたの」

「あ? え? 紫さまが?」

お付きたちは知っているが葉月は知らない。

「うん。 葉月ちゃんがテレビで見てた程にレベルは高くないけど」

「床で捻りとかやってたんですか?」

いやに詳しい。

「うん、まあ。 って、そんなことじゃなくて・・・」

と、シキにも聞かせた、好きと思っていた相手の話をした。 好きと思っていたが、単に素晴らしい技をすることに対しての憧れだったようだった。 自分が似たような技が出来た時にその想いは消滅したと、勘違い恋愛の話をした。

「そっか。 じゃ、他にはないんですか?」

「そんなに沢山あるもの?」

完全だ。 紫揺は恋愛感情を知らない。 何か引っかかりがあるんじゃない。 少し前に思ったことを黒塗りにする。 二重線などではない。
さて、この歳ぶっこいて恋愛感情を知らない紫揺にどう分からせるか。
それに相手がマツリだ。 やっとマツリを認めたくらいだ。 先は遠そうに思える。 溜息をつきたいがそれを飲み込む。

「紫さま、杠兄様の良いところを聞かせてくださいますか?」

「え? 杠のいい所?」

テンコ盛りにある。
杠の笑顔、杠の声、杠の髪の毛一本さえも紫揺を幸せにするのだから。
淀みなく杠のことを話す。

(杠兄様、どんな人だろ、一度会ってみたいな)

杠のことを話す紫揺の口がようやく止まった。

「え? じゃ、もう会えないと思ってるってことですか? 杠兄様はまた会えるって仰ったのに?」

「だって、もう本領に行かないもん」

葉月が戸惑う。
もう本領に行かないと紫揺が言っている。 それなのにこのまま紫揺を煽(あお)り上げていいものだろうか。 マツリが来るのをただひたすらに待つだけでいいのだろうか。
そう思うと不安が再び心の中から浮き上がってきた。
紫揺がマツリへの想いに気付いてしまっては、その後に発展してしまっては、紫揺は本領に行ってしまう。
でもそれは分かっていたこと。
それが紫揺の幸せならばと抗いながら踏み切ったはず。

だが葉月の逡巡は短かった。

―――塔弥を信じる。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第108回

2022年10月21日 21時34分07秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第108回



領主との話を終えた阿秀がお付きの部屋に戻ってきた。

「何をしている」

戸を開けた阿秀の第一声。
野夜の4の字固めに塔弥が悶絶している。

「ちょっと吐かそうかと」

「言っただろう、塔弥をからかう事は以後するんじゃないと」

都会の恐ろしさというお題目で、野夜が塔弥をからかった。 その時にしっかりと阿秀が野夜に言った。 忘れてはいないだろう。

「からかってるんじゃないですよ」

軽くかけただけだ。 野夜が足を解くと、その横で塔弥がビービー言いながら足をさすっている。

「ではプロレスを知らない塔弥相手にプロレスごっこか」

「違いますよ」

「じゃあ何があったんだ」

野夜が醍十に視線を送る。

「醍十、何があった」

「・・・此之葉が俺には何も言ってないのに、塔弥には話してましたんで」

未だ窓の側に座りながら不貞腐れたような顔で答える。

「何のことだ」

聞いてみると、塔弥から言われたあの話のあと、一日目に葉月と紫揺が話す中、途中で部屋を出てきた此之葉の後ろについて塔弥とともに家を出てきたという。 外に居た醍十が気になって二人を見ていた。

「で? それがなんだ?」

「は? それがって? 此之葉が沈んだ顔をしてたんですよ、気になるでしょう!」

醍十は二人の様子を見ていたらしい。 すると聞こえはしないがその様子から、此之葉が訥々と塔弥に話だし、塔弥も頷きながら此之葉を宥めるように背を撫でていたということであった。

「その後に此之葉と会ったのに何も言ってくれなかったんですよ!」

「おーい、なんだよ、そんなことかよ」

野夜が言うが、他のお付きたちも同じような顔をしている。 そして未だに足をさすっている塔弥。

「野夜!! そんなこととは何だ! たとえ野夜でも許さんぞ!」

「いい加減にしろ」

醍十が腰を上げかけたのを阿秀が止めた。


「・・・丸、子供の頃に杠を助けた。 丸、太鼓橋で降ろしてくれた。 丸、看病」

今日もしっかりと紫揺の隣に座った葉月が、紫揺が昨日書いて置いてあったものを見つけ読み上げている。

「この二本線を引いてある、ひっぱたいたっていうのは、紫さまがマツリ様をひっぱたいたってことですよね?」

話は聞いている。
コクリと紫揺が頷く。

「それで? この続きは?」

「・・・書く気になれなかったから書いてない」

「どうして書く気になれないんですか?」

「・・・思いつかなかったから」

「マツリ様の悪口を?」

「悪口って・・・人聞きの悪い」

「事実そうでしょ?」

前半は散々なことが書いてあった。 その中で 『白髪ではないです、銀髪です』 と、誤りは正しておいた。

「・・・まあ」

「ひっぱたいた後は・・・てか、この杠って人のことからは、少々趣が変わってるんですけど? これはどういう心境の変化ですか?」

「・・・変化は・・・私じゃない」

「ん?」

「マツリ。 マツリが変わったの」

「どういうことでしょうか?」

「杠は・・・」

幼い頃に両親を亡くしている。 その原因は杠自身にある。 両親を殺したのは自分だと、マツリに助けられてからもずっとそう泣き叫んでいた。
同じだった。 紫揺もそうだ。 両親を殺したと泣き叫んだ。

「杠には両親が居ないの。 私と一緒。 でも杠は私と違ってずっと幼い時に亡くしたから」

「・・・紫さま」

「マツリは、杠に私を重ねたと思う。 それから態度が変わったの」

「紫さま、ハグしていい?」

「え?」

「だめ?」

「そんなことない」

紫揺が手を広げる。
シキ以外に抱きしめてくれる人がいた。
葉月がギュッと紫揺を抱きしめる。 シキと同じようにポワンとしたおムネが当たる。

しばしの沈黙のあと葉月が口を開いた。

「紫さま、紫さまに幸せになってもらいたいの」

「ありがと。 私も葉月ちゃんに幸せになってもらいたい」

どちらともなくハグが解かれていく。 だが互いに手は添えたままだ。

「私、幸せですよ、紫さまが塔弥に言ってくれたから。 それに此之葉ちゃんも」

「そっか、塔弥さんも阿秀さんもちゃんと言ってくれてるんだ」

「はい、言わなきゃ分からない事ってあるから」

先に葉月が紫揺の身体から手を離した。

「塔弥には阿秀に見習ってほしい所があるけど」

「え?」

紫揺が葉月の身体から手を離す。

「純(じゅん)過ぎるし」

「あぇ?」

「マツリ様や阿秀がしたように私もして欲しいし」

「うぁ?」

「黄門さまの印籠じゃないけど」

日本で渋い番組を見ていたようだ。

「ぅえ? 待って、阿秀さんって? どういうこと?」

「阿秀が此之葉ちゃんの頬にキスしたよ」

「あぁぁぁえー!?」

「驚くことはありませんってば」

「だって、だって・・・」

「もう一度性教育しましょうか?」

できれば塔弥と共に。

「い・・・要らない」

『今日は話が逸れましたけど、明日にはもう一度お訊きします。 書く気になれなかったとか、思いつかなかったでは許しませんからね。 マツリ様のことをちゃんと考えて書いて下さいね。 これみたいに箇条書きでいいですから』

お訊きします、と言っておきながら、書いて下さいと言い残した葉月。
書くのか訊かれるのか、どっちだ。
葉月の言ったことに矛盾を感じながらも右手に筆を持っている。

「何を書けっていうのよ」

思ったことを書いてしまえば葉月のドツボにはまりそうな気がする。
でも

「葉月ちゃんに見せなきゃいいんだ」

それに書き起こさなくては、自分自身が分からないような気がする。

「書いて破棄すればいいんだから」

筆に墨をすい込ませた。 そして思うがまま書く。

〇 薬膳じゃなかった
〇 米が潰れると言った 食べ物を粗末にしてない いいことだ
〇 キョウゲンを大事に思ってる
〇 キョウゲンってけっこう良いフクロウ 最初と印象が違ってきた
〇 力の事を教えてくれた
〇 本を読ませてくれた チョイスして持ってきてくれた
〇 支えてくれた
〇 見守ってくれた
〇 一人ではないと言った

ふと思った。
キョウゲンを使わず、キョウゲンに乗らず、どうやって倒れている自分を本領まで運んだのだろうか。
本領に行くまでは東の領土の山を上らなければならない。 それに山に行くまでも遠い。 山を登ったとて、そこから洞を歩かなければいけない。 我が身だけならともかく、誰かを運ぶにはストレッチャーがあればなんとかなるだろうが、そんなものは東の領土にはない。 もちろん本領にも。
それにその後の岩山はどうしたのだろうか、岩山を下りてからのあの長い馬道をどうしたのだろうか。

「明日、葉月ちゃんが来る前に確認しよ」

東の領土を出てからはこの地に居ては何の確認のしようがない。 でもそれまでは誰かが知っているだろう。
それに石のことでマツリが見守ってくれていた時のことを思い出していたら、どうしても気になることを思い出した。 あの時と似たような感触だった気がする。
硯を片付けるために腰を上げた。


朝餉を済ませると塔弥を呼んだ。
部屋には此之葉もいる。

「ご用でしょうか?」

不自然な身体の動きで部屋に入ってきた塔弥が紫揺と卓を挟んで座っている此之葉の斜め後ろに座った。

「訊きたいことがあるの。 塔弥さんが知ってるのなら教えて欲しい。 知らないのなら知ってる人を教えて欲しい」

「はい」

何の話だろうかと訝しみながら聞いてみると、何のことは無い。

「山までは紫さまとマツリ様は馬車で行かれました。 馬車から降りられた後は、マツリ様が紫さまをお抱えして山の中に入って行かれました」

「え・・・じゃ、私を抱えて山を上ったの?」

「多分。 ずっと見ていたわけではありませんが、それ以外には考えられませんので」

「それって何時ごろ?」

「はい?」

「あ、じゃなくて・・・。 もう暗くなってた? マツリって大体夕方に来るじゃない? 暗くなりかけてた?」

「いいえ、あの日はいつもより少し早くマツリ様が来られましたので夕刻前でした」

ということは岩山に出てもまだ暗くはなっていなかったはず。 見張番の馬に乗ったということだろう。
きっと干している布団のように、紫揺を腹ばいにさせて馬に乗せたと考えるのが妥当だろう。 それならゆっくりとでも馬を歩かせれば紫揺を運べる。 マツリにそんな乗り方が出来なくても、見張番なら出来るはずだ。

「それがどうしました?」

「あ、いや。 何でもない」

「では、もう宜しいでしょうか?」

「待って、あと一つ」

「はい」

「やっぱり腑に落ちないの」

塔弥が僅かに首を傾げる。
紫揺が高熱を出して倒れた時のことだと紫揺が言い出した。
紫揺的には泉で泳いだから、もう歳だから体力が追いつかず熱を出したと思っている。 秋我は耶緒の体調不良を紫の力で治したから、体力を使い過ぎ熱を出したと思っている。 此之葉と塔弥もそれぞれに思うところがある。
皆、自分のせいだと思っている中、マツリがやってきた。 それも夜に。

何用かは分からずじまいだったが、東の領土の解熱の薬湯では熱が十分にひかず見守るしかない中、紫揺の様子を知ったマツリが一度本領まで薬湯を取りに戻り、ずっと一人で看病をしていた。

だがマツリが来たことを紫揺は知らない。 マツリ自身が言わないようにと言っていた。 紫揺が倒れた切っ掛けを作ったのは自分なのだからと。
だからマツリが無理矢理に薬湯を飲ませていたが、それをしたのは塔弥だということにしている。
そして随分後にその最初の原因というのを、塔弥と葉月だけが知った。

「あの時いたのは塔弥さんと此之葉さんと領主さんと秋我さんだけだって言ってたよね」

「はい・・・」

相変わらず一人一人の名を連ねてくれる。
此之葉が塔弥を見る。
マツリが居たことを知らないのは紫揺だけだ。

「本当に?」

マツリから口止めをされていることがあったし、あの時は僅かな疑問を持ちながらも言わない方がいいと思ってもいた。 だが状況も人の心も流れている。 今の紫揺は憂いを持っていた時のあの時の紫揺ではない。

「前にもお伺いしました。 紫さまは他に誰が居たとお思いなのですか?」

腹を括ろう。 紫揺が “マツリが居た” と言えば首を縦に振ろう。 紫揺がマツリに想いを寄せているということに気付いてからの方がいいのかもしれないが。

「・・・そっか。 やっぱり気のせいなのかなぁ」

前に訊いた時は声と話し方の記憶が朧気(おぼろげ)にあったような気がしたが、昨日思い出した時にはあの感触が、同じ感触が宮であったと思ったのに。

「あ、ごめん。 それだけ。 ありがと」

腹を括っていたのに、ホッと息をつく。
これは葉月に相談した方がいいか、と思いながら立ち上がりかけ「いっ!」と声を漏らし畳に手をついた。
紫揺と此之葉が何事かと塔弥を見る。
4の字固めの前に、コブラツイストをかけられていた。


「今日は何も書かれないんですか?」

四つん這いで部屋を辞していった塔弥を見送ると此之葉が訊いてきた。

「うーん、ちょっと休憩かな。 それに此之葉さんも退屈でしょう?」

紫揺が書いている間、此之葉はじっと座しているだけである。

「そのようなことは」

「昨日、葉月ちゃんから聞いた。 阿秀さんと上手くいってるみたいね」

一瞬にして顔を朱に染めた此之葉が下を向き、そして一泊おいて小さくコクリと頷いた。

「うん、うん。 此之葉さんも葉月ちゃんも上手くいって何より何より」

「紫さま・・・あの」

「ん? なに?」

「本領に行かれて何か御座いましたか?」

「うん? どういうこと?」

「以前、本領から戻って来られた後には沈んでおられました」

「だからそんなことないですって」

「いいえ、その事を申し上げているのではなく、お元気に戻られたようですので何かあったのかと思いまして」

「ずっと元気ですってば。 此之葉さん心配性過ぎ」

やはり言ってもらえないのか。

「でも、此之葉さんから見て元気に見えるんだったらそれに越したことは無いし。 それともやっぱりあれかな?」

「あれ?」

「初代紫さまと話せたのが大きいのかな」

この事は本領から戻ってきた時に報告として、秋我とお付きと共に領主の家で聞いている。
大きな紫水晶も額の煌輪も、紫揺が見つけてきた大きな紫水晶に共鳴する石も紫揺の部屋にある。

「どのような方で御座いました?」

「姿を見たわけじゃないけど、揺るがないっていうのかな。 ドーンとしててこういう人を紫って言うんだ、ってつくづく感じた。 紫っていう名の重みも教えてもらった感じ。 て言っても、なかなか性格は変えられないけど」

取って付けて言っていないことは分かっている。 紫揺がそういうことが出来ないことを知っている。 仮にしたとしてもすぐに分かるだろう。 だから憂いのことにも気付いたのだから。

「その後、何も御座いませんか?」

「うん。 全然。 多分・・・私が相当感情を高ぶらせなければ大丈夫だと思う。 あ、そうだ。 問答の相手してくれますか?」

「はい?」

「本領に居る時にマツリに言われたんです。 私が倒れた時、滝であったことがもう一度目の前に起きたらどうするかって」

マツリは風をおこして落ちてくる者の身体を受けると言っていた。 地に足を着ける時に衝撃を和らげるよう砂を巻いてもいいなどとも言っていた。 想像もしなかった事だった。

「だからどんな場面が急に現れるか分からないから、落ち着いて対処できるように色んなシチュエーションでのイメトレ。 此之葉さんが思いつく色んな場面を言ってみて欲しいの」

カタカナ部分は分からないが、紫揺が何を言わんとしているのかは分かる。

「うっ・・・急に言われましても」

「何でもいいから、ね、早く」

じっと座っている方がずっと楽だ。
ポツポツと一つ二つと言っていく中、紫揺が頭をもたげながら考えを口にしている。 二つ目の対処がもう少しで終りそうだ。 三つ目を考えなくてはいけない。

「葉月です」

襖の向こうから声が掛かった。
天の采配か。

「ちょっと待っていて」

紫揺の思考を止めさせるわけにはいかない。

「で、最後にこれでもかってくらい砂をぶっかける。 よし」

ガッツポーズをとる。

此之葉からのお題は、どこかの家から火が上がった。 母親は共同台所に行っていて昼餉の準備をしていた。 家の中に居るのは、二歳の弟の世話をしていた五歳の姉だけである、というものだった。
火元が何などとの探りはなし、子供を家に残して母親が家を出るなどということも、この領土ではあり得ないが、あくまでもお題である。

紫揺が最初に言ったのは、突風で火を消すというものだったが「それでは余計に火が大きくなるかもしれません」と此之葉に言われてしまった。 言われればそうかもしれない。 イメージの範囲で良かった。

次に紫揺が言ったのは、とにかく子供を見つける。 見つけたらまずは、子供たちに水をかけ身体に火が移ってこないようにする。 あとは風をおこすことも出来ないから紫揺が火の中に突っ込み二人を助ける。 そして最後はそこらにある砂で鎮火するというものだった。
本来なら大水をかけたいところだが、川が近くにあるわけでもないし、どこの家の周りにも置いてある瓶の中の水では到底足りない、だから周りに豊富にある砂を選んだようだ。

「紫さまが突っ込まれるというのはどうかと思いますが」

かなり雑なイメトレに少し突っ込むと、襖の方に身体を捻じり「入って」と声を掛ける。
襖が開くと座していた葉月が入ってきた。

「ん? あれ? 葉月ちゃん居たんだ」

雑なイメトレに集中していたのか、葉月の声かけに気付いていなかったようだ。

「はい。 今日は昼餉の後に女たちと実を取りに行きますから、早めに来ました」

いつもは昼餉の後に来ている。

「それでは、お願いね」

「三つ目考えておいてくださいね」

「あ・・・」

そそくさと此之葉が部屋を出ていった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第107回

2022年10月17日 21時05分18秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第100回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第107回



あの夜、塔弥が言った。
明日から葉月を毎日、紫揺の元に行かせると。 その時には此之葉には座を外して欲しいと。

『どういうことだ』 阿秀が厳しく言った。

『阿秀、俺が間違っているかもしれません。 でも・・・俺にかけてはもらえませんか?』

『その訳は』

疑問符など付けない。 あくまでも厳しい。 紫揺に付くのは此之葉なのだから。

『・・・今は言えません』

此之葉には悪いが、塔弥が誰よりも紫揺のことを理解していることは分かっている。 だがそれでおさめてしまっては、此之葉の居る意味がなくなってしまう。
阿秀と塔弥の話を聞いていた此之葉が下を向いてしまった。

『此之葉、俺は・・・俺が知ったのは偶然だ』

『え?』

何のことだと、思わず下げた顔を上げる。

『正確に言うと、偶然というか・・・葉月とのことを、その、交換条件に紫さまに話して頂いたことがある』

『葉月とのこと?』

顔を下げた塔弥から視線を移し、葉月を見ると葉月がくすくすと笑っている。
葉月がチラッと塔弥を見たが、まだ下を向いてすぐに此之葉に答える様子がない。
仕方がない。

『塔弥が私に想いを告げるってこと』

『え? 紫さまがその様なことを?』

阿秀が苦虫を噛んだように顔を歪めた。
己にも似たような状況があったのではなかったかと。 そこで紫揺を問い詰めれば塔弥が知ったことを聞くことが出来たのではなかったかと。
だがあの状況では難しかっただろう。 領主がノリにノっていたのだから。

『そう。 紫さまが言ってくれなかったら、いつまで経っても塔弥は・・・ね?』

最後の “ね?” は塔弥に向けられている。 しっかりと顔を下げている塔弥を覗き込んでいるのだから。

一度口を歪めると顔を上げて話し出す。

『紫さまが聞かせて下さった話で気になることがあった。 それを葉月に・・・確かめてもらいたいと思ってる。 時はかかると思う。 紫さまは簡単にハッキリと言われないだろうから。 なによりご自分で分かっておられないのだから』

『分かっておられない?』

何のことかと此之葉が訊き返す。

『ああ。 紫さまは分かっておられない。 だからこそ引き出さねばならないと思っている。 俺では無理だから』

『塔弥、何を言っているか分からないわ』

『此之葉、これ以上は言えない。 紫さまを・・・葉月に預けてはもらえないだろうか?』

『・・・葉月が、葉月が悪いとは言わない。 でも!』

声を荒げかけた此之葉。

『此之葉』

名を呼んでそれを鎮めさせ続ける。

『此之葉が紫さまに付くのは当たり前のことだ。 当然だ。 此之葉以外の誰が紫さまに添えるというのか』

『阿秀・・・』

『塔弥はお付きだ、私もな。 お付きが此之葉に口を挟む力など持っていない。 だが、塔弥の言うことに耳を傾けるのも一考ではないか? さっきも言っただろう? 紫さまはこの領土で生まれ育たれたわけではない。 此之葉が考えもしない、この領土の者が考えもしないことを、考えておられることもあるかもしれないと』

阿秀の言うことも一つだが、今はそういうことではない。

『阿秀、いま言っているのはそこまでのことではないとは思うんですけど、誰か他に居ては余計に何日もかかることだと思うんです。 葉月にしてもすぐには訊きだせないと思います』

『でも、それがどうして私じゃいけないの?』

『紫さまが話して下さったとき葉月についてもらった。 だから葉月は話を聞いてるんだ』

『え? どうして?』

『紫さまの言われる言葉が時々分からなくて。 最初は葉月に部屋の外に居てもらってたんだけど、分からない度に部屋を出ていては話が進まないし、紫さまも俺と同じように判断された。 だから葉月も聞いてたんだ』

此之葉が下を向く。

『此之葉ちゃん、抜け駆けしようと思ったわけじゃないからね・・・』

同席するのは自分だったはず。 でも葉月の役は自分に出来ることではない。 日本の言葉を全てわかっているわけではないのだから。

『紫さまから訊きだすには言葉が通じなくては進むものも進まない。 それに・・・こう言っては何だけど、此之葉のように考えて考えて紫さまを想って添いながら訊きだすというより、葉月みたいに思うまま話して訊きだす方が、紫さまご自身がご自分に気付かれやすいと思うんだ』

『褒められてる気がしないんだけど』

横目で塔弥を見るが、塔弥は此之葉しか見ていない。

『阿秀・・・』

顔を上げ、すがるような目をして阿秀を見る。
風にそよいだ此之葉の髪を優しく元に戻してやる。

『そうだな、葉月は此之葉と違って勢いがある。 島の人も葉月のことを撥ねっかえりと言っていたか』

漁師のカクさんが言ったことを思い出し、クスッと笑う。
言われた方は、え、うそ。 と口の中で言っている。

『今の紫さまを、お小さい頃からお育てになるはずだったのは、独唱様と唱和様だ。 此之葉は独唱様と唱和様がどのように紫さまをお育てになるのかを見て学ぶはずだった。 分かるな?』

此之葉が下を向いてしまった。

『だが残念なことにそれが叶わなかった。 ましてや日本という土地で育った紫さまだ。 日本のことを知っている葉月に任せないか? それに日本の言葉で話した方が紫さまも話しやすいと思うんだが?』

止まっていた此之葉の目からまた涙が零れだした。
阿秀が此之葉を抱きしめると、そっと塔弥と葉月がその場を外した。


そしてどうしても諦めきれない此之葉が口を挟まないからと、一日目は葉月と共に部屋の中に居たのだが、葉月と紫揺の会話は自分と紫揺の会話と全く違っていた。
塔弥の言うように此之葉は紫揺のことを想い考え考え話すのだから、カクさんに撥ねっかえりと言わしめる葉月との会話と違っていても当然だ。

塔弥も葉月が紫揺に対してどんな風に話すかは知っていた。 此之葉がショックを受けるのではないだろうかと襖の外に座っていた。
案の定、寂しさを大きく顔に貼り付けた此之葉が葉月を残して部屋から出てきた。 塔弥がそっと此之葉の後ろについて二人で家を出た。


「あれ? なにを目を丸くしてるの? おっと・・・丸くしているのですか?」

「ん? ちょっと」

紫揺の持っている覚書を覗き見た。

「これ、どういう意味ですか?」

“地下に行って信じられるのはマツリだけだった” そう書かれていた。 書いた時のことをではなく、そう思った時のことを思い出そうとしていた紫揺。

「うーんと・・・話せば長いんだけど」

本領で地下に入った。 地下の者が言うことは何も信用できなかった。 あの泥を拭いてくれた宇藤でさえ。 マツリ以外は信じることは出来なかった。
一度停止した思考、再度思い出しながら、ぼやかしながら言った。 本領で地下に入ったなどと声高に言えないのだから。

「え? じゃ、紫さまは誰よりもマツリ様を信用してるってことですよね?」

「いや・・・状況が状況だったからじゃないのかな?」

「どんな状況でもマツリ様のことを信じたんでしょ? どんな状況であれ信じる心がなかったらそんな風に思わないでしょう?」

「・・・でも」

「でも、何ですか?」

「あんなこと・・・」

首筋への口付け。

「だからー、それはマツリ様の感情表現ですってば」

「だって・・・」

「だっても何もないですって。 紫さまの仰っていたチューは誰もがしてるんですって。 なんならもっと詳しく性教育しましょうか?」

全くのトンチンカンからはステップアップをしたと言えど、欲しい子供の数だけ行為をすればいいと思っているのだから。

「要らない・・・」

「紫さま?」

「なに・・・」

性教育と言われて少々ふてぶてしく答えた。

「では、紫さまはそれ程までにマツリ様を嫌われているのに、どうして石の力を知った時にマツリ様に身体を預けられたんですか?」

葉月が紫揺から訊きだしていたことだ。 とは言っても紫揺もマツリの胡坐の上に座っていたとは言っていない。 身体を支えてもらったという言い方をしていた。

「え?」

「力のことは分かりませんが、女としては分かります。 女は一人の男を嫌えば、その睫毛一本さえも見たくありません」

「え?」

「指も顔も声も影も、何もかもを見たくも聞きたくもありません」

「あ・・・、だってあの時は・・・」

「力が入らなかったんですよね。 でもその後はどうでした? 力が戻ってきたのに、マツリ様から離れようとされなかったんでしょ?」

「お礼を・・・言わなくっちゃいけなかったし・・・」

「礼などすぐに身体を離してから言えばいいことじゃないですか? 紫さまがそれほどまでにマツリ様を嫌ってらっしゃるんだったら、ですよ」

「葉月ちゃん、何が言いたいの?」

「紫さま、マツリ様のことを好きじゃないんですか?」

「有り得ないし」

即答かい・・・。 やっとここまでもってきたのに、どうしたものか。

「んじゃ、その・・・えっと。 喜作だったっけ? マツリ様とその喜作は同レベル?」

「喜作!? わー!! 名前も聞きたくない!」

「ほら、嫌いってそうなんですよ」

「あれは特別! 思い出しただけで蹴り倒したいっ!」

「え? 蹴り倒すの?」

「やられるだけやられたんだもん。 仕返しが出来ないまま帰ってきちゃったんだもん」

「え? やられるって? そんな話聞いてないけど?」

腕を絞り上げられたなどとは言っていない。 単にいけ好かない男が居てそれが喜作だったと言っただけだ。

「あ・・・えっと。 うん、と・・・」

葉月が目を眇めた。

「そいつのことマツリ様は知ってるんですか?」

「あ、うん。 しっかりとチクっといた」

はぁー、と葉月が大きく息を吐いた。

「嫌いな人に嫌いな奴の話をしたってこと?」

「え? えっと・・・訊かれたから話したって感じ? 報告的な?」

「じゃ、マツリ様とその喜作って奴の立場をひっくり返してみて」

「へ?」

「性格はそのままでね。 立場だけよ。 喜作って奴にマツリ様が紫さまにしたことを話す? チューのことを」

「言うわけないしっ!」

葉月がニヤリと笑った。

「喜作が力の入らない紫さまを支えたら? こうして」

わざと紫揺の身体のあちこちを触る。

「ギャー!! やめてー! ムシズが走るー!!」

身体をよじり手足を縮めて丸くなる。
手を止めてニンマリと笑う。

「マツリ様はいいのに喜作は駄目ってどうしてでしょうね?」

身体をよじらせたまま頬を膨らませて上目遣いに葉月を見た。

「でしょ?」


「今日はやけに賑やかだな」

お付きの部屋からお付きたちが顔を出している。 組立体操のピラミッドモドキで。
ピラミッドモドキに参加していないのは醍十と塔弥の二人。 醍十は窓辺に座り外を見ている。 阿秀は領主に呼び出されている。 居たとしてもピラミッドモドキに参加はしないであろうが。
ピラミッドモドキが解除されていく。 一人ずつ座卓の前に座った。

「それにしても退屈だよな」

「ああ、毎日これじゃあな」

「塔弥、マツリ様は本当に近々来られるのか?」

「いつかは分からないけど、遠くは無いと思う」

「紫さまが暴れられるのも困ったもんだが、これはなぁー」

「じゃ、どっちを選ぶんだよ。 なんなら、いつでも外に行かれてもいいって言うぞ」

「・・・お前、いい性格してんな」

「いや、それもありかなぁー。 じっとされてる紫さまなんて紫さまじゃないみたいだし」

「その台詞、責任取れよ。 って、まあ、そうかもしれないか」

「ん? どうした醍十、えらく静かだな」

全員が醍十を見たが、聞こえていただろうに、まだ立膝をして外を見ているだけだ。

「醍十? どした?」

「・・・」

「おい、無視かいっ」

「どうしたんだよ」

湖彩が醍十の前に座ってその立膝を足でつつく。
外を見ていた瞼を伏せ顔を下げる。 その口がゆっくりと開く。

「塔弥」

「え? なに? 俺?」

「・・・此之葉。 俺には言ってないのにどうして塔弥には言ってるんだ」

「は? 何を?」

醍十と塔弥を除く五人の口の端が上がり、目が三日月になる。

「塔弥、何のことだ?」

「いや、だから何のことだか・・・」

「しらばっくれてんじゃないよ」

「おうさ、吐いてもらおうか」

五人に取り囲まれた。


ピロピロと覚書を目の前ではためかせる。 もう夕餉も湯浴みも終わり月が外の道を照らしている。

『今日一日よーっく考えて下さいね。 嫌いな人には触られたくもないし、思い出したくもないんですよね、よく分かったでしょ? でもこうしてマツリ様のことを思い出して書かれてる。 マツリ様のされたことに最初はショックだったかもしれません。 でもそれは特別なことじゃないって分かったでしょ? まぁ、誰かれにするものでもないけど。 落ち着いた今、紫さまがマツリ様のことをどう思っていらっしゃるか。 明日訊きますからね。 考えをまとめておいてくださいよ』

そう言い残されてしまった。

「どう思ってるかまとめとくって・・・。 この歳になって宿題じゃあるまいし」

チラリとまだ新しい紙を見た。 日本のような上質紙ではないし、紙はあちこちで溢れかえっているわけではない。 和紙ほどに分厚くはないが、一枚一枚が手漉(てす)きだということは分かる。
あまり無駄に出来ない。
此之葉が言っていた。 紫揺が使う紙だと知って紙職人が喜んで漉いていると。

「失敗した紙なんてあるのかな?」

そんなものがあるのなら、メモ用にもらっておこう。
今日は諦めるしかないかと、一枚の紙を手に取ると、左手の人差し指を口に当て少し考えてから思いつくままを書く。

〇 リツソ君を虐めてた
〇 ムカつく
〇 兄上として何なの!

段々と当時のことを思いだし、むかっ腹が立ってきた。

〇 エラソーに
〇 何なの、あの上からの物言い、ドローンかっての!

「あ・・・ある意味ドローンか」

キョウゲンに乗って空を飛んでいるのだから。
一瞬止めた手だが、思い直して〇と書いて、次々に箇条書きにしていくが、ときおり感情も書きなぐっている。

〇 短気
〇 見下す目
〇 男のくせに髪が長いっての
〇 白髪か。 お爺さんかっての
〇 話し方が気に食わない
〇 子供の頃に杠を助けた

手が止まった。
息を吐くと筆に墨を付けて続きを書く。 思うまま。

〇 太鼓橋で降ろしてくれた
〇 看病

「何でそんなこと思い出すのよ・・・」

他にあるはず。 ちゃんと書くことが。 思い出せっ! 頭を絞る。

〇 ひっぱたいた

ひっぱたいた。 なのに走り出した紫揺を心配して追ってきた。 ひっぱたいたのに、倒れた紫揺を本領まで連れて行った。
キョウゲンを使わずに。

「だってそれは・・・きっと禁を破るってことになるから」

あの時には、急にそんなことを言われて分かるわけないだろ、と思っていたが、よく考えれば分かりそうなもの。
シキが唱和とニョゼをロセイに乗せて本領に連れてくるときに四方が言っていた。 供には誰も乗せてはいけないのだろう。 それが禁を破るということ。

「あ、なに書いてんだろ。 ひっぱたいたのは私じゃない。 これじゃあマツリが私をひっぱたいたみたいじゃない」

二本線を引いて無いものとする。 墨を消せる消しゴムがあるなら欲しい。
片手に筆を持ったまま頬杖をつく。 書くことが浮かばない。
手を浮かしているのも疲れる。 筆を置く。
筆を持っていた手で、もう乾いたであろう達筆をなぞる。

『よくやった。 よく堪えたな』
『苦しかったであろう、悲しかったであろう、痛かったであろう・・・我にはそれが分からん。 紫一人でよう堪えた』

「マツリ・・・」

そうだった。 あの時マツリが居てくれたから、マツリが教えてくれたから。 マツリが見守ってくれてたから、石と、石の初代紫と話すことが出来た。

『一人ではない』

―――マツリが居る。

「でも・・・」

あの時はマツリに知識があったから。 本領で本を読んだ。 あの本をもっと前に読んでいればマツリの助けなく石と話せたはず。

―――そうだろうか。

沢山の本がある中、それを書かれていた本を、ましてやピンポイントにチョイスし思い出し、実行に移せただろうか。
マツリは沢山の本を読んでいたはず。 それはマツリの部屋の書棚からも分かる。 本が全てだとは思わない。 日本での本がそうだ。 信じて読んで、そして馬鹿を見る。

『ダイエットの本、実行したのに痩せないし!』
『あの便秘改善本! どこが快便になるって言うのよ! もう一週間出てないしー!』

高校の友達が言っていた。

マツリは・・・。
それにああいう風に支えてもらったからこそ・・・。

「あ“あ”ぁぁぁー!! 何考えてんのよぉぉー! そうじゃないってばー!」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第106回

2022年10月14日 20時45分36秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第100回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第106回



「塔弥、紫さまに言い切ったんだってね」

「ああ」

次にマツリが来るまでお転婆を禁止とした。
どうしてマツリが関係あるのかと言われたが、身体のことがある、と言って言い切った。 特に病んでいる気配はないが、あのままでは憑かれたように石を探すだろう。

月明かりの元、厩の横の木箱の上に塔弥と葉月が並んで座っている。 もう寝ているはずの長い春の象徴である “春告げ声” の鳥の声が短く聞こえた。

「いいの?」

「・・・」

「塔弥?」

「分からない。 五色様のお力など、俺に分かるわけがない」

でも・・・何か必要であればマツリが塔弥に何かを言ったはずだ。
馬車の中でマツリと話しただけではあるが、それなりに濃い話をしたはずだ。 マツリが紫揺のことを想うのなら、必要なことがあったのならば、紫揺のこれからのことを指示したはずだ。
それが無かった。

「・・・塔弥」

隣りに座る塔弥の横顔を見た。

「葉月・・・。 紫さまは・・・この領土では計り知れない。 誰にも紫さまのお相手は出来ない」

「・・・うん」

葉月が顔を下げる。
綺麗な額の煌輪、紫揺に良く似合っていた。 ただそれだけだったはずなのに違っていた。
紫揺が倒れた理由も、どうしたら目を覚まさせることが出来るのかも、この領土の者は誰も知らなかった。
単に我儘な、自由奔放な紫揺と言っているのではないと分かっている。

「領主に言うの?」

「・・・それは、マツリ様が望んでおられない。 それより・・・紫さまがマツリ様のことを想っておられるというのに間違いはないか?」

「うん、まず。 なに? 一緒に居て紫さまのお話を聞いていたのに、まだ信じないの?」

葉月は軽く言うが、あの時はマツリとの話しだけではなかった。
紫揺はどうしたら赤ちゃんが出来るのかを葉月に説いていた。 恥ずかしげもなくトンチンカンに。 それを聞いていただけでも顔が熱くなってきていたのに、葉月が『紫さま? 赤ちゃんがどこから生まれてくるか知ってる?』 と訊いた。

紫揺が耶緒の話しで再々、赤ちゃんと言っては赤子と言い変えていたから、赤ちゃんとは赤子のことだとは気づいていた。
そしてその後にも “血” とか “出る” とか “場所” と言っていた。 何の話かは想像できた。

女人と認められる十五の歳を迎えた時に母が子に話す。 だが子たちは子たちで、母から話されたことをクスクス笑いながら話している。 それがまだ十五の歳を迎えていない子の耳にも入る。
それに何より実践を見ている。 あくまでも人間ではないが。
実践が成功し、その後産まれてくる仔馬の出産にも立ち会ったりしているし、牛も犬も他にもいる。

この領土では女人と認められる十五の歳にならずして、子供たちの知っている話であった。 とは言っても、男たちがそんなことを女人と話す話題ではない。
葉月が『塔弥、いいわよ。 あとは私が話すから』 そう言ってくれたから、どれだけ助かったことか。
あの後、母が子に話すように、しっかりと葉月が話したはずだ。

思い出しただけでまた顔が熱くなってくる。 頭を一振りすると要らないものを取っ払った。

「マツリ様が領主に言われた後、俺からもマツリ様を推す」

「・・・」

「それまでに葉月に頼みたいことがある」

「・・・なに?」

「紫さまに気付かせてもらいたい」

「え?」

「紫さまがマツリ様を想っていらっしゃるということを」

「・・・」

「分かってる。 葉月は紫さまが領土から居なくなられるのが嫌だもんな」

「私だけじゃないよ・・・」

「マツリ様が仰ってた。 東の領土から紫さまを取り上げることは無いって」

思わず葉月が塔弥を見た。

「・・・そんなこと出来るはずないじゃない」

「ああ、俺もそう思う。 でもマツリ様を信じたいんだ」


「そうか、塔弥が言ったか」

「はい」

「私が言わねばならない事だとは分かっていたが、どうも紫さまには甘くなってしまうようだ」

「阿秀は日本にいらっしゃった紫さまのことを考えるから」

此之葉に言われ、阿秀が顔を下げて小さく笑った。

「そうかもしれないな」

初めて紫揺を見た時のことを思い出す。 決して紫揺が襲われた時ではない。 あの時は見たうちの数には入らない。
船着き場の空き地で見た時だ。 信じられない身体能力だった。 追われているのに楽しそうに笑っていた。
最後に壁を走った時には少々驚いたが。

「で? 今日は何をされていたんだ?」

「ずっと書を書いていらっしゃいました」

「書?」

「残すことは必要だと仰って」

「そう言われれば本領ではずっと書を読まれていたと仰っていたか」

「以前、歴代紫さまの書き残された物がないかと聞いていらしたけど」

「ああ、梁湶から聞いている。 そうか。 紫さまはご自分の経験されたことを書き残されようと思っておられるのか」

「ご自分の?」

「ああ、今代の “紫さまの書” は此之葉が書いているだろう?」

どこか寂し気に此之葉が頷く。

「それと別に書かれるんだ」

「どうして?」

どうしてそんなものが必要なのか。
此之葉は漏れることなく “紫さまの書” を書いているつもりだ。 それなのに・・・。 どこかに書き落としがあると思われているのだろうか。 書き落としがあるのだろうか。

「日本には・・・日記とか自叙伝なるものがある。 自分が感じたこと、考えたこと、行ったこと、知ったことなどを書き残す書だ」

「そのような書が?」

僅かに眉根を寄せる。

「ああ。 もしかしたら・・・本領でそのような書を読まれたのかもしれないな。 いや、そこのところは私の想像でしかないが。 だが、この領土での紫さまに関する書は既に読まれた。 それなのに本領でも読まれていたということは、本領にはこの領土にない書があるのだろう」

「それが、にっきや、じじょでんというものかと?」

「分からないがな」

紫揺が思いの中で感じたことや頭の中で考えたことなど、声に出してもらわなければ此之葉に分かるはずもない。 “紫さまの書” は想像で書くものではない、あったことや紫揺がしたことを書き記すもの。

「それにしても何時マツリ様がいらっしゃるか分からないのに、塔弥はどうやってお持たせさせるつもりなんだろうか」

話しを変えたのに此之葉からの返事がない。 紫揺が書き記しているということを気にしているのだろうか。

夜風が二人の髪を撫でる。

「そろそろ戻ろうか」

「・・・はい」

二人が紫揺の家に向かって歩き出す。
毎日領主への今日の報告を済ませ、領主の家を出てこの僅かな時が二人だけの時。 そんな甘い時なのに話すことは紫揺のこと。
厩の前を通り過ぎた時だった。

「・・・此之葉」

「はい」

阿秀が足を止めると、斜め後ろを歩いていた此之葉の足も必然的に止まる。
阿秀が振り返る。

「紫さまはこの領土で生まれ育たれたわけではない」

「はい」

寂しげな顔で此之葉が頷く。

「此之葉が考えもしない・・・この領土の者が考えもしないことを考えておられることもある。 日記や自叙伝にしてもそうだ。 あまり自分を責めるんじゃない。 今代の紫さまは先代迄の紫さまとは違う。 此之葉の書いている “紫さまの書” に紫さまが不信を持っておられるわけではない」

「・・・はい」

阿秀の手が此之葉の左頬を包む。
え? と此之葉が顔を上げる。
月明かりが小さな雲によって影った時、右の頬に阿秀が口付けた。
唇が離れたと思ったら、そのまま耳元に阿秀の声がする。

「此之葉はよくやっている」

一瞬にして此之葉の目に涙が溢れた。 まるで張っていた糸が切れたように。
小さな雲が過ぎゆき、月明かりが涙を照らしキラキラと輝きを見せている。

「此之葉が紫さまに添うように私が此之葉に添う。 一人で悩むことなどない」

「阿秀・・・」

落ちてきた涙をすっと指で拭いてやる。
また短く “春告げ声” の鳴き声が聞こえた。

阿秀と此之葉の声に気付いた厩の横の木箱に座っていた二人が振り返って見ている。

「うそ、だろ・・・」

塔弥の声であるが、塔弥が驚いたのは阿秀と此之葉が並ぶ姿にではない。 この二人のことは紫揺から聞いて知っていたのだから。 驚いたのは阿秀が此之葉の頬に口付けたことだ。

「まさか、よね」

葉月は此之葉と阿秀のことは知らなかった。

小声で言ってはいたが、日中の騒がしさの中ではない。 それに阿秀たちも小声で話していたのだ。 それを二人が耳にしたということは反対もあり得るということ。
阿秀が声のする方に目を転じた。 するとそこには木箱の上に座っている二つの影がこちらを振り返っていた。 月明かりに照らされたその二つの影は塔弥と葉月。
視線を外し此之葉を見る。

「見られてしまったようだな」

「え?」

「いつから見られていたものか・・・」

自分のしたことを見られていたとしてもなんということは無いが、此之葉のことを考えると誰かに見られていれば恥ずかしいだろう。
もう一度塔弥たちを見ると、阿秀の視線を追うように此之葉が横を向いた。 すると呆気に取られている塔弥と葉月の姿が目に映った。
驚きと恥ずかしさに、一気に涙も止まり俯いたが、すぐに思い出したことがあった。

『葉月ちゃん、想い人がいますよ。 その人も葉月ちゃんのことを想っています。 けしかけときました』 紫揺がそう言っていた。

「え? まさか?」

下げた頭をすぐに上げて葉月たちを見る。

「そうか、塔弥と葉月か。 気付かなかった」

恥ずかしがり、その後に驚いた顔をしている此之葉、未だ呆気にとられた顔をしている塔弥と葉月と違って、余裕を見せている阿秀。 これがいい歳をした者と若者の差なのか、はたまた、日本で培ったホストとしての慣れなのか、性格なのか、誰も知るところではない。

「行こうか」

そう言うと此之葉の背に手をまわし軽く押す。
塔弥たちの所に行こうと言っているのだ。 このままフェードアウトしてしまうと姉妹の間でギクシャクしてしまうだけである。



羽音を北の領土の民に預けてから一週間ほどが経っていた。

「あ、マツリ様」

アマフウに手を繋がれていた羽音が声を上げた。 マツリが前から歩いて来ていた。
羽音を見た後に、その小さな手を握るアマフウを見た。
日本的に言うと、まるで歳の離れたフランス人形の姉妹が手を取り合って、姉が妹を慈しんでいるようだ。
ただ残念なことに二人ともドレスではない。 極寒の冬は通り越したといってもこの北の領土はまだ寒い。 身体中に布を巻き付けている。

アマフウの表情が一転していた。 祭の度に会うアマフウは冷たく寂しい目をしていた。 だがその目が一転してまるで慈母のような目になっている。

「少しは落ち着いたようだな」

トウオウのことが。

「・・・はい」

「羽音はどうだ?」

「民と触れ合っております」

「そうか」

「アマフウ様のお蔭です。 アマフウ様が北の領土のことを教えて下さっているので。 それにこれも。 アマフウ様が揃えて下さいました」

手を広げて自分の着ているものを見せる。
北の領土に来た時には宮が用意した衣装を着ていた。 本領と北の領土では気候が違いすぎるのだから。
アマフウが小さく相好を崩す。

「そうか」

アマフウはトウオウの最後の言葉を守ろうとしている。
トウオウは小さな頃から寄り添ってくれていた。 それなのに感謝の言葉など言っていなかった。 だから・・・感謝と謝罪を込めてのトウオウへの手向け。

『アマフウ、爺・・・ハオトを・・・頼む』
トウオウから頼まれたハオト。 ハオトと手を繋いでいよう、沢山話をしよう、と。

「アマフウと居たあの者はどうした?」

爺のことであろう。
マツリがトウオウという名を言わないようにしてくれているのが分かる。 だがもう乗り越えたつもりだ。 トウオウのいない悲しさから、病気のことを言ってくれなかった寂しさから。

「まだ・・・まだトウオウを忘れられないようです」

マツリが控えていたトウオウという名をアマフウが言う。
泣いて泣いて、やっと立ち上がった。 それから一度もトウオウの名を口にしていなかった。 でももう、乗り越えた。 乗り越えたつもりだったから、トウオウの名を口にした。
なのに・・・喉が絞めつけられる。
うっ、とアマフウが声を漏らして口元を抑える。

「アマフウ様?」

羽音の小さな手がアマフウの背をさする

「そうか・・・」

マツリが羽音を見る。

「羽音、その者を立ち直らせることが出来るか」

「え? ・・・それは」

困り顔でアマフウの背をさする手が止まった。

「北の領土は・・・本領とは違う。 民の思いから立て直さなければならん。 五色の一色である白の力を持つ者にずっと付いておった者、その者を立ち直らせてやってはもらえんか」

「マツリ様・・・爺はトウオウだけを・・・見て・・・トウオウが・・・居なくなっては・・・」

詰まり詰まり言うが次の声に繋がらない。 己の口からトウオウの名を呼ぶ度に胸の中が締め付けられる。

「雪中花」

「・・・え」

「アマフウが紫に言ったらしいが聞き取れなかったそうだ。 それをトウオウが紫に教えたらしい」

紫揺がシキに話した。 それをシキから聞いていた。

「紫は今もトウオウのことを想っておる。 トウオウは日本に居た紫にさえその存在を残しておる」

淡々と言っていたマツリが改めてアマフウを見る。

「トウオウは間違いなく生きておった。 そして今も誰かの心の中で生きておる」

目を見開いたアマフウが泣き崩れた。

「羽音」

困惑する羽音がマツリを見上げた。 こんな時には ”古の力を持つ者” が教えてくれていたのに ”古の力を持つ者” が居ない。

「そんな顔をするのではない」

「・・・あ、でも、どうしていいのか・・・」

マツリとアマフウを交互に見る。

「アマフウの背をさすってやっていれば良い。 その後はアマフウが教えてくれるであろう」

羽音の心配はなくなった。 マツリがキョウゲンに跳び乗った。



つらつらつらつら。
つらつらつらつら。
今日も達筆で清書をしている。 最初に覚書をしたため、その後に自分なりにまとめて書いていた。

「あ? え? うん?」

覚書を見直す。
地下であったことだ。

“地下に行って信じられるのはマツリだけだった” そう覚書に書かれていた。

「なにこれ?」

これをこのまま書くと単なる日記になるが、そういう問題ではない。 いま書いているのは自分に降りかかった事実だけを書いているのだから。 その後に自分の知った紫の力を詳しく書こうと思っていた。

襖の外から声が掛かった。

「葉月です」

ここのところ、毎日葉月が訪ねて来ている。 それもお菓子を持ってきているのではない。 話をしに来ているのだ。
一日目は此之葉も部屋の中に居たが一言も発せず、そして二日目からは葉月が来ると此之葉が部屋から出て行く。 まぁ、此之葉にすれば退屈だろうとは思ってはいるが。

「では、葉月とお話しください」

ここのところの通りに此之葉が部屋を出て行った。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第105回

2022年10月10日 21時46分59秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第100回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第105回



マツリの肩に止まるキョウゲンを見た。

「キョウゲン」

キョウゲンが百八十度首を回す。

「ごめんね。 今日これで二回目なんだ。 それも明るい内に飛んでもらって」

キョウゲンがマツリの肩の上で、のそのそと方向を変える。

「なんということは御座いません。 お気になさらず」

「それに長距離飛んでくれたんだよね。 二往復も」

フクロウが長距離を飛ぶに向いていないことは知っている。 サギであるロセイの方が長距離に向いているのは明らかだ。

「ありがとう。 キョウゲンが石を遠ざけてくれたり、取ってきてくれたから石と話すことが出来た」

「勿体ないお言葉で御座います」

キョウゲンの後方に秋我がやって来た。

「マツリ様、お知らせ下さり有難うございました」

阿秀に手綱を預けた秋我がマツリの前に立っている。

「長く紫に領土を空けさせてしまったな。 何もなかったか」

「マツリ様が塔弥に仰られたように暫くすると “古の力を持つ者” も落ち着いたと言っておりました。 その他には何も御座いませんでした」

「そうか。 安泰であれば何より。 では紫を返す。 詳しいことは紫から聞くが良い」

キョウゲンがマツリの肩から飛び立った。 縦に大きく回るとその身を大きくする。 マツリがキョウゲンに跳び乗ると、誰もが顔を上げそのマツリを見送った。

「紫さま、お身体の具合は?」

「ご心配かけちゃいました。 もう全然元気です」

紫揺の返事を聞き、お転婆の手綱を持つ塔弥が顔を下げる。

(やはり・・・この東の領土では紫さまをお守りし切れないのか・・・)

「本領でぶっ倒れ・・・目が覚めてからはずっと本を読んでただけだから、ちょっと体力を持て余しているぐらいです」

秋我の後ろにすっと寄ってきた阿秀が「本とは書のことです」と言い添えている。

「ああ、書のこと。 あ? え? 持て余している? 体力を?」

秋我の横を紫揺が走った。

「塔弥さんガザン有難う、お転婆を連れて来てくれて」

秋我に言ったことは気落ちしていた塔弥の耳には届いていなかった。 塔弥がお転婆の手綱を紫揺に渡す。

「あ! やめ! 渡しちゃ・・・!」

お転婆に跳び乗った紫揺が足と手綱でお転婆の方向を変える。 その先の紫揺の考えはずっと厩に居たお転婆も同じ。
紫揺の小さな合図にも拘らず、お転婆が走り出した。

「わーーー!!!」

秋我とお付きが叫んだ。

―――地獄が始まる。



「それで、決まりましたか?」

マツリが四方に訊ねる。

「ああ、北に行ってもよいという者が居たということだ。 その者にする」

「そうですか・・・」

「なんだ?」

「いえ、特にというわけでは御座いませんが、北は本領ほどに五色を大切に扱っていないようですので、耐えられるかと・・・」

「ああ、それはわしも懸念しておるが、北の領土に白の力を持つ者を欠けさせるわけにもいくまい」

「北の領土の白の力を持つ者、トウオウが臥せるとは思ってもいませんでした。 それもあとがないとは・・・」

己とそう変わらない歳だったはずだ。

「二ホンと言ったか・・・彼の地で大怪我をしたそうだ。 その時に余命を宣告されたらしいが、白の力を持つ者は誰にも言わなかったということだ」

「その怪我が元で?」

「いや、怪我の方とは関係はないらしい。 血脈ということだ」

「白の力を持つ者の血脈・・・そうですか、逃げることは出来ませんでしたか」

白の力を持つ者に時折生まれる血の病。

「早馬によると、そろそろその者が宮に着く頃だろう。 北に行ってからは暫くはマツリがついてやってくれ」

「はい」


「羽音(はおと)と申します」

他の五色と辺境の山に暮らす民を守っていた羽音。 十二歳。

「ハオトか、こんなに可愛らしい子が来てくれるとは思ってなかったな」

まさにアマフウのようだ。

トウオウの家の一室に通された羽音。 横たわるトウオウの横には爺とアマフウが居る。 マツリは家の外で待機をしている。

「ここには “古の力を持つ者” はいないが、大丈夫か?」

「はい」

「うん、そっか。 とてもいい子だ。 アマフウ、いつまで泣いてんだ」

トウオウから話を聞かされ、何日泣き続けているだろうか。

「アマフウにこの可愛らしいハオトを託すぞ。 北のことをしっかりと教えてやってくれるな?」

思いのほか急に体がガクリと落ちた。 もっと徐々にくるものだと思っていた。 だから具合が悪くなりかけた時に、ムロイに事情を話して次の五色を迎えてもらい、自分で次の五色に色んなことを伝えるつもりだった。

トウオウの口ぶりからはまだまだ元気に聞こえるが、その声音は力なく掠れている。
命の灯火の最後の灯りは僅かな時大きくなっていたが、とうとう・・・。

「・・・アマフウ、爺・・・ハオトを・・・頼む、な」

トウオウが重たそうに開けていた瞼を閉じた。

「トウオウ!!!」

「トウオウ様―!!」

外壁にもたれていたマツリが顔を上げると一言つぶやいた。

「逝ったか・・・」

戸を開けると羽音を呼んだ。 この場に十二歳は厳しいだろう。

それからは毎日北の領土に足を運んだ。 正確にはキョウゲンが羽根を運んだという方が正しいだろうが。
北の領土は本領と違い、五色を愛するということを知らない。 辺境と言えど、今まで民に愛されてきたまだ十二歳の羽音だ。 誰かが寄り添わねばいけないだろう。

アマフウは一日中、トウオウの墓の前で頽(くずお)れ泣いている。
爺はこのまま呆けていくのではないだろうかと思えるほど焦点が合っていない。
他の五色に至ってはあまり関心がないようだが、かろうじてセッカが時折羽音と話しているが、我が子の育児で大変なようだ。
マツリのいない時にはニョゼが羽音の世話をしているらしいと狼たちから聞いているが、ニョゼは力を持つ者ではない。 羽音が力の事で悩んでしまってはそれに気付くこともない。 まだずっとトウオウを見てきた爺の方がマシだろう。

「羽音」

「はい、マツリ様」

「一人で寂しくないか?」

羽音と共に馬車道を散歩している。

「そう訊かれましたらお返事に困ってしまいますが、わたしは五色ですので。 民を守るのがわたしのすべきことですので」

「この領土の者は五色を・・・何と言っていいのか」

十二歳相手には言葉選びが難しい。

「何となく分かります。 あまり良くは思われていないようです」

マツリが眉を上げる。

「ですがわたしはお姉さま方のように、女人ではありません。 女人となれば警戒されたりもするでしょう。 なんとか女人となるまでに民と触れ合うことが出来る様、そして民を守っていきたいと思います」

「しかりとしておるのだな」

「そんなことはありません。 辺境でも色々ありましたが、その度に “古の力を持つ者” に民とは、五色とは、どういうものかを教えていただいておりました」

そう言われれば忘れていた。 五色とはこういう者たちだった。 紫揺を見ていてすっかり本来の五色を忘れていた。

「紫とは格段の違いだ」

「むらさき?」

「ああ、東の五色。 一人で五色を操る者だ。 もう二十三の歳になるというのに、羽音ほどもしかりとしておらん」

顔を下げてクスリと笑っている。 言っていることと表情が真逆の様子を見せているし、否定している声が温かく感じる。。
羽音が首を傾げる。

「どうした?」

「マツリ様はそのむらさき様のことを大切に思っておられるのですね?」

後ろを通り過ぎようと思った女の足が止まった。

「何を言っておる」

「そのように聞こえましたので」

そう言いながら、羽音が後ろを振り返った。

「どうかしましたか?」

足を止めた女人に問う。

「あの・・・いま、ムラサキ様と・・・」

「はい。 言いました」

「ムラサキ様はお元気にされておられるのでしょうか?」

「あ、ああ。 元気にしておるが、何故、紫のことを知っておる」

「領主の屋敷に居られる時にお話をさせていただきましたし、セキが・・・長い間遠くにいたセキがムラサキ様と御一緒に居たと」

遠くにいたというのは日本のことだろう。 紫揺は迷子としてこの地に居た以外は日本に居たのだから。 それに北の領土の日本の屋敷に居たと聞いている。

「まぁ、それではむらさき様のお話を聞かせて頂けませんか?」

「あの・・・ですが・・・」

トウオウを見送った時に領主が羽音のことを民に話していたし、羽音自身もその場にいた。
羽音が五色だということは皆が知っているし、その薄い黄色の瞳が白の力を持つ者だと語っている。

「マツリ様もご存知のむらさき様が、どういうお方だったかを教えて欲しいのです。 お忙しいでしょうか?」

「ムラサキ様は素晴らしいお方です。 五色様と民ではなく・・・」

足を止めた女、ウダの言葉が止まった。 これ以上言うと五色への不敬に当たる。 ついウッカリここまで話してしまって、どうしたものかと思案する。

「互いに隔たりを持つことなく、向き合ってお話されていたのですね?」

「え・・・」

「わたしもそう思います。 五色は民を守り、民は五色を守って下さっています」

「そ、そのようなことは・・・」

「いいえ。 わたしたち五色は米も作れなければ、何の作物も育てることは出来ません。 みな民から頂いています」

「あ・・・え、でも」

マツリが口角を上げた。 この羽音はそんじょそこらの五色ではなさそうだ。

「忙しくないのであれば北の領土の話しも聞かせてやってもらえないか」

「そ、それは勿論に・・・」

「一人で行けるか?」

「はい。 お世話になりました。 明日からマツリ様にはご面倒をお掛け致しません」

もう北に来る必要は無いと言っているのだろう。

「本当にしかりとしたものだ」

では、羽音をたのむ、とウダに言い残すとキョウゲンに跳び乗った。

今の羽音を見ていると、つくづく “古の力を持つ者” の存在が大きいように思える。
北の領土はずっと “古の力を持つ者” がいなかった。 遥か昔にいたとしても北の五色のことを思うと、五色としてのその力が弱くなってきていたと領主が言っていた。 それは “古の力を持つ者” の不在が大きく関係していたのかもしれない。

“古の力を持つ者” の “術” にしてもそうだ。 北の ”古の力を持つ者” に術を掛けられた唱和は簡単に此之葉に解かれてしまっていた。
北の領土は “古の力を持つ者” 自体が力を失ってきていたのかもしれない。

「まあ、紫さまのことを!? 私が紫さまと出会ったのが、十二の歳の時でした。 いまのハオト様と同じ歳の頃です」

十六歳になって身長も伸びシユラ様と呼んでいた大人びたセキが羽音にそんなことを言ったのは、紫揺の知るところでは無かった。



早朝、宮に早馬が走ってきた。 従者に渡された文をすぐに四方に渡す。 文を読み終えた四方がマツリを呼んだ。

「五都(いつと)で?」

「ああ、暴動が起きかけたそうだ」

「暴動? 五都は平安なはずでは?」

「六都(むと)の者が流れて、けしかけたらしい」

「百足からですか?」

「いや、五都の早馬だ。 五都には百足はおいておらん。 五都に置く頭数があるくらいなら、もっと六都に置きたいくらいなのだからな。 六都に居る百足は五都に流れて行った者がそんなことをしでかすとは思っておらなかったのだろう」

暴動が起きたくらいでは早馬などは走らせないが六都が絡んでいる。 見過ごせない事と判断したのだろう。

「六都の官吏は流れて行ったことを知っていたということですか?」

「規定の手続きをして六都を出たということだ。 まさかだったのだろう。 その時には報告を受けておらん」

「今は?」

「武官が取り押さえて落ち着いているようだ」

四方の子飼いである百足の人数は、いまマツリが杠の下につけようとしている人数とは遥かに違う。 それでも足りないということか。
だが杠の下につける者はマツリが選別したい。 杠には任せたくない。
杠に任せて万が一にもその者が裏切ったとすれば杠がどう受け止めるか。 ずっと自分を責め続けるだろう。 考えただけでもおぞましい。

あくまでも百足は四方の子飼い。 正しく言うと、四方の先代である今のご隠居から受け継いだ百足である。 ご隠居もその先代から受け継いだ。
昔は官吏の資格を持って本領領主に付きながら影のように動いていた。 だが “百足” と呼ばれる今は影だけの存在になった。 百足の前身は “闇蜘蛛(やみぐも)” と呼んでいたと聞いている。

(百足を引き継ぐ気はなかったが・・・そうも言っておれんのか)

「確認のため五都に飛んでくれ」

「はい」



「トウオウ・・・」

トウオウの墓の前で頽れていたアマフウが何日目になるのだろう、やっと泣き声と違う声を出した。

「あの時・・・」

グッと喉が絞めつけられた。 息を整える。 細く長い息を吐いて口を動かす。

「ムラサキが・・・北の屋敷を出た日のこと、覚えてる?」

トウオウはほんの数日で痩せ衰えてしまっていた。 そしてトウオウほどではないがアマフウもそうだった。 スタートがトウオウとアマフウでは違うのだから、結果は同じではない。
いくら食べても太れないトウオウ。 アマフウから言わせるといくらも食べていなかったが。 そしてトウオウ曰くの『もっと食べなきゃアマフウみたいな肉がつかないかな』
けっしてアマフウが太っているわけではない アマフウは普通の女の子なら誰もが羨む甘く優しい肉を身体にまとっていた。 そこからのスタートだ。

「トウオウ、言ったわよね」

『これからあの月、どんどん痩せていくんだよな』 下弦の月を見ながら言っていた。
うっと声が漏れ、また涙がこみあげてくる。

『オレは上弦の月にはなれないな』 ずっと月を眺めていたトウオウが言った。

『満月に近づく月っていう意味?』

『・・・そんなとこかな』

「どうしてあの時言ってくれなかったの!」

ただ泣いていただけだったアマフウが初めてトウオウに訴えた。

「あの時には知ってたんでしょ! どうして! どうして言ってくれなかったの!!」

慟哭が今まで以上にあたりを響かせた。



「だから・・・どうして大人しく出来ないんですか」

「大人しくしてるし・・・」

「それって今日は、ですよね。 それに今は朝餉を食べたすぐ後ですからね」

「じゃ、今日は辺境に行こうか?」

「全員クタクタです」

「体力無さすぎ・・・」

「追いかける方は・・・いや、紫さまにお怪我がないかと心配しながら追いかけているんです。 紫さまのように好き勝手に動いているわけではありません」

「塔弥さんは元気そうじゃない? 二人で行こうか?」

「今日こそじっと出来ないのなら、括りつけますよ」

「・・・信じらんない」

「それはこちらの台詞です」

二人の会話に此之葉が大きなため息をついた。

「此之葉さん」 「此之葉」

紫揺と塔弥が同時に此之葉の名を呼ぶ。

「紫さまの仰られたいことも、塔弥の言いたいことも分かります」

「でしょ! でしょー! って、え? 塔弥さんの言いたいことが分かるっていうの?」

「此之葉、紫さまの何が分かるというんだ。 いや、それは俺も分からなくもない。 だが程度というものがあるだろう」

ここ数日の紫揺は禁止されている襲歩でお転婆を走らせ、お転婆から下りたと思うと、お転婆を放りっぱなしにして飾り石の採掘山にかけ上がっていた。
お付きたちはまず、お転婆に追いつくことさえ出来ない。 その上放りっぱなしにされたお転婆の手綱を取ることさえ大変なのに、紫揺を追わなければならなかった。
助けのガザンは何故か同道してくれなかったし。

「紫さまが石を・・・初代紫さまが残された紫水晶と共鳴する石を探されるのは致し方ないでしょう」

本領から帰って来て宮であったこと、知ったことを、領主と秋我、此之葉とお付きの者たちに話した。 全員が初代紫が残した石や共鳴する石のことを知った。

「でしょ?」

堂々と答える紫揺。 放っておくわけにはいかないのだから。
大きな紫水晶の力に対しては、初代紫を信じていればいいだけのことかもしれないが、初代紫の石と共鳴することが出来る石であれば相当な力を持っているはず。 そんな力のある石を放ってはおけない。
初代紫に言われたように初代紫を信じている。 だが自分に自信がない。 自分が何かを起こすか分からないのだから。 その時のためにも共鳴する石を全て手の内に入れておきたい。
塔弥から怒られながらも、採石場で一つの共鳴する石を見つけていた。

「ですが紫さま、紫さまが平穏にいてくだされば、そんなに焦らずともいいのではないですか?」

「うーん・・・無理かな?」

此之葉がゆるりと訊いたのにそれを否定する紫揺。 それを聞いた塔弥が訊き返す。

「は? 何をもって!?」

「だって・・・自信が無いんだもん。 初代紫さまが仰る大事子とも簡単に思えないし」

「紫さま・・・」

「お婆様なら分かるよ。 お婆様のお力は強かったから」

“紫さまの書” で祖母の力を読んだ。

気持ちが錯綜している、口と気持ちが別の道を歩いている。
口では自分が初代紫の大事子と思えないということを言っているが、心の底では初代紫を信じている。 自分が初代紫の大事子だと。
だがどうしてもじっとしていられない。 共鳴する石を手の内に入れておかなければ、自分が何をしでかすか分からない。

「塔弥さんから見ても私が力のある者とは思えないでしょ? うーん・・・なんて言ったらいいのかな・・・重みが無いとでも言ったらいいのかな?」

「紫さま・・・」

「あ、全然、お気遣いなく。 塔弥さんだけは正直に言ってもらっていいから。 ってか、そうして欲しい」

チラリと此之葉を見た。

「ゴメンね。 此之葉さんに何かを言いたいわけじゃないから。 此之葉さんは ”古の力を持つ者” としての色んなことがあるだろうし」

「・・・はい」

“古の力を持つ者” として紫揺に説かなければいけないのに先に言われてしまった。

「・・・だからっ、正直に言っております」

やけくそだ。
何もかも分かっている。 紫水晶のことも、額の煌輪のことも。 紫水晶に共鳴する石を紫揺が探していることも。
そしてマツリが紫揺を想っていることも。

「なにを?」

「だから! 大人しくしてくださいと言っております!!」

聞いたことのない塔弥の雷が落ちた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第104回

2022年10月07日 21時30分56秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第100回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第104回



杠の部屋は知っている。 紫揺が先を歩き、その後を “最高か” と “庭の世話か” が葬送の列のように歩いて杠の部屋を訪ねた。

「そうか、もう戻るのか」

「うん。 長く居すぎた。 東が心配。 って言うか、心配されてると思うから」

「我が妹は皆に心配をかけるからな」

「そんなことないし」

夕餉のあと毎日杠と話している中で、杠が公にマツリ付になったと聞いていた。 だが今は四方の仕事の手伝いをしているとも。

「お仕事、無理しないでね」

「それは是非とも四方様に言ってもらいたい」

笑いながら杠が言う。

「杠・・・」

紫揺が杠に手をまわす。

「もう逢えないと思ってた」

「逢えると言っただろう」

一方の手を紫揺に回すと、もう一方の手で頭を撫でてやる。

「また逢える」

杠の腕の中で紫揺が首を横に振る。

「もう来ない」

「どうして?」

「もう倒れないから」

杠が笑う。

「我が妹は倒れるから本領に来るというのか? そうでは無いだろう」

だがそれでも紫揺が首を振っている。

「それに紫揺にそうそう何度も倒れられては、いくつ心の臓があっても足りない。 俺の言葉を信じていればそれでいい」

希望、期待を持っていればいつかは叶うということだろうか。

「・・・うん」

紫揺の掌にはまだ晒布が巻かれている。

「手の傷はまだ治らないか?」

「これくらい何ともないんだけど・・・」

あの四人の女人が許さないのだろうなと簡単に察しが付く。

「何ともないではないぞ。 もう木登りはするなよ」

「うん」

えらく素直に答えるが、高い枝を見ればウズウズする紫揺には無理な話だろう。

「約束できるか?」

「うん。 松には素手で上らない」

紫揺の答えにひとしきり笑った杠。

「約束は守れよ」

そう言うと両手で紫揺を抱きしめた。

そしていつもの刻限にシキと共に澪引を訪ね別れの挨拶をした。 ここでもマツリに言わないようにしてほしいと紫揺が言った。

「それは駄目よ」

「宮の馬を貸しては貰えないですか?」

紫揺の予定では宮の馬を借りて岩山まで行き、見張番に馬を返してもらい、あとは一人で帰るつもりだった。

「そういう以前の問題よ。 マツリが連れてきたのだから、マツリが帰すのは当然でしょ?」

シキが言うが紫揺が口を歪める。
その理由は澪引もシキも分かっている。

「でも・・・マツリ。 ・・・今は馬で出ていますよね?」

この刻限はマツリが馬で出ているはずだ。 だからこの時を狙ったのだから。

「え?」

「マツリが帰ってくるのは夕刻前ですよね。 前にマツリが言ってました。 遅くなっては東の領土の山を抜けるに暗くなるって」

「それでは明日でいいのではなくて?」

澪引が言う。
至極尤もだが、紫揺的にはわざとこの時を狙ったのだ。 明日に回す気はない。

今日は皿に盛られた菓子に手をつけていない。 気楽にいてはいないのだろう。
どうしたものかと思っている時に澪引の側付きが現れ耳打ちをした。

「あら・・・」

シキと紫揺が澪引を見る。

「如何なさいました?」

澪引がシキを見ると次いで紫揺を見た。

「馬で出ていたマツリが戻って来たそうよ」

「はぁ!?」


不承不承なりにも、シキと澪引に別れを告げた紫揺。
“最高か” と “庭の世話か” が門に向かう紫揺の後を歩いている。


マツリに運ばれてきた時には東の領土の夜衣の格好だった。 まさかそれに着替えるわけにもいかず、紫揺の背の丈にあったシキが以前に着ていた他出の衣装を貸りることにした。
昌耶が幾つかの衣装を出してきて、その中に横にスリットの入った膝丈より少し上の薄青の上衣、下は上衣と同じ色の筒ズボンがあった。

「まあ、それはわたくしが・・・」

と言いかけてシキが繊手で口を押えた。
シキが何歳の頃に着ていたかを言いかけたのだろう。 何歳の時に着ていた服なのだろうか。 気になる。
塗籠から次々と出してきた昌耶が汗を流している。 他の従者に任す気はないようだ。

「昌耶さん、ありがとうございます。 これでいけます」

「そ、そうで御座いますか・・・あれ、それはシキ様が―――」

「昌耶」

だからシキが何歳の頃に着ていたものなのだ。

紫揺は初めて東の領土の服を着た時、先々代が十歳の時の服を着た。 それ以上になると肩が落ちてしまったからだ。 先々代が大きく育ったということもあったが、それは紫揺二十一歳の時であった。

今回もリツソには何も言わないで帰るつもりだったが、最後に借りを返せる材料を置いておくのも一つだろうと “庭の世話か” にリツソを呼んでもらっていた。
回廊の外に待っているリツソ。 襖が開いた。
襖から出てきたのはシキの衣装を着た紫揺。 カルネラが「シユラ!」 と言いながらリツソの肩から下りてくると、紫揺の肩にスルスルと上がった。

「こらカルネラ! 我より先にシユラを呼ぶなと言っておろうがっ!」

まで言うとやっと紫揺の衣装に気付いた。

「へ? シユラどうしたのだ?」

「急なんだけどね、これから東の領土に帰るの」

「え? どうして!?」

一瞬にして半ベソになる。
紫揺がリツソの前まで進んで膝をついた。

「勉学、頑張って続けてね」

「いやだ・・・シユラが居なければ我は勉学などせん」

「こら、ずっと前に言ったでしょ。 お勉強は大切だって。 それと―――」

「シユラが居なければイヤだ!」

「そんなこと言わないの。 それに私と会いたくなったら、リツソ君が私に会いに来てくれればいい」

「え・・・?」

「しっかりお勉強・・・勉学に励んでカルネラちゃんと心を通わせればカルネラちゃんと一緒に、カルネラちゃんに乗って東の領土に来ることが出来るでしょう?」

「・・・それは」

ほど遠い話だ。

「東には北みたいに狼とかっていないからその方法しかないし。 ね、待ってるね」

リツソの頭を撫でてやると、次に肩に止まるカルネラの頭を指で撫でながら言う。

「カルネラちゃん、リツソ君のこと頼んだよ。 カルネラちゃんも一緒に勉学してね」

「ワカーリー」

ムカーデのことをまだ覚えているようだが、四方からムカーデは四方への伝言だと聞いた後にカルネラにはもう “ムカーデ” と言わないようにと言っていた。 それを覚えているのだろうが、どうしてもこのフレーズに嵌まってしまっているようだ。

「カルネラ、リツソとベンガク。 カルネラ、オリコウサン。 カルネラ、シユラスキ」

「ありがと」

最後に顎の下を犬猫扱いに撫でた。
しぶしぶ承知したのか、シキの手前があってそれ以上言えなかったのか、シキと共に大階段まで見送ったリツソであった。


門の前に行くと見慣れた男が馬を曳いていた。 紫揺が本領に来る時にはいつも前後に居てくれている見張番の百藻と瑞樹であった。

「あれ? どうして?」

東の領土から本領に入った時に宮まで護衛してもらい、その後、紫揺が東の領土に帰るまではこの宮で過ごし、紫揺が東の領土に帰る時にまた護衛してもらうという図であったはずだ。
だが今回はどうしてだか分からない、というか、気を失っていた間に起きたことは全く知る由が無いのだが、マツリは見張番に頼ることなく紫揺を宮に運んだはずだ。 見張番が宮に居るとは聞いていなかったのだから。

「マツリ様から紫さまをお送りするように言いつかりましたので」

瑞樹が言う。

「え?」

何処からバレたのか・・・。 いつバレたのか・・・。
責める気はないが思わず振り返り “最高か” と “庭の世話か” を見てしまった。
四人が一斉に首を振る。
シキと澪引がマツリに言ったとは時間的に考えられない。

「・・・杠」

杠以外に居ないだろう。 そう言えば杠にはマツリに言わないようにと念を押すのを忘れていた。

「参りましょうか」

百藻が言う。

馬を走らせる上空をキョウゲンが飛んでいる。 そのキョウゲンの背にマツリが乗っている。

―――最悪だ。

きっと、絶対に、岩山からはキョウゲンから下りたマツリが徒歩で紫揺に付くはずだ。 いや、厳密に言うとこちらが付かされるのか、マツリが先を歩くのだから。 あの時と同じように。

借りは相応に返せていない。 リツソの勉学をする横に座り本を読んでいただけだ。 マツリは “貸し” などとは思っていないと言っていたが。
それに今回のことはマツリが居なければとんでもないことになっていたかもしれない。 マツリが教えてくれたから、マツリが居てくれたから・・・。 それは分かっている。
だがとにかく・・・憂鬱だ。

それにマツリも言っていた。
『紫が我のことをどう思っていようが今は関係ない。 横に置いておけ』 と。 その今が終わった。 岩山からは、これからがあるかもしれない。
今度何かしようとしたら、何か言ったら・・・足で腹を蹴倒してもいいか?
そんなことを考えるがそんな問題ではない。 いや、それで解決できないか? いやいや、もう解決できているだろう。 ひっぱたいたのだ。 それで紫揺がどう思っているか分かるだろう。 分からなければストーカーと同じだ。

でも『紫が我のことをどう思っていようが今は関係ない。 横に置いておけ』 その言葉は今も紫揺を想っているということなのだろうか。
ああ・・・考えるだけで憂鬱になる。

後ろを走っていた瑞樹が紫揺の横に馬を付けた。

「お元気が御座いませんようで?」

「あ、ごめんなさい。 なんでもないです」

百藻も瑞樹もきっと他の見張番も、馬に乗る者の元気など考えていないだろう。 ぼぅっと乗っていて馬から落ちれば責任が問われる。 そして何より、馬に負担をかけさす乗り方を嫌うのだろう。
背筋を伸ばし馬のテンポに合わせる。

(・・・何か言ってきたら・・・何かしてきたら)

―――ぶん殴ってやる。

ひっぱたいて分からなかったら、ぶん殴るしかない。


「では、お気を付けて」

慇懃に剛度が言う。

「行くぞ」

既にキョウゲンから下りてきていたマツリが先を歩く。

「じゃ、有難うございました」

腰を折って頭を下げかけ「辞儀はされませんように」という此之葉の言葉を思い出し、頷くようにペコリとしただけで終わらせた。

左手の指先で岩山に触れながら上る。
マツリに同行してもらわなければならない事なんてないが、前回そう言って受け入れてもらえなかった。 言ってみたとて今回も同じだろう。 では走ってマツリを抜いてそのまま洞窟を抜け山を駆け下りればいいか。 などと頭の中で考える。

(いや、抜くなら洞窟に入ってからでないと、こんな所で走るなんてとんでもないな)

右手は断崖だ。 足を踏み外して落ちる前に、チラッとでも右側が目に入ったら高所恐怖症が顔を出し足も動かなくなるだろう。

ドン。
マツリの背中にぶつかった。

「ぼぉっとして歩くなと言ったであろう」

たしかに、前回言われた。
だからと言って、わざと立ち止まってぶつからせるっていうのはイタダケナイ。
落ちないようにだろう、今回も腕をつかまれている。

「杠から聞いたの?」

「なにを」

「今日私が帰るって」

「いいや」

え? 下げていた顔を上げる。 見たくない顔が目に映った。 思わず視線を左の岩山の壁に走らす。

「じゃ、どうして」

「今日か明日あたりだと思っていたからな。 お前のことだ、キリの良い時を選ぶだろう。 明日なら本領に来て十日、たぶんその辺りを狙うだろう。 昨日まで読んでいた書が夜に読み終わることを考えれば今日あたりが濃い」

「どうして私が読み進めていた具合を知ってるのよ」

「お前のことは食事房で自慢気にリツソが喋っておる」

そういうことか。
杠じゃなかったんだ・・・。 そうだ。 杠は言わなくとも分かってくれている。

マツリが握っていた手を離すと紫揺の手首をつかみ掌を見た。

「まだ傷が残っておるな」

晒布は馬を下りた時に取って瑞樹に捨てておいてくれと頼んでいた。 こんなものを巻いて帰った日には此之葉がぶっ倒れるかもしれない。 掌を見せないようにしていればそれで済むこと。
紫揺が手を振り払う。

「行かないんなら、そこどいて。 一人で帰るから」

まるで以前のマツリのようにずっとソッポを見て言っている。 

「ぼぉっとして歩くのではないぞ」

マツリが方向を変えると歩き出した。

岩山を上りきり洞の前まで来た。 マツリは止まることなくずっと前を歩いている。 そのマツリの肩からキョウゲンが飛び立った。
そう言えば前回もそうだった。 どうしてだろう。

「なにをしておる。 離れるなと言っておったであろうが」

確かに前回言われた。 どんなことがあるか分からないからと。

「キョウゲンはどうして飛んで行くの?」

「洞の中を確かめる為に先に飛んでおる」

「は? じゃ、別に離れててもいいじゃない。 なにか・・・誰かいればキョウゲンが教えてくれるんでしょ?」

「現状を見ておる。 何がどう変わるかは分からん。 後ろから誰かが来ていたらどうする」

ドンダケ疑り深いのか・・・。 聞いてる方が疲れる。

「そっ、じゃ後ろはマツリが見ててよ。 私が前を歩く」

マツリの横を通り過ぎると一気に走る。 そのまま山を駆け下りる。 その予定でマツリの横を通り過ぎようとした時、腕を取られた。

「なに!?」

思わずマツリを睨みつける。

「お前の考えなど透けて見えるわ。 よいか、走るのではない」

(う・・・バレてたのか。 それも透けて見られていたのか)

残った片手で頭を覆った。 物理的にそうでは無いことくらい分かっている。 だが見られたくないという思いから反射的にしてしまった。

「走らぬと言わぬ限りこの手は離さん。 どうする」

腕を振ってみるがマツリの手は離れない。
マツリに何か言われても無視を決め込んだらそれでいい。 何かされそうになったらぶん殴ればいい。

「・・・走らない」

念を押すことなくマツリが手を離し歩き出す。
洞を見終えたのか、キョウゲンが戻って来てマツリの肩に乗った。
マツリはずっと無言だ。 洞を抜けて東の領土の山を下りる。 それでも無言。
ずっと気にしているこっちが馬鹿みたいだ。

はるか向こうから馬の嘶きが聞こえてきた。

「え?」

「お前が衣裳を換えている間に東の者にこれから戻ると伝えておいた。 間に合ったようだな」

前を見たままマツリが言う。
その時に見張番にも言ったのだろう。 こいつは、この男は。 どこまで貸しを作れば気が済むんだ。

「ああ、言っておく。 このようなことを貸しだとは思っておらん」

マツリの後で紫揺が両手で頭を覆った。

「このようなことは前例がない。 五色が倒れるなどということはな。 いや、倒れることはあったかもしれんが、その領土で乗り越えておっただろう。 倒れる倒れないにしろ、五色一人で本領に来るということがそもそもない。 常に領主と “古の力を持つ者” が一緒だ」

前回のことを言われているのだとピンときた。 だがそれはマツリの手によって踊らされたこととは知らない。

「他の領土のように、五色一人でないのならそれで良いが、五色が一人である以上、我が最善を尽くすのは当前のこと」

先ほどまでの無言と打って変わったように話してくる。

山を下りきった。 木々の中から体が出て、走ってきている馬たちの姿と砂埃が見える。
マツリが歩を止めて振り返った。

「何をしておる」

「あ・・・」

まさか振り返るとは思ってもみなかった。 慌てて頭を覆っていた手を下ろす。

「考えが透けて見えるというのは、そういうことでは無かろう」

「わ、分かってるわよ。 ちょっと・・・頭を掻いてただけ」

どんな掻き方だ。 マツリが大きく溜息を吐く。

「五色に最善を尽くすのは当前だ。 だが今はそれだけではない。 我は想い人を大切にする、守る。 何と思われていようがな」

「大切?」

「ああ」

「大切が聞いて呆れる。 あ、ってか、それって私のことじゃないんだ。 なに? マツリの中で許嫁と想い人って別なわけ?」

「そのようなことがあるわけがあるまい。 我の想い人は、紫ただ一人」

「わけ分かんない」

大切なら、守りたいんなら傷つけるなよ。 それによくも恥ずかし気もなく堂々と言えるもんだ。

マツリが振り返る。
馬を曳いて秋我が歩いて来る。 その後ろに阿秀とお転婆の手綱をひく塔弥。 お転婆の横にガザンがついている。 その後ろに他のお付きたちもいる。 近くまで馬を走らせて来ると砂埃が立つからだろう。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第103回

2022年10月03日 20時43分30秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第100回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第103回



澪引の部屋での話は長かった。 リツソの部屋に足を運ぶとリツソが猛勉強していると師から聞かされた。
最後に澪引からは四方への挨拶はいいと言われた。 澪引が止めたということにすると。 その時を惜しんで書を読めばいいと言われた。
有難い申し出だった。 四方は苦手・・・と言うか、未だに領主への怒りがおさまっていない。 杠と一緒に四方と話したことで数本の棘は抜かれてはいたが。
そして翌日から毎日客間に菓子が届けられた。 夜な夜な菓子をつまみながら光石に照らされる書を読んだ。


「朱禅殿、ここに居られましたか」

振り向いた朱禅が見ていたほうに目を向けると、マツリと杠がいる。

「ああ、マツリ様の鍛錬を見ておいでで」

「ええ、あのように動けるとは羨ましい限りです」

「マツリ様は特別でございましょう。 御文で御座います」

「ああ、これは、有難うございます」

「ここのところよく御文が届くようで」

「ええ・・・郷里からです」


「あれは何をしておるのだ?」

「さぁ、何で御座いましょう」

光石に照らされた四方と小首をかしげている澪引。
先ほどまでマツリと杠が手を組み合わせていた。 身体を鈍らせないように鍛練をしているのを、時々、四方と澪引は遠目から見ていたのだが、今日はいつもと違った。
いつものように礼をして終わった、そこまではいつも通りだった。 いつもならそのまま汗を拭いて二人で階段に座るのだが、その様子を見せない。 それどころか急に何やらしだしたのだ。


「あの話、己なりに考えたのですが」

杠がマツリの手を取ったり、身体に手をまわしたりしている。 手をまわされているマツリは身体の力を抜いて杠に体を預けている。

「あっと? あれ? あ、申し訳ありません。 もう一度最初から。 えっと、ここでこうして・・・こうなって・・・で・・・」

「・・・で? どうしてこうなる」

胡坐をかく杠の足の上にマツリが座らせられている。

「あれぇー? 頭の中ではこうではなかったのですが・・・可笑しいなぁ」

「やはりこうしか出来ぬということか・・・」

言うが早いかマツリがもう一度全身の力を抜いた。

「おっと」

杠がすぐさまマツリを支える。

「まぁ、これが一番無難でしょうか」

マツリがまだはっきりしない紫揺を支えるために、己の胡坐の上に座らせたことを杠に話した。 そしてどうしてそうなってしまったのかは分からないが、他に方法があったはず。 己がそれに気付かなかったのが悔しいが、後でどれだけ考えてもそれ以外浮かばなかった。 杠ならどうしていた、と訊いていた。
結果、杠の胡坐の上で腕を組むマツリが座っている。


「何をなさっているのかしら」

「鍛練のあとの・・・なにかしら?」

「あの様なことをされる間には、紫さまをお訪ねになられればよろしいのに・・・」

「ええ、杠殿は毎日紫さまをお訪ねになっているというのに」

杠に頼まれ、紫揺が夕餉を済ませると、すぐに呼びに行っているのは自分達だ。

「杠殿は積極的に紫さまとお話をされるというのに・・・」

「シキ様もマツリ様に仰っておられるそうよ。 お会いするようにって」

「ええ、シキ様はわたくしたちと同じに、この機会を逃されたくないと思っていらっしゃるから。 でもやはりあれが効いたのかしら」

「ええ、それほどに紫さまはマツリ様を許されていないっていうことかしら。 ・・・でも、いくらなんでも」

四人が目を合わせる。

「拳はないわよねー」 夜風に乗って四人のカルテットが踊った。


「四方様・・・」

「うん?」

勾欄に手を置いた澪引。

「・・・わたくし」

そう言ったきり口を噤んでしまった。
四方が澪引の肩に手をまわす。

「其方には苦労をかける」

「苦労など御座いません・・・」

勾欄に置いた自分の手を見る。

「紫に教えてもらいました」

「紫?」

「紫のように・・・はっきりと申し上げます」

澪引が顔を上げ四方を見る。

「いや、紫のようにならずとも―――」

杠とは良い関係を築けるだろうが、四方自身とマツリにはどうかと思っている。 それなのに紫揺のようにとは・・・。
だがその四方を最後まで言わせず澪引が言う。

「わたくし、我儘で御座いました」

「あぇ?」

想像もしないことを言われた。 咄嗟に馬鹿のような返答が出てしまた。

「わたくし自身の我儘は分かっておりました。 ですが紫とお話し、気付かぬところで更なる我儘を持っていることを知りました」

「あの・・・澪引?」

「四方様は本領領主であり、シキとマツリの父上。 それは分かっておりました」

「リツソの父でもあるつもりだが・・・?」

リツソの父が己ではないとは微塵も思っていない。 どうしてリツソが外されたのか?

「四方様とシキとマツリの間には本領のお話が御座います。 わたくしはそれを何一つ知りません」

「澪引・・・」

「それが・・・寂しい御座いました。 悲しい御座いました」

澪引がどうしてリツソを省いたのかが分かった。

「でもそれは・・・わたくしの我儘で御座いました」

四方が手に力を込め澪引を抱き寄せた。

「・・・紫に教えてもらいました」

「気付かなくて・・・すまぬ・・・」


「手に怪我をしたと言っておったな」

杠の膝に座るマツリが言った。 男が男の膝に座りながら言うには、全く以って言葉に重みがない。
杠が人差し指だけを立てて一本の松の木を指さした。

「あの松で御座います。 下の枝から・・・ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・・その上の枝に座っておりました」

「そんな所にか、無茶をする」

「本当に。 どうやってあの枝まで上がったことでしょうか」

杠も枝まで上ったが、杠の身体能力と身長があるからだ。 紫揺に身体能力があるのは分かっているが、それでも一番下の枝は背の低い紫揺には到底手の届かない枝だ。

「地下に行った時、塀を駆け上り走りよった」

「は?」

「一番下の枝まであの木を上った・・・木を走ったのだろう」

松の木の下の方は僅かだが斜めになっている。

「木を・・・木を走ったと?」

「アレは・・・面白いか」

一つ鼻から息を吐いた。 とても楽しそうに。
杠が全く以ってそうだ、という具合に頬を緩める。

「どうしてだか・・・」

「はい?」

「何故、あの様な・・・童女(わらわめ)・・・。 ああ、あくまで見た目のことだ。 童女であればいずれは女人。 だがアレはすでに女人の歳。 それなのに女人には遠いだろう。 それなのにどうして・・・」

己は紫揺に心を寄せたのか・・・今も寄せているのか。

―――分からない。

「何を仰せられます」

「紫揺は・・・紫揺を知れば、紫揺に心奪われない者はおりませんでしょう」

「え? あの落ち着きもなければ、女人にして木登りをするアレにか?」

杠がマツリを膝にのせたまま大笑いをした。
クック、と笑いをおさめ、ようやっと話し出す。

「だからです」

「あ?」

マツリが振り向く。

「紫揺ならばともかく、マツリ様では重とう御座います」

足に痺れを感じていた。
杠が言いたいことが分かったマツリが杠の膝から下りる。
そう言えば人の胡坐の上に座るなどと何年ぶりのことであろうか。 いったい誰の胡坐が最後だったか。 あまりにも遠い記憶過ぎて覚えてもいない。 四方か・・・それとも朱禅か尾能だろうか。

「今日、北の領土から領主代理が来ておりましたが、お聞きになられましたか?」

「ああ。 内容はまだ聞いておらんが、北の領主代理が来た。 領主の足ではもう山を上れんようだとだけは夕餉の席で父上から聞いた」

あの時、ショウジがしたままであればそんなことは無かったはずなのに。
山の中で乗っていた馬が倒れ、そのまま片足が馬の下敷きになり、もんどりうつ馬から片足を引けたのはよかったが、そのまま山を転げ落ちた北の領主。 その北の領主を馬車道まで運んだのは “影” と呼ばれる存在だったが、影の存在をマツリは知らなかった。
馬車道で倒れている領主を民が見つけ、そのあとすぐに薬草師が駆け付けた。

マツリの一言が原因で領主が山の中に入ったことは分かっていた。 狼からの報告に気になり見に行くと薬草師は的確な治療をしていた。 その薬草師が治療をしながらゆっくりと何日もかけて馬車で領主の家まで運んだのだが、その後を継いだ薬草師の師匠と医者がいけなかった。 薬草自体の間違えも大きく、なにより足の添え木を変えてしまっていた。 それが原因で山に上れるまでには戻らなかった。

「そうですか。 それが・・・」

四方から聞いた話をマツリに聞かせた。 四方が己に言ったのだから、マツリに言ってもいいことだろうし、どちらかと言えば、言えということだろう。
それは聞き逃すことが出来ない話だった。

「いつの話しだ」


一日中書を読む気だった。 だがシキと共に澪引にも一日に一回は顔を出すようにしたし、マツリにキッパリと借りは返すと言った。 それはリツソに勉強をさせるということであった。
紫揺自ら教えることは無かったが、学ぶリツソの横で書を読むということをした。 リツソが気になってチラチラと紫揺を見ると「リツソ君、ちゃんと聞かなきゃ」と注意をする。 すると師が満足するかのように頷いていた。

紫揺の読書の時間はリツソの部屋にいる間、そして客間に戻って来てから夜な夜な読みふける、という具合だった。
他に本を読まない時の例外はほんの僅かな時だが、毎日杠が顔を出してくれていた時だけだった。
紫揺が夕餉を食べた後のほんの束の間。 他愛もない話をしていた。 あくまでも紫揺的にはであるが。
杠の話す端々にマツリのことがそれとなく織り交ぜられているのには気付いていなかった。

「うー、目が疲れる・・・」

今日も一日中本を読んでいた。 杠と話をしてその後にも読んでいた。

「目の休憩が必要かぁ」

身体を動かしているわけではない。 目だけが疲れていて眠気はやってこない。

「勉強したらお腹がすくとか、疲れて眠れるとかっていう人の気持ちって分かんないなぁ」

紫揺の通っていた葵高校には特進科もあった。 紫揺はスポーツ科だったから特進科との接点はあまりなかったが、チラッと話した時にそんなことを言っていた。
そしてスポーツ科と芸術科は男女別のクラスに別れてはいたものの、クラスに混在していて、休み時間には芸術科の美術専攻の友達に似顔絵や色んな絵を習っていた。 基本、書く、描くことが好きなのである。 紫揺の父の同僚である佐川が知るように、飾り文字や色んな文字を書いていた。

その友達も没頭し終えた後はお腹が空いたり眠くなったりすると言っていた。
気持ちは分からなくとも紫揺の理解の上では特進科は勉強が、美術専攻は描いたりすることがスポーツのようだ。 
紫揺の場合は肉体を動かすことによって疲れ眠気がくるが、特進科と美術専攻は肉体ではなく脳を動かすことによって肉体を動かすのと同じく自然現象が現れるらしい。

「夜のお散歩でもしよ」

あの松の木に上りたいが残念ながらここに軍手はない。 同じ怪我をしたら杠は怒るだろう。
多分・・・優しく。

一応、保安灯の小さな光石を手に取ると部屋を出た。 すぐに回廊の光石が点灯する。

「そう言えば、この石って不思議」

日本に比べて本領も北の領土も東の領土もかなり文明が遅れている。 だがこの光石は日本にはない。 センサーライトと同じ働きをするのだから、センサーライトがイコール光石となるのだが、自然にあるものと作り出すものとでは大きな違いがあるだろう。

「・・・」

今ごろみんな何をしてるのかな。 高校時代の友達。 中学時代の友達。

「ばか」

今はそうじゃない。 今だけじゃない、ずっとそうじゃない。 もう日本はここにないのだから。 帰ることが出来ないのだから。
帰ることが出来ないのに分かっているのに。 それでも帰ることが出来るとしたら。 帰って何をする? 友達に会って近況を聞いて・・・それから・・・それで、どう? どうする? 何をする?

「・・・馬鹿みたい。 みたいじゃない馬鹿だ」

自分には祖母の声がある。 『東の地を頼みます』 と。
東の領主に無理やり連れてこられたんじゃない。 あの時、自分で選んで東の領土に来たんだ。
後悔なんてしてない。 なのに・・・どうして帰ることのできない過去を振り返ってしまうのだろうか。

トボトボと回廊を歩いていると、回廊に設置されている光石が次々と点灯していく。 過ぎ去った光石は暫く点灯しているが順々に消灯していく。

「息抜きのお散歩になんてなってないじゃない」

過去のことばっかり考えて。
どん、とぶつかった。
なにに?
下げていた顔を上げると文官の背中が見えた。

「あ・・・」

文官が振り返る。

「あ、ごめんなさい。 ぼぉーっとしてて」

「いいえ。 このような所まで何用で御座いましょうか?」

上流の衣装を着ている。 女官ではないのは一目で分かる。

「え?」

こんな所まで?
あたりを見回すが、見たこともないところだ。
此処はどこだ?

「あ、すみません、ボォーッとしてて。 夜のお散歩をしていたのに。 えっと・・・ここって何処ですか?」

回廊をわけも分からず歩いていたみたいだ。
文官が口角を上げる。

「迷われたのでしょうか?」

「・・・みたいです」

「このような刻限で御座います。 私の分かる所までになってしまいますが、お送りいたしましょう」

文官の先導の元、ようやっと知っている所に戻ることが出来た。

「あ、ここからは分かります」

「良う御座いました。 反対にこの先を私は知りませんでしたので」

「有難うございました」

「いえ、なんということは御座いません。 ですがこれからは夜のお散歩はお控えなさるが宜しいかと」

心に沁みるような優しい声。 顔も優し気だ。 夜だからそう感じるのだろうか。

「はい」

それから数日、夜になると軍手が無いから松にも上れないし、迷子になるから回廊浮遊も出来ない。 有り余る体力を抑え大人しく夜を過ごしていた。

マツリがドンと本を置いて五日が経った。

「九日? じゃなくて八日?」

紫揺が倒れてから十日。 本領に来てから八日が経っていた。

「まだある、って・・・」

山積みされた本を横目で見る。

「限界・・・」

いつまでも本領に、宮に甘えていられない。 ただ飯食いは一番気に入らない。
丁度読んでいた一冊を読み終えた。 五色のことが何となく分かった。 シキが五色のことを話してくれたが、それはかいつまんで話してくれたことだと分かった。
それに一冊目は今回のことでマツリが参考にした本だったが、他にもいろいろと書かれていた。

「潮時かな・・・」

そろそろ東の領土に帰らなくては。
翌朝、朝餉を済ませるといつものように何やかやと話してくる “最高か” と “庭の世話か” に話しかけた。

「ちょうど昨日、読み終えてキリがいいんです。 今日あたり東に帰ろうと思います」

突如思いもしなかったことを聞かされた。

「あの、ですが全て読まれたわけでは・・・」

「もう宮に来て明日で十日になりますから。 東の領土も心配しているでしょうし」

「ですが! ―――」

「私のいない間に東の領土で何かあってはいけませんので」

そう言われてしまえば何も言えない。 ここで自分たちが引き留めてその間に東の領土が大雨に襲われたり、意図せぬことが起こったりしては責任など取れるものではない。 それにそうなれば紫揺が悲しむ。

「杠と会って、シキ様と澪引様にご挨拶をしてから帰ります」

杠は今日も仕事だろう。 その前に会って話をしたい。 帰る事を告げたい。
四人の眉尻が垂れる。

「あ、それと私が帰ることをマツリに言わないで下さい」

「それはっ!」

「お願いします」

さんざん此之葉に下げるなと言われていた頭を下げた。

「紫さま!!」

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