大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第134回

2020年03月30日 21時21分16秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第130回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第134回



アマフウが何かをかかげ持つように両手を上げると、一気に下に降ろした。
ザバンと大量の海水がセイハと紫揺の頭に落ちた。 二人ともアマフウ以上にずぶ濡れだ。

「ちょっと! 私は関係ないでしょ! なんで私まで濡らすのよ!」

「言いたいことがあるなら前に出て来なさい!」

アマフウが海水を操れることは今分かった。 黒の瞳の力で水を操ることができるのは分かっていたが、海水を操ることも出来るのか、 真水だけではなかったのか。

それに引き換え自分は風しかない。 それもその風はさっきアマフウに簡単に切られてしまった。 負けるのは目に見えてる。 何を言われようとも前に出ず、紫揺の後ろで機を狙う。 それしかない。

だから黙り込む。

まるでセイハを指さすように向けられたアマフウの指先から、稲光が細い尾を引いて紫揺の横をかすめ、セイハの服を焼いた。 海水で濡れていたから大事にならなくて済んだが、これが濡れる前だったらと思うとゾッとする。 だがしかし、アマフウはセイハを呼び出すために脅す程度の細い稲光にしたのだろう。

セイハの口元が歪む。 そしてあくまでも紫揺の後ろで両腕を動かす。 アマフウに呼び出されてそれに応えたわけではなかった。 まるで濡れネズミのように濡らされたことが矜持を逆撫でされたからだ。
風が起き、砂を舞い上がらせる。 グルリと廻したセイハの腕の動きに従うように、竜巻となって砂が回転し始める。

――― いつもと違う。
力がみなぎっている気がする。 身体が軽い。

――― いつもと違う。
やれる。

セイハの白い歯が見えたその時、一歩紫揺の横に出て両腕を前に突き出した。

アマフウが片腕を動かす。 その腕からは縦に長く楕円状に広がる盾のような風が出た。 セイハの投げた砂が盾の風にぶち当たった。 これですべての砂を止められるはずだった。 が、セイハ渾身の力だったのか、アマフウが考えていたより砂の量が多かった。

盾になっていた風の両脇からねじれた風に乗った砂が勢いよくアマフウの顔に飛んだ。
セイハの顔に歪んだ笑みがはりついた。
一瞬にして手で顔を庇い横に向けたが、数粒が目に入ったようだ。 アマフウがその状態から動かない。

――― 今こそがその時。
セイハが紫揺の後ろから出て来て再度腕を動かし始めた。

「セイハさん! ちょっと待って下さい! アマフウさんはいま目が―――」

「うるさい!」

最後まで聞く必要などない。
セイハがもう一度風を作り竜巻を作った。 先程より大きい。

――― やれる。
自分自身の作った竜巻に陶酔しているのか、目の輝きが下卑ている。 口角が上がった。 視線をアマフウに投げるとその腕を一気にアマフウに向けた。

上向に広がる竜巻状態の砂が一辺に横穴をあけたように、方向を変え、アマフウの顔を目がけて飛ぶ。 ――― 筈だった。

竜巻の砂はアマフウの身体に到達する前に、烈火の炎の勢いに飛ばされてしまった。

炎は竜巻を飛ばした後、そのまま進めばアマフウを燃やしてしまうところだが、アマフウにあたる寸前で方向を変え、右下方向に飛んで行き、最終地点では砂浜に落ちていた枯れ枝を飛ばして砂浜にめり込んだ。
飛ばされた枯れ枝が火を噴き、周りの木の間に飛んで行った。

炎が発生した方向はセイハの横からだった。

「シユラ・・・!」

セイハの憎々気な怒気を込めた声と視線が紫揺を刺す。
片手を動かして、小さくはあるが風を作り、砂を含ませると紫揺に投げつけた。

「ヴワッ!」

女子にあるまじき声を上げて手で砂を避ける。 いや、今更か。 さっきからの声は女子にあるまじき声ばかりだった。

「なにをしてくれるのよ! シユラが手を出すとこじゃないでしょ!」

そう、あの烈火の炎は紫揺が出したものだった。 が、本人は、紫揺はその意識がホトホト薄い。 乏しい。

「え?」

紫揺にしてみれば、セイハの放った砂をアマフウに打たせたくなかった。 ただそれだけだった。 そうしたら烈火の炎がセイハの風を食い止めてくれた。 炎は砂を抑えたことは抑えたが、炎の一部がセイハの砂を抑えてから押されてアマフウに当たりかけた。 だから『避けて!』 と、そう願っただけだった。

その発生源がトウオウなのか、誰なのかは分からない。 それでもアマフウを助けてくれた誰かがいてくれる。
だからセイハから『なにをしてくれるのよ! シユラが手を出すとこじゃないでしょ!』 と言われてもすぐに意味など分からなかった。

でもこの状況で意味なんて、誰がどうこうなんて必要なかった。 やりたければ場を移してよ、とは言ったが、戦うことを推奨していたのではない。 そしてアマフウがあの状態なのに、そこに打つなどと、そんなことは許せるものじゃなかった。

「ふーん・・・自分がやったって分かってないのか。 んじゃ、さっきのも自分がやったって気付いてないか・・・スコブル天然だな。 ってか、天然過ぎるな。 アマフウより酷いかもしんないな」

それでもコントロールされている。

セイハが紫揺に言い捨てるとすぐさま足を左に一歩出し、アマフウに向き直った。 途端、目の前に閃光が走った。 天からではなく、アマフウの指先から放たれていた。 それはセイハと紫揺の間を走った。 セイハの右横を通り抜け、紫揺の左横をも通り抜け、一番近くにあった岩礁に当たった。 岩礁の頭部が砕かれた。
あの時、セイハが横に一歩足を出さなければ、今頃は岩礁と同じ運命をたどっていたかもしれない。

閃光を肩越しに見送ったセイハが口を歪め舌打ちをした。 そしてアマフウに向き合うとまた大きく腕を動かした。

アマフウは顔を上げセイハを直視している。 強膜が普通に白かったら、砂によって傷められ充血していたのが分かっただろうが、生憎と充血が見てとれない強膜をもつアマフウだ。

少し前までのセイハなら、こんなことは考えられなかった。 ずっと紫揺の後ろで身を屈めているつもりだったが、今の自分の力はみなぎっている。 アマフウに負けずとも劣らない。

それが感情の憤りの現れだということをセイハは分かっていない。 そこを自己制御するのが五色だということも。 セイハのそれに気付いているのはアマフウとトウオウだけだった。

二人の打ち合いが始まった。 紫揺が止めても、もう収まるようすがない。
二人に巻き込まれないようにその場を離れる。 そしてガザンは・・・。 左方向に目を転じようとした時、セイハとアマフウが放つ大きく鳴り響く音の隙間から“グエ” と、人ではない潰されたような獣の声がした。

「ガザン!」

辺りに目を走らせガザンを探す。 と、アマフウが発した稲光の光で砂浜の奥、木々が生い茂る手前に黒い影を見つけた。 その影がお座りをした格好で小刻みに揺れている。

ガザンだ。

だがいつものガザンのお座りをしたときの高さより随分と高い。
次にアマフウが発した光を頼りに目を凝らしてよく見る。 そしてはっきりと見えた。 紫揺の目に映ったのは、ガザンが獅子の上に座っている姿だった。

「獅子・・・」

獅子は岩壁の上から様子を見ていたが、叫ぶ声、飛び散る砂、発光、そんなものを見聞きしてしまっては興味を引いても仕方がない。 ゆっくりと岩壁を降りてきていた。 それにいち早く気付いたのがガザンだった。

セイハの打った風を見切って前に進んだ。 岩壁を降り切った獅子との距離はおおよそ百メートル。 ゆっくりと獅子が歩いて来る。 ウウウゥと、ガザンが低い唸り声をあげるが、誰もそれを聞くことはなかった。

ガザンがゆっくりと歩き出す。 距離は半分に縮まりガザンが止まった。 獅子がガザンを見据えるが声や音が気になる様子だ。 ガザンを気にしながらも、チラチラと先の様子を見ている。

更にガザンが唸った。 獅子の散っていた気がガザンに集中する。 獅子がガザンを睨み据えながら更に歩いてきた。 ゆっくりとした時が流れる。 歩を止めていたガザンが数歩前に出た。 獅子が止まる。 その距離おおよそ20メートル。 更なるガザンの唸りに獅子が後ずさった。

完全な打ち合いが始まった。 ガザンに睨み据えられていた獅子が驚き身を構えた。 雄の本能なのだろうか何なのだろうか、これが野生なら、リーダーとしての行動以外に労を費やすことなどまずない。 まずは先に保身を考えてその場を後にしただろうが、残念ながら何の刺激もなくダラダラと過ごしていては、身の危険など考えないのだろう。

興奮に我を忘れ、襲い掛かかろうと走り出した。 それを見事に仕留めた結果が、獅子の上にお座りをしているガザンの姿だった。

獅子のことなどすっかり頭から飛んでいた紫揺の腕が引っ張られた。

「え?」

振り向くとトウオウが居た。

「ここじゃ巻き込まれる。 こっちに来な」

「あ、でも二人ともこれ以上は」 

あたりには砂と閃光が舞っていた。 ここに何か物があれば滅茶苦茶になっていただろう。 飛び交う砂、アマフウの手から出る稲光。

「心配ない」

「でも・・・あ、それにさっきの小枝の火」

ちょっと冷静になれたのか、少し前のことを思い出した。
炎によって枯れ枝が飛び、木々に火が移った筈。 すぐに消しに行くことが出来なかった。 頭の中がショートしていた。

「オレが消した」

トウオウの左の瞳の薄い黄色の力、空中にある水分で消した。

「それに」

そこまで言うと、親指で海を示した。

「瀬戸際だろ?」

二つの明かりをつけたボートが岩礁の間を縫ってすぐそこまで来ていた。

「・・・あ」

「行くんだろ?」

「あ・・・でも」

セイハとアマフウに目を流す。

「心配ないって言ったろ。 アマフウのあれくらい全然本気じゃない。 徹底的にセイハを弄んでるだけだから。 終わりたくなったら、それこそセイハの身体を二つに切るか、脳天に稲妻を落とすだけだ」

有り得なくない。 ゾッとする。

バシャバシャと水を蹴る音がした。

「・・・あの、お取込み中スミマセンが」

どんなお取り込み中に見えたのだろうか。

「えっと、紫揺ちゃんって・・・」

こんなことになるとは思わず、春樹には自分一人しかこの場に居ないのだから、迷うことなく紫揺とは自分のことだと分かる、そう言い切ったが、どうしてか紫揺候補が四人もいる。 尋ねられもするだろう。

「ほら、行きな」

拾い持っていた紫揺の上着を前に出した。

アマフウからある程度のことは聞かされていた。 だがそれはあくまでも、アマフウの想像であったし、船で迎えに来るなどとは聞いていなかった。 ただ、紫揺は北の領土にはいかないだろう。 ここから何某かの手を使って出て行くだろう。 その時にセイハが行動に出るはず。 そう聞かされていた。

『で? アマフウはどうしたいの?』

『アノコのしたいようにさせればいいわ』

『いいの?』

『別にアノコがどうしようとアノコの勝手よ』

トウオウは 『アマフウはどうしたいの?』 と聞いた。 それに対してアマフウが答えたのは紫揺に対してのことだった。 トウオウは紫揺のことはどうしたいの? とは訊いていない。 言ってみれば 『その時にセイハを徹底的にやるわ』 と答えてもいい筈だった。 いや、それが一番のはずだったのに紫揺のことを答えた。
不器用だな。 と、声に出しては言わなかった。

トウオウに背中を押されて一歩前に出た紫揺がガザンを探す。

「ガザン・・・」

こんな別れ方をするつもりなど無かった。 もっと別れを惜しむことが出来ると思っていた。

「ガザン!!」

「ヒッ!!」

訳の分からないといった青年が、紫揺の大声に左腕と左足を上げた。

すると
ウォォォーン、と遠吠えが聞こえた。 寂しい遠吠えにも聞こえるが、それがサヨナラの言葉だと分かる。

「ほら、セイハが気付かない内に行きな」

更に紫揺の背を押すと見たこともない青年に目を向けた。

「コノコがシユラ。 よろしく頼む」

紫揺のことを知らなかった様子を見せていた青年に“様” はつけなかった。

(コイツは・・・なんだ・・・) 青年がトウオウの顎から目が離せない。

どうして顎なんだ。

トウオウは何処からどう見ても男だ。 イヤ、女性美を思わせる程の美青年だ。 イヤイヤ、それでも男だ。 なのに、なのに、この・・・。 一瞬に見たあまりのトウオウの美顔に視線が下がった。 でも食らいつきたかった。 だから顎を見た。

紫揺が感じた優しく何もかも包み込むようなトウオウの目と同じことを感じたのかどうかは分からないが、もしトウオウの目を凝視していたのならば、懐中電灯の中でオッドアイを見止めたことだろう。

(男だよな、うん、そう。 男。 ・・・いや、でも・・・)

青年が美しい曲線を描くトウオウの顎を見た時にアマフウの声が聞こえた。 決して大きな声ではなかったし、それを聞いたのはトウオウと紫揺だけだった。 トウオウと紫揺より近くに居るセイハさえ聞こえなかったし、この青年も聞くことはなかった。

「え? なに? せ? せちゅう?」

振り返った紫揺が遠くにいるアマフウを見ながら言う。

「雪中花」

一度目を閉じ口角を上げたトウオウが言う。

「せっちゅうか?」

トウオウを見た紫揺。 その紫揺の左頬に右手を当てる。 そして紫揺の頬に唇を重ねた。

「は!?」

トウオウの顎をただひたすらに見ていた青年。 何が何か分からないまま声を上げた。

「合格だね」

頬から離した唇が耳元でささやいた。

「ほら、今度こそ行きな」

紫揺の背中を再再度押すと踵を返した。

トウオウの後姿を追う紫揺。 同じように青年が見送っていたが、我に返った。 ボートに父親を待たせていたのだった。 あまりに岩礁の間が狭くなりここまでやって来られなかった。

「あの?」

「あ、はい。 私が紫揺です」

「君が? 本当に?」

さっきトウオウも言っていたが、想像と違い過ぎた。
『駅まで送っていって切符を買ってやって。 出来れば、乗る電車まで連れて行ってほしいくらい』 そう聞いていたから、てっきり幼稚園児かと思っていた。

「・・・はい」

どうしてそんな疑いの目を向けられなければならないのだろう。

「間違いなく?」

電車も一人で乗れない? とは訊かなかった。

「はい。 私が紫揺です」

再度同じことを言った。

「そっか、わかった。 それより、この状況で行っていいの?」

今もまだ賑やかしく砂が舞い上がり、閃光が走っているお祭砂浜を指さした。 なんのお祭だろうか。 派手だ。

「・・・はい。 よろしくお願いします」

最後の最後、トウオウの言葉かそれとも頬に重ねられた唇なのか、見えない手が紫揺の背中を押した。

「じゃ、足元に岩が多いから危ないよ」

そう言うと紫揺の手を取って歩き出した。

手を取られ一歩一歩を進む。 ニョゼ、セキ、ガザンの顔が浮かぶ。 そしてトウオウのあの優しい目を。

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虚空の辰刻(とき)  第133回

2020年03月27日 21時39分25秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第133回



アマフウの持つその目、普通なら白い筈の強膜は青く、気持ち悪がられていた。 誰からも後ろ指をさされ、ヒソヒソと聞こえよがしに嫌味を言われた。 日本本土に自分の居場所はなかった。
だが先代領主は学が必要と、五色達を日本本土と海外の学校に行かせていた。

学校になんて行きたくなかった。 それでもまだ幼かったアマフウには領主に立てつくなどという考えは無かった。 泣きながらではあったが、一人で乗り越えた。 いや、トウオウが添っていてはくれていたが、それに甘んじることはなかった。

紫揺は言ってみれば右も左も分からない迷子だ。 その紫揺を道具にすることが許せないし、何より自分の力のなさを認めず、ムロイからの軽蔑の目を送る先の代替えを作り、そして自分もその目を送る立場になろうなどと姑息なことが許せない。

他人を見下していないと立っていられないような人間。 まるであの時のコソコソと後ろ指を指して笑っていた奴らと同じだ。

最初は紫揺を単なる迷子とはしていなかった。 紫揺自身がどんな人間なのかを自分の目で確かめて、道具にされても仕方のないような人間だったら放っておこうと思っていたが、どうやら最初は暗いだけかと思っていたこの頑固者は、道具にされてもそれにも気づかず、黙々と日々を過ごしたり、ヘラヘラとしているような性格ではないようだった。
なら、この頑固者のしたいことをさせてあげようではないか。 だが手は貸さない。 でもセイハの横やりを阻むことはしようではないか。

北の領土の人間ではない紫揺が、セイハの浅慮に巻き込まれる必要などないのだから。

それに笑える。 セイハは紫揺の頑固さを知っているのだろうか。 こんな頑固な人間がそうそう簡単に騙されるはずなどないことを。

アマフウは紫揺が頑固だということを言っている。 これを当初のリツソが聞いたら両手を叩いて喜ぶだろう。 アマフウに手を叩いた後に『よくぞ言った』 と言うに違いない。
だが、そのリツソは今はシユラのことを己の奥だと思っている。 想像の中の範囲だが。 だから『よくぞ言った』 の後に、続く言葉があるだろう。 『だがシユラは我の奥だ。 言葉を慎め』 と言うだろう。

リツソのことはさて置き、アマフウの中で二つの考えが合致した。 だからここに居る。

「なにを偉そうに言ってんのよ!」

セイハの腕が上がった。

「おっと、巻き込まれるのはごめんだ」

そう言うとトウオウがアマフウから離れた。

アマフウが右手を前に出すと、人差し指だけを残して他の指を握りその手首を返した。 人差し指の先からセイハの足元に小さくはあったが、雷電のようなものが走った。 足元の砂がバンと弾け、セイハの腰辺りまで砂がはじけ飛ぶ。

アマフウの持つ青の強膜の力。

同じ青の力を持つセイハにはない力だ。

砂にまみれた腹のあたりに目をやったセイハの動きが一瞬止まったが、傷つける気はないようだと踏んだのか、動きを再開し、ガザンに浴びせたように風で砂をまき上げるとアマフウ目がけて砂を打った ――― 打ったはずだった。

セイハが起こした風より、強い強風が一瞬におき、撥ね退けられた。 アマフウはセイハのように動きに時間がかかるわけではない。 きっと腕の一振りで強風をおこしたのだろう。

アマフウの黒の瞳の力は水を操ることが出来る。 水というそこには海水も入るのだろうか? 海水も操ることが出来るのかどうか、セイハは知らないが、きっと海水は操れないと思っていた。
だからセイハの瞳の青と、アマフウの強膜の青の力の出しあい。 それに勝てばいいことだと思っているが、その青の力比べで自分が劣っていることは百も承知だ。 だが、だからと言って、引くわけにはいかない。
矜持を汚され、獲物まで手からこぼれようとしているのだから。

更にアマフウが腕を振る。 今度は風の刃(やいば)でセイハの服を切った。

「カマイタチ・・・?」

紫揺が北の領土でドヘドを吐いていた時に、アマフウが木を切ったことを思い出した。 その刃は弧を描いて曲がり、セイハの後ろに居る紫揺を傷つけるものではなかった。

と、そこでガザンが動いた。

「ガザン、巻き込まれる。 じっとして」

そう言ってガザンの体を押さえたが、ガザンの力にかなうはずもなく、ガザンがノソリと歩き出した。

「ガザン!」

セイハが切られた服の部分に手を置きアマフウを睨みつける。

「本気を出していいのよ、いくらでも。 ああ、それとも、さっきのあれが本気だったのかしら?」

「黙りなさいよ!」

一気に気が上がった。 大きな動きもなく腕を一振りする。 するとアマフウの比ではないが、まるで風が半月刀のような姿を見せてアマフウの身体を襲った。
その下を既に風を見切ったようなガザンが身を低くして駆け抜ける。

「ゆるい」

アマフウが風で風をまっ二つに切った。
半月刀は左右に分かれ片方がトウオウを襲った。 その風を火の勢いで消した。 オッドアイであるトウオウの右の赤色の瞳の力、火の力。

「ふん・・・、軽いな。 重さがない」

独り言ではない、間違いなくセイハに対して言っているのだ。

「な、なによ! アンタたち二人で人を馬鹿にしてるんじゃないわよ! それにっ!」

視線の先をガザンに向けた。

「犬ごときが!」

セイハの放った風を読んだガザンが許せない。
ガザンに向けて腕を動かした。

「やめて!」

セイハの元に走り寄り全身で突進する。
体当たりをした。 セイハの動きは大きい、間に合った。

「アタ―、他に方法があるだろうよ」

トウオウが額に手をやったのは言うまでもない。

倒れ込む二人を目にしながら、冷ややかな声が降ってきた。

「アナタ、邪魔をするんじゃないわよ」

セイハの上にのしかかっていた紫揺がアマフウを睨みつける。

「邪魔? 何が邪魔って言うの? 大事な、大切なガザンが傷つけられようとしたのよ! 止めて当然でしょう! アマフウさんもセイハさんも勝手にやってればいい! でもガザンを巻き込まないでよ!」

「アナタ・・・」

事の発端は自分だと気づいていないのだろうか。 まぁ、自分から足を入れたのではないのだから気付かないのかもしれないが、でも今までのことをどう考えても気付くのは普通じゃないのか?
大きく歎息を吐いたアマフウ。

「・・・本当の馬鹿ね」

「は!?」

さっきはヘタレって言ったし。 いや、認めるけど。 
セイハの身体の上から身を外した紫揺が怪訝な目をアマフウに向ける。

「馬鹿って言う方が本当の馬鹿なんだって知ってます!?」

立ち上がりセイハを後ろにすると、ずいっと一歩進んだ。
コイツは救いようがないと思ったのか、これこそ紫揺と思ったのか、アマフウが紫揺に投げかけた。

「もういいわ。 アナタは黙っていなさい」

「な! なにそれ!?」

「そこをどきなさいって言ってるの。 邪魔をするんじゃないって言ったわよね」

「邪魔なんかする気はないわよ! でも、アマフウさんとセイハさんでやり合いたいならここから出て行ってよ! 居なくなってよ! ガザンを傷つけないでよ!」

紫揺の後ろでセイハがほくそ笑んでいる。 このままこの二人のやり合いになればいいんだ。 どちらかが傷つけばそれに越したことはない。

紫揺が勝てばアマフウにザマアミロと言える。 それにもし、アマフウにスキが出来たら自分も打つことが出来る。 そうなれば紫揺に感謝されても当然だ。 そしてアマフウが勝てば紫揺が自分の力に劣等感を持つだろうから。 自分が出るまでもなく、紫揺を潰すことが出来る。 潰れた紫揺には甘い言葉をかけて服従させられる。

「犬のことなんて知らないわよ。 アナタの後ろで機を狙っているセイハが勝手にやったことでしょう。 それにどうしてアナタにここから去れと言われなければいけないわけ?」

アマフウの言いようにセイハがビクリと肩を震わせた。

紫揺は気付いただろうか、アマフウの語尾に疑問符が付いていることを。 呆れてはいるが、怒っていないということを。

「あなたたち二人で争いたいなら、どこか遠くでやってって言ってるの! ガザンも私も巻き込まないでって言ってるのよ!」

「退屈だな」

トウオウがポソリというと、右の瞳の赤の力で紫揺の足元に火を放った。

「どわっ!」

思わず紫揺が足を上げる。

「シユラ様どけよ」

「トウオウさん」

「アマフウの邪魔をするんじゃないよ」

「トウオウさんまで・・・。 ・・・もう! 三人でここから出て行ってよ! 私の邪魔をしないでよ!」

「あらら、あんまり怒るとどうなるか分かってるだろう?」

「そんなこと知らないわよ! なんでこんな瀬戸際になって邪魔をされなくちゃなんないのよ! ガザンを危険な目に遭わせなくちゃなんないのよ!」

「瀬戸際? エラク古臭い言葉を吐くんだね。 それにその瀬戸際ってナニ?」

何故か笑っている。

「・・・だっ!」

だ?

「だ? だ、で? でナニ?」

特に意味はない。 『だって』 でも『だから』 でもない。 ちなみに『脱走』 でもない。 単に口から出ただけだった。

それを分かっているのか、アマフウが呆れたように目先を夜空に上げた。 目先を上げた一瞬、紫揺の後ろに明かりが見えた。 それは下弦の月ではなかった。

「トウオウさんには関係ない! 放っておいてよ!」

紫揺の頭の上に小さな稲光が発光した。 それは紫揺の叫びを聞いた者の想像的なことではなく、確かに具現化していたものだった。
日が昇っていれば、紫揺の瞳の色が変化していたことを見ることが出来ただろう。 だが今はそれが何色なのかは誰にも分からない。

話題に乗っていた当のガザンは、セイハの風を避けた後、斜めに進んでピタリと止まったままだ。 今は紫揺から離れた斜め左手に居て一点だけを見ている。

「どうする?」

アマフウに問いかける。
問いかけたトウオウの目を見ることなく応える。

「一興だわね」

それは先程紫揺が起こした発光を見てのことであった。
アマフウの応えに鼻白みながら視線を紫揺に転じた。

「んじゃ、好きなようにすれば? シユラ様がオレたちをここから出したいんだったら、力ずくで追い出せば? あ、言っとくけどセイハとアマフウだけね。 オレは関係ないから」

アマフウがチラリとトウオウを見て、すぐにシユラに目線を戻す。

「そうね。 私を追い出したければ力づくでやってみるのね。 ついでにアナタの後ろに身を潜めているセイハにもね」

「なっ! 何を言ってるのよ! アマフウ、アンタが最初に力を使ったんでしょ!」

紫揺を盾にセイハが叫ぶ。

「セイハさん・・・」

歎息交じりに振り向く。

「シユラ! 今がチャンスよ、あなたをコケにしたアマフウをやってしまいなさい!」

「・・・セイハさん」

もうやめてください、そう言いかけた時にアマフウの操る稲光が光り、セイハと紫揺の間に入り込んできた。 前後に居る二人の間に見事なカーブを描いて。
アマフウの青い強膜は風のみならず閃光や雷をも操る。 同じ青の瞳の色を持つセイハには出せない力だった。

「キャ!」 「わっ!」 セイハと紫揺が飛んで更に前後に別れた。 二人がアマフウを睨んだ。 その目にしっかりと応える。

「アナタ、やりたければやりなさいよ。 それにセイハ、まだ続けるつもり」

姑息なことをということだ。 そして疑問符が付いていない。

「いい加減にしてください! セイハさんはもう何もしてないじゃないですか!」

セイハを庇うつもりはないが、この流れではそうなってしまうだろう。 と、芸のない紫揺が考えた。 いや、考える前に口から出た。

「アナタにやる気がないのなら、それはそれでいいわ。 でもセイハは別よ。 セイハ、前に出てきなさいよ」

「だから! セイハさんはもう、何もしてないって言ってるじゃないですかっ!」

ピキンと空気が割れた。

「へぇー、そんなことも出来んだ」

他人事のようにトウオウが呟いた。
まさにアマフウが言った一興である。

「アナタ、いい加減になさい。 そこをどきなさい」

「アマフウさんに命令される覚えはない!」

紫揺は手を動かしてなどいない。 それなのにアマフウの頬の横に垂れていた髪に細くはあるが鋭い炎が飛んだ。 髪の毛は一瞬にして縮れて気分の悪くなる臭いが鼻を突いた。

今日のアマフウのコスチュームは膝上のセーラーワンピースに、髪型は左右の髪の毛をほんの一つまみ垂らし、残りの髪の毛は頭頂部を中心に左右に括っていた。 その垂らしていた髪の毛を焼かれた。

焦げて短くなった髪の毛に手をやり、眼球だけを動かしその毛を一瞥すると、まるでスローモーションのようにその視線を紫揺に戻した。

「そう。 アナタがその気なら、やってやろうじゃないの」

髪を触っていた手を一振りすると、紫揺が小脇にかかえていたジャージの上着を風の力で弾きとばした。 上着は波打ち際まで飛んだ。

「なにするのよ!」

あの上着のポケットには大切な現金が入っている、などと考えてはいない。 頭に血が上った紫揺は単に自分の持っていた上着を弾き飛ばされたことに憤慨しただけだ。
弾き飛ばされた上着からアマフウに目を転じる。 途端アマフウに頭上から海水が落ちた。

「キャ!」

頭から濡れたアマフウを見て三日月のような目をしたセイハ。

「ザマアないわね」

紫揺との間に僅かだが距離の出来たセイハが紫揺の真後ろに移動し、いかにも嬉しそうにこぼす。


懐中電灯とランタンの灯りをつけたゴムボートが暗闇に沈んでいる岩礁をゆっくりと避けながら近寄ってくる。

遠くに揺れる灯りに気付いているのはアマフウと、一歩遅れてトウオウも気付いていた。 海を背にしているセイハと紫揺は気付いていない。


「へぇ・・・水も操れるようになったんだ。 それも海水をねぇ」

感心したようにトウオウが腕を組みながらこぼしたが、紫揺にしてみれば先程からのことは全て初めてのことだった。

トウオウの左の瞳の薄い黄色の力は、沢や空中にある水分を操ることはできるが、塩分を含んでいる海水を操ることは出来なかった。

「よくもやってくれたわね!」

「何言ってんのよ! そっちが先にやったんでしょ!」

低レベルな言い合いを聞きながら組んでいた片腕を解くと顎に当てた。

「狙ってやったか。 まさに感情一つで力を出せるのか。 ・・・それにしてもあの時とエライ違いだな。 ちょっとは出来るようになったのか、それともまだあの時ほど感情が高ぶってないだけなのか。 どっちだ? ・・・って、気づいてないってことはないよな? 何かが偶然におきたって考えてないよな?」

紫揺には一番有り得ることだ。

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虚空の辰刻(とき)  第132回

2020年03月23日 22時16分58秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第130回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第132回



アマフウとトウオウが回廊から庭を見渡すと、既に紫揺の姿はなかった。 ただ一人、今にも門を開けようとしているセイハの姿があるだけだ。

「どういうこと?」

「さぁてな。 まぁ、シユラ様があの門を出て行ったってことだろうな」

他人事のように言うと、ポケットに手を入れて壁にもたれた。 

「出て行ったって、あの先には獅子がいるのよ!」

トウオウを正面に見て、いかにも分かっているの!? と、今にもくってかかりそうな勢いだ。

「心配だったら助けてあげれば? アマフウの力だったら獅子くらい簡単だろ。 あらら、セイハも出て行った。 セイハの力で獅子は無理だろうな」

トウオウの言葉にアマフウが振り返る。 セイハが門を閉めて歩き出したところだ。

「まさか、セイハが何か仕掛けたんじゃないでしょうね」

「頭脳戦? それはないだろ。 セイハの頭で策略なんて組めないよ。 セイハが出来るのなんて知れてるさ。 仕掛けるなら力を使うだけだろ」

「じゃ、どうしてアノコが獅子の居る所に行くの? その後をどうしてセイハが追ってるっていうの?」

「っとにもう・・・」

だから女は・・・と言いかけて口を閉じ、背中で壁を押すと勢いよく歩き出した。

「行くぞ」

訳を知りたければその目で確かめろということだ。 それに、アマフウの予定にはなかった獅子が出てきたということだけで、アマフウが考えていたことを実行に移すいいチャンスを逃す手はないだろう。

それに・・・。


「あぇ?」

トウオウ付きの若い男が素っ頓狂な声を出した。

「まだ寝とらんのか」

部屋の中は薄暗かったが、年齢的にトイレの近い爺が二度目にトイレに立った時に男の声が耳に入ったのだった。
この部屋はトウオウ付きの二人が使用している男の付き人の部屋である。

若い男は窓際に椅子を置いて片手にグラスを持っている。 そのグラスからプンと、スコッチの香りがする。 若いトウオウ付きの男がこの屋敷に来て覚えた味で、気に入っているようだった。 時折こうして月を眺めながら飲んでいるのを爺は何度か目撃している。

「あ・・・あの、トウオウ様がアマフウ様と」

庭を指さす。
眉を上げた爺が難しい顔をして窓に近寄ると外を見た。

「お二人だけ?」

「いえ、その前にセイハ様、その前にシユラ様があの先の門から出て行かれました」

「シユラ様があの門から?」

「はい。 トウオウ様を追って行きましょうか?」

「・・・いや、いい」

それと同時に、何時だと思いか、とトウオウに毒づきたかったが、トウオウの行いに心当たりがないでもない。

「私たちではあの門はくぐれないからな」

「あ・・・」

すっかり失念していた。 あの門の先には獅子がいるのだった。

「では、どう致しましょう」

「ふむ・・・」

左手で右ひじを持ち、その右手の指で顎をさする。

「トウオウ様のご憂患(ゆうかん)が拭われるかもしれんということか・・・」

「は?」

「深酒をするんじゃないぞ。 明日は一波乱あるかもしれん」

そう言い残すとトイレに向かった。

爺、曰くのトウオウの憂患。
トウオウが初めて紫揺を見たのは、アマフウの袂を燃やした時だった。 セキを守ろうとして。
その日のことを思い出しながら、フゥーと長い息を吐いた。

「あの方の思うように事が運べば良いのだがなぁ」


『なぁ、爺』

『何でございましょうか?』

『今日来たシユラ様』

『シユラ様?』

『ほら、ムラサキ様。 自分はムラサキではない、シユラだって言い切るからシユラ様』

『そういうことで。 で? そのシユラ様がどうされました?』

『頑固』

『ほー、そうでございますか』

『で、正義の味方』

『はい?』

『あんなのを領土に連れて行ったら、絶対に潰れるよ』

『さようで』

『領土の人間でもないのに、どうしてムロイは潰そうとするのかねぇ』

『それは勘違いでございましょう』

『なんで?』

『領主はムラサ・・・いえ、シユラ様に領土を守って頂こうとお考えなのですから』

『守る前に潰れるよ。 一目でわかるのにねぇ』

『ではトウオウ様はどうされたいのですか?』

そう問うた時のトウオウの顔を思い出す。

「あの方は本当にお心優しいお方だ。 お口さえどうにかなれば言うことが無いのに・・・」

ドンドンドン! と、トイレの戸が叩かれた。

「どうされました?! 大丈夫ですか?!」

いくら経ってもトイレから出てこない爺。 倒れてでもいるのかと思い、若い男がドアを連打していた。

「・・・あ」

便座に座り込んでいた。



――― 爺に顔を傾けてにっこりと笑ったトウオウが一言いった。

『リリース』



門の先の平な地を歩き、懐中電灯を点けると木々の中を潜った。 数メートルの高さの岩壁が見えたあたりでガザンが足を止めた。
ヴフゥ・・・。 軽く声を出した。 唸るほどではない。 注意を促されているのだろうか。

「獅子がいるの?」

それにしては前を見据えていない。 どちらかというと下を向いて何かに集中しているようだ。
それは長くは続かなかった。 すぐにガザンが顔を上げるとまたノッシノッシと歩き出した。

ガザンは過ぎ去った門を開ける音と臭いに集中していたのだが、紫揺は自分の後ろをセイハが追っているなどと知りもしないのだから、獅子以外に考えられなかった。
ガザンにしてみれば “あの時の臭いの人間か。 あの時見過ごしてやったのに、どうしてついてきたのか” と言いたげだ。 セイハが木にもたれて舟をこいでいる時、追い返そうかと思ったが、寝ているのなら見過ごしてやろうと思ったのに。
ブフッ。 気分が悪いと言ったように、大きく唇を揺らせて息を吐き歩き出した。

岩壁の隙間を抜けると、穏やかな波の音が聞こえる。 きっとずっと聞こえていたのだろうが、紫揺は紫揺なりに獅子の足音や吐く息を捕えようと、そちらにばかりに集中していて気付かなかった。
波打ち際まで歩いたが暗い海にそれらしい船が見えない。

「まだかなぁ・・・」

春樹が言っていたことを思い出した。 『ちょっと待つくらい』 と言っていた。

「あんまりここに長居したくないのになぁ」 後ろを振り返る。

ガザンは波打ち際までついて来ないで、少し離れた所で紫揺に背を向け辺りを警戒している。 とうに紫揺の手からはリードがはなれている。 ガザンにリードは不必要ということは前々から分かっていた。
ガザンの元に戻ろうと一歩出した時、ガザンの低く唸る声が聞こえた。

「ガザン!?」

走ってガザンの元に行く。 ガザンの身体を両手で抱え込んだ。

「お願い、獅子がかかってきたら逃げてね! ここまで連れてきてくれただけで十分なんだから」

紫揺の声が耳に入っているのかどうかは分からない。 それ程、目の先に集中して唸りを上げている。 下見に来た時にはこれ程のことはなかった。 今日の獅子は機嫌が悪いのかそれとも

「今日エサを貰わなかった?」

もしそうなら最悪だと、ガザンから手を離した。 すぐにガザンが動けるように。 そして自分は一気に海に飛び込むつもりだ。 獅子が海で泳げるかどうかは知らないが、泳げたとしてもまさかレトリバー並みには泳げないだろう。 そう願うしかない。 逃げ道はそこしかないのだから。

ポキっと落ちていた枝を踏む音が聞こえた。
ゴクリと息を飲む。
すると唸りではない、声が聞こえた

「こんなところで何をしてるわけ?」

かなり傾いている下弦の月の僅かな明かりの下に出てきたのは獅子ではなくセイハだった。
より一層、ガザンの唸りが大きくなる。

「セイハさん・・・」

「うるさいわね。 シユラ、その犬、黙らせてくれる」

セイハが一歩近づくとガザンも一歩前に出た。

「ガザン待って」

放していたリードを掴む。

「セイハさんこそどうしてここに居るんですか」

「門を出て行くシユラが見えたのよ。 ほら、ここに獅子がいるって知らない? 心配で追ってきてあげたんじゃない」

ガザンを恐れる様子もなく歩み寄ってくる。

セイハの態度や声音はコロコロと変わる。 さも心配そうにしていたかと思うと、目の奥に何かを潜ませた輝きを見せたり、猫なで声になったり。 セイハが何をしたくて何を言いたいかは全く分からないが、踊らされる気はない。

「ガザンがいるから大丈夫です」

「ガザン? その犬? 犬が獅子に勝てるとでも言うの? お笑いだわ」

ガザンに対して失礼な言動、態度、許せるものではない。

「ガザンに失礼なことを言わないでください。 ガザンは獅子に負けません。 とにかく今はガザンと居たいだけです。 帰って下さい」

「あら、私がどこに居ようと私の自由だわ」

今のあなたを見ていると気分が悪くなるんです、などとは言えないし、そろそろ船が来るかもしれない。 とにかくここから去ってほしい。

「私が先にここに来たんですから、後に来た人が遠慮をして下さい」

言いながらもなんと幼稚な言い草をしているんだ、まるで幼稚園児がジャングルジムの取り合いをしているようだと情けなくなる。

「ふーん、結構強気に言うじゃない。 シユラにしては珍しいわね」

そう言うとわざと一呼吸おいて、まるで嘲るように続けた。

「それって、今夜中に出るから?」

それは 『今夜中に出られるんですね』 と言っていた紫揺の言葉を真似たものだった。

「え・・・」

「・・・ここから」

紫揺はここからとは言っていないが、さっきの反応を見れば明らかだ。
返ってくる言葉がない。 完全に正解のようだ。 相変わらず聞こえてくるのはガザンの唸り声だけだ。

「誰かが迎えに来るってわけ? 裏で春樹が糸を引いてるのかしら」

「どうして・・・」

「どうして知ってるか? だって、私は何でも知ってるんだもの」

岩壁の上から二つの眼光が光っている。 もちろんガザンはそれに気付いている。
セイハの腕が動いた。

「なにを・・・?」

ゆっくりと動かしていた腕をサッとガザンに向けた。 青い瞳の力で風をおこし、砂をガザンに打つつもりだった。
そう、波打ち際の重い砂がガザンの身体を打つ・・・予定だった。
だが、波打ち際に近い砂は十分に海水を含んでいる。 それを持ち上げられるほどの力のある風などおこせなかった。 ポトっと数粒がガザンの鼻先に落ちた。 何の悪気もなくベロンと大きな舌を出してそれを舐めた。

ガザンに悪気が無かったと言っても、セイハにしてみれば明らかな嘲弄の態度にしか見えない。 セイハが怒りをあらわす。
自分が出来なかったことにショックもあった、ガザンのその動作に馬鹿にされたような気がした。

「人を馬鹿にしてっ!」

今度は自分の足元にある乾いた砂に風を起こそうと、大きく腕を動かした。 確かに間違いなく、細かな砂をまき起こし、それをガザンの顔面に叩きつけた。

「ギャン!」

細かな砂が目に入ったのか、今までに聞いたことの無い声を上げた。

「ガザン!」

慌てて顔の砂をはたいてやるが、目が開けられないようだ。

「なんてことするんですか!」

立ち上がりセイハに対峙した。

「さっき、黙らせてって頼んだわよね。 それを聞かなかったのはシユラの方じゃない。 だから私が黙らせただけの事」

これ以上、紫揺を刺激したくはない。 結果だけではあるが、部屋を破壊した一件を見ているのだから。 あんな力をここで出されては逃げるに逃げられない。 トウオウのようにもなりたくない。 それに、そんなことが目的ではない。
止めていた足を動かしゆっくりと紫揺に向かって歩きだした。

「ねぇ、それより出て行くなんて考えない方がいいわよ。 ほらシユラには恐い力があるじゃない? まだそれも上手く使えないんだから、ここから出て何かあったらどうする気?」

猫なで声の中に嫌味を含んでいる。

「コワイ・・・」

「そう、あんな破壊の力を迂闊に出しちゃったらどうするの?」

ニョゼにも力の使い方を覚えるのがいいと言われていた。 ・・・でも何よりもここから出たい。 このチャンスを逃したくない。 それに後には引けないのだから、陽が昇れば北の領土に連れて行かれてしまう。

「・・・簡単に出さない」

「あら? そんなに簡単に力を抑えてられるの? トウオウをあんな目に遭わせておいて?」

「それは・・・」

「ね、私が教えてあげるか―――」

言い終わらない内に声が被って聞こえた。

「何を教えてあげるのかしらねぇ」

セイハが振り返り、紫揺が下げていた顔を上げた。
ガザンがやっと涙で砂を洗い流した顔を上げる。 だがその視線はセイハと紫揺が向けている所と違う場所を見ている。

「イヤだなぁアマフウ。 そんなイジワルな言い方をしたらセイハがかわいそうだよ」

白々しい声がしたと思ったら、アマフウの後ろからトウオウが出てきて続けた。

「シユラ様を潰すやり方を教えてやるって分かってるのに、それを訊いたらセイハに悪いだろう?」

「なっ! 何を!」

遠くから波をけ破るような音が聞こえるが、今ここに居る誰にも聞こえてはいない。 いや、ガザンだけは気付いているだろうか。 だが相変わらずガザンはあらぬ方向を睨みつけている。 まだ少し砂が残っているのか、何度も瞬きを繰り返しながら。

「シユラ様を潰して自分の下につける。 浅ましいにも程がある」

先程までのふざけた声音と違い刺すようにセイハにぶつけてくる。

「って、アマフウが言ってたぜ」

またふざけたように言うと、アマフウがチラリとトウオウを見た。

「何を勝手なことを言ってるのよ!」

「セイハ、アナタには何度も言ったでしょ。 アナタの考えてることなんて分かってるって。 アノコがここに来るって分かった時からアノコを潰すつもりだったんでしょ? まぁ、実際は潰すまでもなくヘタレだったから、今まで潰す必要もしなかったんでしょうけど」

「ヘタレ・・・」

自分のことだと分かっているが、それも本当だとも思うが、もう少し言い方を考えて欲しい。

「自分の力を無くしてきている自覚があるからそう考えるんでしょう? 力のないことを認めれば? コソコソと、自分より力のある者を潰しておいて、育ててあげたのよって恩を売りながら、軽蔑の目をアノコに向けさそうなんて見苦しいったらないわ」

軽蔑の目。
セイハの脳裏にムロイからの軽蔑の目が浮かぶ。 あの目を向けられるのが心底イヤだった。 それをこんな時に思い出させるなんて。

「アマフウは性格上、そんなのが大嫌いなんだよ。 な、アマフウ」

何故か割って入ってきたトウオウがアマフウに目を向けるが、アマフウは頷きもしなければ、その視線をセイハから離してはいない。

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虚空の辰刻(とき)  第131回

2020年03月20日 21時41分15秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第131回



「じゃ、送ってくよ」

スマホを切った春樹から船が出たことを聞かされた。 暫く待ち、もう浜辺で待っていてもそう待たなくてすむはずであろうから、そろそろ部屋を出ようということである。

「ちゃんとお金と・・・その、メモを持ったよね?」

単にメモではなく、俺の携帯番号を書いたメモと言いたいが、それはちょっと浅ましいか。 強調して言って、よからぬ疑惑を持たれても困る。 よからぬ疑惑が無いわけではなくしっかりとあるのだが、そんなことを声を大にして言ってどうする。 あくまでも自然に。 最初は先輩と慕ってもらえるように。 そしてステップアップ。

「はい、ちゃんとポケットに入れました」

この日の紫揺の姿は長Tに下は相変わらずのジャージ姿であった。 紫揺の示したポケットは、片手に持っている上着のジャージのポケットだ。 ここのところ気温が上がっていた。 上は日中Tシャツ一枚か、薄手の長Tで過ごす気温だが、夜にもなれば気温が下がる。 上着が欲しくなる。 なので夜ここに来るに上着のジャージを片手に持っていた。

「ポケットって・・・落とさない?」

「ファスナーが付いているから大丈夫です」

しっかりとファスナーが閉められている。
ここからの脱出しか考えていなかった紫揺にとって、現金は有難かった。 全く後先を考えていなかったのだから。 春樹は“貸す” とは言っていなかったが、必ず返すつもりだ。 そのお借りした大事なお金だ、そうそう落としてなるものか。

「そっか、じゃ、行こう」

立ち上がった春樹の言葉を軽くお断りしたつもりの紫揺。

「あ、大丈夫です。 それにガザンについて来てもらいますから」

紫揺も立ち上がると深く頭を下げた。
紫揺にしては軽くお断りしたつもりだが、春樹にしては一刀両断されたようなものだ。

「本当にありがとうございました。 それと最後にこれをお願いしたいんですけど」

掌を差し出した。
簡単に切っておいて、その上何を言うのか。

差し出された掌の中には折り紙のように折りたたまれた花の形をしたものが二つ、風車の形をしたものが三つ。 それぞれに番号が書かれている。

ルーズリーフであるが故、硬く、二枚三枚一緒に折れなかったのだろう。 番号はルーズリーフに託した手紙を読む順番をつけているだろうということが容易に分かる。 そして花の形をしたものには①と書いてある横に“セキちゃんへ” と、風車の形をしたものの①と書いた横には“ニョゼさんへ” と書かれてある。

春樹にしては “セキ” も“ニョゼ” も、そんな人間など知らない。 それらを受け取ると小首を傾げた。

「セキちゃんはガザンの飼い主なんですけど、先輩はガザンの近くに行かないからガザンと一緒に居るセキちゃんを見たことないと思います。 でも洗濯物をしている女の子を知っていますか?」

言葉の意味は分かるし前半の言いたいことも分かる。 でも後半の文章の意味が分からない。 ここではこの建物の中にランドリーがある。 洗濯はそこでしているのだが、洗濯をしているような女の子など見かけたことがない。 洗濯物をしている女の子? 紫揺の言いようではまるで一日中洗濯をしているような言い方だ。

春樹はセイハの言うところの使用人の存在を知らないわけではなかった。 使用人と呼ばれていることは知らなかったが、それでも一階の食堂に行けばご飯が用意されている、それは寮母がしてくれていると思っているし、時折木々の枝を切っている人も見かけるが、それは管理人のような人だと思っていた。

難しい顔をして首を振る。

「あ、じゃあ、これを、この両方をこの建物の中にいる誰かに渡してください。 あくまでも、先輩と同じ仕事をしている人以外ですけど。 そしたら、セキちゃんに渡るはずです」

「ニョゼって人は?」

「セキちゃんがニョゼさんに渡してくれるはずです」

ああ、というと得心したように頷いた。

「それにしてもセキちゃんってことは、紫揺ちゃんと同じくらいか年下だろ? えらく古風な名前だね」

“さん” と“ちゃん” の区別をしている。 セキの“ちゃん” 付けということは春樹の言うようになるだろう。
ニョゼという名も珍しいと思うし、どちらもカタカナ的だというのも不思議だ。 思いながらも受け取った手紙をテーブルの上に置く。

確かに紫揺も最初はそう思ったから、言いたいことが分からなくもないが、北の領土の存在を知った今は此処とは名前の感覚が違うんだということを知った。
ニコリと微笑んで誤魔化す。

「あ・・・」

「はい?」

「思い出した。 セキちゃんって、小さな女の子だよね?」

初めてガザンに吠えられた日の事が蘇ってきた。 吠えるガザンを小さな女の子が慌てて宥めに行った日のことを。

「はい」

「OKまかして。 アノコに渡せばいいんだよね」

「はい、お願いします」

誰かに渡してもらえればそれでセキに渡るとは分かっているが、それでも何か間違いがあったらと思うと、春樹が直接渡してくれるに越したことはない。

「じゃ、せめて下までは送るよ」

一刀両断はされてしまったが、ガザンがお供をするなら吠えられても困る。 完全に敵対視されているようなのだから、噛まれるかも・・・って? 待てよ、なんでガザン? 

「いや、待って、なんでガザンなの? ってか、俺が一緒に居ないとアイツが来ても紫揺ちゃんが当人だなんて分からないじゃない?」

「こんな時間に他に人は居ませんから、私以外の誰かと迷うことはないですよ」

それはそうだけど、と言いかけたが、そんなことを言ってせっかくの場をガザンに掻っ攫らわれてはたまったものじゃない。 それじゃあ、トンビに油揚げだ。
百面相でもしているような春樹の顔を見ながら続けて言う。

「あの門の向こうにはライオンが居るのをご存知ですか?」

「え!?」

「ご存知じゃなかったんですか?」

「いや、それは聞いてたけど」

最初ここに来た時にキノラから聞いていた。 まだ見たことはないが。

「いやいや、待って。 ライオンの話が出てくるのはおかしい。 そんな話の持って行きようはおかしいよ。 ライオンがどこか・・・その、夜になると檻とかに入ってるから、行くんじゃないの? 紫揺ちゃんが行けるんだから俺だって行けるはずだろ?」

キノラからは、門の向こうでライオンが自由にしていると聞いていたが、紫揺から聞いていたこの時になっては自由にはしていないだろうと思っていた。 檻などと具体的に考えていたわけではないが、漠然とそう思っていた。

「檻になんて入っていません。 その辺を歩いています。 だからガザンについて来てもらうんです」

「は? はあああぁぁー!?」

「あのライオン、ガザンに弱いんです」

軽く言ってのけたが、獅子に対峙したときのガザンの神経がどれだけ尖っているのか知っている。 でも今ここでそれは言えない。

「いや! 待って! それはあまりにも危険すぎる! いくらガザンがふてぶてしいからって・・・あ、じゃなくて、貫禄があるからってライオンと犬だよ?! ああ、ダメダメ。 ね、ちょっと作戦を練りなおそうよ。 杢木(もくぎ)に連絡を入れ直すから」

「大丈夫です。 じゃ、手紙よろしくお願いします」

もう一度深くお辞儀をして靴を履いて部屋を出て行ってしまった。 あまりの話の内容に追うことも出来ない。

「えー・・・ウソだろぉぉ・・・」

閉められたドアを見るくらいしか出来なかった。


部屋を出て建物を出た紫揺が、いつもここに来る時に持っていた懐中電灯を照らすとガザンの元に走る。
紫揺がここから出てくれば、足音や声で気が付くと思っていたセイハは睡眠の誘惑に負けて軽い寝息を立てていた。

「ガザン?」

寝ているだろうかと思いながらも声を掛け、そろりと懐中電灯をガザンの小屋に向ける。 すると小屋に入ることなく、どっしりと座っているガザンが浮き上がった。 闇夜に慣れた目に灯りを向けられて迷惑な顔をしている。

「あ、ゴメン。 眩しいよね」

懐中電灯を下に向けると自分の足元を照らした。 更に数歩あるいてガザンの横に座り込む。

「ガザン、今日なの。 お願いできる?」

ガザンが横目で紫揺を見た。 ここで懐中電灯でガザンの顔を照らせば分かったのだろうが、残念ながらそんなことをすれば、ガザンがこの上なく迷惑がるだろう。 ガザンの白目が赤く充血していたのを紫揺が見ることはなかった。 ガザンはずっと春樹の部屋の窓を睨みつけていたのだ。

紫揺の問いに無言でスックと立ちあがったガザンが歩き出す。 紫揺が慌てて木からリードを外し手に持った。
何も言わずともガザンは分かってくれている。 気のせいなんかじゃない。 それをヒシヒシと感じた。

セキはガザンのことがよく分かっている。 自分はガザンが何を考えているかなんてセキに比べると爪の垢ほども分かっていない。 それなのにガザンは自分が何を考えているかを分かってくれている。

「ガザン・・・」

ガザンの名を呼ぶことしか出来ない。 深く感謝を込めて。

ノッシノッシと歩くガザンの後ろを懐中電灯で足元を照らしている紫揺が歩く。 庭に出ればうす暗く充分ではないが、ガーデンラライトが足元を誘導してくれる。 それまでは月明かりがあると言っても懐中電灯に頼らなければならない。

春樹たちの居る建物を後にしたとき急にガザンの足が止まった。 ずっと先を見ている。 ヴゥゥ、と小さく唸ったが、それ以上何をするわけでもなさそうだ。

(もしかして先輩が降りてきて隠れてるのかなぁ。 それにしてもそれじゃあ、この程度では終わらない筈)

きっと吠えたくるだろう。

「なに? どうしたの?」

小声でガザンに話しかける。
ブフッ、っと最後の一声を出すと、またゆっくりと歩き出した。

(もしかして、私の今の事情を分かってくれてる? 今ここで吠えたら、人が出て来て脱出が出来なくなるって)

まさかとは思うが、声を掛けずにはいられない。

「ありがとう、ガザン」

ガザンの後ろを歩いていたのを横に移る。 もうガザンに会えないかもしれないのだから、ちょっとでもガザンの近くに居たい。 目の前にほのかな明るさが漏れてきた。 あとすこしで庭に入る。
ふと気づいた。 今まで緊張していたのだろうか、急に肌寒さを覚えた。 持っていたジャージを羽織ろうとしたが、袖を通すことが叶わなくなった。


息を切らせた紫揺が門に手を伸ばした。 前回のようにガザンがノッシノッシと歩かなかったからだ。 ガザンにしてみればゆっくり走ったのだろうが、二足の紫揺にすれば全速力に近かった。 ジャージを羽織っていれば汗だくになっていただろう。
手を伸ばした紫揺の前にガザンが回りこんできて、紫揺の身体を押してきた。

「え? なに?」

門から身体が離れる。 するとガザンが後ろ足で立ち上がり、太い前足で器用に錠を開けた。 何度か失敗していたが。
錠を開けるとこれまた太い手を使って門を開けようとしたが、さすがに手前に引くという動作は簡単に出来ないようだ。 これが軽い戸ならできたかもしれないが門は重すぎる。

「うっそ・・・」

呆気にとられる。
前回来た時にガザンが紫揺のこの様子をじっと見ていた。 たったの一回でその様子を記憶し、やってのけたわけだった。
我に戻ったシユラが両手で門を開けると、先に門を出たガザンが来ないのか? といった目を送ってくる。

「あ、あ、うん」

紫揺が慌てて門を出ると、これまたガザンが門こそ閉められなかったが、太い前足を門の隙間に入れると錠を閉めた。 どこか嬉しそうに。

帰る時にはガザン一人で帰らなくてはならない。 この門の錠もそうだが、門自体の開け閉めもガザンがしなければいけない。 それを危惧してセキ宛の手紙には “すぐにガザンを門の中に入れてあげて” と書いていたが、その心配は杞憂に終わったようだった。 今度ガザンが一人で帰って来る時には、門の開け閉めは押すことになるからだ。

一般的に動物は引くということは出来ないが、押すということは出来る。 動物園で柵などがある時には万が一にも動物が外に出ないように、引かなければ柵が開かないようになっていることが多いはずだ。 それを思うとここはどうだろう・・・。

「ガザン・・・ガザンって犬の着ぐるみを着た・・・プロレスラー?」

さすがに二度目であるから呆気にとられることはなかったし、ガザンの背中を何度も撫でたことがあるから、ファスナーなどないことは知っている。
それにしてもどうしてプロレスラーなのか。

紫揺の言葉など意に介さずといった風に、ガザンが辺りに気を配る。 門と錠の遊びは終わった。 もう獅子との戦いに入っている。 紫揺を守るために。


回廊を歩くアマフウとトウオウの姿を回廊のライトがほんのりと照らしている。
そのほんの少し前の出来事だった。


「おっ、来たね」

頬杖をついていたトウオウの頬がその手から離れた。
丁度、紅茶のおかわりを盆に載せ、テーブルに向かってくるアマフウの口角がトウオウの声に応えた。

「どっち?」

「シユラ様が全速力で走ってる。 へぇー、結構足早いんだ」

「まさかセイハに追われてるってわけじゃないでしょうね」

質問ではあるが、語尾に疑問符が付いていない。
コトリと盆をテーブルの上に置き、窓を覗き込んだ。

「セイハの姿は見えないけど、どうする? あの土佐犬とシユラ様の深夜のランニングかもしれないしさ、それを邪魔するのは野暮ってもんだろ?」

全く心がこもっていない。

「ワザとらしい。 セイハが現れないわけないじゃない」

トウオウはランニング中の紫揺の後を追っていたが、アマフウはセイハの消えた方に目を移す。 何かが揺れたように見えた。 目を凝らす。 口角が上がる。

「トウオウ」

アマフウを見ると顎で示された。 示された先の暗闇に目を凝らすと、そこにはセイハの姿があった。

「ビンゴ。 サスガだね。 セイハの気持ちをよく分かってる」

「二度とそんなことが言えないように、その口を切り裂いてあげましょうか?」

言い終わると踵を返した。

「口が過ぎました。 お赦しくださいお嬢様」

笑いながら言うとアマフウの後ろについて部屋を出たのだった。


舟をこいでいたセイハが、いつ起きたのか。
浅い眠りの中で夢を見ていた。 その夢の中でゾクゾクと寒気を感じた。 途端、夢と同時に現実にもくしゃみが出た。 それで起きたのだが、まさかもう紫揺がここから居なくなっているとは思わなかった。

「シユラに付き合ってて風邪でも引いたら、たまったもんじゃないわ」

紫揺は一言も付き合ってくれなどとは言っていない。

立ち上がり土を払うと部屋に向かって歩き出した。 するとどうだろう。 ガーデンライトに照らされた紫揺の姿が見えたではないか。 何故か走っている。

「なにやってんの、シユラは」

思いっきり眉間に皺を寄せる。
ゆっくり歩きながら、紫揺の後を追っていると門を出て行く姿が映った。

「え!?」

一瞬にして 『今夜中に出られるんですね』 という言葉の意味が分かった気がする。

「でもあそこには獅子がいるはず。 シユラも知ってるはずなのに」

いったいどうするつもりなのか、そしてセイハも走って後を追ったのだった。

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虚空の辰刻(とき)  第130回

2020年03月16日 22時03分49秒 | 小説
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- 虚空の辰刻(とき)-  第130回



屋敷の二階の一室はまだ耿耿(こうこう)としている。

「ね、まだここに居てくれるんでしょ?」

ずっと窓際に立っていたアマフウがトウオウに尋ねた。

「うーん、いいけど? ここに来るのを爺に見つかったわけでもないし」

もし爺に見つかっていれば 『何時だとお思いですか!』 と、聞こえてくる声が想像できる。

「何かが起きると考えてる?」

まるでそれが楽しい遊びかのように、異なる双眸を輝かせる。

「紅茶でいい?」

トウオウの質問に答えることなく窓際から離れた。
他の者ならお付きの者に一言いえば済むが、アマフウにお付きの者は居ない。 アマフウ自身が必要でないと考えているからだ。

「長丁場になるんだったらそれでいいよ。 コーヒーを何杯も飲むと胃が荒れる」

「昔っから胃腸が弱いものね」

アマフウは論点から外れる所には返事をする。

そう、昔から胃腸が弱かった、今でもそうだ。 胃が弱くあまり量が食べられないのが災いしているのか、腸が弱いからなのか、華奢なだけで一向に女らしい体つきにならない。

それだけではなく幼少の頃はよく熱も出した。 トウオウの身体を心配して古参である爺が、トウオウに早寝をさせるようにしているのは仕方のないことであった。

アマフウが紅茶を淹れている間にトウオウがテーブルと椅子を窓際に移動した。

「あら・・・」

盆に紅茶セットを乗せてやって来たアマフウが一言漏らし、既に移動していた椅子に座るトウオウを見て微笑んだ。

「こっちの方がいいだろ?」

「レモンよりミルクの方がいいでしょ?」

やはり論点には答えない。
窓の外には下弦の月が出ている。

「これからあの月、どんどん痩せていくんだよな」

頬杖をついて窓の外に浮かぶ月を見てつくづくと言う。

「やだわ。 新月に近づいていくって言えない?」

テーブルに盆を置いて椅子に座り、トウオウのカップに角砂糖を二つ入れる。
こう見えてトウオウは甘党だった。 誰からどう見えるかは分からないが、少なくとも甘党に見えない程に華奢である。

「新月か・・・。 オレは上弦の月にはなれないな」

未だ月を眺めている。

「満月に近づく月っていう意味?」

「・・・そんなとこかな」

やっとアマフウに向き合うとすでにミルクも入っていた。

「何かあったの?」

「うん?」

カップに口をつけたままとぼけた顔をアマフウに向ける。

「いくら食っても太れない」

「・・・それだけ?」

怪訝な目を向ける。

「他に何かある?」

疑問に疑問を返した。

「・・・ならいいけど。 でもいくら食べても太れないって、トウオウはいくらも食べてないでしょ。 もっと食べなきゃ」

「もっと食べなきゃアマフウみたいな肉がつかない?」

トウオウがどう思っているか分からないが、アマフウは細い軸に普通の女の子なら誰もが羨む甘く優しい肉を身体にまとっている。

「またそんなことを言って!」

「大体さ、アマフウって何で無駄に太らないんだろうね」

そう言って紅茶と一緒に置かれたガラスの皿から一口サイズのチョコレートを口に入れた。

「いつもこんなのを食って、普通、太るよ? ・・・って、ヴェ、なんだよこれ」

噛んだとたん、ドロリと嫌なものが口の中を這いまわる。

「ベルギー製よ」

とても嬉しそうに悪戯な目をトウオウに送る。
トウオウが口にしたのはキルシュ酒に漬け込まれたチェリーが中に入っているチェリーボンボンだった。 勿論、ドロリとしたものは芳醇な味わいのキルシュ酒である。

再度言うが、トウオウはこう見えて甘党であり、そして全くの下戸である。 アルコールを舌先で舐めることさえ出来ないし、したくもない。

「くくく、久しぶりにその顔を見たわ。 はい、トウオウのはコッチ」

まだ笑いが納まらない様子で、自分の前に置いていたミルクチョコの入った皿と入れ替えた。 ミルクチョコでなくてはならない。 ビターなど食べられない。

紅茶で口の中を洗い流し飲み込むと、さらなる口上洗浄のつもりか、ミルクチョコを二つ口の中に入れたが、イヤな香りが胃から鼻を抜けて口に味として伝わる。 それを消そうと紅茶を口に入れその温度でミルクチョコを溶かして飲み込んだ。

「・・・アマフウ」

歯を食いしばってアマフウを見た。 そのアマフウは素知らぬ顔をして窓に目を流した。

「・・・帰って来ないわね」

窓の外に向けた視線を、チラッと時計に移すとセイハの姿を見てからすでに二時間は経っていた。
今のことを無かった事にしたいのか、今のことが些細な戯れ事としているのか。 トウオウが諦めたように溜息を吐いた。

「まだそんなに経ってないだろ。 焦ることはない」

まだ味が収まらないのか、三つ目のミルクチョコに手を出した。

「・・・そうね」

さっきトウオウは 『長丁場になるんだったら』 と言っていた。 長丁場になっても付き合ってくれるだろう。

「不安なのか?」

これから何が起きるかは分からないが、起きるかもしれない事自体に不安などない。 不安どころか何が起きても楽勝だろう。 不安なのは・・・自分が考えたことだ。

「いいのかなって・・・」

「らしくない」

ミルクチョコを口の中で転がす。

「だって・・・」

『だって』 と言われて紫揺の顔が浮かんだ。 アマフウがあまり口にしない言葉だし、こうして戸惑いながら『だって』 と言うのは紫揺の専売特許のようなものであったからだ。

「間違ってないよ」

戸惑っていたアマフウの目が安堵を浮かべるように微笑んだ。



「シユラったら、いつまで居るつもりよ」

恨めしい視線をたった一つ点いている灯りの窓に向ける。
建物の中にいるアマフウ達のように、ずっと外を見ていなければ動向が分からないわけではない。
紫揺が出てくれば足音も聞こえるだろうし、二人で出てくればさっきみたいに声も聞こえるだろう。 一晩くらいならいいかと思っていたが、何をすることもなくただ木にもたれて座っているだけは退屈この上ない。 眠気も飛んでしまっていた。

膝を抱えて膝頭に顎を乗せる。 瞼を閉じると領土で火を消していた自分の姿が瞼の裏に浮かんだ。
鏡でもあれば別だが、実際に自分のその姿を見たわけではない。 あくまでも想像だ。
手首を翻しただけでは何も出来ない。 大きく腕を動かす、そして半端ない集中力。 他の誰より疲れた。 だから勝手と言われようと一人領主の家に帰った。 仕方がないことだ。

あのまま続けていると倒れたかもしれない。 もしそうなってでもしたら何を言われるか分かったものではない。 特にアマフウから。 そして領主であるムロイからは、冷ややかな視線を送られることは分かっていた。

思い出したくもない自分の姿を払うように勢いよく目を開けた。 脳裏に浮かんだのは実際に見たセッカが狼煙を上げる時につけた火。 手首を返し人差し指を向けただけでは枯れ枝に火がつかなかった。 燻ぶっただけだった。 だがそれは領土が湿気っていて、その水分を枯れ枝が吸ってしまっていたからだ。 湿気っていなければ十分に火はついただろう。 いつもそうなのだから。

指先の動きだけでは火がつかないと分かった後には掌を向けた。 炎が上がった。 あの程度の事ではセッカは手の動きだけで火を放つことが出来る。 己の力を出すにセッカだけでなく他の三人も・・・なのに自分は。

足に回していた片手を解くと、膝の上にある目の前に掌をかざした。 アマフウのようにふっくらした肉はついていないし、トウオウのように美しい線もない。 ギスギスして筋張っている。 その手を上げて月に掲げる。 同時に顔も手を追うように動く。 下弦の月は満月ほどの明るさはないが、逆光になって筋張った手が影として見えるだけ。

「・・・子供の頃は指先だけで出来てたのに。 どうして・・・」

ほんの小さな火を消すのですら、大袈裟と言われても仕方のない腕の動き、そして集中。 それを誰の前でもしたくなかった。 自分の力が落ちてきているのを知られるから。
五色として生まれこれほど屈辱的なものはない。 でも誰の前でもしたくないと言っても、紫揺の前では違う。 見せつけるようにしてみせた。

「案の定、驚いてた」

下瞼が上がる。

月にかざしていた手を手の平、手の甲と交互に何度も向きを変える。 何度か目で手の平がこちらを向くと動きを止め、ゆっくりと拳を握ると顔の前にそっと下ろした。 じっと拳を見つめ、そっと元の位置に戻す。 両腕で膝を抱える。 丸まっていた背中を後頭部ごと木に預ける。

「馬鹿になんかさせない」

――― 誰から。

「馬鹿にしてやる」

――― 誰を。

そうでなければ自分の居場所がなくなる。

一度目を瞑る。 もうさっきのように瞼の裏に自分の姿は映らない。 遠くに眠気というさざ波が見えたような気がしただけだ。
ゆっくりと目を開けると、もう一度明かりのついている窓を見上げそしてまた目を閉じた。



船・・・船と言っても、北や東の領土の人間が乗っているクルーザーとは雲泥の差だが、エンジンの付いたれっきとした小型船舶である。 その船の後ろに綱をつけたゴムボートがプカプカと浮いている。
遠目に大きなクルーザーが止まっている。 そこに人が居るのは一目瞭然。 明かりが点いているのが見えるからだ。

「一度でいいからあんなクルーザーに乗ってみたいもんだよなぁ」

手に持っていた綱をボートの後ろに括り付けると、綱が解けないか引っ張って確認して後ろを振り返る。

「親父、準備OK」

この船着き場には、春樹から話を聞いた後に船を移動してきていた。

息子から聞かされた島の場所からは、ここが一番近い船着き場だったからだ。 急に頼むかもしれないと聞いていたので、天候の具合も分からない。 もし悪天候の日にでも頼まれたら、たまったもんじゃない。 親父たるもの息子の友達との約束を「波荒いしぃ~」 などと言って反故にしますとも言えない。 それを考えたら、少しでも近い所に移動しておく方が間違いがないだろうということであったし、今日ここまで車を飛ばしてくるのもドライブに丁度良かった。

あの口うるさい女房抜きで父子水入らずの時などそうそうないのだから。 ここへ移動させてくるのも久しぶりの操舵で、息子を乗せてちょっと遠出もできた。

「お前、母さんが帰ってきたら本当にちゃんと説明するんだろうな」

家を出る時に母親にとんでもないことを言って、一方的に電話を切った。 今回船を出すにあたってどんな交換条件も付けなかったし、なにより久しぶりに乗る船である。 楽しみにさえしていた。
だが、家を出る前のあのひと悶着を考えた時、車中で交換条件を出した。 母親にちゃんと説明をしないと船を出さないと。 すると息子は軽いノリで返事をしてきた。

「分かってるって。 俺に任せて」 と。

軽い、軽すぎる。 だから念を押さねば心もとなかった。

「心配すんなって。 ウソを通すほど落ちぶれちゃないし、まぁ、お袋が憎いわけでもないんだからさ」

ちょっとウザイだけ。 と付け加えたが、先ほど完全に嘘をついたではないか。

そんな息子を父親が横目で見ると諦めたようにエンジンをかけ、ゆっくりと進んだ。
父親が操縦する前でポケットからスマホをとり出す。 船を出したと春樹に連絡するためだ。

「・・・にしても、アイツなんで急に雲渡(うんど)のことなんて訊いてきたんだ?」

父親の背中を押して車に乗りこむと、家を出たことを知らせるために一度春樹に連絡を取っていた。 その時に春樹が雲渡のことを訊いてきたのだ。

『なぁ、雲渡って覚えてる? ちょっと暗かったヤツ』

手紙を書き終えた紫揺が封筒がない代わりにルーズリーフを、折り紙のように折っていた時の事だった。 聞き覚えのある名前に顔を上げたが春樹が背中を向けていた。

(ウンド? たしか・・・信号無視をしてる・・・、あ、じゃない。 信号無視みたいな違反をしてるって言ってた人だ。 そう言えば、船を出してくれる友達は専門学校の時の友達だって言ってたし、ウンドって人のことも同級生って言ってたっけ。 ウンドって人も専門学校の時の友達なんだ)

頭の中で思いながら、春樹が背中を向けているということは、あまり聞いて欲しくない話なのかもしれない。 聞こえてくるのは仕方がないが、耳を傾けないでおこうと努めた。

「え? うんど? ・・・あ、ああ。 アイツね。 アイツがどうした?」

春樹とは専門学校が同じだけだったから、覚えてる? と訊かれたら専門学校の時の事だろうとは思ったが、クラスの違う同級生の名を出されてもすぐにピンとこなかった。

『学校でどんな様子だったか知ってる? その、成績とか?』

「専門時代は知んねーけど、高校時代はいい噂は聞かなかったな」

そう。 専門学校時代はクラスが違ったからすぐにはピンとこなかったが、顔を浮かべてみれば同じ高校を卒業していた同級生だった。

『高校時代って、同じ高校だったのかよ』 全然知らなかった。

「ああ、学科が違うからクラスは一緒になったことないけど、暗い噂は聞いた」

『その噂って、たとえば?』

「親父さんがいいところに勤めてて上の方らしいんだけど、息子も、って、アイツのことね。 アイツにもいいところに勤めさそうと、親父さんの部下に会わせたり取引会社の人間に会わせたりしてたらしい。 早くから顔を売ろうって魂胆だったんじゃない?」

『それのどこが暗い噂なんだよ?』

「お前もさっき言ってたけどアイツ暗いじゃん? 当時から友達もいなかったみたいだし、家の中でパソコンばっかりいじってたわけよ。 で、どっかの掲示板に親父さんの会社や、取引会社のヨロシクない内情なんかを書き込んで面白がってたらしい。 ほら、相手が高校生だと思って気を緩めてポロって話してたみたい。 まぁ、高校生ごときが書いてる掲示板だから、どこの会社も気付かなかったらしいし、アイツもそこんところは考えて、大事にならないような書き方をしてたみたい」

『そういうことか・・・。 で? なんでアイツは、専門なんかに来たの? いい所に勤めたけりゃ、まずは大学だろう』

「ことごとく玉砕。 ってか。しょぼい私立の片田舎の農業高校だぜ? ましてやアイツが居たのは環境科。 ま、こっちも園芸科だけどな。 そこからどんな有名大学に行けるって話だよ」

『いや、自虐よせよ』

「言うな」

『で?』

「まぁ、特に出来がいいわけじゃないのに、ってか、その程度なのに親父さんがいい所を目指させたんじゃないの? で、親父さんにしたら担任を押してまで受けさせたところ全部落ちたわけだし、浪人もカッコ悪いしで、名誉な就職先も諦めて好き勝手させたってとこだろ。 兄貴がいい所に行ってるらしいから簡単に諦めたんだろな」

『今も・・・ってか、専門時代も親父さんが引き合わせた会社関係の人と付き合いがあったみたい?』

「そんなこと知んねーよ」

『だよな』

そう言ってその時はスマホを切ったが、どうして雲渡のことを訊いてきたのか気にならないわけではない。

「ま、どうでもいいいか」

こっちから振って、またなんやかんやと訊かれては面倒臭い。 また訊いてきた時には教えてやるかわりに、何を気にしているのか教えろと言えばいいか、と締めくくりスマホをタップした。

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虚空の辰刻(とき)  第129回

2020年03月09日 23時43分11秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第120回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第129回



もし紫揺が部屋に入らず外で待っていると言ったならば、外で渡そうと思いポケットに入れたが、存外気軽に部屋に入ってきた。

「え?」

折り畳まれていてもそれがお札だと分かる。 ましてや一万円札が目に入ったし、それが数枚ある。 顔を上げた紫揺が驚いた顔で春樹を見た。

「お金持ってる?」

大きく左右に首を振る。 考えもしなかった。

「だよね。 それっぽい」

それっぽいとは、どれっぽいのだろうか。 充分に疑問を持っている顔を春樹に向けている。

「着替えも何も持ってきてないんでしょ?」

間違いなく手ぶらだ。 鞄どころかポーチの一つも持っていない。

(そっか、だからさっき先輩は脱走って言ったのか)

紫揺を想っての事だろうが、先ほどの春樹の言葉を思い出す。

だが元より、ここには紫揺の私物などない。 ましてや現金などハナから持ち合わせていない。 今着ているジャージと上着はこのまま戴くことになるが。
そういえば攫われた時に着ていた服はどうなったのだろうか、などと一瞬考えたが、心の中で首を振る。 そんなことは今更どうでもいい。
折りたたまれた札を広げる。 一万円札が数枚と千円札もある。

「ほら、万札ばっかりだとちょっとしたものが買いにくいでしょ? 自販機も受け付けるとは限らないし、コンビニでジュース一本に万札じゃ店員に嫌な顔されても嫌だし。 その為の千円札だから、決してそれ以上万札が無いわけじゃないから」

紫揺が札をずっと眺めていた風に見えたから言ってみたが、実際財布の中にはもう万札は残っていない。 なけなしの万札を、最後の万札をも紫揺に渡したのだから。
ここに居てもなにも使うことはないのだからと思っての事だったが、やはり心細さは残っていたからなのか、男としての見栄からなのか、言い訳がましいことを言っているような気がする。

(何言ってんだ、俺は・・・)

それに悲しいかな、いま紫揺が見ていたのは札ではなかった。

「これは?」

札と一緒に畳まれていたメモを開けた。

「俺のスマホの番号。 何かあったら連絡ちょうだい。 ん、さっき言ってたみたいに、こっちで気に病んでることがあるなら、それの報告も出来るから」

じっとメモを見る。 見るではなく、見入っている。

(あ・・・いや、そんなに俺の番号に嵌まってもらわなくても。 ・・・照れるじゃないかよ)

番号を渡されたことに感動して見入っていると思い一人照れる。 そこに急に紫揺が顔を上げた。

「あ・・・なに?」

―――先輩! 絶対連絡入れます。 あの、でも・・・今とっても不安なんです。 その、ハグなんかで勇気付けてもらえれば嬉しい―――。

(なんてことを言いたげな目じゃん。 いいよ、いいよ。 いくらでもハグする。 何ならそれ以上だって。 ああ、いや、それは早すぎる。 うん、今日はハグに留めておこう。 これからいくらだって会えるんだから)

それ以上の要求は早いと思う。 思うけど、要求されれば充分に応える。 いや、応えたいし、応えたいから、その前に要求してほしい。 覚られないように掌の汗をカーペットで拭く。

「メモ・・・」

「あ、うん。 俺のスマホの―――」

照れ隠しに、カーペットで拭いた手で頭を掻く。

「じゃなくて、メモ・・・メモあります? 出来れば便箋と封筒とか」

「はい?」

「メモじゃ小さいから。 あ、でもメモしか無かったら最低限を書きますから。 メモとペンを貸してもらえませんか?」

小動物がすがるような目。 小動物にすがられたことなどないから、想像に過ぎないが。

「あの?」

「何もかも図々しくて済みません」

勢い良く頭を下げる。 ゴン! と大きな音が響いた。

「わっ! なにやってんの!? 大丈夫!?」

腰を浮かしかけた春樹だったが、こんなことに慣れている紫揺は 「うぅ・・・はい、何ともないです」 と言って、テーブルとゴッツンコした額をさすりながら頭を上げた。
腰を浮かしかけた途中で止まっていた春樹が大きく溜息をついた。 紫揺の行動で一気に自己陶酔から覚めたようだった。

「便箋も封筒もないけど、ルーズリーフならあるよ」

立ち上がり、部屋の隅にまとめ置いていた中からルーズリーフを出してきた。

春樹から出されたルーズリーフとペンを受け取るとすぐに書き始めた。 それなりに悩んできたのだ。 書きたいことは、伝えたいことは考えずとも次から次に出てくる。

その様子を見た春樹が気をきかせて数枚のルーズリーフを追加して机に置いた。 一枚では足りないだろう。
コーヒーが入った湯呑を持って窓際に立った。 紫揺が書いている文章を見るわけにはいかないだろうと思ったから。

(まさか、俺への想いを込めた手紙じゃないよな・・・)

少しの希望を持ってみるが、まずまずこの流れではありえないだろう。 携帯番号を渡しているのだから、それを受け取ってくれたのだから、今はそれで充分と自分を慰めた。

(それにしても、きれいな字を書くんだ)

すぐに書き始めた字を見て、どこか先入観で丸文字を書くのだろうと思っていたが、まるでお手本のような字を書いていた。

春樹がどう思っているのかなど知る由もない紫揺は、父親に教えてもらったことを守っている。 歳上にはちゃんとした字を書くように言われていたことを。 そう、ニョゼに宛てて書いている。

ポケットの中にあった春樹のスマホがブーンと鳴った。 着信だ。 ポケットから取り出すと相手の名を見てすぐにタップして耳にあてた。

「おう」

着信に気付かなかった紫揺が春樹の声に顔を上げる。 スマホを耳にあてている姿が見えたが、春樹は背中を見せている。 顔色をうかがうことなどできない。

「え? ・・・ああ、分かった。 ・・・うん。 いや、それでもいいよ。 間に合ってくれればそれでいいから。 ・・・ああ、じゃ、悪い。 頼むな」

スマホを耳から外す。

春樹の返事を聞いていて、どれだけ迷惑をかけているのかを敢えて思う。 なんの関係もない春樹が相手に頼みごとをして『悪い』 と言っている。 紫揺の知らない人間に紫揺の為に『悪い』 と春樹が言っているのだ。 『悪い』 とは『ゴメン』 と同義語と思う。

(・・・)

手を止めたまま、春樹から目を外し下唇を噛む。

スマホを切った春樹が振り返り紫揺を見た。 春樹が会話をしていたことは丸聞こえだ。 だからその報告をしようと思った。

「紫揺ちゃん、いい?」

顔を上げると春樹がこちらを見ていた。

「はい」

「家を出ようとした時に、お袋さんから連絡がきたみたいでそれが長いみたいなんだ。 すぐには出られなくなったって言ってるけど、朝までには来られるって言ってたから」

「・・・はい」

「いや、そんなに肩を落とさなくてもいいから、来るから。 安心して」

紫揺の思いとはちょっとズレた所の返事をする。

「いえ、来てくださることには安心して感謝して・・・」

紫揺の言葉が止まった。
今、ニョゼに書いている手紙の内容もそうだ。 どれだけ自分勝手なんだろう。 自分は両親のいる、両親のお骨に位牌に、その前に座りたい。 自分に手を携えてくれた人に迷惑をかけてまでも帰りたい。 それがどれだけ自分勝手なのだろうか。

「え? それで、なに?」

「先輩・・・」

「え? 俺?」

「先輩にご迷惑ばかりかけています」

「え? そんなことないけど?」

下心があるとは言わない。 今はその下心の基礎を作っているとも言わないし、そんな気など毛頭ない、などと大きな声では言えない。 だから、迷惑などないと言い切ろう。

「ルーズリーフで悪いけど手紙だろ? 時間が出来たんだから慌てて書くこともないから、じっくり書けば?」

―――あの達筆で。

春樹から見て紫揺の達筆は想像だに出来なかった。 それは春樹が勝手に持った先入観であったが、その文字に紫揺の心の訴えを感じたからだ。 誰に書いているかは分からないが。

「・・・すみません」

「あのさ、謝るのよそうよ」

頭を下げていた紫揺が頭を起こし春樹の目を見た。

「俺がしたくてしてることなんだから。 そこで謝られると、俺がしたいと思ってしたことが間違っているように思えるし、手筈の落度にもなっちゃうからさ」

手筈の落度は全く友任せで、自分で何かをしているわけではない。 今にして充分感じてはいるが、それを今は公明正大に言ってしまえば、話がややこしくなる。

「え?」

「謝られると船が遅くなるかもしれないっていうことに、俺が紫揺ちゃんに謝らなくちゃいけなくなるだろ?」

「そんなこと!」

「だろ? 間に合うんだからそれでいいんじゃない?」

「でも、先輩にご迷惑をかけていることは・・・」

そこまで言って思い出した。 トウオウに言われた3D 。 『でも、だって、どうして』。 今また同じことを自分は言っている。 ニョゼに想いをしたためた文字を書いた。 ニョゼに対して 『でも、だって』 と思いながらも書いた。 『でも、だって、どうして』 に境界は有るけど無い。 ニョゼに向けた手紙の内容の 『でも、だって』 には、ニョゼも分かってくれるだろう。 思い上がりかもしれないが。
でも 『思い上がりかもしれない』 とニョゼに言うと、あの優しい微笑みがかえってくるはず。

「悪いけど、俺、迷惑かけられていい顔する奴じゃないんだよね。 それともあれ? 俺の顔そんなに迷惑がってる?」

ここでニヒルに微笑めば決まりだ。 表情筋をあてもなく、くまなく動かす。 だが・・・悲しくもニヒルな笑みを作るなど、そんな経験は一度もない。

「先輩・・・顔引きつってます」

失敗に終わったようだ。

「やっぱりご迷惑―――」

「だぁ――――!!!」

突然の大声に紫揺が驚いて後ろに反り返った。

「あ! ごめん! 驚かせるつもりじゃなかったんだ。 その、紫揺ちゃんに気楽に居てもらいたくて・・・」

気楽にしてもらうのに大声を出すのはどうだろうか。 だが、こんな場になってしまって、その手しか浮かばなかった。 というより、咄嗟に叫んでしまったのだ。

「だからさ、俺は俺のやりたいようにしてるだけ。 紫揺ちゃんが気にすることはないの。 俺、嘘はつかない人間だから信じて」

いや、全面的にはどうだろうか。

未だ正座をしていた足を解きかけドン引きしている紫揺を見ると、今後の課題は顔を作れるようになることだ。



カシャリ。 何かの音が鳴った。
船着き場で月明かりに照らされた人影が動いている。

「この程度でいけるか・・・」

船に乗せたのはゴム製の小さなボート。
一度しか見なかった岩礁。 あの岩礁をこのゴムボートでくぐれるだろうか。 不安がよぎるが今はこれしかない。 時は待ってくれないのだから。
暫くゴムボートを眺めてから、眉間に寄せていた皺を取り除くと操舵席に行こうとした。 その時、

「仰っていることと、行動が伴いませんが?」

誰もいない筈の船を振り返る。 誰もいない。

「抜け駆けは許せませんなぁ」

桟橋に目を移すと数人の影が、いや、月明かりに照らされてその顔がハッキリと見える。

「・・・野夜」

野夜だけではない、野夜に続いて抜け駆けといった醍十(だいじゅう)もいる。 それに他にも。

「阿秀(あしゅう)の操縦なんて危なっかしくって」

スペアキーを顔の前にかざした若冲(じゃくちゅう)がクルーザーに乗り込み操舵席に向かった。 操舵席でのチェックをするためだ。

「お前たち・・・」

「それに、そんなゴムボートじゃ何人も乗れませんよ」

後ろから悠蓮(ゆうれん)と湖彩(こさい)が頭の上にボートをかかげて進み出てきた。 ラフティング用のボート六人乗りだ。

「諦めた方がよさそうですよ。 それにまだ早いですから、まずは腹ごしらえしませんか?」

若冲に続いて乗り込んできた梁湶(りょうせん)がコンビニの袋を軽く上げると涼しい顔を阿秀に向けた。
夜行性の獅子が跋扈(ばっこ)する深夜に乗り込む気ではないだろう。 少しでも獅子の危険から逃れ、人の目にさらされない暁時を狙っているであろうことは容易に知れている。

何もかも見透かされていたようだ。 夜空を仰ぎ見た阿秀の目に雲一つない下弦の月が入り込んできた。



「だからー、いつまで喋ってんだよ」

父親の背中に言葉を投げかけたが、父親が振り向く様子はない。 ただひたすらに電話の向こうに相槌を打っているだけだ。

「まぁ、どうもお子様らしいからいいけどな。 これが絶世の美女だったら許せたもんじゃない」

絶世の美女であるなら男ならだれでも、一分一秒でも早く逢いたいと思うだろう。
ゴロンと手枕を作って寝ころんだが、ふと思い立つところがある。

「たしかアイツの元カノって・・・広告のモデルやってたっけか?」

バイトで服飾店の広告のモデルをしていると聞いていた。
一瞬にして腹筋を使って起き上がった。

「下手にゴロゴロと、いや、ズルズルと貸しを作るより、スパンと作った方が同じ貸しでも印象が違うよな」

もう別れたといっても、いつどこで焼けぼっくいに火がつくかもしれない。 その時にこの貸しを返してもらおうではないか、モデル仲間を紹介してもらってどこが悪い。 そう考えてどこが悪い。
父親に振り向きもう一度その背中に大きく声を掛けた。

「親父、いい加減にしてくんないと、あの時その時のアレやコレやをお袋に告げ口すんぞ」

夜のお店で鼻の下を伸ばしていた程度だが、そんなことを許す母親ではなかった。
父親の背中がビクンと動いて、受話器を耳に当てたままゆっくりと振り返った。

『あなた? なに? なにを告げ口って?!』

受話器の向こうでは母親が息子の声に反応して、さながら訊問のように問いただしている。

「あ、いや、そのだな・・・」

通話口に手を置くと 「話をややこしくさせるな!」 と、小声で叱りつけるように言ったが、迫力もなにもあったものじゃない。

「ったく、お袋の愚痴ばっかり言ってるくせに全く頭が上がらないんだから」

今回はよくぞ、あの勝手気ままな母親を置いて帰ってきたと、その男気を褒めたのが音をたてて瓦解していく。
散々母親の愚痴を聞かされてのこれだ。 腹が立ってきた。 父親の手から受話器を取り上げた。 父親があっ! っという間もなかった。

「お袋? 俺。 今から親父にネオン街に連れて行ってもらうから今日はこれまでで。 じゃね」

受話器の向こうで何やらわめいている声が聞こえたがそのまま受話器をことりと置いた。

「お! お前っ!」

「お袋、慌てて帰ってくるよ。 良かったね」

父親にとって何が良かったのだろうか。 だが少なくとも自分にとっては、母親が帰って来れば愚痴を聞かされることは少なくなるだろう。 本人が居る前で愚痴など言えたものではないのだから。 だから母親が帰って来ることに一番良かったと思えるのは、自分自身であったのかもしれない。

一つ悔やむのならば、また勝手気ままな母親の姿を見なくてはならないかということであったが、それは目を瞑っていればいい。 父親のようにずっと付きまとって愚痴を言われるわけではない。 母親が何か気ままなことを言い出せば、その場から居なくなることだってできる。

「ほら、早く行こう」

車と家のキーを持つと父親の背中を押して玄関を出た。

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虚空の辰刻(とき)  第128回

2020年03月09日 22時45分21秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第120回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第128回



日本の本島でないこともあるし、余りにも小さな島だ。 それに春樹たち、ここに勤める者にこの場所の住所は知らされていない。
よって、島であるのだから海図が必要だ。 だが海図などの読み方を知らないし、手元に海図などない。 だから船に乗った場所、そこから太陽を軸にしてどちらの方向に向かっておおよそどれだけの時間を船に乗っていたのかを告げていた。 親父さんはそこからこの場所に見当をつけたのだろう。

「ああ、移動はしてないからそこだと思う。 岩礁が多いって言ってたけど大丈夫か?」

以前、紫揺から迎えに来てもらえるのであれば、獅子がうろついている方に来てほしいと聞かされていたのでそれを伝えていた。
その方向は島の西側にあたるが、調べてみると岩礁が多いらしいと聞いた。 そして船では到底島につけることは出来ないと親父さんが言っていたと。

「全部下調べ済みよ。 俺じゃなくて親父がな。 船を出す気満々だからな。 船で岩礁は避けられないから、近くにはゴムボートで迎えに行く。 エンジン付きだぜ」

「エンジン付きの? ゴムボート?」

「そっ。 そのボートって親父とお前ともう一人、三人ぐらいは乗れるよ」

「親父さんが持ってたのか?」

「そうよ、俺も知らなかったけど。 親父の趣味は俺には理解できない」

「ふーん、船も持ってていい趣味してるじゃん。 じゃ、全面的に頼る。 こまめに連絡をくれ。 ああ、それと俺は乗らないから」

「へ?」

「彼女だけ頼む。 俺はコッチで仕事あるし。 じゃ、悪いけどあとのことも頼むな」

あとの事と言うのは船を降りた後のことだ。
紫揺と話していて感じたことがあった。 大会や遠征にあちらこちらへ出ていたはずなのに、地元以外を全くと言っていいほど知らなかった。

どこへ移動するにも、先輩の後や同期の後ろをついて歩いていたと言っていた。 道を覚える、場所を覚えるということがなかったようだった。 紫揺は乗り物を知らない、そしてきっと方向音痴だろう。

電車通学をしていたのだから定期も切符も買えるだろうが、それはあくまで近距離の話。 そして紫揺の知っている路線だけの話。 長距離となり、全く知らない駅ともなると切符は買えないだろう。
遠征の時にはマネージャーが用意していたと言っていた。

そんな紫揺を船着き場で放置されては後味が悪いし、これからも紫揺と連絡を取るつもりでいた。 その時の事を考えると、出来うる限りのサポートはしておかなくては。

「あとのことって?」

「駅まで送っていって切符を買ってやって。 出来れば、乗るホーム・・・立つ位置迄まで連れて行ってほしいくらい」

「ウソダロー、彼女って言ってたくせに、どんなお子様だよー」

かなりイイ線の彼女を想像していたのに。
春樹から『彼女』 と聞いた時には、春樹が付き合っている『彼女』 かと思い、訊いてみたが『まだ、そんなんじゃないよ』 と言っていた。 だからして、アワヨクバ、などと考えていたのに、エライ計算違いだったようだ。

「連絡待ってるから。 じゃ、ヨロシク」

スマホを切るとメモに自分のスマホの番号を書き財布を手に取った。 財布の中にはなけなしの札が入っている。 数枚の千円札を残し、ありったけの一万円札と数枚の千円札と一緒にメモを折りたたんだ。 封筒などという気の利いた物がなかったから、そのままポケットに入れる。

どうせここに居て金など使うことは無いのだから。 それに来た時もそうだったが、交通費としてアパートからの電車代、船着き場までのタクシー代を来た早々渡された。 何らかの用事でアパートに帰らなくなったとしても、その時にも交通費をくれると言っていた。 金が必要になることは無い。
それなら数枚の千円を残す必要は無いのだが、それではあまりにも寂しい。


紫揺の元に戻った春樹を食い入る様な目で見つめた。

「そんなに怖い顔しなくても大丈夫だよ。 いまから用意して出るって」

「ホントですか!?」

「ああ、用意って言っても、必要なものは全部準備済みだろうから、今から着替えて家を出るってことだと思うよ」

「じゃ! じゃ! 今夜中に出られるんですね!?」

「声が大きいよ」

クスリと笑って人差し指を唇に当てる。

「あ・・・」

思わず両手で口を押えた。

「で、いつ連絡が入るか分からない。 だから、えっと・・・」

その次の言葉が言いたくてもなかなか出ない。

「なんですか?」

「あの、そのぅ・・・」

「はい?」

ハッキリ言ってくれと眉間に皺を寄せる。 頼みごとをしているという立場をすっかり忘れているようだ。

「何て言ったらいいか・・・」

紫揺の中でブチっと糸が切れた。 それが何の糸か、そして自覚する。
私って・・・短気なのかもしれない。
当初のリツソが聞けば、大きく首を上下にして何度も頷くだろう。

「言いたいことを言って下さい」

私に遠慮せずに言ってくださいと言いかけて、自覚しながらも、短気が言葉を変えてしまった。

「ん・・・。 じゃ、連絡が入るまで・・・ぼ、僕の・・・」

「俺でいいです」

「あ、うんそうだったね。 その、俺の部屋で・・・待ってもらえるかな?」

「先輩の部屋で?」

「うん、えっと、此処では携帯を禁じられてるんだ。 でも携帯で連絡を取ってるから、誰かに聞かれたくないんだよね」

自分の部屋に紫揺を招きたいという下心があるわけではないということを、一気に言った。 下心は無いわけではない。

「あ、そうなんですね。 すみません気が付かなくて」

眉間の皺がなくなった。

「じゃ? いい? 俺の部屋に来てくれる? ・・・じゃなくて、入っても―――」

春樹が言いかける端から紫揺が歩き出した。

「行きます」

「あ。 はい」

春樹が紫揺の後を追って歩いた。

ガザンと一緒に待っているのも手だと思ったが、いつ誰が来るか分かったものではない。 この瀬戸際において誰にも見つかりたくなかった。


「ふーん・・・」

背中を木に預け、組んでいた右手を上げると指先を口にあてた。

「今夜中に出られる・・・? どういう意味だろ」

この木に来た時には春樹はいなかった。 こちらに背を向けた紫揺一人だけだったから、ここまで近づけた。
丁度寝入りそうになった時、大きな音がした。 寝入り際は、些細な音にでも敏感になるもの。 そんな時に大きな音を聞いたのだ。 何だろうと思ってベッドサイドにあるライトをつけ、窓の外を覗くと、使用人達の住む建物に向かって走っていく紫揺の姿が目に入った。

てっきり夜遅くに力の練習でもしているのかと思い後を追ったが、ただずっと立っているだけで、何かをしようとする動きが見えない。 いったい何をしようとしているのだろうかと思っていた時に、春樹が出てきたのには心底驚いた。

春樹が何を言っているのかは聞こえなかったが、紫揺の大きな声は聞くことが出来た。 それが 『ホントですか』 と 『今夜中に出られるんですね』 だった。

「やっぱり知り合いだったんだ」

口にあてていた指を頬に広げると、軽く首を傾げる。
以前、春樹と知り合いなのだろうから、春樹を紹介してほしいと言った時には、今日初めて挨拶をしただけで知り合いではないという風なことを言っていたのに。

「今夜中か・・・」

今夜何かあるのだろうということは分かる。 『出られる』 というのは、誰が何処から何処へ出るのかが分からない。 喜んでいる様子だったが、それがどう紫揺に関係するのかも。
チラッと紫揺の消えた方に目をやる。

「まぁ、一晩くらいここに居てもいいか」


「どうする?」

隣りに立つアマフウの横顔に尋ねた。 尋ねられたアマフウはまだ窓の外を見ている。

「このまま放っておく?」

再度トウオウが尋ねる。

「ま、オレはどうでもいいけどね」

言うと両腕を頭の後ろに組んでその場を離れ、ゆっくりと身体を捻った。

「・・・っつ!」

僅かに顔を歪める。
まだ背中の傷が痛むようだが、普通にしている分には何ともないほどには回復をしている。

「セッカはもう部屋に戻ったのかしら」

アマフウを振り返ると、いつの間に窓から目を離していたのだろうか、問うた相手のトウオウを見ていた。

「セッカ? セッカなら部屋に戻ったんじゃないか? だからセイハも出て行ったんだろ」

セイハは紫揺のように窓から出て行くなどということは出来ない。 階下に降りて出て行くにはセッカに姿を見られてしまう。
門限があるわけではない。 別に姿を見られて困ることもないが、こんな夜にどこに行くのだなどと、アレコレと訊かれるかと思うと姿を見られずに済むに越したことはない。
セイハが外に出たということはセッカが部屋に戻ったということだろう。

「背中・・・まだ痛いのね」

「痛いって程じゃないけどね。 どっちかって言えば、ジッとしてるから鈍(なま)ってるってとこかな」

訝し気にアマフウの片眉が上がった。 それに応えるように、トウオウの片方の口角が上がる。

「本当かしら」


「あ、あの、散らかっててゴメン」

散らけるようなものもないし、さっき帰ってきた時にそれなりに片付けていたが、取り敢えず言ってみる。
靴を脱ぎ捨てると先に部屋に上がって、なにか座布団代わりになるものを探すが、到底そんなものは見当たらない。 どうしてさっき帰ってきた時に座布団のことを思い浮かべなかったのかと、後悔するがもう今更である。 座布団は諦めよう。

「気にしないでください。 こちらこそお邪魔しちゃって」

戸を閉めると脱ぎ捨てられた春樹の靴を揃える。

「あ! そんなのいいから、上がって。 その、お茶でも入れるね。 あ、それともコーピィー」

声は裏返っているし、緊張のあまり唇が上手く動いてくれないようだ。 まるで沸騰した時にお知らせをする薬缶の様な 『ピー』 になってしまった。

「あわわ・・・えっと、コーヒーがいい?」

言い終わると紫揺に背を向け、片手で唇を、もう片手で喉を乱暴にマッサージする。

「どうぞ、おかまいなく」

言い終わると靴を脱ぐわけでもなく、上がり口に持っていた上着を置くとその横に腰を下ろし、膝に顔をうずめた。

勢いよく出てきたはいいが、このまま船に乗ってしまうということはもうニョゼと会えないということだ。
サヨナラの挨拶も出来なかった。 うううん、そんな挨拶など元から出来るはずはなかった。 紫揺が此処をこっそり出て行くからサヨナラです。 そんなことが言えるはずはない。
ニョゼに止められるか、紫揺のしたいことをさせムロイとの板挟みになるかのどちらかだ。
サヨナラなんて言ったらニョゼを困らせるだけなのは分かっている。 でも、一言も残さずニョゼの前から姿を消しては悲しみしか残らない。 まだここに居るというのに、悲しみが胸の底から溢れてくる。
紫揺の返事に向き直った春樹だが紫揺の姿を見るなり

「え? 暗っ!」 と発してしまった。

慌てて口を押える。 コホンと一つ咳を払うと仕切り直して話しかける。

「どうしたの? 紫揺ちゃんの希望通りに事が運んでるっていうのに」

あまり見てはいけないかと思い、紫揺から目を離すと湯を沸かし、唯一のコーヒーカップと唯一の湯呑にインスタントコーヒーを入れる。

「いえ、何でもありません。 その、ちょっと気になることがあったから」

くぐもった声だ。 まだ膝に顔を埋めているのだろう。

「それって・・・もしかして、急に伸ばしてほしいって言ってたことと関係ある?」

返事が帰って来ない。

「上がってきなよ。 ほら、コーヒー淹れたから」

二つのコーヒーが入った器を小さなテーブルに置くと、思い出したようにポケットからタバコとライター、携帯灰皿を出すとテーブルの上に置きかけて、カーペットの上に置いた。

「お邪魔します」

立ち上がり、お辞儀をすると靴を脱いで置かれていたコーヒーカップの前に座った。

「座布団なくてゴメン」

「いえ、カーペットがあるから充分です」

「インスタントだけど飲んで。 ミルクは入れたけど砂糖はなくて。 砂糖抜きでも大丈夫?」

ミルクは消味期限の短いコーヒーフレッシュではなく粉末状のものだ。

「大丈夫です。 頂きます」

コクリと一口飲む。

「ね、気になることがあれば言って欲しいんだけど? その、送り出す側としては・・・。 えっと、ハッキリ言って今回のことは宜しくないんじゃない? ここから出たければ、キノラさんにそう言えばいいと思うし、でも言えないって言ってたよね? 頼むのは不可能だって。
まあ、理由は言えないって言うのをコッチも了解してのことだけど。 でも今紫揺ちゃんは違う事で悩んでるんじゃないの? その、これって結局脱走って言い方になるじゃない? その片棒を担ぐわけだし、気に病んでいることは言って欲しいんだ。 でないと、ここを出た後にも紫揺ちゃんはずっと気に病むんじゃない? だったら、ここに残ってる俺が紫揺ちゃんの気に病んでることの引き続きをする? 見る? 聞く? 何だか分かんないけど、そういう協力が出来ると思うんだ」

ずっと下を向いている紫揺だったが、春樹の言葉は心に沁みている。

「・・・」

「まぁ、無理にとは言わないけど」

一口コーヒーを飲むと、ステキなお友達を入れていたポケットに手を入れる。

(ポケットから現ナマを出して渡すって、なんか嫌なシチュエーションだよな。 これなら部屋に置いておけばよかった)

とは言っても、その時には紫揺が気軽に部屋に入るとは思ってもいなかったし、強引に部屋に入れるわけにはいかないと思っていたのだから仕方がない。

「あと・・・。 これを渡しておく。 はい」

紫揺の呑んでいたコーヒーカップの横に折りたたまれた札を置いた。

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虚空の辰刻(とき)  第127回

2020年03月06日 22時20分49秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第120回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第127回



独唱ならば幼かったとはいえど、先(せん)の紫を知っている。 だからして、その気をもとに紫揺を追うことが出来たのだが、それでもかなりの疲労がついて回った。 それが紫を知る事のない北の領土の人間が紫揺を探し当てたとは、尋常ならぬ力の持ち主ではなかろうか。

「これは簡単にはいかんかもしれんな」

それ程に強い古の力を持つ者であれば、島に足を踏み入れた時点で気を悟られるだろう。 現に同じく古の力を持つ此之葉があの島に紫揺の気を感じたのだから。 古の力を持つ者の力は量りしれない。

それに東の領主としては、無理矢理に紫揺を東の領土に連れて帰るつもりはない。 此の地で話し、納得を得てから東に帰ってもらうつもりだった。 だがそんなことを悠長にしていては、またすぐに北に攫われるかもしれない。 北のやり方は丸く言ったとしても強引である。

「でも、その老人の具合が悪いのなら、力も何もあったもんじゃないんじゃないですかぁ? ってか、このチャンスを逃しちゃいけないってことなんじゃないですかぁ?」

のほほんと醍十が言うが、確かに的を射ているかもしれない。 領主と阿秀の目が合った。 その時、船がエンジン音を立てて進みだした。

「領主、阿秀、獅子の居る方を見て頂き相談があります」

硬い顔で野夜が言う。
船が向かっているのは大陸側にあたる方の海岸だ。
以前、野夜からは獅子の居る方は岩礁が多く、近くまでとなるとかなり無理があると聞いていた。 よって船をつけるには犬がいる方が容易いと。 


船内のサロンで領主が腕を組んで座っている。 その隣には阿秀。 向いには野夜が座している。 他の者は野夜からデッキで待っていろと言われた。

「野夜のヤツ、領主と阿秀に何の話をしてるんだぁ」

苛立たし気に醍十が言う。

「まぁ、あとで訊くさ」

梁湶が涼し気に言うが、それが恐い。

サロンで野夜の話を聞いた領主が首を振った。

「ですが! さっき醍十も言っていました。 今を逃す手はありません」

「余りにも大きな賭けがすぎる」

「ですから! 俺が一人で乗り込みます!」

いつもなら ”私” というところ、冷静でいられないのであろう。

「一人であろうが何人であろうが、命を危険にさらすわけにはいかん。 それでもし、お前がその身を投じて万が一のことがあってみろ、紫さまをお救いできたとしても、紫さまは嘆かれるだけだ。 紫さまがそういうお人だということを分かっているであろう」

紫とは、紫の人となりは東の地でずっと語られている。 それだけに今も尚、東の領土の人間は紫の居ないことを嘆いている。 領主はそのことを言っている。

野夜は自分一人小舟で岩礁のある獅子の居る海岸に近づき、島に上がると言った。 では、獅子からどうやって身を守るのか? それが醍十と剣呑な雰囲気にあった時、醍十が言った言葉で閃いた。

『犬っころのことなんて何でもないだろ。 きっと御馳走でも出されてるんだよ。 犬猫なんてそんなもんだ』 そう言った。 そう、獅子と言えど猫。
まだ確実には一頭しか確認できていないが、恰幅のいい獅子だった。 ということは充分に餌が与えられているということだ。
一頭が恰幅よければその他に獅子がいても皆同じな恰幅だろう。 餌を十分に与えられているのだろう。 では、捕食をしないだろう。 とは言え、夜行性の獅子に挑む勇気はないが、夜を除けばその力をかわせるのではないかということだった。

「阿秀はどう思います?」

難しい顔をして聞いている阿秀に矛先を向けた。

「そうだな・・・」

見目良い男は涼やかな顔になり、言葉を続けた。

「私が行こう」

「なっ!?」

野夜の目が大きく開いた。

「いま阿秀が! いや、今でなくともこれからも阿秀が居なくてどうするんですか! 誰が俺らをまとめるって言うんですか!」

「そんなことは誰にでも出来る」

「誰にも出来ません!」

「出来る。 私のしていることなんて知れたものだ。 誰にでも出来る。 だが、そこに私の代わりになる人が居なければならないがな」

「何を言ってるんだか! 領主! なんとか言って下さい!」

二人の様子に我関せずといった具合に見ていた領主が僅かに相好を崩した。

「阿秀だけでなく、誰であってもその場所に必要な人間が居なければいけないということだ」

領主の説明に阿秀が一つ頭を下げると「そういうことだ」 と一言いった。 
阿秀の意図が見てとれて、してやられたと悟ったときには遅かった。



紫揺がガザンの元に行こうとして窓を開けた時、ドアの向こうで何やら慌ただしくする人の声が聞こえた。

「こんな時間になに?」

開けた窓をそっと閉めるとドアの方に歩き、ドアを開けると手すり越しにセッカ付きが早足に階段を降りて行くのが見えた。

「なんだろ?」

部屋を出て手すりに身体を寄せると、階下にセッカの姿が見えた。

「お疲れ様でございます」

階段を慌てて降りてきたセッカ付きが頭を下げながら上着を受け取る。

「ああ、本当に疲れたわ」

グッタリという体でソファーにもたれこんだ。

「お部屋でお休みになられてはいかがですか?」

「そうしたいけど・・・」

そう言うとセッカ付に目を合わせた。

「シユラ様は起きていらっしゃるかしら?」

「え? ・・・シユラ様でございますか?」

思いもかけない言葉にセッカ付が目を泳がせた時だった。 階段の手すりにチョコリンと摑まる紫揺の姿が見えた。

「ああ、いいわ。 起きていらっしゃるみたいね」

セッカが顔を上げ紫揺を見た。 しっかりと目が合ってしまった。

「シユラ様、お話があるので降りてきていただけるかしら?」

シーンとした時間だ。 階下からセッカの声が響く。

何を言われるのだろうか・・・。 キノラにしてもセッカにしても今までさほど嫌味を言われた覚えはない。 逡巡するが、何も聞こえなかったことにしてこのまま部屋に消えるわけにはいかない。 しっかりと姿を見られているのだから。 目もあったのだから。

仕方なく階段を降りる。 その間にもセッカは疲れの色を見せている。
セッカ付きが茶の用意でもしようとしたのか、その場から居なくなっていた。

(セッカさんはムロイさんの様子を見に行ったいたはず。 ムロイさんに何かあった? それともまたあの土地に行かされるの?)

心の中でアレコレと考えるが、全く先が見えない。
考えながらも一段づつ階段を降りていたが、とうとう階段を降り切ってしまった。 これ以上時間を稼ぐことなどできないし、時間を稼いだところで何が変わるわけではない。 せいぜい自分の心の整理くらいのものだ。
セッカの前に立った。 気怠そうにセッカが紫揺を見上げる。

「明日・・・。 明日の早朝、北の領土に行ってもらいますわ。 よろしいわね」

「え?」

え? っと驚いたところで、その危惧は階段を降りていた時にあったが、実際に言われると驚きを隠せない。

「どうしてですか?」

「シユラ様を探している方がいらっしゃるの。 その方に逢ってもらいます」

「私を?」

「ええ」

「それは誰ですか?」

「シユラ様の知らない方ですわ」

どういうことだ。 北の領土で誰が自分と会いたいと思うのか。 どこのどいつだ。

「知らない人? そんな人に逢いたくはないです」

ましてや、あの北の領土で。 お婆様が来るはずと言われた嘘の領土に。

「シユラ様が逢いたいとか、逢いたくないとか思うのは自由ですけれど、明日、此処を出て頂きます」

セッカが言い切った。

「行きません」

今までになくハッキリと断った。 お婆様が来るはずだったと言われた土地、その嘘を言われた土地に行く理由など皆目見当たらないのだから。

「駄々をこねられては困りますわ」

そうねぇ・・・と言ってセッカが身体を起こした。

「その方とお話すると・・・もしかしてシユラ様の力の元が分かるかもしれませんわよ?」

「は?」

ここにきてまた力の話か。

「マツリ様なら上手くお話して下さると思うわ」

突拍子もない名詞が耳に降りかかった。

「マ! マツリー!?」

紫揺が怒声に込めたマツリの名詞とは知らずセッカが続ける。

「ええ。 マツリ様。 ああ、この土地ではマツリと言えば祭や、祀りですわね。 ああ、何か勘違いしないで頂けるかしら? 屋台が出る祭でもないし、神を崇める祀りでもありませんことよ。 マツリ様と言うお名前の方がいらっしゃるの。 その方がシユラ様に逢いたいと仰っておられるの」

御免被る。 マツリと逢いたくはない。 気分が悪くなる。 それはセッカの知り得る所ではないが。

「逢いたくありませんから、行きません」

紫揺がこう言う理由を知らないセッカは、単に知らない人と逢いたくないと言っている程度にしか思っていない。

「それは困りますわね。 でも明日、必ず行ってもらいます」

いつも見ていたセッカの目と違って、初めて見る射貫くような目だ。

「シユラ様が足を動かさなくとも、使用人に担いででも行って頂きますから」

紫揺がどう言おうと、セッカの腹は揺らぐことは無いらしい。

「・・・お休みなさい」

そう言うと紫揺が踵を返して階段を上がった。

「明日からは馬車で走りますから、ゆっくりと休んで鋭気を養って下さいませね」

紫揺の背にセッカの言葉が投げかけられた。
階段を上がり部屋に入ると後ろ手にドアを閉めた。

「どうしよう・・・」

窓を見る。 色んなことが頭をかすめるが、明日になれば強制的に北の領土に連れて行かれる。 それどころではない、あの気分の悪くなるマツリに会わせられる。 いや、それ以上に考えなければいけないことがある。 北の領土に行ってしまってまたここに帰って来られる保証などない。

何故マツリが自分に逢いたいなどと言っているのか、マツリが力のことを知っているのか、それをどうして説明することが出来るのか、そんなことを考えている余裕などなかった。

「今日しかない・・・」

上着を持って窓にかけよると、誰かに気付かれるかもしれない勢いで、バンと音をたてて窓を開け、そのまま身を翻した。
いつもならそんな音をたてないのに。
数十秒後に二階の一室で、ほのかな明かりが点いたが、前だけを見ていた紫揺に気付ける余裕はなかった。

「先輩!」

いつもの所にいつもの先輩がいた。

「やぁ、今日は遅かったね」 

「先輩! 今夜、うううん、今夜でなくてもいいから、明日の早朝までに船で迎えに来てもらえませんか!?」

おっとりと構える春樹に噛みつくように紫揺が言うが、窓を開けた時と違ってちゃんと声は抑えている。

「え? どうしたの急に?」

「すみません、事情が変わって!」

「ちょっと前にも同じことを言ってたよね?」

「だから・・・、前とは違うところの事情が変わったんです! 明日、明日の朝になる前に此処を出たいんです! 我が儘を言っているのは充分に分かっています! それでも! それでもお願いします!」

「あ、ああ、まぁ後で連絡してみるよ」

「今すぐにお願いします!」

「え?」

「お願いします!」

「じゃ、じゃあ、ちょっと待ってて。 でも、あんまりアテにしないで―――」

言いかけると紫揺が大きく頭を下げた。

「お願いします!」

そのお願いしますの言葉には、連絡をして欲しいというだけではないのが分かる。 連絡をして了解を得ることを望んでいるのだ。

「・・・取り敢えず、待ってて」

紫揺の頭が上がることはなかった。
階段を上ると自室に入り、万が一にも見つかってはいけないと隠してあったスマホを手にし、電源を入れると電話をかけた。

「アイツのことだからまだ起きてるよな。 でも親父さんが起きてるかどうかだよな・・・」

呼び出しコールが鳴る中、一人ごちる。 五度目のコールで繋がった。

「どした?」

耳に覚えのある声が聞こえた。

「よっ、こんな遅くに悪い」

「全然、まだ宵の口にもなってないうちだろ」

「なってるよ。 十分に。 なぁ、親父さんどうしてる?」

「これから始まる」

「は!?」

「お袋の愚痴が・・・そうだな、あと一、二時間でもすれば、完全に酔っぱらって完全なお袋の愚痴が始まると思う。 それよりさぁ、お前の言ってた船を出す話、アレ早めてもらえない? 毎晩毎晩、お袋の愚痴を聞かされてるんだぜ? 船を出してほしいって言ったら意気込んで酒も手放して、すぐにでも海に出るんだけど? そしたら一日だけでもお袋の愚痴を聞かなくてもいい日があるってもんだし、船に乗ったのが切っ掛けで、もしかしてお袋の愚痴も止むかもしれないしさ」

「あ? え? そうなの? んじゃ、今からとか言ってもいいわけ?」

「へ? 冗談だろ? 天国へのお誘いの言葉、言ってくれるわけ?」

「いや、お互い疑問符を付けるのはやめよう。 ハッキリと言う。 いまから船を出してくれる? って、ヤッパ疑問文になってるじゃんか」

「おお、疑問文大歓迎。 連日親父の愚痴に付き合わされてる俺を救ってくれるのか?」

「いや、だから!」

疑問文の投げ合いはよそう。

「これからすぐに頼む。 無理でも明日の朝までにっ!」

「分かった! 朝なんて待ってられない。 今すぐ行く。 あ、じゃない、これから用意をして出るから待ってろ。 以前聞いた所で間違いないんだな?」

事前に場所は説明してあったが、春樹は船を操れない、その知識も無い。 この場所を説明するに一筋縄ではいかない場所であることは分かっている。
どこどこの駅を降りて何筋目を右に曲がって、などと説明できないのだから。

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虚空の辰刻(とき)  第126回

2020年03月02日 21時50分59秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第120回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第126回



「シユラ様?」

「あのね、高校時代の友達が言ってたんです」

友達には弟がいる。 友達は夜のトイレが恐かったらしく、寝ている弟を起こしてトイレに付き合わしていたという。 おまけにトイレの外で歌を歌わせていたとか。

もう一人の友達は二人姉妹の妹だったという。 姉は何かにつけ妹を気にしてバイト代からお小遣いをくれたりしていたが日頃は顎で使われたという。

他には、五歳上の兄がいた友達。 幼少の頃から兄とは全く話をしなかったそうだ。 兄が高校生になった頃には体臭が臭くてたまらなかったという。 でもその友達が高校生になって友達を家に連れてくると、兄が妹の友達を退屈することなく遊んでやったと聞いた。

それは紫揺にとって羨ましい話であった。

「友達が兄弟姉妹の悪口を言うんです。 その時は兄弟姉妹がいた友達に憧れましたけど、でも兄弟って、姉妹って無二なんだと思います。 それは血が繋がっているからだけではないと思います。 血が繋がっていなくとも、想いがあれば互いのことを想えると思います。 私はニョゼさんのことをお姉さんだと思っています。 出来の悪い妹を持ったお姉さんだと」

「シユラ様・・・」

「あはは、独りよがりです」

紫揺は正直な思いを大きなマットで覆うように言ったつもりだったが、全く覆われていない。

「そのようなことは御座いません。 出来が悪いなどということは御座いません」

え、そこ? と突っ込みたかった。 そこじゃない所を聞いて欲しかったのだから。

「あ、あはは。 そうかな」

そうかなと言いつつ、そうじゃないと思っている。

「そうです。 シユラ様はご自分にもっと自信を持ってくださいませ」

「・・・はい」

無意識に頭が下がってしまう。 伝えたいことはそんなことではないと。

「それに、シユラ様から “お姉さん” そう言っていただいて、わたくしがどれ程嬉しく思いますことか」

そう、そこ。 そこを何よりも言いたかったのだから。 ここを否定されては撃沈してしまう。

「有難うございます。 正直にその言葉を受け取らせていただきます」

パッと明るくなった顔を上げる。

ここのところニョゼに対する紫揺の言葉は崩れた言いようになっていたが、心からうれしかったのだろう、ニョゼの言葉への返答を噛みしめた。

「全く嘘などございません」

ニョゼが微笑んだ。

ニョゼの言葉が嬉しかった。 心に充満する幸せを感じる。
その幸せを感じながら切断する。 そうしなくてはならない。 ずっと一緒に居られないのだから。

「有難う。 ・・・私はニョゼさんの幸せを想います」

何度自分に言いきかせたことか。 この言葉を最後に思う。 もうニョゼに自分の心の内を今後二度と言わないと心の内で誓った。
これ以上言うと未練と思われるだろうと。 それはニョゼにとって後ろ髪を引くことになるだろうと。 思い上がりかもしれないが。
執心はあった。 だがそれを声高に言ってはならないと思った。 声高になどと言うものではない、声を潜めても言うものでもない。 ニョゼの幸せを願う者ならば。

紫揺が食事を済ませると、すぐにニョゼとショウワが屋敷を出て行った。
本土に入りあらゆる検査をしたが、ショウワの身体に異常は見つからなく、鎮痛剤と寝不足が見られるからと入眠剤を処方されただけとなった。



広い海原に船が浮いている。 太陽が差し、波のまにまにキラキラと光る。 一筋の風が吹いた。 髪の長い女が居ればその髪を美しく遊ばせただろう。
だが船に居るのは右を見ても左を見ても、残念ながら短髪の男だけであった。

「ん?」

野夜が双眼鏡の中で眉根を寄せた。

「どうしたぁ?」

立っている野夜の足元に座っている醍十(だいじゅう)が間延びした声を出しながらボォーっと目の先のさざ波を見ている。

「バカ犬たちが居なくなって長い」

「はぁ?」

双眼鏡を覗いていない醍十には何のことだか分からない。

野夜の言いたいことはこうだった。
いつも通りに野夜曰くのバカ犬であるドーベルマンたちが海岸と木立の中を行ったり来たりしていたが、もう20分以上もバカ犬たちが海岸に出て来ていないということだった。

「飯の時間じゃないのかぁ?」

「いや、確かに飯の時間はあるにはあるが、バカ犬たちは交代で食べさされているようだ。 いつも何匹かはうろついている。 ・・・こんなに長い時間一匹も居なくなるなんてことは今までになかった」

「んじゃ、全員で風呂入ってるとか」

さざ波から目を外し野夜を見上げると思いっきりねめつけられていた。

「ウソだよ。 冗談ってくらい分かるだろうよ」

デッキに居る二人が剣呑な雰囲気を出す中、サロンに居た梁湶(りょうせん)のスマホが鳴った。

「阿秀?」

梁湶の声にサロンから遠目に島を見ていた全員が振り返った。

「・・・はい、分かりました。 今すぐにこちらを出ます」

スマホをポケットに入れると誰を見るともなくすぐに話し出した。

「領主が来られるそうだ。 迎えにいく」

全員の顔に渋面が生まれでた。 それは領主を迎えたくないといった意味ではない。 何日もここに居てまともな報告が出来ないということに対してだった。 全員が己の不甲斐なさに臍(ほぞ)を噛んだのだ。

領主はさっき此処に着いたのではない。 数日前に着いていた。 だが阿秀からの報告でここに来なかった。
どれだけ来たかったか。 それは誰もが分かることだった。 だが領主は阿秀からの報告を聞いて、紫揺が居るはずの島に一歩たりとも踏み込めない事情を聞かされていた。

「阿秀が言うには、領主は此処に来るのを躊躇っていたそうだ。 俺たちに気を使ってくれていたんだろう。 決して俺たちを急かす為じゃない、俺たちに解せない、踏み込めない島がどういうものか見るだけだとな」

本来なら梁湶たちが一日とかからず島の状態を把握して、領主と共に紫揺をこの島から出していたはずだった。 それが未だに何も掴めていないどころか、片足さえも目の前の島に上陸出来ていない状態だ。

「野夜たちに言ってくる」

若冲(じゃくちゅう)が立ち上がった。

「頼む」

若冲がそのまま操舵席に座ることを意味している。
若冲から話を聞いた不穏な雰囲気を発していた二人もまた、渋い顔になった。

「今すぐ出るのか?」

犬が居なくなったことに何かあるのでは? と思っていた野夜が訊いた。

「ああ」

言いながら操舵席に足を向ける若冲。

「犬っころのことなんて何でもないだろ。 きっと御馳走でも出されてるんだよ。 犬猫なんてそんなもんだ」

若冲の後姿を追う野夜に醍十が言う。

「え?」

「え、って?」

「・・・そうか」

二人の会話を背に聞きながら若冲が操舵席に着いた。

「獅子だ」

「へっ? 今度は獅子か?」

「どうして気付かなかったんだ・・・」

エンジンのかかった船がゆっくりと動き始めた。


「無理を言って悪かったな」

乗船してきた領主がサロンに座る者を見渡し改めて言った。

「いえ、俺たちの力のなさです」

口を開きかけた梁湶をおいて醍十が言った。 その醍十を見て領主がコクリと首肯したが、醍十の言葉を是としたわけではない。

「お前たちがどれほどに紫さまの事を想っているか知っておる。 お前たちに力及ばずなどとはありはせん。 ただ、状況に手をこまねくことはあるわのう。 それは当たり前のことだ」

エンジン音を立てて船は前進している。

「お前たちが手をこまねいている島を見たいだけだ。 北のやり方をな」

全員が頭を下げた。 何故なら、あの島はかなり遠目の位置からは建物の上部が見えるが、それは中の状況を知るに何の役にも立ちそうにない。 近づくと徹底的に外から見ることが出来ないようになってる。
ほんの小さな島。 その島の四方にはちゃんと滑らかな海岸がある。 だが海岸の先には凶暴な犬と獅子が姿を見せ、獅子が姿を見せる奥にはぐるりと岩壁があり、その岩壁の上に高木が林立している。

犬達が守る桟橋のある先は車が出入りし、その先はカーブをしているようで、その両側に木々が立ち、全く中を見ることが出来ない。 獅子と犬が出入りしている隙間にも木々が林立していて全く島の中を覗き見ることが出来ない状態だ。

ついでに言うと、この状態があるからして、三階の紫揺の部屋からは空しか見ることがで出来なかった。 島の外、海面が見られなかったわけであった。
と言っても今では海岸を目にし、岩壁があるのも目にしたのだから何もかも分かっている。

沈黙がある中、遠目に島を見ることが出来る距離まで近づいた。 サロンから出てきた領主と阿秀、そしてちんまりとついてきていた此之葉がこれまたそっと阿秀の後ろについている。

誰知れず、その此之葉がじっと先の島を見て目を閉じた。

「四方が全てあのようになっています」

デッキに出ていた野夜が領主に言う。

「ほぅー。 見事に隠しているという体だな」

木々の高さからして樹齢はかなりのものだろう。 北の領主が植えこんだのか、その前の持ち主が植えこんだのか、それとも自然のものなのかは分からないが、東の領土からすれば隠しているとも言いたくなる。

ちなみに獅子の居る場所と犬の居る場所の境には頑丈な柵があり、海水に浸かっている所には柵が錆びないように、足元はセメントで固められている。 これは間違いなく北の領主がしたものだろう。

今日の波は静かだ。 その静かな波の音の合間に風に乗って僅かに犬の吠える声がする。 若冲がかなり船を近づけているからだろうか。

「ふむ、これ以上はいいか。 不審がられて何かがあっても困るからな」

野夜が首肯すると若冲に合図を送った。 ゆっくりと船が止まる。

「領主、阿秀から聞いていると思いますが」

そう言ったのは梁湶であった。

「島の周りには犬・・・ドーベルマンと獅子がいます。 共に何頭いるかの確認が出来ていません。 我らが我が身を捨てて乗り込んだとて、帰りがあるかどうかはわかりません」

行きはよいよい、帰りは・・・誰も居ない。 というわけだ。 それでは紫を我が領土に迎えられない。

「そんなことをお前たちにさせる気はない」

「ですが、下見すらまともに出来ない状態では・・・」

「この場所は間違いなく独唱様が言われた場所に違いないな?」

今更のように阿秀に念を押して訊く。

「塔弥からの知らせの範囲は大き過ぎましたが、この辺りにはこの島しか存在しません。 まず、いえ、この島に間違いありません」

阿秀が言い切るには英断がいった。 これで間違えていたのならば笑い話にもならない。 首をかけての返事だった。

「阿秀がそう言うのならば、間違いないであろう。 では、下見など要らん」

むさっ苦しい男達の声ばかり響いていたところに、さざ波の音をかいくぐって涼やかな声が響いた。

「私が船着き場で見た方が紫揺様でしたら、間違いなくあの島にいらっしゃいます」

閉じていた目をゆっくりと開ける。
古の力を持つ者、その此之葉が口を開いた。

船着き場で紫揺らしき者に落ちたひざ掛けをかけようとした。 車いすに座り意識も無かったが、その者の気は感じ取っていた。 机に残る気、紫揺だと。

「ふむ。 此之葉のお墨付きか」

言うと一旦言葉を切って続けた。

「この島の出入りは?」

「時折。 先日も一隻の出入りがありました。 その前にも」

セノギに続いてニョゼとショウワが病院に行ったときのことを梁湶が言う。

「追ったのか?」

口を開きかけた梁湶に代わって阿秀が答える。

「一度目の時にすぐに連絡が入りましたが、船で追うようなことをすればすぐに分かってしまうと私が止めました」

以前、島を出た船を確認した若冲がすぐに船着き場で待機していた湖彩に連絡を入れた。 船の特徴を聞いた湖彩が何食わぬ顔でその船に近づき下船するのを待ち、そこで何気なく話しかけると、注文のあった食材を島に届けたということであった。

そして船から食材をおろしただけで、島の中には入っていないということだった。 そのことがあったからなのか、阿秀から言われていたにもかかわらず、その時に船着き場での見張りを疎かにしていた。
セノギが出た時は、誰も船着き場にいなかった。

「尤もだ」

「それ以降は、必ず船着き場に誰かが居るようにと指示を出しています」

今は湖彩と悠蓮が船着き場に居る。

誰もが互いの目を合わせた。 それ以前に阿秀から指示を出されていたのに、それがなかったものとしている。 そしてすぐに全員が合わせていた目を下げた。 自分たちの失態を領主に言う必要がないということだ。

「で?」

阿秀が梁湶の目を見て領主の問いに答えるように促す。

「はい。 二度目は野夜と湖彩が船着き場にいましたので下船後を二人が追いました。 病院に入ったそうですが、下船したのは老人と若い女の二人だけだったそうで、老人の方がいやに顔色が悪く、女の心配ぶりも大きかったようで、詰問もなにも、声すらかけられなかったらしいです。 これが男なら構わずとっ捕まえていたんでしょうが」

甘いと言われればそれまでだが、これが東の領土の民である。

「老人と女か・・・」

和服の袖の中で組んでいた手を解くと、片手を顎にやった。

「いったいどういう生活をあそこでしているのやら」

「言ってみれば、此之葉が独唱様を病院に連れて行ったようなものだな」

のんびりと醍十が言うが、領主はそういうことを言っているのではない。 が、ふむ、と納得したように声を漏らした。

「・・・そうか。 古の力か」

領主の小声に阿秀が眉を上げた。

領主にはずっと疑問があった。 どうして北の領土が紫揺の居所を知ったのか。 それ以前に、どうして紫揺の存在を知ったのか。 その疑問がいま解けた。

「その老人が古の力を持っておるのかもしれん。 そして紫さまの居所を掴んだ。 独唱様が紫さまを探し当てたと同じ時にな。 独唱様も紫さまの後を追われて、具合を悪くされておる。 その老人も身体に無理がきたのかもしれん」

「北にも古の力を持つ者が・・・」

ポツリと阿秀がもらした。

「それにしても・・・」

領主が口の中でぼそりと言う。

「ええ。 その老人の古の力は恐ろしいものがあるようです」

厳しい口調で阿秀が言った。

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