『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第195回
マツリがキョウゲンと共に戻ってきた。 そして今、日本庭園のような表庭に、姿を大きく変えたロセイが居る。
ロセイを取り囲むようにシキと四方の従者。 遠目には籠を作った職人や、働く者たちがいる。 そして紫揺たちも遠慮がちに居る。 澪引にはまだ外の空気に当たらないようにと四方が止め、リツソはその澪引についている。
マツリが戻って来て四方の部屋でショウワの様子を報告した。 随分と良さそうで、少々動いても事なしであろうということであった。
四方の後ろで共にマツリの話を聞いていた四方の側付きに四方が頷いてみせると、側付きが回廊に座る従者一人をつれてすぐに走った。 従者には職人の元に走らせ、側付きは澪引の部屋にいるシキの元に走った。
職人たちの手によってロセイの準備が始まり、その間にシキも領土を回る服に着替えた。
一センチ程の幅に鞣した皮の紐を青に染め丸襟のベストのような形に編んであり、その下には横にスリットの入った膝丈より少し上の薄青に染めた皮の上衣、下は上衣と同じく皮の筒ズボン。 足元は長靴。 髪飾りなど一切を取り、波打った髪が僅かな風に泳いでいる。
本領の衣姿を纏った姿も美しいが、美しい者は何を着ても美しい。
「ではシキ、ロセイ頼んだ」
シキが「はい」 と言い、ロセイが「畏まりました」 と応える。
ロセイの身体には二つの籠が載っていて、それを馬の腹帯と同じような物で締めている。
ロセイに籠を括りつけることなど、いや、それ以前に、主以外の他の誰かが乗るための籠を括りつけるなど今までに無かった事だ。
それでも主であるシキから言われれば否とは言えない。 その籠は落ちないようにとしっかりキツク締められている。
「羽が傷むわ」 と、悲しげな眼をしてシキがロセイの横で言ったが「これしきの事で傷む羽ではございません」 とシキを気遣ってロセイが返事をしたものだ。
いつもシキが乗る時よりロセイが大きくなっている。 シキを乗せるだけではなく余分に籠二つを載せているのだから。
ロセイが片方の翼を横に広げる。 その翼にシキが腰かけるとロセイが器用にそっと羽を畳む。 紫揺にしてみればまるで上りのエスカレーターの手すりに座って振動も音もなく動いているように見えた。
翼を器用に使ってシキを定位置より首に近い方につかせる。 いつもの位置には籠が載っているからだ。 大きく翼を広げて優雅に飛び立つ。 ロセイを誘導するかのように、空中で待っていたキョウゲンが方向を変えて飛んで行った。
此之葉が顔を上げて空を見ている。 もう見えなくなったロセイを追いかけているのだろう。
「此之葉、もう行かれた」
秋我が見かねて声を掛ける。
「また戻って来られる。 それまで茶でも頂こう。 な?」
「そうしましょう、此之葉さん。 顔色も良くないですよ。 ちょっとリラックスし・・・ゆっくりして唱和様を待ちましょう。 ね、行きましょ」
紫揺が此之葉の手を引き歩き出す。 もれなく “最高か” が紫揺の着る衣の裾を持ってついてくる。
シキの従者が会話を聞いて茶の用意に走り、別の従者がいつも食事をしている部屋に誘導した。
コトリと湯呑を置いた。
「どうですか? 少しは落ち着きました?」
コクリと頷いた此之葉が申し訳なさげな顔で口を開いた。
「私が紫さまにご心配をお掛けするなどと、愚の至りで御座います」
茶を飲んで少しは落ち着いたのか、顔色が良くなってきた。
「やだ、そんな堅ッ苦しいこと言わないでください。 それにこれからのことを考えると、此之葉さんが気を張り詰めてもおかしくないんですから。 でも、ちょっとでいいですから気を楽にして下さい。 でないと唱和様と会う前に此之葉さんが倒れちゃいます」
「紫さま・・・」
「独唱様にいいご報告が出来るようにしなくっちゃ。 ね?」
「・・・はい」
此之葉が僅かにほほ笑んだ。
「あ、だめだめ。 そんなのじゃダメです」
「え?」
「もっと、イーって、歯が見えるくらいに笑わなくっちゃ」
さすがに大口はいけないだろう。
「ま、紫さま・・・」
まだイーの口をしている。 此之葉から笑みどころか、クスッと声がこぼれた。
「そうですよ、此之葉。 紫さまの仰る通りだ」
「秋我・・・」
「っとに、さっきまでどれだけ笑わせようと努力してきたと思ってるんですか。 全く笑ってくれなかったのに、紫さまの一言でそれですか?」
「あ、そんな風に考えて下さっていたのですか?」
「わっ、秋我さん、その努力、悲しく報われなかったですね」
此之葉と秋我が目を合わせると、秋我が見えない空に大きく口を開いて笑い出し、反対に此之葉は見えない地を見てくすくす笑っている。
「唱和様が帰っていらっしゃるのが楽しみですね」
「楽しみでございますか?」
「はい。 仲間が増えるんですから、元に戻るんですから。 嬉しくないですか?」
「え?」
「独唱様と唱和様には申し訳ないでは終わらせられないことをさせてしまいました。 それを思うと悲しいなんてものじゃない。 自分が笑っていた時を恨みたくもなります」
「紫さま・・・」
「でもそれに終止符が打たれるんです。 私に後悔はありますけど、でもそれは知ってて知らない振りをしてたんじゃない。 到底知ることも出来なかったことです。 お婆様もそうです。 誰が悪いじゃなくて被害者は独唱様と唱和様です。 その唱和様が帰って来られるんです。 独唱様がどれ程お喜びになるか、それを思うと嬉しくないですか? 楽しくないですか?」
「紫さま」
「えっと・・・間違っていますか?」
「間違ってなど、間違ってなど御座いません」
紫揺は後悔があるといった。 それがどれ程重いものとして紫揺にのしかかっているのかは想像もできないほどであろう。 だが紫揺は楽しいという。 誰が悪いわけじゃないという。 紫揺は前を向いている。 それなのに自分はずっと足元しか見なかった。
此之葉の表情が変わった。
「必ず唱和様を封じ込めから解いてご覧にいれます」
「はい」
笑んだ短い返事だった。
秋我が二人の会話を目を丸くして聞いていた。 あの不安や緊張を見せ強張っていた此之葉の顔が今は自身に満ち溢れている。
(紫さまとは・・・)
秋我が何を思おうとも、感じようとも紫揺の知るところではなかった。
「此之葉さん、とってもいい顔色になりましたよ。 きっとこのお茶が良かったんですね」
丁度おかわりを入れにきたシキの従者と目が合った。
「お茶を有難うございます。 此之葉さんの顔色がすごく良くなりました」
「それはようございました」
そう言ったのは、庭でシキを見送った後に東の領土の三人の会話を聞いて茶を淹れに走ったシキの従者だった。
「此之葉様のお顔のお色が悪いとお聞きしましたので、此之葉様には白茶を淹れさせていただきました」
ということは、此之葉の呑んでいる茶と紫揺と秋我が飲んでいる茶が違うということだ。
「え? 此之葉さんだけに違うお茶を淹れてくださったんですか?」
「此之葉様にはお疲れをお取りできる白茶を。 紫さまにはお気に召された茶を。 秋我様には爽やかなお味の青茶を淹れさせていただきました」
「え?」 と三人が声を上げた。
たしかにそうだ。 この茶は紫揺が気に入っていた茶、ハーブティーだ。 此之葉と秋我の湯呑を覗くとそれぞれ色が違う。 それに今気づいた。 紫揺だけ湯呑ではなくカップであった。
「・・・すごい」
本領の、シキの従者の心配りにそれしか出てこなかった。
北の領土に舞い降りたロセイとキョウゲン。
シキとマツリを迎えたニョゼがマツリと共にムロイの家に入った。 ニョゼがムロイの家で待っていたショウワを呼び、シキを待たせることなくすぐに家を出ようとしたのを、マツリに止められムロイを訪ねるようにと言われた。
「くれぐれもショウワ様のことを頼む」
ムロイがショウジに支えられながら身体を起こしてニョゼに言う。 ニョゼがそれに応えて「畏まりました」 と頭を下げる。
「ショウワ様、お気を付けて」
今までのムロイの態度とは打って変わったものだった。 マツリに言ったように、今までの自分を愚孫と認め、これからはショウワ孝行をしようとしているかのようである。
「もうくたばってもいい歳じゃ。 気を付けることも無かろう」
マツリがショウワのことを憑き物が取れたようだと言っていたが、まさにそんな感じだった。
キョウゲンと共に北の地に降り立ったロセイ。 年に一度の冬の祭にしか北の領土には来ないロセイとシキ。 この時季にくるのは初めてだった。
「北の領土も意外に暖かいものかと」
ロセイが言う。
「そうね。 こんな季節にくることは無かったから以外ね」
北の領土の夏は短い。 その夏も暑すぎるというのは、ほんの数日だけである。 今は北の領土の夏が終わろうとしている時。 過ごしやすいと言っていい気温である。
「出てきました」
マツリと共にムロイの家から出てきたのはショウワとニョゼ。
「頼みますね」
「承りました」
ショウワの足取りは遅い。 ニョゼがショウワの手を取り、マツリがそれに合わせて歩いている。 やっとシキの前までやって来た。
「シキ様、此度はこの老いぼれがご迷惑をお掛け致します」
ついさっき、シキの乗るロセイで移動するということを聞かされた。
「飛ぶということは初めてのことでしょう。 ですが怖れることなく安心して乗っていると良いですよ」
そしてニョゼに目を移す。
「わたくしまでもお手を煩わせてしまい申し訳ありません」
ニョゼは馬に乗れるのだから、ギリギリまで馬に乗り、あとは徒歩で行ってもよさそうだが、本領と繋がっている洞の場所を知らなければ、洞をどうやって開けるのかも知らないし、あの滝の裏を一人で歩くことなど女人にはかなりの勇気が必要だろう。
それに見るからに体力がなさそうだ。 洞まで行きつくにどれほど時がかかるか分からない。 それを思ったマツリが、ニョゼもロセイに乗せて欲しいとシキに頼んだ。 これがセノギなら洞の場所を知らなくとも、シキにもロセイにも迷惑をかけることなく、キョウゲンで誘導しただけにおさまっただろう。
「ショウワによくして下さっているようね」
「気付かないところが多く、ショウワ様にはご不便をおかけしております。 申し遅れました、ニョゼと申します」
「え? ニョゼ?」
マツリからは改めて名前は聞いていなかった。
「はい」
「まぁ、あなたがニョゼなのね。 お会いできて嬉しいわ。 驚くことがあってよ。 さ、行きましょう」
ショウワがどういうことかとニョゼを見るが、ニョゼは頭を傾けることしか出来なかった。
ロセイの翼で上手く籠の中に入れてもらったショウワとニョゼ。 最後にシキが乗る。
「どう? ロセイ飛べそう?」
「他愛もないことで御座います」
ニョゼはスレンダーだ。 ショウワにおいては小さなお婆さん。 それに冬であれは沢山の布を身体中に巻きつけるところだが、今は暖かく、綿の長いスカートと上着を着ているだけである。 重さはさほどもないということであろう。
キョウゲンが先に飛び立った。 ロセイがゆっくりと翼を広げ羽ばたかせる。 ショウワとニョゼが籠の端を持つ。 シキにおいては慣れたもので片手をついているだけだ。 だがそれは羽ばたきの揺れがあるからではなく、いつもの座り方である。
籠の中には重量のない敷物が敷かれている。 籠を作った職人たちの気遣いである。 高く飛んだロセイの背からそっと籠の外を見てみた。 ショウワはすぐに籠の中に引っ込んだが、ニョゼは時折動くロセイの翼を見ていた。
(なんて優雅なのでしょう)
色彩も美しく、陽に輝いているように見える。 ふと翼の下に目がいき、目が回りそうになる。 ショウワと同じく籠の中に引っ込んでしまった。 座り込んだ二人に敷物は有難かった。
山の上を簡単に飛び越え、すぐに滝の裏まで来た。 いつもより体を大きくし、籠の中の人間のことを考えると僅かでも身体を傾けることも出来ない。 ロセイの翼に幾つもの滝の水がかかる。 反対の翼の先が岩壁に当たる。
シキが振り返り左右の翼を見る。 声を掛けたいが、無理をしないでねとも言えなければ、大丈夫? と訊いてもなにも事は変わらない。
「お気になさらず」
シキの心がロセイに伝わったのか、シキが訊かずともロセイが答える。
「禁を破らせた上に。 本当にごめんなさい」
「シキ様にしか出来ぬことです」
禁とは『供は主にだけ仕え、その背は主以外に触れさせてはならぬ』 といった供に決められたことだった。 そして主の方にも『主は供を慈しみ、その背を誰からも触れさせてはならぬ』 ということである。 “触れさせてはならぬ” というのは単に触るということではなく、その背に乗せてはいけないということである。 シキは主としてその禁を破り、ロセイもまた供としての禁を破った。
だがロセイの言うように、シキにしか出せない命令である事にも違いない。 キョウゲンはマツリの供であるから雄である。
飛び方はロセイほど優雅なものではなく、どちらかというと強弱のはっきりとした飛び方。 そしてなにより、供は男の主を乗せるために雄が選ばれ、女の主には雌が選ばれる。 雄のキョウゲンが女を乗せることなど、背に主以外の誰かを乗せる以上の到底考えられない事であった。 マツリがキョウゲンにそんな命令が出せるはずなどない。
滝の裏にある洞に入る為、直角に曲がらなくてはならない。 あまり大回りをしては身体が大きくなった分、洞の壁に当たってしまう。 身体を傾けることなく右翼の先を中心に曲がり、なんとか洞に入った。
これはロセイだからできたのであろう。 マツリの性格の上に育ったキョウゲンの飛び方では到底できない事であっただろう。
洞を抜け本領に入った。 宮までは馬に比べるとすぐである。
「帰って来られた」
茶を飲み終えると庭に出て、ずっと上空を見上げていた秋我が言う。
「此之葉さん?」
此之葉の顔がまた緊張に走っている。 分からなくもないが少しでもその緊張を解いてあげたい。
「ちょっと屈んで」
此之葉がなんのことだろうかと、緊張の面差しのまま少し膝を折り、紫揺と同じ顔の高さになった。 紫揺の手が此之葉の顔に伸びる。 両方の手で頬を包み込む。
「大丈夫。 心を落ち着かせて。 此之葉さんには出来るって分かってるんだから、ゆとりをもって。 初めて見るショウワ様を笑顔でお迎えしなくっちゃ」
此之葉の顔を強張らせていた無駄な力が抜けていく。
秋我だけでなく、シキの従者や四方の従者もそれを見ている。 そして “最高か” が裾を持ちながら必死に後ろから覗き込んでいる。
昌耶は両手を組んで空を見上げているだけである。
「はい、大丈夫。 笑って」
此之葉の顔から紫揺の手が離された時、もともと陶磁器のように白い顔色だが、そこに青みを帯びていたのがなくなり、代わりに紫揺の手を当てていた頬がほんのり桃色になっている。
無言のどよめきが息から出てさざ波が起きた。
「紫さま・・・」
ほんのり暖かい自分の頬に指先を充てる。
「ね、笑って」
「・・・紫さま」
「やだ、どうして泣くの? 大丈夫? 大丈夫? あの、ごめんなさい。 私イヤなことしちゃいましたか?」
思わず下を向いた此之葉の顔を覗き込んで言う。
「紫さま大丈夫です。 此之葉は嬉しいのですから」
秋我の言葉に此之葉が何度も頷く。 そして涙を拭いた顔を上げると満面の笑みで「ありがとうございます」 と言った。
“最高か” が目を合わせた。 この二人だけが見ていたものなら、大部屋に帰った時の大きなネタになったものを、今は全員とは言わないが、シキの従者がここに居てそれを何人も見ている。
ネタの二人占めが出来なかったことは残念だが、今夜も大部屋は賑やかになるだろう。 夜が楽しみだ。 と、目を合わせただけでこんな会話が出来るほどに二人のタッグ力は高まっていた。
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マツリがキョウゲンと共に戻ってきた。 そして今、日本庭園のような表庭に、姿を大きく変えたロセイが居る。
ロセイを取り囲むようにシキと四方の従者。 遠目には籠を作った職人や、働く者たちがいる。 そして紫揺たちも遠慮がちに居る。 澪引にはまだ外の空気に当たらないようにと四方が止め、リツソはその澪引についている。
マツリが戻って来て四方の部屋でショウワの様子を報告した。 随分と良さそうで、少々動いても事なしであろうということであった。
四方の後ろで共にマツリの話を聞いていた四方の側付きに四方が頷いてみせると、側付きが回廊に座る従者一人をつれてすぐに走った。 従者には職人の元に走らせ、側付きは澪引の部屋にいるシキの元に走った。
職人たちの手によってロセイの準備が始まり、その間にシキも領土を回る服に着替えた。
一センチ程の幅に鞣した皮の紐を青に染め丸襟のベストのような形に編んであり、その下には横にスリットの入った膝丈より少し上の薄青に染めた皮の上衣、下は上衣と同じく皮の筒ズボン。 足元は長靴。 髪飾りなど一切を取り、波打った髪が僅かな風に泳いでいる。
本領の衣姿を纏った姿も美しいが、美しい者は何を着ても美しい。
「ではシキ、ロセイ頼んだ」
シキが「はい」 と言い、ロセイが「畏まりました」 と応える。
ロセイの身体には二つの籠が載っていて、それを馬の腹帯と同じような物で締めている。
ロセイに籠を括りつけることなど、いや、それ以前に、主以外の他の誰かが乗るための籠を括りつけるなど今までに無かった事だ。
それでも主であるシキから言われれば否とは言えない。 その籠は落ちないようにとしっかりキツク締められている。
「羽が傷むわ」 と、悲しげな眼をしてシキがロセイの横で言ったが「これしきの事で傷む羽ではございません」 とシキを気遣ってロセイが返事をしたものだ。
いつもシキが乗る時よりロセイが大きくなっている。 シキを乗せるだけではなく余分に籠二つを載せているのだから。
ロセイが片方の翼を横に広げる。 その翼にシキが腰かけるとロセイが器用にそっと羽を畳む。 紫揺にしてみればまるで上りのエスカレーターの手すりに座って振動も音もなく動いているように見えた。
翼を器用に使ってシキを定位置より首に近い方につかせる。 いつもの位置には籠が載っているからだ。 大きく翼を広げて優雅に飛び立つ。 ロセイを誘導するかのように、空中で待っていたキョウゲンが方向を変えて飛んで行った。
此之葉が顔を上げて空を見ている。 もう見えなくなったロセイを追いかけているのだろう。
「此之葉、もう行かれた」
秋我が見かねて声を掛ける。
「また戻って来られる。 それまで茶でも頂こう。 な?」
「そうしましょう、此之葉さん。 顔色も良くないですよ。 ちょっとリラックスし・・・ゆっくりして唱和様を待ちましょう。 ね、行きましょ」
紫揺が此之葉の手を引き歩き出す。 もれなく “最高か” が紫揺の着る衣の裾を持ってついてくる。
シキの従者が会話を聞いて茶の用意に走り、別の従者がいつも食事をしている部屋に誘導した。
コトリと湯呑を置いた。
「どうですか? 少しは落ち着きました?」
コクリと頷いた此之葉が申し訳なさげな顔で口を開いた。
「私が紫さまにご心配をお掛けするなどと、愚の至りで御座います」
茶を飲んで少しは落ち着いたのか、顔色が良くなってきた。
「やだ、そんな堅ッ苦しいこと言わないでください。 それにこれからのことを考えると、此之葉さんが気を張り詰めてもおかしくないんですから。 でも、ちょっとでいいですから気を楽にして下さい。 でないと唱和様と会う前に此之葉さんが倒れちゃいます」
「紫さま・・・」
「独唱様にいいご報告が出来るようにしなくっちゃ。 ね?」
「・・・はい」
此之葉が僅かにほほ笑んだ。
「あ、だめだめ。 そんなのじゃダメです」
「え?」
「もっと、イーって、歯が見えるくらいに笑わなくっちゃ」
さすがに大口はいけないだろう。
「ま、紫さま・・・」
まだイーの口をしている。 此之葉から笑みどころか、クスッと声がこぼれた。
「そうですよ、此之葉。 紫さまの仰る通りだ」
「秋我・・・」
「っとに、さっきまでどれだけ笑わせようと努力してきたと思ってるんですか。 全く笑ってくれなかったのに、紫さまの一言でそれですか?」
「あ、そんな風に考えて下さっていたのですか?」
「わっ、秋我さん、その努力、悲しく報われなかったですね」
此之葉と秋我が目を合わせると、秋我が見えない空に大きく口を開いて笑い出し、反対に此之葉は見えない地を見てくすくす笑っている。
「唱和様が帰っていらっしゃるのが楽しみですね」
「楽しみでございますか?」
「はい。 仲間が増えるんですから、元に戻るんですから。 嬉しくないですか?」
「え?」
「独唱様と唱和様には申し訳ないでは終わらせられないことをさせてしまいました。 それを思うと悲しいなんてものじゃない。 自分が笑っていた時を恨みたくもなります」
「紫さま・・・」
「でもそれに終止符が打たれるんです。 私に後悔はありますけど、でもそれは知ってて知らない振りをしてたんじゃない。 到底知ることも出来なかったことです。 お婆様もそうです。 誰が悪いじゃなくて被害者は独唱様と唱和様です。 その唱和様が帰って来られるんです。 独唱様がどれ程お喜びになるか、それを思うと嬉しくないですか? 楽しくないですか?」
「紫さま」
「えっと・・・間違っていますか?」
「間違ってなど、間違ってなど御座いません」
紫揺は後悔があるといった。 それがどれ程重いものとして紫揺にのしかかっているのかは想像もできないほどであろう。 だが紫揺は楽しいという。 誰が悪いわけじゃないという。 紫揺は前を向いている。 それなのに自分はずっと足元しか見なかった。
此之葉の表情が変わった。
「必ず唱和様を封じ込めから解いてご覧にいれます」
「はい」
笑んだ短い返事だった。
秋我が二人の会話を目を丸くして聞いていた。 あの不安や緊張を見せ強張っていた此之葉の顔が今は自身に満ち溢れている。
(紫さまとは・・・)
秋我が何を思おうとも、感じようとも紫揺の知るところではなかった。
「此之葉さん、とってもいい顔色になりましたよ。 きっとこのお茶が良かったんですね」
丁度おかわりを入れにきたシキの従者と目が合った。
「お茶を有難うございます。 此之葉さんの顔色がすごく良くなりました」
「それはようございました」
そう言ったのは、庭でシキを見送った後に東の領土の三人の会話を聞いて茶を淹れに走ったシキの従者だった。
「此之葉様のお顔のお色が悪いとお聞きしましたので、此之葉様には白茶を淹れさせていただきました」
ということは、此之葉の呑んでいる茶と紫揺と秋我が飲んでいる茶が違うということだ。
「え? 此之葉さんだけに違うお茶を淹れてくださったんですか?」
「此之葉様にはお疲れをお取りできる白茶を。 紫さまにはお気に召された茶を。 秋我様には爽やかなお味の青茶を淹れさせていただきました」
「え?」 と三人が声を上げた。
たしかにそうだ。 この茶は紫揺が気に入っていた茶、ハーブティーだ。 此之葉と秋我の湯呑を覗くとそれぞれ色が違う。 それに今気づいた。 紫揺だけ湯呑ではなくカップであった。
「・・・すごい」
本領の、シキの従者の心配りにそれしか出てこなかった。
北の領土に舞い降りたロセイとキョウゲン。
シキとマツリを迎えたニョゼがマツリと共にムロイの家に入った。 ニョゼがムロイの家で待っていたショウワを呼び、シキを待たせることなくすぐに家を出ようとしたのを、マツリに止められムロイを訪ねるようにと言われた。
「くれぐれもショウワ様のことを頼む」
ムロイがショウジに支えられながら身体を起こしてニョゼに言う。 ニョゼがそれに応えて「畏まりました」 と頭を下げる。
「ショウワ様、お気を付けて」
今までのムロイの態度とは打って変わったものだった。 マツリに言ったように、今までの自分を愚孫と認め、これからはショウワ孝行をしようとしているかのようである。
「もうくたばってもいい歳じゃ。 気を付けることも無かろう」
マツリがショウワのことを憑き物が取れたようだと言っていたが、まさにそんな感じだった。
キョウゲンと共に北の地に降り立ったロセイ。 年に一度の冬の祭にしか北の領土には来ないロセイとシキ。 この時季にくるのは初めてだった。
「北の領土も意外に暖かいものかと」
ロセイが言う。
「そうね。 こんな季節にくることは無かったから以外ね」
北の領土の夏は短い。 その夏も暑すぎるというのは、ほんの数日だけである。 今は北の領土の夏が終わろうとしている時。 過ごしやすいと言っていい気温である。
「出てきました」
マツリと共にムロイの家から出てきたのはショウワとニョゼ。
「頼みますね」
「承りました」
ショウワの足取りは遅い。 ニョゼがショウワの手を取り、マツリがそれに合わせて歩いている。 やっとシキの前までやって来た。
「シキ様、此度はこの老いぼれがご迷惑をお掛け致します」
ついさっき、シキの乗るロセイで移動するということを聞かされた。
「飛ぶということは初めてのことでしょう。 ですが怖れることなく安心して乗っていると良いですよ」
そしてニョゼに目を移す。
「わたくしまでもお手を煩わせてしまい申し訳ありません」
ニョゼは馬に乗れるのだから、ギリギリまで馬に乗り、あとは徒歩で行ってもよさそうだが、本領と繋がっている洞の場所を知らなければ、洞をどうやって開けるのかも知らないし、あの滝の裏を一人で歩くことなど女人にはかなりの勇気が必要だろう。
それに見るからに体力がなさそうだ。 洞まで行きつくにどれほど時がかかるか分からない。 それを思ったマツリが、ニョゼもロセイに乗せて欲しいとシキに頼んだ。 これがセノギなら洞の場所を知らなくとも、シキにもロセイにも迷惑をかけることなく、キョウゲンで誘導しただけにおさまっただろう。
「ショウワによくして下さっているようね」
「気付かないところが多く、ショウワ様にはご不便をおかけしております。 申し遅れました、ニョゼと申します」
「え? ニョゼ?」
マツリからは改めて名前は聞いていなかった。
「はい」
「まぁ、あなたがニョゼなのね。 お会いできて嬉しいわ。 驚くことがあってよ。 さ、行きましょう」
ショウワがどういうことかとニョゼを見るが、ニョゼは頭を傾けることしか出来なかった。
ロセイの翼で上手く籠の中に入れてもらったショウワとニョゼ。 最後にシキが乗る。
「どう? ロセイ飛べそう?」
「他愛もないことで御座います」
ニョゼはスレンダーだ。 ショウワにおいては小さなお婆さん。 それに冬であれは沢山の布を身体中に巻きつけるところだが、今は暖かく、綿の長いスカートと上着を着ているだけである。 重さはさほどもないということであろう。
キョウゲンが先に飛び立った。 ロセイがゆっくりと翼を広げ羽ばたかせる。 ショウワとニョゼが籠の端を持つ。 シキにおいては慣れたもので片手をついているだけだ。 だがそれは羽ばたきの揺れがあるからではなく、いつもの座り方である。
籠の中には重量のない敷物が敷かれている。 籠を作った職人たちの気遣いである。 高く飛んだロセイの背からそっと籠の外を見てみた。 ショウワはすぐに籠の中に引っ込んだが、ニョゼは時折動くロセイの翼を見ていた。
(なんて優雅なのでしょう)
色彩も美しく、陽に輝いているように見える。 ふと翼の下に目がいき、目が回りそうになる。 ショウワと同じく籠の中に引っ込んでしまった。 座り込んだ二人に敷物は有難かった。
山の上を簡単に飛び越え、すぐに滝の裏まで来た。 いつもより体を大きくし、籠の中の人間のことを考えると僅かでも身体を傾けることも出来ない。 ロセイの翼に幾つもの滝の水がかかる。 反対の翼の先が岩壁に当たる。
シキが振り返り左右の翼を見る。 声を掛けたいが、無理をしないでねとも言えなければ、大丈夫? と訊いてもなにも事は変わらない。
「お気になさらず」
シキの心がロセイに伝わったのか、シキが訊かずともロセイが答える。
「禁を破らせた上に。 本当にごめんなさい」
「シキ様にしか出来ぬことです」
禁とは『供は主にだけ仕え、その背は主以外に触れさせてはならぬ』 といった供に決められたことだった。 そして主の方にも『主は供を慈しみ、その背を誰からも触れさせてはならぬ』 ということである。 “触れさせてはならぬ” というのは単に触るということではなく、その背に乗せてはいけないということである。 シキは主としてその禁を破り、ロセイもまた供としての禁を破った。
だがロセイの言うように、シキにしか出せない命令である事にも違いない。 キョウゲンはマツリの供であるから雄である。
飛び方はロセイほど優雅なものではなく、どちらかというと強弱のはっきりとした飛び方。 そしてなにより、供は男の主を乗せるために雄が選ばれ、女の主には雌が選ばれる。 雄のキョウゲンが女を乗せることなど、背に主以外の誰かを乗せる以上の到底考えられない事であった。 マツリがキョウゲンにそんな命令が出せるはずなどない。
滝の裏にある洞に入る為、直角に曲がらなくてはならない。 あまり大回りをしては身体が大きくなった分、洞の壁に当たってしまう。 身体を傾けることなく右翼の先を中心に曲がり、なんとか洞に入った。
これはロセイだからできたのであろう。 マツリの性格の上に育ったキョウゲンの飛び方では到底できない事であっただろう。
洞を抜け本領に入った。 宮までは馬に比べるとすぐである。
「帰って来られた」
茶を飲み終えると庭に出て、ずっと上空を見上げていた秋我が言う。
「此之葉さん?」
此之葉の顔がまた緊張に走っている。 分からなくもないが少しでもその緊張を解いてあげたい。
「ちょっと屈んで」
此之葉がなんのことだろうかと、緊張の面差しのまま少し膝を折り、紫揺と同じ顔の高さになった。 紫揺の手が此之葉の顔に伸びる。 両方の手で頬を包み込む。
「大丈夫。 心を落ち着かせて。 此之葉さんには出来るって分かってるんだから、ゆとりをもって。 初めて見るショウワ様を笑顔でお迎えしなくっちゃ」
此之葉の顔を強張らせていた無駄な力が抜けていく。
秋我だけでなく、シキの従者や四方の従者もそれを見ている。 そして “最高か” が裾を持ちながら必死に後ろから覗き込んでいる。
昌耶は両手を組んで空を見上げているだけである。
「はい、大丈夫。 笑って」
此之葉の顔から紫揺の手が離された時、もともと陶磁器のように白い顔色だが、そこに青みを帯びていたのがなくなり、代わりに紫揺の手を当てていた頬がほんのり桃色になっている。
無言のどよめきが息から出てさざ波が起きた。
「紫さま・・・」
ほんのり暖かい自分の頬に指先を充てる。
「ね、笑って」
「・・・紫さま」
「やだ、どうして泣くの? 大丈夫? 大丈夫? あの、ごめんなさい。 私イヤなことしちゃいましたか?」
思わず下を向いた此之葉の顔を覗き込んで言う。
「紫さま大丈夫です。 此之葉は嬉しいのですから」
秋我の言葉に此之葉が何度も頷く。 そして涙を拭いた顔を上げると満面の笑みで「ありがとうございます」 と言った。
“最高か” が目を合わせた。 この二人だけが見ていたものなら、大部屋に帰った時の大きなネタになったものを、今は全員とは言わないが、シキの従者がここに居てそれを何人も見ている。
ネタの二人占めが出来なかったことは残念だが、今夜も大部屋は賑やかになるだろう。 夜が楽しみだ。 と、目を合わせただけでこんな会話が出来るほどに二人のタッグ力は高まっていた。