- 国津道(くにつみち)- 第4回
週末、土曜日、休日出勤になった。 週末に終わらせなければならない仕事が、金曜日に残業をしても終わらなかった。 祐樹が実家に戻っていて良かった、退屈にさせるところだった。
「あれ? 詩甫ちゃん?」
出勤するとすぐに声がかかった。
「え? 願弦(がんげん)さんも出勤ですか?」
三十の歳を少し過ぎた熊のような容姿に柔和な物腰の男である。
「ああ、ちょっとややこしいことがあって・・・って、あれぇー? もしかして俺の失敗、詩甫ちゃんが被ってくれた?」
ミスをした伝票上の事である。 その為の金曜日の残業と今日の出勤である。
詩甫がくすりと笑う。
願弦は俺の失敗と言うが部下のミスである。 願弦とはそういう男である。
せっかく特殊な大学を出たのだから、親元で兄と一緒に親のあとを継げばこんな所で部下の尻拭いの為に働くことも無いだろうに。
「悪い」
両手を合わせて拝むように頭を下げる願弦に詩甫が左右に首を振る。
「これが私の仕事ですから」
願弦と別れて三階の事務所まで上がり、金曜日からの仕事の続きをすると中途半端な時間に終えた。 金曜日にもう少し頑張っていれば今日の出勤は無かったかもしれない。
「って言っても・・・」
腕時計を確認すると午後二時になろうとしている。 あのまま金曜日で終わらそうとしていれば、完全に午前様になってしまっていたということだ。
「それは有り得ない」
願弦に挨拶をしてから会社を出たが願弦はまだまだ残るようであった。 部下のミスが酷いようだ。
駅に向かって歩いていると、正装をした浅香らしき人物がタクシーを降りるのが目に入った。
「・・・浅香さん?」
後姿だ、それにいつもと違う服装。 自信がない。
僅かな声に浅香が振り向いた。
「や、野崎さん」
間違いなく浅香だった。
「えっと・・・その服装は・・・」
「はい、披露宴に出て来ました。 これから二次会三次会がありますけど、一旦休止です。 着替えに戻ります」
あ、四次会もあるかなぁ、と口の中で言っている。
「この近くの結婚式場ですか?」
そんな所があっただろうか。
「近くではないですけど最寄り駅がここなんです。 ここからタクシーでした。 にしても、もう少し涼しい時を選んでほしかったかな。 暑すぎ」
詩甫が相好を崩す。 確かに暑さが厳しい。
「ジューンブライドにはならなかったんですね」
「ジューンは梅雨だって言って避けたみたいです。 でもこれってどうよ、って感じです」
浅香の言いように思わず詩甫が笑った。
「まぁ、ドンチャンも今日までで。 あんまり暑いですから、明日、涼みに行こうと思ってるんです」
「涼みに?」
暑ければエアコンをかけていればいいのではないのか?
「ええ、実家。 連ちゃんの休みなんてそうそう取れませんけど、偶然にとれましたので実家で涼もうかと。 エアコンとは全然違う涼みがあるんですよ。 あ、良ければどうですか? 山の中は涼しいですよ、ここからは想像も出来ません」
詩甫は救急隊員の休日体制など知らない。
「え・・・」
突然のお誘い。 社交辞令だろうか。
そして改めて浅香が詩甫の姿を見た。
「あれ? 出勤ですか?」
ビジネススタイルだ。
「あ、はい。 休日出勤でした。 中途半端な時間に終っちゃいましたけど」
そっか、と小さく口の中で言うと今度はちゃんと声に出す。
「咳、完全に止まりました?」
「はい」
急にどうしてそんな話になるのだろうか。 浅香が救急隊員だからだろうか、心配をしてくれているのだろうか。
「それは何よりです。 ですが甘く見てはいけませんよ」
「え?」
「あの時の野崎さんは・・・。 病巣はどこに潜でいるかは分かりません。 あ、心配させることを言っちゃいました。 そういう意味ではありませんから」
「あの・・・」
「すみません、そうじゃなくて。 どうです? ちょっと息抜きに自分・・・僕の実家に来てみませんか? 緑もいっぱいあって心が広くなりますよ。 あ、言っておきます、そこらで “へぃ、彼女~” とかっていうのではありませんから」
面白可笑しく言っているのだろう。 だが・・・。
「・・・私・・・それほど酷いんですか?」
医者はなんとも無いと言っていたのに。
「あ・・・や、そういう意味ではありません。 ストレスじゃないかなぁ、と思って。 それも極度の。 働きすぎとか?」
「そこまで働いていませんよ?」
「働く以外にも色んなストレスを持っていません? 気になることとかも」
無くはない。 実家のこと、母親のことも勿論だが祐樹のこともある。 祐樹のことをストレスだとは思っていないが、気になると言われれば気になっている。 それに依頼心の強い母親が自分が居なくなってどういう風に祐樹と接しているのか・・・。
「あー、暗くならないで下さい」
突拍子もない声が響いた。
「あ、いえ、そういう訳では・・・」
「そんな顔をしていたら弟さんが心配しますよ? あ、今日学校休みですよね。 えっと、まだ四年生でしたよね。 早く帰ってあげなくちゃですよね。 すみません、足止めしちゃいました」
あ、それとも友達と遊んでるかなぁ、などと独り言のように言いながら駅に足を向ける。 詩甫がその独り言に笑みを向けながら、同じ様に歩を出す。
「今日は朝早くから実家に行ってるんです」
「え?」
どういう意味だという顔をしている。
「母と過ごしてくれています」
「実家があるんだ・・・あ、あるんですか。 そりゃそうですよね。 え? ん? それで弟さんと住んでる? んん?」
「母は再婚なんです。 私は母の連れ子で」
詩甫と祐樹の歳が違いすぎるのがこれで分かったであろう。
「ああ・・・そういうことですか」
「祐樹が・・・弟がよく懐いてくれていて、あの時は偶然来てくれていたんですけど、あの事があってから心配をして、私の部屋に泊まってくれているんです」
「ああ、そうなんだ。 嬉しいことですね」
「はい」
束の間の静寂(しじま)があった。
「では尚のこと弟さんに心配をかけちゃいけないんじゃないですか?」
「え?」
「えっと・・・出過ぎたことかもしれませんけど、その・・・家庭環境を考えてもストレス溜まってません? 心の内で・・・知らない所で」
「・・・あの?」
「何時(いつ)、なんて言いません。 弟さん・・・祐樹君に心配をかけない、そうだなぁ・・・祐樹君が居ない時に、えっと、実家に帰った時にでも僕の実家に行きません? 緑の空気を吸うだけでストレスなんて飛んじゃいますよ? 頭の中がゼロに戻ります」
「え・・・」
「僕、疑われてます?」
「いいえ・・・その・・・」
「他生の縁って言うじゃないですか。 お疑いなく。 決して野崎さんを、どうこうなどと考えていませんから。 あ、考えてるか」
「え?」
「あはは、悪い意味ではありません。 野崎さんにそのストレスを吹っ飛ばしてもらおうと思っているだけです。 僕も一応、救急隊員ですからね。 誰しもに健康でいて欲しいと願っています。 神に誓ってイヤラシイことは考えていません」
「イヤラシイ・・・」
思わず詩甫がプッと吹いてしまった。
「そうそう、笑うことが一番です。 でも緑もいいですよ」
そう言われれば、いつからそんなものを見ていないだろうか。 いや見たとしても、一度でも心の底から見ただろうか。
浅香が改めて詩甫を見る。
「朝露もいいですけど今は見られませんね。 ・・・いつでもいいです。 一度緑を見ましょう。 心の中をクリアにしましょう」
どうしてだろう、目に涙が溢れてきた。 浅香の話す内容に対してだろうか、声に対してだろうか。
分からない。 でもここに涙は必要ない。 無意識に覚えていない思い出の涙を止める。
クリア・・・それはゼロに戻すという意味であり、明晰にするという意味でもある。
今までの浅香なら詩甫の目を見て「わわ、どうしたんですか?!」などと言うだろう。 慌ててポケットからハンカチも出すだろう。 だがそうでは無かった。
「行きませんか? 緑を見に」
詩甫は気付かなかったが、浅香が一瞬眉を顰めていた。
「・・・でも」
「祐樹君のことが心配ですか? 今日、祐樹君は何時ごろ戻って来るんですか?」
「義父が帰ってきてから戻って来ます。 義父は夜遅くに帰ってきますので・・・」
夜遅くに帰って来るなどと、どうしてそんなことを言ってしまったのか詩甫自身分からない。
浅香が腕時計を見る。 午後二時を過ぎている。
そして次に詩甫を見る。 詩甫は一点を見て何かを考えているようだが、揺れているようだ。 身体ではない、心が。 だが自ら進もうとする心は見えない。 一言で失敗するかもしれない。 それでも進めなければいけない。
一夜と言葉を交わしてからあまりにも長い。 接触の機会を窺っていたが、なかなかチャンスが掴めなかった。 朱葉姫も首を長くして待っていると曹司からせっつかれている。
「今から行きませんか?」
「え?」
「祐樹君、遅く帰って来るんでしょ? それまでに帰ればいいでしょう、うん、帰れる。 一瞬でも、あ・・・一瞬じゃ心の掃除は出来ないか。 二、は無理か・・・三瞬でクリアできますよ。 突貫になっちゃいますけど、祐樹君に心配されず、心の掃除をしましょう。 うん、そうそう。 今日、行っちゃいましょう。 とっとこ問題を解決しましょう」
「え、あの?」
これから二次会三次会、そしてもしかしての四次会ではないのか?
すると詩甫の心を読んだように浅香が付け足す。
「二次会三次会に匹敵する前夜祭はしました。 酒も浴びるほど呑みました。 アルコールでお腹いっぱいです」
どういうことだろうか、何が何だか分からない。 でも・・・胸に詰まるものがある。
「行きましょう」
浅香が詩甫の背を押した。
電車に揺られ乗り継ぎをし、少し歩いて別の線に乗り換えた。 駅に降りるとそこからタクシーに乗った。
長い道中であったが、浅香は緑の良さを語っていた。 その話しに自然と耳が傾いた。 自分が緑に心を寄せるなどとは考えもしなかった、思いもしなかった。 だが浅香から聞かされる話はどこかで知っているような気がした。
駅前の整えられた道から山道に入りいくらか走ると、左手に木々が立ち並び右手には小さくなりつつある麓(ふもと)が見える。
対向車が来てはすれ違えない程の山道をタクシーの運転手が走らせていると、浅香がタクシーを止めるように言った。
「え? ここで?」
運転手が訊き返すのも無理ないだろう。 細い山道の右側には麓の世界が広がり、左側には雑木が林立し、前方には細い道が続いているだけなのだから。
タクシーを降りるとこの先のどこかで方向転換をするのだろう、タクシーはそのまま走って行った。
浅香が雑木の間にぽっかりと開いた場所に足を運ぶ。 そこはよく見ればぽっかりと開いてはいるが車に乗っていては見逃すだろう。
「ここから入ります」
詩甫が左右の雑木を見上げながら浅香に続き中に入る。
すると一メートルも入ると嘘のように雑木がなくなり、広い空間が目に入った。 雑木がその空間を避けるように、退いているように離れたところで茂っている。
タクシーを降りた位置から風景が全く変わったようだ。
目のずっと先に階段が見える。
「あの階段を上ります」
階段の左右には木々が見える。
階段は人の手によって作られたようで、一段一段の縁に木が囲ってあり、その中に何年もかけて踏みしめられた土がある。 二人並んで歩けるくらいの幅ではあるが、三人では危ないだろう。 階段の左右には手すりも何もついていない。 バランスを崩してしまえば階段の横を転げ落ちてしまうだろう。
浅香から一段遅れて階段を上がっている詩甫は、左右の木々や空を覆い隠している勢いのある枝振りに感嘆しながら階段を上っている。
その詩甫の姿を浅香が時々肩越しに振り返り見ている。 緑に魅せられて足元がふらつかないかを用心しているのだが、それだけでは無かった。
階段を上り切ると目の前には坂道がある。
詩甫が少し息を上げている。 事前にそれが分かっていたのだろう、浅香が駅でペットボトルの茶を買っていた。
「少し休憩しましょうか。 これ、どうぞ」
ペットボトルの茶を詩甫に差し出す。 座るところなど無く、立ったままペットボトルを受け取ると乾いた喉を潤す。
浅香は既に電車の中で礼服のネクタイを外し、ポケットに入れていた。 そして今は第二ボタンまで外している。
「浅香さんの実家ってまだこの先ですか?」
「あと少し」
詩甫の知っている、とは言っても数回しか会っていないが、その浅香ならここで「いやぁー、あんまりにも田舎ですから」などと言うだろう。 だがそうではない。 どういうことだろうか。
「浅香さん?」
浅香が今までにない表情を見せる。
「思い出しはしないか」
「え?」
どういう意味だろうか。 それに気のせいだろうが、いつもの浅香でないような落ち着いた声音、それに話口調は気のせいではなく全く違う。
「あと少し」
浅香の実家にあと少しで着くということだろうが、同じことを繰り返され、それに思い出さないかと言われた。 詩甫の心中に浅香に対しての疑念が浮かぶ。 不安も。
よく考えれば、救急隊員だからと安心して良いものとは限らない。 まだ数回しか会っていないのに、迂闊なことをしてしまった。
「・・・申し訳ありませんけどこれ以上は。 ここで戻ります」
「こちらこそ申しわけありませんが、お付き合い願いたく」
どういうことだ、緑を見に行くだけじゃなかったのか? やはりそうではなかったのか?
「ああ、ご心配なく。 野崎さんを騙して実家の親に彼女でーす、なんて挨拶をするなんてことは考えていませんので」
いつもの浅香の台詞と笑みだ。 でもさっきの浅香はいつもの浅香ではなかったはず。
「浅香さん?」
「念を押して、イヤラシイことも考えていませんよ? あと少しです。 歩けますか?」
「もう緑を見ました。 充分に楽しめました」
嘘ではない。 浅香の後を歩きながら緑を目にしていた。 詩甫の生活圏にはない緑であった。 目を踊らせていたほどだった。
「ここの緑は楽しめました?」
「はい。 もう十分かと」
「思い出しはしなったですか?」
まただ、どういうことだろう。 と思うと、突然浅香が思いもしない言葉を発した。
「紅葉(もみじ」姫」
「え・・・」
週末、土曜日、休日出勤になった。 週末に終わらせなければならない仕事が、金曜日に残業をしても終わらなかった。 祐樹が実家に戻っていて良かった、退屈にさせるところだった。
「あれ? 詩甫ちゃん?」
出勤するとすぐに声がかかった。
「え? 願弦(がんげん)さんも出勤ですか?」
三十の歳を少し過ぎた熊のような容姿に柔和な物腰の男である。
「ああ、ちょっとややこしいことがあって・・・って、あれぇー? もしかして俺の失敗、詩甫ちゃんが被ってくれた?」
ミスをした伝票上の事である。 その為の金曜日の残業と今日の出勤である。
詩甫がくすりと笑う。
願弦は俺の失敗と言うが部下のミスである。 願弦とはそういう男である。
せっかく特殊な大学を出たのだから、親元で兄と一緒に親のあとを継げばこんな所で部下の尻拭いの為に働くことも無いだろうに。
「悪い」
両手を合わせて拝むように頭を下げる願弦に詩甫が左右に首を振る。
「これが私の仕事ですから」
願弦と別れて三階の事務所まで上がり、金曜日からの仕事の続きをすると中途半端な時間に終えた。 金曜日にもう少し頑張っていれば今日の出勤は無かったかもしれない。
「って言っても・・・」
腕時計を確認すると午後二時になろうとしている。 あのまま金曜日で終わらそうとしていれば、完全に午前様になってしまっていたということだ。
「それは有り得ない」
願弦に挨拶をしてから会社を出たが願弦はまだまだ残るようであった。 部下のミスが酷いようだ。
駅に向かって歩いていると、正装をした浅香らしき人物がタクシーを降りるのが目に入った。
「・・・浅香さん?」
後姿だ、それにいつもと違う服装。 自信がない。
僅かな声に浅香が振り向いた。
「や、野崎さん」
間違いなく浅香だった。
「えっと・・・その服装は・・・」
「はい、披露宴に出て来ました。 これから二次会三次会がありますけど、一旦休止です。 着替えに戻ります」
あ、四次会もあるかなぁ、と口の中で言っている。
「この近くの結婚式場ですか?」
そんな所があっただろうか。
「近くではないですけど最寄り駅がここなんです。 ここからタクシーでした。 にしても、もう少し涼しい時を選んでほしかったかな。 暑すぎ」
詩甫が相好を崩す。 確かに暑さが厳しい。
「ジューンブライドにはならなかったんですね」
「ジューンは梅雨だって言って避けたみたいです。 でもこれってどうよ、って感じです」
浅香の言いように思わず詩甫が笑った。
「まぁ、ドンチャンも今日までで。 あんまり暑いですから、明日、涼みに行こうと思ってるんです」
「涼みに?」
暑ければエアコンをかけていればいいのではないのか?
「ええ、実家。 連ちゃんの休みなんてそうそう取れませんけど、偶然にとれましたので実家で涼もうかと。 エアコンとは全然違う涼みがあるんですよ。 あ、良ければどうですか? 山の中は涼しいですよ、ここからは想像も出来ません」
詩甫は救急隊員の休日体制など知らない。
「え・・・」
突然のお誘い。 社交辞令だろうか。
そして改めて浅香が詩甫の姿を見た。
「あれ? 出勤ですか?」
ビジネススタイルだ。
「あ、はい。 休日出勤でした。 中途半端な時間に終っちゃいましたけど」
そっか、と小さく口の中で言うと今度はちゃんと声に出す。
「咳、完全に止まりました?」
「はい」
急にどうしてそんな話になるのだろうか。 浅香が救急隊員だからだろうか、心配をしてくれているのだろうか。
「それは何よりです。 ですが甘く見てはいけませんよ」
「え?」
「あの時の野崎さんは・・・。 病巣はどこに潜でいるかは分かりません。 あ、心配させることを言っちゃいました。 そういう意味ではありませんから」
「あの・・・」
「すみません、そうじゃなくて。 どうです? ちょっと息抜きに自分・・・僕の実家に来てみませんか? 緑もいっぱいあって心が広くなりますよ。 あ、言っておきます、そこらで “へぃ、彼女~” とかっていうのではありませんから」
面白可笑しく言っているのだろう。 だが・・・。
「・・・私・・・それほど酷いんですか?」
医者はなんとも無いと言っていたのに。
「あ・・・や、そういう意味ではありません。 ストレスじゃないかなぁ、と思って。 それも極度の。 働きすぎとか?」
「そこまで働いていませんよ?」
「働く以外にも色んなストレスを持っていません? 気になることとかも」
無くはない。 実家のこと、母親のことも勿論だが祐樹のこともある。 祐樹のことをストレスだとは思っていないが、気になると言われれば気になっている。 それに依頼心の強い母親が自分が居なくなってどういう風に祐樹と接しているのか・・・。
「あー、暗くならないで下さい」
突拍子もない声が響いた。
「あ、いえ、そういう訳では・・・」
「そんな顔をしていたら弟さんが心配しますよ? あ、今日学校休みですよね。 えっと、まだ四年生でしたよね。 早く帰ってあげなくちゃですよね。 すみません、足止めしちゃいました」
あ、それとも友達と遊んでるかなぁ、などと独り言のように言いながら駅に足を向ける。 詩甫がその独り言に笑みを向けながら、同じ様に歩を出す。
「今日は朝早くから実家に行ってるんです」
「え?」
どういう意味だという顔をしている。
「母と過ごしてくれています」
「実家があるんだ・・・あ、あるんですか。 そりゃそうですよね。 え? ん? それで弟さんと住んでる? んん?」
「母は再婚なんです。 私は母の連れ子で」
詩甫と祐樹の歳が違いすぎるのがこれで分かったであろう。
「ああ・・・そういうことですか」
「祐樹が・・・弟がよく懐いてくれていて、あの時は偶然来てくれていたんですけど、あの事があってから心配をして、私の部屋に泊まってくれているんです」
「ああ、そうなんだ。 嬉しいことですね」
「はい」
束の間の静寂(しじま)があった。
「では尚のこと弟さんに心配をかけちゃいけないんじゃないですか?」
「え?」
「えっと・・・出過ぎたことかもしれませんけど、その・・・家庭環境を考えてもストレス溜まってません? 心の内で・・・知らない所で」
「・・・あの?」
「何時(いつ)、なんて言いません。 弟さん・・・祐樹君に心配をかけない、そうだなぁ・・・祐樹君が居ない時に、えっと、実家に帰った時にでも僕の実家に行きません? 緑の空気を吸うだけでストレスなんて飛んじゃいますよ? 頭の中がゼロに戻ります」
「え・・・」
「僕、疑われてます?」
「いいえ・・・その・・・」
「他生の縁って言うじゃないですか。 お疑いなく。 決して野崎さんを、どうこうなどと考えていませんから。 あ、考えてるか」
「え?」
「あはは、悪い意味ではありません。 野崎さんにそのストレスを吹っ飛ばしてもらおうと思っているだけです。 僕も一応、救急隊員ですからね。 誰しもに健康でいて欲しいと願っています。 神に誓ってイヤラシイことは考えていません」
「イヤラシイ・・・」
思わず詩甫がプッと吹いてしまった。
「そうそう、笑うことが一番です。 でも緑もいいですよ」
そう言われれば、いつからそんなものを見ていないだろうか。 いや見たとしても、一度でも心の底から見ただろうか。
浅香が改めて詩甫を見る。
「朝露もいいですけど今は見られませんね。 ・・・いつでもいいです。 一度緑を見ましょう。 心の中をクリアにしましょう」
どうしてだろう、目に涙が溢れてきた。 浅香の話す内容に対してだろうか、声に対してだろうか。
分からない。 でもここに涙は必要ない。 無意識に覚えていない思い出の涙を止める。
クリア・・・それはゼロに戻すという意味であり、明晰にするという意味でもある。
今までの浅香なら詩甫の目を見て「わわ、どうしたんですか?!」などと言うだろう。 慌ててポケットからハンカチも出すだろう。 だがそうでは無かった。
「行きませんか? 緑を見に」
詩甫は気付かなかったが、浅香が一瞬眉を顰めていた。
「・・・でも」
「祐樹君のことが心配ですか? 今日、祐樹君は何時ごろ戻って来るんですか?」
「義父が帰ってきてから戻って来ます。 義父は夜遅くに帰ってきますので・・・」
夜遅くに帰って来るなどと、どうしてそんなことを言ってしまったのか詩甫自身分からない。
浅香が腕時計を見る。 午後二時を過ぎている。
そして次に詩甫を見る。 詩甫は一点を見て何かを考えているようだが、揺れているようだ。 身体ではない、心が。 だが自ら進もうとする心は見えない。 一言で失敗するかもしれない。 それでも進めなければいけない。
一夜と言葉を交わしてからあまりにも長い。 接触の機会を窺っていたが、なかなかチャンスが掴めなかった。 朱葉姫も首を長くして待っていると曹司からせっつかれている。
「今から行きませんか?」
「え?」
「祐樹君、遅く帰って来るんでしょ? それまでに帰ればいいでしょう、うん、帰れる。 一瞬でも、あ・・・一瞬じゃ心の掃除は出来ないか。 二、は無理か・・・三瞬でクリアできますよ。 突貫になっちゃいますけど、祐樹君に心配されず、心の掃除をしましょう。 うん、そうそう。 今日、行っちゃいましょう。 とっとこ問題を解決しましょう」
「え、あの?」
これから二次会三次会、そしてもしかしての四次会ではないのか?
すると詩甫の心を読んだように浅香が付け足す。
「二次会三次会に匹敵する前夜祭はしました。 酒も浴びるほど呑みました。 アルコールでお腹いっぱいです」
どういうことだろうか、何が何だか分からない。 でも・・・胸に詰まるものがある。
「行きましょう」
浅香が詩甫の背を押した。
電車に揺られ乗り継ぎをし、少し歩いて別の線に乗り換えた。 駅に降りるとそこからタクシーに乗った。
長い道中であったが、浅香は緑の良さを語っていた。 その話しに自然と耳が傾いた。 自分が緑に心を寄せるなどとは考えもしなかった、思いもしなかった。 だが浅香から聞かされる話はどこかで知っているような気がした。
駅前の整えられた道から山道に入りいくらか走ると、左手に木々が立ち並び右手には小さくなりつつある麓(ふもと)が見える。
対向車が来てはすれ違えない程の山道をタクシーの運転手が走らせていると、浅香がタクシーを止めるように言った。
「え? ここで?」
運転手が訊き返すのも無理ないだろう。 細い山道の右側には麓の世界が広がり、左側には雑木が林立し、前方には細い道が続いているだけなのだから。
タクシーを降りるとこの先のどこかで方向転換をするのだろう、タクシーはそのまま走って行った。
浅香が雑木の間にぽっかりと開いた場所に足を運ぶ。 そこはよく見ればぽっかりと開いてはいるが車に乗っていては見逃すだろう。
「ここから入ります」
詩甫が左右の雑木を見上げながら浅香に続き中に入る。
すると一メートルも入ると嘘のように雑木がなくなり、広い空間が目に入った。 雑木がその空間を避けるように、退いているように離れたところで茂っている。
タクシーを降りた位置から風景が全く変わったようだ。
目のずっと先に階段が見える。
「あの階段を上ります」
階段の左右には木々が見える。
階段は人の手によって作られたようで、一段一段の縁に木が囲ってあり、その中に何年もかけて踏みしめられた土がある。 二人並んで歩けるくらいの幅ではあるが、三人では危ないだろう。 階段の左右には手すりも何もついていない。 バランスを崩してしまえば階段の横を転げ落ちてしまうだろう。
浅香から一段遅れて階段を上がっている詩甫は、左右の木々や空を覆い隠している勢いのある枝振りに感嘆しながら階段を上っている。
その詩甫の姿を浅香が時々肩越しに振り返り見ている。 緑に魅せられて足元がふらつかないかを用心しているのだが、それだけでは無かった。
階段を上り切ると目の前には坂道がある。
詩甫が少し息を上げている。 事前にそれが分かっていたのだろう、浅香が駅でペットボトルの茶を買っていた。
「少し休憩しましょうか。 これ、どうぞ」
ペットボトルの茶を詩甫に差し出す。 座るところなど無く、立ったままペットボトルを受け取ると乾いた喉を潤す。
浅香は既に電車の中で礼服のネクタイを外し、ポケットに入れていた。 そして今は第二ボタンまで外している。
「浅香さんの実家ってまだこの先ですか?」
「あと少し」
詩甫の知っている、とは言っても数回しか会っていないが、その浅香ならここで「いやぁー、あんまりにも田舎ですから」などと言うだろう。 だがそうではない。 どういうことだろうか。
「浅香さん?」
浅香が今までにない表情を見せる。
「思い出しはしないか」
「え?」
どういう意味だろうか。 それに気のせいだろうが、いつもの浅香でないような落ち着いた声音、それに話口調は気のせいではなく全く違う。
「あと少し」
浅香の実家にあと少しで着くということだろうが、同じことを繰り返され、それに思い出さないかと言われた。 詩甫の心中に浅香に対しての疑念が浮かぶ。 不安も。
よく考えれば、救急隊員だからと安心して良いものとは限らない。 まだ数回しか会っていないのに、迂闊なことをしてしまった。
「・・・申し訳ありませんけどこれ以上は。 ここで戻ります」
「こちらこそ申しわけありませんが、お付き合い願いたく」
どういうことだ、緑を見に行くだけじゃなかったのか? やはりそうではなかったのか?
「ああ、ご心配なく。 野崎さんを騙して実家の親に彼女でーす、なんて挨拶をするなんてことは考えていませんので」
いつもの浅香の台詞と笑みだ。 でもさっきの浅香はいつもの浅香ではなかったはず。
「浅香さん?」
「念を押して、イヤラシイことも考えていませんよ? あと少しです。 歩けますか?」
「もう緑を見ました。 充分に楽しめました」
嘘ではない。 浅香の後を歩きながら緑を目にしていた。 詩甫の生活圏にはない緑であった。 目を踊らせていたほどだった。
「ここの緑は楽しめました?」
「はい。 もう十分かと」
「思い出しはしなったですか?」
まただ、どういうことだろう。 と思うと、突然浅香が思いもしない言葉を発した。
「紅葉(もみじ」姫」
「え・・・」