大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第84回

2022年07月29日 21時01分34秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第84回



「塔弥さん、教えて欲しいことがある」

やっと泣き止んだ紫揺。

「はい、なんでも」

「私が熱のあった時、誰かいたよね?」

「それは・・・領主も秋我も此之葉も己もおりました」

「それだけ?」

「え? ・・・どうしてで御座いますか?」

「他にいなかった?」

マツリからはマツリが来ていたことを、紫揺に言わないようにと言われている。 マツリから紫揺の熱の一番の原因はマツリ自身だと聞いている。 そのマツリが来ていたと言えば、ましてや紫揺の熱を下げたのがマツリだと知れば、紫揺がどう思うか分からない。
それに此之葉からの話、領主と秋我からの話しでは、紫揺とマツリは犬猿の仲ともいえるようだ。

だが・・・それでいいのだろうか。

「他とは?」

「だから・・・領主さんと秋我さんと此之葉さんと塔弥さん以外」

一人一人の名前をはっきりと連ねてくれる。

「他にどのような方がおられたとお思いですか?」

「・・・えっと。 ・・・分からないから訊いてる」

「己はそれ以外は心当たりが御座いませんが、紫さまが仰られるのであれば、戸の外にでもいたのかもしれません。 どなたをお考えでしょうか?」

「え? あ・・・戸の外。 そっか・・・」

「紫さま?」

「あ、ごめんなさい。 何でもない」

やはり何も言ってもらえないか。 塔弥の肩が下がるがこれ以上は訊けない。

「唱和様のお加減は?」

紫揺が話をかえた。

「葉月の料理のお蔭で幾分かは懐かしくお食べになられているようです」

「でも薬膳の方が身体にいいんでしょ?」

塔弥が含むように笑いながら言う。

「上手く薬草を取り混ぜているみたいです」

「そうなんだ。 葉月ちゃんってどれ程お料理が上手いんだろう」

「そのようですね」

「で? 葉月ちゃんにちゃんとそんな話はしたの?」

「あ・・・」

「してないの?」

「いや・・・、あの・・・」

「どっち?」

「そのようなことは・・・」

「してないんだ」

「まだ、その、己のような者には・・・」

「何言ってんの? 葉月ちゃん取られちゃうよ? それでもいいの?」

「あの・・・ですが・・・」

「私は葉月ちゃんにも塔弥さんにも幸せになってもらいたい。 そのお互いが心を寄せてないなら無理は言わないけど、二人が心を寄せてるんだから応援したい。 塔弥さんから言えないなら葉月ちゃんから言ってもらおうか?」

「そんな! その様なことは!」

「なら塔弥さんから言う?」

「・・・葉月はまだ・・・紫さまのことを案じております」

「へ?」

「葉月だけではありません。 此之葉もです」

「え、あ、いや、それは紫のことを案じるのは分かるけど、それと葉月ちゃんと塔弥さんとか、此之葉さんのことは違うでしょう?」

“私” ではなく “紫” という。 未だに紫揺の中で “私” と “紫” は区別されている。

「いいえ。 紫さまのことが一番です。 紫さまが心豊かになられないのに、葉月も此之葉も己を安泰にしたいとは思っておりません」

「それってどういうこと・・・」

「紫さまが何の憂いもなく豊かにおられて、やっと葉月も此之葉も、そして民も安寧できます」

紫揺が塔弥から目を外した。

「紫が・・・私が、心豊かじゃないって言いたいの?」

「先ほども申しました。 紫さまの中に憂いがあるのではと」

「・・・ないし。 勘違いだし」

「紫さま・・・」

「ね、塔弥さん。 お願いだから、葉月ちゃんを幸せにしてあげて。 そうだ、阿秀さんに相談するといいかも」

「阿秀?」

どうしてここで阿秀なのか?

「うん、阿秀さんの想い人は此之葉さんで、此之葉さんの想い人は阿秀さんで、二人はちゃんと話をしているから」

「はあ―――!?」

日本ではモテモテの阿秀だがこの領土では、お付きの間ではそうではない。 突然にあの朴念仁と言っていい阿秀のことを聞かされた塔弥だが、塔弥も同じようなものと思われている。

「第一歩を始めて。 でないと葉月ちゃん飛んで行っちゃう。 塔弥さんのことを想ってるのに、塔弥さんから何も言ってもらえないなんて、悲しくてどっかに行っちゃうよ? 塔弥さんに言われて私にプリンも作ってくれたり、唱和様にお料理を作ってくれてるのに」

「あ・・・でもそれは」

「それもこれもない。 たしかに塔弥さんに言われなくても、他の人から言われても葉月ちゃんは作ってくれたと思う。 でも塔弥さんに言われたら他の人から言われたのとは違う。 わかるでしょ?」

わかるでしょ、と言われて不遜になれない。

「紫さま・・・。 紫さまの仰って下さったことは肝に銘じます。 その代わりに・・・紫さまの憂いをお話し下さいませんか?」

こんなことを訊いて失敗に終わるかもしれない。 失敗で終らなくもっと大きく紫揺を傷つけるかもしれない。 それでも解決していきたい。 賭けに出るしかない。

「葉月ちゃんにちゃんと話してくれるの?」

先ほどまでは何のことかと言っていたが、この紫揺の問いは憂いに心当たりがあるということだ。

「はい」

「んじゃ、塔弥さんがちゃんと話したって葉月ちゃんから聞いたら私も塔弥さんに話す」

とても不自然な交渉。
だが塔弥はそれをのむしかない。 もとより、葉月のことを想っているのだから。



地下の者たち全員の咎が下った。
かかわった者たちでそれぞれ当てはまるものが違うが、罪状は誘拐、監禁、暴行、人身売買、略奪、窃盗である。 もちろん城家主などは全ての主犯である。

地下の者の間で監禁しようが、暴行しようが、それこそ殺害であっても本領が咎を下すことは無いが、今回は本領の者が被害者となっている。 本領から咎を言い渡す。

手下の一部が手首に焼き印を押され釈放されたが、その焼き印がある以上、自由には出来ない。 釈放されたと言っても結局地下に戻るだろうが、地下の者たちからも白眼視され、生きていくのに楽は出来ない。

焼き印は今後何かをした時、ほんの少しでもその者に関わった者や、特に大事であると家族すらも囚われの身となってしまう。
釈放された者以外、城家主と他に捕らえられた者は焼き印はもちろんだが、個人それぞれの年数は違えど労役となった。

城家主とそして近くに居た手下、喜作などは釈放されるに長い年数がかかる。 現段階で無期労役ということになっている。
罪状から言うと厳しすぎるのではないかという声が上がりそうなものだったが、そんな声はどこからも上がらなかった。

地下に戻すのを遅らせるというのが四方の目的であった。 もちろん年単位である。 四方としては終身でもいいのではないかと考えてもいる。

リツソのことは無かった事にした。 リツソのことを問えば吐いたであろうが、今の罪状で十分だ。 リツソのことを問う必要などない。 何よりここでリツソの名前が大々的に出てくると、また他に考えなければならない事にもなりかねないし、リツソへの説明も面倒である。

そして本人たちが知ることは無いだろうが、宇藤とその仲間が焼き印を押されなかったのは紫揺の功績と言える。

官吏たちにもそれなりの咎が下った。

たとえ家族が人質に取られ脅されていたとはいえ、官吏としての立場が問われる。 官吏としての免を取り上げることは無かったが、降格、左遷となった。

だが乃之螺だけは違った。 己から地下の者に近づいて行ったのだから、他の者と同じ扱いにはならない。
官吏の免は取り上げとなり一年間の労役、重大咎を受けたことの証として、その印(しるし)である刺青を手首に入れる。 万が一にもまた咎が下るようなことがあれば、今度は反対の手首に焼き印となる。

見張番は官吏とは立場が違う。 宮直轄の元にある。 四方がその咎を厳しく決めた。
捕まった見張番は全員その役から下ろされたことはもちろんのこと、三年間の労働を強い、その後は乃之螺と同じことを言い渡し刺青を入れることになった。

厨の女は何もしていないということで、尾能と同じ単なる被害者家族ということで治まった。

四方もマツリもやっと肩の荷を半分下ろすことが出来た。

「疲れた・・・」

四方が食事室の椅子にどかりと座ると、その後に続いてマツリも座る。 遅がけの夕餉である。

「結局出ませんでしたか」

「ああ、事実あったことは認めたが、相手のことは全く知らんようだ」

誰が商人の行程の情報を地下に送っていたか。 今日までに怪しい者が拷問も受けていたが武官は四方に首を振るだけだった。

最終日、城家主本人の立ち合いをしたのは四方だ。 そして喜作も。

四方にしてみれば今の地下のことは四方よりマツリの方が知っているからと、城家主と上の立場にあるものはマツリに任せようと思っていたが、良いのか悪いのか、刑部が気を利かせてその者たちを四方に立ち会わせるように手配をしたようだった。

「城家主も大概だが、あの喜作という者は・・・」

吐き捨てるように言う。

「どのような者でしたか?」

紫揺から喜作のことは聞いている。 紫揺の腕に喜作の指型が残っていたこともこの目で見ている。

「あれは・・・寄生虫だ。 城家主に寄生しておる。 それを邪魔する者には容赦がないと見えた。 城家主が売れると思った者にさえ、城家主の目を奪われたと思っていたようだ」

「売るというのに?」

「ああ、地下を出てまだ口も利けん幼子を捕えてきては売り飛ばしていたようだが、そこまでは良くても、ああ、良いわけではないが、働ける歳になった者に対しては憂さを晴らしていたようだ」

幼子は子供の無い家に売っていたが、働ける歳になっていた者は商い屋や豪商などの下男か下女として売っていた。 その者たちを傷つけていた。

今日までに売り先を明らかにさせていた。 明日から武官が動くことになっている。

「紫の報告から、報告書に子が居なくなったというのを何枚も見ていたのを思い出したが、殆どが地下の、城家主の仕業だったとはな」

吐かしてみるとかなりの数であった。

すっかり忘れていたが、そうだった。 紫揺が売られてしまうところだった。

(己はとんでもない間違いを犯してしまっていた・・・)

女だと知れると何があるか分からないから、剛度に借りた男の服を紫揺に着せた。 その服から坊と呼ばれる少年に見えた紫揺だったが、売り飛ばされていたのかもしれなかったのだ。

それに今の四方の話しからは、城家主は少なからず紫揺を気に入ったのかもしれない、そこそこの上玉だと思ったのかもしれない。 いや、もしかして自分の手元に置こうとしていたのかもしれない。 どちらにしてもそれが許せなかったから、喜作は紫揺に指のあとが残るほど締め上げたのかもしれない。

「寄生虫で終るつもりだったのでしょうか?」

「いや、いずれは喰いつくして己が地下を獲るつもりだったのだろうな。 そんなことを喚いておった」

席の前に膳が用意された。 ここのところ毎日夕餉が遅くなっている。 宮に仕える食付きの者も心得たようで、遅くなっても用意をして待っている。

出された夕餉を食べながら四方とマツリの会話は続く。

「・・・紫の腕の痣のことを憶えていらっしゃいますか?」

四方がピクリと眉を動かした。

マツリからは紫揺を奥に迎えたいと聞いてはいるが、それは叶わぬことと思っている。 だが痣と言われては放ってはおけない。
この本領で東の五色である紫揺の腕に痣を作ってしまったのだから。

「ああ、マツリが女人の湯殿に入った時のことだな」

まさか湯殿に入るとは思ってもいなかったが、あとでシキから聞かされて驚いた事この上なかった。

「湯殿に入る気はありませんでしたが、つい・・・」

マツリと四方の想いに温度差がある。

言葉尻をすぼめたマツリだったが、一呼吸置くと続けて言う。

「紫の痣は喜作が付けたものです」

「・・・」

四方からしてみれば誰が付けようが、そんなことはどうでもいい。 東の五色である紫に痣を付けたそれだけであって、その犯人探しをする気はない。 それに終わったことである。

「・・・それで?」

冷ややかに四方に言われ、己が一人先走ってしまったのが分かったマツリ。

「いえ・・・それだけのことで御座います」

四方はマツリの言いたいことは分かっている。 だがマツリと紫揺のことに首を突っ込む気はない。 一時マツリがどう思おうとも流れる話なのだから。

「城家主はどうでしょうか?」

「あれは・・・軽いか・・・」

「軽い?」

マツリは杠から聞く城家主の情報しか知らない。 城家主そのものの心底の気概など知らない。 そこまで城家主と打ち解けて話すことが無かったというのもあるが、城家主と打ち解けるという手を打たなかった。 それが一つの手であろうとも、己の立場を考えて城家主と打ち解けるなどということは有り得ないのだから。

それを思うと杠が城家主の懐に入って打ち解ければよかったのだろうが、そうなると杠を城家主の手下に入れてしまわねばいけなくなってしまう。 他からの細かな情報が入ってこなくなってしまう。
マツリが欲しい情報は城家主の情報ではなく、地下の者の細かな情報であったのだから。

「己を顧みることが出来ない者であるようだ」

「己が成功者だと思って幅を広げたということで御座いますか?」

「ああ、それに乗ってしまった手下だ」

「杠から “おやっさん” という者を聞いておりますが」

「ああ、ずっとその者が地下を治めておった。 だからわしも地下には安心していたのだが・・・。 城家主の話を聞いて・・・おやっさんを貶めたのは城家主のようだな」


城家主がはっきり言ったわけではない。 だが蛇か蜘蛛のような目をして迂遠に城家主が言った。

『おやっさん? へぇー、四方様ともあられるお方が、おやっさんの話をされるとは』

『おやっさんをどこにやった』

『さぁてね。 どこに行ったのやら』

とぼける城家主を武官が後ろから押さえ、文官が「ヒェー」と声を上げる中、四方がそのまま話を続けた。

『お前の父だろう』

『はっ、父ねぇ・・・。 まぁ、そこのところは否定しませんが? たしかに訪ねて地下に入ってきたことでもありますし』

『その父をどこにやった』

『さっきも言いました、どこに行ったのやら知りません。 そうですね・・・あの地下で何もかも治めようとしていたのを嫌った誰かにでも殺られたんじゃないんですか』

『やられた?』

四方の表情に武官が城家主を押さえ込む。 肩と腕を押さえられながら城家主が言う。

『地下だけじゃ何も動かない。 それなのに地下を平静に治めようとした』

城家主の目が光る。

『地下にそんなものは必要ない』

『お前が殺ったのか』


「貶めた?」

「喜作が寄生する者なら城家主もそうだ。 寄生し喰いつくす。 だがあのままであったなら城家主の上をいくのが喜作だっただろう」

「その “おやっさん” は今どこに?」

「城家主に殺されて闇に葬られただろう」

「・・・亡骸は」

「もう無いだろう」

四方が安心して地下を任せていた “おやっさん”。
四方も “おやっさん” のその後を聞いて心穏やかではないのだろう。
地下は安心できないところだ。 それは分かってはいたが・・・。 心に刻むしかない。

シンとした食事が続くかと思ったが、ついうっかり忘れていたことがあった。

「乃之螺の件ですが」

「ああ、どうだった」

他の者もそうだったが、官吏や厨の女など囚われていた者の関係者も呼ばれていた。 尾能だけは事前に四方の手でおさめてはいたが。

「稀蘭蘭と共に百藻も来ていまして」


『乃之螺を捕らえた。 よってこのまま我らにつき従うよう』

武官に刑部省からの令状を見せられ、稀蘭蘭が真っ青になっていたという。
たまたま百藻が家に居て、稀蘭蘭に付いて馬車に一緒に乗ったということだったが、何の嫌疑か分からない中、馬車の中で百藻と知り合う前に兄である乃之螺の様子がおかしかったと、その中で見張番に近づけなどと言われていたと話したそうだ。
そして決して兄に言われて百藻に近づいたわけではないとも話していたということだった。


「百藻が義理兄(ぎりあに)が迷惑をかけたと頭を下げておりました」

そして簡単に会うことが出来ない四方に深く謝罪を申し上げると。

「そうか。 まぁ、二人が落ち着いたのならばなによりだ」

肩の荷を全て落としたい、それなのに下ろせない。 誰が商人の行程の情報を地下に送っていたのか。

「我が官吏を一人ずつ視ましょうか?」

四方が白米をパクリと口に入れ咀嚼しながら考える。 ゴクリと飲み込むと口を開く。

「文官を怪しんでいるのを知られると士気に問題が出てくる。 それに万が一にも文官でないかもしれん」

「武官かもと?」

「いや、武官はまず有り得んだろう」

「まさか・・・下男や宮の者と?」

四方が頷いた。

有り得なくもない。 執務室や文官の部屋に堂々と早朝から入ることが出来るのは、掃除をする下男や下女、そして堂々とはいかないが、宮の者たちも目を盗めば入ることが出来る。

「とにかく地下の者は捕らえた。 これでもう地下の者から商人が襲われ略奪をされることは無いだろう。 その者が尻尾を出すまで待つしかない・・・か、もう尻尾も出さんかもしれんがな」

報酬を受け取らなかったというところが引っ掛かる。 金意外に何を手にしていたのだろうか。 それを思うと一日でも早く捕らえたいところだが。
建て直した共時に近寄れば、共時から何某かの連絡があるかもしれない。 無くてもその情報に共時が踊らされることは無いだろう。

「荷は下ろしたいが、今は待つのが一番だろう」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第83回

2022年07月25日 21時58分24秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第83回



翌日、翌々日とまた刑部の立ち合いが続き、まだ終わりそうにない。 合間を縫って放ってはおけない、帯門標の再発行をした者を刑部に呼びつけた。

「乃之螺に言われ簡単に再発行したのか」

問うているのは椅子に座っている四方だ。 マツリは四方の後ろに立って窓の外を見ている。

「簡単になどと・・・ですか大声で喚かれまして、上役も嫌気がさしたようで御座いましたので」

四方が溜息を吐いた。 上役も知っていたのか。 その上で四方に報告がなかったのかと。

「帯門標を簡単に発行してはならんことは知っておろう。 どうして発行する前に失せたという報告がなかった」

「・・・」

顔を下げて口を閉じてしまった。
外を見ていたマツリが四方の後ろから文官を見て口を開く。

「上役が黙っておけと言ったか」

文官が驚いて四方の後ろに立つマツリを見た。

「言ったのか」

再度問うマツリに文官が頭を下げ訥々(とつとつ)と話し始めた。

「帯門標を失せたということは大変なことで御座います。 その事をご報告すると・・・」

口が閉じられた。

「己らが責められると思ったか。 上役がそう言ったか」

文官が僅かに首肯した。

「それが責務逃れと分かっておるか」

文官が唇を噛む。

「上役に意見できない、その気持ちは分からんでもない。 だが、己(おの)が責務を己が果たさんでどうする」

「・・・分かっております」

「では、今回のことをどう考える」

「・・・官吏の・・・。 官吏の資格をお返しいたします」

マツリが四方の後姿に視線を流す。 きっと四方もマツリと同じことを考えているだろうと思って。
その四方は腕を組んで叩頭した文官を見ている。 何も言おうとしない。

「父上、今一時の機会を与えてもらえないでしょうか」

この文官に。

死法として生きていた四方からしてみればマツリは甘い。 だがマツリの言わんとしていることは分かる。
マツリは切るということが簡単に出来ない。 シホウである死法はそれ程に甘くなかった。 今は死法の名を公にも心の内にもしまい込んでいる。 今はその名通りに生きることが必要ではない。

「これより上役に意見する気概を持てるか」

「・・・」

そんなことを急に問われて返事など出来ない。 だがこれはマツリが与えてくれた好機なのだろうか。
己は官吏という資格にしがみ付いていただけなのだろうか。

文官になりたかった。 なりたくて勉学に励んだ。 そして二度目の試験でその資格を得た。 だがその後に待っていたものは上下関係だった。 官吏なのだから当たり前と思っていた。 その内に上から官吏としてどうなのかと思えることも言われた。 それでも目も耳も塞いできた。

やっとなれた文官なのだから。

やっとなれた文官、やっとなれた官吏・・・。 それを手放したくない、ずっとそう思っていた。
馬鹿だ。
それでは正義は生かせない。 己は正義を貫きたい。 その為に官吏になったのだから。
さっき官吏の資格を返すと言った。 嘘ではない。 だがそれは弱気になって言っただけだ。
文官が顔を上げ四方を見る。

「己が責は己が果たします。 巻き込まれることなく」

マツリが口角を上げた。

「では、仕事に励むよう。 今回のことで咎は無いものとする」

四方が言った。

文官が涙ながらに何度も叩頭した。

その翌日、上役を呼びつけると、煩わしいことは切って捨てたいと思うような考え方であった。
この上役にはマツリも仏心を見せることは無く、四方はこの上役を降格にした。 日本で言うところのペーペーに戻されたが、年齢的に考えてその立場に納得出来るものではなかっただろう。
こういう者たちがまたいつ謀反を起こすかわからないが、簡単に官吏の資格を剥奪は出来ない。

「官吏たちの見直しが必要かもしれんな」

特に文官に、という意味を込めて四方が言う。
それは簡単なことではない。 純粋に官吏になりたい、ただそれだけで勉学に励んだ文官だ。 だがその後、思いもしないことがあったり、上下関係に苦しんだりすることもあっただろう。

「式部省と話されますか?」

式部省、それはいわゆる人事すべてに関することを扱っている。
上役から報告された査定を見てもそれが真実かどうか分からない。 その上役にへつらっていれば査定が良いのだろうから。 反対に正義を通そうと物申せば査定が下がる。

「勧告だけでもせんといかんだろうな」

今回のように地下の者の立ち合いの合間にするのか、全てが落ち着いてからなのか。

「誰か吐いたか?」

話しが変わった。

まだ立ち合いは途中ではあるが、今日までに今回のことで一つ解決できていないことがあった。
それは商人の行程を誰が地下に漏らしたかだ。 最初は乃之螺であったようだがあとの事は乃之螺ではなかった。

すぐにでも分かると思っていたが、現段階で誰も相手のことを知らないという。 どの文官が地下と繋がっていたのか。

商人の行程の情報を地下に送っていた官吏。 それは武官ではないはず。 いったい誰なのか。
それに万良くと言っていいのだろうか、万悪くと言っていいのだろうか、偶然なのかどうか、地下を総ざらいする少し前から商人たち一行が襲われなくなっていた。

「いいえ。 父上の方もですか?」

「ああ。 どうも乃之螺のようなものでないのかもしれんな」

誰も相手のことを知らないと言うし、報酬も受け取ることがないと言っていた。 一方的に情報を聞かせるだけで地下の者も何が目的か分からないと。

「地下があんなことになって当分は動くことは無いでしょう。 そのうち地下も落ち着いてくれば、それによって宮都も他の都も落ち着いてくるかもしれません。 その時に官吏の見直しが出来ましょう」

いったい誰なのか。

いま各都はあまりに荒れている。 それは地下の者が引っ掻き回したことも一因にはあるだろうが、長く平和ボケをした人心が贅沢にも落ち着かなくなってきているのかもしれなかった。

「あとは六都(むと)が落ち着いてくれればいいが。 それに郡司も考えねばならん」

「郡司ですか?」

「ああ、郡司も怪しいことを考えているようだ」

「それは・・・散っている百足からの報告ですか?」

四方が首肯する。

つくづく、そういう者が必要だとマツリが感じた。 間者、間諜、その様な者を本領領土全てに散らばらせなくてはならないと。
杠の元に何人もの手下を置かなくてはならないかと。

「郡司が何を考えているのでしょうか?」

「辺境の郡司だ。 その郡司が下九都(したここと)を喰おうとしていたらしい」

下九都というのは九都(ここと)から辺境に向かって上九都、中九都とあり、その次に下九都があり辺境と隣接している。 宮都の北西を囲んでいる六重目の都である。 ちなみに九都は三重目である。

「喰う?」

「郡司が下九都の都司になろうとして画策をしたようだ。 だが百足からその話を聞いて下九都に早馬を走らせた。 下九都がそれなりに動いて今は落ち着いたようだが、これから何があるか分からん」

「六都だけでもややこしいのに・・・」

思わずマツリが漏らしてしまった。

「その前には下三十都(したみそと)と辺境の間でもいざこざがあった」

「下三十都で?」

「ああ。 それだけではない。 マツリ」

「はい」

「本領には波がある。 波が大きく続いたと思えばすっと凪の時が来る。 父上の時は本領は安泰だった。 凪いだ時だった。 だがわしの代になり本領は怪しくなり始めた。 それがわしのせいなのか時の流れかは分からん。 わしがこの身を引くころにはもっと本領が荒れるかもしれん」

「はい」

「わしの出来うる限りのことはするが、心しておくよう」

「はい」

四方の言う通りなのかもしれない。 だが己の代に、そしてそれ以降も荒れる時を作る気はない。
四方がこの本領の領主である内に荒れる元を排除する気でいる。



「さすがに、もういいでしょ?」

塔弥から大人しくしているよう言われた紫揺。 それはその日だけに収まらず三日も続いた。
塔弥が横目で紫揺を見る。

「なに?」

「まだお目がしっかりしておられません」

「・・・しっかりしてるし」

紫揺にしては長かったお籠り生活。 とうとう爆発だったが、目がしっかりとしていないと言われれば思い当たるところがある。

身体は元にも戻った。 あの発熱の苦しいものはない。 ボォーッとしたところもない。 元気だ。
だが・・・ずっと部屋の中に籠ってあの時のことを考えると納得いけないところがあった。 発熱していた時も、それから熱がどんどん下がってきていた時も、ある人物が傍にいた・・・そんな気がした。
迎えたくない人物が。
それが引っ掛かっていた。 虚ろに思っていた。 それが目に現れたのだろう。

「ね、元気だから。 みんなとお話しする。 子たちだって―――」

「紫さま!」

塔弥の声が飛んだ。

「紫さまあっての、東の領土で御座います!」

「だから、民とお話をするから・・・」

「紫さま・・・。 紫さまがご健康でなければ民は心安じません」

「いや、だから健康だし」

「紫さま! 今の紫さまを見て民が安じると思われますか?」

「え? なんで?」

これだけ健康なのに。

「紫さまの憂いには民は敏感に感じます」

「憂い?」

「はい。 いま紫さまが民の前に出られましたら、憂いておられることを民が感じます」

「は?」

「ご自身にご自覚は御座いませんでしょうか?」

「憂いって何? 意味分んないんだけど」

塔弥ががっくりと頭を下げた。 どう説明していいのだろうか。

「その・・・。 紫さまにご心配があるかと」

「無いけど?」

「・・・」

ここでマツリのことを言っていいのかどうか迷う。 だが、紫揺の憂いはマツリであるはず。 自覚してもらわなくては困る。

「本領に行かれてマツリ様とお話をされましたか?」

「どうしてそんな話になるかなぁ」

マツリと聞いてあの嫌なことを思い出す。 ついウッカリ首筋に手がいく。

「・・・今、紫さまが思われたことを民は思っております」

「へ?」

意味が分からない。

「紫さま、今マツリ様のことで何某かを思われたでしょう。 それが民の思うところです」

「なんで?」

「民は紫さまにこの領土に居て欲しいと願っています。 その紫さまに幸せになって欲しいとも」

「・・・」

紫揺が下を向いた。
言われれば明らかに憂いごとがある。

「紫さま? 何でもお話下さい。 己は紫さまのお心に添います」

「・・・お付きだから? ・・・遠縁だから?」

「紫さま・・・」

「塔弥さんは・・・」

「紫さま、己はお付きでもあります、遠縁でもあります。 ですが今の己は紫さまのお力になりたい、それだけで御座います」

「・・・力に?」

「はい。 ・・・曾祖伯父が先の紫さまのお力になられたように、己も紫さまのお力になりたい。 そう思っております」

「・・・塔弥さん」

ブワっと紫揺の黒い瞳から涙が溢れた。 溢れさせたくもないのに。

「紫さま・・・」

塔弥が紫揺のまん前に膝をつく。

「ごめん・・・何でもない」

「何でもなくはないでしょう? ともにお考え致します。 お話しください。 お一人でお悩みにならないで下さい」

「・・・悩んでないから」

「・・・」

ここまできても話してもらえないか・・・。

「今日一日我慢ください・・・明日からは外に出ましょう」

顔を下げていた紫揺がコクリと頷いた。

その様子を戸に耳を付けて聞いていたお付きたち。

「おい、明日から辺境になるかもしれんか?」

「可能性は高い」

「いや、そんなことより紫さまだろう」

「ああ、何を隠しておられるのだ?」

「うん? やっぱり結局、塔弥が言ったように、塔弥の想い人は紫さまではなかったのか?」

お付きの部屋に塔弥を引っ張り込んで尋問したが、塔弥は紫揺が想い人では無いという以外何も吐かなかった。

「馬鹿か。 この話からどうしてそうなる」

「そうだ。 いまは紫さまの憂いだ」

「その憂いをマツリ様がご存知だと言っていた」

しっかりマツリが言ったことも聞いていた。
五人のお付きが目を合わせる。
いったいその憂いは何なのだろう。
塔弥の言うように民もそうだが、何よりお付きたちも気になる。

「とにかく・・・明日からは覚悟せねばいかんな」

「ああ、紫さまのご自由が始まるだろう」

「・・・悲しいご自由かもしれんな」

え? と思いながらも誰もがその言葉に同意する。 東の領土の者にとっては紫揺の憂いはそれ程に大きく捉えられる。
暗くなりかけたお付きたちが部屋に戻る。

「わっ、なんだよお前たちぃ、暗っ」

一人お付きの部屋に居た醍十。

「暗くもなるわな。 紫さまが憂いておられるのだから」

「あーん? 葉月の作ったプリンを食べられたんだろぉ? お元気になられただろぉ?」

「それはそれ、って感じか?」

「うーん、なんだそれぇ? 意味分んねぇー。 俺が紫さまに会いに行こうかぁ?」

「やめろ」

五人のお付き全員が止めた。

「にしても・・・」

「なんだ?」

「最近の阿秀・・・可笑しくないか?」

湖彩が言う。

「阿秀が?」

醍十を除く四人のお付きが眉を顰める。

「どういうことだ?」

「ああ、阿秀かぁ? 唱和様のところによく行ってるなぁ」

眉をひそめなかった醍十。

「いや、それだけじゃない」

「なんだ? 何を言いたい」

「此之葉とよく話をしている」

四人のお付きが力を抜いた。
それは当たり前のことだ。 阿秀はお付きの筆頭である。 その筆頭が紫揺に付いている “古の力を持つ者” 此之葉と話をするのは当たり前のことである。 ましてや今の紫揺の状態を考えると当たり前以上に必然である。

それに此之葉の師匠は独唱であるが、本来なら唱和も師匠になっていたかもしれないのだから。 その唱和の具合が悪いのだから、阿秀と此之葉が話し込んでいてもおかしくはない。

「それは当たり前だろう」

「いや・・・それが、何か違う雰囲気を持っているような」

「どんな雰囲気だよ」

「泉での紫さまと塔弥の持つ雰囲気と同じだというなよ」

あの雰囲気は全くの思い違いだったのだから。

「うーん・・・。 説明しきれない。 だが今度からよく見とけよ」

「うぅん? まさか阿秀の想い人が此之葉だって言うんじゃないだろうなぁ」

勝手に此之葉の親代わりでいる醍十が言う。
四人が目を大きく開け醍十を含む五人が湖彩を見た。

「あ・・・いや。 わからん。 だから、今度からよく見ておけって・・・」

「湖彩、いい加減なことを言うんじゃないぞぉ」

醍十が湖彩を睨み据える。

「だから、醍十もこれから気をつけて見ておけばいいだろうが」

此之葉が醍十に何かを相談しているとは思えない。 いや、醍十に限らず誰にも。

「おい、醍十、それはどういう意味だ? 阿秀の想い人が此之葉で、此之葉の想い人が阿秀であったならいけないのか?」

醍十は黙ったが、他の三人が目を剥いた。

「おい、うそだろ?」

「まさかだよ」

「ありえないし」

「何があり得ないんだ? 此之葉が日本にくるにあたって誰よりも阿秀が骨を折った。 いや、そんなことじゃない。 阿秀は俺たちの筆頭だ。 紫さまをお守りするお付きの筆頭。 そして此之葉は紫さまにお仕えする者。 その二人が寄り添うのに何の不思議がある?」

ゴン! と拳で座卓を叩く大きな音がした。
五人が驚いて首を引っ込める。
卓を叩いたその手を顎の下に持ってきて頬杖をつく。

「そうか・・・阿秀かぁ・・・」

「・・・お前・・・考えるだけなら卓を叩くなよ・・・」

「言ってやるな。 醍十とて親代わりのつもりだ。 急に此之葉の相手を聞かされては尋常ではいられないだろう」

「阿秀なら・・・此之葉を預けられるかぁ・・・」

まだ想像の範囲であるのに醍十が考え出したことに誰もが目を合わせた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第82回

2022年07月22日 22時01分15秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第82回



その日の夕餉にシキと波葉の姿はなかった。 シキが澪引と昼餉を済ませて邸に帰ったようで、澪引がしきりに寂しいと言っているのを四方がなだめすかしていた。

リツソは何を思っているのか、ボォーっと食べていたが、その肩にカルネラが乗っていた。 そのカルネラがしきりにリツソに話しかけていた。

「リツソ、オナカイッパイ、オベンキョ。 オネガイネ。 オシッコモラス。 イイコ。 ヤレバデキルコ。 シロキ、オトウト。 イッショにオボエテネ。 シロキ、イモウト、サネ」 等々と。

色んな言葉が混在しているようだ。
ここに紫揺が居ればカルネラを正すのだろうが、今は紫揺同様、開け放たれた自由とでも言っていいのだろうか、カルネラが得た知識を爆発させている。 紫揺が体力を爆発させるように。

そんなリツソにもカルネラにも澪引にも四方にも、溜息をつきながらマツリが夕餉を終えた。

夕餉が終わり少し腹が落ち着いてから、宮の庭でマツリと杠の手合わせが始まった。

出来れば夕餉前が良かったのだが、夕餉ギリギリまで立ち合いがある。 刑部の文官たちが残業をしているのである。 残業をしてまでこのことを早く終わらせたいのだろう文官たちのことを思うと、立ち合いを早々に終わらせることなど出来なかった。

丸首長袖の上衣に帯をし、筒ズボンを穿いた二人の手合わせ。
マツリは珍しく白色で固め、スッポリと被って着る形の丸首には、青緑黄の幅の広い三色が入っている。 帯は青。 対する杠は、尾能が用意した水色一色に、濃い灰色の帯を巻いている。

その二人の手合わせを回廊から見ている者がいる。
“最高か” と “庭の世話か” であった。 他にもまだ宮の仕事が残っている下働きの者も目にしていた。

「マツリ様と杠殿、どちらも華奢でいらっしゃるのに気迫が凄いですわね」

「ええ、武官や四方様のようなお身体ではないのに」

「でもどちらかと言えばマツリ様の方が華奢でいらっしゃったのね」

他出着や直衣、狩衣ではあまり身体の線が分からないがこの衣はよく分かる。

「姉さん、どう? 杠殿はいかが?」

「え? ・・・なにを、何を言うの」

赤面した世和歌。

「姉さん・・・」

呆れたように丹和歌が言う。

「姉さんの歳になってもまだ何も知らないなんて。 いつ誰の奥になるというの?」

「そ、それは・・・。 え? 丹和歌、どういうこと?」

「あら、世和歌はまだ何も?」

彩楓が丹和歌に問う。

「そうみたいですわ」

「それはいけないわ。 官吏の中にいい人がいなかったの?」

紅香が世和歌に問う。

「え? え? ・・・あの、皆さま・・・」

「当たりですわー」 世和歌の欠けたトリオの声が響いた。

澪引とシキの従者は童女の頃からずっと宮に居る者もいれば、年頃になり行儀作法の一つとして新しく入って来る者もいる。
童女などは宮から出ることなどついぞ無い。 年頃になってくると目の前にいるのは官吏だけである。 武官と文官。

文官の仕事場の一部は宮内にある。 本来仕事をする建物は門を挟んで違うところであるが、四方の執務室は四方たちの私室のある宮内の中にある。 よって執務室を訪ねてくる文官を見ることがあるし、一部の文官の仕事部屋も宮内にある。 そして武官は巡回をしている。 もちろん、四方たちの私室がある宮内も目立たないように巡回している。

そうやって文官、武官共に宮内に入ってくるときがある。 宮の女人と文官、武官が知り合う切っ掛けでもある。 それは四方も先代のご隠居も、そのまた上も暗黙の了解であった。
ある程度になれば官吏の中にいい伴侶を見つけて宮を去ってもらわなければ、宮の中の女人の従者や女官が年寄ばかりになってしまうのだから。

文官、武官共に宮での仕事が終われば宮の外にある家に帰るが、それまでに宮内で澪引やシキの従者、または女官と目を合わせたりすることがある。
男達は帰った家の近くで見る民の娘とは違って、綺麗に着飾った美しい従者や女官は瞼の裏にくっきりと残っている。 その美しい女人と文の交換から始まることを夢見ている官吏は多い。

そして “最高か” と紅香はしっかりと文の交換からその先に発展している。 だがその相手を今まだ一人に絞っているわけではない。

「え? どういうこと?」

「色んな方を知りませんと」

「ええ、ええ。 ご性格ももとより、わたくしたちに合うかどうかも」

「そうよ、姉さん。 逞しくても、学があっても、性格が良くても、豊かな暮らしが待っていても、私たちの考えに合うかどうかが必要よ」

「そうですわ。 丹和歌の言う通り。 紫さまのことになった時、お会いするお約束をしていても私たちは紫さまを優先します。 その時に会う時を約束していただろう、なんて仰る方はこちらから願い下げですわ」

「ええ、その様な方には一生ついていくことも出来ませんわ」

「・・・まさに」

世和歌が言う。

「でしょ? だから姉さんも色んな方と時を重ねなくっちゃ」

「あ・・・でも。 そのような時は・・・」

「姉さん! そんなことを言っていてどうするの? いずれはその方の子を産むんですよ! 予行練習しなくてどうするんですかっ」

「よ、よ、予行練習?!」

世和歌が顔を真っ赤にした。

“最高か” と “庭の世話か” が何を話しているかなど知る由の無いマツリと杠。
汗を流し殆ど受け身でマツリからの攻撃を左右に流すだけに終わった杠。 攻撃は一切しなかった。

「どうして挑んでこん」

息が上がっているマツリに比べて殆ど息を乱していない杠。

「無理を言わないで下さいませ」

マツリに攻撃など出来るはずはない。
杠が言いたいことは分かっている。 マツリがフッと笑う。

「俺の攻撃を上手く逃がしていた。 避けるどころでは無かったな。 ・・・口惜しいな、我の攻撃がかわされたのが。 それに息も乱しておらんではないか」

「精一杯で御座います」

防御一点張りだと言うように杠は言うが、そうでは無いだろう。

「今日はこれでいい。 だが、明日から俺に攻撃を掛けなければ手合わせはせんからな」

「マツリ様・・・」

「当たり前であろう。 それが手合わせだ」

まだ歳浅かった時の杠が何度もマツリの前に現れた時、とうとうマツリが折れて杠を手足に使ってくれると言った。 その時マツリから体術を徹底的に教えられた。
何度マツリに挑んでも抑えられてしまう。 それを何度も何度も繰り返してようやくこの身に付けた。 それを力にして辺境に赴いたり六都に行ったりもした。 そしてとうとう地下に入った。
マツリに教えられた体術は相当に役に立った。

「・・・はい、では明日から」

杠も分かっている。 武官相手なのだから攻撃をかわすだけではいけないと。
それにマツリが言っていた『誰にも文句を言わせないために』 というのは、言ってみれば一発で相手に参ったと言わせるくらいでなければいけない。
攻撃をかわしてばかりで相手の息が上がり、かわされてばかりを嫌がり参ったと言うのを待つわけにはいかない。

「紫に言われた」

手拭いで汗を拭きながら小階段に座ったマツリ。 目顔で隣に座るようにと杠に促す。

立ったままで見下ろすことも考えものだが、隣に座ることも憚られる。 どうしたものかと杠が考える間もなく続けてマツリが言う。

「気にするな。 座れ」

「紫が何と?」

迷いを諦めてマツリの隣に座る。
いつまでもグダグダとしない杠のそんなところもマツリは気に入っている。

「キョウゲンに乗ってばかりで歩けるのか、とな」

「なんとも・・・」

笑いを噛み殺している。

「そこで笑うのは杠くらいなものだぞ。 笑うくらいなら俺の横に迷うことなく座れるだろう」

下を向いて手拭いで口を押えている。 笑う声が漏れないようにしているのだと丸分かりだ。

「紫の言う通りかもしれんな。 俺は息が上がった。 杠は平気な顔をしていた。 考えものだ。 俺ももう一度鍛練を積まねばならんな」

「そのような時はないでしょう。 いえ、己との手合わせだけは願いたいですが」

少なくとも武官との試験までは付き合ってもらいたい。

「ああ、それは必ず。 それ以降だ。 時が空けば俺に付き合ってくれるか?」

「もちろんで御座います」

時があるのであれば、紫揺の具合を見に行かなくてもいいのか、それを訊きたかったがマツリも相当に疲れているだろう。
マツリには悪いが杠の試験が終わるまでは、それは物事が片付くまでということ。 それまでは紫揺の話はしない方がいいかと思った。 今はマツリ自身が、紫揺のことを想っていると分かってくれただけでも御の字だ。

マツリと杠が小階段に座っている。

今は “最高か” も “庭の世話か” も居ない。 他の者も。 マツリと杠の手合わせは長かった。
だが一組だけ途中から見ていて、今も二人を見ている者たちが居た。 その一人がマツリから目を離すと口を開いた。

「な、そなたにはシキだけではないのだぞ? リツソも居よう、そしてマツリも。 そのマツリはこうしてここまで立派になった」

「・・・はい」

「その・・・シキとそなたのことは女人同士のこととは思うが、そなたにはまだおる。 シキだけではない」

「マツリは立派になってくれました」

「ああ、そうだとも。 そなたの身体の具合も心配しておる。 そなたが元気にしておればマツリも安心して政ごとに集中できよう」

澪引が四方を睨む。

「え? あ? なんだ?」

「その様なことは御座いません」

四方が意味が分からないといった目を澪引に向ける。

「わたくしはマツリの母です。 ずっとマツリに付いているわけにはいきません。 それにマツリにはわたくしは必要ありません」

「何ということを言うのか?」

澪引が何を言おうとしているのかが分からない。

「マツリは・・・マツリもシキもで御座います。 勝手に大きくなりました。 わたくしの手など要りませんでした」

「そんなことは無い。 勝手になど。 そなたのことを母と思っておるから、そなたの身を案じておる。 澪引、たしかにシキもマツリも本領領主の血を濃く引いたかもしれん。 それこそ、そなたが言うように勝手に大きくなったかもしれん。 だが―――」

「その様なことは申しておりません」

「は?」

「シキもマツリも勝手に大きくなりました。 たしかにそれは四方様の血があってのことで御座いましょう。 シキもマツリもわたくしのことを母と思っていてくれております。 わたくしのこの身体を案じてくれております。 それは分かっています。 ですが・・・今この宮に・・・わたくしの周りに心開ける女人がおりません。 血を分ちあう女人がおりません」

澪引の言う血を分ちあうというのは血族という意味ではない。 心からという意味である。

「澪引・・・従者が居ろうが。 そなたの側付きも」

「違います。 そうではありません」

四方の伴侶となり、宮に入った澪引にはすぐ従者が付けられた。 その中から側付きもついた。 澪引を可愛がったご隠居と四方が選んだだけあってよく気がつき、そつなくこなし、よくしている。 だがそうではない。
澪引が言いたいのは、もっと何もかもを差し引いた娘的立場の者がいない。 あたたかな、落度があっても笑って許せる相手が居ない。

いま澪引の周りに居るのは、落度の無い失敗などしない人間。 万が一にも落度があり、澪引が笑って済ませようと思っても、済まされない立場と考えている人間ばかりだ。
シキのように娘には到底なり得なく、生まれた時からシキに付いているシキの側付きである、昌耶とシキとの関係にもなり得ない。 澪引はそれが寂しくてたまらないのだ。

それを分からない四方。

元々、宮の者として育った者と、辺境に生まれ育ち、伴侶として宮に来た者との大きな気持ちのズレである。

「四方様は何も分かっておられない」

「そんなことは無い。 澪引・・・そなたには、わしだけではいかんのか?」

「え?」

「わしはシキに劣るのか?」

「そのようなことは・・・」

このシチュエーションで “・・・ある” とは続けて言えない。 母と娘の繋がりは、伴侶など小指の爪の垢ほどにもない。

「わしが居る。 そなたにはいつもわしが居る。 それを忘れんで欲しい」

澪引が若い頃・・・まだ十五の歳をちょっと越したくらいの頃を思い出した。
懸命に澪引に寄り添いたいという若き日の四方の姿が。 そして四方の父、当時の本領領主であった、今のご隠居までもが出て来て四方の奥にと言ってきた。

澪引には本領領主となる四方は遠い存在だった。 本領の遠き親戚でもなければ豪族でもない。
四方が供である山猫に乗って走りまわっていた辺境の単なる娘だった。

「四方様・・・」

「いつまでもずっとそなたを守る。 そなたに添う。 そなたを悲しませたくない。 悲しませる者はわしが払う」

とーっても大きなことを言っているし、大言壮語でないことも分かっている。

「ですが・・・四方様ではシキの代わりになりませんわ」

四方が精一杯言った。 マツリよりずっとマシな語彙を並べて。 なのに・・・そんなことを言われてしまった。
かなりショックだ。

「・・・それほどにシキにいてほしいか?」

「ええ」

―――即答された。

「では、呼び戻すか?」

キッと澪引が四方を睨んだ。

「どうしてその様なことを申されます」

「え? あ? そうでは無いのか?」

「シキは波葉に添うております。 それなのに呼び戻すなどと・・・」

「では・・・何を申したい?」

「四方様に何も申しておりません。 ただ心許せる女人が居ないと言っております」

先ほどまで小さな肩が震えていたようだったのに、今は挑むように四方に向き合っている。
女人の考えることに鈍感な男衆には何が何だか分からない。

「ああ・・・えっと、それはどのような・・・女人なのだ?」

「もう! 四方様は何も考えておられないのですね! わたくしのことを!」

「・・・いや、考えておる。 そなたのことはずっと・・・」

四方と澪引の見解の違いが明らかになった。

咎人の腕を折ったり恫喝する死法(四方)。 今の姿を誰が想像できようか。

静かな宮内に四方と澪引の声がたゆたっていたが、最後には澪引の四方を責める声がはっきりと聞こえた。
マツリと杠が目を合わせる。

「父上と母上が何か言い合っておられるみたいだな」

「そのようで」

杠の立場では何も言えるものではない。

「まぁ、こちらに何も回ってこなければそれでいいのだが」

四方はややこしいことになるとすぐにマツリに回してくる。 ややこしいイコール面倒臭いということだ。

マツリにすれば、まさか澪引が迂遠にマツリの奥のことを言っているとは思いもしなかったし、四方にしてもマツリの奥のこと、つまり紫揺のことを言われているとは想像もできなかった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第81回

2022年07月18日 21時46分44秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第81回



杠の肩に腕をまわして歩く共時の姿が地下の空という、天井の孔から射す朝陽に照らされている。
だが地下の住人はまだ眠りの時間だ。

「おめーが宮の狗(いぬ)だったとはな」

地下の洞の入り口までは宮の馬車で運ばれてきた。 その馬車に二人で乗っていたが、その時には共時は一言も話してこなかった。 そして杠も武官が地下に入ったことも、城家主が捕らえられたことも何も話しはしなかった。

「そんないいもんじゃねーよ」

「狗にいいも悪いもあるかよ」

チッと舌打ちをして、かったるそうにすると真横にある杠の顔を見る。

「俺がおめーに話したことを全部宮に流してたってことだろう」

「まあ・・・そうなるか」

今更なにを隠しても始まらない。

「もうここらでいい。 おめーは宮に帰れや」

杠の肩から腕を外そうとしたが、杠がそれを止めた。

「なんだってんだ」

宮の狗である杠を苛立つように見る。

「ここであんたを置き去りにするわけにはいかない」

地下の一番奥まで運ぶ。 そして以前の城家主の屋敷に居るであろう宇藤に渡さなくては。 そうでなければマツリの計画が水の泡となってしまう。

今の共時の状態ではいつ誰に襲われるか分からない。 城家主の手下が捕まったと言ってもここは地下だ、弱きものはうっぷん晴らしの暴力の的になる。 それに城家主の隠れ手下がまだ残っている。 馬に乗った武官や馬車が行進していくのを目の当たりに見たはずだ。 今のアイツ等は何をするか分からない。

「宮の狗がなに言ってやがる」

「こう言っては何だが、お前が地下から出てきたのを助けたのはマツリ様だ。 その後お前を治療したのも宮の者だ。 宮の何もかもを否定できるってのか?」

「ケッ!」

「お前が俺を助けに来てくれたのが始まりだ。 お前に不利なことの無いようにしているだけだ。 恩返しだ、黙って受け取れ」

「そんなもん、要らねーよ」

杠から顔を隠すように反対側を見る。 たとえ宮の狗と分かろうが、息子と似ている杠からそんなことを言われて湧き出てくる喜びが抑えられない。

それからは何を言っていいか分からず、杠の肩を借りたままずっと無言で歩き続けた。

「おい、いい加減もういいだろう。 このまま行くと城家主の屋敷に行っちまう」

もうすぐ左右に広がっていた路地もなくなる。 そうなれば路地のなくなった広い道に出て、どんつきに城家主の屋敷があるだけだ。

「その屋敷に向かってんだよ」

「てめー! 俺を城家主に売る気かっ!」

「言っただろう、恩返しだって。 そんなことするか」

とうとう路地がなくなり左右に広がる幅のある広い道に出た。

紫揺はここを見張番が船を漕いでいたことをいいことに突っ走って行ったな、と数日前のことを思い出す。

道を斜めに横切り屋敷の前まで来る。 いつも居るはずの見張番が居ないことに共時が眉を顰めた。
そんな共時の心の内など知ったことではないと言わんばかりに杠が足を進める。

屋敷の門をくぐると広い庭があるが、その先の屋敷の窓があちこち割れている。 扉も壊れている。

「いったいどうしたってんだ・・・」

共時が目を丸くして言うが、杠も武官が入った時の様子を見ていたわけではない。 かなり派手にやったようだな、と見ているだけだ。

「さー、どうなってんだかな。 行くぜ」

まだ何も把握できていない共時が呆気にとられながらも、杠が歩くに体を任せている。 片足を引きずり、もう一方の片足が無意識に動いている。

壊された玄関の扉をくぐり中に入る。
もう城家主の手下は居ないのだ、以前と同じ所に宇藤は寝ていないだろう。

「この屋敷に城家主はもういない」

「え?」

「手下もな」

「どういうこった!?」

「宇藤がいる。 どうする? 宇藤を起こすか? それともどこかの部屋で宇藤が起きるまで待ってるか? 俺はそこまで付き合っちゃーいられねーけどな」

「意味が分かんねー。 もういい、オレはここを出る。 ここに用はねーんだからな」

「それは困る」

共時が眉を顰めて杠を見たその時、杠が大声を出した。

「宇藤! 起きてこい!」

「てめー! なに言ってやがる!」

暴れる共時を抑えつけながら、何度も「宇藤!」 と呼ぶ。

一つの戸が開いてそこから男が出て来た。 煩わしそうな目をして「うっせーんだよ!」 と言うと同時に、杠の肩を借りている共時が目に入ってきた。

「え? ・・・共時!」

男が走り寄り、共時の前に立った。

「よく無事で」

「無事じゃねーよ、このザマだ」

共時もよく知っていた男なのだろう。

「宇藤に渡しておいてくれ」

そう言うと共時の腕を肩から外し、男に共時を預けた。

「てめー、渡すって、どういう言い草だ。 オレは物じゃねーんだからな」

「充分物だぜ、どれだけ重かったと思ってんだ」

本当に重かったのだろう、顔を顰めて首や肩を回している。

「お前・・・俤。 ・・・無事だったのか? 武官に連れて行かれたんじゃなかったのか?」

「武官?」

共時が男の肩を借りると目を眇めて杠を見る。

「どういうこった」

男が説明しかけたが、杠がそれを遮って両方の眉を上げて男に言う。

「釈放された。 俺は城家主とは関係なかったし、何より牢屋に入れられてたからな」

「・・・すまん。 助けられなくて」

「いいってこった。 宇藤にもそう言っておいてくれ。 それよりコイツのことを頼む」

「あ、ああ。 もちろんだ」

「お前、いったいどういうことだ」

「おめーじゃなくて、お前か」

以前は杠のことをお前と呼んでいたが、ここにきて、宮の狗と知って “おめー” と言っていた。 些細なことだが、そこに共時の気持ちが表れていたのだろう。 それに気がついていた。

「宇藤の気持ちを汲んでやんな。 元気でな」

そう言い残すと杠が踵を返しかけ、思い出したように男に訊いた。

「残ったのは何人だ?」

「え? 三十人とちょっと。 俤、お前も一緒に―――」

手を上げ男に最後まで言わせず今度こそ踵を返した。

「おい、いってー何だってんだ」

男が共時に笑顔を見せると、共時を椅子に座らせすぐに宇藤を呼んだ。

杠が地下から出てくると、歩いて宮に戻ると言い残していたのに、義理堅くも木箱のような馬車が待っていた。

「ご苦労に御座います」

杠のことをどこの誰とも分からないのに、御者に扮していた武官がへりくだって言う。
宮を出る時マツリが見送りに立ち、その時にマツリが杠と親しく話していたからかもしれない。

「これは、申し訳御座いません」

「お気になさらず。 では宮にお戻りいたします」

「有難うございます」

馬車に乗り込むと御者に扮した武官が御者台に乗った。
杠が馬車に揺られながら宮に戻っていく。
その馬車の中で杠が考える。 御者に扮していた武官の己に対する姿勢が気になったからだ。
きっと宮を出る時にマツリが見送ってくれたから。 マツリはこんなことも考えてわざわざ見送ってくれたのかもしれない。 マツリの先見に驚くが、杠はこんな待遇をしてもらえる立場ではない。

それを考えると・・・。

杠に課せられた官吏としての試験は体術と面合わせ。 そう言われた。 普通ならそんなことは有り得ない。 この試験は杠に合わせているだけだ。

官吏ともなれば筆記の試験がある。 そこが何よりも重要だ。 そこが第一関門なのだから。
第一関門を受かった者がそこから二つに分かれる。 文官に行きたいものにはより一層の筆記試験。 そしてその後の面接で人間性を見られる。 武官を目指す者は体術が次に待っている。 そして人間性を見られる面接。
そしてどちらの面接にも四方は出てこない。 なのに杠の面接は四方だという。
何もかもが杠の都合のいいようになっている。

(それが褒美なのだろうが。 いいのだろうか・・・)

官吏たちは官吏になるため、第一関門の試験を合格するために日々、勉学に励んだはず。 杠はそれを褒美として一足飛びにしてもらっている。 それだけではない。 面接もだ。 人間性を見る面接と言っても、そこにはどれだけの学があるかも問われる。

辺境で生まれ育った杠には学の欠片も無い。 マツリの元に来てからはマツリから体術と共に、ある程度の勉学を習っただけであった。 俤として動くに字の読み書きは出来なくてはならないし、算術もそうであったからだ。

ガタガタと馬車が走る。

物見の窓のような、空気を入れ替える窓を開ける気もしない。

(日々勉学に励んだ者たちが、この特別待遇を知ってどう思うだろうか。 いや、どう思われてもいい。 そういうことじゃない。 己の立場に疑念を持たれて、それがマツリ様に向けられたら・・・)

とは言っても、年に一度の試験の日はほど遠い。 それに筆記試験に合格できる知識は杠にはない。
馬車に身体を揺られながら頭の中も揺れる。

(こんな時、我が妹はなんというだろうか)

我が妹、紫揺の顔が浮かんだ。
ほんの数舜をおいて杠の頬が緩んだ。

『貰えるものは貰っちゃえば?』

我が妹はそう言うだろう。
そう、己にはそう言うだろう。
だが紫揺本人である紫揺自身にのしかかってきては、そんなことを思わないだろう。 己が思っていると同じことを思うだろう。

「紫揺・・・」

杠が丸めていた背を伸ばした。

「早く戻ってこい」

馬車が武官舎に入った。

まさかだった。 マツリが馬車を迎えに出ていた。

御者と扮していた武官がホッと胸を撫で下した。 馬車に乗っている男に無礼はなきようにしたつもりだ。

マツリが居るとは知らず、馬車を下りた杠が目を丸くした。

「マツリ様・・・」

御者に扮した武官に労をねぎらっているマツリ。

「苦労であった。 今日はこれで休め。 武官長にはそう言っておいた」

「有難きことに御座います」

御者に扮した武官が言うと、杠が下りてきたことを確認し、再び馭者台に乗ると厩舎の方に馬車を向けた。

「杠、よく無事に帰って来てくれた」

「マツリ様が時を見計らって下さったおかげで御座います」

まだ地下の者が眠っている時を選んだのはマツリだ。 夜明け前に共時と杠に朝餉を食べさせ、馬車に乗せたのもマツリである。

「我が言わなくとも杠はこの時を選んだだろう」

確かにそうだ。 それを四方に進言するには杠では時がいっただろう、と考えるのは当たり前だ。

杠は気付いていないが、杠が言えば時を置かずして四方は首を縦に振る。 だがそんなことを考えられるほどに杠は己の立場を把握していない。
四方がマツリ同様に杠のことを考えているなどとは。

「どうだった? 共時は」

「今頃は宇藤に渡って話を聞かされている頃だと思います」

マツリがフッと笑う。

「共時は何が起きたのか全く分かっておらぬのだろうな」

「はい。 宇藤が上手く言ってくれればいいのですが。 三十余名が宇藤についていたようです」

「今屋敷に居るのがその人数か」

「その様です」

「・・・紫の働きは大きかったか」

地下の屋敷に向かった武官は五十人ほど。 漏れることなく捕らえたのは七十二人。 もしこれに紫揺によって屋敷から出された者三十余名が居ては、取りこぼしがあったに違いない。 それどころか今回捕らえた七十二人さえも、捕らえられなかったかもしれない。

マツリが空を見た。 朝陽が昇って蒼穹を彩っている。 つられて杠も空を見る。

「・・・熱を出しておった」

「え?」

「かなりの高熱であった」

マツリが紫揺の様子を杠に伝える。
マツリは誰が、と言っていないが誰のことかはすぐに分かった。

その時の様子をかいつまんでマツリが話す。

「では今は落ち着いているのですね?」

マツリが紫揺の汗を拭いたことも言ったが、杠はそこにとらわれることは無かった。

「ああ、熱は下がったからな。 今頃は東のお付きが紫の我儘に困っているかもしれんな」

「きっと、そうで御座いましょう」

想像しただけでもその図が見えそうだ。

「紫さまは自由に生るでしょう。 思いのままに。 東の紫さまは民のために生きると聞きました。 紫さまは民のことを思い、己に正直に思うままに、楽しく生きていくのではないでしょうか。 それこそ熱が出るからと己の行動を顧みない。 無鉄砲と言っていいでしょう。 それが紫さまらしいのでしょうが、付く者にとっては大変でしょう」

「ああ、そうだな」

「その紫さまを抑えられるのがマツリ様です。 我には抑えられません」

マツリに気づかっているのだろう。 紫揺と言わず紫さまと言っている。

「抑えるどころか共に楽しむと言っていたのではないか?」

杠が楽しそうな目をする。

「御尤も。 紫さまと居ると楽しいので。 ですが紫さまの身を危険に晒したいとは思っておりません」

「ああ。 だがアレは危険なことが好きなようだ」

二人が目を合わすとプッと噴き出す。
互いに地下であったことを思い出しているのだろう。

「今日もお忙しいのですね?」

「ああ、捕らえてきた者のことで刑部に立ち会わねばならん」

その辺のコソ泥が捕まったのとはわけが違う。

宮の管理の元にある光石を流したり、金貨を流したりしていたのだから。 それに官吏も見張番も宮の管理の元にある者である。

そして地下は刑部では計り知れない所がある。 基本地下は治外法権のようなところだ。

「では当分は時が空きませんか」

「あまりに人数が多い、父上と二手に分かれることになった。 予定より早くは終わりそうだが、どれだけかかるか」

立ち会わねばならない刑部の立ち合いはいつも四方であり、マツリは四方の補佐的な立場だった。 だが今回はあまりに人数が多すぎるということもあったが、もうマツリ一人でも立ち合いは十分だということもあり、二手に分かれることとなった。

四方としてはこれを機に、これからの立ち合いはマツリに任せるつもりでいる。

「立ち合いが終わり次第、官吏の試験の段取りを付ける・・・というか、殆どすぐに行われるだろう。 多分、父上は武官の中でも一番の強者を用意されるはずだ」

「え?」

「誰にも文句を言わせんためにな」

時期も外れていれば第一関門である筆記試験も受けない。 それに文句を言わせないために力を見せつけるつもりなのだ。

杠が下を向き額に手をあてる。

「それは無理なことで御座いましょう」

「我が教えたのだ。 その我は父上に教わった。 父上は自信がおありなのだろう。 それに杠は基礎が出来ていた。 案ずることは無い。 今日から毎日夕餉のあと手を合わせよう」

「え?」

「立ち合いなど退屈でたまらん。 俺も身体を動かしたい」

立ち会いとはいえ、きっとマツリはふてぶてしい地下の者に恫喝を入れたりするであろう。 精神的に草臥れること・・・ストレスが溜まること間違いなしだ。

そして杠は地下ではそれなりにやってはきていたが、相手は素人だ。 体術の相手は武官。 地下の者たちとは違うことは分かっている。 マツリには一度は相手をして欲しいと思っていたし、言ってもいたが毎日とは思いもしなかった。 有難い申し出である。

「有難うございます」

始業を知らせる太鼓が鳴った。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第80回

2022年07月15日 22時15分33秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第80回



「どうしたの?」

後ろから声が掛かった。

「いいえ、なにも。 此之葉が薬膳を持ってきました」

此之葉を部屋の中に入れると思いっきり顔を歪める紫揺。

「薬膳・・・」

「しっかりと食べて下さい」

紫揺を見て言うと次に此之葉を見た。

「葉月は?」

どんな様子かと訊きたかったが、声に出したのはここまでだった。
紫揺の前に薬膳を置くとそのまま紫揺の前に座り、今も戸の前に立っている塔弥に振り向く。

「油は渡しました。 これで揃ったから、塔弥にはもういいと言っておいてということです」

そうか、と言った塔弥。 隅に置いていた布団を持ち上げる。

「布団を干してくる」

「あ、ごめんなさい」

その此之葉の声に思い出したことがあった。

「紫さま」

薬膳を睨んでいた紫揺が顔を上げる。 何を言うのかと此之葉が紫揺を見る。

「薬湯を飲ませたのは俺です」

全くの嘘だ。 それは此之葉も知っている。 振り返った此之葉が目を丸くする。

「なかなか言うことを聞いてくれなくて困りました」

マツリが紫揺に薬湯を飲ませていたところを思い出しながら言う。
紫揺は塔弥に薬湯のことなど訊いていない。 きっと此之葉に訊いたことが塔弥に伝わったのだろう。

「塔弥さんだったんだ」

「はい」

「そっか。 だからか」

「はい?」

布団を抱えている塔弥が間の抜けた声を出す。

「私が薬湯を飲もうとしなかったといっても、あれは・・・無理矢理にもほどがあるでしょ」

あの無理矢理が今の塔弥の厳しさに繋がっていったのかと思える。

「は?」

「顔を固定して無理矢理口を開けたよね。 で、飲ませたよね」

此之葉がいなくなってから記憶を遡っていた。 そして所々を思い出した。

そんなことをマツリがしていたのか。 己には想像もできなければ行うことも出来ない。
そう思う塔弥が返事さえ出来ない。 そこに紫揺の声が続く。

「ごめんなさい」

此之葉と塔弥が敢えて紫揺を見る。

「塔弥さんに心配かけた。 此之葉さんにも」

「紫さま・・・」

此之葉が紫揺の名を呼ぶが塔弥は声が出せない。 マツリのやったことなのだから。

「塔弥さん」

「はい」

「でも、あれは・・・酷すぎる」

「はい?」

「あんなことをしたら嫌われるからね」

「え? 誰に?」

此之葉が塔弥を見る。 紫揺も塔弥を見ている。
此之葉が一度紫揺を見てからもう一度塔弥を見る。 何故か塔弥の顔が赤くなっている。

「布団を干してきます」

顔を赤くした塔弥が部屋を出て行った。

部屋に戻っていたお付きたち。

「塔弥の最後の言葉を聞いたか?」

野夜が言う。

「ああ」

同意したのは悠蓮だ。

「やっぱり馬をどうにかしてくれ」

二人が声を揃えて梁湶に言う。

「だから・・・お前たちの馬は塔弥の馬ほどには若くないが―――」

「歳だ」

またしても二人が声を揃える。

「紫さまがお転婆を襲歩されれば塔弥に任せればいいだろう」

いいわけない。 塔弥が最後に言ったのだから。
『襲歩は遅いのに逃げ足は速い』 と。 えらい言われようだ。

梁湶、醍十、若冲は身体が大きい。 その分お転婆に後れを取っても仕方がないが、悠蓮と野夜は塔弥ほどに小柄ではないが、さほど大きくもない。 湖彩にしてもそうだ。 その湖彩は遅れをとってでも己らより早く馬を走らせていた。

「今すぐ仔を産ませ、四の歳以上にしろ」

「馬鹿か・・・」

五人の会話を耳の端に聞いて、立ち聞きに参加していなかった窓辺に座る醍十がポツリと言う。

「塔弥って・・・柔らかくなったなぁ」

え? っと全員が醍十を見る。

「ずっと独唱様に付いてて・・・棘があるとまでは言わんが・・・固かった。 暗かったし。 柔らかくなったと思わんかぁ?」

そういわれればそうだ。
塔弥も己らも同じ紫のお付きだ。 先祖からずっと。 だが塔弥の先祖だけはルートが違ってしまった。 その違ったルートに塔弥はいた。 笑みなど無く堅苦しく、いつも下を向いて一本の寂しい古木のように枝葉すら見せなかった。 お付きという仲間がいるのに心開かず、いつも伏し目がちに洞に居た。
五人が目を合わせる。

「そう言えばそうか」

紫揺が見つかってからは、紫揺がお付きの中で一番心を開いた相手がその塔弥であった。 紫揺の祖父が塔弥の曾祖伯父だったということが手伝ったのかもしれないが。

野夜と悠蓮が馬のことなど忘れて塔弥を想う。

「塔弥は今も責任を感じているのかもしれんな」

野夜の言葉に悠蓮が頷く。

「どういうことだ?」

「結局最後の最後まで先の紫さまを見ていたのは塔弥の祖だ。 それを重く感じているのかもしれない」

野夜に続いて悠蓮が言う。

「ああ。 だからなのか、それになのか、紫さまも塔弥には心を開かれている。 塔弥はそれに応えたいのだろう」

「そっかぁ。 んじゃ、塔弥の想い人は紫さまかぁ?」

とんでもないことを醍十が言った。
驚いた目を五人が合わせた。
禁断に裏打ちが入ってしまった。


苦い薬膳を食べ終えた紫揺。

「あの、もう薬膳・・・要りませんけど?」

本領で倒れた時、薬膳など食べなかった。 おじやに柔らかいおかずだった。

「お身体が本調子ではないのですから」

此之葉がどれ程自分を想ってくれているのかは分かっている。 お付きたちも。 強(し)いては民も。

「・・・はい」

でもこの苦い薬膳は食べたいと思わない。

「次からは薬膳ではないんですよね?」

「紫さまのご体調次第で」

「あ! 全然元気です! 薬膳なんていりません」

戸の外から声が掛かった。

「葉月です」

「葉月ちゃん? どうぞ入って」

部屋に入ってきた葉月が空になっている膳を見た。

「あ、丁度食べ終わられたところですか?」

手には盆を持っている。

「うん。 薬膳全部食べた」

「ふふ、苦かったでしょう」

そう言うと紫揺の真正面に座る此之葉の後ろを回り紫揺の横に座った。

「葉月」

此之葉の叱責が飛ぶが、いつもの如く葉月は素知らぬ顔をしている。

「此之葉ちゃん、膳を下げて。 これ置きたいから」

これというのは葉月の持っている盆のこと。 盆には何かが載っているようだが、布が掛けられていてそれが何かは分からない。
葉月に言われ此之葉が卓から膳を下げ自分の横に置くと、葉月が持っていた盆を紫揺の前に置き、被せていた布をはいだ。

「え?」

紫揺が驚いて声を上げた。

「紫さま、食べてみて」

此之葉に睨まれ言い直す。

「あー、食べてみて下さい」

布を剥がれた盆の上には陶器があり、その中に見覚えのある色が見える。 日本で見ていたのは真っ黄色ではなく、肌色に黄色を混ぜたような色だったが、目の前にあるのは真っ黄色に近い色。 そしてその横に木で出来た小さなスプーンが置かれている。

「これって・・・」

盆の上にある陶器を覗き込む。

「いいから食べて。 ・・・下さい」

此之葉に睨まれる前に言葉を足した。

紫揺が木で出来たスプーンをとる。 小さく磨かれているスプーン。 日本ではこれを使って茶碗蒸しでも食べるだろう。
こんなに小さなスプーンは、小さな子が家に居るところにしかなかったはず。

陶器を手にする。 スプーンを陶器の中入れ持ち上げるとプルンと波打つ。 それを口に運ぶ。
紫揺が驚いたように目を瞠る。 スプーンはまだ口から出ていない。 口に入れただけであの味がした。
ゆっくりとスプーンを口から離すと咀嚼も要らない程に、舌と上あごの動きだけでトロリと口いっぱいに広がる。 ゴクリと飲み込む。

「・・・プリン」

一言いうと葉月を見た。

「良かったー! ちゃんと出来たー」


塔弥が葉月に頼んだことは、紫揺が倒れたことによって中止となりかけたが、マツリが現れたことにより紫揺の回復が見られた。
紫揺のことは此之葉に任せ、塔弥が葉月から言われていた濃い乳の出る牛の元に早朝馬を走らせていた。 卵は葉月が用意すると言っていたが、一旦中止となることを言ったのだから、葉月は卵を取りに行っていないだろう。 濃い乳の出る牛と言われたのだ、卵も濃いものが良いのだろうと、濃い卵が手に入るところに濃い乳を片手に馬を走らせた。
両方を揃え朝起きてきた葉月に差し出した。

『紫さまが落ち着かれた。 作ってもらえるか?』

『あ、卵もとってきてくれたんだ』

『俺の我儘だから』

葉月が塔弥を見る。
塔弥がドキリとする。

『紫さま、良くなられたんだ』

『ああ』

塔弥から乳と卵を受け取る。

『ありがと。 任せて。 うん・・・と。 お願いがあるんだけど?』

葉月からお願いという注文を受けた。 小さなスプーンを作って欲しいと。 塔弥も日本の領主の家に行き来していた。 その時にスプーンを見ているし、この領土に似たものが無いわけではない。 どんな形かは知っている。

『木でいいか?』

『充分』

葉月がそう答えた。

『葉月』

『なに?』

『紫さまのこともあるが、唱和様に日本の料理を作ってもらいたい』

『日本の?』

唱和のことを大まかに葉月に言った。 その上で、唱和が食べ慣れた日本の料理を作って欲しいと。

『わ・・・難しいな。 唱和様は日本料理を食べてたの? 完全に? 日本の料理って言っても色々あるし。 それに日本でも、中華とかフレンチとかイタリアンとか色々食べてるよ。 唱和様は日本料理を食べてたの?』

そんなことを言われても分からない。

『・・・分からない』

『そっか。 北でどんな料理を食べていたかは分からないけど、その後の日本か。 それにご年齢を考えても・・・。 ・・・うん、当てが外れるかもしれないけどやってみる』

『悪い。 頼む』

『・・・悪いなんて言わないでほしい』

『え?』

『頼む、だけでいい』

『あ、ああ。 そうか。 頼む』

『・・・塔弥。 どうして目を合わせてくれないの?』

『そんなことは無い』

言いながらも葉月を見ていない。

『塔弥に頼られて嬉しいんだけど?』

『え?』

といいながらも葉月を見ない。

『いい。 わかった。 とにかく紫さまと日本の料理、一番簡単に出来そうなものから作っていく。 それでいい?』

『頼む』

目を合わせない塔弥に葉月が口を歪めた。


「プリンの味してます?」

「うん、そのもの! 美味しい!」

紫揺がスプーンを何度も陶器から口に運ぶ。 底からカラメルが出てきた。 カラメルが付いたプリンを口に運ぶ。 カラメルが美味しい。

「わっ! このカラメル美味しい!」

葉月がホッと安心するとともに喜んだ顔を見せる。
この領土に砂糖など無いのだから、苦みがあるものと蜂蜜を使った代替えが上手くいったようだ。

「塔弥から聞きました。 紫さまがプリンとパフェとケーキとシュークリームが食べたいって。 チョコレートはこの地では似た物を今は探せませんが、あとはなんとか作りたいと思ってるの、ます」

少し言葉がおかしい。

「え? 塔弥さんが? 塔弥さんが葉月ちゃんに言ったの?」

ついうっかり言ってしまったことを。

「はい」

「そっか・・・。 塔弥さんが葉月ちゃんに頼ったんだ」

ついうっかり言ってしまったこと、それを塔弥が真剣に受け止めてくれた。 ついうっかりではあったが、それは間違いなく思ったことだ。
チョコレートが食べたい。 ケーキもパフェもシュークリームも。 そしてプリンも。

「塔弥さん・・・分かってくれてたんだ」

分かって欲しいとは思わなかった。 思い出しただけなのだから。 それがつい口から出ただけなのだから。
ただただ、厳しくなっただけではなかったんだ。 何もかもを分ってくれているんだ。

「葉月ちゃん、美味しい。 ・・・プリン。 ありがと」

紫揺の目に涙が浮かぶ。

「わっ、わっ、紫さま、どうしたの!」

葉月が紫揺の肩に手を乗せる。
此之葉が眉間に皺を寄せ「葉月」と言った。


「いけません」

塔弥の声が響いた。

「だって、昨日もどこにも行ってなかったんだから」

「病み上がりでどこに行くと仰るのですか」

「だから・・・辺境にはいかないけど・・・。 ここら辺り?」

上目遣いに塔弥を見る。

「部屋から出られませんよう」

「ずっと部屋にいるなんて病気になる」

「充分ご病気です」

「治った」

塔弥と紫揺の会話もどきの睨み合いを、此之葉がオロオロとして聞いている。 葉月は塔弥に言われた唱和の料理に取り掛かるため、もう紫揺の部屋にはいない。

「・・・明日以降にお願い致します」

「えー・・・。 身体が鈍るんだけど?」

塔弥が大きなため息をついた。 そして肩も落とす。 この紫揺にどう対峙すればいいのか。 いま頼れるは此之葉しかいない。

「・・・此之葉、どうだ?」

「いつもの紫さまですけど・・・」

いつもの紫揺・・・。 お付きからしてみれば放ってはおけない紫揺ということだ。 それはいつ何をするか分からない紫揺という事。

そこに何の声掛けもなく紫揺の部屋の戸が開いた。
入ってきたのはガザンであった。

「あ、ガザン、心配かけたね。 もう大丈夫だから」

戸を開けることはするが閉めることをしないガザン。 戸は開け放たれたままだ。
塔弥はガザンがずっと紫揺に添うていたことを知っている。

「お熱うつってない?」

言いながらガザンの身体を撫でてやる。
ウィルス性ではないのだからうつることもないが、それに気付いていない紫揺である。
ガザンがベロンと紫揺の頬を舐める。

「そっか。 うつって無いのね。 ガザンが元気で良かった」

ガザンの身体を抱きしめる。

ふと塔弥に疑問が浮かんだ。
阿秀からは紫揺が心開いた者だけにガザンは許しを持っていると聞いていた。
それはお転婆であり、己、塔弥だけであると。
それを鵜呑みには出来なかったが、お転婆とガザンを見ていれば何気に分かる。 そしてその中に己もいると。
ガザンにお転婆のことを頼むとそれを聞いてくれる。 他の者が言ってもガザンは耳を傾けさえしないのに。

ガザンと紫揺がこの領土に来たときには、ガザンは誰をも敵視して見ていた。 疑いを持ちながら紫揺に対し脅かすことが無いか対峙し、疑いが無いと分かると匂いを嗅ぎ合格の印を一人ずつに押していた。
決して肉球スタンプを押していたわけではないが。
この領土にガザンから不合格の印を押された者は一人としていなかった。
ガザンが紫揺を守っていることは誰にも分かっていた。 そしてこの領土に紫揺の存在を脅かす者などは居ない。

そのガザンが紫揺と共に本領から帰ってきたマツリの匂いを嗅いでいた。 その時にガザンはなにも問わなかった。 問わないどころか唸りさえ上げなかった。
いま思うとマツリが紫揺に憂うことを言ったはずなのに。 だから紫揺がマツリを受け入れなかったはずなのに。 それなのにガザンは唸らなかった。

それに紫揺が高熱を出した時にマツリが来た。 その時にガザンは紫揺の布団に入り隣に寝ていた。 ましてや紫揺の平べったい胸の上に大きな腕を置いていたのだ。 マツリがその腕をどかした。 ガザンはそれに不服を言わなかった。 唸らなかった。 それどころかマツリにその場を譲った。

(どうしてだ・・・)

「塔弥さん、ガザンも元気だし私も元気。 だから―――」

「却下。 今日一日ガザンとお部屋でお過ごしください」

えー! っと紫揺の声が飛ぶが、ガザンは嬉しそうに紫揺の頬をベロンベロンと何度も舐めている。

塔弥が紫揺のことはガザンと此之葉に任せ部屋を出た。
頭を下げ廊下を歩きながら己の疑問をもう一度頭に浮かべる。

一室の戸が開いた。

「塔弥」

呼ばれ顔を向けると野夜が居た。
すかさず悠蓮の手が伸びてきた。
声を上げる間もなく、塔弥の身がお付きの部屋に引き込まれていった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第79回

2022年07月11日 21時54分38秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第79回



此之葉が紫揺の部屋に入って驚いた。
用意していた手拭いが全て使われていた。 ましてや山と積まれた手拭いを触ってみると、殆どが絞れば吸った汗が落ちてきそうなほどだ。

「・・・これほど薬湯に違いが」

マツリが持ってきていた薬湯の入った筒に目を流した。

暫し考えたようにしていたが今は紫揺の着替えが一番だ。 あれ程の汗をかいたのだ、服もかなり濡れていよう。
そっと布団をめくり紫揺の服に触れる。 湿った感じはあるが濡れているようではない。 此之葉が首を傾げながらも紫揺を起こさない様に着替えさせる。
手が止まった。 ふと気づいた。
もしかして服に汗が染み込む前に手拭いで拭いていたのだろうか。
山と積まれた手拭いを見る。
一瞬にして顔が赤くなった。

(私ったら、何を考えているの)

手早く紫揺を着替えさせる。

戸の外では塔弥と阿秀が座している。

「塔弥」

後ろに座する塔弥に話しかけるが前を見たまま。

「はい」

「唱和様のお加減がここのところよろしくない」

出遅れていた阿秀は唱和についていた。

今度八十三の歳になる。 “古の力を持つ者” として東の領土で先代に教えを乞うていたが、幼少の時に北の領土の者に攫われ、北の領土の “古の力を持つ者” にずっと術を掛けられていた。 己が “唱和” である以外、己は誰なのかを忘れていた。

紫揺によって唱和が東の領土の者だと分かり、それを切っ掛けに本領が間に入りかけられていた術を此之葉が解いた。 それからは東の領土にいる妹の独唱と一緒に暮らしていたが、長い間北の領土に居たからなのか、東の領土の温暖な気候に身体が休まればいいものを、北の領土の寒さに慣れてしまっていたのか、身体がついてこられないようだった。

此之葉のことに出遅れていた阿秀だったが、ずっと独唱と共に唱和についていた。

「北におられた方が唱和様のお身体には良かったのかもしれませんが、そうは考えたくありません」

「・・・そうだな」

「薬膳はお食べになっておられるのですか?」

「僅かだがな」

「独唱様はなんと?」

塔弥は紫揺が見つかるまではずっと独唱付きでいた。 その独唱は “古の力を持つ者” として紫揺をずっと追っていた。 塔弥が知る限りは、その間、一言も唱和が居なくなったことへの泣き言を聞いたことはなかった。

「歳だからと言ってはおられるが、姉妹として一緒に居られたのが僅かな年月だ。 お寂しいだろう」

「たしか・・・唱和様は日本にも居られた? 紫さまを探すために」

独唱もそうであるが、唱和も紫揺を追っていた。
独唱は東の領土の洞を抜け、日本に入った洞の中でずっと紫揺を探していた。

「ああ、北の領土で洞を見つけてからは日本を知り、日本の島に屋敷を建てた後、屋敷の中で探されていたようだ」

「ということは、日本の物を食べておられたということになる・・・」

塔弥のつぶやきに「そうなるだろうな」と阿秀が答える。

「陽が昇ったあとも此之葉だけに任せて宜しいでしょうか?」

紫揺のことは気になるが、マツリが『一寝入りもすれば何もなかったように起きるだろう』 と言っていた。
紫揺の事は此之葉に任せ、元気になったあとには他のお付きが付くだろう。

「独唱様と唱和様に付くということか?」

「いいえ。 葉月に頼みごとがあります。 その手伝いをしたいと思います」

「葉月に?」

ようやく阿秀が振り返って塔弥を見る。

「葉月は日本の食べ物を知っております。 全く同じにとはいかないでしょうが、似た物を作ってもらいます」

阿秀が「ああ」と言った。 己も日本の料理は知っている。 日本に居る時に散々食べてきたのだから。

「そう言えば違うな」

「薬膳に越したことは無いでしょうが、懐かしいものを食べられれば少しでもお元気になられるかもしれません」

何故そう思ったかを阿秀に説明する。

「え? 紫さまが? そんなことを言っておられたのか?」

チョコレートやケーキ、シュークリームやパフェやプリンを食べたいと。

阿秀が思い出したように笑いを漏らす。
紫揺と二人、北の領土の者たちが住む日本の屋敷に向かったあと、タクシーでコンビニに寄った時のことを思い出したのだ。

夜食に何か食べようと言ったのに紫揺が手にしたのは、生とカスタードのダブルのクリームが入ったシュークリームと玄米茶のペットボトルだった。

「シュークリームか。 懐かしいな」

その後、紫揺が領土に戻るか日本に居るかを決めかねていた時、紫揺の家の前にドッグフードとダブルのクリームが入ったシュークリームを差し入れてもいる。

紫揺の部屋の戸が開いた。
此之葉が山のように手拭いを抱えている。

「どうだ?」

阿秀が訊く後ろで塔弥が立ち上がるとその手拭いを受け取る。 ずっしりと重い。 それにぐっちょりと濡れている。

「お熱は下がって眠っておられます」

「心配は無いということか? マツリ様は一寝入りもすれば何もなかったように起きると仰っておられたが」

「おそらくマツリ様の仰る通りだと思います。 いつもと何ら変わりはありませんから」

阿秀と塔弥が再度安堵する。

「この手拭いは?」

塔弥が訊く。

「マツリ様が紫さまのお身体を拭かれたものと・・・」

阿秀が眉を上げ、塔弥の時間が止まった。
此之葉が再度頬を染める。

「・・・あ」

ようやく我に戻った塔弥。 顔を赤くすると手拭いを抱えたまま洗濯場に足を向けた。

「まさかマツリ様と紫さまがその様なご関係・・・」

此之葉には答えにくいことを阿秀が呟く。

「そ、そ、そのようであれば・・・お、お着替えをお任せになられることは無いかと・・・」

問われたわけではないのに更に顔を赤くして此之葉が答える。

「・・・そう、だな」

懸命に答えた此之葉に阿秀の返事は短いものだった。

「急な高熱と解熱で身体がついていかないだろう、と仰っておられた。 気をつけてみてくれ」

「はい・・・」


昼餉前時に紫揺が目を開けた。

「紫さま?」

此之葉の声がする。

「ん? 此之葉さん? お早う」

紫揺がいつも通り身体を立てようとする。 違和感がある。 途端、ふわっと体が浮いたような気がした。

「・・・あれ?」

言ったかと思うと、ドタンとそのまま元の体勢に戻った

「無理をされませんよう。 シキ様が帰られた後、お熱を出されました」

「え?」

そう言われれば頭がぼやんとしている。 ほんの僅かだが。
記憶をたどる。
あ、というと思い出したような目をした。

「そう言われれば、塔弥さんが支えてくれたんだ。 え? で? お熱下がったみたい?」

自分で額を触ってみる。

塔弥からマツリが来ていたことは話さないようにと言われている。 マツリがそう言っていたと。

「はい。 その、頑張って薬湯を飲んでくださったので」

マツリが紫揺に薬湯を飲ませている所を見ている。

「薬湯を?」

倒れてすぐに飲まされたことは覚えている。 だが頑張ったのではなく普通に飲んだ。 苦かったのを憶えている。
でも今、此之葉は頑張ったと言った。
紫揺が顔を歪めて思い出そうとする。 そう言われればと、身体を支えられて湯呑を口に当てられたことを思い出した。 かなり強引に飲まされたことが頭の片隅に浮かんだ。

「そう言われれば・・・。 誰が飲ませてくれたんですか?」

此之葉の心臓が撥ね上がった。 後ろを向いて立ち上がる。

「お腹が空いてらっしゃいませんか? すぐに薬膳を持って参ります。 それまでそのまま横になっていて下さい」

薬膳と聞いて紫揺ががっくりと肩を落とした。

紫揺の部屋を出た此之葉が膳を取りに行くと台所に塔弥が居た。 なにやらあちらこちらを開けて探し物をしているようだ。 その塔弥の後姿に声を掛ける。

「紫さまが目覚められました」

え? っと膝を着いて下の棚を覗いていた塔弥が振り向いた。

「まだお身体がしっかりとはされていないようですけど、お布団に横になってもらっています」

「そうか。 良かった」

その場に胡坐をかく。

「マツリ様が仰っておられたように本領の薬湯がよく効いたんでしょうね」

どこか寂しそうに言う。

「仕方がないさ。 それより、これからはお熱を出されないように計らおう。 それが一番だ」

コクリと此之葉が頷く。

「塔弥は何をしているの?」

「ああ、葉月に頼みごとをしてその手伝い。 葉月が言うにはここの台所に菜の花からとった油があると聞いたんだけど」

「ああ、それならここ」

塔弥が探していた棚とは違う、奥の棚から瓶を出すと塔弥に渡す。

「そんな所にあったのか」

「それよりどうして誰も昼餉の用意をしてないの?」

もう昼餉前だ。 この台所でお付きたちの昼餉の用意をしていなくてはならない。 それに紫揺の薬膳も用意されていない。

「紫さまが臥せっておられるからって、向こうで作ってる」

共同の台所のことである。 物音を聞かせないために配慮したのだろう。

「薬膳ならできていたから、これを持って行ってすぐに持ってくる。 紫さまのお部屋で待っていてくれ。 お一人にはしたくない。 何かあったらお付きが部屋にいる。 すぐに呼ぶといい」

頷きかけた此之葉だったが、さっきの紫揺の質問をまた訊かれては困る。

「待って、私が取ってきます。 油も持って行くから塔弥が紫さまと待っていて」

此之葉が塔弥の手から油の瓶を取り上げた。

「葉月はあっちの台所?」

「あ、うん」

「じゃ、紫さまをお願いします」

台所を出かけ、呆気にとられる塔弥に振り返る。

「誰が薬湯を飲ませてくれたかって訊かれたの。 また訊かれたら、塔弥、お願いね」

塔弥が溜息をついた。
そういうことか。

いつまでも紫揺を一人にはしておけない。 塔弥が台所を出ると誰が飲ませたことにしようかと考えながら歩いた。 己が知らないと言ってしまえばまた此之葉に訊くのだろうから。

紫揺の部屋の前まで来ると「塔弥です」と声を掛けてから部屋の中に入る。
普通なら此之葉も他の女も居ないのに、男が紫揺の部屋に入ることは暗黙の了解で禁じられている。 それは代々の紫の頃からである。 だが塔弥だけは例外だった。 それも暗黙の了解であった。
だから紫揺が倒れていた時にも、塔弥が一人で紫揺に付いていても誰も何も言わなかった。

此之葉からは布団で横になってもらっていると聞いていたのに、紫揺が座卓の前に座っているではないか。

「あ? え? 横になっておられなかったのですか?」

布団も上げられ、もう押し入れの中に入れられているのだろう。 部屋の中には見当たらない。

「此之葉さんに言われたけど何ともないから」

塔弥が渋面を作って頭を下げる。 マツリが言っていたそのままだ。

『一寝入りもすれば何もなかったように起きるだろう』

「どこか具合の悪いところは御座いませんか?」

言いながら立ち上がり押入れを開け、せっかく紫揺が片付けた布団を出し始める。

「ない。 ・・・何やってるの?」

「昨日は沢山汗をかかれました。 布団を干します」

「え? 汗かいたの?」

「かなりのお熱が出られましたから。 手拭いが何枚も必要なほど」

「そうなんだ。 ・・・何も覚えてない」

「それだけお熱を出されました。 己がお止めしなかったのが悪いのは分かっていますが、 少しはお身体のことを考えて下さらなくては」

布団を戸の近くに置いて卓を挟んで紫揺の前に座る。

「あ・・・。 やっぱり泳いだのがいけなかったのかな」

「夏ではありませんから」

「途中で寒気はしたんだよね。 でもあれくらいで・・・歳かなぁ」

「三月が終わるといってもこんな時期に泳がれるからです。 お歳以前です」

「でもあの時はそうしたかったんだもん」

「もん、じゃありません。 スッキリしなかったと仰っていましたが、他に方法が御座いましょう」

「水に浸かったら流れると思ったから」

「何がで御座いますか?」

「まぁ・・・いろいろ」

そこが言えない所か。 それを知って解決したいのは山々だが、いま突き詰める必要はないだろう。 それに突き詰めるのではなく、紫揺から言ってもらわなくてはこれからのこともある。

はぁーっと、塔弥が大きく溜息を吐く。

「とにかく、泉へ行かれるのならば泉へ行かれると仰っていただき、お転婆での襲歩は禁止です」

「えー!? 横暴!」

「横暴なのは紫さまです」

「なーんか、塔弥さん怪しい」

紫揺が塔弥を横目で見る。

「何がで御座いますか?」

「いつもより厳しい感じがするんだけど」

「はい。 これからは厳しく申し上げます。 もう二度とお熱を出されては困ります」

それにあの時思ったのだから。 『紫さまには抑える人間が必要だ』 と。

「泉に行くことを言わなかったのは悪かったけど、お転婆で襲歩をしたからってお熱には関係ないじゃない」

「あります。 あれだけお転婆を走らせて休むことなく泉に入られて。 身体がついていかないでしょう」

「そんなことないし」

「ないし、じゃありません。 現にお熱を出されました」

「・・・塔弥さんに熱が出そう」

「馬鹿なことを言わないで下さい」

戸の外でコソコソと声がする。
ずっと戸の向こうで聞いていた者たちだ。

「塔弥の馬鹿が、紫さまに馬鹿と言うか?」

「いや馬鹿とは言っていないだろう。 馬鹿なことと言っただけで」

「それにしても挑戦的に言ってるな」

「ああ、塔弥に何があったんだ?」

「昨日か? マツリ様が来られて何かがあったのか?」

団子になって戸に耳を付けている。 下になっている三人が四つん這いになり、その者たちの肩の上に手を置いて上段に二人が居る。 その誰もが廊下に尻を向けている。 組み立て体操もどきだ。

「何をしているのですか?」

後ろから声が掛かった。 組み立て体操もどきが大きな音をたてて崩れる。 その音に眉根を寄せた塔弥が戸を開けた。
もつれ合っているお付きたち五人。

「あ、あ」 と前後の塔弥と此之葉を見る。

「立ち聞きか?」

「いや、手はついてた」

「そういう問題かっ!」

すぐに蹴散らそうとしたが、その前に全員が立ち上がってその場から逃げ出した。

「襲歩は遅いのに逃げ足は速い」

逃げていく背中にポツリと漏らした。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第78回

2022年07月08日 21時02分11秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第78回



塔弥に言われ迷ったが、此之葉がマツリの向かい側に座り、ゆっくりと腹の辺りまで布団をめくった。 少々ガザンが邪魔だがガザンが動こうとしない。 紫揺の身体と共にガザンの身体も露わになってきた。 ガザンの手が紫揺の胸の上に置かれている。

マツリが紫揺の頭に手をかざしゆっくりと下げていく。 首の下まで来ると手前の腕に添わせ、またゆっくりと首の下まで戻し反対の腕に添わせる。 再びゆっくりと手を添えて戻してくると、胸の上に置かれていたガザンの腕を反対の手で浮かせ、胸の辺りを通過しガザンの腕を元に戻さず紫揺の身体から離した。
ガザンはマツリに腕を取られても、場所を移動されてもそ知らぬふりだ。

そしてマツリが手を胸から徐々に下ろしていく。

「全て剥ぐよう」

此之葉がうろたえた目で塔弥を見る。 紫揺を見ないよう横を向いている塔弥が頷く。 震える手で此之葉がゆっくりと布団をめくっていく。

マツリの手が下腹から片足に添い、またゆっくり戻ってくるともう片足に添わせた。
「ふむ」 と言って手を己の膝の上に置く。

「布団を被せよ」

すぐに此之葉が紫揺に布団を被せると、もれなくガザンの身体も布団に覆われる。

「紫が五色の、紫の力を使ったと聞いておる。 塔弥からは体力の消耗と冷えがあると」

「・・・それだけでは御座いません」

此之葉が口を開いた。

「それは」

「紫さまは憂いておられました。 私がその憂いに添うことが出来ませんでした」

その元の原因は己だろう。

「その憂いは我が知っておる」

「え?」

「知っておると言うか、我が原因だ。 だからと言って逃げた言い方をするわけではないが、最初に我のことが原因で精神的に良い状況ではなかった。 どちらが先かは知らんが、そこに五色の、紫の力を使い身体を弱くし、そして体力の消耗と冷え。 いま紫の身体を視たがとくにおかしく思えるところは無かった。 悪いことが重なったのだろう。 薬湯はどんなものを作った」

「解熱で御座います」

「ふむ」

唇に指を当て考える。 間違ってはいない。 これだけ顔が赤いのだ、一番に解熱であろう。 だがそれが有効的に効かない・・・。
紫揺はこの地で育ったわけではない。 この地の薬湯が効かないのだろうか、それともこの地の薬湯に即効性が無いのであろうか。

「本領に戻り本領の薬湯を持って来よう。 それまで他の薬湯は飲まさぬよう」

どうしてそこまで紫揺を案じるようなことをするのだろうか、マツリ自身が言っていたように原因というものがマツリだからだろうか。

「ですが・・・」

「紫は元を辿れば本領の地の者だ。 たとえ何代も前から東の地で暮らしていたとはいえ、紫自身はニホンで暮らしておった。 代々が東の地で育ってきた身体より、本領にいた時の身体に戻っておるかもしれん」

「ですが、紫さまは今までにも何度か倒れられました。 その度にこの地の薬膳や薬湯でお元気に戻られました」

―――何度も倒れたのか。

「すぐにか?」

こんなに熱を出したことは無い。

「今ほどではなかったので」

此之葉が頭を下げる。

「我も責任を感じておる。 本領の薬湯が合うかどうかは分からん。 試してみるだけだ」

そう言い残し、すっと立ち上がると家を出て行った。
塔弥と此之葉が目を合わす。

戸の外に座していた秋我がマツリを見送ると家に戻り、今あったことを領主に話した。 マツリと此之葉たちの会話は戸越しに聞いていた。
あのマツリが紫揺のことをそれほどに心配する理由が分からなないが、責任を感じていると言っていた。 その責任とは紫揺の憂いの事、領主に秋我がそう話す。

そしてマツリと紫揺の罵声の浴びせ合いのことを知らない塔弥にその事を此之葉が話したうえで、此之葉と塔弥も領主と秋我が話していたように同じことを話している。

「ということは、本領に行かれた時に紫さまがあとで泣かれる程マツリ様と言い合ったということか?」

「紫さまとマツリ様を見ているとそれしか考えられない」

此之葉がそう言った時に戸の外から声が掛かった。 領主と秋我であった。
領主と秋我も此之葉と同じことを言った。
紫揺とマツリの罵倒のしあいは・・・それどころか紫揺は四方にも食って掛かっていたと聞いた。

「・・・四方様にも?」

塔弥が目眩をおこしそうになる。

「ああ、紫さまの言われることは分からなくもないが・・・いや、分かってはならん、四方様にもお立場があるからな。 だがマツリ様とは子の喧嘩というか、聞いていてお二人ともに対して溜息しか出ん。 紫さまも負けずに言い返しておられたが、今回マツリ様は紫さまが憂う程のことを言われたのかもしれん」

紫揺がそんなことで、単なる喧嘩のようなことで憂うだろうか。

「紫さまに限ってその様なことは無いと思いますが・・・」

「どういうことだ?」

「腹立たしく思われたのはそうでしょう。 ですがお転婆に乗っても泉で泳いでもスッキリとしなかったと紫さまは仰いました。 紫さまはその時のことをその時で終わらせられます。 マツリ様に腹立てられたのならその時に言い返して終られるはずです」

お付きたちは紫揺のことを一番分かっているのは塔弥と思っている。 だがお付きたちだけではない。 領主も秋我も、此之葉には悪いがそう思っている。
その塔弥がそう言うのだ。

「ではマツリ様との間にその他に原因があるというのか?」

「分かりません。 紫さまが此之葉にも言っていないのですから。 それにシキ様がその原因を知っておられるようで、紫さまの憂いはシキ様が紫さまと分かち合うと言っておられました」

益々わからない。
領主が腕を組む。
此之葉と塔弥が紫揺を見る。 ガザンが紫揺の横で時折ベロリと紫揺を舐めている。

「そろそろマツリ様がいらっしゃる頃でしょう」

秋我が言うとマツリを出迎える為に部屋を出た。 その後に領主も続く。
暫くすると領主と秋我に迎えられたマツリが部屋に入ってきた。

本領の冷めない石の筒の中に薬湯を入れ蓋をしている。 此之葉に湯呑を用意させ蓋を開けると湯呑に注ぐ。
紫揺の横たわる横に立膝をして座り、手拭いを桶に入れると、ハァハァと息を荒くしている紫揺の首の後ろに手をまわしそのまま紫揺を起こす。

紫である紫揺に対して不敬と思えることだ。 だが相手は本領の時期本領領主。 五色の上に立つ者。 領主さえ文句が言えない。

「紫、聞こえるか」

ガザンが布団から出ると伸びをして部屋から出て行った。 開けるだけで閉めないガザンに代わって戸の外の秋我が戸を閉めた。

「目を開けよ」

顔を赤くほてらせている紫揺に話しかけるマツリだが、いま紫揺を起こすことは良いとは考えられない。

「マツリ様、いま紫さまは―――」 

「黙っておれ」

此之葉の言を撥ね退ける。

「紫、起きよ。 目を開けよ」

紫揺の瞼がピクリと動いた。

「目を開けよ」

重たそうな瞼が薄っすらと持ち上がる。

「薬湯だ、しかりと飲むよう」

横に置いていた湯呑を紫揺の唇にあてる。

「しかりと飲め」

湯呑を傾ける。 コクリと一口喉に流した。
一旦、湯呑を引く。 そして再び湯呑を唇にあてる。

「喉が渇いておろう。 続けて飲め」

体力を使い果たしたように首がガクンと横に傾いた。
湯呑を横に置くと紫揺を支えていた腕の位置を変え、紫揺の頬に手をあてて首を真っ直ぐにする。

「起きよ。 しかりと目を開けよ」

此之葉が膝に置いていた拳を握る。

マツリがもう一方の手で軽くピタピタと頬を叩く。
紫揺の瞼が僅かに開いた。
すぐに横に置いた湯呑を取ると紫揺の口にあてる。

「しかりと起きて飲め」

湯呑を傾ける。 ウグッと声を漏らしながらも数回に分けて湯呑の中の薬湯を全部飲んだ。

マツリの強硬なやりよう、言いよう。 この領土にそんなことをやる者言う者はいない。 紫揺に意見する者はせいぜい塔弥くらいだ。 だがその塔弥でさえこれ程には言わない。 勿論やらない。

領主と塔弥、此之葉が紫揺にはそのような人物が必要なことだと感じた。

紫揺は領土で自由にしている。 だが自由だけではない。 元より紫揺にそんな気など無い。 紫としての己の責務を感じ民と寄り添っているだけだ。 ただ時々、感じたままを身体で表現しすぎているだけである。 それがお付きには突拍子もないこととなるだけなのである。

此之葉はどう転んでも自分はあれほどには出来ないという自覚がある。 だがそれが必要な時もあるのだと実感している。

塔弥は紫揺には抑える人間が必要だと考えている。 それを己がしなくては、と。

マツリが紫揺を横たわらせ布団をかけてやる。 そのマツリが領主を見て言う。

「明日早朝、本領に戻らなければならん。 それまで紫は我が見る。 あとの者はこれからの紫を見るために身体を休めておけ」

「その様なことは!」

領主をさしおいて言ったのは此之葉だ。
マツリが此之葉を見る。

「“古の力を持つ者” 此之葉。 そなたが五色を見なければならないことは分かっておる。 だが今、本領の薬湯を飲ませた。 このあとの薬湯も持ってきておる。 時を見計らい次を飲ませるのは我にしか出来ん」

「・・・それで・・・それで明日、紫さまのお熱が下がると仰るのですか」

気弱そうな顔をしているのにはっきりとものを言う。 マツリがそう感じた。 それ程に紫揺を想っているのだろう。

「分らん。 分からんが、我はそう念じておる」

マツリは此之葉に譲る気はなさそうだ。
領主が考える。 マツリと紫揺の関係性が分からない、それでも今はマツリに任せるのがいいのかと。 己らでは紫揺に無理をさせてでも薬湯すら飲ますことが出来ないのだから。

「此之葉、マツリ様にお願いしよう」

領主が言いかけたのに代って塔弥が言った。

「塔弥、どうして?」

「此之葉のお役目は分かっている。 だが今は紫さまだけを想おう」

「塔弥!」

此之葉と塔弥にマツリがチラリと目線を送った。 そしてすぐに紫揺に戻す。

「紫は寝ておる。 紫のことを案ずるのなら大声を出さぬよう」

此之葉が唇を噛んだ。

「此之葉、出よう。 マツリ様にお願いしよう」

此之葉が首を振る。

「此之葉・・・」

「紫さまは我が領土にやっと戻って来て下さった。 ずっとずっと独唱様がお探しして、やっと戻って来て下さった」

「それは誰もが知っている。 だから、そうだから今は紫さまのお身体を一番に考えよう」

此之葉がまた首を振る。

「紫さまを目の前から失いたくない、塔弥もそれくらい分かるでしょう!」

「此之葉、声を抑えろ。 此之葉の言いたいことは分かっている。 俺も同じだ。 だがいま紫さまに我らは何も出来ない。 マツリ様にお願いするしかない。 我らの我儘ではなく紫さまのお身体を考えてくれ」

「塔弥・・・」

「な、マツリ様にお願いしよう。 それでもお熱が下がらなければ我らで考えよう」

塔弥が今にも泣きそうな此之葉を抱えながら紫揺の部屋を出た。

阿秀は何をしているのか。 完全に出遅れている。

塔弥と此之葉の後に秋我が続く。

「マツリ様・・・」

領主がマツリを見た。

「どうなるかは分からんが明け方までは我が見る。 心配せずともよい」

領主が頭を下げて部屋を出た。

一刻(三十分)を過ぎた頃に紫揺の額に汗が浮き出てきた。 部屋の隅に積まれていた手拭いで額の汗を拭いてやる。 続いて首にも汗が吹きだすように出てきた。

マツリが唇に指をあてた。
この様子では身体中に汗が噴き出しているだろう。
よく考えるとここには “最高か” も “庭の世話か” もいなかったのだ。

―――しくじった。

だが仕方がない。 口を歪めると布団をめくり紫揺の身体を横に向かせ、後ろ首から背中に手拭いを入れると汗を拭いてやり、新しい手拭いを重ねて服との間の背中に広げる。 次に仰向けに戻すと今度は衿合わせから手拭いを入れ汗を拭いた。

「ふむ、拭きやすいか」

引っかかりもなければ何もない。 板を拭いているようだ。
汗を拭き終わると背中にしたときと同じように、身体に添って服の下に手拭いを広げる。
手や足の出ている所も拭いてやる。
時を置いて何度も繰り返し汗を拭き、身体に添わせて重ねていた手拭いも替えた。

二刻(一時間)を過ぎた頃、先ほどと同じ薬湯を飲ませる。 また一刻ほどすると汗が噴き出てきた。 先ほどと同じことを繰り返す。

その後すぐに体を起こさせ、今度は別の薬湯を飲ませる。
僅かに目を開けた紫揺が、だるそうにしながらも湯呑一杯分を飲み干した。

「まだだ。 あと一杯」

素早く筒から湯呑に注ぐと湯呑を紫揺の口にあてる。
紫揺が顔をそむける。

「これだけ汗が出たのだ、喉が渇いていよう。 だるくても飲むよう」

「めん・・ど ・・・くさ、い」

面倒臭いのではないのだろう。 飲むことがかったるいのだろう。 それは分かるが、ここにきて面倒臭いとは・・・。
まあ、文句を言えるのは熱が下がってきた証拠なのだろうが。

「面倒臭くても飲め。 今を逃してはいつまで経っても熱は下がらん」

「だ、れ」

「誰でもよい。 飲め」

紫揺を支えていた腕を回し紫揺の顔を固定する。 湯呑を口にあてると傾ける。
眉を顰めながら紫揺がコクリと飲んだ。
ほんの僅かだ。

「これを飲み干さねばいつまで経ってもこのままだ。 一気に飲んでしまえ」

「いら、ない」

紫揺の顔を固定していた手を顎にさげる。 無理矢理紫揺の口を開けさせ湯呑を傾ける。
ウグッと言いながらもゴクリと飲む。 それを繰り返し、やっと湯呑が空になった。

「よく飲めた」

ゆっくりと紫揺の身体を布団に戻してやる。
更に一刻を過ぎると紫揺の額に汗が出てきた。 同じことを繰り返す。
二刻経った頃、また二種類目の薬湯を飲ませる。
今度は一刻ほど経ってもそんなに汗が出ている風ではない。
もう一刻ほど待つ。 背中に手を入れてみる。 じめっとしている程度だ。 汗を拭き、また重ねた手拭いを背と合わせ襟の中から入れて広げる。

紫揺の顔色は随分と前から赤みが引いているし、息も落ち着いている。 殆どの熱が出し切れただろう。
額にかかった湿った髪をそっと手でかき上げてやる。 うっすらと紫揺の目が開いた。

「ああ、悪い。 起こしてしまったか」

紫揺がマツリを見ることは無い。 僅かに開けられた虚ろな瞳で天井を見ていたようだが、また瞼が閉じられた。

マツリが紫揺の布団をめくり掌を紫揺の身体に添わせる。 頭から首の下、両手、首の下から胸、下腹そして両足。
特に異常は視られない。 布団をかけ直してやる。

額に手をあて次に耳の下に指をあてる。 熱は完全に引いたようだ。 身体と服の間に挟んでいた手拭いを取る。
そうなれば着替えさせたいものだ。 もう山として積まれていた手拭いは全て使ってしまったが、その横には着替え用の服も積まれている。 着替えくらいサッサとしてやれるが、己がしてしまっては此之葉が卒倒するだろう。

後ろの戸を見返り立ち上がった。 誰かいるかもしれない。
戸を開けると塔弥が座していた。

「御用で御座いましょうか」

「誰か女人は起きてはおらんか?」

別の部屋の戸が開いた。 出てきたのは此之葉。 目を赤く充血させている。 その後ろには阿秀が立っている。

「紫さまに何か・・・」

不安げな顔をマツリに向けて訊いてくる。

「熱は治まった。 着替えをさせてやってくれるか」

緊張していた頬を緩め、大きく頷くとマツリの横を通り過ぎ部屋に入り戸を閉めた。

「有難うございます」

塔弥と阿秀が頭を下げる。

「ずっと起きておったのか?」

阿秀をチラリと見た後に塔弥を見て問う。

「はい」

「一寝入りもすれば何もなかったように起きるであろうが、急な高熱と解熱だ。 身体がついていかんかもしれんが、心配をすることはない。 此之葉はこのあとも付けそうか?」

「はい。 己も付けます」

「そうか。 では任せる。 薬湯がまだ筒に入ったままだが中の物は捨てておくよう。 筒は取りに来る。 ああ、それと紫も夢うつつで我が居たことに気付いておらん。 我が来たことは紫には言わぬよう、他の者にも言っておいてくれ」

「・・・はい」

「塔弥、あまり気にするな。 秋我にもそう伝えておくよう。 最初の切っ掛けを作ったのは我なのだからな。 我の責任が一番大きい」

「マツリ様・・・」

己のために言ってくれたのだろう。 再び深く頭を下げた。

見送ろうとしかけた塔弥と阿秀を手で制し、マツリが家を出ると外で待っていたキョウゲンがマツリの肩に止まった。

「待たせたな」

キョウゲンが再び飛んだ。

宮に戻ったマツリが僅かな時を深く眠った。 それは肉体的に疲れていたからなのか、精神的なことであるのか、はたまた魔釣の目を使ったことであるのかは当の本人も知る由がない。 それにここのところ睡眠が十分にとれていなかったことも原因にあるかもしれない。

夕べ四方との食事を終え回廊に出ると、何故か紫揺が気になった、一抹の不安を感じた。 そして東の領土に飛んだ。 すると紫揺が熱を出していた。 かなりの高熱を。 その紫揺を看病した。
マツリには看病などという気はないが結果がそうなってしまった。
紫揺のことを頭に浮かべた途端、眠りの縁に落ちていた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第77回

2022年07月04日 22時09分54秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第77回



採石場では白木の送った三人以外に五人が暴れ出し、マツリが視た四人が地下に手を貸す者だった。
何も知らなかった他の者たちが呆気にとられたまま、十二名の仲間が咎人として馬車に乗せられるところを見た。

「騒がせた」

残された者にマツリが言う。

「人数が減り負担が大きくなっただろうが、すぐに元の人数に戻すよう手配をする。 それまで我慢してくれ。 進みの無理をする必要はない。 この人数でやっていけるだけでよい」

男たちに言うと場長に振り向く。

「光石は流されておった。 こちらに来る前に現場を押さえた。 明日から官吏と共に流された光石の正確な数を調べるよう」

場長が頭を下げる。 文官から聞かされた時には建前上頷いたが何を言っているのか、ふざけるんじゃないと思っていた。 だが思いもしない結果であった。

馬に乗った一部の武官達と文官一人が乗る馬車と、咎人となった者を乗せた馬車が採石場から引き揚げていく。
場長が膝をついた。 己の管理不行き届きを咎められるだろう、と。 光石は飾り石以上にこの本領で重要視されている物だ。

残った武官とマツリが加工所に移動した。
加工場では誰もがなんのことかと言っていたそうだ。

白木が言っていた地下から言われ増やした掃除番の二名らしき者は、山の麓で捕まえた者だろう。 他に五人も捕らえた、まだ仲間が居るかもしれない。 他の者を視なくてはならない。
採石場と同じことが行われた。

「捕らえろ」

マツリの声が上がったのは二人だった。 うち一人は女だった。

夜が明けぬうちからから宮を出てもう夕餉時を越している。 採石場と加工所での一人一人の話が余りにも長くなってしまったのもあるが、馬車の歩調に合わせ戻ってきたので、それで時を食ったというところが無きにしも非ずだ。

「疲れた・・・」

馬上のマツリがポツリと漏らす。
長々と使った魔釣の目に疲れたのだろう。
マツリの肩に止まるキョウゲンに紫揺の姿が浮かんだ。 やっとマツリから流れてくる感情が整理できてきた。
共鳴できた。 マツリが紫揺を思い浮かべているのが分かる。

「この刻限になりました。 いつでも飛べます」

キョウゲンが何を言っているのかは分かる。 マツリが口の端を上げる。

「まずは夕餉をとりたいか・・・」

陽が上る前から宮を出て水の一滴も飲んでいない。

「御意」

宮に戻ると四方が待っていた。 四方の後ろには尾能が付いている。 咎人は武官に任せ四方に報告をしようとした。

「まあ、待て。 この刻限だ。 夕餉を食べながら聞こう」

マツリに言うと尾能を振り返る。

「尾能、無事に済んだようだ。 今日はここまででよい。 あとはマツリと話すだけ、母御を見舞ってやってくれ」

尾能が頭を下げ退く。
四方が食事部屋に足を運ぶ。 その後をマツリが歩く。

「姉上は戻られましたか?」

思いのほか遅くなってしまった。

「ああ、戻ってきた。 昌耶がシキに泣きついておった」

マツリが安堵するとともに、昌耶の姿を思い浮かべてクスリと笑う。

「シキは・・・紫のことが気になって仕方ないようだが何故にそれほどまでにか。 心当たりがあるか?」

無くもないが、それだろうか。 紫揺を泣かせたことだろうか。 紫揺を泣かせたことはさて置いても、四方には話さなければいけないことがある。

「姉上が何を考えておられるのかは分かりませんが、ご報告の後にお話があります。 そのお話しと姉上のお考えが繋がっているのかもしれません」

四方がピクリと眉を上げる。

四方は既に夕餉は取っていたようで、目の前には茶だけが置かれている。
最初は箸を持つことなく報告をしたマツリだったが、今は箸を持ち四方の質問に答えながら夕餉を口に運んでいる。

「採石場は十二人か」

「はい。 加工所もそうですが、地下の者に声を掛けられ矜持もなく地下の者と繋がったのは考えものですが、上手い具合に地下も変わりましょう。 共時の具合はどうですか?」

「ああ、まだ治ってはおらんがそろそろ地下に返してもよいだろう。 あまり宮と繋がっておるのは良いものではないからな」

「それではそのお役を杠にさせてはいかがでしょうか。 杠はまだ宮の者でもありませんし、共時も己の身を顧みず杠を助けに行ったくらいですから」

「ふむ。 それが無難か」

「では医者に聞いた具合で。 杠には言っておきます」

四方が頷く。

最後の白飯を口に入れると箸を置き自ら茶を淹れる。

「それで? マツリの話しというのは?」

ゴクリと茶を飲むと口を開く。
入れ替わりに四方が茶を口に含む。

「紫を我の奥にしたいと思っております」

言った途端、マツリの顔がびしょ濡れになった。
正面に座る四方が茶を噴き出したのだ。

「・・・父上」

冷静に言われるが四方は咳き込んでいる。

立ち上がり手巾を手にすると一枚を四方に渡し、もう一枚で己の顔と首元を拭きながら椅子に座る。 キョウゲンを部屋で待たせておいて良かった、などと四方の心配よりキョウゲンが安全であったことに頭がいく。

「ゴホ・・・いま、いま何と、ゴホゴホ」

手巾を口に当て、咳の間に訊き返す声が聞こえる。

「紫を我の奥にしたいと思っております、と申しました」

何度も言わせてほしくないものだ。

マツリと紫揺の罵声の浴びせ合いを知っている。 何をどう考えればそうなるのか。

「いや・・・ゴホ、それは叶わんことだろう。 ゴホ」

「はい今のところは。 紫からは頬を打たれましたから。 ですが諦める気は御座いません」

「いや、マツリがどう思っているかは知らんが―――」

「今申し上げました」

「ああ、まあ、そうだが。 わしはどちらかというと紫は杠と合っていると思うが?」

絶対にマツリと紫揺は有り得ない。
それに今何と言った? 頬を打たれたと?

「杠も紫も互いを兄妹のように思っているということで御座います。 奥にも伴侶にもなり得ないと申しておりました」

いつそんな話をしたのか。

「だが・・・マツリと紫では話もろくに成り立たんだろう」

きっとマツリが紫揺を奥に、と言った時に紫揺がマツリの頬を打ったのだろう。 打つことで返事としたのだろう。 話など成り立つはずがない。

「今はそのようです」

「マツリ・・・お前にはそれなりの者をわしが探す。 それに紫は東が離さん」

「東のことはよくよく考えます。 ですが父上に探してもらう必要は御座いません」

四方が頭を抱えたくなってきた。

「マツリの言うそれとシキがどう繋がっておる」

「姉上は紫のことを気に入っておられます。 我が紫に許嫁になるように言ったのを姉上はご存知のようです。 義兄上からお聞きになったのでしょう。 我の奥になれば姉上の義妹となるわけです。 これ以上の繋がりはないでしょう」

マツリが波葉とそんな話をしているとは思わなかった。 そんなに仲のいい義兄とマツリだっただろうか。

「波葉に相談したのか?」

「いいえ、父上もお勧めして下さった杠との酒の席でそんな話になりました。 杠だけでなく義兄上も一緒に呑みましたので」

要らないことを勧めてしまった。

「マツリが誰を選ぼうと何を言う気はないが・・・東のことを考え・・・。 いや、そんなこと以前だ。 マツリと紫というのはやはり考えられん」

「父上がお考えになられなくとも、我は紫を奥にするつもりで御座います。 東の領主に言う前に父上にお話しをと思っただけでございます」

四方が溜息を吐く。 どうせ潰れる話だろう。

「・・・話は聞いた。 だが紫が頬を打ったなどと・・・。 無茶だけはしてくれるなよ」

本領領主の息子の頬を打つなどと考えられない事だがあの紫ならするだろうが、きっとマツリもマツリなのだろう。

四方に言われ無茶をしたつもりなどはないが、誰が聞いてもあの何も知らない紫揺相手に無茶をしたのかもしれない。 だが今は頷くだけに終わらせておく。

「明日から刑部が動く、マツリはわしと共に動くよう」

「承知いたしました」

「苦労であった」

そう言うと四方が立ち上がり食事室を出ていった。

自ら茶をもう一杯淹れる。 朝からのことを考えるとゆっくりと時が流れるようだ。
紫揺が倒れて目覚めた時のことを思い出す。 杠の話を聞いたり、太鼓橋の話しではグリグリとおじやを掻きまわしていた。
ふっと笑みがこぼれる。

「子だな・・・」

そう言った途端思い出したことがある。
シキが飛んだと聞いた時

『泣かせたことは悪いとは思っているが、それでもそこまで心配せねばならないか、もう童女ではないのに』

そう思った。

「まだ、童女か・・・」

接吻をすると子供が出来ると思っているくらいなのだから。 二十三年も生きていながら。

「ニホンというところはどうなっておるのか・・・」

二十一歳の時に紫として領土に入ったが、本領でも領土でも十五歳を迎えると伴侶を迎えることが出来る。 その時には誰もが知っていることである。
ただ例外で領主の筋だけは十六歳になってから伴侶を迎えることになる。 十五歳で二つ名をもらう儀式を終え、十六歳でもう一度儀式を終え、やっと大人と扱われる。

茶を口に含むとゴクゴクと全てを飲んだ。
食事室を出る。
回廊の外はもう暗い。 マツリが動くと回廊の光石が点灯する。
勾欄に手をかけ空を見る。 下弦になろうとしている月明かりが薄い雲に隠れ、頼りなく輝いている。
顔を落とすと目を瞑り息を吐いた。

(・・・)

気のせいだろうか。

顔を上げるともう一度月を見る。 まだ下弦の月には薄雲がかかっている。

いや、やはりおかしい。

勾欄から手を離すと歩を出し自室にいるキョウゲンを呼びに行った。

キョウゲンが縦に回るとその間に身体を大きくしマツリが勾欄を蹴る。 キョウゲンの目がある。 暗い中を馬に乗る時のように光石など必要ではない。

洞を抜け東の領土の山を飛ぶ。 キョウゲンがマツリを下したのは昼間シキがロセイを下りたと同じ所、そして数日前にマツリが紫揺を騙したと同じ所。 領主の家の奥の緑豊かな広い場所である。

マツリが領主の家まで来ると窓から明かりが漏れている。
玄関に回り戸を開ける。 東の領土では鍵というものは存在しないし呼び鈴もない。

「領主はおらんか」

マツリの声が響く。
驚いた顔をして玄関に飛び出したのは秋我であった。

「これは、マツリ様。 どうされました」

突っ立っていることも出来ない。 すぐに身体を開きマツリを家に入れようとしたが、マツリが断った。

「それより、紫はどうしておる」

「え? 紫さまで御座いますか・・・」

秋我の表情に影が差す。

「どうした」

すると奥から「秋我?」と耶緒の声がしたと思ったら、その姿が現れた。

「マツリ様!」

耶緒がすぐに座ろうとするのをマツリが止めた。 耶緒が身重であるのを知っている。

「具合が良くなったようだな」

少し前の東の領土の祭では、マツリに茶を出すことさえ出来ず寝込んでいたと聞いている。

「紫さまのお蔭で御座います」

「紫の?」

「お力で身体の中のおかしなものを取り除いて下さいました」

「紫の・・・五色の力を使ったということか」

「よくは分かりませんが、お目が紫色になっておられました」

秋我が答える。

「それで? 紫は今どうしておる」

「それが・・・」

秋我が言い淀んでいることに心当たりがなくもない。

「倒れたか」

「え? どうして・・・」

気のせいではなかったか。 あの胸騒ぎはこのことか。

「紫の居る所に案内せよ」

秋我と耶緒が目を合わせた。


秋我が紫揺の家の戸を開けるとマツリの前を歩き、一番奥の紫揺の部屋の戸の前に座った。

「マツリ様がお見えだ」

引き戸が開くと戸内に塔弥が座っていた。

「え? 塔弥? 此之葉が付いているのではないのか?」

「先ほど交代しました」

「だが今は紫さまにお付きするのには女人でないと・・・」

塔弥が顔を上げる。

「マツリ様・・・」

秋我の後ろに立つマツリ。

「入って良いか」

塔弥が頷くとマツリが入れるように場所を空ける。

その様子を戸に耳をくっ付けて聞いていたお付きたち。 その口が一人づつ開く。

「マツリ様?」

「どういうことだ」

「今日一日でシキ様とマツリ様だ」

「その前にもマツリ様が来られている」

「ああ? 紫さまが本領に行かれた時かぁ?」

「本領は何を考えているんだ?」

などとコソコソと言い合っている。

布団に寝かされている紫揺。 その横にマツリが座す。
マツリのことは塔弥に任せ、秋我が此之葉を呼びに出た。

紫揺の顔が赤い。 ハァハァと吐く息が熱く荒いが起きてはいないだろう。 枕元に水の入った桶が置かれ、額には濡れた手拭いが被せられている。
そして何故か紫揺の横に見覚えのある犬が横たわっているが・・・無視しよう。
無視されたガザンが目を開けるとチラリとマツリを見てまた目を伏せた。

「熱があるのか」

「はい。 シキ様が来られた時には何ということもなかったのですが、シキ様を見送られた後すぐ急にお熱を出されて倒れられました」

シキが何を言ったかは知らないが大体想像がつく。 己のことだろう。 紫の力は関係なく己のことで倒れ熱を出したか・・・。

―――それほどに嫌か。

「倒れられてすぐに薬湯をお飲み頂きましたが、僅かな汗をかかれただけでお熱が下がらないままです」

「その後の薬湯は」

「お声がけをしても目を覚まされませんので、続いてお飲みいただくことが出来ておりません・・・。 己のせいです」

マツリが眉を上げる。

「どういうことだ」

「今日、我らが追いつかないほどの速さでお転婆・・・馬で走られました。 それだけでも体力のいることですのに、その後に泉で長い間泳がれていました。 他の者はお止めするように言ったのですが、己はそれを制してお止めしませんでした。 その後ウトウトとされ岩の上で寝てしまわれ・・・体力がない所にお身体が冷えてお熱を出されました。 己がお止めしなかったのが原因です」

「まだ暑くもないこの時に泳ぐか・・・」

まるで水遊びが好きな子だ。 呆れてものが言えない。

「紫はその時なにか言っておったか」

「疲れたようなご様子はありませんでしたが、スッキリとしないようなことを仰っておられました」

スッキリしないのは己のことだろう。

秋我に呼ばれた此之葉が戸の前に座す。 その後ろに秋我が座している。 マツリと塔弥の話しの区切りがいいところで声を掛けるつもりだ。

「塔弥といったか」

「はい」

「紫からは気を使わない相手だと聞いておる。 紫の気持ちをよくよく分かって、泉に浸かっているのを止めなかったのだろう。 それは何故だ」

「・・・紫さまのご様子がいつもと違っていましたので。 ですから紫さまのなさりたいようにと」

「・・・そうか」

紫揺に対しての想い方が杠と似ている。

「岩の上で寝てしまわれた時・・・泣かれておられました」

シキは紫揺の憂いが何なのかを知っている。 マツリも知っているかもしれないと、何もかも言った方がいいと思い、紫揺が涙していたことを言った。

「・・・そうか」

はっきりとした会話は聞き取れないが声がしていないのは分かる。 会話が止まっているのだろう。

「塔弥」

此之葉の声だ。 塔弥が戸を開けると此之葉が入ってきた。 手をついてマツリに頭を下げる。

「薬湯が効いていないそうだが」

「はい・・・」

「我が視る。 布団を剥いでくれ」

え? と此之葉も塔弥も驚いた顔でマツリを見る。 男の前で布団を剥ぐなどと。

「ですがっ・・・」

「このままにしておくと言うのか」

逡巡した塔弥だったが「此之葉」と呼ぶと此之葉に頷いてみせた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第76回

2022年07月01日 22時53分48秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第76回



お付きが走り寄ってくるがその前に秋我が紫揺を抱き上げると、体中の熱を腕に感じる。

「かなりの高熱だ」

「シキ様がいらっしゃった時にはそのようなことは無かったのに」

「急に出たということか。 とにかくお運びする」

此之葉が布団を敷きに行こうとすると塔弥がそれを制した。

「此之葉はすぐに薬湯を作ってくれ」

そうして自らが紫揺の家に走る。

「塔弥!」

葉月が塔弥を呼ぶ。

「お熱を出された。 あのことは延期にしてくれ」

「分かった」

片手に泡だて器まがいを持っている。
料理は作れるが薬草のこととなると分からない。 これは此之葉の範囲だ。 自分は何の役にも立たない。
いや、考え方を変えよう。 紫揺が寝こんでいる。 その間に材料探しをして塔弥が言っていたあれらが作れるかどうか試してみよう。
プリンなど病み上がりに丁度いい。 上手く出来上がれば元気になった紫揺に食べさせてあげられる。

悪いことが重なった。
耶緒に五色としての紫の力を使い、泉で泳ぎ身体が冷えたこともあるし、泳いだことでかなりの体力の消耗をした。 そして自覚のない憂いごと。 シキが現れ紫揺の気持ちを和らげた。

―――張っていた糸が切れた。

精神的にと肉体的にがこの短期間で一気にやってきてしまった。

だが泉で身体が冷えた事だけしか知らない塔弥はそれが原因だと思っているし、秋我にしてもそうだ、五色としての力を使い過ぎたからだと考えている。

部屋の布団に寝かされた紫揺。 紫揺が運ばれてきたのを見たガザンがついて来て、寝かされた紫揺の布団に潜り込むと紫揺にピッタリと身を寄せる。

「ガザン、紫さまを温めてくれているのか?」

覇気なく塔弥が言い紫揺の枕元に付いている。 そこに此之葉がやってきて塔弥が紫揺の身体を支えるとゆっくりと薬湯を飲ませる。

「薬湯で御座います。 ゆっくりとお飲みください」

言われるままに薬湯を飲むと熱い息を口から吐く。

「ごめ・・・ん。 なんで、だろ・・・急に」

「泉でお身体が冷えたのでしょう。 ゆっくりお休みください」

塔弥が紫揺を寝かせる。
ゆっくりと言われても何日も本領にいて、帰って来てから領土のどこにも回っていない。 ゆっくりなどしていられない。

「明日・・・明日からは、ちゃん・・・と回る」

「今そんなことはお考えになりませんよう」

「・・・まわ、る」

すーっと眠りの縁に落ちた。 やはり憂いの上での体力の消耗は激しかったようだ。

「俺が泉で泳がせてしまった。 今晩は俺が見る」

「男が見るものではないわ」

「だが、俺のせいだ」

「どうやって紫さまのお身体を拭くと言うの?」

薬湯で熱が汗となって出てくるはずだ。

「・・・」

「塔弥、泉で泳いだのならばお身体が冷えたかもしれないわ。 でも紫さまは塞いでおられた。 それを私に相談してもらえなかった。 心の内からかもしれないし両方が重なったからかもしれない。 だから私のせいでもあるの」

「此之葉・・・」

これがシキが言っていたことなのか。

「いずれにしろ紫さまのお世話は私の仕事よ。 手伝って欲しい時には言うから、ね?」

「シキ様が仰っていた」

「え?」

「紫さまの憂いはシキ様が分ちあうと。 だから誰も紫さまのことで憂うことが無いようにと」

「そんなことを?」

「俺は紫さまが泣いておられたことを知っていた。 俺も・・・何を訊いても答えてもらえなかった」

「・・・泣いておられた?」

「ああ。 お一人で・・・」

此之葉が顔を下げる。

「シキ様の仰るように俺らが紫さまのことをどう考えようとも、紫さまがお話しくださるまで待つしかない」

「紫さまは塔弥には心を開いておられるわ」

塔弥が首を振る。

「話してもらえなかった。 それに此之葉にも心開かれているはずだ。 なのに話してくださらない。 今はシキ様の仰るように紫さまの憂いごとはシキ様にお任せして、俺らは紫さまのご回復だけを願おう」

此之葉が頷く。

「汗が出てきたら此之葉を呼ぶ。 もう夕餉が出来ているだろう。 先に食べてくるといい」

少しでも塔弥に任せなければ塔弥の気が済まないのだろう。

「じゃあ、お願い。 いつでも呼んで」

塔弥が頷くのを見ると此之葉が部屋を出て行った。



まだ陽が上る前に宮を出た。
採石場、加工所、光石を流す現場の三か所に分かれる。 今回も馬で出たマツリはまず光石を流す現場に行き全員を取り押さえる。

指定刻限は早朝。 地下の者にとって早朝は有り得ないだろうから、持ってくる側の都合だろう。 まだ人の気配のない内に荷車で運んでくるのであろう。

受け取る側の地下の者は既に刑部の牢屋に入れられている。

ようやく陽が顔を出し始めた頃に指定された場所近くに着き、馬と咎人を入れる馬車を隠すようにとめておく。 見張に武官が一人残った。 あとは徒歩で指定場所に向かい武官と共に隠れる。

指定された場所は岩山ではない山の裾野。 武官は岩陰や木陰に隠れている。 マツリは木の枝の上。 キョウゲンはマツリから離れて他の木の枝にとまっている。

相手のはっきりとした人数は分からないが最低限の人数は分かっている。 杠の持って帰ってきた紙には名前が書かれていたのだから。 それは少人数であった。
その名前を財貨省が持ってきた名簿と照らし合わせてみると同じ名があった。 加工所の者だ。 加工所を休んでくるのだろう。
だが白木は加工場の掃除に二人増やしたと言っていた。 その二人の名は杠の持って帰った紙には書かれていない。

文官に問うと急な腹痛でもない限り何人も一度に休ますことは無いという。 ということは紙に書かれている者五名と増えたとしても他に数名だろう。 多分、白木の言っていた二人だろう。 ということでマツリと武官十名が隠れている。

白木が入れた者以外が光石を流すことに手を貸しているということは、加工所には他にも仲間が居るかもしれない。 加工所の者二十名余り全員は、他部隊が取り敢えず押さえるということになっている。

そして採石場は屈強な体躯を持っている者ばかりだ。 白木の話しでは三人を入れたということだが、ここでも他に手を貸している者がいるかもしれない。 採石場には五十名余りの者がいる。 ここに一番多く武官を向かわせることとなったが、上手くいけば正直者が武官に手を貸すだろう。

書かれていた刻限が過ぎているのに何処からも人の気配を感じない。 上から見ていると隠れている武官たちにも疲れの色が見えなくもない。 もう長い間、同じ姿勢をとっている。

杠の言っていた城家主の隠れ手下が城家主の屋敷の者が捕らえられたと漏らした可能性もなくはないが、まずは有り得ないだろうと考えていた。 その考えが甘かったのだろうか。

マツリがキョウゲンに合図を送った。
キョウゲンがわざと音をたてて羽ばたきその羽音に武官たちが顔を上げる。

キョウゲンが上空を飛び偵察する。
遠くに荷車を引く者が見えた。 目を凝らすが荷車の荷は確認できない。 あまりにも遠目だし明るすぎる。
飛んで行って怪しまれても困る。 マツリの肩に戻ってきた。

「荷車を引いてくる者が七名。 あと一刻(三十分)足らずで着くでしょう。 荷は見ることが出来ませんでした」

マツリが頷く。
武官全員がマツリを見上げている。 一番近くにいる者に聞こえるほどの声で「あと一刻足らず、七名。 荷の確認は出来ておらん」 と伝える。
伝言式に武官たちに伝えられていく。 あと一刻足らずと聞いた武官たちが身を引き締める中、キョウゲンが元の位置に戻って行く。

キョウゲンの言った通り一刻足らずで荷車を押す男たちがやって来た。
二人の男が周りを見渡す。

「まだ来てねーのか」

荷車を引いていたのは二人。 後ろから三人が押していた。 荷車に手も触れず辺りを見回しているこの二人が白木に入れられた二人だろう。 そして荷車を押したり引いているあとの五人を顎で使っているのだろう。 その者たちが加工場の者だろう。

荷車には布が掛けられてある。 荷を確認することが出来ない。
武官がマツリを見上げる。
マツリがキョウゲンに合図を送る。

羽音を立てずにキョウゲンが枝から飛び、荷車に掛けられてあった布を足で掴むとそのまま上昇した。 布は落ちないように止められてはあったが軽いものだ。 止められていたものを弾いて布が持ち上げられていく。
アッと、男の声がした。 布の剥ぎ取られた荷車には光石が積んであった。
木の上から光石を確認したマツリ。

「捕らえろ!」

声が響いた。
岩陰から木陰から武官が躍り出る。 武官の姿を見た途端、五人がすぐに逃げ出した。

白木に入れられたと思われる二人が光石を手に取り胸に抱えると、滅茶苦茶に武官に投げつける。 これは粗末には出来るものではない。
「わわわ」 と言いながら投げつけられた光石を手を伸ばしてまで受け止めていく。

他の武官が二人に向かおうとするが、回りこんで掴まえに来ようとしたのかと、そっちにも光石を投げる。 こちらの武官も慌てて投げられた光石を受けとめる。

その間に五人が逃げている。 布を足から離したキョウゲンがその後を追う。

二人が小さな光石を抱えると振り向きざまに光石を投げながら走って逃げだした。 無茶苦茶に投げられる光石を落とすものかと、武官が必死で受け止めていく。

一人の男が丁度マツリの立つ木の下に来た。 マツリが枝を蹴って跳び、男の首根っこに肘を食わせる。 男が昏倒した。
続いて後ろを見ながら光石を投げている男の足を払い転倒させる。 これも先程のことも武官には出来ない事であった。

手に何も持っていなければ別の話だが、男たちは胸に光石を抱えている。 光石のことを思うととてもじゃないが昏倒させたり転倒させたりなどできない。 弁償など到底できないのだから。 マツリはそんな所に囚われていなかったから出来たのだが、マツリのやりように武官たちが顔を青ざめさせたのは隠しようのないことだった。

男の背を膝で押さえる。 武官が手に持っていた光石をそっと置くとすぐにマツリに代わって男を取り押さえた。 昏倒している男にも縄が掛けられる。

他の武官も手に持った光石をそっと置くと五人を追った。 かなり距離があけられた。

キョウゲンが縦に回って身体を大きくすると五人の前を阻む。
「うわっ!」っと叫んだ五人の足が止まる。
こんなに大きなフクロウを見るのは初めてだ。 このまま喰われるのではないか。

「た、助けてくれー!」

四人の男達が踵を返すと追ってきた武官の懐に自ら入ってきた。
だが一人の男はキョウゲンの横をすり抜けて走った。
キョウゲンが再び舞い飛び、その男のあとを飛ぶと滑空し男を足で抑え込む。
「ぐうぇ」 と一言吐くと意識を失くし、走って来た武官が男に縄をかけた。

同じ頃、加工所と採石場の所長と場長宅を訪ねた文官がことの次第を説明していた。 そして仕事が始まる前に所長と場長の協力の元、加工所の者一人残らず武官が抑えた。

採石場ではかなり入り乱れたようだったが、なんとか取り押さえることが出来た。
だが逃げ出さなくともこの中に手を貸していた者がいるかもしれない。 そこは話し済みだ。

マツリがあとの事を武官に任せるとキョウゲンで馬の居る所まで飛び、キョウゲンから跳び下りると馬を走らせた。
キョウゲンで飛ぶ方がよほど早く着くが武官が押さえているだろう。 無駄に陽のある内にキョウゲンを飛ばしたくない。

馬が口から泡を吐き出した頃ようやく採石場についた。 馬から跳び下りたマツリ。
武官から話を聞くと、武官の姿を見て三名以上の者が暴れ出し逃げ出したということであった。 そしてその者たちは捕らえたということで、あとの者は採石場の中に押し込んでいるということであった。

三名以上の者、その者たちが地下に関係しているのか、他のことで悪さをしているのが知られたのかと暴れたのかは分からないが、武官に抵抗し捕らえられたのだ、その者たちを視る必要はないだろう。
残りの者たち、採石場に押し込まれている者を視る。

「一人ずつ出してくれ。 話を聞く」

話を聞きその者の目の奥を視る。
武官に左右を固められ一人ずつがマツリの前に出る。 その一人ずつにマツリが話しかける。 話しかけることもなく禍つものが視える者もいるが、それが地下と繋がっているのかどうかを判断せねばならない。

「捕らえろ」

結局マツリが言ったのは四名であった。
ただ、二人が違った意味でマツリの目にとまった。
その二人ともが連れてこられた時に武官が小声でマツリに口添えをしていた。
「この者は暴れた者を捕える時に我らに手を貸しました」 と。
武官からしてみれば協力者だろうが、それはどういう意味で手を貸したのか。 自分が逃げるために手を貸したのかどうか。

「武官に手を貸したそうだな」

禍つものは視えない。

「あんなところで暴れられたらどうにもなりませんから。 光石の原石を壊されたとなっちゃ、俺らは減俸でしょう」

「それだけが理由か」

腕を組むと大きな鼻孔から息を吐いた。 その態度に武官が男の背をこつく。

「武官を見て暴れるってこたぁ・・・やましいことがあるんでしょう。 オレはアイツと話をしたことがないから何とも言えませんが・・・目が気に食わなかったんで」

「目?」

「幼いころから・・・親父からずっと言われてきていました。 真っ直ぐに目を見ろって。 相手の目を見られなければお前に嘘があるって」

「お前が手を貸した者はお前の目を見なかったということか」

「他の者の・・・ああ、いや、俺ともう一人、そいつだけは見ませんでした。 他の者には目を合わせていましたけど」

「そのもう一人というのはどういう者だ」

「よくは知りません。 ですが・・・紛り物がないと思えるヤツです」

「ここら辺りの同郷ではないのか」

「いえ、オレはこの地の者ですがヤツはどこかから来たらしいです。 ですが一目見ただけで分かります。 目に嘘はないって」

「そうか。 その者の名を何というか」

「享沙(きょうさ)」

「お前は」

「え? オレですか?」

そうだ、とマツリが頷く。

「京也(きょうや)」

「京也か、お前には守るべき者がいるのか」

京也が首を傾げる。

「女房や子、親はどうしておる」

「子どころか嫁もまだ居ません。 こんな顔ですから。 親はとうにおっ死んでいます」

「独り身か」

「痛いことを仰る。 まぁ、間違いありませんが」

見たところ四十歳にはまだなっていないだろう。

「この光石の場から出ることは考えたことはなかったのか」

「これ以外なんの取柄もありませんので」

そう言って腕の筋肉を見せる。

「そうか。 我から連絡があれば宮に来い。 その気がなければ来ずともよい。 呼ばれたからと気にせずともよい」

「は?・・・」

そして享沙と呼ばれた者、この男も武官から協力者と口添えがあったと聞き、六都から流れてきた者であった。 六都からの者はそう簡単に信用できるものではなかったが、六都に生まれ六都で育ち、その考え方に嫌気がさして六都から単身出てきたと言う。

「親を見放してか」

「恥ずかしながら親と呼びたくもない親で御座います。 産んでくれ、養ってくれたことには感謝しておりますが。 あの様にはなりたくないと思っています」

「親に対して辛辣だな」

「盗んだ金で養ってもらっていたなどと・・・。 悲しくて。 その方たちにどう謝って良いものかも分かりません。 ただ、弟を置いてきたことだけは今にして後悔をしております」

弟のことを案じているのか。 それにしても言葉が丁寧だ。 あの六都でこの言葉をどこで学んだのだろうか。

「物言いが良いが六都で勉学に励んだのか」

「六都でそんなことは教えません。 六都を出てすぐにあちらこちらに転々としました。 そこで教えていただきました」

長く使ってきた言葉がそう簡単に変わるわけではない。 きっと頭にではなく身体に叩き込まれたのだろう。 その傷が身体中に残っているだろう。
“教えていただいた” 身に付けたとは言わない。 謙虚な言い方である。 それが曲がったものではないし、身体に叩き込まれたとはいえ素直に受け止めている。
六都での曲がった教育を捨てたかったのだろう。

「守るべき者はおるか」

「おりません」

即答だった。

「弟は」

「俺と同じに考えている弟であるならば、俺と同じように家を出たと思います」

既に一人立ちしているかもしれないということか。 弟も同じに考えたかどうかは分からない。 あの六都の親に育てられたのだから。 だが享沙を見ているときっと同じように考えただろう。

「享沙、我からの呼び出しがあれば宮に来るよう。 その気が無ければ来ずともよい」

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