大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

国津道  第4回

2021年01月29日 22時06分31秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第4回



週末、土曜日、休日出勤になった。 週末に終わらせなければならない仕事が、金曜日に残業をしても終わらなかった。 祐樹が実家に戻っていて良かった、退屈にさせるところだった。

「あれ? 詩甫ちゃん?」

出勤するとすぐに声がかかった。

「え? 願弦(がんげん)さんも出勤ですか?」

三十の歳を少し過ぎた熊のような容姿に柔和な物腰の男である。

「ああ、ちょっとややこしいことがあって・・・って、あれぇー? もしかして俺の失敗、詩甫ちゃんが被ってくれた?」

ミスをした伝票上の事である。 その為の金曜日の残業と今日の出勤である。
詩甫がくすりと笑う。
願弦は俺の失敗と言うが部下のミスである。 願弦とはそういう男である。
せっかく特殊な大学を出たのだから、親元で兄と一緒に親のあとを継げばこんな所で部下の尻拭いの為に働くことも無いだろうに。

「悪い」

両手を合わせて拝むように頭を下げる願弦に詩甫が左右に首を振る。

「これが私の仕事ですから」

願弦と別れて三階の事務所まで上がり、金曜日からの仕事の続きをすると中途半端な時間に終えた。 金曜日にもう少し頑張っていれば今日の出勤は無かったかもしれない。

「って言っても・・・」

腕時計を確認すると午後二時になろうとしている。 あのまま金曜日で終わらそうとしていれば、完全に午前様になってしまっていたということだ。

「それは有り得ない」

願弦に挨拶をしてから会社を出たが願弦はまだまだ残るようであった。 部下のミスが酷いようだ。

駅に向かって歩いていると、正装をした浅香らしき人物がタクシーを降りるのが目に入った。

「・・・浅香さん?」

後姿だ、それにいつもと違う服装。 自信がない。
僅かな声に浅香が振り向いた。

「や、野崎さん」

間違いなく浅香だった。

「えっと・・・その服装は・・・」

「はい、披露宴に出て来ました。 これから二次会三次会がありますけど、一旦休止です。 着替えに戻ります」

あ、四次会もあるかなぁ、と口の中で言っている。

「この近くの結婚式場ですか?」

そんな所があっただろうか。

「近くではないですけど最寄り駅がここなんです。 ここからタクシーでした。 にしても、もう少し涼しい時を選んでほしかったかな。 暑すぎ」

詩甫が相好を崩す。 確かに暑さが厳しい。

「ジューンブライドにはならなかったんですね」

「ジューンは梅雨だって言って避けたみたいです。 でもこれってどうよ、って感じです」

浅香の言いように思わず詩甫が笑った。

「まぁ、ドンチャンも今日までで。 あんまり暑いですから、明日、涼みに行こうと思ってるんです」

「涼みに?」

暑ければエアコンをかけていればいいのではないのか?

「ええ、実家。 連ちゃんの休みなんてそうそう取れませんけど、偶然にとれましたので実家で涼もうかと。 エアコンとは全然違う涼みがあるんですよ。 あ、良ければどうですか? 山の中は涼しいですよ、ここからは想像も出来ません」

詩甫は救急隊員の休日体制など知らない。

「え・・・」

突然のお誘い。 社交辞令だろうか。
そして改めて浅香が詩甫の姿を見た。

「あれ? 出勤ですか?」

ビジネススタイルだ。

「あ、はい。 休日出勤でした。 中途半端な時間に終っちゃいましたけど」

そっか、と小さく口の中で言うと今度はちゃんと声に出す。

「咳、完全に止まりました?」

「はい」

急にどうしてそんな話になるのだろうか。 浅香が救急隊員だからだろうか、心配をしてくれているのだろうか。

「それは何よりです。 ですが甘く見てはいけませんよ」

「え?」

「あの時の野崎さんは・・・。 病巣はどこに潜でいるかは分かりません。 あ、心配させることを言っちゃいました。 そういう意味ではありませんから」

「あの・・・」

「すみません、そうじゃなくて。 どうです? ちょっと息抜きに自分・・・僕の実家に来てみませんか? 緑もいっぱいあって心が広くなりますよ。 あ、言っておきます、そこらで “へぃ、彼女~” とかっていうのではありませんから」

面白可笑しく言っているのだろう。 だが・・・。

「・・・私・・・それほど酷いんですか?」

医者はなんとも無いと言っていたのに。

「あ・・・や、そういう意味ではありません。 ストレスじゃないかなぁ、と思って。 それも極度の。 働きすぎとか?」

「そこまで働いていませんよ?」

「働く以外にも色んなストレスを持っていません? 気になることとかも」

無くはない。 実家のこと、母親のことも勿論だが祐樹のこともある。 祐樹のことをストレスだとは思っていないが、気になると言われれば気になっている。 それに依頼心の強い母親が自分が居なくなってどういう風に祐樹と接しているのか・・・。

「あー、暗くならないで下さい」

突拍子もない声が響いた。

「あ、いえ、そういう訳では・・・」

「そんな顔をしていたら弟さんが心配しますよ? あ、今日学校休みですよね。 えっと、まだ四年生でしたよね。 早く帰ってあげなくちゃですよね。 すみません、足止めしちゃいました」

あ、それとも友達と遊んでるかなぁ、などと独り言のように言いながら駅に足を向ける。 詩甫がその独り言に笑みを向けながら、同じ様に歩を出す。

「今日は朝早くから実家に行ってるんです」

「え?」

どういう意味だという顔をしている。

「母と過ごしてくれています」

「実家があるんだ・・・あ、あるんですか。 そりゃそうですよね。 え? ん? それで弟さんと住んでる? んん?」

「母は再婚なんです。 私は母の連れ子で」

詩甫と祐樹の歳が違いすぎるのがこれで分かったであろう。

「ああ・・・そういうことですか」

「祐樹が・・・弟がよく懐いてくれていて、あの時は偶然来てくれていたんですけど、あの事があってから心配をして、私の部屋に泊まってくれているんです」

「ああ、そうなんだ。 嬉しいことですね」

「はい」

束の間の静寂(しじま)があった。

「では尚のこと弟さんに心配をかけちゃいけないんじゃないですか?」

「え?」

「えっと・・・出過ぎたことかもしれませんけど、その・・・家庭環境を考えてもストレス溜まってません? 心の内で・・・知らない所で」

「・・・あの?」

「何時(いつ)、なんて言いません。 弟さん・・・祐樹君に心配をかけない、そうだなぁ・・・祐樹君が居ない時に、えっと、実家に帰った時にでも僕の実家に行きません? 緑の空気を吸うだけでストレスなんて飛んじゃいますよ? 頭の中がゼロに戻ります」

「え・・・」

「僕、疑われてます?」

「いいえ・・・その・・・」

「他生の縁って言うじゃないですか。 お疑いなく。 決して野崎さんを、どうこうなどと考えていませんから。 あ、考えてるか」

「え?」

「あはは、悪い意味ではありません。 野崎さんにそのストレスを吹っ飛ばしてもらおうと思っているだけです。 僕も一応、救急隊員ですからね。 誰しもに健康でいて欲しいと願っています。 神に誓ってイヤラシイことは考えていません」

「イヤラシイ・・・」

思わず詩甫がプッと吹いてしまった。

「そうそう、笑うことが一番です。 でも緑もいいですよ」

そう言われれば、いつからそんなものを見ていないだろうか。 いや見たとしても、一度でも心の底から見ただろうか。
浅香が改めて詩甫を見る。

「朝露もいいですけど今は見られませんね。 ・・・いつでもいいです。 一度緑を見ましょう。 心の中をクリアにしましょう」

どうしてだろう、目に涙が溢れてきた。 浅香の話す内容に対してだろうか、声に対してだろうか。
分からない。 でもここに涙は必要ない。 無意識に覚えていない思い出の涙を止める。

クリア・・・それはゼロに戻すという意味であり、明晰にするという意味でもある。

今までの浅香なら詩甫の目を見て「わわ、どうしたんですか?!」などと言うだろう。 慌ててポケットからハンカチも出すだろう。 だがそうでは無かった。

「行きませんか? 緑を見に」

詩甫は気付かなかったが、浅香が一瞬眉を顰めていた。

「・・・でも」

「祐樹君のことが心配ですか? 今日、祐樹君は何時ごろ戻って来るんですか?」

「義父が帰ってきてから戻って来ます。 義父は夜遅くに帰ってきますので・・・」

夜遅くに帰って来るなどと、どうしてそんなことを言ってしまったのか詩甫自身分からない。

浅香が腕時計を見る。 午後二時を過ぎている。
そして次に詩甫を見る。 詩甫は一点を見て何かを考えているようだが、揺れているようだ。 身体ではない、心が。 だが自ら進もうとする心は見えない。 一言で失敗するかもしれない。 それでも進めなければいけない。

一夜と言葉を交わしてからあまりにも長い。 接触の機会を窺っていたが、なかなかチャンスが掴めなかった。 朱葉姫も首を長くして待っていると曹司からせっつかれている。

「今から行きませんか?」

「え?」

「祐樹君、遅く帰って来るんでしょ? それまでに帰ればいいでしょう、うん、帰れる。 一瞬でも、あ・・・一瞬じゃ心の掃除は出来ないか。 二、は無理か・・・三瞬でクリアできますよ。 突貫になっちゃいますけど、祐樹君に心配されず、心の掃除をしましょう。 うん、そうそう。 今日、行っちゃいましょう。 とっとこ問題を解決しましょう」

「え、あの?」

これから二次会三次会、そしてもしかしての四次会ではないのか?
すると詩甫の心を読んだように浅香が付け足す。

「二次会三次会に匹敵する前夜祭はしました。 酒も浴びるほど呑みました。 アルコールでお腹いっぱいです」

どういうことだろうか、何が何だか分からない。 でも・・・胸に詰まるものがある。

「行きましょう」

浅香が詩甫の背を押した。

電車に揺られ乗り継ぎをし、少し歩いて別の線に乗り換えた。 駅に降りるとそこからタクシーに乗った。

長い道中であったが、浅香は緑の良さを語っていた。 その話しに自然と耳が傾いた。 自分が緑に心を寄せるなどとは考えもしなかった、思いもしなかった。 だが浅香から聞かされる話はどこかで知っているような気がした。

駅前の整えられた道から山道に入りいくらか走ると、左手に木々が立ち並び右手には小さくなりつつある麓(ふもと)が見える。
対向車が来てはすれ違えない程の山道をタクシーの運転手が走らせていると、浅香がタクシーを止めるように言った。

「え? ここで?」

運転手が訊き返すのも無理ないだろう。 細い山道の右側には麓の世界が広がり、左側には雑木が林立し、前方には細い道が続いているだけなのだから。
タクシーを降りるとこの先のどこかで方向転換をするのだろう、タクシーはそのまま走って行った。

浅香が雑木の間にぽっかりと開いた場所に足を運ぶ。 そこはよく見ればぽっかりと開いてはいるが車に乗っていては見逃すだろう。

「ここから入ります」

詩甫が左右の雑木を見上げながら浅香に続き中に入る。
すると一メートルも入ると嘘のように雑木がなくなり、広い空間が目に入った。 雑木がその空間を避けるように、退いているように離れたところで茂っている。
タクシーを降りた位置から風景が全く変わったようだ。
目のずっと先に階段が見える。

「あの階段を上ります」

階段の左右には木々が見える。 
階段は人の手によって作られたようで、一段一段の縁に木が囲ってあり、その中に何年もかけて踏みしめられた土がある。 二人並んで歩けるくらいの幅ではあるが、三人では危ないだろう。 階段の左右には手すりも何もついていない。 バランスを崩してしまえば階段の横を転げ落ちてしまうだろう。

浅香から一段遅れて階段を上がっている詩甫は、左右の木々や空を覆い隠している勢いのある枝振りに感嘆しながら階段を上っている。
その詩甫の姿を浅香が時々肩越しに振り返り見ている。 緑に魅せられて足元がふらつかないかを用心しているのだが、それだけでは無かった。

階段を上り切ると目の前には坂道がある。
詩甫が少し息を上げている。 事前にそれが分かっていたのだろう、浅香が駅でペットボトルの茶を買っていた。

「少し休憩しましょうか。 これ、どうぞ」

ペットボトルの茶を詩甫に差し出す。 座るところなど無く、立ったままペットボトルを受け取ると乾いた喉を潤す。

浅香は既に電車の中で礼服のネクタイを外し、ポケットに入れていた。 そして今は第二ボタンまで外している。

「浅香さんの実家ってまだこの先ですか?」

「あと少し」

詩甫の知っている、とは言っても数回しか会っていないが、その浅香ならここで「いやぁー、あんまりにも田舎ですから」などと言うだろう。 だがそうではない。 どういうことだろうか。

「浅香さん?」

浅香が今までにない表情を見せる。

「思い出しはしないか」

「え?」

どういう意味だろうか。 それに気のせいだろうが、いつもの浅香でないような落ち着いた声音、それに話口調は気のせいではなく全く違う。

「あと少し」

浅香の実家にあと少しで着くということだろうが、同じことを繰り返され、それに思い出さないかと言われた。 詩甫の心中に浅香に対しての疑念が浮かぶ。 不安も。

よく考えれば、救急隊員だからと安心して良いものとは限らない。 まだ数回しか会っていないのに、迂闊なことをしてしまった。

「・・・申し訳ありませんけどこれ以上は。 ここで戻ります」

「こちらこそ申しわけありませんが、お付き合い願いたく」

どういうことだ、緑を見に行くだけじゃなかったのか? やはりそうではなかったのか?

「ああ、ご心配なく。 野崎さんを騙して実家の親に彼女でーす、なんて挨拶をするなんてことは考えていませんので」

いつもの浅香の台詞と笑みだ。 でもさっきの浅香はいつもの浅香ではなかったはず。

「浅香さん?」

「念を押して、イヤラシイことも考えていませんよ? あと少しです。 歩けますか?」

「もう緑を見ました。 充分に楽しめました」

嘘ではない。 浅香の後を歩きながら緑を目にしていた。 詩甫の生活圏にはない緑であった。 目を踊らせていたほどだった。

「ここの緑は楽しめました?」

「はい。 もう十分かと」

「思い出しはしなったですか?」

まただ、どういうことだろう。 と思うと、突然浅香が思いもしない言葉を発した。

「紅葉(もみじ」姫」

「え・・・」

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国津道  第3回

2021年01月25日 22時17分12秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第3回



詩甫の分の皿を出してレンジで温め、茶碗にご飯をよそう。
その間に詩甫が着替えている。 祐樹がしてくれていることが嬉しく、それを噛み締めながら。
着替え終わってキッチンに行くと祐樹が全てをテーブルに用意してくれていた。 箸もちゃんと揃えて置かれ、茶も用意してくれている。

「わぁ、祐樹、有難う」

「オレは温めただけだから。 姉ちゃんが作った料理だから」

「そんなことないよ。 嬉しいな」

「・・・うん」

「祐樹、眠たくない?」

「オレそこまで子供じゃないし」

きっと低学年じゃないと言いたいのだろう。

「じゃ、少しだけ話していい?」

そう言って箸を手に持った。

「なに?」

「お世話になった、救急隊員の人に会ったの」

「え・・・」

「会社の帰りに偶然会ってね・・・」

と始まり、浅香との話を祐樹に聞かせている内に、どうしてか祐樹の顔が沈んでいくように見える。

「ん? 祐樹? どうしたの?」

「その人・・・ “ぞうし” って人じゃないの?」

詩甫は浅香のことを “その人がね” と言って話していた。

「え? “ぞうし”? それ誰? 浅香さんって言ってたけど?」

「え? あ、そうなんだ」

曹司ではなかったのか。

「私のことを心配はしてくれてたけど、どっちかって言うと祐樹のことを気にかけてたよ。 祐樹に心配をかけるって何度も言われたわ」

「あ・・・じゃ、オレと話してた人かな?」

「祐樹と?」

「うん、落ち着いてって何度も言ってくれて、姉ちゃんの名前や生年月日を訊かれたりして。 玄関で話してたんだ。 優しそうな感じだった」

詩甫は浅香のことを気さくな人柄だと思ったが、祐樹のような子供には優しそうに映るのかもしれない。 それに普段の性格を仕事場でそう簡単には出さないだろうし、これから出勤というのも本当かどうかわからない。 だが嘘であっても本当であっても、コーポの前まで送ってくれたということは優しいのだろう。

「うんそうだね。 暗いところがあるからって、コーポの前まで送ってくれたし、優しいんだろうね」

曹司では無いと分かった途端、気が抜けたのか祐樹が目をこすり始めた。

「ごめん、眠たいよね。 待っててくれてありがとう。 もう寝ておいで」

「姉ちゃんが食べ終わるまで一緒に居る」

そう言う祐樹に手を伸ばし頭を撫でる。

「ありがと、でも明日もあるから。 ね、寝ておいで?」

慣れない朝のラッシュに揉まれて登校しているのだ、身体も疲れているだろう。
とうとう欠伸も出てきた。

「ほらほら」 そう言って祐樹を立たせると、お尻をポンと叩いた。


翌日、詩甫に何度も起こされたにもかかわらず、なかなか起きなかった祐樹がコーポの階段を駆け下りていた。 まだ気温の上がっていない早朝とはいっても、駅まで走っている間に汗はかく。
通勤ラッシュの中、ホームで電車を待っている間に夕べのことを思い出していた。

「“ぞうし” じゃなかった」

詩甫は夕べ浅香と言っていた。 その浅香はきっと自分と話していた救急隊員。 あの時のことを思い出すと、浅香という救急隊員は曹司の変わった様子に気付かなかったようだ。
“わたくし” と話し終えた後の曹司の様子は他の救急隊員と同じだった。

「“ぞうし”・・・いったい誰なんだよ」

朱葉姫の情報を探すにネット検索は当分出来そうにない。 先に曹司を探ろうか。 ではまず、あの救急車はどこから来たのだろうか。
今日学校から帰ってまずはコーポの周りを歩くことから始めるか。 どこかに救急車があるかもしれない。

「あれ? 救急車って・・・消防車と一緒に居たっけ」

そう言えば、救急車も消防車も呼ぼうと思ったら『119』だ。

「あ・・・そう言えば、救急車に電話をしたつもりだったのに『火事ですか救急ですか』って訊かれたっけ」

今の今まで切羽詰まっていたのかもしれない。 授業を思い返すと、消防と救急は同じ消防庁だったことを教えられていたのだった。

「消防署に行けばいいのか」

こんな時にパソコンで場所を探せれば簡単なのに、こっぴどく怒られてしまった。 次にやると母親に連絡がいくだろう。 そんなことを考えると無意識に口が歪む。
派手な音が鳴って電車が入ってくることを知らせた。



目の前の道路の様子を見ていた消防隊員。 これから通勤渋滞になる。 右折はまだいいのだが左折をすると道幅が段々と狭くなる。 混んでしまってはいくらサイレンを鳴らしても進むに進めない。

「ん? 浅香? 寝不足か?」

建物の外に出て来た浅香が大欠伸をしてしまっていた。
二十四時間での勤務。 ついうっかり欠伸が出たが理由はそれだけでは無い。

「あー、非番の時に友達の結婚祝いの仲間内での何日もの大はしゃぎに付き合ってしまっていて・・・つけが来たのかなぁ」

いいや、そうではない。 確かに仲間内の祝いには参加した。 だがそれは一度だけだ。 あとは可能な限り動向を探っていた。 接触の機会を窺っていた。

「おいおい、羽目を外しすぎるなよ」

「らじゃ」

「だから、お前、軽すぎるって。 救急の中で注意とかしないのかよ。 って、まぁ、あと少しだ。 その間、目を開けてろよ」

現在七時三十分。 一時間後は八時三十分。 交代の時間である。 その後に引き継ぎ。
二十四時間働いて翌日は非番。

「はぁーい」

「だから、それ止めろって」



祐樹は学校から帰るとすぐに町内案内板を見たが、そこに消防署は書かれていなかった。 この町内には消防署は無いらしい。 仕方なく一から足を使うことにしたが、よく知らないこの辺り。 迷子にならぬよう三百六十度を無暗に歩き回ることはしなかった。

そして五日目にやっと消防出張所を見つけた。 消防署ではなく、消防出張所というところがあるのだと初めて知った。

陰に隠れて人の出入りを見ていたが、曹司を見かけることがない。

「ここじゃなかったのかなぁ・・・」

出張所を背に陰に座り込む。

「五日もかけてやっと見つけたのに・・・」

それにずっと見張ってるのに。
はぁーっと溜息を吐いた時だった。

「君? どうしたのかな?」

思いもかけず声をかけられ飛び上がりそうになった。

「あ・・・」

顔を上げると消防隊の活動服を着ている人物が立っている。
祐樹にとっては完全に隠れて見ていたつもりだったが、チョンバレであったようだ。

「興味があるのなら、学校の先生に言ってみるといいよ」

何か勘違いをされたようだ。 だがこんなチャンスを逃すわけにはいかない。

「あ、えっと・・・。 “ぞうし” って人いますか?」

「え? ぞうし?」

「はい、救急車の人で・・・その人を探していて」

救急車の人? それはきっと救急隊員のことだろう。 世話になって礼でも言いたいのだろうか。

「うーん・・・珍しい名前だね。 でもここにはいないね」

「あ・・・そうなんだ」

「ごめんね」

肩を落としていく祐樹を見送った消防隊員。 その消防隊員の後ろから声がかかった。

「ん? なに黄昏てんですか?」

「まだ黄昏じゃないっつーの。 健気な少年が救急隊員に会いたかったみたいなんだよ。 お前もあれくらい殊勝になれ」

顎をしゃくって祐樹の後姿を示す。 示されたその後ろ姿を浅香が見る。

「で? 誰に会いたいって?」

「“ぞうし” って言ってたな、珍しい苗字だけど知ってるか?」

「ふーん・・・、知らね」

呟くように言ったが、その目は祐樹の後姿から離れてはいなかった。


ジリジリと暑い日が続く。

「あれ? 詩甫どうしたの?」

休憩室に入ってきた詩甫の手に弁当が乗っていない。 代わりに財布を握っている。

「作る気になれなくて。 コンビニに行ってくる。 そのまま食べて来るかもしれないから食べておいて」

コンビニ内でも外でも食べる気はなかった。 だが待たせるわけにはいかない。 だからそう言ったのだが、仲間は分かっている。

「うん、じゃ、先に食べとく。 ゆっくりおいしそうなお弁当を吟味しておいで」

「うん」

サンドイッチにしようか弁当にしようか、それとも菓子パンか、いやお握りも捨てられない、などと考えながらコンビニに入るとうっかりレジの前に居る人を見過ごしそうになったが、サンドイッチの棚を見上げた時にその青年が目に入った。

「あ、浅香さん?」

え? と振り向いた浅香。

「あ、野崎さん」

浅香が驚いた顔を見せた後に屈託のない笑顔を見せる。

「先日はありがとうございました」

レジを済ませコンビニ袋を手にした浅香が笑顔で応える。

「出勤のついででしたから気にしないで下さい。 えっと・・・お仕事では?」

「お昼ご飯を買いに来ました」

「会社ってこの近くなんですか。 いつもここで?」

「ええ、すぐそこです。 いつもはお弁当なんですけど。 今日は作っていなくって」

「お弁当かぁ・・・。 自分・・・僕には自炊は出来ないなぁ」

「え? いつも外食ですか?」

「外食って言う程そんなに聞こえのいいものじゃありません。 コンビニか弁当屋です」

コンビニ袋を掲げて見せる。 そこには今買ったばかりの温められた昼の弁当が入っている。

「今日もお友達のところに来られていたんですか?」

前に会った時にそう言っていた。

「ええ、本人を無視して仲間内が勝手に毎日どんちゃんしてるんです。 結婚式までは続くでしょうね。 僕は今日で三回目です。 朝からでしたから、明日の出勤に控えて出て来ました」

仲間内に祝福された結婚なのだろう。 それともなんでもいいから盛り上がるための材料にされているのかもしれないが。

「昼休みが終わってしまいますね、じゃ」

「あ、はい」

何故だろう、慌ててサンドイッチと飲み物を手に取るとレジを済ませ浅香の後を追った。

「浅香さん!」

浅香が振り返った。

「あの! 一緒にお昼ご飯食べませんか?」

「え?」

浅香に送ってもらいお休みなさいと言いかけた時
『ははは、嬉しいな。 そんな言葉いつから聞いてないだろ。 じゃ、行ってきます。 お休みなさい』

そして今回
『お弁当かぁ・・・。 自分・・・僕には自炊は出来ないなぁ』

そう言っていた。 浅香は一人暮らしなのだろう。
男ヤモメ、年齢的にそうとは言わないだろうが、その世界に近いのかもしれない。

「お昼休みの時間が限られていますけど」

詩甫にしてみれば、これは浅香に対して必要以上の時間は無いと言っている、そして特別な気持ちで言っているのではないとも言っている。 それが浅香に通じるかどうかは分からないが。

「わっ! いいですね。 公園なんかどうですか? ミストを吹いている公園が近くにあるんです。 そこならそんなに暑くないし。 仲間と居るといつも部屋の中なので」

通じてくれたようだ。

「はい」



もう祐樹が長くこの部屋にいる。 祐樹と共にとる夕飯の時。

「祐樹、そろそろ家に帰らなくちゃいけないんじゃない?」

「え? オレ邪魔?」

「そんなこと言ってない。 祐樹に居て欲しい。 でもお義父さんとお母さんも心配してるだろうし」

「お父さんが定期を買ってくれたから、定期が切れるまで姉ちゃんの所に居ていい筈だよ?」

「でもあんまりにも顔を出さなさ過ぎ。 今週末、家に帰っておいで。 お義父さんとお母さん、祐樹の顔を見たいだろうから」

「姉ちゃん、オレが邪魔だったらはっきりと言って」

「そんなことないよ、祐樹は・・・。 お姉ちゃん、祐樹に甘えてる」

浅香と話していてそんな風に思った。 母親から独立するつもりだったのに、祐樹を母親からも父親からも取り上げてしまっている。

「姉ちゃん?」

「ね、お義父さんとお母さんを安心させてあげて」

「姉ちゃん・・・」

「お母さんね、寂しがり屋さんなの。 ほら、お義父さんって帰って来るのが遅いでしょ? 夜になるときっと寂しいと思ってると思うの」

「え・・・」

母親のことをそんな風に考えたことは無かった。 いつも一緒に夕飯を食べた後は、風呂に入り自分の部屋に籠っていた。 籠って宿題と予習をしていた。 その後は寝るだけだった。
母親が宿題宿題というのが鬱陶しかったから。 言われなくてもするのに。

「うん・・・分かった」

詩甫の言うことが本当かどうかは分からない。 でも、一度帰ってみてもいい。 もし本当に母親が寂しがっているのなら。 帰ることで詩甫が安心できるのなら。

「オレが居なくなって姉ちゃん咳大丈夫?」

心配顔を向ける。
詩甫を安心させたい気持ちはあるが、詩甫のことも気になる。 そして曹司のことも。

「咳なら随分長い間、出てないもん、大丈夫よ」

「うん・・・」

きっとそうだろう、曹司と呼ばれた男と “わたくし” のあの会話からすれば。 だがそうなのだろうか、勘違いではないのだろうか。 自分の記憶、事の進みに疑いたくなる。 どれだけ曹司を探しても見当たらないのだから。

あれから勢いがついてあちこちの消防署、出張所で訊いてまわったが、どこにも曹司という人間はいなかった。 知る人さえいなかった。
頭の中で色んなことが錯綜する。

「祐樹が優しくてお姉ちゃん嬉しいよ」

だからきっと甘えてしまうのだろう。

「土曜日に帰る」

詩甫が首を振る。

「金曜日」

「え?」

「金曜日、学校から家に帰って。 金曜日と土曜日の夜をお母さんと過ごしてくれるかな? それで日曜日にこっちに来てくれればいいから」

二泊三日。 二泊・・・。 それは簡単に捨てきれない時。

「姉ちゃん! ヤだよ! 土曜に行って、お父さんが帰って来たらこっちに戻ってくる。 ちゃんと朝早く家に行ってお母さんに付き合う。 お母さんが夜になって寂しくないように、お父さんが帰ってくるまで居るから」

二泊などとんでもない、一泊すら考えられない。
土曜日は本来出勤ではない父親だが派閥争いに巻き込まれ、毎週のように接待に出かけている。 一緒に夕飯をとれる時間には帰って来ない。

「・・・祐樹」

祐樹のこれはなんなのだろうか。 今までにそんなことは言わなかったのに。

「祐樹、どうしたの?」

「・・・土曜に家に帰る。 姉ちゃんと居る」

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国津道  第2回

2021年01月22日 22時15分10秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第2回



気を失ったまま救急車で病院まで運ばれた詩甫だったが、どこにも異常がみられず家に帰された。

「ほら祐樹、何でもないって言ったでしょ?」

「・・・」

「祐樹?」

祐樹は見ていた。 どこか詩甫ではない声で、詩甫の知らないはずの救急隊員と話していたところを。

「・・・姉、ちゃん?」

「ん? なに?」

「あ、うん・・・何でもない」

祐樹の態度に何かあるとは思ったが、実家に帰さなくてはならない。 今日は休みの前日ではない。 そんな時にどうして祐樹が来たのか疑問が残るが、きっと心配して来てくれたのだろう。

「遅くなっちゃったね、今からじゃ夕飯も作れないわ。 ね、久しぶりに外食しようか。 お母さんには遅くなるって連絡入れてるから」

今日は母親にここに来るとは言っていなかったと聞いた。 それに明日も学校がある。

「うん・・・」

駅近くのカレー屋に入って遅くなった夕飯を終わらせると、詩甫に見送られ電車に乗り、家に帰ると母親に迎えられた。

「お帰り、遅かったわね。 宿題はどうするの?」

母親の小言がないということは、電車に乗っている間に詩甫がもう一度電話を入れてくれたのだろう。
自分が聞かなければならなかった小言をきっと詩甫が代わりに聞いてくれたのだろう。

「これからする」

詩甫は自分が救急車で運ばれたなどとは母親に言っていないはず。 だからと言って何かおかしいとは思わないのか。 姉の心配をしないのか、姉が、詩甫が咳で苦しんでいるのを知らないのか、知ろうとしないのか。

憤りを感じながらそれを抑える。
きっとそれが詩甫の望むところなのだから。

「お風呂は?」

母親の問いかけに応えず父親のことを問いかけた。

「お父さんは?」

「まだ帰っていないわ」

こんな時間になっても父親は帰っていないのか。 残業とやらなのだろうか。 詩甫も時々言っている。

「じゃ、お風呂に入ってから宿題を済ませる」

「そう、あとでちゃんと宿題をするのよ」

ちゃぷんと風呂に浸かる。 数刻前に耳にしたこと、目にしたことを思い出す。

「あれは・・・姉ちゃんじゃなかった」

だが姉の姿だった。 でも仕草も言葉も・・・声もどこか違っていた。

「あかは姫・・・」

それにあの救急隊員は誰なんだろう。 救急隊員は朱葉姫のことを知っていた。 それに・・・瀞謝とも言っていた。 宿る、とも。 何のことなのだろう。

だが小学校四年生には、あの状況ではあったことを記憶していることしか出来ない。 分からないことだらけなのだから、先をどう考えるかなど出来ない。

「・・・姉ちゃん」

ただただ、詩甫の心配しかなかった。

「オレに出来ること・・・」

それはなんだろうか。

自分に出来ること、自分が小学生で大人でないことは分かっている。 だから大人ほど何も出来ないことも分かっている。 大人ほどにお金も持っていない。 でも姉のことは誰よりも想っている。 姉の母である自分の母親以上に。

ザバンと湯船から立ち上がると風呂から上がり、パジャマを身に付けるとリビングに居た母親の前に立った。

「どうしたの? 早く宿題をしなきゃ」

「オレ、明日から姉ちゃんの所に泊まる」

「なに? どういうこと? 明日泊まるっていうの?」

「明日だけじゃなくて、明日からずっと姉ちゃんのところから学校に行って、姉ちゃんの所に帰る」

「・・・な! 何を言うの?!」

「ちゃんと宿題もするから心配しないで」

「そんなことはお父さんにちゃんと訊かなくちゃ!」

「うん、言う。 これから宿題するから、お父さんが帰ったらオレから言う」

父親が了解すればいいのか。 母親は姉のこともオレのことも二の次か。 何となく詩甫の気持ちが分かるような気がする。

(姉ちゃんはこの家でずっと悲しい顔をしてた。 オレが居るのに・・・)

夜遅く帰って来た父親は簡単に了解をした。 妻の連れ子と我が子が仲良くしてくれることに賛成だと言って。 その上、詩甫の住むコーポからの電車の定期を明日買ってきてくれるとまで言ってくれた。

そこは計算外だった。 いや、切符代の計算さえしていなかった。
父親に感謝をして、翌日行くことは叶わなかったが、翌々日、学校から帰ると教科書から体操服から何もかもをランドセルと両手の鞄に入れて、定期を手に詩甫の住むコーポに足を運んだ。


「祐樹が来てくれたおかげかな?」

最初は祐樹が荷物をまとめて来たのには驚いた詩甫だったが、咳が止まっていた。

「え? なに?」

「うんとね、今更なんだけどずっと夜になると咳が出てたの。 祐樹には何でもないって言ってたけど、結構苦しくってね。 でも祐樹が来てくれてから咳が出なくなったの。 きっと祐樹のお蔭よ、ありがと」

『瀞謝は簡単にわたくしを宿らせないような。 このままではまたすぐに気を取り戻して咳でわたくしを拒もう。 その前にわたくしは去ぬる』

あの時、姉の顔をしてどこか違う声で言っていた。
詩甫の咳は “わたくし” という誰かを追い出そうと・・・宿らせないようにしていたということ。
そしてその “わたくし” が諦めたということ。 決して祐樹のお蔭ではない。 その事を祐樹は知っている。

「何言ってんの、姉ちゃんも言ってたじゃん、季節のものだって」

「う、ん・・・。 そうなんだけどね・・・」

祐樹には目の前で見た聞いたことがある。 でも詩甫は何も分かっていない。 だが何かが・・・何かが違うと無意識に感じていた。

(姉ちゃんの様子がおかしい・・・)

「ん? なに? 姉ちゃん、どうしたの?」

(今何を考えてるの・・・)

こうして祐樹と話していると思い出したことがある。

(あの時・・・何か懐かしい香りを感じたような・・・)

だがきっと気のせいだろう。 いつもの自分の部屋なのだし、あれほど苦しい中で香りなどとあったものではない。

「あ、何でもない。 今日の宿題ちゃんとした?」

母親から預かっている義弟だ。 ちゃんと宿題管理をしなくては。

「姉ちゃんが帰って来る前に終わらせた」

(気のせいだったのかな・・・、それともオレには言ってもらえないのかな・・・)

「授業で分からない所はない? あったら教えるよ?」

まだ小学校の世界だ。 高卒であっても充分に教えられる。

「全然ないよ、授業さえ聞いてれば全部わかるし」

(姉ちゃん・・・もしかしてあの救急車の人のことを考えてるの?)

どうしてだろう、急にあの救急隊員が、いつ詩甫の前に現れるかもしれないという不安にかられる。

「そっか、祐樹、頭良いのね」

「姉ちゃんの弟だもん」

救急隊員としてではなく、もし一個人として来るのであれば、それは祐樹が学校に行っている間かもしれない、詩甫の会社を訪ねるかもしれない。

「姉ちゃん・・・救急車の時のこと覚えてる?」

「あ、うん。 祐樹に迷惑かけちゃったね」

「迷惑なんてないよ。 そうじゃなくて、ここに来た救急車の人のこと・・・三人いたけど誰か知ってる人が居た?」

「え? 三人もいたんだ。 結構しんどかったからなぁ・・・、顔なんて覚えてないよ。 どうしたの?」

「うん、そっか、何でもない」

詩甫は何も知らないということなのだろうか。
それとも、あの時のことは夢だったのだろうか、詩甫を心配するあまりに、思い込んで自分で話を作ってしまったのだろうか。
いや、そんなことは無い。 あの時の詩甫は詩甫ではなかった。 あの救急隊員もおかしかった。

(そうだ、あの後の救急車の人の様子が違ってた。 “ぞうし” って呼ばれてたっけ)

『承知』 と言ったその後は別人のようだった。 まるで詩甫のように。

(姉ちゃん・・・)

姉の身に何が降りかかっているのだろうか・・・。
取り敢えず分かっているのは “ぞうし” という救急隊員のことと “あかは姫”。 自分にやれることをするしかない。 探しやすいワードは “あかは姫”。 “姫様” とも言っていた。 お姫様であればネットで調べればわかるだろう。 “ぞうし” については足を使って探す。


翌日、早めに学校に行くと、すぐさまパソコンルームに入った。 授業でなければ勝手に起動させては怒られるが今はまだ誰も居ない。

パソコンを起動させ “あかは姫” と入力しサーチする。
画面に出てきたのは、ワードに引っかかった数少ない情報だけであった。 ましてやヒット違いばかりのようだ。

「これだけかよ」

全てがヒット違いのようだったが、それでも『姫伝説』というタイトルが書かれたマシな情報をクリックしようとした時

「おーい、何してるぅ?」

ドアを開けて楽しそうな顔をした先生の声が聞こえた。 その楽しそうな顔の裏にこっぴどく怒られるのが透けて見えた。


祐樹と過ごす日々が続いた。 遅くなると言われていた梅雨も終わり、これから猛暑に向かって行くだろう。

「野崎さん?」

会社の帰り、駅に向かう途中で後ろから声をかけられた。
振り向くと知らない男性が立っている。 その目が詩甫を見ている。

「あ・・・えっと、どなたでしょうか?」

「覚えておられませんか? まぁ、そうですよね、あの状態でしたから」

「あの・・・」

あの状態とはどういうことだろうか。
引っ掛けられているのだろうか、もしそうなら今すぐに此処から立ち去りたい。

「あ、失礼いたしました。 数か月前に救急車で運ばれたでしょう? その時の救急隊員です。 その後お身体は大丈夫ですか?」

「え?」

「あ、すみません。 こういうことは控えなければいけないんですけど、弟さんがかなり心配をされていたようなので」

弟・・・祐樹のことを言っている。 それに救急車に運ばれた記憶もちゃんとある。

「あの時の救急隊員の方ですか? その・・・」

「ええ、咳は治まりましたか?」

間違いない。 あの時の救急隊員だろう。 祐樹は三人いたと言っていた。 その内の一人なのだろう。

「はい、あれからはありません。 お騒がせしちゃって」

「あはは、お騒がせなんてことはありません。 ですが自分で何ともないと思っていても、大変な影があることもありますので。 あ、失礼しました、野崎さんに何があると言っているのではありませんので、ご心配なく」

詩甫は検査結果を聞いている。 何も無いということだった。

「はい、なんとも無いと帰してもらいました」

「それは良かった。 弟さん・・・えっと祐樹君って言ってましたか、かなり心配していたようでしたので、こちらも他の隊員と気にしていたんです。 それにしてもこんな時間までお仕事ですか?」

詩甫は見るからにビジネススタイルをしている。

「あ、はい。 残業で遅くなっちゃって」

「たしか駅からあのコーポまでは暗い道がありますよね」

「ええ、でも慣れていますから」

「そんなことを言っていては可愛い弟さんが心配しますよ? 自分も今から出勤なんです。 ご一緒しても宜しいですか?」

出勤という名目をだして送ってくれようとしているのだろうか。 それとも本当にこんな時間から出勤なのだろうか。 救急隊員の出勤状況など詩甫には分からない。

だがどちらにしても断る理由が見当たらない。 コーポに近い救急車のある所から出動して来たのだろうから、少なくとも降りる駅は同じはず。 それにきっとコーポからそんなに離れている所ではないようだ。 救急隊員だけあって近場の道を熟知しているのだろう、暗い道があるのも知っているのだから。

「ご迷惑ですか?」

「あ、いいえ、そんな・・・」

「警戒されてるかな?」

ラフな格好をしている自分の姿を見るようにして「こんな格好だからかな」などと呟いている。

「そんなことは無いです。 あの、ではご一緒に」

「有難うございます」

「あ、いえ、こちらこそ」

「じゃ、行きましょうか。 ああ、自分・・・僕は浅香亨(あさがとおる)と言います。 お見知りおきを」

お見知りおきを、その言葉が何故か可笑しくてクスッと笑ってしまった。

浅香の話では、大学時代の友達の家からの帰りだということであった。 その友達は高校時代から付き合っていた彼女とようやく長い春に終止符を打ち結婚することとなったらしく、仲間内の祝いに駆け付けていたということであった。

浅香は気さくな性格のようで話していても気が楽だった。 駅までの道程の間も、電車の中でも色んな話を聞かせてくれた。 こちらのことを詮索されれば怪しんでしまっただろうが、そんなことは一切なかった。

「じゃ、あまりこんな時間まで残業なんてしない方がいいですよ」

結局コーポの前まで送ってもらった。

「お気遣いありがとうございました。 お休みなさ・・・あ、今からお仕事でしたね。 行ってらっしゃい」

「ははは、嬉しいな。 そんな言葉いつから聞いてないだろ。 じゃ、行ってきます。 お休みなさい」

そう言うと浅香が踵を返した。

少しの間だけ背中を見送り階段を上がる。 祐樹のように軽快ではないが。
鍵を開ける音を聞いて祐樹がすっ飛んできた。

「お帰り」

「起きてたの? 寝ててって言ったのに。 ご飯は?」

祐樹はまだスマホを持たせてもらっていない。 残業が決まった時に家電に連絡を入れていた。 そろそろ残業になるだろうと、おかずは冷蔵し炊飯ジャーにはタイマーをかけておいた。 おかずを温めて先に食べて寝ているようにと言っていたのに。

「ちゃんと食べたよ」

祐樹の生活時間を考えると、この時間には寝ていなくてはならない。 寝かせなくてはならない。 それなのに家に帰って来るとお帰りと言ってくれる声がある。 さっきの浅香の言葉ではないが、それが嬉しい。

「そっか。 ただいま。 遅くなってごめんね」

「え?」

祐樹はそんな言葉を父親から聞いたことはない。 父親が帰って来る時間には自分の部屋に居た。 父親を迎えるのは母親。 ただそれだけだった。

「ん? なに?」

「あ、何でもない」

ジワリと祐樹の心が温かくなってくる。

「眠たくない?」

「ないよ。 それより姉ちゃん、お腹が空いてるだろ? 着替えてきて。 おかず温めておくから」

キッチンに走り出した祐樹。 冷蔵庫にはもう食べてしまった祐樹のおかずと、まだ待機状態の詩甫のおかずがあった。

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国津道  第1回

2021年01月18日 22時01分12秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第1回



木々の葉がそよと風に揺れ、涼し気な葉擦れの音を奏でている。 天降る光が葉の間から幾重もの光を踊らせ、どこからか涼し気な小川の流れる音がしている。

袿(うちぎ)に赤い唐衣を広がらせ濡れ縁に座り、その風景を静かに見ていた姫のうなじに括っていた長い黒髪が数本揺れた。

街中では人々が残暑に苦しんでいるが、木々に囲まれたここではそういうこととは縁遠い話であった。
機を計ったように朱に染まった愛らしい口唇が開く。

「一夜(ひとよ)? 瀞謝(せいじゃ)はまだ見つからない?」

姫の後ろに控えていた四十前後の歳だろう女が応える。

「姫様、申し訳御座いませぬ。 もう暫しのお待ちを」

「そう・・・。 この社もいつまで持つかしら・・・」

「姫様・・・」

「御免なさいね、あなた達にも迷惑をかけて」

「然様なことは御座いませぬ。 きっと瀞謝もこの緑を見れば・・・」

思い出しますでしょう、とまでは言えなかった。 思い出すどころかいつ見に来るのだろうか、ましてやそれが叶うのだろうか。



皺の無いカーキー色のカーゴハーフパンツに、赤白紺の横縞の入った綿半袖ポロシャツの衿部分はカッターシャツのような生地で白くかっちりとしていてしっかりと立っている。 それぞれにきちんとアイロンが掛けられている証拠である。

母親がきちんとしているのが分かる服を着て、背中にランドセルを背負った少年がまだ明るい陽の下を坊ちゃん刈りの前髪を揺らして、トントントンと軽快に二階建てコーポの外階段を上がっていく。

小学校四年生になって一カ月と少しを過ぎた頃である。 今年の梅雨は遅れるらしいと朝のニュースを耳にしていた。
梅雨になれば体育の授業が外で出来なくなる。 外で走り回りたい年頃である。 遅れるということであれば当分は大丈夫なのだろうが、それでもいずれ梅雨はやってくる。 残念に思いながら体育の授業を受け小学校を出てきたが、今はそんなことも忘れて軽快になっている。

持たされていた鍵を鍵穴にさし、カチャリと音をたて鍵を開けると続いてドアを開けた。

「あれ?」

姉のビジネスシューズがある。 今日は金曜日。 会社に行っているはずの時間なのに。

「姉ちゃん?」

と、部屋の奥からコンコンと咳が聞こえてきた。

「姉ちゃん?」

また咳をしている。
少年が慌てて靴を脱ぎ廊下を抜けると、リビングの横にある姉の部屋の寝室まで行こうとしたが、リビングの戸を開けると姉はリビングに居た。 丸くなって咳をし続けている。

「姉ちゃん!」

少年が姉の横に膝を着いて背中をさすってやるが、咳はどんどんと酷くなるばかり。 息が吸えているのだろうかと思う程である。

少年がやって来てから十分ほど続いた咳、それがようやっと止まった。

「姉ちゃん、大丈夫?」

少年が姉の顔を覗き込みながら問うと、やっと体の力を抜くことが出来た姉が大きく息を吸って吐き、微笑んで「うん」と応えが、長く咳をしていたのだろう、その額には汗でショートカットの前髪が貼り付き、ブラウスの首元が湿っているようである。

「姉ちゃん、最近咳が多くない? オレが知ってるだけでもかなり咳をしてるよ? それにオレが知ってるのはいつも夜なのに・・・こんな時間にも咳が出てたの?」

姉が首を振り丸くなっていた身体を立てて、ペタンと座った。 フレアースカートが足元でふわりと広がる。

「こんな時間は初めてよ。 こんな時間に出られたら仕事も出来ないわ。 でも大丈夫よ、季節か何かで出てるんじゃないかな」

長く咳をしていたのだろうか、声が枯れている。

「今までそんなことなかったのに?」

「ほら、花粉症も急に出るっていうじゃない?」

咳で体力が消耗していた、弟が居なければあのまま寝ころびたかったが、そんなことをしては弟に心配をかけてしまう。

「なら、いいけど・・・」

立ち上がるとLDKであるキッチンに行きコップに冷茶を注ぐと戻って来て姉に差し出した。 ありがと、と言って受け取った姉が三口飲む。 ひりついている喉に心地よく冷茶が流れていく。

「学校終わったの?」

この義理の弟は週末学校が終わると五つ向こうの駅から電車に乗って月に二、三度こうしてやって来る。 そして義姉の帰りを待って泊っていく。

「うん。 今日、仕事じゃなかったの?」

「有休を取ってた」

「あ、やっぱり具合が悪いの?」

「違う違う、ずっと忙しかったから、順番に有給を取るようにしたの」

「え? そんな忙しいって、姉ちゃんの行ってる会社ってブラック?」

「あ、なに生意気なこと知ってるの、それにブラックじゃないから。 ブラックなら有休もとれないよ?」

「あ、そうなんだ」

姉、詩甫(しほ)の母が離婚をして、再婚相手との間に出来た義理の弟である祐樹(ゆうき)の頭を撫でた。
この歳の子がそんなことをされては反発するか、せいぜい顔をムッとさせるだろう。 だが祐樹はそうではなかった。 あくまでも詩甫に対してだけだが。

「でも姉ちゃん、仕事で無理してたんだったら、一度お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないの? あの咳、普通じゃないよ」

詩甫が手を止め、残りの冷茶を飲み干すと立ち上がりキッチンに向う。

「何ともないって」

母は若くして詩甫を産んだ。 父と母は高校時代の同級生だった。 母は腹が大きくなってきたのを隠して高校を卒業してすぐに詩甫を産んだ。
卒業を前にしてきっと心休まらない高校生活だっただろう。

その後、両家の間で話し合いがもたれ婚姻届けを出したのだが、詩甫が九つの時に別れてしまった。
働いたことの無い母親は詩甫を連れて実家に戻ったが、詩甫が十二歳の時に母親が義理の弟の父親と恋をして再婚をした。 そしてその翌年に祐樹が生まれた。

今年詩甫は二十三歳になった。 高校を卒業してすぐに就職したところで今も事務員として働いている。 祐樹は小学校四年生、誕生日を迎えれば十歳になる。 歳の差十三歳の半分血の繋がった姉弟であった。

その祐樹は詩甫に懐いている。 詩甫も祐樹を可愛いと思っている。
だがそれと反して詩甫はどこかで自分は一人なんだと思っていた。 だから就職をしてすぐに親元を離れ独立をした。 そんな詩甫に祐樹が寄り添ってくれていた。

こうして月に二、三度、なけなしのお小遣いを使って電車に乗ってやって来てくれている。 それを詩甫は嬉しく感じていた。 だから祐樹が帰る時には、何度か千円札を持たせようとしていた。 それは往復の電車代に僅かだが色が付く。 それなのに『姉ちゃん、要らない』 祐樹はいつもそう言って二泊すると逃げるように帰って行った。

「お母さんにここに来るって言った?」

いつも詩甫が訊くセリフだ。

「うん」

「じゃ、買い物に行こうか、今日の晩御飯は何が食べたい?」

シンクの中にコップを置き冷蔵庫の中を覗く。
詩甫の様子はいつもと一緒だ。 祐樹が心配していた咳が詩甫に出そうにない。

「オムライス」

母のオムライスは美味しかった。 そうか、祐樹も母のオムライスを美味しいと思ってくれているのか。

「そっか、卵を切らしてるから、一緒に買い物に行こ」

そう言えば人参も丁度切れていたし、ケチャップも残り少ない。

「うん!」


翌々日、祐樹が帰った日曜日の夜にまた咳が出た。 コンコンコンと息も吸えないぐらいに出る。 咳に体力を奪われる。
あまりの苦しさに今までと違って身体がのたうち回る。
ほぼ二時間、咳と戦った。

「どうして・・・」

息絶え絶えになり、体力もなくした詩甫。
それからも、数時間、寝ることを許されず、断片的に起きる咳と戦わなければいけなかった。
それから数日、毎夜と言っていいほど激しい咳に襲われた。 とうとう体力を使い果たし、この日会社を休んだ。

「姉ちゃん!」

意識がもうろうとしていた、そんな時に祐樹の声が聞こえた。 そしてその後に自分の咳が聞こえる。

「姉ちゃん! 救急車呼ぶよ!」

祐樹の声がしっかりと聞こえる。

「・・・いい、呼ば、な、くて・・・。 おさま、る、か、ら・・・」

咳の合間に何とか返事をする。

「そんなことない! ずっと咳をしてる!」

詩甫のことが気になって、今日も学校から家に帰らず詩甫の元を訪ねた。 最初は良かったのだが、そろそろ帰ろうかとした時に詩甫が咳をしだした。

赤色灯を灯して救急車がコーポの前に停まった。 救急隊員が階段を上がると、廊下に出ていた祐樹が迎え入れ詩甫の部屋に誘導をした。

その時にも詩甫は咳で苦しんでいた。 祐樹の知る限りいつもは身体を丸くしていただけだったのに、今日はのたうち回って咳をしている。
三人の救急隊員がそれぞれに動く。 二人が詩甫につく。 そしてもう一人が祐樹を玄関に連れて行った。

「君が連絡をくれたのかな?」

泣きかけの祐樹の背丈に合わせて救急隊員が膝を折る。

「うん」

どこから見てもまだ小学生、患者とどういう関係なのだろうか。

「君は―――」

「姉ちゃんを助けて!」

そうか、患者の弟か。 見たところかなり歳が離れているようだ。

「落ち着いて。 いつからこの状況になったのかな?」

「ずっと前から咳をしておかしかった! 姉ちゃんを助けて!」

「うん、助ける。 だから君が落ち着いて。 お姉さんの名前と生年月日、分かるかな?」

祐樹と救急隊員の間で話が交わされている間にも、詩甫が咳に襲われて転げまわっている。

「じっとしてください!」

救急隊員が言うが、咳が激しく苦しい、俯いて咳をしていたかと思うと、仰け反って咳をする。 次には身体が倒れる。 身体はクタクタなのに、勝手に動いてしまう身体を止めることが出来ない。
苦しい、苦しい、誰の声なども聞きたくない、じっともしていられない。 止めようとする救急隊員の手をはじく。

その時、部屋の中に居たもう一人の救急隊員が壁を背にしてズルズルと膝を崩していった。

狭い寝室でそれこそ七転八倒をした。 ただただ苦しい、それなのに抑えられる手が厭わしい。
ようやっと咳に苦しむ長く感じた時が止まった。
咳が止まり息を深く吸うことが出来た。 目をうっすらと開ける。
目の前に知らない男性が居る。 その男性が詩甫の片腕を掴んでいる。
祐樹が救急車と言っていた。 そうか、呼んだのか。 後ろから支えてくれている腕も身体も救急隊員のものなのか。

「・・・すみません、もう、何ともないです」

あまりの苦しさに出ていた涙と共に掠れた声で言い、後ろで支えていた救急隊員から身を起こそうとしかけたが、出し切った体力で脱力しているはずなのに、身体はまだどこかで硬直している。

これ以上迷惑はかけたくない。 自分を叱咤し手を床に着けると、なけなしの力を出して何とか身体を起こして救急隊員から離れようとする。

「何ともなくは無いでしょう」

詩甫の目に映っていた救急隊員ではなく、詩甫を後ろから支えている救急隊員が言った。 きっと咳に苦しんでいる時に厭わしかった手の持ち主である救急隊員なのだろう。

「いえ・・・大丈夫ですか・・・」

最後まで言えなかった。 意識が遠のいた。
後ろの救急隊員の身体に詩甫の体重がかかった。

「野崎さん!」

詩甫の急変に抱えた救急隊員が叫ぶ。

「野崎さん! 聞こえますか!?」

その声に祐樹と話をしていた救急隊員と祐樹が玄関から寝室に飛び込んで来た。
祐樹の目に救急隊員の腕の中で力なく倒れている詩甫の姿が映った。

「姉ちゃん!」

祐樹が詩甫に走り寄り、隣に膝まづくと詩甫の身体を揺する。

「姉ちゃん! 姉ちゃん!」

祐樹と一緒に居た救急隊員が慌てて詩甫から引き剥がす。

「揺すっちゃ駄目だ」

「姉ちゃん! 姉ちゃん!!」

救急隊員の腕の中で祐樹が暴れるが、大人の男の力に敵うものではない。

詩甫を抱えていた救急隊員が詩甫を横にならせながら、じっとしていたもう一人の救急隊員に声をかける。

「おい! 何をしてる! 早く! バイタル!」

その時、詩甫の腕がぴくりと動いた。
次にまだ開いていない瞼の上の眉間にゆっくりと皺を寄せる。

「・・・煩(うるさ)いのう」

詩甫の口から声が出たと思ったら、ゆるゆると身体を横にし両手で支えると、上半身が起き上がって来た。 ゆっくりと目を開ける。 右手を着いたまま左手で胸元を正そうとして、再度眉間を寄せる。

―――衿が無い。

横座りの状態である。 今度は裾を直そうと左手を伸ばしたが、そこに裾は無かった。

「・・・なんじゃ、これは」

何が起こったのか、救急隊員二人と祐樹が時を止めた。

「曹司(ぞうし)」

詩甫が呼んだ。 だがどこかいつもの詩甫の声ではない。

少し前に壁を背にしてズルズルと膝を崩していた救急隊員、その隊員が詩甫の目の前で膝を立てていたが、すぐに端座をした。

何が何か分からず時を止めていた救急隊員を置いて、祐樹が我を戻した。

「・・・姉、ちゃん?」

詩甫の姿であり、詩甫の口から出ている言葉であるが、どこか詩甫ではない。 不安げに詩甫を見ながら口の中で詩甫を呼んだ。

「遅れをとりました」

端座をしていた救急隊員が言う。

「早うに越したことは無かったが、勝手をしたのはわたくし。 そなたが居てくれたゆえ、ようやっと、わたくしの出ることが叶ったような。 礼を言う」

「滅相も御座いません」

「瀞謝(せいじゃ)は簡単にわたくしを宿らせないような。 このままではまたすぐに気を取り戻して咳でわたくしを拒もう。 その前にわたくしは去(い)ぬる。 このまま朱葉姫(あかはひめ)様の御前に進み出るつもりであったが、それが叶わぬ」

詩甫ではない詩甫の目が厳しく光る。

「再度、瀞謝に宿ること、容易ではいかぬよう。 分かっておろうな、一刻も早く瀞謝を姫様の御前に」

「承知」

詩甫の肉体の力が抜けた。 曹司と呼ばれた救急隊員が詩甫の身体を受けとめる。 同時に救急隊員二名の時が動いた。

「野崎さん!」

祐樹は何が起こったのか全く分からなかった。

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虚空の辰刻(とき) を書き終えて

2021年01月15日 21時30分12秒 | ご挨拶
長いお話しにお付き合い下さりありがとうございました。

今回、最初に浮かんだシーンは、紫揺が誘拐されるに襲われたワンシーンでした。 その時に自転車は無かったのですが。

そのシーンが浮かんだ時、すぐに襲われた女の子に 木ノ葉 と名付けたかったのですが、どうしてもその先が浮かばず、でも木ノ葉という女の子を生かしたいと思い、その時書いていた『みち~満ち』で、木ノ葉という女の子を登場させました。

そして『映ゆ』を書いている時に、襲われた前後のことが思い浮かび『虚空の辰刻』となりました。


今回、思いの外浮かばなかったのは名前でした。

得にリツソはどう考えても浮かばず、最初は名前を★マークにしていました。 名前が決まってから変換するつもりだったのですが、★マークになっているとどうしても個性にぶれが出てしまって、苦肉の策で名前を決めました。

リツソの供はカルネラ。
カルネラはリス。
ということで、リスを漢字で書いて栗鼠。
それを音読みにしただけでした。

紫揺は ”藤滝” という苗字は決まっていたのですが、これも名前が出てこず、ずっと ”F” で書いていたのですが
早季の日記で十郎が早季に行った言葉
『淡く見えたのでしょう? その時の為にお義母さんが考えられた名でしょう?』
というのがありますが、そこでやっと ”紫が揺れる” で ”紫揺” にしようと思い浮かんだ次第です。

他にもすぐに名前が決まらない人物もありましたが、リツソと紫揺ほどではありませんでした。
それに反してすぐに決まったというか、決めることも無く思い浮かんだ人物もいました。

マツリ(祭・魔釣)
何を考えることも無く、まだ二つ名のことも決めていなかった時に浮かんでいました。

そしてカルネラ。
カルネラの名前が最初に出てくるのが『時には供のカルネラもいる』というところです。
文章を打ち込んでいると、何を考えることも無く、すらすらとカルネラと打ち込んでいました。

此之葉
此之葉の姿、それは最初に頭に浮かんだワンシーンの女の子と同じでした。
市松人形のような女の子。
だからこの女の子にはどうしても このは と名付けたくて、漢字を変えました。


書き終えて暫くすると番外として続きを書きたいと思い、書き始めていたのですが、到底番外にはならず完全に続きという形になりました。
打ち込んだだけでまだ見直しが出来ていないので、すぐにアップとはなりませんが、続きをお待ちいただけたらと思っております。
続きも今回と同じく長いのですが・・・。


では
次回から『国津道(くにつみち)』 というお話しになります。


最後にもう一度
『虚空の辰刻』 読んでいただきましてありがとうございました。

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虚空の辰刻(とき)  第216最終回

2021年01月11日 22時24分31秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第216最終回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第216最終回



ホテルの一室のドアの呼び鈴が鳴った。

「俺です。 梁湶です」

ドアが内側から開けられた。

「どうした、こんな時間に」

丁度シャワーから出てきたところか、タオルを首にかけバスローブを着ている。 髪の毛はまだ濡れている。
タオルで髪を拭きながら、阿秀が後姿を見せながら部屋にあるソファーに座った。

(相変わらずどんな姿でもどんな仕草でも様になるよな。 こんな姿を塩見様が見たら・・・おっと、そんな話じゃなかった)

梁湶が向かいのソファーに座る。 テーブルには立ち上げたままのノートパソコンが開いて置かれていた。

「調べものですか?」

ソファーに座る前、画面を見たが壁紙になっていて何を見ていたのかは分からない。

「ちょっとな。 私の口座の金を使い切ってもいいか?」

つい先日、梁湶が追加して入れたところだ。

「殆ど阿秀が働いて作った金です。 阿秀の使いたいように使って下さい。 こっちにはまだ引き上げるまでの金は残っています」

「では、遠慮なく」

作った笑顔ではないのだろうが、同じ男から見ても惚れ惚れする。

「阿秀、紫さまに物申す此之葉を最初わざと止めなかったでしょ?」

此之葉が紫揺に考えて欲しいと、自分達にはまだ希望があるのですね、と訊いた。 その此之葉の名を呼んだだけで、それ以上何も言わなかった。 梁湶はそのことを言っている。

「・・・どうかな」

肘かけに肘をつき、指先を口に持っていく。

(良い目の保養になるわ。 俺が女だったらイチコロ・・・っと、そうじゃなかった)

己の気を入れ替えるようにコホンと咳払いをする。

「此之葉がそれに乗って紫さまに懇願し、ああ、此之葉だけじゃなくて俺たちも。 遡って言えば、わざとあの犬のことで簡単に紫さまの仰ることを了解しましたよね?」

ガザンを置いていくことなど考えてもしていないと言った紫揺に対して ”そうですか” とあっさり阿秀が応えたことだ。

「まだなにを考えているんですか?」

「そんなことを訊きに来たのか?」

白々しく作ったものなのか、本心からなのか、わずかに小首をかしげて見せる。

(答える気がないということか)

まぁ、訊いたところで何が変わるわけではない。

「いいえ、余談です。 車と船のこと、それと金のことを訊きに来ましたが、金は阿秀が使い切ってくれるのであればそれでいいかと」

「そうか、船や車を手放す時にも金がかかるな」

売るなどと考えていないようだ。

「それですが、欲しがっている者に心当たりがあります。 渡してもいいですか? 廃棄処理をするよりよっぽどいいかと思います」

北からの連絡を待っている間、若冲と一緒にホテルを出て銀行に行った時だ。 たった一日、いや一日も持たなかったが、阿秀の紹介ということで阿秀が働いていた店にホストとして入ったのだがすぐにねを上げてしまった。 その時のホスト仲間に会った。

梁湶は一目では分からなかったが、相手が覚えていた。 阿秀が連れてきた男なのだからよく覚えていたということだった。

良い成績を収められず、今はホストをやめて実家を継いでいるという。 その時に船と車のことを何気なく話すと、車も船も是非とも欲しいと言い、連絡先を教えてきた。 車は一台しか要らないが、残りの二台は売りさばくと言っていた。

「別にかまわんが、その為に日は作れんぞ」

明日にはここを発つということだ。

「明日朝一番に手続きを終わらせます。 ですので車を一台借りてもいいですか?」

「時間にさえ遅れなければ」


翌朝早朝、ガザンの散歩に出て、帰ってからはもう一度昨夜考えたことを反芻する。

「うん、間違いない」

夜中に考えることほど感情的に、感傷的になるものはない。 だがそうでは無かったと、夕べのことを回顧し終えた。

「ガザン、お留守番できる? って、してほしいんだけど」

ガザンの朝ご飯を買いに行かなければいけない。 だがガザンを連れてはいけない。 ガザンを店に入れるわけにはいかないのだから、どこかに括っておくしかないのだが、ガザンが人を見てどういう行動に出るか分からない。
腰を上げたシユラの後をずっとついて回るガザン。

「だから・・・。 お願い座ってて。 お腹減ったでしょ? ガザンのご飯を買いに行くだけだから」

――― 認めない。
紫揺から離れるなどと。
――― 認めない。
絶対に。

どれだけ紫揺が言おうともガザンが玄関を降りてくる。

「ガザン・・・」

このまま二人で野たれ死ぬのもいいかもね。 冗談でそう思ったが、セキから預かっているガザンだ。 ガザンを野垂れ死にさせてはセキに合わせる顔がないし、餓死などさせられない。 それに夕べ考えたとがある。

「仕方ない。 今日一日、絶食しよう。 私も付き合うから。 その後はどこにどう流れるかは分からないけど、どう流れても私はガザンと一緒に居るからね」

玄関を上がった紫揺の後をガザンがついてきたが、ガザンのベロンがない。 返事がない。

「ガザン?」

ベロンは嬉しいがお肌的にちょっち厳しい。 だがそのベロンが無いのは寂しい。
するとガザンが再度玄関に降りて戸の前に陣取った。 ガザンが何を言おうとしているのかが分からない。
こんなときセキならすぐに分かるはずだ。 ガザンのことが分からない自分が苛々しい。

「・・・シャワー浴びてくるね」

夕べあのままガザンの隣で眠ってしまっていた。
シャワーを浴びジャージのハーフパンツとTシャツに着替えた紫揺を見たガザンが、玄関の引き戸を掻く仕草を見せた。

「なに?」

鍵を開けガザンが出られない程度に引き戸を開け顔だけを出すと、段ボール箱が置かれていた。
まさか爆発物ではないだろう。 だが宅配でないのも分かる。 ガザンが受け取って肉球スタンプを押したのではないだろう。

まず鍵がかかっていたのだから、戸を開けることなど出来ないはずだし、ガザンが宅配業者を見て吠えることなくすまして肉球スタンプを押すことなど考えられない。

――― そういう問題だろうか。

とにかく箱を見てみよう、と思った時、引き戸が勢いよくガラガラと音をたてて開いた。 ガザンが鼻面で開けたのだ。

「わっ!」

と言った瞬間にはガザンが外に出た。

「ガザン! 出ちゃダメ!」

すぐにガザンの身体を両手で持った。
このまま何かを見て走り出しては追いつくことなど出来ない。 迷子にさせてしまう。 リードをしなかったことが悔やまれる。

紫揺を引きずりながらガザンが箱の隅々まで臭いを嗅いでいる。
ブフっというと、何事も無かったかのように玄関に入ってしまった。

「え?」

気も抜ければ力も抜ける。 どんなフェイントをかましてくれるんだ。
玄関を出たところで座り込んでしまった。 大きく息を吐く。 横に箱がある。 そっと箱に手を伸ばして開けた。

「・・・」

辺りをキョロキョロして見るがまだ朝の早い時間、誰の姿も見えない。 それに目当ての人物も確認できない。

箱の中には大型犬用のドッグフードと、紫揺用だろう朝食用と思われるサンドイッチと調理パンが一つずつ。 昼食用だろう弁当。 他に玄米茶のペットボトルが二本、そして生とカスタードのダブルのクリームの入ったシュークリームが入っていた。
ペットボトルを手に取ると、まだよく冷えている。

「あ、あの時?」

ガザンが玄関に陣取った時、あの時にこれを置こうとしていたのだろうか。
毒など入っていないだろう。 これを持ってきてくれた人物に心当たりが十分にあるが、その人物だと断定できるものは何もない。 だが間違いないと思う。 その人物が毒など入れるはずがないし、それにガザンが臭いを嗅いでいた。 段ボールに残った臭いが、昨日安全だと覚えた臭いと同じと判断したはず。

箱を両手に持って家の中に入りテーブルの上に置き箱からドッグフードを出す。
紫揺自身もコンビニにドッグフードを買いに行こうと思っていた。 この箱を置いた主もどこかのコンビニかこの辺りには無いが、二十四時間営業のスーパーで買って来たのだろう、ドッグフードは大袋ではないのだから。
袋を開けて一粒取ると玄関に伏せているガザンの鼻先に近づけた。

「どう? 食べられる?」

ガザンが屋敷で食べていたのはドッグフードではない。 野菜と肉を炊いたものを食べていた。
鼻先を動かしながら臭いの確認をする。
ベロンと大きな舌で一粒を食べた。

「大丈夫だね」

大鉢は一つしかない。 中に入っていた水を捨てるときれいに洗い水気を拭き取る。
さて、いざどのくらいの分量かと表示を見るが、体重別に書かれてある。 ガザンの体重など分からないし、ガザンがヘルスメーターの上に座ることなど出来ない。 まず尻がはみ出る。

「適当でいっか」

その昔、飼育委員をやっていたころを思い出しながら、大鉢にフードを入れ、ガザンの前に置いた。
屋敷にいた頃はがっついて食べていたが、やはり食べ慣れないのだろう。 ゆっくりと食べている。

ガザンの食べるのを見ながらテーブルの椅子に掛け、紫揺もサンドイッチを口に入れる。
これから此処で暮らすようになれば、誰にもこんなことはしてもらえない。 それどころか働きに出なくてはならない。 ガザンを言いきかせ留守番をさせなくてはならない。

「甘えてばっかりしてるな」

昨日、阿秀が言ったようにあの時点で終わりになっていれば、今日、こんな風にガザンを食べさせてあげることが出来なかったし、明日、買い物に出られるとは限らない。
時計を見ると六時四十五分をさしている。


ホテルで朝食を済ませた梁湶が十時三十分に車で駅に出かけ、ギリギリにホテルに戻ってきた。

「終わったのか?」

名義の書き換えのことだ。

「はい。 車は空港で引き渡し、船は後日島まで取りに来るそうです。 阿秀も会われますか? Shadai です」

Shadai は弟二人を引き連れてやって来ていた。 そのまま車で帰るのだろう。

「シャダイ? あのShadaiか?」

思いもしなかった名前だった。

「はい。 今は店を辞めて実家を継いでいるらしいです」

「たしか実家は・・・自転車屋と言っていたな」

よく覚えているものだ。

「会われますか?」

「懐かしいがやめておこう。 この地にはもう用はないからな」

「了解」 

紫揺の家に行く時間になると、三人の男たちが車を取りに地下の駐車場に向かい全員が車に乗り込んだ。 醍十の運転する車にいつもなら阿秀が助手席に座るはずだが後部座席に此之葉と座っている。

「朝食をとらなかったらしいな」

醍十から聞いた。 醍十は此之葉のことを気にして、此之葉が寝つくまで部屋にいようと思ったらしいが此之葉は寝ることなく、とうとう静かに泣き出してしまったらしい。 挙句に朝食もとらなく、話しかけても返事をしてもらえないと醍十が嘆いていた。
阿秀に話しかけられても俯いたままで返事もない。

「夕べ考えられたはずだ。 此之葉が案じていても全て紫さまのお心次第だ」

「・・・分かっています」

バックミラーに醍十の顔が映っている。 此之葉の声を聞いて幾分かほっとした表情を見せた。

「あまり醍十に心配をかけるんじゃないぞ」

俯いたままの此之葉がチラッと阿秀の手元を見た。


真昼間だ。 夕べのように三台もの車を紫揺の家の前に付けるわけにはいかない。 そんなことをすれば目立って仕方がない。 少し離れた所に車を置き阿秀と此之葉だけが行こうとしたが、他の六人がそれを納得しなかった。 紫揺が此処に残ると言えばどうしてでも説得するつもりなのだろう。

七人の男がぞろぞろ連れ立って歩いては目立って仕方がないが、ここは昼間パートに出ている者が多いのか、誰も外に出ていなかったし、子供たちは学校の時間だ。
結局七人の男と此之葉が紫揺の家に向かった。

引き戸のガラスにガザンの姿が映っている。 此之葉を後ろにつかせて阿秀が引き戸を叩く。 中からガザンに何か言っている紫揺の声がする。

ガザンの姿が引き戸から離れた。 あっさりとガザンが引いたのは、阿秀の臭いを感じたからだろう。
そして他にも紫揺を害する気配がないことを感じていたということは、紫揺の知るところではなかった。
引き戸が開けられると紫揺が顔を出した。 その顔に阿秀が辞儀をする。

「中に入って下さい。 此之葉さんも・・・皆さんも」

此之葉を見た時に六人の姿も目に入った。
阿秀が一番に入るとガザンの姿が見当たらない。

「ガザンなら奥の部屋にいますから安心してください」

その間の戸は開け放たれていたが、阿秀を認めたガザンだ。 唸って跳びかかることは無いはずだ。 それに此之葉にもそんなことはしないであろう。 ニョゼに対してそうだったように。
だが他の六人は分からない。 ガザンがラウンジで紫揺の言った『あの人達は私の為に一生懸命にしてくれているの』 それをのんでくれていればいいが、確たるものはない。 他の六人には玄関にいてもらうしかない。

「どうぞ座って下さい」

玄関を入ってすぐの台所にあるテーブルの椅子に掛けるように言った。
阿秀と此之葉が並んで椅子に掛ける。 阿秀の前に紫揺が座る。

「此之葉さん、昨日言ってくれてありがとう。 落ち着いて考えることが出来ました」

「紫さま・・・」

膝の上に置いていた手がテーブルにかかる。 目が潤んできているのが分かる。

「心配かけてごめんなさい」

此之葉に言うと阿秀に目を転じた。
普通なら、普通紫揺の歳であればこれから重大なことを言うのだ。 息を飲むとか、深く息を吸うとか、そういう間があっても良い筈であるが、紫揺はそうではなかった。 いともあっさりとそれを口にする。

「東の領土が紫を失いたくないのであれば、一つだけ方法があります」

「はい」

もう阿秀の顔が笑んでいるが、他の者は紫揺の言いようが分からない。 どういう事だと玄関の六人が紫揺を食い入るように見、此之葉はテーブルにかかっていた手に力を入れた。
阿秀の顔を見た紫揺。

「ずるい。 分かっていたんですか?」

「いいえ。 此処に残られることを選ばれればそれまでですから」

「阿秀? どういうこと?」

此之葉が問うが、他の六人も訳が分からない。 それぞれが誰を見ていいのかも分からない。
決して男六人が楽に居られることの出来る広い玄関ではない。 それでなくともおしくらまんじゅう状態で立っているのに、それぞれが身体を動かしたり顔を動かしたりしては均衡が崩れる。

「紫さまのお言葉を待ちましょう」

阿秀が此之葉に言う。 その顔が止められない笑みで満たされている。

「紫さま・・・」

何があるというのか、阿秀を見ていた目を紫揺に戻す。
紫揺が此之葉と一度目を合わせると再度阿秀を見る。

「紫がガザンを連れて東の領土に入ります。 東の領土の決まり事なり、領主さんの許可なりが必要であればその後に私は東の領土に行きます」

決してお願いではない。

「承知いたしました」

「え? わっ! あ“あ”―!!」

均衡が崩れた。 大の男が六人、玄関の上がり口の板間に倒れ込んだ。

「紫さま!」

此之葉が立ち上がって紫揺の横に膝まづいた。

「有難うございます、有難うございます」

潤んでいた目から大粒の涙が次々と零れてくる。

「昨日此之葉さんが言ってくれたからです。 夕べ大事なことを思い出したんです」

暖かいものはどこにあるのか。 自分がこの地に居なくてはならない理由は何なのか。
暖かいものは東の領土の地にある、自分を待ってくれている人にある、ガザンにある。 そしてこの数日、自分を心配してきてくれた七人の男たちと此之葉にある。 それ以外のどこにもない。

この地では、高校を卒業した後、自分は何もかも置いて東京に行こうとしていたではないか。 それを今更、誰を何を失いたくないと思うのだ。

迷ったのは、当たり前に過ごしてきた此処を離れる勇気がなかったからだ。
迷ったのは東の領土に行きたかったからだ。

男たちの倒れる音を声を聞いて、ガザンが奥の部屋から出て来て此之葉の匂いを嗅いでいる。 最初は頭を上げて紫揺を見ていた此之葉だったが、今は頭を下げて泣いている。 此之葉はガザンに気付いていない。
その様子を息を飲みじっと見ていた六人。 ガザンが顔を上げ六人を見た。

「わっ!」
「ぎゃ!」
「イタ! 動くな!」
「どけ! こっちに来る」
「押すな! 動けないだろ!」
「ああ? 俺が一番にどけばいいのかぁ?」

一番上にいたのは醍十であった。 下になった者達はさぞ重かっただろう。
それぞれが言いたいことを言っているが、紫揺が気付いた。 ガザンが吠えていない。 春樹にはあれ程吠えていたのに。
何故か、春樹に下心があったからだ。 だが春樹の下心など紫揺の知るところではない。

「皆さん、じっとしていて下さい。 その、臭いを嗅がれてもそのままで」

ガザンがノシリノシリと六人に近寄る。 全員の顔が引きつっている。 紫揺が立ち上がってガザンの横につく。

「ガザン、よく覚えて。 この人達は私たちの敵じゃないからね」

ガザンが一人ずつの臭いを確かめる。
ブフっと言って、いとも簡単にその場を離れると阿秀の後ろを通って奥の部屋に戻っていった。
六人の緊張が解け、一番下になっている者がその重みに耐えかねる。

紫揺の声に顔を上げ、涙をいっぱいにしていた此之葉が訳も分からずガザンを見送る。
椅子に戻ってきた紫揺。

「阿秀さんのことは、もう覚えていたみたいです。 それと朝のアレ、有難うございました」

「箱を置こうとしたら、犬・・・ガザンの姿が硝子戸に映ってどうしようかと思いました」

やっぱりか。 阿秀の臭いを感じ取って玄関に陣取ったのか。 紫揺がチラッと奥の部屋を見た。 たとえ覚えている阿秀の臭いとは言え、紫揺が招いたのではないから警戒したのだろう。 なかなかのボディーガード振りだ。

「これからどうすればいいんですか? 阿秀さんが領主さんにお伺いを立てるまで私はここに居ればいいんですか?」

「いいえ」

阿秀が首を振って続ける。

「紫さまは領土に入ると仰いました。 どうしてそれを領主が撥ねのけることが出来ましょうか。 紫さまのお言葉を許可するしないなどとは有り得ません。 紫さまがお願い事と仰られていたならばまた違いましたでしょうが」

阿秀が分かって言ったのだろう? という顔をしている。 だからお願いとは言わなかったのだろう? と。
たしかにそうであった。 紫揺が東の領土に行った時、そしてその前にこの家で領主とあった時のことを思い出したのだった。

領主はマツリに関すること以外は、何一つ紫揺が決めたことに反対はしなかった。 危険が生じることに対しては止められたが、伺いを立てればそれに対して応えていた。 お願いは伺いを立てると同じだと思った。 だからああいう上からの言い方にした。 何も知らなかった時、偉そうに領主に言っていたように。

「阿秀・・・」

遠慮気味に此之葉が声を掛けた。 いつの間にやら此之葉が男達を立たせようと悪戦苦闘していたが、もつれ合った男たちは立つことは出来ないようだった。

「・・・お前たち」


その後は紫揺が阿秀に付き添われ銀行に行き、全ての貯金を解約した。 僅かだが。
そして大家の家に行き、それまでの日割りの家賃を計算しようとした大家を止め、月払いに大層な色を付けた形で持っている金を全部支払った。 突然でもあるし長年世話になったのだから。 そして家の中の処分も頼んだのだから。 それにしても多すぎると大家が言うが、もう此処の金など要らない。 返してくる手を押しのけた。

水光熱を全て止め今日までの分を現金で支払う。 それは梁湶が受け持った。
だがその前に紫揺が電話をかけた。 相手は佐川と春樹だ。 特に佐川には礼を言っても言い尽くせない。
時間的に会社にいる佐川。 紫揺が電話をかけたのは紫揺の父親も務めていた会社だ、電話番号は分かる。
電話交換手が佐川に繋ぐ。

『紫揺ちゃん?』

佐川の声が紫揺の耳に届いた。

「おじさん、仕事中にごめんなさい」

『そんなことはないよ。 どうしたの? 今日あたり家を訪ねようと思っていたんだけど』

やはり心配をかけていたのだ。

「おじさん・・・。 この家を出ます」

『え?』

「おじさんとはもう連絡が取れなくなりますけど、元気にやっていきます」

『待って! どういうこと?!』

佐川の周辺に居た者が急に大声を出した佐川を見る。

「海外に・・・海外に行きます」

『海外? そんな伝手があるの?』

「流浪していた時に知り合いました」

あまり嘘はつきたくない。

『あ・・・』

紫揺が言っていた流浪をしていたということを思い出した。

『お相手さんは信用できる人?』

「はい」

『そうか。 紫揺ちゃんが認めた人か。 お父さんもお母さんも喜んでいるだろうな』

何か勘違いをしているようだが、取り敢えず「はい」 と答える。

『子供が生まれたら連絡をしてくれな』

やっぱり。 完全に国際結婚と思っている。 それで終わらせばいいのだろうが、終わらせられない性格だ。

「おじさん、違います。 考え方に賛同しただけです」

『え? 結婚じゃないの?』

「今はそんなこと考えられません」

『そうか。 そっか・・・うん、紫揺ちゃんの道を行くといいよ。 紫揺ちゃんの信じた道をおじさんは応援する』

「おじさん、ありがとうございます。 おじさんのことは一生忘れません」

『なんだよ、その遺言めいた言い方』

「おじさん・・・」

『困ったことがあったらいつでも言っておいで』

「おじさん・・・」

佐川はそれ以上紫揺の先のことは問わなかった。

『元気でいるんだよ』

「はい。 おじさんも」

そう言って電話は切られた。

佐川との会話と雲泥の違いで春樹の携帯にも連絡を入れた。

「先輩?」

『紫揺ちゃん!?』

スマホの画面には今までに見たこともない電話番号が示されていた。 無視しようかとも思ったが、次の職も決まらないままゴロゴロしていたから退屈しのぎに出た。 それが正解だったようだ。

「はい」

『どこにいるの? えっと、今からそこに行くよ。 どこ?』

「家にいます。 でも今から出ます」

『どこに?』

「海外です」

『え?』

「先輩にはお世話になりました」

『ちょ、ちょっと待って。 どういうこと!?』

「もう連絡はとれなくなります」

『だって、海外って言っても連絡くらいは・・・』

「取れない所なんです。 先輩、先輩には感謝しています。 あの、本当に有難うございました。 それじゃあ」

プツリと電話が切られた。 春樹がかけ直すが、何度かけても通話中になっている。 紫揺が指で一旦切っただけで、受話器は上げたままにしていたからだった。

親機を指でもう一度切るとすぐにメモを広げてその番号をプッシュする。
セノギが春樹から預かってきたという杢木の電話番号を書いたメモであった。 何故かそれは携帯番号ではなく家電の番号である。
それは完全に春樹の策であった。 杢木の携帯番号など教える必要はないという、杢木と紫揺をこれ以上親しくさせないための。 そしてそれはストライクだった。 紫揺と杢木が話すことは無かった。

「あ・・・杢木さんのお宅でしょうか」

『はい』

「藤滝紫揺と申しますが・・・」

『紫揺ちゃんかい?』

「おじさん!」

『元気にしてるかい? って、あれからどれ程も経ってないけど』

ワハハと電話口の向こうで笑っている。

「はい、お陰様で。 もう一度あの時のお礼を言いたくて。 おじさん本当にありがとうございました」

『あれくらい礼を言われることも無いよ』

「そんなことないです」

『ほら、じゃあ遊びにおいでよ。 まぁ、今すぐとは言わないけど、気候が良くなったら今度はゆっくりと海に出ようよ』

「有難うございます。 でもこれから海外に出ます。 もうこちらに戻ってくることは無いので、残念ながら」

『え? 嘘だろう?』

「本当なんです。 だから最後にもう一度おじさんにお礼を言いたくて」

『そうなのか・・・。 残念だな。 でもね紫揺ちゃん、おじさんは紫揺ちゃんと出会えて嬉しかったよ。 紫揺ちゃんのことを想っている人は他にも居るからね。 戻ってくる予定が無くても、何かあればいつでも帰っておいで』

「おじさん・・・有難うございます。 あの、杢木さんにもよろしくお伝えください」

指で親機を切った。

「紫さま・・・」

阿秀が言うが、紫揺が受話器を持ったままだ。 やっと目を閉じ受話器を戻すと電源を抜いた。

「連絡は終わりました」

この地で連絡を残したい人間がたった三人。 自分の歴史はなんと浅いことか。 何に誰にこだわっていたのだろうか。

それに知ってしまった。 自分は此の地の者ではなかった。 たとえ半分は此の地である父親の血を引いていようとも、自分は彼の地の者。 この地で生きてきた時は虚空でしかなかったのかもしれない。

母、早季の残していた言葉。 『お母さんの名前の由来と紫揺ちゃんの名前の由来も話すわ』 そう言っていた。 話してもらう前に別れが来てしまって聞けていない。 だが今なら分かる気がする。
早季、それは早くその季節が来ますように。 きっと早く迎えが来ますように。 それはその地へ行くということ。 行きたいということ。 そうではなかったのだろうか。
そして紫揺という名はいわずもながだろう。

東の領土で “紫さまの書” を読み直そう。 そして他の領土史も。 失っていた時を取り戻そう。
でも・・・

「私でいいんでしょうか・・・」

気弱に紫揺が言う。

「領土には、民には、紫揺さましか居られません」

紫ではない。 阿秀が紫揺と言った。

「・・・阿秀さん・・・ありがとう」

阿秀の気遣いが心に響く。
風呂敷に包んだ遺影と骨壺を手に取りバッグの中に入れた。
骨壺は東の領土の墓地に入れてもらう。 そして両親と祖父母の遺影だけは持っていきたいという紫揺の気持ちは分からなくもない。 だが領土には写真などというものはない。 隠し持つようにということで、阿秀が諾といった。

「ガザン、行こうか」

紫揺の横に座っていたガザンの頭をひと撫でする。
ガザンが立ち上がった。

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虚空の辰刻(とき)  第215回

2021年01月08日 22時33分32秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第210回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第215回



船のデッキに七人の姿。 操舵席に一人。 そしてラウンジには紫揺と一匹の土佐犬が居た。

ほんの少し前のことである。 セノギから最後になったカミがまだ十分には落ち着いていないが、それでも聞くことは出来るからと聞かされた。

セキに短い話ではあるが、その話が済んだら船に乗ると告げその場を立ち上がった。 それはセキにガザンとの別れをするようにということであった。 言わずとも聡いセキにはその意味が分かるだろう。

北の影たちはそれぞれに座っていたが、紫揺がセノギと共に桟橋を歩いて来ると、カミ以外の四人がカミを後ろに、最初にしていたように片手片膝をついて紫揺を迎えた。
ハンの膝の悪さは分かっている。

「無理をしなくていいですよ」

紫揺がハンに声を掛けたが、ハンは頷くだけでその姿勢を解こうとはしない。 敬意を表してくれているのだ、そう思うとその姿を甘んじて受け入れよう。
ショルダーバッグから五つの封筒を出した。 それは唱和が此之葉に預けたものである。

「セノギさん、これを渡して下さい」

その封筒には五人の影たちの名前が書かれている。 紫揺は誰が誰なのか分からない。 それに紫揺の手から渡すより、セノギから渡した方が良いだろうと思った。 セノギがカミの分もハンに渡すと全員に封筒が渡った。

「それは唱和様が書かれたものです。 皆さんのお里の場所だそうです」

子供の頃に師匠に連れてこられたのだ、自分たちがどこに住んでいたのか、領土に入ってどこに行けばいいのかなど分からない。
ハンとカミは高山(たかやま)の出だと分かっているが、どこの高山なのかは分からない。 そのカミには母親の移り住んだ場所も書いてあるのであろう。 そしてそこには未だ会ったことの無い妹か弟がいるであろう。

「里に帰るようにと強制をされているわけではありませんが、代々の方々に封じ込めを解いたあとはお里の場所を教えてこられたそうです」

使い捨てではなかったということだ。

「ですから皆さんのお師匠さんも唱和様から封じ込めを解かれ、その後にお里の場所を聞かれたということです。 お師匠さんのお里の場所は教えられないが、見かけるようなことがあれば、話をすることを禁じるものではないと仰っておられました」

五人の影たちは頭を下げている。 どう受け取っているのか表情からは窺い知れない。

「常なら、解いたあとにお一人お一人と唱和様はお話をされていたそうですが、時間が無かったものですから、皆さんに残す言葉は書けなかったそうです。 だから唱和様は皆さんに伝えて欲しいと仰いました」

五人一人ずつ、頭を垂れる姿を見た。 そしてゆっくりと此之葉が預かってきた唱和の言葉を口にする。

「すまぬ、と」


「犬・・・紫さまはどう考えておられるのだろう」

若冲は操舵席に座り、阿秀と此之葉、その此之葉が海に落ちないかと此之葉に引っ付いている醍十の三人は少し離れたところに居る。 イコール阿秀という目や耳がない四人の会話だ。

「紫さまのことだ、何も考えられておられないんじゃないか?」

「何も考えておられないというか、何もご存知ではないのではないか?」

「まぁそれも考えられるが、普通分かるだろう」

四人が目を合わす。 そして首をひねる。

「・・・普通と違わなくないか?」

「だな」

この口調は湖彩だろうか? だとしたらその前に言ったのは野夜だろうか。

「いや、その言い方は失礼だろう」

「そうだ。 単に落ち着きがないだけだ」

また一度四人が目を合わす。

「阿秀は言ったのか?」

「言った上でこれだったら・・・」

「いや、阿秀だ。 こんなにドタバタした時に言うはずがない」

と、顔にモザイクの入った壮年Aが言った。

「ではまだ希望があるということか?」

三人が壮年Aを見る。

「いや。 そこまでは・・・。 ただ、対、人の時の阿秀を考えるとそうではないかと」

阿秀の対、人のことをよくよく分かっている人物、その顔にモザイクのかかった壮年A、それは多分、梁湶だろう。

四人と離れたところに居るデッキでは、阿秀がスマホを片手にあちらこちに連絡を取っている。 この船を返すにあたっての連絡だろう。 清掃会社にも連絡を取っていた。
やっとスマホを内ポケットに入れた。 その頃には船着き場に若冲が船を寄せている時であった。

ガザンがいる。 通常なら紫揺を一番先に降ろすが、もれなく紫揺についてくるガザンがいる。 紫揺以外が船に居るとガザンが吠えるか暴れるかするかもしれない。 全員が紫揺より先に船を下りる。 ラウンジからそれを見ていた紫揺がガザンに言い聞かす。

「ガザン、いい? 吠えちゃダメ。 追いかけちゃダメ」

そんなことを言われても“了解” などとは言わない。 悪しき気のある者から紫揺を守るのだから。 それが初めて紫揺を見た時からの己の心なのだから。 それに、言われずともだが、セキから言われたのだから。

『ねぇ、ガザン。 シユラ様を守ってくれる? ・・・私はガザンとは居られないけど・・・お願い、シユラ様を守ってもらえる?』 

セキがそう言った。
どうして当たり前のことを言うのだろうか。
紫揺に話しかけられたが、セキとの時のことを思い出して 「ブフッ」 と言いながらガザンがソッポを向いた。

「ガザン・・・」

ガザンが今何を考えているかなど分からない紫揺。

「ねぇ、ガザン?」

ガザンの頬の肉を掴み左右に引っ張る。
面白い。 イケてる。 これクセになる。
だが、それを見たかったわけではない。 ソッポを向いたガザンをこちらに向かそうと思っただけだ。
頬の肉を引っ張られ、グ二ッと正面を向かされた。

「あの人達は私の為に一生懸命にしてくれているの。 ね、セキちゃんからガザンを預かったの。 だからずっとずっとガザンと一緒に居るの、居たいの。 だからお願い分かって」

「ブフー」 と一つ息を吐いたあと、じっと自分を見る紫揺のど真ん中にある口から鼻、額をベロンと舐め上げる。

「ガザン・・・」

この仔は、ガザンは、セキの聡さを受けている。 言葉が足りずとも分かってくれる。

「ガザン、ありがとうね。 セキちゃんの分もガザンが好きだからね。 大好きだからね」

紫揺がガザンの首に抱きついてきた。 もれなくガザンがヘッドロックの刑に処された。

待たせていたタクシー三台の内一台に阿秀が運転手に惜しげもなく現金を握らさせた。 ケージやキャリーに入れることも無く、座席にガザンが乗るからだ。
そのタクシーには紫揺とガザンだけしか乗らなかった。 紫揺から言われた阿秀と此之葉は他のタクシーに乗った。 ガザンは運転手に威嚇をすることなく大人しく乗っていた。

かなり遅れた昼食を取り、それからの電車移動にガザンの入ることの出来るキャリーを買い求め、キャリーなどに入ったことの無いガザンが不服を言うので、紫揺がガザンを説き伏せることがあったりと、やっとこ、どっとこで、ガザンと共に博多駅についた御一行。
三人がすぐに走り出しタクシーに乗り込むと、船着き場に止めてあった車を取りに行く。 その間、狭いキャリーの中に入れられていたガザンがのびのびと辺りを見回していた。 いつガザンが吠えだすかと気が気ではなかった紫揺だが、ガザンは見たこともない人の群れに、行きかう車に目を追っていただけだった。

車がやって来て紫揺の家に向かう。
ガザンと紫揺は阿秀の運転する車に乗り込んだ。 ガザンは阿秀を値踏みするかのように睨み据えながら乗車したが、吠えることも何もなかった。

もう辺りは真っ暗になっている時刻。 玄関の前に立つと阿秀を振り返った。

「皆さんお疲れでしょう? 大人しくしていますから、今日はゆっくりしていて下さい。 それにガザンもいますから大丈夫です」

いつもどこに居るのか知らないが、呼べば出てくるということは、家の周りのどこかに潜んでいるのだろう。 他の車からも全員が降りている。

紫揺の足元にはガザンがいる。 そのガザンが阿秀に吠えないし威嚇もしない。 それを見てか阿秀が紫揺に申し出た。

「紫さま」

「はい」

「我らは紫さまが領土に帰って来てくださることを望んでおります。 ですが領主の考えるように紫さまには、紫さまが送ってこられたこちらでの生活がおありになります。 その生活を捨てて無理にでもと申し上げることは出来ません」

「はい」

それは以前に聞いて知っている。 あの洞が潰されれば、一時考えた通いの紫にもなれない。 どちらか一つを選ばなければならない。 分かっている。

「犬は領土には連れて行けません。 犬に限らずこちらの物は何一つ持って行くことは出来ません」

他の者たちが阿秀がこのことを紫揺に告げていたのかどうかを言っていたが、ここで阿秀がそれを口にした。

「・・・」

ガザンのことはセキがセノギに言われていた。 だから薄々、東の領土もそうではないかと思っていた。

「犬と供に居られるのでしたら、我々とは今日ここまでとなります」

「・・・分かりました」

「紫さま・・・」

阿秀の後ろに控えていた此之葉の声が漏れる。 男たちの動揺が見てとれる。

「大切なガザンです。 ガザンを置いていくことなど考えてもいません」

「・・・そうですか」

「阿秀!」

男たちが阿秀の名を呼ぶ。 紫揺の言うことを認めるのではないと。

「紫さま! 紫さまはこの地に居られたいとお考えなのですか?」

此之葉が懸命に言う。

「・・・そこはまだどちらとも。 お婆様から領土のことを頼むと言われましたけど」

「では、ではまだ私たちに希望はあるのですね?」

「此之葉」

紫揺を困らすのではないと阿秀が此之葉を制するが、此之葉が首を振る。 梁湶の片方の眉が僅かに上がった。

「紫さまはどうなのですか? 領土をご覧になり、民をご覧になった紫さまはどうなのですか?」

「それは・・・」

「今すぐではなく、今日一晩考えてください。 お願いします、お願いします」

深く深く此之葉が頭を下げる。

「此之葉、無理強いをしてはいかん。 紫さまには紫さまの世界がおありになる」

「一晩、一晩だけ。 お願い阿秀」

「此之葉さん・・・」

「紫さま、お願いします。 一晩だけでもお考えになって下さい」

藁をもすがる目で此之葉が紫揺を見るが、すがられてもガザンと離れる気はない。 だが今ここで最後というのも寂しいものがある。 『我々とは今日ここまでとなります』 さっき阿秀に言われた時、すぐに返事が出来なかった。 それは一抹の寂しさを感じたからだ。

「・・・阿秀さん」

「はい」

「犬と・・・ガザンと一緒に居るという考えは変わりません。 でも、此之葉さんの言うように一晩おかせてもらえませんか。 この場でサヨウナラというのはちょっと寂しすぎます」

「承知いたしました。 では明日、お昼過ぎにお伺いいたします」

阿秀が言うと、後ろから声がした。

「紫さま」

一歩進み出た醍十であった。

「はい」

「紫さまには紫さまのお考えがありましょう。 その中に此之葉のことを入れてやってくださいませんか。 たとえ紫さまの代わりに新しい五色様が来られたとしても、此之葉は紫さまと居た時と同じようには過ごせません。 “古の力を持つ者” として五色様に添うことはあっても、紫さまと居た時のような気持ちで接することは出来ません。 此之葉は五色様ではなく紫さまを見ております。 それに此之葉だけではありません。 俺もそうです」

此之葉のことなのに醍十が断言して言い、頭を深く下げた。

「此之葉と醍十だけではありません我らもです」

他の五人が一斉に頭を下げる。

「お前たちやめろ。 紫さまには紫さまのお気持ちがある」

だが誰も頭を上げない。 止むなくという顔をした阿秀。

「では、失礼いたします。 行くぞ」

此之葉と六人がまだ頭を下げる中、阿秀が運転席に乗った。 仕方なく六人が頭を上げ、もう一度紫揺に頭を下げると五人が踵を返して車に向かう。

「此之葉、行くぞ」

まだ頭を下げている此之葉の背中を軽く叩く醍十。
此之葉がそっと頭を上げ、いったん紫揺と目を合わせると伏し目がちにして醍十に背を押されるまま歩き出した。

阿秀の運転する車に此之葉と醍十が乗り込み、あとの五人は二人と三人に分かれて二台の車に乗り込んだ。 車中、誰も一言も発することは無かった。 阿秀に犬のことを言われたにもかかわらず、迷うことなく犬を取ると言った紫揺に対して、どう考えていいのか分からなかったからだ。

車を見送ることになった紫揺。 ガザンは紫揺の足元でお座りをしている。

「ガザン、吠えなかったね。 いい仔だったね」

ガザンの頭を撫でてやり、家の鍵を開けた。

ガザンは唯々、阿秀と此之葉、あとの六人を交互に見ていただけで、唸ることもなければ腰を浮かすこともなかった。

玄関に入るとまずはガザンの足の裏を拭き、リードを外すとそのまま家の中に上がらせた。 ガザンにとって初めての場所であり、初めての室内。 狭い家だが、くまなくあちこちの臭いを嗅いで回っていた。
納得をしたガザンの前に水を入れた大鉢を置いてやる。 喉が渇いていたのだろう、あっという間に飲み干して、座り込んでいた紫揺の横に伏せをしてそのまま目をつぶった。

ガザンは屋敷にやって来た時以降、初めて屋敷から出たのだ。 船に乗り車に乗って電車にも乗った。 ましてや檻のようなキャリーに入れられていたのだ。 疲れもするだろう。 人間なら肩でも揉んでやりたいが、生憎とガザンだ。 ガザンの背中をさすってやる。

「温かいね」

北に攫われてからのことは何度も何度も考えた。 ニョゼが屋敷にやって来て話したことも。

北の領土に行く前、ガザンを知った後には、自分があの屋敷から脱走することだけを考えてセキに近づき、セキにガザンとの仲を取り持ってもらった。 セキとガザンはいつも当たり前に居てくれた。
セキは可愛い妹と思えていた。 敢えて考えることなど無かった。 ただ一つ考えたのは、自分が屋敷を脱走するにあたってガザンを利用することだった。 それに負い目を感じてセキとガザンのことは考えたが、それ以外は何も考えなかった。 感じるままだった。

いざ屋敷を脱走することになった時には、ニョゼとセキと会えなくなるということを考えたが、自分は脱走を選んだ。

「あの屋敷を出る。 北の領土はお婆様が帰りたかったところではないとそう感じて自分で決めた」

北のことはもう終わったのだ。 今更何を考えても何も変わらない。 今頃は洞も潰されているだろう。
頭を切り替えた。
初めて阿秀と顔を合わせた時のことを思い出す。 大人の男から逃げようと思った。 北の人間と思ったからだ。 屋敷にまた戻されると思ったからだ。 だが、北の人間ではなかった。
あの時は北とか東とか言われて何が何だか分からなかったが、今なら分かる。

「ちがう。 今じゃない」

もっと前から分かっていた。 少なくとも東の領土に入った時から。 民と言われる人々の前に姿を現した時、そして祖母からの記憶。

唱和から頼まれた伝言をどうして受けたのか。 頼まれては断れないからだ、そういう性分だ。 だがそれだけでは無いのも分かっている。 まだ翻弄されている者たちが居ると知ったからだ。 祖母を悲しませないためにも、北の屋敷に行った。

色んなことを思い出したが、自分にとって暖かいものがどこにあるのか。
自分中心に考えていると言われればそれまでだが、いや、それで? 誰に何の文句を言われれなければいけないのか?

「え? 自分中心に考えて?」

ガザンを撫でる手が止まった。 どうしてそんなことを思ったのか。 どういうことだ。
北に攫われてからは、ニョゼのことはさて置き、今まで脱走の事以外は自分を中心になど考えなかった。 ・・・はずだ。 北の領土に行くと決めたのも、領土の中を歩かないと決めたのも自分だ。 だがそれを自分中心に考えたとは言えないだろう。 とは言っても誰かのためになどとも考えなかったが。 ただ目の前にある事だけに対峙しようと思った。

「目の前にあること」

いま目の前にあるのはガザンのことだ。

「・・・ちがう」

ガザンが居ようが居まいが、決めなくてはならないことがある。 ガザンのことは二の次だとは言わない。 ガザンとは一緒に居る。 だが、違うところで考えなければいけないことがある。
もしガザンが居なければ、自分はどちらを選ぶのだろう。 此処なのか東の領土なのか。

攫われる前に自分が今までしてきたことを考える。 シノ機械で働いていた。 その前は両親との別れがあった。 泣いて泣いて暮らしていた。 その前は・・・。
紫揺の口元が緩んだ。

「バカみたい。 迷ってる時点でおかしかったんじゃない」

どうして気付かなかったのか。
紫揺がガザンの横に添うように寝ころんだ。

「ねぇ、ガザン?」

ガザンの目がうっすらと開いて紫揺を見た。 ガザンが寝入っていないことは分かっていた。

「いっつも一緒に居ようね」

「ブフ・・・」

ガザンが鼻を鳴らすとようやく寝入った。 紫揺が迷っていることを知っているガザンに紫揺の決心が伝わったのだろう。

この時にはもうニ十四時を過ぎようとしていた。

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虚空の辰刻(とき)  第214回

2021年01月05日 22時20分16秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第210回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第214回



桟橋を降りて少し歩いたところの波打ち際で待っていると、セキとガザンがやって来た。 さっきベロベロ攻撃をしたというのに、またやられてしまった。

やっと満足したのか、海に尻を向け伏せをするガザンを間に挟んでセキが座った。 ガザンの背中を撫でながら紫揺が言う。

「ごめんね、長い時間待たせちゃって」

太陽が中天を通り越そうとしている。
セキが勢いよく頭を振る。

「どう? アマフウさんのことをお母さんから聞けた?」

「はい。 アマフウ様が私のことを助けてくれたって」

セキの母親はあったことをちゃんと理解してくれていたんだと胸を撫で下す。

「それにトウオウ様から聞きました」

「トウオウさん? トウオウさんが何を?」

「いつもアマフウ様が私を怒っていたのは、セイハさんから守るためだって」

「え?」

「オカシイなとは思っていたんです」

「なにが?」

紫揺が屋敷に来る前の話だと言ってセキが話し始めた。
綺麗に洗ったはずのシーツが時々汚れていたという。 それはマジックで悪戯されたり、ハサミで切られたりというはっきりしたものではなかった。 砂がかかっていたり、皺を伸ばして干していたのに皺が入っていたり。 それだけに訳が分からなかったという。

ただ、それが頻繁に起こるようになった時から、アマフウが物干し場に現れ出したという。 そんな時には気付いたセノギが止めてくれたり、セキ自身も気付いて足を止め姿を隠したりしていた。
だがセキの居る時にアマフウが物干し場に初めて姿を現した。 その日が紫揺とセキが初めて会った日でもあったと言う。

「それってどういうことかな?」

「セイハ様がそれをされていたそうなんです。 その、砂をかけたり皺を入れたり。 だから度が過ぎてきたセイハ様を物干し場に近づけないように、アマフウ様が物干し場にいらしてたって。 そこに私がつい現れてしまったからセイハ様に何かされないように、先にアマフウ様が私をどうにかするように芝居を打っていたと・・・」

「は?」

「えっと・・・、シユラ様が来られるって分かってから、その、セイハ様のご様子がおかしくなられたみたいで・・・」

セキの声がどんどん尻すぼみになり、最後には頭まで下がってしまった。

「あ、いや、セキちゃん。 ごめん。 セキちゃんを責めて “は?” って言ったんじゃないから。 要するに私が来ることでセイハさんの様子が変わってきたってこと?」

「そうみたいです」

「でもその割には心配とかしてくれたなぁ」

ちょくちょくイヤなモノは感じてはいたが。

「それは・・・シユラ様にお力が無かったからだそうです」

言いにくそうに上目遣いで言う。

「・・・納、得」

頭の後ろに手を組んで後ろにごろんと寝ころぶ。
ガザンがベロベロしてほしいのかと言わんばかりに、顔を近づかせかけたので、バネ仕掛けのようにすぐに腹筋で起き上がった。

「でもどうしてそんな話をしたの?」

「えっと。 私がシユラ様と会うためにここに残るのは本当なのか? ってトウオウ様が訊いてこられて、それで “はい” って言ったら、このお話をされたんです」

「そうなんだ」

最後の “シユラに力が無かった” というのは “シユラに自覚が無かった” という風にも取れる。 完全にセキから言わせるつもりだったのだろう。

トウオウがアマフウの潔白を晴らしたかったのか、これからのセキを心配することは無いと言いたかったのか、それとも単に紫揺に自覚がないことの念を押したかったのか。 トウオウが何を考えていたのかは分からないが、どれにしても・・・。

(トウオウさんらしい)

「シユラ様・・・ガザンのことなんですけど」

「うん、なぁに?」

領土へはこの地の物を持って入るのは、固く禁じられた。 だから屋敷内にある物はすべて置いて出て、いわゆる生体はセノギの采配でこの短期間に既にすべて移動し終えていた。 その時にガザンも入っていたが、セキが断固として譲らず、とうとう諦めたセノギ。

『領土に犬が居ないわけではないからねぇ・・・。 土佐犬はいないけどね。 ・・・仕方ない、か。 ガザンは領主の責任でもあるからね、私から領主に頼みます。 一緒に北の領土に帰るといいよ』

そう言ってもらっていたのだそうだが、さっきの出来事で考えを改めねばならないと思ったという。 
領土に帰ってガザンがさっきのようになったら、自分では止められない。 もし北の領土でガザンが誰かを傷つけてしまっては・・・。

「それがセキちゃんの言ってた考えなきゃいけないこと?」

「はい」

「うーん・・・。 難しいなぁ。 セキちゃんはガザンが好きだし、ガザンもセキちゃんが好きだし。 セキちゃんがガザンと居たいと思ってセノギさんに言ったくらいなんだから・・・」

こんな時ニョゼならどんな風に言うのだろう。 ニョゼの姿を想像した。 そしてニョゼの口調で頭の中にいるニョゼの口を動かしてみた。

<シユラ様? シユラ様はシユラ様で御座います。 シユラ様の思われる通りにされるのが一番かと>

(かなり都合よく考えてるな、私)

自分はニョゼにはなりきれない。 頭を切り替えよう。

「セキちゃんはどうしたいの? 考えはまとまった?」

「色々考えたんです。 それでもやっぱり、ガザンと一緒に帰っても抑えることは私には出来ません」

さっきの引きずられている姿を思い出すと、そんなことは無いとは決して言えない。

「セノギさんは外に居た犬達をそのままトレーナーに譲りました。 トレーナーは喜んでいましたから、犬たちのことは安心だってセノギさんが言ってました」

「馬や獅子は?」

「馬はどこかのぼくじょう? 獅子はどーぶつえん? を考えられましたけど、こんな広い所で自由にしていたんだからと、はさりぱーく? ってとこに」

馬はどこかの牧場だろう。 セキは動物園を知らないのだろう。 “はさりぱーく” はサファリパークであろう。 動物園の檻の中よりずっと広い。

「よくすぐに行き手が決まったね」

「おかねはイッパイくっ付けたって笑っていらっしゃいました」

「納得・・・」

多分、動物たちの一生分より多い食費や管理費を付けたのだろう。

「シユラ様を待ってる間にガザンに訊いたんです」

紫揺以外の者がこれを聞くと子供の夢物語とでも言うだろう。 だが紫揺は違う。 セキがどれだけガザンのことを分かっているのか知っている。 ガザンの僅かな表情や行動だけでガザンが何を考えているのか分かる目を持っている。 それに心が通じ合っている。

「うん」

「ガザンは私と一緒に居なくてもいい? って」

「・・・うん」

「ガザンは嫌だって」

「うん」

あたり前田のクラッカーだろ。
高校の時に懐かしワードとして流行った言葉が突然頭に浮かんだ。

「それで・・・。 シユラ様と一緒ならどう? って訊いたんです」

「え?」

「シユラ様と一緒なら私が居なくてもいい? って」

それは有り得ない。 絶対に有り得ない。 ガザンがセキと別れられるはずはない。 セキにしても同じだ。

「そしたらガザンが・・・ベロンって」

「あ・・・」

ガザンがセキの胸の内を知ったのだ。

「シユラ様なら私よりガザンを止められます」

セキがガザンを紫揺に託すと言っている。

「ダメだよ、そんなこと。 ガザンのことを一番分かってるのはセキちゃんなんだから」

「・・・でも領土に連れ帰ることはできません。 私にはガザンを抑えられない」

紫揺にもガザンは抑えられない。 だがそんなことは言えない。 セキが断腸の思いでガザンとの別れを決めたのだから。 ただ名を呼ぶことしか出来ない。

「セキちゃん・・・」

「シユラ様、ガザンをお願いできませんか? セノギさんに言えばガザンの行き先を決めてくれます。 でも・・・」

頭を何度も振ってそれは嫌だと示す。
セキのその姿を見ても簡単に犬を預かるなんてことは言えない。 いや、預かるだけでは済まない。 セキはもう北の領土に戻るのだから、ガザンの一生を共に過ごさなければならないということだ。 決してガザンと共に居るのが嫌なわけではない。 だが自分に出来るだろうか。 まだ自分自身のこれからすら考えられない自分に。

「セキちゃん」

ガザン越しに何度も頭を振るセキを抱きしめた。
セキには笑っていてほしい。 それに・・・。

「そっか。 分かった・・・うん」

それに・・・ガザンは獅子から守ってくれた。 それだけでは無い、下見の時も含めて紫揺が何を考えているのかを見透かすように先を取って動いてくれていた。 紫揺が止まると「どうするんだ?」 と問うように紫揺を見てくれていた。
セキとガザンの関係ほどには及ばないだろうが、こんな相棒は他に居ないだろう。

「セキちゃんの大切なガザン。 私が預かる」

もう二度と会えないんだよ、それでもいいの? そう念を押したかった。 でもそんなことを言ってしまうと余計にセキが悲しむ。 それにセキもそれは充分に分かってのこと。

背中に二人の重みを感じた。 「ブフッ」 とガザンが鼻を鳴らす。


カミが何もかもを飲み込んで顔を上げ、目に映るハンの顔を見た。

「リョウガ、兄・・・?」

「そうだ、吾はリョウガ。 ヤナ、吾はお前を守れなかった・・・」

「リョウガ兄!」

カミの手がハンの首に回る。 ハンもカミを抱きしめた。

「すまん、すまん、すまん・・・」

何度もハンが言う。

デッキで二人の様子を見ていた此之葉が息を吐いて目を逸らせる。

「祖はあまりにも大きな罪を犯しました」

「此之葉・・・」

「祖は、時の紫さまのことだけを想っていましたが、そうではありません。 北も・・・北の民も、我が領土の民と同じように苦しんでいたのです」

此之葉の目尻に涙が浮かぶ。

「此之葉、それは此之葉の案じることではない」 

紫揺に取り残された阿秀が此之葉に言ったそんな時、紫揺の声が響いた。
阿秀さん! と。
阿秀が振り返った。

ハンに支えられカミがラウンジから出てきた。 ハンの手には二枚のタオルケットが持たれている。 一枚はカミの肩に掛けその肩を抱く手に、もう一枚は反対の手に。 そちらの方は湿っている。 カミが座っていた方だろう。 

「此度のことは何と申し上げてよいかも分からぬほど。 言では言い切れぬものでは御座いませんが、心より感謝を申し上げます」

ハンが深く此之葉に礼をすると桟橋を歩き出した。

阿秀を呼びながら桟橋を走って来た紫揺がすかさず足を止めUターンし、セノギの元まで戻った。

「セノギさん、まだ唱和様からのお伝えがあります。 皆さんが聞ける状態になったら教えてください」

「有難うございます」

「洞窟はいつ潰すんですか?」

北の洞を潰す日を知りたい。 その日からあまりにかけ離れた日まで東の洞を本領が放ってはおかないだろう。

「屋敷内の整理はつきました」

「馬や獅子や犬のことですか?」

それはセキから聞いた。

「それもそうですが、株を動かすのは一応、会社として立ち上げておりましたから、そちらを閉める手続きと、動産、不動産も手続きが終わりました。 あとは残っている者が移動すればすぐにでも。 キノラ様とセイハ様は動こうとはされませんでしょうが、この屋敷がもう他の方の所有物となり、洞を潰すと言えばいやでも領土に戻られるでしょう」

領土を捨てることは出来ても、無一文でこの土地に残ることが出来ないことくらい分かっているはずだ。

「じゃあ、今日か明日ってことですか?」

「・・・今日になるかと」

早い。 早すぎる。 本領はいつまで待ってくれるだろう。
紫揺が一つ息をついて「わかりました」 と言うと、踵を返し阿秀の元に向かった。 途中ハンとカミにすれ違ったが、カミはタオルで目を押さえていただけであった。 声を出すこともなく静かに泣いているのだろう。

「あの犬を連れて帰りたいんですけどいいですか?」

「はっ!?」

阿秀が紫揺から豆鉄砲ならず、砲弾をくらわされた。

「皆さんには中に入ってもらって、私たちはデッキにいますから」

「あ、いえ、そのような事でなく・・・」

ではどのようなことだ。

「船に乗せちゃダメですか?」

「いいえ、そういう事ではなく・・・。 その、連れ帰ってどうされると?」

「一緒に居るんです。 飼うんです」

此之葉が紫揺から阿秀に目を移した。 阿秀は顔を俯けその目が塞がれる。 二秒ほど閉じていただろうか、その瞼を開け紫揺を見た。

「・・・分かりました」

「阿秀・・・」

「ですが、あの犬と紫さまは中にお入りください。 デッキに居られて万が一のことがあってはいけませんので」

「でも借り物の船なのに犬を中に入れちゃったら・・・」

「暴れますか?」

「いいえ、そんなことは無いですけど、でも持ち主さんが犬嫌いだったら申し訳ないし・・・」

「そのようなことはお気になさらないでください」

「阿秀・・・」

此之葉が再度阿秀の名を呼ぶが阿秀は此之葉を見ない。 此之葉が何を言おうとしているのかは分かっている。

「じゃ、お願いします」

此之葉をチラリと見るが、頭を下げてしまって目を合わせることが出来ない。
紫揺が此之葉のことを気になりながらもセキとガザンの居る所に戻る。

「どうでしたか?」

「うん。 船に乗せてくれるって」

「良かった」

心底安堵する顔を見せたセキである。

「・・・セキちゃん。 セキちゃんが領土に行っちゃったら会えなくなるね」

こんなことを言うつもりは無かったのに、つい出てしまった。

「はい・・・」

洞を潰すことをセノギから聞いているのだろう。 もう会えないというのを分っていたのだろう。

「手紙にも書いたけど、本当にありがとうね。 セキちゃんと会えてよかった」

「シユラ様・・・」

「セキちゃんのお姉さんみたいになりたかったけど、なれなかった」

自分がニョゼを慕うように、ニョゼが自分にしてくれたように、セキを守り姉のような存在になれればと思っていたが、それは叶わなかった。

「そんなことないです! ・・・シユラ様にこんなことを言っちゃいけないって分かってますけど。 それでもシユラ様のこと大好きです。 シユラ様をお姉さんって思ってもいいなら思いたいです。 でも、五色様をそんな風に思っちゃいけないから・・・」

「こんな頼りのないお姉さんでもいいの?」

「そんなことっ! そんなことないです!」

「うれしい! セキちゃん大好き」 

セキを抱きしめる。

「離れていてもセキちゃんのことを想っているからね」

セキがそっと紫揺の身体に手を回した。

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虚空の辰刻(とき)  第213回

2021年01月01日 22時44分58秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第210回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第213回



「セノギさん、寝込んでたんですよね? あの人がセノギさんを助けるために、長時間あの冷えにあたっていたって仰いましたよね?」

「はい・・・」

「それって何ですか? 私も今その冷えにあたってたんです。 だからそれを知りたくて」

それは北の領土の話だ。 それを紫揺に言っても分かるまい。 だが邪険に出来るはずもない。

「我が領土にはヒトウカというものがおります」

「あの綺麗な仔ですよね。 光り輝くシカですよね」

「え? ご存知なのですか?!」

セノギが驚いたのと同じように、ゼンとケミも驚きの目で紫揺を見る。

「ヒトウカの話は最初にムロイさんから聞きました。 えっと・・・ヒトウカと会ったのは二回? 三回かな? うーん、ヒオオカミとごっちゃになちゃってます」

「ヒ、ヒオオカミ!? ヒオオカミと会ったと?」

セノギが今にも眼球を落としそうになっている。 ゼンとケミにしてもそうだ。

「はい。 で? ヒトウカがなんですか?」

セノギとゼン、ケミの驚きなど知ったことではない。

「シ、シユラ様・・・」

セノギの顔が蒼白になり、今にも倒れそうになっている。

「ムラサキ様は、ヒトウカとヒオオカミを見られたのですか?」

ゼンが問う。

「はい。 ヒトウカは返事をしてくれませんでしたけど、ヒオオカミとは話しました。 でも私が訊きたいのはそんな事じゃないです」

そんなこと? ヒオオカミと話した? ゼンとケミの顔がセノギと同じように蒼白になっていく。

「セノギさん、あの冷えは何ですか?」

セノギの蒼白を無視して紫揺が訊く。

「・・・あ」

あれは、と説明をしたいが、驚きに二の句が出ない。

「腹立つんですよね」

阿秀には北の者たちの驚く理由は分からなかったが、それでも何かあるのだろうと紫揺に視線を向けていたし、セノギそしてゼンとケミがずっと見ていた紫揺に再度濃い視線を送る。

「分からない事に腹が立つんです。 あの冷えは何だったのか。 そんなわけも分からないものに自分がやられたってことに、もっと腹が立つんです。 だから教えてください」

「あれはヒトウカの冷えに御座います」

ハンとカミを残し桟橋に戻ってきたダンの声であった。

「ヒトウカの?」

ダンに目を移した紫揺。

「セノギもハンも深山に入りました。 深山にはヒトウカが居ります。 そのヒトウカの残す冷えにセノギとハンがあたりました」

「んー? 私が会った仔にはあんな冷えは感じなかったんですけど?」

「仔? それではそれは仔だからでしょう」

「でも抱きしめた時にもなんともなかったしなぁ・・・」

セノギ、ゼン、ケミが今にも卒倒しそうになっている。 ダンにしてもそうだが、何とか食い止める。
北の者たちを見ることなく、ずっと紫揺を見ていた阿秀だったが、北の者たちの様子がおかしいどころか、尋常ではないことにようやく気付いた阿秀。 北でも何やらやらかしていたのかと苦い顔をした。

「親になれば近づくことも出来ませんし、深山ですのでヒトウカは群れでおります。 その仔は多分、何らかのことで群れから離れてしまっていたのでしょう」

「そうなんだ。 そっかー」

あまりに気軽に言う。

「分かったような気がします」

ダンの説明の意味が分かった。
ヒトウカ、それを漢字に置き換えると “氷凍鹿” だろう。
セイハからもヒトウカの説明は受けていた。

『寒さをこの上なく好む鹿。 一歩踏み出してその足元に水があればその水が氷に代わる。 土であればそこにある僅かな水分を氷に変える』 と。

そこに足を踏み入れればその残滓がある。 それをハンが吸収してしまったのか、勝手に入り込んでしまったのかそれは分からないが、根源が分かった。

「スッキリしました」

いや、紫揺の他は誰もスッキリなどはしていない。
特に影と呼ばれる今ここに居るゼン、ケミ、ダンにしては、紫揺がヒトウカと会ったことすら知らなかったし、抱きしめたことも。 ましてやヒオオカミと話をしたなどとは全く以って知らない話であった。 それにヒオオカミ、獣と話をするということに疑問を覚えるが、それこそ北の領土が欲した五色の力なのかもしれない。

「吾らは・・・吾らの目や耳は何をしておったのだろうか」

ポツンとゼンが言った。

阿秀が頭を下げて頬を緩める。
セノギも影と呼ばれる者たちもきっと紫揺に振り回されたのだろうと。


「では、よろしいですね?」

立っているカミが頷く。

『カミ、カミ、頼む。 今度こそお前を救わせてくれ。 頼む』
ただ涙を落としながらカミを抱きしめ『すまん、すまん』 と謝っていたハンがそう言った。 ハンが何を言っているのか分からない。 だがもういい。 考えるのに疲れた。 悶着に疲れた。

此之葉の二度目の指が動いた。

「ゆるりと浮上し水面(みなも)に上がり、そなたの泉と溶けあい、其がそなたのものとなる。 そなたの深淵、我が閉じし」

暫く待ってから指を離したが、それは今までの四人の中で一番長かった。
ガクッと下がった顔に身体が揺れる。

「支えて座らせてあげてください」

後ろに立っていたハンがカミの身体をゆっくりとタオルケットの敷かれたソファーの上に座らせる。
ソファーを海水で濡らすわけにはいかない。 紫揺と此之葉が使っていたタオルケットをセノギが申し出て敷いていた。 阿秀たちにとってもこの船は借り物である。 諾と言うのは当たり前であろう。
此之葉がカミの顔を覗き込む。 瞼の奥で眼球が右に左に動いている。 カミの手を取ってやると、その手に力が入っているのが分かる。


(誰だ?)

ぼんやりとした輪郭で誰かがカミを覗き込んでいる。 身体が持ち上げられ揺すられる。

『ヤナ、ヤナ』

(なん、だ?)

それだけですぐに暗転し、次は一番に声が聞こえた。

『うるさい!』

今度はハッキリと見える。 カミの父親だ。 途端、頭に激痛が走った。
カミの顔が歪められるのをじっと此之葉が見ている。

『やめて! やめて!』

父親を止めようとした母親が蹴られ、身体を壁に打ちつけそのまま倒れた母親を父親が足蹴にしている。

(お母?)

瞼の中のカミがそっと側頭部を触った。 ヌルっという感覚が今のカミに感じる。 瞼の中のカミが側頭部に充てた手を見る。 血がべっとりとついている。
途端、蹴り上げられた。 小さな身体が飛び、身体全身を木戸に打ちつけた。 背面と今度は後頭部も打った。 一瞬 「ウグッ」 と言ったが、それ以上何も発しない。 ズルズルと木戸に落ちていく。

『(まただ・・・)』 

(・・・また?)

諦めた思いが今のカミに伝わり、再び暗転した。

『これは・・これはどうした?』

驚いた目をして瞼の裏のカミの手を取っている。

(・・・?)

『なんでもない』

『何でもなくない! これ程の痣が、なんでもなくないなどとは無いだろ!』

『声を荒げないで! また父さんが怒る!』

(父さん? お父が? お父が怒る? ・・・痣?)

『父さん? オジさんがこの痣を作ったのか!?』

(オジさん? 吾のお父をオジさんと呼ぶ?)

また暗転した。

『オバさん、リョウガ兄は今日もいない?』

『ヤナ、ごめんよ。 ヤナを助けるってそう言ってたのは確かだからね。 さ、父さんがいつ通るか分からない。 家にお入り』

ヤナが頭を振る。

『ヤナ・・・』

『母さんを一人に出来ない』

そう言うヤナの顔には痣が幾つもある。 ヤナの母親である我が妹にも何度も家を出るように言っているのに、妹はそれに応じようとしない。 それどころか、今、腹が大きくなってきている。 あの状態で腹を蹴られでもしたら・・・。

『ヤナ分かっているだろう? 母さんのお腹にはヤナの妹か弟がいる。 母さんのお腹が蹴られたら、お腹の子はいなくなってしまう。 母さんをここへ連れておいで。 二人でここへおいで』

ヤナが再度頭を振る。

(・・・そうだ。 お母の姉さんとオジさんが助けに来てくれたんだ。 そうしたらお父が・・・)

カミの父親が刃物で母親の姉の伴侶を刺し大怪我を負わせた。 あの時もまだ臥せっていた。

(だから、頼ってしまってはお母の姉さん・・・オバさんにまた迷惑がかかると思ったんだ)

母親の腹が大きくなるにつれて、母親に手足を上げる回数が減ってきた父親。 その分、瞼の裏のカミであるところのヤナへの仕打ちが酷くなっていった。 そしてオジを刺した時から刃物も使うようになった。

『ヤナ・・・お前はいい子だ。 そうだ。 じっとしてろ』

肩に腕に足に背中に腹に刃物を這わせられた。 血が滴るのを見て父親の目がどんどんと輝いていく。 その傷の深さはされるごとに深くなっていった。

『くっくっく、声を出さんぶん、よう血が出よるわ。 ほら、見てみぃ。 面白かろう』

カミの身体が小刻みに震えてきた。
此之葉がカミの横に添い背中をさすってやる。

夜明けすぐ山に登った。 父親はまだまだ起きてこないことは分かっている。 母親を一人置いていても心配はない。 どれだけ打ち身があろうともそれは毎朝の日課のようなものだった。
まだ山など歩けない幼いころからの習慣が今や日課となっていた。
そしてそこに居るはずの人の姿を探すが今日もいない。

『リョウガ兄・・・』

(・・・ああ、そうだ。 まだ赤子の吾の身体を揺すってあやしていてくれていたのはリョウガ兄。 まだ山になど登れない吾を背負って毎日山に登ってくれたのもリョウガ兄・・・)

『リョウガに逢いたいか?』

女の声がした。
驚いて振り向くと全身黒ずくめ、目だけを出している姿の五人が目に入った。 その中で一歩前に出ている女が続けて言った。

『逢わせてやることはできる』

大きく目を見開いた。

『だが話は出来ぬ。 そしてただの一度だけ。 見るだけだ』

『・・・どう、して』

『お前を吾らの仲間に迎えたい。 その交換条件と思えばよい』

『仲間?』

『吾らと共に動くということだ』

『・・・母さんは?』

『連れては行けぬ』

『母さんを一人置いてなんていけない』

『では、あのまま傷をつけられて暮らすと言うのか?』

『どうしてっ・・・』

『どうして知っておるのかと訊きたいのか? 吾らはお前のこともお前のお父のことも全て知っておる。 お前のお父がリョウガのお父を刺したこともな』

『・・・』

『安心せい。 お前が吾らの仲間となるならば、お前のお母を安全な所に移してやる』

『え?』

『いまお前のお父はお前ひとりを傷つけておるが、子を産めばお母がどうなるか想像が出来よう。 そして生まれてきた子もな』

考えてもいなかった。 赤子は泣くもの。 父さんが寝ていようがかまわず泣く。 そうなれば母さんも赤子も・・・。

『母さんと赤子を救ってくれると言うの?』

『ああ。 そしてお前がこれから受ける傷からもな。 迎えられる気があるのならば吾の手を取れ』

すっと真っ直ぐに腕が差し出された。
手を出そうとしてその手が止まった。 今の話しからは母親とは一緒に居られない。 でもそれは自分の我儘。 一瞬の躊躇はすぐに解かれた。 女の手を取った。
女が膝をつきヤナを抱き寄せる。

『痛かったであろう。 泣きもせず、よう耐えた』

見ず知らずの女からそんなことを言われ、戸惑うしかなかった。

女が立ち上がり、ヤナを持ち上げると男の肩に乗せた。

『あとは頼む』

女がそう言うと、他の三人と共に山を駆け下りていった。

『あの者たちが、今からお前のお母を安全な村に連れてゆく。 支え合って暮らしを立てている村だ。 安心して子も産めよう。 リョウガのお母にも心配をかけぬよう伝える。 案ずるな』

そしてその後、木々の枝を跳んでいるリョウガの姿を見た。

(リョウガ兄! ・・・え? 違う・・・あれは、ハン? ・・・リョウガ兄は・・・ハン?)

『泣くでない。 また逢える』

『本当に?』

『ああ、だがそれは大人になってからになるがな』

そして唱和の元に連れて行かれた。


此之葉がさすっていた手を止め、屈んでカミの顔を見た。 顔は強張っていない。 そっと手に触れる。 手の力も抜けている。 此之葉に手を触れられたからだろうか、カミの瞼がゆっくりと開けられ、続いて顔が上がってくる。

「いかがですか? 気分が優れないなどとありませんか?」

カミからの返事はない。
此之葉がカミの手をそっと包み込む。 

「思い出されたことは良いこともありましょうが、良くないこともありましょう。 ですがそれは過ぎ去ったことです。 あったことを消すことはできませんが、これからは影としてではなく、一人の女人として生きてください」

カミの目は見開かれたと言ってもどこを見ているのか分からない。 此之葉の声も耳朶に触れていないかもしれない。
此之葉がハンを見て頷くと立ち上がった。 その場をハンに譲りラウンジを出る。

デッキで様子を見ていた紫揺が入れ替わりにラウンジに入り、ハンにケミが使っていたタオルケットとタオルを渡しラウンジを出た。

桟橋を歩こうとしかけた紫揺の後ろに阿秀が付こうとしかけたのを、手を上げて止めた。

「もう全然何ともないですから」

そう言い残すとセノギの元まで走る。
紫揺に拒まれては後を追うことも出来ない。 ただ片手で両方のこめかみを押さえるしかなかった。

「セノギさん、セキちゃんを呼んできてもらえますか?」

「承知いたしました」

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