『虚空の辰刻(とき)』 目次
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第170回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第181回
「で? もうお休みになられたのか?」
「はい」
今日の失態を湖彩が阿秀に報告に来た。 その阿秀は領主の家にいた。
領主の二人の息子たちが辺境からやって来て、まずは先の紫のこと、紫揺の置かれていた環境から今回本領に出向く事になった次第とこれからのことを話していた。
領主は紫揺から本領に出向くことを一日でも伸ばされるのを危惧して、息子と顔を合わせるとあとを阿秀に任せ、自室に戻っていた。
息子たちも長旅の疲れがある。 ちょうど話が終わったので、それぞれが懐かしの部屋で今頃はぐっすりと休んでいるだろう。
「倒れられたのだから、湖彩が抱えても致し方ないだろう。 どうだ、私の気持ちが少しでも分かったか?」
阿秀の言う気持ち、それは紫という存在を抱きかかえるなどと畏れ多いということ。
紫揺が洞で倒れた時すぐに阿秀が紫揺の背中を支えたが、そのあとは醍十が紫揺を背負って歩いた。 その醍十はその様なことは畏れ多いことだとは考えていない、ただただ紫揺の、紫のことだけを考える男だ。
だから蔵書から起きない紫揺を抱きかかえ帰った阿秀の気持ちを分かってもらえるのは、今聞かされた話から湖彩だけだと思いそう訊いたが、期待した答えを聞くことが出来なかった。
「冗談を。 あんな場面で抱きかかえては、なんて考えませんし、お運びする時も、あとになってもそうです。 そうではなく、自分の判断の間違えに落ち込むだけです」
一瞬、阿秀が両方の眉を上げてつまらなそうにしたが、すぐに表情を変えた。
「いや、間違っていない。 まぁ、結果は凶と出たが、湖彩の考えていることは誰も考えている。 だがそれを実行に移すのが恐いだけだ」
紫である紫揺を一人にするということ。 籠の鳥にしないということ。 いや、籠の鳥にする気などない。 紫揺は日本で生きていたのだから、急にこの領土の何某かを押し付けるのは心が痛む。
だがお付きの目の前から紫揺が居なくなるということは不安でたまならなかった。 それは恐怖でもあった。
「だからその結果に落ち込んでるんです。 あんなことを言うつもりはなかったんです」
あんな場面で二度と紫を失いたくないなどと。
「まぁ・・・心にあった言葉だろうから、な。 仕方がないだろう」
目の前に置かれている湯呑を手に持つが、その湯呑を置いたのは阿秀自身だ。 もう湯呑の中の茶は冷めている。
「でも、絶対に阿秀ならあの場でそんなことは言いませんよね」
「・・・どうだろうかな」
「言わないですよね。 ったく、阿秀って変なところで自分に厳しく人に優しい」
「八つ当たりか?」
湯呑を置きながらチラリと湖彩を見るが、話の筋を変えるように視線を湯呑に戻した。
「言ったことは無かったことには出来ない。 いつかは紫さまも分かって下さるだろう。 それにお倒れになったのは仕方がない。 紫さまのお力は私たちには分からないのだから」
どういう意味かと湖彩が眉を寄せる。
「あれが紫さまのお力と?」
「木の葉がその様なことを言っていた。 だから気にするな」
紫の力によって先の紫と感応したのではないかと此之葉が言っていた。
「はぁ・・・」
「それで? 櫓はどうしてほしいと仰っておられた?」
「今日で十分と」
「では明日畳んでいいんだな」
「そうしてもらわないとこっちが櫓より先に畳まれます。 壊れます」
「お見事だったらしいな。 若冲が今すぐ畳んでくれと泣きついてきた」
「紫さまの前に障害物は置いていただきたくはありません。 若冲なんて隠れたところで見てただけですよ。 俺なんて真下ですから」
紫揺に付いていたのは紫揺の見える限り湖彩だけだったが、隠れてほかの五人もまた付いていた。
『上がっていいですか?』
櫓の下に来た時に唐突に尋ねられた。
『氏子さんしか上がれないとかってあるんですか?』
『あの地のように氏子などはありませんし、みな自由に上がっていますがあぁぁぁーーーーー!!』
“しかしながら” という接続詞を聞く前に、紫揺がもう櫓に手をかけ上りだした。 梯子は反対側にある。 止める間もない。 とにかく落ちてしまってはどうにもならない。 梯子を上って反対側から追うより、下で待ち構えた方が賢明だ。
紫揺から目を離さず、片手を振って残りの者を呼ぶ。 その内の四人が駆け付けて櫓まで来た時には、紫揺はもう上がりきっていた。 若冲だけは紫揺が上り始めてすぐにアワアワ言い出して、湖彩が呼んだ時には顔を手で覆っていたのだから、呼んだことを知る由もなかった。
当の湖彩は四人が駆け付けて来てから反対側に回って梯子を上ったが、あまりに慌てすぎて足を二段滑らせ、向う脛に腫れが残っている。 それが痛々しくもあり・・・。
「これで悠蓮、野夜、まぁ塔弥はどうかと思うが塔弥も入れるとして、今回は湖彩。 見事な勲章を頂いているな」
痛々しい怪我を勲章という。
悠蓮は尾骶骨、野夜は足首。 どちらも目にする場所ではないが、塔弥の顔の傷は未だにかさぶたが顔じゅうに張り付き、湖彩の向う脛は椅子に座れば下穿きが上がって目に映る。
「そんなことを言ってると、次は阿秀ですからね」
「いや、私は固く辞退する」
「全員そう思ってますよっ!」
ここは本領。
マツリとシキ、そして四方の三人が食事を目の前にしながら話している。
「では、紫は見つからなかったということ?」
「ショウワに怪しいものは視えませんでしたし、もちろん厄災を起こす禍々しいものもです」
「だがショウワは古の力を持つ。 怪しいことがあってもそれを隠すくらい出来るだろう」
「はい、そうかもしれません。 ですが何かを隠していることは確かです。 それは姉上に頼らなければと思いますが」
「たとえシキといえどショウワの力・・・ “古の力を持つ者” には及ばん」
古の力とはそれほどのものだ。 たとえショウワが自身を “老いぼれ” と言おうとも、その力に衰えはないであろう。
四方が空席になっている妻である澪引の椅子を見、次に同じく空席になっているリツソの席を見た。
「リツソはまだ泣いておるのか?」
紫揺の事を想って。
「はい。 尽きることの無い鼻汁を垂らして」
頷きながら要らない情報まで入れてマツリが答えてくれる。 うっかりそのリツソの姿を想像するに溜息を吐きたくなるが、心の中を占めているのは澪引だ。
「澪引が良くなるのはまだまだということか」
リツソの母である澪引は、毎日泣いて暮らしている末息子のリツソのことを案じて倒れてしまった。
「リツソが頑張っていたのに、わたくしが要らないことを言ったばかりに・・・」
「姉上まで。 そんなことは御座いません。 あれはリツソの我儘です。 それにあのクソなま・・・紫を捕ら・・・紫をこちらに連れてこられなかったのは、我の手落ちです。 甘すぎました」
あの時セッカを追っていれば、キョウゲンで追うのが見つかるというのなら、狼たちに追わせていれば。 後悔は尽きない。
後悔して後悔して・・・あのクソ生意気な娘! 勝手にウロウロとしおって! という風に何度考えても結果がそちらに向いていったのである。
「だがシキにさえ視られない所が北の領土のどこにあるというのだ・・・」
腕を組んで首をかしげる。
「父上、お食事中です、 あまりお考え事をなさっては」
朝食の席であった。
「あ、ああ。 そうだな。 ・・・まさか、な・・・」
「え? なんでしょう?」
「ああ、いや、なんでもない。 それより昨日は東に行くといっていたのに、澪引に付いていたのだ。 今日はどうする?」
「・・・東の領土には当分行けそうありません。 いえ、母上のことではありません。 もちろん母上のことは気になります。 ですが今あの領土に行って民を慰められる自信がないのです」
紫を取り逃がしたからだ。 マツリが口を歪める。
(あのクソ生意気な娘がっ! フラフラとしおってっ!)
「南へは?」
「南は落ち着いております。 頻繁に行かなくとも大丈夫でしょう。 暫くは母上についております」
「まぁ、そろそろシキには落ち着いてもらおうと思っていたからな。 いい切っ掛けになるかもしれんか。 澪引のことは大事ないのだから側付きに任せて波葉と時を持つのも一つだぞ」
「まぁ、父上」
突然の名にシキが頬を赤らめた。
「姉上、そうですよ。 我から見ても波葉は姉上をお預けするに文句がありません」
いや、文句は百ほどある。 千も万もある。 だがそれを言ってはいけないというのは分かっている。 ショウジと話していてそれを学んだ。 それに波葉とはあいさつ程度で直接に話したことはないが四方から聞く限り、懐が深く度量があり峻別のある者だと聞いている。
「マツリったら、預けるって。 わたしはマツリの子ではないのですよ」
「同じようなものです」
四方が破顔した。
朝食を終えた紫揺の元に領主と共にやって来た領主の息子二人と顔合わせをした。
息子たちが今にも背中に羽を生わせ飛び立とうとするのを、領主がその足をむんずと掴む。
「しかりとせぃ!」
思わず領主が叫んだのを聞いて紫揺が笑ったものだ、と、紫揺の代の “紫さまの書” に書かれるかもしれない。
息子たちと歓談を終えると領主に目を移した。
「ちゃんとお休みを取っていただけましたか?」
息子たちに睨みを送っていた領主に尋ねる。
「充分に」
領主が深く頷いた。
「じゃ、行きましょう」
目の前に二頭引きの馬車が用意されていた。 見た目は北の馬車とはエライ違いであったが、チューブの入ったタイヤでもなくサスペンションも付いていないのは同じだった。
(やっぱり木のタイヤかぁ・・・)
アマフウ曰くのドヘドを吐かないことを願うばかりである。
馬車は二台。 一台には紫揺と此之葉。 もう一台には領主と領主の長男である秋我(しゅうが)。
馬を操るのは紫揺側に阿秀、領主側に塔弥。 馬車の前を先頭に一頭、その後ろに二頭が並び、殿(しんがり)を三頭の馬が追っている。 進行方向は櫓の上から見た左の山に向かって、領主の家から直角に山に向かっている。
「此之葉さん、馬車に乗り慣れています?」
「いいえ。 初めてです」
「え?」
そうなのか? この土地に暮らしていて、と考えたが、よく考えると此之葉はずっと独唱についていたのだった。 あの洞で教えを乞うていたのだった。 それにしてもたまにはどこかに遠出ということはなかったのだろうか。
「紫さまは?」
「あ・・・えっと、北の領土で長い間乗りました」
「北で?」
「はい。 とてもじゃなく吐き気があったり、腰が痛かったりしました。 今回もあるかもしれません。 その時にはハッキリと言って馬車を止めてもらいます。 此之葉さんもどこか具合が悪くなったら言ってくださいね」
とは言っても、北の馬車とは違い尻の下にはふかふかのクッションが敷かれている。 これだけでも随分と違うだろう。
「有難うございます」
「馬には乗れるんですか?」
「いいえ」
「え? じゃあ、此之葉さんの移動手段って・・・徒歩?」
ここには自転車も電車も自転車さえもないのだから。
「紫さまをお探しできるまでは、独唱様の居られる所と家の往復だけでしたので」
「え? それ以外はどこにも行ってないんですか?」
「毎日が学びの時ですので」
「遊びにも?」
「そのようなことは全く望みません。 ”古の力を持つ者” として生まれました。 ”古の力を持つ者” はその力を師匠から教えを乞い、次に伝えるのが一つのお役目でございます」
「それって・・・。 楽しいんですか?」
「お役目を果たせることが喜びでございます」
「子供の時、遊びたいと思わなかったんですか?」
「“古の力を待つ者” が特別だとは思っておりません。 民もそれぞれに田を耕し、米を作ります。 陶器を作る、ありとあらゆるもの、個々それぞれにお役を果たしております。 田を耕してもらわなければ、米を作ってもらわなければ、私は食することが出来ません。 陶器を作ってもらわなければ皿もありません。 私も皆のためにお役を果たしたいだけでございます。 ささやかながらですが、みなの力になれればと思っているだけでございます」
どれだけ謙遜千%の人生を送っているんだ、そう思った。 だが・・・それが、そう思うことが一番大事なのかもしれない。
自分はそんなことを小指の先ほども思ったことは無かった。 紫の話を聞くまでは、ただ自由に生きていただけだ。 やりたいことをやっていただけだ。 両親との思い出の玄米茶。 そのお茶を栽培してくれている人に想いを馳せたことなどなかった。
(ちょっと今までの人生に反省かな・・・)
これからは少しは考えていくのがいいのだろうな、などと思いながらも疑問は片付けていきたい。
「領主さんからも聞きましたけど、古の力って一言には言えないって仰ってましたよね。 具体的に何をするんですか?」
「紫さまに添うことが “古の力を持つ者” の本質のお役目です」
「本質?」
「はい。 師匠からは色々と学びますが、何よりも紫さまに添うことが一番に御座います」
「・・・それって・・・」
せっかくお師匠さんからいろいろと教えてもらったのに・・・寂しくはないんですか? とは訊けなかった。 此之葉が言ったことを否定するようで。
「民が何を考えているか、どのようにあるか。 そのような事は二の次で御座います」
「はぁ・・・」
ちょっと引いてしまう。
「私はまだまだお役不足ですが」
そう言って頭を下げた。
ソンナことはアリマセン。 ジュウブンにしてもらってイマス。 と言いたいが、重い、重すぎる。
「いえ、そんなことはありません」
一部が口から出た。 事実なのだから。
「・・・」
此之葉の頭が上がらない。
暗い。 暗すぎる。 この空間でそれはやめてほしい。
「えっと、でも、喋ったりはしたんですよね。 お付きの人? 阿秀さんや皆さんとは話したりしてたんですよね?」
コタツを囲んで一辺に此之葉、あとの三辺に誰がし、という図を頭に浮かべていう。
「紫さまをお探しに出るまでは、塔弥とは独唱様のことがありましたから、それなりに独唱様のことを話しましたが、あとの者とはあまり・・・」
「え? じゃ、それまでは塔弥さん以外とはあんまり喋っていないということですか?」
紫揺以上にあの口下手な塔弥意外の誰とも話さなかったというのか?
「独唱様の居られない時でも学びの時でしたので」
「洞には行かれたかもしませんが、その先から出たことがない?」
日本の領主の屋敷から先に出たことがない?
「はい。 独唱様が紫さまをお探しになられて、すぐに領土を出て彼の地の乗り物に乗りましたが、それが初めてでした」
「ぜっく」
心の声が口から出た。 “絶句” である。 色々なことに絶句である。
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「で? もうお休みになられたのか?」
「はい」
今日の失態を湖彩が阿秀に報告に来た。 その阿秀は領主の家にいた。
領主の二人の息子たちが辺境からやって来て、まずは先の紫のこと、紫揺の置かれていた環境から今回本領に出向く事になった次第とこれからのことを話していた。
領主は紫揺から本領に出向くことを一日でも伸ばされるのを危惧して、息子と顔を合わせるとあとを阿秀に任せ、自室に戻っていた。
息子たちも長旅の疲れがある。 ちょうど話が終わったので、それぞれが懐かしの部屋で今頃はぐっすりと休んでいるだろう。
「倒れられたのだから、湖彩が抱えても致し方ないだろう。 どうだ、私の気持ちが少しでも分かったか?」
阿秀の言う気持ち、それは紫という存在を抱きかかえるなどと畏れ多いということ。
紫揺が洞で倒れた時すぐに阿秀が紫揺の背中を支えたが、そのあとは醍十が紫揺を背負って歩いた。 その醍十はその様なことは畏れ多いことだとは考えていない、ただただ紫揺の、紫のことだけを考える男だ。
だから蔵書から起きない紫揺を抱きかかえ帰った阿秀の気持ちを分かってもらえるのは、今聞かされた話から湖彩だけだと思いそう訊いたが、期待した答えを聞くことが出来なかった。
「冗談を。 あんな場面で抱きかかえては、なんて考えませんし、お運びする時も、あとになってもそうです。 そうではなく、自分の判断の間違えに落ち込むだけです」
一瞬、阿秀が両方の眉を上げてつまらなそうにしたが、すぐに表情を変えた。
「いや、間違っていない。 まぁ、結果は凶と出たが、湖彩の考えていることは誰も考えている。 だがそれを実行に移すのが恐いだけだ」
紫である紫揺を一人にするということ。 籠の鳥にしないということ。 いや、籠の鳥にする気などない。 紫揺は日本で生きていたのだから、急にこの領土の何某かを押し付けるのは心が痛む。
だがお付きの目の前から紫揺が居なくなるということは不安でたまならなかった。 それは恐怖でもあった。
「だからその結果に落ち込んでるんです。 あんなことを言うつもりはなかったんです」
あんな場面で二度と紫を失いたくないなどと。
「まぁ・・・心にあった言葉だろうから、な。 仕方がないだろう」
目の前に置かれている湯呑を手に持つが、その湯呑を置いたのは阿秀自身だ。 もう湯呑の中の茶は冷めている。
「でも、絶対に阿秀ならあの場でそんなことは言いませんよね」
「・・・どうだろうかな」
「言わないですよね。 ったく、阿秀って変なところで自分に厳しく人に優しい」
「八つ当たりか?」
湯呑を置きながらチラリと湖彩を見るが、話の筋を変えるように視線を湯呑に戻した。
「言ったことは無かったことには出来ない。 いつかは紫さまも分かって下さるだろう。 それにお倒れになったのは仕方がない。 紫さまのお力は私たちには分からないのだから」
どういう意味かと湖彩が眉を寄せる。
「あれが紫さまのお力と?」
「木の葉がその様なことを言っていた。 だから気にするな」
紫の力によって先の紫と感応したのではないかと此之葉が言っていた。
「はぁ・・・」
「それで? 櫓はどうしてほしいと仰っておられた?」
「今日で十分と」
「では明日畳んでいいんだな」
「そうしてもらわないとこっちが櫓より先に畳まれます。 壊れます」
「お見事だったらしいな。 若冲が今すぐ畳んでくれと泣きついてきた」
「紫さまの前に障害物は置いていただきたくはありません。 若冲なんて隠れたところで見てただけですよ。 俺なんて真下ですから」
紫揺に付いていたのは紫揺の見える限り湖彩だけだったが、隠れてほかの五人もまた付いていた。
『上がっていいですか?』
櫓の下に来た時に唐突に尋ねられた。
『氏子さんしか上がれないとかってあるんですか?』
『あの地のように氏子などはありませんし、みな自由に上がっていますがあぁぁぁーーーーー!!』
“しかしながら” という接続詞を聞く前に、紫揺がもう櫓に手をかけ上りだした。 梯子は反対側にある。 止める間もない。 とにかく落ちてしまってはどうにもならない。 梯子を上って反対側から追うより、下で待ち構えた方が賢明だ。
紫揺から目を離さず、片手を振って残りの者を呼ぶ。 その内の四人が駆け付けて櫓まで来た時には、紫揺はもう上がりきっていた。 若冲だけは紫揺が上り始めてすぐにアワアワ言い出して、湖彩が呼んだ時には顔を手で覆っていたのだから、呼んだことを知る由もなかった。
当の湖彩は四人が駆け付けて来てから反対側に回って梯子を上ったが、あまりに慌てすぎて足を二段滑らせ、向う脛に腫れが残っている。 それが痛々しくもあり・・・。
「これで悠蓮、野夜、まぁ塔弥はどうかと思うが塔弥も入れるとして、今回は湖彩。 見事な勲章を頂いているな」
痛々しい怪我を勲章という。
悠蓮は尾骶骨、野夜は足首。 どちらも目にする場所ではないが、塔弥の顔の傷は未だにかさぶたが顔じゅうに張り付き、湖彩の向う脛は椅子に座れば下穿きが上がって目に映る。
「そんなことを言ってると、次は阿秀ですからね」
「いや、私は固く辞退する」
「全員そう思ってますよっ!」
ここは本領。
マツリとシキ、そして四方の三人が食事を目の前にしながら話している。
「では、紫は見つからなかったということ?」
「ショウワに怪しいものは視えませんでしたし、もちろん厄災を起こす禍々しいものもです」
「だがショウワは古の力を持つ。 怪しいことがあってもそれを隠すくらい出来るだろう」
「はい、そうかもしれません。 ですが何かを隠していることは確かです。 それは姉上に頼らなければと思いますが」
「たとえシキといえどショウワの力・・・ “古の力を持つ者” には及ばん」
古の力とはそれほどのものだ。 たとえショウワが自身を “老いぼれ” と言おうとも、その力に衰えはないであろう。
四方が空席になっている妻である澪引の椅子を見、次に同じく空席になっているリツソの席を見た。
「リツソはまだ泣いておるのか?」
紫揺の事を想って。
「はい。 尽きることの無い鼻汁を垂らして」
頷きながら要らない情報まで入れてマツリが答えてくれる。 うっかりそのリツソの姿を想像するに溜息を吐きたくなるが、心の中を占めているのは澪引だ。
「澪引が良くなるのはまだまだということか」
リツソの母である澪引は、毎日泣いて暮らしている末息子のリツソのことを案じて倒れてしまった。
「リツソが頑張っていたのに、わたくしが要らないことを言ったばかりに・・・」
「姉上まで。 そんなことは御座いません。 あれはリツソの我儘です。 それにあのクソなま・・・紫を捕ら・・・紫をこちらに連れてこられなかったのは、我の手落ちです。 甘すぎました」
あの時セッカを追っていれば、キョウゲンで追うのが見つかるというのなら、狼たちに追わせていれば。 後悔は尽きない。
後悔して後悔して・・・あのクソ生意気な娘! 勝手にウロウロとしおって! という風に何度考えても結果がそちらに向いていったのである。
「だがシキにさえ視られない所が北の領土のどこにあるというのだ・・・」
腕を組んで首をかしげる。
「父上、お食事中です、 あまりお考え事をなさっては」
朝食の席であった。
「あ、ああ。 そうだな。 ・・・まさか、な・・・」
「え? なんでしょう?」
「ああ、いや、なんでもない。 それより昨日は東に行くといっていたのに、澪引に付いていたのだ。 今日はどうする?」
「・・・東の領土には当分行けそうありません。 いえ、母上のことではありません。 もちろん母上のことは気になります。 ですが今あの領土に行って民を慰められる自信がないのです」
紫を取り逃がしたからだ。 マツリが口を歪める。
(あのクソ生意気な娘がっ! フラフラとしおってっ!)
「南へは?」
「南は落ち着いております。 頻繁に行かなくとも大丈夫でしょう。 暫くは母上についております」
「まぁ、そろそろシキには落ち着いてもらおうと思っていたからな。 いい切っ掛けになるかもしれんか。 澪引のことは大事ないのだから側付きに任せて波葉と時を持つのも一つだぞ」
「まぁ、父上」
突然の名にシキが頬を赤らめた。
「姉上、そうですよ。 我から見ても波葉は姉上をお預けするに文句がありません」
いや、文句は百ほどある。 千も万もある。 だがそれを言ってはいけないというのは分かっている。 ショウジと話していてそれを学んだ。 それに波葉とはあいさつ程度で直接に話したことはないが四方から聞く限り、懐が深く度量があり峻別のある者だと聞いている。
「マツリったら、預けるって。 わたしはマツリの子ではないのですよ」
「同じようなものです」
四方が破顔した。
朝食を終えた紫揺の元に領主と共にやって来た領主の息子二人と顔合わせをした。
息子たちが今にも背中に羽を生わせ飛び立とうとするのを、領主がその足をむんずと掴む。
「しかりとせぃ!」
思わず領主が叫んだのを聞いて紫揺が笑ったものだ、と、紫揺の代の “紫さまの書” に書かれるかもしれない。
息子たちと歓談を終えると領主に目を移した。
「ちゃんとお休みを取っていただけましたか?」
息子たちに睨みを送っていた領主に尋ねる。
「充分に」
領主が深く頷いた。
「じゃ、行きましょう」
目の前に二頭引きの馬車が用意されていた。 見た目は北の馬車とはエライ違いであったが、チューブの入ったタイヤでもなくサスペンションも付いていないのは同じだった。
(やっぱり木のタイヤかぁ・・・)
アマフウ曰くのドヘドを吐かないことを願うばかりである。
馬車は二台。 一台には紫揺と此之葉。 もう一台には領主と領主の長男である秋我(しゅうが)。
馬を操るのは紫揺側に阿秀、領主側に塔弥。 馬車の前を先頭に一頭、その後ろに二頭が並び、殿(しんがり)を三頭の馬が追っている。 進行方向は櫓の上から見た左の山に向かって、領主の家から直角に山に向かっている。
「此之葉さん、馬車に乗り慣れています?」
「いいえ。 初めてです」
「え?」
そうなのか? この土地に暮らしていて、と考えたが、よく考えると此之葉はずっと独唱についていたのだった。 あの洞で教えを乞うていたのだった。 それにしてもたまにはどこかに遠出ということはなかったのだろうか。
「紫さまは?」
「あ・・・えっと、北の領土で長い間乗りました」
「北で?」
「はい。 とてもじゃなく吐き気があったり、腰が痛かったりしました。 今回もあるかもしれません。 その時にはハッキリと言って馬車を止めてもらいます。 此之葉さんもどこか具合が悪くなったら言ってくださいね」
とは言っても、北の馬車とは違い尻の下にはふかふかのクッションが敷かれている。 これだけでも随分と違うだろう。
「有難うございます」
「馬には乗れるんですか?」
「いいえ」
「え? じゃあ、此之葉さんの移動手段って・・・徒歩?」
ここには自転車も電車も自転車さえもないのだから。
「紫さまをお探しできるまでは、独唱様の居られる所と家の往復だけでしたので」
「え? それ以外はどこにも行ってないんですか?」
「毎日が学びの時ですので」
「遊びにも?」
「そのようなことは全く望みません。 ”古の力を持つ者” として生まれました。 ”古の力を持つ者” はその力を師匠から教えを乞い、次に伝えるのが一つのお役目でございます」
「それって・・・。 楽しいんですか?」
「お役目を果たせることが喜びでございます」
「子供の時、遊びたいと思わなかったんですか?」
「“古の力を待つ者” が特別だとは思っておりません。 民もそれぞれに田を耕し、米を作ります。 陶器を作る、ありとあらゆるもの、個々それぞれにお役を果たしております。 田を耕してもらわなければ、米を作ってもらわなければ、私は食することが出来ません。 陶器を作ってもらわなければ皿もありません。 私も皆のためにお役を果たしたいだけでございます。 ささやかながらですが、みなの力になれればと思っているだけでございます」
どれだけ謙遜千%の人生を送っているんだ、そう思った。 だが・・・それが、そう思うことが一番大事なのかもしれない。
自分はそんなことを小指の先ほども思ったことは無かった。 紫の話を聞くまでは、ただ自由に生きていただけだ。 やりたいことをやっていただけだ。 両親との思い出の玄米茶。 そのお茶を栽培してくれている人に想いを馳せたことなどなかった。
(ちょっと今までの人生に反省かな・・・)
これからは少しは考えていくのがいいのだろうな、などと思いながらも疑問は片付けていきたい。
「領主さんからも聞きましたけど、古の力って一言には言えないって仰ってましたよね。 具体的に何をするんですか?」
「紫さまに添うことが “古の力を持つ者” の本質のお役目です」
「本質?」
「はい。 師匠からは色々と学びますが、何よりも紫さまに添うことが一番に御座います」
「・・・それって・・・」
せっかくお師匠さんからいろいろと教えてもらったのに・・・寂しくはないんですか? とは訊けなかった。 此之葉が言ったことを否定するようで。
「民が何を考えているか、どのようにあるか。 そのような事は二の次で御座います」
「はぁ・・・」
ちょっと引いてしまう。
「私はまだまだお役不足ですが」
そう言って頭を下げた。
ソンナことはアリマセン。 ジュウブンにしてもらってイマス。 と言いたいが、重い、重すぎる。
「いえ、そんなことはありません」
一部が口から出た。 事実なのだから。
「・・・」
此之葉の頭が上がらない。
暗い。 暗すぎる。 この空間でそれはやめてほしい。
「えっと、でも、喋ったりはしたんですよね。 お付きの人? 阿秀さんや皆さんとは話したりしてたんですよね?」
コタツを囲んで一辺に此之葉、あとの三辺に誰がし、という図を頭に浮かべていう。
「紫さまをお探しに出るまでは、塔弥とは独唱様のことがありましたから、それなりに独唱様のことを話しましたが、あとの者とはあまり・・・」
「え? じゃ、それまでは塔弥さん以外とはあんまり喋っていないということですか?」
紫揺以上にあの口下手な塔弥意外の誰とも話さなかったというのか?
「独唱様の居られない時でも学びの時でしたので」
「洞には行かれたかもしませんが、その先から出たことがない?」
日本の領主の屋敷から先に出たことがない?
「はい。 独唱様が紫さまをお探しになられて、すぐに領土を出て彼の地の乗り物に乗りましたが、それが初めてでした」
「ぜっく」
心の声が口から出た。 “絶句” である。 色々なことに絶句である。