『虚空の辰刻(とき)』
- 虚空の辰刻(とき)- 第8回
ホテルに着き部屋に入ると領主がソファーにドッカリと座り込んだ。 さすがに乗りなれない乗り物つづきで疲れたようだった。 その後ろに此之葉が立とうとしたとき 「此之葉も疲れただろう座りなさい」 領主が目の前のソファーに座るよう促した。
コクリと頷くと帯が背もたれに当たらないよう、肩までの髪の毛を持つ市松人形のようなその姿を浅くソファーに預けた。
領主と此之葉が着ているのは、初めて紫揺に会う時に失礼のないように、この日本での衣裳を揃えてくれと、領主が阿秀に言って揃えさせたものだった。 領主には羽織袴、此之葉には振袖だった。
阿秀が緑茶を入れて二人の前に置く。
「今は、もう会社に行かれている時刻です。 この衣装のままで会社に行かれるのは・・・。 着替えを用意しております」
「そうか。 早く出んといかんな」
「紫さまには二人付けております。 今のところ北の影が見えたという報告はありません」
「そうか。 北が早々に紫さまの居られる所が分かったとしても、北の領主を待っておるのかもしれんな」
「それはどうでしょうか。 先 (せん) の紫さまのことを思いますと何をするやら・・・」
「うむ・・・。 わしもその時のことは話にしか聞いておらんから詳しくは分からんが、船の上には領主がおったそうだ。 さすがの北も領主無しという無礼はせんであろう」 一口飲んだ湯呑みをコトンと置いた。
「領主が居てあのようなことをすること自体が信じられない話です。 無礼どころの話ではありません」
冷静に言ってはいるが、嫌悪という箒を持ってその無礼を掃き散らす思いで言う。
「ああ、そうだ。 信じられないことだ。 今の領主がまともであってほしいと願っておったが、無理な話だったようだな」
北の影が見えたことで領主がまともでないことを改めて知った。 だが東から見ての無礼である。 決して北から見ては無礼ではないのかもしれない。 もし誰かがそんなことを言えば、東は憤慨するであろうが。
領主が此之葉を見て茶を飲むよう目顔で促した。
コクリと頷くと白皙にして繊弱な手を伸ばすと湯呑みを持った。 此之葉のことをよく知らない者が見ると支えてやらねば今にも倒れるのではないかと思うだろう。 が、決してそうではない。 阿秀さえもその才に歩を引く此之葉である。 勿論、警察署内に居た二人も。
阿秀が相変わらず無表情な此之葉の顔を見た。
(乗ったこともない車や飛行機に乗ったというのに、疲れも見せないか)
領主が時計を見るともうすぐ11時になろうとしている。
「そろそろ着替えるとしようか。 どうだ? 此之葉はもうよいか?」
訊かれ、コクリと頷く。
「此之葉の服は隣の部屋に用意してある。 このカードで開けて入るといい」 カードキーを渡しかけて小首を傾げる此之葉に気付いた。
「あ、そうだったな。 私が開けにいこう」 この土地のことは何一つ分からない。 よってキーの開け方が分からなかったのだと気付いた。
車を走らせること30分弱。
着いた所は此之葉が見た事もない建物であった。 表情の薄い此之葉が少し目を丸くしている。
そう高くはないブロック塀で囲まれた中は、車が何台も停められる広さがあり、数台停まっていたとしても、充分に2トントラックがUターンできる。 今は大型トラック1台と、営業車であろうか社名の入った車が2台、通勤の車と思われる車が数台停めてあった。 そして奥に建物があり、その右にプレハブ工場が見える。
左にある建物は2階建てになっていて、1階の左端にガラスの玄関扉があり、その横右側にずらっと大きな窓があった。 その窓から中で仕事をしている姿が見える。 1階が事務所になっているのであろう。 2階にも大きな窓が見えるが、ブラインドが下がっていて中を窺えることは出来ない。
プレハブ工場と2階建ての建物の間には、屋根付きの駐輪場があり、5台ほどの自転車とその奥に数台の原付バイクが停めてあった。
ブロック塀の中に入る前に、1人の男が近づいてきて助手席の窓をノックした。 運転席から助手席の窓を下げる。
「どうだ?」 阿秀が男に聞く。
後部座席に座る領主に目礼すると阿秀に目線を戻して答えた。
「今のところ北の影は見えません。 紫さまは今、使いに出られていて悠蓮 (ゆうれん) がついています」
阿秀の服装を見て、おや? と思いながら答えた。
「そうか」
「領主、どう致しましょう」
「うむ・・・。 先に入っておこうか。 会社と紫さまとの様子も窺えるであろう」
はい、と答えると男に向かって言う。
「今から入る。 後ろに付いて車を入れるといい」 頷くとすぐに車の元に走った。
領主の乗った車がゆっくりと敷地内に入って行くと、遅れてもう一台が入ってきた。 領主たちの車の運転をしていた男はそのまま残り、先程窓をノックした男、若冲 (じゃくちゅう) が領主たちと入口に向かった。
入り口のドアが開いた。 一番近くに居た事務員が顔を上げると最初に入ってきた男性を見て ついウッカリ 「あら」 と一言漏らしてしまった。
「いらっしゃいませ」 どこからも聞こえる声。 教育が行き届いているようだ。
「いらっしゃいませ」 改めてさきほど 「あら」 と言った、紺色のスモックの事務服にアームカバーをつけた歳かさの事務員が、ドア横にあるカウンター越しに応対に出てきた。
「こちらに藤滝さんがいらっしゃると伺いまして」
(あら) 今度は声に出さず、口から出る前に止めることが出来た。 まぁ、いい男は声もいいのかしら、などという浮薄さに、コホンと咳払いを一つした。
「藤滝さんのお客様? ・・・ですか?」
入口扉を開けると正面には何もない状態でずっとフロアーの片隅だけが続いていた。 そして左手には窓が続き、右手にカウンター、その奥に事務机が広がっている。 駐車場から事務所内を見ることが出来た窓があり十分な明り取りになっている。 陰湿さを感じさせない事務所である。
カウンター越し、事務員の前に居るのは、薄くストライプの入ったグレーのスーツに、見慣れている白ではなく、青く襟元がお洒落なカッターを着ている、30半ばくらいの痩身長躯、眉目秀麗、無駄のない流れるような所作。 文句のつけようのない男が立っている。 これが若いOLなら目を奪われただろう。 だが、応対に出たのは亀の甲をも黙らせる、年の功を背中にしょってる事務員だ。
その男の後ろに茶色の袷の紬に羽織を着ている温容そうな初老の男性、そのまた後ろには黒のスーツ姿がなんとも可愛らしいオカッパ頭の色白の女の子。 その横には20代くらいの濃い青色のスーツに身を包み、体格のいい身体で後ろ手に立っている男が居た。
どうにも理解出来ない取り合わせに胡乱な目を送る。
と、その時ガラス扉が開いた。
「これは・・・お客様ですか?」
低頭して入ってきたのは、小柄で白髪さえ寂しく風に数本揺れる頭髪をした気の良さそうな男だった。
「あ、社長。 藤滝さんのお客様だそうですけど・・・」 少々眉を寄せて小柄の男に緩く訴えた。
「藤滝さんの?」
社長と呼ばれた小柄な男が、一番前に立つグレーのスーツを着た阿秀に目を移した。
「ええ。 ちょっと藤滝さんにお話がありまして。 お仕事中にご迷惑とは思ったのですが、一人住まいの藤滝さんのお宅に男が伺うのは失礼かと思いまして、こうして職場にお邪魔させて頂きました」
「藤滝さんが一人住まいとご存知だったという事です、か・・・?」 気のよさそうな顔がゆっくりと紫揺を守ろうとする顔つきに変わった。
「ええ。 私と後ろのご隠居は藤滝さんの祖父の縁者です。 藤滝さんには直接ご連絡をしたことはないのですが、最近になり藤滝さんのお母様に御用がございまして。 すると昨春にお亡くなりになっていたという事でしたので・・・」
そこまで言うと心痛な表情を作った。 そのあまりの演技の上手さに20代と見える青色のスーツを着た若冲 (じゃくちゅう) が阿秀のその姿を見ないように目を逸らした。 でなければ今にも大笑いをしそうだったからだ。
(ここに醍十 (だいじゅう) が居れば、何と言っただろうか・・・あ、言う前に顔に出ているな) クッと笑いを堪える。
醍十というのは警察署内に潜んだ体の大きな真っ直ぐな性格の持ち主の男だ。 その醍十は嘘をつくということが出来ない男だったし、もちろん裏事を考えることも出来ない。 だから今の阿秀を見たならば目を白黒させるであろう。 あの素晴らしい阿秀がそんなことをするはずはないと。 少なからず若冲自身も思うのだから。
その横で此之葉はピクリとも動かない。
「ああ、藤滝さんのお爺さんの縁者さんですか。 遠い親戚という事ですか。 ま、こんな所ではなんですから」 言うと、歳かさの事務員に人差し指を上に向けてみせた。
事務員が顔を歪めながらもカウンターから出て、入り口正面の右にある階段を上がっていった。
「どうぞ。 2階に」
社長を先頭に階段を上がる。 踊り場で一度曲がり、ゾロゾロと2階に上がるとそこは応接室になっていた。 先に上がった事務員がブラインドを上げたのだろう、よく晴れた日、電気をつけなくても充分に明るい。
通された領主と阿秀がソファーに座る。 20代の男、若冲と、おかっぱ頭の此之葉が閉められた戸の前に立った。 部屋の端にあたる戸は入って正面から左手に応接セットがある。 右手にはずっと出窓が続いている。
「あれ? どうぞお嬢さんもお若い方もお座り下さい」
吹けば飛ぶような頭髪の寂しい社長に答えたのは阿秀だ。
「いいえ、どうぞお気遣いなく。 二人は秘書ですので」
秘書といわれた若冲が笑いを堪えるのに口を真一文字にした。
「秘書? ほぉー、それはそれは。 大きな会社をしておられるんですか?」 若冲たちから目を離した社長が席に着いた。
「あ、これは失礼致しました」 胸ポケットから名刺を出すと 「こういう者です」 と似非名刺を差し出した。
(阿秀も役者だな。 それこそ醍十が見たらパニックを起こすかもしれないな)
いつの間にそんなものを用意していたのかと驚きながら、いつもの阿秀とは別人の様子を見せる姿に心の中で呟いた。 それに名刺などもともと持ってはいないが、常日頃の阿秀なら名刺を出し忘れるなどということはない筈だ。 出し忘れたなどと、狙ったのは見え見えだ。
(だが、阿秀が役者をやれるとは知らなかったな) 阿秀の所作もいつもと違うように見える。
胸元のポケットに刺してあった老眼鏡をかけると 「ほぉ、代表取締役で・・・TARIAN?・・・ですか?」 その老眼鏡から上目遣いに阿秀を見る。
「ええ、まだ日本には支社がないのですが」
「という事は、海外でされているということで?」
「ええ、アパレル関係ですが主に女性の服飾関係をしております。 インドネシアで会社を立ち上げておりましてTARIANというのは、ダンスとかそういう意味になるんですが、今更ながらベタな社名を付けたと思っているんです」 これ以上突っ込まれないよう、先手を打って自虐的な言葉を発すると頭を掻く仕草をした。
それで今日の服の感じがいつもと違うのか、と若冲が納得をした。
フランスやアメリカという国名を出すと余りに、もっともらしい似非と見られるかもしれない。 間違いなく似非なのだが。 真実味に欠けるだろうと敢えて避けた。
そう言う30代半ばの男にいい加減な目を持っていないかを捉えようと、社長が阿秀の目の奥を見る。
だが、どれだけ探られても当の本人の目は真剣である。 穏便に紫揺をこの会社から連れ出したいのだから。 とは言え内容はとってもいい加減だ。
たとえ短期間であったとしても、下調べは充分にしている。 相手は機械屋だ。 うかつに機械的なことを言えば、そのまま色んなことを問われて付け焼刃の素人は完全に疑われるであろう。 だから、服飾と言えば機械屋は何も分からないだろうと思った。 それも女性の服飾と言えば。
「ほぅー、海外ならず、服飾とまでいわれましたら私はチンプンカンプンですな。 いやいや、言葉は大切ですからな。 女性の服飾でダンスとはよく考えられましたよ。 それにしてもまだお若いのに?」
訝る目で見る社長に両の眉を上げて阿秀が答える。
「偶然の成功です。 運が良かったのでしょう」
「ご謙遜を」 と言ったところで阿秀への疑惑が飛んだかどうかは分からないが話を戻した。
「で? 今日は藤滝さんにどんな御用で?」
阿秀達が入って来た別のドア。 奥のドアでノックが3回鳴ると、さっきと違う事務員が茶を持って入ってきた。 2階には応接室のほかに違う部屋ともう一つ階段があるようだ。
応接室に入ってきた事務員は、慣れた手つきで3人分の茶をテーブルに置き、ドアの前に立つ2人には出窓に茶を置くとチラリと阿秀を見て応接室を出て行った。
順番で言うと、先に客へ茶を出すのが常識だが、この事務員が3番目に置いた茶は自社の社長であった。 立ち聞きをしていたのだろう。 窓際に立つ二人が秘書というのを聞いたに違いない。
『あら』 と言った事務員がお茶を淹れようとしたところ、この事務員が挙手をして自分が淹れると言い出したのだ。
「いい男ですよね。 今度は私に譲って下さい」 と、付け加えて。 特筆すると、配偶者あり、保育園に預けている2歳の男の子がいる事務員だ。
- 虚空の辰刻(とき)- 第8回
ホテルに着き部屋に入ると領主がソファーにドッカリと座り込んだ。 さすがに乗りなれない乗り物つづきで疲れたようだった。 その後ろに此之葉が立とうとしたとき 「此之葉も疲れただろう座りなさい」 領主が目の前のソファーに座るよう促した。
コクリと頷くと帯が背もたれに当たらないよう、肩までの髪の毛を持つ市松人形のようなその姿を浅くソファーに預けた。
領主と此之葉が着ているのは、初めて紫揺に会う時に失礼のないように、この日本での衣裳を揃えてくれと、領主が阿秀に言って揃えさせたものだった。 領主には羽織袴、此之葉には振袖だった。
阿秀が緑茶を入れて二人の前に置く。
「今は、もう会社に行かれている時刻です。 この衣装のままで会社に行かれるのは・・・。 着替えを用意しております」
「そうか。 早く出んといかんな」
「紫さまには二人付けております。 今のところ北の影が見えたという報告はありません」
「そうか。 北が早々に紫さまの居られる所が分かったとしても、北の領主を待っておるのかもしれんな」
「それはどうでしょうか。 先 (せん) の紫さまのことを思いますと何をするやら・・・」
「うむ・・・。 わしもその時のことは話にしか聞いておらんから詳しくは分からんが、船の上には領主がおったそうだ。 さすがの北も領主無しという無礼はせんであろう」 一口飲んだ湯呑みをコトンと置いた。
「領主が居てあのようなことをすること自体が信じられない話です。 無礼どころの話ではありません」
冷静に言ってはいるが、嫌悪という箒を持ってその無礼を掃き散らす思いで言う。
「ああ、そうだ。 信じられないことだ。 今の領主がまともであってほしいと願っておったが、無理な話だったようだな」
北の影が見えたことで領主がまともでないことを改めて知った。 だが東から見ての無礼である。 決して北から見ては無礼ではないのかもしれない。 もし誰かがそんなことを言えば、東は憤慨するであろうが。
領主が此之葉を見て茶を飲むよう目顔で促した。
コクリと頷くと白皙にして繊弱な手を伸ばすと湯呑みを持った。 此之葉のことをよく知らない者が見ると支えてやらねば今にも倒れるのではないかと思うだろう。 が、決してそうではない。 阿秀さえもその才に歩を引く此之葉である。 勿論、警察署内に居た二人も。
阿秀が相変わらず無表情な此之葉の顔を見た。
(乗ったこともない車や飛行機に乗ったというのに、疲れも見せないか)
領主が時計を見るともうすぐ11時になろうとしている。
「そろそろ着替えるとしようか。 どうだ? 此之葉はもうよいか?」
訊かれ、コクリと頷く。
「此之葉の服は隣の部屋に用意してある。 このカードで開けて入るといい」 カードキーを渡しかけて小首を傾げる此之葉に気付いた。
「あ、そうだったな。 私が開けにいこう」 この土地のことは何一つ分からない。 よってキーの開け方が分からなかったのだと気付いた。
車を走らせること30分弱。
着いた所は此之葉が見た事もない建物であった。 表情の薄い此之葉が少し目を丸くしている。
そう高くはないブロック塀で囲まれた中は、車が何台も停められる広さがあり、数台停まっていたとしても、充分に2トントラックがUターンできる。 今は大型トラック1台と、営業車であろうか社名の入った車が2台、通勤の車と思われる車が数台停めてあった。 そして奥に建物があり、その右にプレハブ工場が見える。
左にある建物は2階建てになっていて、1階の左端にガラスの玄関扉があり、その横右側にずらっと大きな窓があった。 その窓から中で仕事をしている姿が見える。 1階が事務所になっているのであろう。 2階にも大きな窓が見えるが、ブラインドが下がっていて中を窺えることは出来ない。
プレハブ工場と2階建ての建物の間には、屋根付きの駐輪場があり、5台ほどの自転車とその奥に数台の原付バイクが停めてあった。
ブロック塀の中に入る前に、1人の男が近づいてきて助手席の窓をノックした。 運転席から助手席の窓を下げる。
「どうだ?」 阿秀が男に聞く。
後部座席に座る領主に目礼すると阿秀に目線を戻して答えた。
「今のところ北の影は見えません。 紫さまは今、使いに出られていて悠蓮 (ゆうれん) がついています」
阿秀の服装を見て、おや? と思いながら答えた。
「そうか」
「領主、どう致しましょう」
「うむ・・・。 先に入っておこうか。 会社と紫さまとの様子も窺えるであろう」
はい、と答えると男に向かって言う。
「今から入る。 後ろに付いて車を入れるといい」 頷くとすぐに車の元に走った。
領主の乗った車がゆっくりと敷地内に入って行くと、遅れてもう一台が入ってきた。 領主たちの車の運転をしていた男はそのまま残り、先程窓をノックした男、若冲 (じゃくちゅう) が領主たちと入口に向かった。
入り口のドアが開いた。 一番近くに居た事務員が顔を上げると最初に入ってきた男性を見て ついウッカリ 「あら」 と一言漏らしてしまった。
「いらっしゃいませ」 どこからも聞こえる声。 教育が行き届いているようだ。
「いらっしゃいませ」 改めてさきほど 「あら」 と言った、紺色のスモックの事務服にアームカバーをつけた歳かさの事務員が、ドア横にあるカウンター越しに応対に出てきた。
「こちらに藤滝さんがいらっしゃると伺いまして」
(あら) 今度は声に出さず、口から出る前に止めることが出来た。 まぁ、いい男は声もいいのかしら、などという浮薄さに、コホンと咳払いを一つした。
「藤滝さんのお客様? ・・・ですか?」
入口扉を開けると正面には何もない状態でずっとフロアーの片隅だけが続いていた。 そして左手には窓が続き、右手にカウンター、その奥に事務机が広がっている。 駐車場から事務所内を見ることが出来た窓があり十分な明り取りになっている。 陰湿さを感じさせない事務所である。
カウンター越し、事務員の前に居るのは、薄くストライプの入ったグレーのスーツに、見慣れている白ではなく、青く襟元がお洒落なカッターを着ている、30半ばくらいの痩身長躯、眉目秀麗、無駄のない流れるような所作。 文句のつけようのない男が立っている。 これが若いOLなら目を奪われただろう。 だが、応対に出たのは亀の甲をも黙らせる、年の功を背中にしょってる事務員だ。
その男の後ろに茶色の袷の紬に羽織を着ている温容そうな初老の男性、そのまた後ろには黒のスーツ姿がなんとも可愛らしいオカッパ頭の色白の女の子。 その横には20代くらいの濃い青色のスーツに身を包み、体格のいい身体で後ろ手に立っている男が居た。
どうにも理解出来ない取り合わせに胡乱な目を送る。
と、その時ガラス扉が開いた。
「これは・・・お客様ですか?」
低頭して入ってきたのは、小柄で白髪さえ寂しく風に数本揺れる頭髪をした気の良さそうな男だった。
「あ、社長。 藤滝さんのお客様だそうですけど・・・」 少々眉を寄せて小柄の男に緩く訴えた。
「藤滝さんの?」
社長と呼ばれた小柄な男が、一番前に立つグレーのスーツを着た阿秀に目を移した。
「ええ。 ちょっと藤滝さんにお話がありまして。 お仕事中にご迷惑とは思ったのですが、一人住まいの藤滝さんのお宅に男が伺うのは失礼かと思いまして、こうして職場にお邪魔させて頂きました」
「藤滝さんが一人住まいとご存知だったという事です、か・・・?」 気のよさそうな顔がゆっくりと紫揺を守ろうとする顔つきに変わった。
「ええ。 私と後ろのご隠居は藤滝さんの祖父の縁者です。 藤滝さんには直接ご連絡をしたことはないのですが、最近になり藤滝さんのお母様に御用がございまして。 すると昨春にお亡くなりになっていたという事でしたので・・・」
そこまで言うと心痛な表情を作った。 そのあまりの演技の上手さに20代と見える青色のスーツを着た若冲 (じゃくちゅう) が阿秀のその姿を見ないように目を逸らした。 でなければ今にも大笑いをしそうだったからだ。
(ここに醍十 (だいじゅう) が居れば、何と言っただろうか・・・あ、言う前に顔に出ているな) クッと笑いを堪える。
醍十というのは警察署内に潜んだ体の大きな真っ直ぐな性格の持ち主の男だ。 その醍十は嘘をつくということが出来ない男だったし、もちろん裏事を考えることも出来ない。 だから今の阿秀を見たならば目を白黒させるであろう。 あの素晴らしい阿秀がそんなことをするはずはないと。 少なからず若冲自身も思うのだから。
その横で此之葉はピクリとも動かない。
「ああ、藤滝さんのお爺さんの縁者さんですか。 遠い親戚という事ですか。 ま、こんな所ではなんですから」 言うと、歳かさの事務員に人差し指を上に向けてみせた。
事務員が顔を歪めながらもカウンターから出て、入り口正面の右にある階段を上がっていった。
「どうぞ。 2階に」
社長を先頭に階段を上がる。 踊り場で一度曲がり、ゾロゾロと2階に上がるとそこは応接室になっていた。 先に上がった事務員がブラインドを上げたのだろう、よく晴れた日、電気をつけなくても充分に明るい。
通された領主と阿秀がソファーに座る。 20代の男、若冲と、おかっぱ頭の此之葉が閉められた戸の前に立った。 部屋の端にあたる戸は入って正面から左手に応接セットがある。 右手にはずっと出窓が続いている。
「あれ? どうぞお嬢さんもお若い方もお座り下さい」
吹けば飛ぶような頭髪の寂しい社長に答えたのは阿秀だ。
「いいえ、どうぞお気遣いなく。 二人は秘書ですので」
秘書といわれた若冲が笑いを堪えるのに口を真一文字にした。
「秘書? ほぉー、それはそれは。 大きな会社をしておられるんですか?」 若冲たちから目を離した社長が席に着いた。
「あ、これは失礼致しました」 胸ポケットから名刺を出すと 「こういう者です」 と似非名刺を差し出した。
(阿秀も役者だな。 それこそ醍十が見たらパニックを起こすかもしれないな)
いつの間にそんなものを用意していたのかと驚きながら、いつもの阿秀とは別人の様子を見せる姿に心の中で呟いた。 それに名刺などもともと持ってはいないが、常日頃の阿秀なら名刺を出し忘れるなどということはない筈だ。 出し忘れたなどと、狙ったのは見え見えだ。
(だが、阿秀が役者をやれるとは知らなかったな) 阿秀の所作もいつもと違うように見える。
胸元のポケットに刺してあった老眼鏡をかけると 「ほぉ、代表取締役で・・・TARIAN?・・・ですか?」 その老眼鏡から上目遣いに阿秀を見る。
「ええ、まだ日本には支社がないのですが」
「という事は、海外でされているということで?」
「ええ、アパレル関係ですが主に女性の服飾関係をしております。 インドネシアで会社を立ち上げておりましてTARIANというのは、ダンスとかそういう意味になるんですが、今更ながらベタな社名を付けたと思っているんです」 これ以上突っ込まれないよう、先手を打って自虐的な言葉を発すると頭を掻く仕草をした。
それで今日の服の感じがいつもと違うのか、と若冲が納得をした。
フランスやアメリカという国名を出すと余りに、もっともらしい似非と見られるかもしれない。 間違いなく似非なのだが。 真実味に欠けるだろうと敢えて避けた。
そう言う30代半ばの男にいい加減な目を持っていないかを捉えようと、社長が阿秀の目の奥を見る。
だが、どれだけ探られても当の本人の目は真剣である。 穏便に紫揺をこの会社から連れ出したいのだから。 とは言え内容はとってもいい加減だ。
たとえ短期間であったとしても、下調べは充分にしている。 相手は機械屋だ。 うかつに機械的なことを言えば、そのまま色んなことを問われて付け焼刃の素人は完全に疑われるであろう。 だから、服飾と言えば機械屋は何も分からないだろうと思った。 それも女性の服飾と言えば。
「ほぅー、海外ならず、服飾とまでいわれましたら私はチンプンカンプンですな。 いやいや、言葉は大切ですからな。 女性の服飾でダンスとはよく考えられましたよ。 それにしてもまだお若いのに?」
訝る目で見る社長に両の眉を上げて阿秀が答える。
「偶然の成功です。 運が良かったのでしょう」
「ご謙遜を」 と言ったところで阿秀への疑惑が飛んだかどうかは分からないが話を戻した。
「で? 今日は藤滝さんにどんな御用で?」
阿秀達が入って来た別のドア。 奥のドアでノックが3回鳴ると、さっきと違う事務員が茶を持って入ってきた。 2階には応接室のほかに違う部屋ともう一つ階段があるようだ。
応接室に入ってきた事務員は、慣れた手つきで3人分の茶をテーブルに置き、ドアの前に立つ2人には出窓に茶を置くとチラリと阿秀を見て応接室を出て行った。
順番で言うと、先に客へ茶を出すのが常識だが、この事務員が3番目に置いた茶は自社の社長であった。 立ち聞きをしていたのだろう。 窓際に立つ二人が秘書というのを聞いたに違いない。
『あら』 と言った事務員がお茶を淹れようとしたところ、この事務員が挙手をして自分が淹れると言い出したのだ。
「いい男ですよね。 今度は私に譲って下さい」 と、付け加えて。 特筆すると、配偶者あり、保育園に預けている2歳の男の子がいる事務員だ。